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第101回
私にはそれはできない、そうあきらめていては始まらない。
結果よりも、やってみようと努力することが大切なのだ。

マガダ国の首都ラージャグリハは、大きな貿易都市だった。そこには、世界各地からいろいろな商品が運ばれてきていた。街は発展し、いろいろな職種であふれかえっていた。大きな建物や高い建物がいくつも建っていた。そんなラージャグリハの一角に新たに巨大な建物を建てる計画が持ち上がった。建て主は、マガダ国一の貿易商のダナンジャヤである。
「今度、建てる建物は、ちょっと奇抜なものしたいのだ。今までマガダ国にはなかったような建物だ。誰かそういった建物を設計するようなものはおらぬか?」
ダナンジャヤは、建物の外観にこだわっており、周囲の者に、他にはない外観を持った建物を建ててくれる設計士を探していた。しかし、誰もその勇気がないのか、なかなか名乗り出るものはなかった。そこで
「仕方がない。いい外観を提示した者には、特別に千金を与えることとしよう。絵にかいて持ってきたものでもよい」
と賞金を出すことにした。しかもそれは、建物の設計などしなくてもよく、建物の外観を絵に描いて持っていけばよかったのだった。ラージャグリハの街は、この話で持ちきりとなったのだった。あちこちで、
「おい、聞いたか。今度ダナンジャヤが建てようとする建物の外観の絵を描いていけば、千金もの大金がもらえるそうだ」
「あぁ、聞いた聞いた。今までにない建物を考えて、それを絵にして持っていけばいいんだろ。・・・・やってみようかなぁ」
「お前には無理だよ。第一、絵が描けないじゃないか。お前の描いた幼稚な絵じゃあ・・・・」
「違いねぇ。まず絵がかけなきゃなぁ・・・・」
と言った話で盛り上がっていたのだ。実際、何人もの男どもが建物の絵を描き、ダナンジャヤのところへ持っていったが、
「なんだこれは?。こんなものは絵じゃない。子供の落書きだ!。いや、それ以下だ」
と突っ返されていたのだった。

ラージャグリハの街のはずれに小さな村があった。その村は、ラージャグリハに近いところにあったが、昔から土地が悪かったせいか、貧しい農村であった。その村のヴィンガーという青年は、子供の頃からたいそう絵が上手であった。村長がヴィンガーを呼び寄せた。
「なぁ、ヴィンガー、ラージャグリハの噂話を耳にしたか?」
「はぁ・・・一応は・・・」
「そうか、なんでもダナンジャヤが建てようとしている建物の外観を考え、それを絵にして持っていったら千金もの大金がもらえるそうじゃな」
「はい、そのようで・・・・しかし・・・」
「なぁ、ヴィンガーや、お前は絵が上手だったよのう」
「・・・・は、はい・・・・まぁ・・・・」
「この村は貧しい。それは土地が悪いせいじゃ。なぜ悪いか・・・・。水が少ないのじゃ。畑に水を撒こうと思えば、向うの川から甕に水を入れて運んでこなければならん。お前も知っておる通りな・・・・。しかし、川から水路を引けば、この村の土地も潤う。それは誰しもが認めることじゃな。お前も知っており通りじゃ。しかし、その水路を造るには、千金もの大金が必要じゃ。お前も知っておる通りじゃ。そこでじゃ・・・・」
「無理です。私にはとてもじゃないですが・・・・」
「ヴィンガーや、まだわしは何もいうとらんが・・・・」
「おっしゃりたいことはわかります。ダナンジャヤの建物の外観の絵を描け、とおっしゃるのでしょう。そんなのは無理ですよ。いくら絵がかけても・・・・そんな今までにないような外観をした建物の絵を描け、なんて・・・・。私にはできません。そんなこと・・・・無理です」
「ヴィンガーや、そんなに簡単に断ることもなかろうに・・・・」
「いいえ・・・・いくら村長の頼みとはいえ・・・・」
ヴィンガーは肩をすぼめて、うつむいてしまった。村長は、大きなため息をつき、
「そうか・・・・、仕方がないのう・・・・これで村は貧乏から抜け出る可能性は失ったか・・・・。少しでも希望を持っていたかったのじゃが・・・。その希望の灯も消えたか・・・・」
「そ、そんなことは・・・・私に言われても・・・・」
ヴィンガーは、逃げるようにして村長の家から出て行ったのだった。

