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第92回
他人を見下すもの、小馬鹿にするものは
他人からの尊敬を得られない。
そのものは、孤独に生きることになろう。

バラナシの郊外に大きなマンゴー園があった。そのマンゴー園の持ち主は、その地域では有名な金持ちの一家で、ガヤーといった。ガヤーは多くの身分の低い者たちを使い、マンゴー園を維持していた。
「さぁ、働け。お前らは身分低き者どもだ。ここで働くしか能のない者たちばかりだ。働け、大いに働け。そしてわしを楽にさせるのだ。ケッケッケ・・・・」
ガヤー一家は、金持ちであったが、人使いも荒くケチでも有名だったのだ。
ある日のこと、お釈迦様とその多くの弟子たちがバラナシにやってきた。お釈迦様たちは初めガヤー一家のマンゴー園に滞在した。
「いや〜、これはこれはお釈迦さま。御機嫌はよろしいでしょうか」
早速、ガヤーがお釈迦様に挨拶にきた。
「しばらくこのマンゴー園に滞在しようと思っているのだが・・・・」
「もちろん、結構でございます。それはもう、ぜひご滞在ください。しかし、マンゴー園の手入れがありまして、身分低き者どもがそのあたりをウロウロしますが、よろしいでしょうか。修行の邪魔にはなりませんか」
「修行の邪魔にはならない。むしろ、こちらが迷惑をかけることになりませんか」
「いえいえ、あの者たちは単なる労働者です。お釈迦様たちが迷惑をかけるなど、そんなことはありません」
「労働者は大切です。彼らが健康で働いていてくれるからこそ、このマンゴー園は成り立っているのでしょう。彼らの仕事の邪魔にならぬよう注意しましょう」
「いやはや、お釈迦様にそう言っていただけるとは・・・・。なんと光栄なことでしょう。どうぞ、ごゆっくりご滞在ください。おぉ、そうです。紹介しておきます」
ガヤーはそういうと、後ろに控えていた青年を呼んだ。
「この者は、私の息子です。さぁ、お釈迦様にご挨拶をしなさい」
そう言われた青年は、お釈迦様の前に進み出ると、丁寧に礼拝し挨拶をした。
「初めまして、お釈迦様。私はガヤーの息子のタッカヤーナといいます。いずれ父の後を継いで、このマンゴー園を盛りたてていこうと思っています。どうか、いろいろとお導きください」
お釈迦様は、その青年を見ると、なぜかふと悲しそうな顔をしたのだった。しかし、その表情にはガヤー親子は気がつかなかった。気がついたのは、そばにいたアーナンダだけであった。そうして、ガヤー親子は、上機嫌のうちに帰ったのだった。

お釈迦様たちはしばらく滞在したのち、ガヤーのマンゴー園を後にした。その一か月ほどたったある日のことである。バラナシから程近い村に滞在していたお釈迦様の元にガヤーの死の知らせが届いた。伝えたのはタッカヤーナの友人だった。そしてその友人は、タッカヤーナがマンゴー園を引き継いだということも伝えた。ただし、それには別の話があったのだった。
タッカヤーナの友人は、
「タッカヤーナさんからの伝言によりますと、ぜひ相談したいことがあるから、またバラナシのマンゴー園に来てはいただけないか、とのことです。なんでも、マンゴー園を離れられないとのことでして・・・・」
と、お釈迦様に伝えたのだ。
「どういうことなのかね」
お釈迦様は聞き返した。
「私は、お釈迦様に御足労を願うのは筋違いだとは思うのですが・・・。本来ならば、タッカヤーナがこちらに伺うべきなのです。私もそう言ったのですが・・・・。いやはや、あのマンゴー園はもうダメかもしれないです。タッカヤーナは、私の古くからの知り合いですが、どうも彼にはマンゴー園を維持するのは重荷かと・・・・。知り合いとして何度も注意や助言はしたのですが、聞き入れてはくれないのです。返事はするのですが・・・・・どうも私たちの意見は聞きたくないようなのです。どうかお釈迦様のお慈悲の心で、彼を救ってあげてはもらえないでしょうか」
そのとき、アーナンダが口を挟んだ。
「世尊、ひょっとしてあのとき、このことを予測されていたのでしょうか。それであのような表情を・・・・」
「えぇ?、どういうことですか?。お釈迦様は、もうすでにタッカヤーナの現状を予測していたと、そうおっしゃるのですか?。それはいつのことです。アーナンダ尊者教えてください」
アーナンダは、余計なことをいってしまったと思いつつ、お釈迦様の顔色をうかがったが、お釈迦様は表情を変えずにただうなずいたのだった。それは、話してもよい、という意味であった。
「はい、以前、ガヤーさんのマンゴー園に滞在したときのことです。ガヤーさんが息子さんのタッカヤーナさんを紹介され、将来マンゴー園を任せるとおっしゃったのです。そのときに世尊は、ちょっと悲しそうな顔をされたので、ひょっとしてタッカヤーナさんに何か問題でもあるのかと・・・」
「そうだったんですか・・・・。問題があるどころか・・・・。一目見ていただければわかると思います。いや、お釈迦様ならばすでにわかっていらっしゃるのかも知れませんが・・・・」
「よろしい、行きましょう」
お釈迦様はそういうと、静かに目を閉じたのだった。

それから1週間ほどのち、お釈迦様と弟子たちは再びガヤーのマンゴー園を訪れた。
「これはこれは、お釈迦様。よく来られました。ゆっくり滞在していって下さい」
出迎えたのはタッカヤーナであった。
「マンゴー園が少々荒れているようですが・・・・」
お釈迦様がそう言うと、タッカヤーナは笑顔で答えた。
「いやなに、大したことではありません。こんな程度のことは大丈夫です。ちょっと働きが悪いんですよ。ヤツラの」
「ヤツラ・・・・とは?」
「ヤツラはヤツラですよ。スードラの連中です。ヤツラは、飯はたらふく食う癖に、まったく働こうとしない。たちの悪いヤツラでね」
そこまでタッカヤーナが行った時、アーナンダが口を挟んだ。
「君、お釈迦様の御前ですよ。もう少し口を慎んだ方がいいと思いますが・・・・」
「はぁ?、何か悪いこと言いましたかねぇ?」
「ヤツラとか、飯とか食うとか・・・・、もう少し丁寧な言い方があるのではないかと・・・・」
「あんなスードラ階級のものは、ヤツラで十分です。ヤツラは、食事を得ることだけが目的なんですよ。いつもメシメシと騒いでる。そのくせ満足に働きもしない。あんなヤツラは、ヤツラで十分です」
そこまで黙って話を聞いていたお釈迦様が悲しそうに言った。
「汝は悲しい人だ。たとえスードラ階級の者であっても、彼らがいなければマンゴー園は成り立たない。それなのに、彼らの働きを無視して、身分が低いからと言って彼らを見下しバカにするとは・・・・。そのような考え方をしていると一人取り残されることになろう。そのときはすべてを失うことになろう」
「お釈迦様まで何をおっしゃるのですか。ヤツラの肩を持つんですか?。お釈迦様も高貴な身分の出身でしょ。それなのにスードラの味方をするんですか?。はぁ・・・どいつもこいつも・・・・。わかってない。スードラはスードラ、ヤツラはメシさえあればいいという存在なんですよ。その分、いやメシ以上の働きをすべきなんですよ。俺のためにね」
その言葉を聞いたお釈迦さまは、
「もう汝に何もいうことはない」
と一言だけいって、タッカヤーナのマンゴー園を去っていったのであった。