「ちっ、勝手なことを言いやがる。そんなこと・・・・俺に言われても・・・・。村長なんだから、自分で何とかすればいいんだ」
ヴィンガーは、村を飛び出てブラブラ歩いていた。いつのまにか、ラージャグリハのはずれにある墓地にやってきていた。あたりはうす暗くなっていた。
「うっ、なんだ墓地かよ・・・。気味が悪いなぁ・・・・どうしよう・・・帰るとするか・・・しかしなぁ、帰りにくいなぁ・・・・。俺が村長の頼みを断ったことは、もう村中に広がっているだろうし・・・・。オヤジやオフクロも責められていないかなぁ・・・・・・・・。ふん、そんなこと知ったこっちゃねぇ。俺には俺の仕事があるんだし・・・・」
ヴィンガーの仕事とは、宮殿や大きな建物の内部の壁に神話の絵を描くことだった。ただ、自分で仕事をとってくるのではなく、絵師が集まるところに、安い給金で雇われているのだった。しかも、このところ、仕事はなかったため、家でゴロゴロしていたのだった。
「くっそ!、そのうち、仕事は入ってくる。その時に手があいてなきゃ・・・・。あぁ、俺は何を考えているんだ。俺は悪くない!。できないものはできないんだ」
ヴィンガーは、そのまま墓地を出て、ラージャグリハの街へ向かおうとした。酒でも飲んで憂さを晴らそうとしたのだ。しかし、彼は墓地を出られなかった。彼を呼びとめる者がいたのだ。
「ヴィンガーよ、待ちなさい。そのまま酒場に行っても、何もいいことなどない」
声がしたほうを向くと、それはお釈迦様だった。ヴィンガーは、以前ラージャグリハの街で托鉢をしてるお釈迦様の姿を見たことがあった。そのとき、街の人々は「お釈迦様だ、仏陀だ、世尊だ・・・」と集まって来て、礼拝をしていたのだった。そうしたことがあったので、ヴィンガーは、お釈迦様の姿をよく覚えていたのだった。
「ヴィンガーよ、このまま村へ帰るがいい」
「あ、あ、あの・・・お釈迦様、それはなぜ・・・・でしょうか?」
「ヴィンガーよ、何も努力しようとしないで、初めからあきらめている汝は、小さな人間だ。まるで餌を加えることなく巣に帰っていく、その辺を歩いているアリのように」
「な、なんと・・・・そ、それは・・・どういうこと・・・・」
「言わなくてもわかっていよう。初めから自分にはできません、といってあきらめていては何も始まらぬ。なんとかしてみようと思い、努力することが大切なのだ。あぁ、そういう意味では、汝はそのアリ以下だな。アリは、ただ何もせず、墓地を歩き回っていたのではない。あれでも餌を探していたのだ。餌を求め、歩き回っていた。努力していた。餌を取ることを初めからあきらめ、墓地の片隅に蹲っていたわけではない。手ぶらではあるが、そのアリは努力はした。きっと、他のアリから責められることもなかろう。それに比べ、汝は餌をとる努力を初めから放棄している。すなわち、そのアリよりも劣る、ということだ」
お釈迦様はそれだけ言うと、ヴィンガーの前を通り過ぎて行った。ヴィンガーは、一人墓地にたたずんでいた。