お釈迦様は、バラナシの街近くのニグローダ樹林に滞在していた。タッカヤーナのマンゴー園はさほど離れていなかった。そこへ、タッカヤーナの友人が駆け込んできた。
「お、お釈迦様、とうとうタッカヤーナのマンゴー園が、枯れ果ててしまいました」
「どうしたのですか」
お釈迦様は静かに聞き返した。
「はい、お釈迦様が彼のマンゴー園を訪れて数日後のこと、彼のマンゴー園で働いていた者たちが逃げ出してしまったのです。それで働き手がなくなり、マンゴー園は瞬く間に枯れ果ててしまったのです」
アーナンダがすかさず尋ねた。
「誰も手入れをしなかったのですか。タッカヤーナ自身は何をしていたのでしょう」
「はぁ・・・それが・・・・。文句を言うばかりで・・・・。下働きの者が逃げたその日も、タッカヤーナは彼らに怒ってました。『メシばかり食うわりに、働きが悪い。お前らは、ただ働けばいいんだ。働け、働け、働け!、クソどもが』と・・・・。私たちも止めたんです。そんな言い方はないだろう、と。しかも、与える食事はだんだん悪くなってきていました。量も少なくなってました。タッカヤーナは、下働きの者たちをねぎらうことをしませんでした。だから、とうとう逃げ出してしまったのです」
「そんな偉そうなことを言うのなら、自分でマンゴー園を維持すればいいのに・・・・」
アーナンダは、自分の立場を忘れ、怒りだしてしまった。
「いやあ、彼にはそんな労働はできませんよ」
「ならば、下働きの者たちを上手く使うしかないでしょう」
「はぁ、それができなかったんです。そのことは何度も助言したのですが・・・・」
「いったい彼は自分のことをどう思っているのでしょうか」
「自分のために下々の者が働くのは当然だと・・・・。そう思っているようですね。しかも、自分は偉い、身分が高い、かしこい、と思っているようです」
そこまで聞いてお釈迦様が口を開いた。
「アーナンダ、自分の立場もわきまえなさい。他者を批判するのはたやすい。口を慎むがよい」
アーナンダは、お釈迦様に注意され、小さくなってしまった。お釈迦様は続けていった。
「さて、タッカヤーナはどうしているのですか」
「はい、枯れてしまったマンゴー園の中でぼーっと座り込んでいます」
「そうですか・・・・」
そういうとお釈迦様は立ち上がったのである。そして、ニグローダ樹林を抜け、タッカヤーナのマンゴー園に向かって歩き出したのだった。

お釈迦様がマンゴー園に着くと、そこにはタッカヤーナが座り込んでいる姿があった。
「なにゆえこうなったか、その理由がわかるかね?」
お釈迦様がタッカヤーナに尋ねた。
「わかります。ヤツラがバカだからです。所詮、スードラはスードラ。俺の言っていることが理解できないんですよ。もういいです。マンゴー園は売り払います。で、その金で別の商売をしますよ」
「枯れてしまったマンゴー園を買うものなど誰もいないだろう。汝は何もわかっていないようだ。なぜ自分に能力がないことを認めない。それなのになぜ身分が低いからと言って他人を見下すのだ。他のマンゴー園を営んでいる人々を見よ。彼らは、下働きをする者たちを決して見下したりはしない。下働きする者がいて、マンゴー園が成り立つことをよく知っているからだ。タッカヤーナよ、何様のつもりか知らぬが、他人を見下したり、バカにする者は、その者自身が見下されるのだ。そのような者は、必ず周囲から見放され、孤独に陥るであろう。誰からの尊敬も得られず、一人寂しく過ごすことになるのだ。他人を見下す者には・・・・哀れな末路しかないのだよ」
「どうせ、もうやっていけません。ですから放っておいてください。もうどうでもいいんです。金も残っているし、遊んでいても数年は生活できますから」
「そうか、聞く耳を持たぬか。哀れな者よ・・・・」
お釈迦様は、そういうとマンゴー園を寂しく立ち去ったのであった。そして、マンゴー園の外で待っていたアーナンダとタッカヤーナの友人に
「聞く耳を持たぬ者は、救いようがない」
と一言だけ残して、ニグローダ樹林の方へと歩いていったのだった・・・・。

その後、一年もたたずにタッカヤーナは持っていたお金も使い果たし、マンゴー園も他人の手に渡ってしまい、スードラよりも低い身分の階級に身を落としていたのだった・・・。


他人を見下す人間は尊敬されません。それは当然ですよね。でも、見下している人間は、そうは思ってないようです。見下すことができる立場であることを誇っているようなのです。そして、見下された者は、自分のことを尊敬しているのだ、畏れているのだ、と勘違いしているのです。
そんな人はいないでしょう・・・。
と反論されるかもしれません。しかし、実際に、他人を見下す態度をする人間は多いんですよ。ほら、あなたの会社の上司も、経営者も、他人を見下すような態度をしていませんか?。

経営者だから、上司だからといって、自分の会社の社員や部下を見下してはいけません。社員や部下がいるからこそ、彼らが働いてくれるからこそ、会社も部署も成り立つのです。
同じように、家庭内でも奥さんを見下したりしてはいけません。あるいは旦那さんを見下したりするのも間違っています。たとえ、ダメ亭主でもね。
奥さんがいるからこそ、家庭を留守にして仕事に励むことができるのです。旦那さんが働いてくれるからこそ、生活ができるのです。まあ、中には家庭のことを何にもしないダメ主婦や働かないダメ亭主もいますが、それが嫌ならさっさと離婚すればいいだけのことですね。何も見下す必要はないです。

なのに、世の中、経営者は社員を見下し、上司は部下を見下し、生徒は先生を見下し、奥さんは亭主を見下し、旦那は奥さんを見下し、子供は親を見下し、学校内では生徒間で見下し合い、国会議員は国民を見下しています。
だれもが、他人を見下せるほど偉くはないのにね。立派でも何でもないのに・・・。

その上、他人を見下しておいて尊敬しろという・・・・。
それはないですよねぇ。他人を見下す人間のどこを尊敬しろというのでしょうか。尊敬されるには、尊敬されるだけの人格が必要です。他人を見下すような人間に、そんな人格は備わってはないでしょう。

他人を見下すような者は、尊敬されないばかりか、やがて誰からも相手にされなくなるでしょう。そうした者に残るのは、孤独だけなのです。
決して他人を見下したり、小馬鹿にしないようにしたいですね。特に、会社経営者の皆さん、部下を持つ上司の方々。社員や部下があってこそ会社は成り立つのだ、ということをお忘れなく。彼らは、決して金のためだけで働いているのではないのですよ。尊敬される経営者、頼りになる上司であってください。
お国を預かる方々もね・・・・。
合掌。


第93回
つまらない誇り(プライド)は、さっさと捨て去れ。
高慢な考えや態度を持っていては、前には進めないのだ。
もう一度、自分を見つめ直すがよい。
ガンジス河の流れを見つめながら、シュルタはつぶやいた。
「どこが間違っていたんだろう。どこで間違ったんだろう・・・・。何がいけなかったんだろう・・・・」
誰もそれには答えなかった。

シュルタは、ヴァイシャリーの富豪の家に生まれた。幼い頃から何不自由なく暮らしていた。大勢の召し使いが彼の世話をしていた。シュルタは順調に成長していった。家業の貿易商も順調で平穏な日々が続いていた。やがて、シュルタも青年となり、家業を手伝うこととなった。彼は、父親のそばにいて、それなりに仕事を覚えていったのだった。
やがて、父親が亡くなり、シュルタがすべてを引き継いだ。父親から教えてもらった通りに、シュルタは仕事をこなしていった。仕事は順調で、利益も多く出た。たまたまシュルタが仕入れた他国の民芸品が大当たりし、シュルタは、父親以上の利益を得たのだ。シュルタは、得意になった。
「俺は才能があるんだ。俺は父親以上の商売ができるんだ。よし、もっともっと利益を上げてやる」
シュルタの貿易商は、ますます発展した。シュルタは、どんどん高価なものを仕入れ、どんどん売りさばいて行ったのだ。
その商売のやり方に忠告をするものもいた。
「そんなに価格をあげたら、いつかは売れなくなってしまうぞ。そうなったら、君の商売は終わりだ」
しかし、そうした助言や忠告には、シュルタは全く耳を貸さなかったのだ。
「何を言ってるんだ。俺には商売の才能があるんだ。うまくいかないわけはないだろ」
シュルタは、ますます得意になっていた。

ところが、幸運は長くは続かなかった。
シュルタの仕入れた商品は、大変高価なものになっていた。それは金持ちが多かったヴァイシャリーの街の市場に出しても、もはや売れるものではなくなってきた。シュルタは焦った。使用人には、コーサラ国やマガダ国にまで出かけさせ、商品を売りさばいてくるように命じた。思うように売ってこれなかった使用人は、罵倒したり、暴力をふるったりし、挙句のはて解雇し、放り出してしまったのだった。そうした行為に周囲の使用人は怯え始めていた。使用人たちは、シュルタに、友人関係からの助けを求めてもらえないか、と願い出た。しかし、シュルタは
「そんな必要はない」
と一言で終わってしまったのだ。そうして、ついに、シュルタの貿易商は、つぶれてしまったのであった。

その後、シュルタは友人関係の商売を手伝ったりもしたが、すぐに辞めさせられてしまった。シュルタの態度に、周囲の者たちが反発したのである。シュルタは、友人の商売屋の使用人たちに対し、
「なんで俺の言うことが聞けないんだ。俺の言うとおりにしていれば、もっと儲けられるんだ」
と、いつも怒鳴っていた。それを見た友人は、
「うちの商売の方針と、君の方針とは違うんだ。君のやり方ではうまくいかないだろ。使用人に対しても威張ればいいわけじゃない。仕入れも、高い商品を仕入れればいい、というものでもない。シュルタ、どうやら君には商売の才能はないようだ。商売はもっと先を考えないと・・・・」
と忠告し、自分の下で商売を覚えるか、さもなくばやめて欲しいと告げたのだった。シュルタは
「お前の下で働くのはごめんだ」
と言って、出ていってしまったのであった。
こうしたことが、数回あった。ついに、シュルタは行くところがなくなったのである。

何もすることがなく、ふらふらとしていたシュルタを見かけたのはマハーカッサパだった。
「若者よ、昼間から何をふらふらしているのだ。なぜ働かぬのだ」
マハーカッサパは、シュルタに尋ねた。シュルタは毒づいた。
「大きなお世話だ。あんたらのような何もしない連中に言われたくはないね。俺は商売をしようと思っているんだよ。俺に商売をさせてくれる人を探しているんだ」
「私たちは、修行をしている。何もしていないのではないよ。まあ、それはいいのだが・・・・。商売をさせてくれるような人はいないだろう。商売がしたいのなら、一番下の使用人から順に仕事を覚えて、いずれ独立するほうがよいのではないかね」
「あのな、俺は以前、大きな貿易商を営んでいたんだ。たまたま、不運が重なり、失敗してしまったけど、ひところはこのヴァイシャリー一の貿易商だったんだ。そんな俺が、下っ端の使用人になれるかっ。バカバカしい。俺にはな、商売の才能があるんだ。この才能を埋もれさせてはいけないんだよ。だから、俺に商売をやらさせてくれる人を探しているんだ。俺に資金を提供してくれる人をな」
「今時、そんな人はいないだろう。悪いことは言わない。下から順に上がっていったほうが、早いものだ。遠回りのように見えてもね。それに・・・・君は、どうやら短気のようだ。他者の助言も聞き入れる人ではさなそうだ。どうもその力量では・・・・」
「商売は無理だ、といいたいんだろ。ふん、どいつもこいつも・・・・。俺のことを何にも知らない癖に。とっと失せろっ」
「あぁ、悲しいかな・・・・。そのつまらない高慢な心を捨て去れば、うまくいくのだろうに・・・・。自分を素直に見つめ直したほうがよい」
「うるさい!。俺の勝手だろ!。俺様に指図をするな!」
そう怒鳴ったシュルタを悲しそうに見つめ、マハーカッサパはその場を去ったのである。

その後、シュルタは、商売の資金を自分でも稼ごうと思い、使用人として働いたりもしたが、
「こんな仕事、俺様ができるか」
と叫んでは、次々と辞めていってしまったのだった。彼は、人に使われるということが、耐えられなかったのだ。特に
「こんなこともできないのか。一体、今まで何をやってきたのだ」
と言われることにひどく腹を立てたのだった。実際、シュルタは、坊ちゃんで育ってきたため、庶民ができることは、ほとんどできなかったのである。世間のことが、よくわからずに育ってしまっていたのだった。しかも、幼い頃から、贅沢に育っていたため、我慢したり、待つことが苦手であった。そのため、すぐに雇い主と揉めてしまうのだ。そんなことを何度も彼は繰り返していった。そして、ついに、彼は行き場を失ったのだ。

ガンジス河の流れを見つめながら、シュルタはつぶやいた。
「どこが間違っていたんだろう。どこで間違ったんだろう・・・・。何がいけなかったんだろう・・・・」
もはや、シュルタの疑問に答えてくれる者は一人もいなかった。
「俺って・・・・才能なんてないのかな・・・。いやそんなことはない。昔、あれだけ儲けたじゃないか。俺の思い通りに利益を上げたじゃないか。俺には商売の才能があるんだ。また、儲けられるんだ。それなのに・・・。どこへ行っても『お前のような世間知らずは、仕事なんてできない』と言われる・・・・。なぜなんだ。俺のどこが悪いんだ。世間のことくらい知っているさ。優秀な家庭教師に教えてもらったからな。偉そうに俺に注意しやがって。ふん、俺とヤツラとは育ちが違うんだ。身分も下の癖に、俺に逆らいやがって・・・。ふん、世間の連中の見る目がないんだよ。・・・・・そういえば、この間の修行者も・・・・。みんなで俺をバカにしやがって。今に見てろ。見返してやる!」
そう威張っては見たものの、今では誰もシュルタのことは相手にしなかったのだ。彼は、ヴァイシャリーの街を出た。

コーサラ国に流れた彼は、再び仕事を探してみたが、どれも使用人として働くことばかりだったため、なかなか職に就けなかった。たまたま職に就いても、注意されたり、怒られたりすると、すぐに辞めてしまったのだった。やがて、コーサラ国にもいたくなくなった。次に、彼はマガダ国へ流れた。しかし、そこでも同じだった。職種を選んでいる彼には、仕事はなかったのだ。やっと、気に入った仕事があっても、少しでも注意されたりすると嫌気がさし、辞めてしまうのだった。彼は、何度も同じことを繰り返した。
やがて、マガダ国でも彼の姿を見る者はいなくなった。

ある日のこと、マハーカッサパがヴァイシャリーの街はずれの貧しい村に托鉢に来てみると、ボロ布をまとった真っ黒な汚い者とすれ違った。マハーカッサパが声をかけようとすると、そのボロの者は、そそくさと逃げて行ってしまった。
「あぁ、悲しいことだ。つまらない誇りを捨て去れば、楽になるものを・・・。過去の栄光など何の役にも立たぬものなのに。高慢な態度や考え方を持っていては、前には進まぬのに。一度、真っ直ぐに自分を見直せば、立ち直ることもできたのに。己の未熟なところを認められない者は・・・・・滅ぶしかないのか・・・・。悲しいことだ・・・・」
マハーカッサパは、頭を振りながらその村を後にしたのだった・・・・。


あなたにはプライドがありますか。そのプライドは高いですか。すぐにプライドが傷つくほうですか。あなたのプライドはどんなものでしょうか?。

先日、かつて一世を風靡したミュージシャンが逮捕されました。皆さんよくご存知だと思います。彼は、大きな借金を抱えていたにもかかわらず、贅沢な暮らしを続けていました。今さら、世間に貧しい姿を見せられなかったのでしょう。かわいそうな人だとつくづく思います。
もし、現実を認め、
「今は、借金だらけなんで、ビンボー暮らしをしているんですよ。家賃の安い郊外のアパートに住んでいるんですよ。ボロ屋ですよぉ。なるべく安いところに住まないと、借金が返せませんからね。節約ですよ。・・・えっ、海外の別荘?。売っちゃいましたよ。そんな贅沢なことできないでしょ。・・・・えっ?、そんな貧しい生活に耐えられるのかって?。貧しくとも、夫婦二人で力を合わせて働けば、幸せですよ・・・・」
と言えるような生活をしていれば、やがてチャンスは訪れたのではないかと思います。
過去の栄光や、身にしみついた贅沢をさっさと捨て去れば、事件など起こさなかったでしょう。

人間誰しも、プライドは持っています。しかし、そのプライドにしがみついては、生活が困難になってしまいます。
「俺様が」
「この私が」
などという、つまらないプライドを持っていれば、仕事もままならないでしょうし、人間関係もうまくいかないでしょう。そんなうぬぼれたプライドは、さっさと捨て去るべきです。俺様・・・・、などと思っているのは、自分だけであって、周囲はあきれて見ているものです。現実は待ってはくれませんし、世間の目は厳しいのですよ。

妙に高いプライドを持てば、ちょっとしたことで傷つきますし、周囲の助言や忠告、アドバイスも聞き入れることができません。高慢なプライドだけがあっても、生きてはいけないのです。「俺様が」、「この私が」などという、つまらないプライドは捨てなければ、前には進めないのです。
「プライドでメシは食えない」
と言いますが、これはその通りなのですよ。

ただし、人間の尊厳としてのプライドは大いに持ってほしいものです。人間としての誇りは捨ててはいけません。捨てなければいけないのは、高慢なプライドです。実力もないのに、大した人物でもないのに、見栄をっ張って威張り散らしている、その腐ったプライド、それを捨てなければいけないのですよ。自分のことは棚に上げ、他を見下している、その高慢なプライドを捨てなさい、というのです。

つまらないプライドを捨て去ることができれば、きっと世の中の見え方が変わってくることでしょう。また、周囲も態度が変わってくると思います。高慢な態度からは、反発しか生まれません。
「俺様が・・・」、「この私が・・・」
という考え方をしていては、何も変わらないのです。むしろ、周囲から孤立してしまうでしょう。
つまらないプライドは、さっさと捨てましょう。
合掌。


第94回
蓮は、泥の中から生まれ美しい花を咲かす。
泥のような艱難辛苦を乗り越えてこそ成功がある。
悩みや苦しみがあるからこそ覚りもある。
「蓮の華は、大変美しい。しかし、あなたたちは蓮の華がどこから咲くのか知っているだろうか」
お釈迦様は、集まった多くの弟子たちや人々に問いかけた。霊鷲山でのことである。集まった人々の中から一人の青年が答えた。
「知ってますよ。泥の中からです」
「そうだ。泥の中から蓮の華は咲くのだ。いや、泥の中からしか蓮の華は咲かない。汚れた泥でないと蓮は育たないのだ。しかも、その華は泥色に染まらない。それが蓮の華の徳である。あなたたちも、この蓮の華と同じだ。その意味がわかるだろうか」
今度は、誰も答える者がいなかった。集まった人々は、誰も口を開くことなく、お釈迦様の言葉を待った。
「昔のことである。バラナシに二人の青年がいた。一人は比較的裕福な家に生まれた者、もう一人は貧しくはないが、裕福でもない家に生まれた者だ。二人は、幼馴染であった。
裕福な家に生まれた青年は、順調に成長し親の後を継いで働くこととなった。親と一緒に仕事をしたのだ。一方、裕福でない家に生まれた青年は、親の後を継ぐことなく他所の職場で働くこととなった。職人としての修行を始めたのだ。
裕福な家の青年は、親とともに仕事をし、親に優しく教えられて仕事を覚えていった。職人の元に弟子入りした青年は、苦労しながらも仕事を覚えていった。
やがて時がたち、裕福な家の青年の親は亡くなり、青年は一人で仕事をすることとなった。初めは、取引相手も同情し、助けてくれたので、仕事は順調にいっていた。しかし、彼はそれを自分の実力だと勘違いしてしまった。次第に取引相手は青年を相手にしなくなり、仕事はじり貧になっていった。
『なぜなんだ、なぜうちと取引をしてくれなくなったんだ。昔からの付き合いじゃないか』
青年は、取引相手に詰め寄った。しかし、取引はうまくいくことはなく、青年は、やがてその仕事を辞めることとなった。初めての挫折だった。彼は家も手放し、一人街をさまようようになった。
ある日のこと、街をフラフラと歩いていた裕福な家の青年は、金工細工の店の前で立ち止まった。そこの店の金細工の商品がとても美しかったからだ。
『こんなに素晴らしい細工ものを・・・・いったい誰が・・・・』
そう思って彼は店の中を見た。
『あ、お前は・・・・』
その店の主人であり、職人は幼馴染の青年だったのだ。彼は、立派な職人となっていた。
『あぁ、君は・・・・確か裕福な家だったはずだが・・・』
『仕事に失敗をしたんだよ。今じゃあこのざまさ。君は随分と立派な職人になったんだな』
『大したことはないさ。あまり儲からないから、裕福ではないよ。それでも生活に困るようなことはないな。苦労は多いが、女房と二人で楽しくやっているさ』
『結婚もしたのか。俺は・・・結婚すらしてないな。それにしても、素晴らしい金細工だ。こんな素晴らしいものは見たことがない』
『いやいや、まだまだだよ。まだ、師にはかなわないさ』
『師?、師がいたのか。あぁ、そうか、君は弟子入りしたんだったな。師はもっとすごいのか?』
『あぁ、師はすごい人だった。今になってようやく師のすごさがわかるよ。修行中は全くわからなかったがな』
『厳しかったのか?』
『もちろん厳しかったよ。殴られたこともあるし、追い出されたこともある。メシ抜きで仕事をしたことなんか何度もあったよ。いい作品ができると、それは師の作品として売られたし、師が失敗すると、それは俺のせいにされた』
『そ、そんなひどい・・・。それは理不尽じゃないか』
『あぁ、そのときはそう思ったよ、俺もね。でもね、そのときは、だ。今になって思えば、あのとき受けた仕打ちによって今の俺があるんだ、とわかるよ。理不尽な目にあってこそ、わかることもあるんだよ。あのとき、あれだけ厳しく教え込まれたからこそ、今の俺があるんだ。ありがたいことだ。でも、今、俺は思う。まだまだ師の領域には達していないと。もっともっと悩まなきゃいけない、いい作品を造るためには、もっと苦しまなければいけない、そう思うようになった。そうでなきゃ、師は超えられないと。甘い世界で育った君にはわからないかも知れないが、こうして曲がりなりにも一人で金細工で生活できるのは、あの時の厳しさがあったからだよ。まあ、誰もそんなことは知らないけどな・・・・』
その言葉は、裕福な家の青年の心にしみわたった。
『確かに俺は・・・・。そんな厳しい環境はなかったな・・・・。あぁ、今にして思えば、間違っていたのは俺だったということがよくわかる。商売は簡単にできないよな。実際にやってみると・・・・見ているのとは大違いだ』
『それがわかっているなら、やり直しができるよ。今からでも遅くはないさ』
『やり直せるかな?』
『もちろん』
その言葉に背中を押されたのか、裕福な家の青年は、昔の取引相手の店に行った。使用人として働かせてほしいと頼み込んだのだ。初めは断られたが、青年の真剣さに昔の取引相手は、彼を使用人として使うこととなった。時は流れ、彼はやがて独立し、再び商売を始めることができたのだった。
『苦労や理不尽な苦しみが、自分を育ててくれた。もがくことで、今の自分はある』
晩年の彼はそう語ったそうである。一方、金細工の職人になった青年は、多くの弟子を育て上げたそうだ。
この話が意味することがなにか、わかるかね」
お釈迦様の問いかけに、多くの者がうなずいた。

「もう一つ話をしよう。これも昔の話、カーシャパ仏の時代のことである。ある日、カーシャパ仏のもとに二人の者が弟子入りすることとなった。一人は明るい者、もう一人はもの静かな者であった。
明るかった弟子は、やがて他の弟子とも打ち解け、皆をまとめることができるようになった。一方、物静かな弟子は、いつも何かに悩んでいる様子で、独り静かに瞑想していた。
ある日のこと、もの静かな弟子は、修行している精舎をフラフラと出て行ってしまった。そして、街の女性と交わってしまったのだ。これを知ったカーシャパ仏は、戒律通りもの静かな弟子を修行の精舎から追放をした。彼は、一人山の中へ入っていった。
一方、明るい弟子は、皆をまとめるようになってはいたが、未だ悟りを得てはいなかった。やがて、他の弟子たちから
『彼は、我々にとやかくうるさいことを言うが、少しも教えを理解していないんじゃないか』
『あれはカーシャパ仏の受け売りだけだよ。自分が悟っていっている言葉じゃない』
『だから、彼の言葉には深みがないんだ』
という声が聞こえ始めたのだった。確かに彼は悟っていなかったため、他の弟子を導くような教えを説くことはできなかった。ただ、カーシャパ仏の教えをそのまま語っただけなのだ。さも、わかっているように説いてはいたが、その実、何も理解していなかったのだ。したがって、少し突っ込んで質問をされるとどう答えていいのかわからなかったのだ。やがて、彼の周りから仲間は去り、彼は孤立した。そして、だらだらと過ごすようになってしまったのだ。カーシャパ仏がそんな彼を呼び寄せた。
『ここから北へ一ヶ月歩いて行った地にスメナという山がある。そこに修行者がいるから、彼に教えを学ぶがよい』
カーシャパ仏に言われ、明るい弟子はスメナ山に行くことにした。どうせ精舎にいても誰も相手にしてくれないし、暇だったからだ。
彼はスメナ山についた。そして、そこで一人の修行者と出会った。その修行者を一目見て、彼は驚いた。一緒にカーシャパ仏に弟子入りした男だったのだ。
『こ、こんな所にいたのか。精舎を追放されてどうなったと思っていたが・・・・。修行はできているのか?。ひょっとして悟りを・・・まさかな・・・』
『苦脳だよ。世の中は苦悩に満ちている。それがわかった』
『な、何を言っているのだ。苦悩って・・・・』
『君にはわかるまい』
『ど、どういうことだ・・・。君は、確か女性と交わって・・・。カーシャパ仏が言ったのは、この男のことなのか?。それはないよな。この男は追放された男だからな』
『君は、苦しみを知らない。そんな者に私の苦悩はわからないだろう。いや、私だけではない、他者の苦悩はわからないだろう。他者の苦しみがわからぬ者に、教えは説けない』
『な、何をいうか・・・・』
『私は苦悩した。どうしようもない、抑えきれない欲望に苛まれて生きてきた。この欲望をどうしたらいいのか、もがき苦しんだ。なぜ欲望があるのか。なぜ苦しみがあるのか・・・・。悩み苦しんだ。答えを見つけるまでは・・・』
『答えを見つけたのか?。もう苦悩はないのか?』
『苦悩は消えることはない。欲望は制御しがたい』
『えっ、じゃあ、今でも・・・まさか女性と?』
そんな話をしていた時であった。山のふもとの村から若い女性が食事を運んできたのだ。その女性は魅力的な女性であった。彼女は、静かに修行する男の前に果物を置くと礼拝して帰って行った。
『ちょ、ちょっと君。君は、毎日ここへ食事を運んでいるのか?』
『はい、そうですが』
『こんなことを聞いて失礼かもしれないが、その・・・君はこの修行者と・・・男女の関係にあるのか?』
『まあ、なんて失礼な人。仙人様はそんな方ではありません。今まで、一度たりとも触れられたこともなければ、声をかけられたこともありません。いつも静かに瞑想されています。いやらしい人ですね。天罰が下りますよ』
そういって、彼女は怒って帰って行ったのだった。
『な、なんだ・・・・。き、君は女性への欲望を克服しているじゃないか』
『いいや、そうではない。耐えているのだ。欲望を制御しているのだ。私は欲望を制御しているだけに過ぎないのだ。これは悟りではない。苦悩の海にいるだけだ』
『自らをよく制御するものを覚者というのではないのか。君は自分を制御している。でも悟ってはいないというのか・・・』
『悟りとは深いものだ。私はまだ苦悩の中にいる、悟りとは程遠い』
『ならば、もっと人里離れた所に行けばいいじゃないか。わざわざこんな村に近いところにいなくてもいいじゃないか。女性がいないような山の奥に行けばいいじゃないか』
『君にはわからないだろう、それでは修行にはならぬのだ。女性がいなければ、女性に対する欲望がどうなっているのかわからぬではないか・・・・。よいか、俗世間の村の近くにはいるが、その俗世間には染まらない。村の人々の施しを受け、村の人々と接してはいるが、村の人々には染まらない。女性を目の前にしているが、その女性に何も欲望を起こさない。それが修行であろう。泥にまみれてもなお、泥に染まらない、蓮の華ようでなくては修行にはならぬのだ。精舎の中でぬくぬくとしていては、自分の欲望が果たして本当に制御されているのかどうか、本当に己が理解できているのかどうかわからぬであろう。だからこそ、村から遠くなく、近くないこの地にいるのだ』
『修行とは・・・・そういうものだったのか・・・・』
『私は、カーシャパ仏の配慮に感謝している。私を精舎から追放し、この地にで修業するように導いてくれたのはカーシャパ仏である。ありがたいことだ。この地にきて、私はわかった。この世は苦悩である。苦しみの世界である。この世は苦に満ち満ちている。人の心、欲望は制御しがたいものである。悩み苦しみ、そして己の醜さをよく知った、その果てに悟りは存在するのだ。今、まさにその道を歩んでいる』
『お願いがあります。私もここで一緒に修行したいのですが、よろしいですか?』
『いや、あなたは精舎に帰るがいい。精舎の中で孤立し、皆から蔑まれ、なぜそういう扱いを受けるのか、よく考え、悩み苦しむがよい。ここではあなたの修行にはならぬ。悩みや苦しみがない場所で悟りは得られぬのだ』
その言葉に彼は打ちのめされた。自分の甘さを知った。そして、この地を訪れるように言ったカーシャパ仏の心に感謝した。
『ありがとうございます。私は精舎に帰ります。私の修行の地は、精舎の中のようですから』
『苦を避けず、苦を受け入れ、あえて悩むことです。それが実は近道なのですよ。苦しみを避けていては、真実は見えてこないでしょう』
いく年か過ぎたころ、精舎に帰った弟子も、スメナ山で修業していた弟子も、悟りを得たそうである。そのときの二人の言葉は、
『泥中にあって泥に染まらず。苦悩があるからこそ悟りがある』
だった。
さて、ここに集う多くの者たちよ、そして日々修行をしている弟子たちよ、今の話の意味がわかったであろうか。苦しみを避けてはならぬ。苦労を厭うてはならぬ。
街にあっては成功したものを見て羨んでいるものがいるが、そこまでに至る過程を知らねばならぬのだ。簡単に成功しているわけではないのだ。泥にまみれ、もがき苦しみ悩んだ果ての成功なのだ。そして、成功したのちも、悩み続けるものなのである。
悟りを得た者を見て、羨んではならぬ。悟りに至るまでの苦悩を知らねばならないのだ。そして、悟った境地に安住することが大変なことであることも知らねばならぬ。
美しい蓮の華だけを眺めていてはいけないのだ。蓮の華が泥の中から咲くことを知り、さらにその泥に染まらないことを知らねばいけない。
それを知れば、苦労も苦しみも恐ろしいことではなくなる。厭うことではなくなるのだ」
お釈迦様の言葉に、出家し修行している弟子たちは、改めて気を引き締めたのだった。そして、在家の人々は、苦労を避けようとしていた自分に気がつき、考えを改めたのであった・・・・。


誰でも苦労をしたくはないものです。できれば、苦労などしたくはありません。しかし、実際には、苦労しなければ成功は得られないものです。何の苦労もせずに手に入れたものは、簡単に失ってしまうものなのです。

事業に成功した人を見て「うらやましい」と思う方がいます。そういう人って多いんじゃないでしょうか。しかし、その人がその立場に至るまでの過程は見ようとはしないんですね。
あるいは、羨ましいと思うのなら「よし自分も頑張るぞ」と思えばいいのです。しかし、「うらやましいな、でも俺には無理だな」と、初めからあきらめてしまうんですね。
成功した人は、初めからあきらめたりはしません。どんなつらいことも、大変なことも乗り越えてきたからこそ、その成功があるのでしょう。
さらには、現在の成功の立場を守るため、その人がどんなに苦悩しているのか、それすらも知らない人が多いのです。

悟りも同じです。悩みや苦しみがなければ、悟りもありません。悩みや苦しみがあるからこそ、悟りがあるのです。そして、一度悟ったとしても、その状態を維持することがまた大変なのです。特に現在では、お寺は社会と断絶しているわけではなく、俗世間の中にあるのですから、お寺の清浄さを維持するのは大変でしょう。
まさに、俗世間にあって俗に染まらず、俗に染まらずして俗世間を厭わず、でしょう。これは、難しいことなのです。
「和尚さんは何の苦労もないでしょ」
というのは間違っているのですよ。

派手な表面ばかりを見て判断してはいけません。きれいな蓮の華は、泥にまみれながら成長してきたのです。しかも、その泥に染まってはいないのです。
「仕事が大変だ」、「休みがなくってつらい」、「気に入った仕事がない」、「生活が苦しい」・・・・。
悩みや苦しみは尽きることはないでしょう。しかし、だからといって、その苦しみから逃げてばかりではいけないのではないでしょうか。たまには、その苦しみに向かっていって、克服することも大事なのではないではないでしょうか。

誰だって苦労はしたくはありません。しかし、苦労しなければ得られないものがある、ということも事実です。苦労や苦悩を知らない者は、他者の苦しみはわからないでしょう。苦しみを知っているからこそ、美しい花が咲くというものです。
泥にまみれましょう・・・・。
合掌。


第95回
あなたにとって心地よい言葉は、無益である。
あなたにとって受け入れがたい言葉は、有益である。
厳しい言葉に耳を傾けるがよい。
「なぜ汝らに厳しい言葉を投げかけるのか、それをよく考えなさい」
お釈迦様は、3人の修行者を叱った。そして、その場を立ち去ったのである。残された3人の修行者は、小さくなって座りこんでいた。やがて一人が文句を言い始めた。
「あ〜あ、もう嫌になったよ。毎日毎日怒られてばかりだ。何が世尊だ、何が長老だ。小うるさいジジイじゃないか」
「ホントだよな。毎日うっとうしいよ。こんなことなら出家しなきゃよかった。食いものは托鉢だけ、規則正しい生活をしろ、昼からは何も食べるな。ただ座って瞑想しろ、身の回りは清潔にしろ、酒は飲むな、女としゃべるな、ケラケラ笑うな、言葉遣いは正しく、無駄なことは話すな、托鉢以外に精舎から出るな・・・。やってられないよな。自由がまったくない。出家して、やっとうるさい家から解放されたと思ったのに・・・・。ここに来れば自由に過ごせると思ったのに・・・・」
一人が同調した。もう一人がこっそりと言った。
「いっそのこと脱走しようか」
「だ、脱走?。そりゃあいいけどさ。ここを抜け出してどこへ行くんだ?」
「どこでもいいじゃないか。ここを出れば俺たちは自由だぞ。小うるさいことも言われない」
「そうだな、抜け出るか。こんな不自由な生活はもううんざりだ。家にいたほうがまだましだったよ」
「そうだよな。よし、ここを抜け出よう。何とかなるだろう。俺たちは自由をつかむんだ」
3人の話はまとまった。彼らはその夜こっそりと精舎を抜け出したのだった。

翌朝のこと、3人の指導に当たっていた長老がお釈迦様に報告をした。
「あの3人が精舎を抜け出ました」
「やはりそうか」
と悲しそうな顔でうなずいただけであった。
一方、精舎を抜け出た3人は、行くあてもなく街をさまよっていた。
「どうするこれから」
「とりあえず、着る物を手に入れよう。この姿じゃあ、出家者と変わらない」
「家に戻って、着替えてからもう一度集まろう」
彼らは、それぞれ一度家に戻ることにした。

家に戻ると、たちまち親に見つかってしまった。
「なんだいお前は。いったいどうしたんだ。お釈迦様の弟子になったんじゃないのか。なにしに帰ってきた・・・・あ、なにをやっているんだ。お前、それは袈裟だろう。修行者の衣の袈裟を投げ捨てるなんて・・・。どうしたんだ」
「うるさいなぁ、もう修行はやめたんだよ。俺のことは放っておいてくれよ。あ〜、もう、うるさい。あっちに行け!。あ、そうだ、金、金を少しくれ」
「このバカモノが!。お前にくれてやる金なんてない!。とっと出ていけ!」

3人は、着替えを済ませて街に戻ってきた。
「全くうるせぇよな。人の顔を見りゃあ、何やってるだの、修行はどうしただの」
「うちも同じだよ。うんざりだ。久しぶりに家に帰ったというのに、懐かしいも、どうしてるも、元気かもありゃしない。着替えをすりゃあ、なんで着替えるんだ、袈裟をどうするんだ、お釈迦様の元へは帰らないのか、いったい何をやってるんだとか・・・・。そんな小言ばかりだ」
「ホント、大人はうるさいよ、まったく」
そう文句を言いあっていたところに、一人の男性が声をかけてきた。
「君たちは元気だな。何をやっているんだい?」
「別に何も・・・・」
「若くて元気がよくて・・・ふむ、立派な体もしている」
「おじさん何なの?。何か俺たちに用でもあるの?」
「いやいや、用ってほどのことではないんだがな、ヒマならばいい仕事があるからどうかな、と思って」
3人は、お互いに顔を見合って喜んだ。
「俺たちにもできる仕事なのかい?」
「もちろん・・・。ところで、君たちは頭を剃っているが、それは・・・・ははぁ、修行が嫌になったんだね。お釈迦様のところで修業していたのかい?」
3人はバツが悪そうに下を向いた。男は、ニヤニヤしていった。
「そりゃあ、仕方がないよな。君たちの気持ちはよくわかるよ。お釈迦様は立派な人かもしれないが、小うるさいんだよ。あれをするな、これをするな、遊ぶな楽しむなってね。そんな生活していたら、息が詰まってしまう。もっと自由でいいのにな。特に若者たちは・・・・」
「おじさんもそう思う?。そうだよな、若者はもっと自由でいいよな」
「あぁ、自由でいいさ。君たちのように若くて力のある者はね。出家なんてもったいないよ」
そう言って男は、やさしくほほ笑んだ。
「どうだい、俺のところで仕事をするかい?。金は稼げるし、酒も飲める。女遊びも自由だ。どうだい?」
3人は喜んでその男について行った。

その男が連れて行った場所は、暗くて人の通りがない場所の一角だった。なんとそこは窃盗団のアジトだったのである。
初めは窃盗団の仲間になるのを嫌がった3人だったが、
「君たちは才能がありそうだ。若いのだから、逃げ足も速そうだ。危なくなったら逃げればいいだけのことだ。捕まえられやしないよ。もし、万が一捕まったら、その頭だ、お釈迦様の弟子だ、ちょっと抜け出てきただけだ、といえばいい。簡単なことだ」
と言われ、仲間になることになってしまった。そうして3人は窃盗をすることになったのである。

しばらくしたころ、ある酒飲み屋で3人は騒いでいた。
「ふん、どうだ今の俺たちは。金はある、酒は飲める、女は抱ける・・・。自由だ。こんな楽しいことはないな」
「精舎を抜け出てよかったなぁ。あんなところにいたら楽しいことなんて一つもない」
「お釈迦様はおっしゃった。盗むな、酒を飲むな、女を抱くな・・・・。あははは、バカバカしい。こんな楽しいことをするななんて、くだらないな!。あははは」
「いい気分だ。こんな楽な仕事はないぞ」
そこへ彼らを誘った男がやってきた。男は、小声で、しかし凄みのある声で怒った。
「バカヤロウ!、こんな大騒ぎする奴があるか。バレたらどうするんだ。街中の飲み屋で騒ぐな、と言っただろう」
「うるさいな〜。また小言かよ。おじさんもうるさいんだよね。文句ばっかり。あれは盗むな、これだけにしろ」
「盗んだ金は派手に使うな、街中で騒ぐな」
「酒を飲むならひっそり目立たぬように。やってられないんだよ。こそこそしやがって」
「ばかもの!。こっそり目立たないから盗みの仕事ができるんだろう。もういい、お前たちは仲間じゃねぇ。縁切りだ」
男はそういうと店を出て行った。3人は
「当たり前だ。これから俺たちだけで仕事をするからいいんだよ、バ〜カ」
「まったくどいつもこいつも小言ばかりだ」
と毒づいたのだった。

それから数日後のことだった。街中の酒飲み屋で騒いでいた3人は、司直の手によって捕まってしまった。
「お、俺たちは出家者だ。お釈迦様の弟子だ。頭を見りゃあわかるだろ」
「そうだ、そうだ。たまたま、気晴らしに酒を飲みに来ただけだ」
「ちゃんと頭を剃っているからわかるだろ、ボケ」
「バカモノ。お前たちのどこが出家者なのだ。袈裟を身につけていないじゃないか。それにな、お釈迦様のお弟子さんなら、こんなところで酒は飲まないし、そんな言葉づかいはしない。ましてや人のものを盗むようなことはしないんだ」
3人は結局、牢獄へ入れられることとなったのである。

牢獄にお釈迦様がやってきた。3人に話をしに来たのである。
「なぜ汝らに厳しい言葉を投げかけるのか、よく考えたかね?」
3人は牢獄の隅の方で固まっていた。
「汝らに厳しいく言った者の顔を思い浮かべよ。そして、何を言ったのかよく思いだしてみよ。それは汝らにとって有益だったか、無益だったか」
3人は下を向いたまま黙っていた。
何時間経っただろうか。3人のうちの一人がぼそりと言った。
「言うとおりにしていれば、こんな事にはならなかった・・・・」
それがきっかけとなって他の二人も話し始めた。
「あの男の言ったことを聞いていれば捕まらなかった。いや、そもそも親の言うことを聞いていればこんな事にはならなかった」
「お釈迦様の教えを守っていれば、きっとここにはいなかった」
「嫌なことばかり言われたと思っていたけど、今はよくわかります。もっとちゃんと話を聞いておけばよかったと」
3人とも泣き叫んでいた。
しばらくして3人は落ち着いた。お釈迦様は3人ために教えを説き始めた。
「汝らの心に心地よく響く言葉、心地よく聞こえる言葉は、汝らにとって何の役にも立たない。汝らを窃盗団に誘った男の言葉のように、汝らにとっては禍をもたらすだけの言葉なのだ。しかし、汝らが聞きたくない、うっとうしい、受け入れがたい、そう思う言葉は、汝らにとって大変ありがたい言葉なのだ。汝らにとっては有益な言葉なのだよ。それはなぜだかわかるかね?」
3人はしばらく考えていたが、首を横に振った。
「汝らにとって嫌な言葉、聞きたくないことば、厳しい言葉は、汝らが言われたくない言葉だからだ。それは、汝らが指摘されたくない事柄だからだ。それはつまり、汝らは、自分たちのどこが悪いかということをよく知っているということなのだよ。知っている、わかっているのに正しくできない、直せない。だから、他者から指摘されると腹が立つのだ。わかっているけど、認めなたくないのだね。
ある大きな商いをやっている店に一人の息子がいたとしよう。その息子は、周囲にちやほやされて育った。また容姿もよく、女性がいつも彼を取り巻いていた。商いの仕事は、彼にとって簡単そうに見えた。だから、彼は親の注意や彼の友人からの小言には耳を傾けなかった。親が亡くなり、彼が店を継ぐこととなった。しかし、店はうまくいかない。親からの注意を聞いてこなかったからだ。彼は知り合いに相談をした。その相談相手は、厳しいことを彼に言った。今のままでは店をつぶしてしまう。君は変わらなければいけない、考え方を変えなきゃいけない、今の君には店を切り盛りする才能はない、ああしなさい、こうしなさい・・・・。
その息子は、素直に聞いているかのようだったが、相談相手のところから出ると
『いちいちうるせぇんだよ』
と言って、結局言われたことを何一つやらなかった。やがて、店はつぶれた。その息子は、後でこうつぶやいた。
『あのとき、素直にいうことを聞いていれば、こんなことにはならなかった・・・・。わかっていたんだが、素直になれなかった・・・・』
と。そのときにはもう遅いのだ。初めから素直に聞いていれば、禍は回避できたのだよ。本当は言われなくてもわかっているのに、それを指摘されると腹が立つものなのだ。
汝らも同じだ。本当は、どうすればいいのか、よくわかっているのだろう」
お釈迦様は、そういうと優しく微笑んで、
「罪の償いが終わったら、精舎に戻るがよい。もう一度、出家し直し、修行をすればいい」
と言った。3人は、その言葉にお釈迦様の慈悲を知ったのであった。


「金言、耳に逆らいやすし」
という言葉があります。金言とは、正しく導いてくれる言葉、アドバイス、のことです。それは時に厳しい言葉となります。
しかし、そうした言葉は、得てして受け入れがたいものです。
「うるさい、わかっている、そんなこと」
と言い返したくなる言葉が多いんですよね。だから、「耳に逆らいやすし」なのです。聞こえてはいるけど、耳には入ってこない、のです。

人は、図星を指摘されると、困惑し、次に腹が立ちます。いきなり怒る人もいます。「あなたは短気で怒りっぽい」と指摘され、指摘された側が「そんなことはない!」と怒りだすという、笑い話のような話が多々ありますよね。
人は、他人から「わかっているけど認めたくないこと」を指摘されると、ムカつくものなのですよ。で、
「うっとうしい」、「うるさい」、「うざい」、「うるせぇーんだよ」
と叫びたくなるのです。

でも、よく考えて見てください。あなたを甘やかすような言葉は、決してあなたのためにはならないでしょ。事実でもないのに
「すごい」、「できるねぇ」、「立派だねぇ」、「きれいだねぇ」、「才能あるよ」、「君は素晴らしい」・・・
などという、歯の浮いたような褒め言葉に、人々は騙されるんですよねぇ。そうした言葉ばかりに囲まれると、ちーっとも成長しません。バカ親父が、飲み屋でホステスさんにおだてられ、通い詰めるのと同じです。成長しない、バカなオヤジっていっぱいいますからねぇ(私もそのひとり?)。

一時期、褒めて伸ばす、という教育法がもてはやされました。確かに、これはある意味いいことだと思います。ちゃんとできたなら、しっかり努力したのなら褒めることは大切でしょう。それは、「認める」ということになりますから。しかし、「おだてる」のはいけません。何でもかんでも褒めるのは、褒めることにはなっていないんですね。それは「おだてる」なんです。ここを間違って教育してしまうと、厳しい言葉を言われたときに、受け入れられない人間になってしまいます。

人をおだてるような、歯の浮いた心地よい言葉というものは、無益な言葉にしかなりません。しかし、厳しく指導してくれる言葉は、受け入れがたいしうっとうしいのですが、それは実は有益な言葉なのです。
厳しく言われた言葉は、本当は聞き流してはいけない言葉なのです。たまには、素直に聞いておく方がいいのではないでしょうか。
あのとき、素直に聞いておけばよかった、あの厳しい言葉にしたがっておけばよかった。
と後悔しても遅いですからねぇ・・・・。
合掌。



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