気がつくとあたりは真っ暗だった。さすがに真っ暗な墓地は居心地も悪いので、ヴィンガーは墓地を出ることにした。今度こそ、ラージャグリハの街にき、酒を飲んで来ようとしたのだ。しかし、
「あぁ、しまった・・・・金を持ってきていないんだ。慌てて村を飛び出したからなぁ・・・・・。仕方がない・・・・村へ帰るか。黙って過ごしていれば、何も言われないだろう」
ヴィンガーは、肩を落として歩いて行った。
「初めからあきらめないで、努力しろ・・・・・か。ふん、いくらお釈迦様の言葉でも、聞けることと聞けないことがあるさ。みんな簡単に言いやがって。そんな簡単に建物の絵が描けるわけがない。ふん、素人のくせに!。偉そうなこと言いやがって。俺には俺の事情があるんだ。やれと言われても、できることとできないことがあるんだ・・・・・」
ヴィンガーは、ぶつぶつ独り言を言いながら村に戻っていった。
村に戻ると、村長の家に明かりがともっていた。それも薄暗い明りではなく、とても明るかったのだ。それに引き換え、周囲の家に家には、明かりが一つもともっていなかった。もっとも、彼の村は貧しかったので、明かりがともっていることの方が珍しいことであった。
「な、何をやっているんだろうか。あんなに明かりをともして・・・・。油の無駄使いだろう・・・・」
独り言をいいながら、ヴィンガーは、村長の家の中を覗いてみた。中では、村長を中心として、村人たちが全員で何かを描いていたのだった。よく見ると、それは建物の絵だった。
「村長、こんなのはどうでしょうか?」
「ふむふむ・・・ほう、なかなかのものじゃな。面白い・・・・。いいかも知れん」
「ダメだよ、村長。そんな下手な絵で褒めちゃ。そんな絵がよければ、こっちだっていいだろう」
「どれどれ・・・・、ふむ、なかなかよいのう」
「ねぇ、本当にこんなことで千金もの金が手にはいるのかねぇ・・・」
「何を言うか。初めからあきらめておったら、何も生まれんぞ。こうして何枚も何枚も描いていくうちに、いい絵が出来上がることもある。大事なことは、こうして努力することなのじゃ。努力すれば、たとえ・・・・・千金が得られなくても・・・・もっともっと大事なものが得られるじゃろう・・・・・」
その言葉に、村人たちは大人から子供まで、感激したのであった。そして、また絵を描き始めていた。
「な、なんでだよ・・・・、なんでそんな無駄なことを・・・・・」
村長の家の壁にもたれ、ヴィンガーは、泣いていた。
「金を得られなかったら・・・意味がないだろ。そんな素人に建物の絵なんか描けるわけがないのに・・・。なんでそんな無駄なことを・・・・」
すると、頭の中に声が聞こえてきた。その声はまぎれもなくお釈迦様の声だった。
「無駄かどうか、もう一度よく見てみよ」
声はそれだけ言うと、聞こえなくなった。ヴィンガーは、声の意味が気になって、再び村長の家の中を覗いてみた。すると・・・・・なんと、さっきよりも、みんなの描く絵がうまくなっていた。少しずつではあったが・・・・。
「う、うまくなっている・・・。なんでだ・・・・なんでそんなに早く上達するんだ・・・・」
「みんな村のためを思って、必死に努力しているからだ。あきらめないで、村のために、みんなの幸せのために必死に努力しているからだ。何事も初めからあきらめてしまう汝には、理解できないであろう」
その声は、またしてもお釈迦様の声だった。そして、その声は言った。
「さぁ、汝も中に入って絵を描くがよい。汝もこの村の人間なのだから」
ヴィンガーは、背を押されるようにして、村長の家に入っていった・・・・。

数日後のこと、ダナンジャヤの建物の外観が決まった。千金を与えると宣伝したため、応募は多数あった。なかでも、ヴィンガーの村は、村人全員が絵を描いて応募していた。ダナンジャヤがラージャグリハの街の中心に来て建物の外観の絵を発表した。それは・・・・ヴィンガーの村人たちが描いた絵ではなかった。残念ながら、他の者が描いた建物の絵に決まったのだ。しかし、ダナンジャヤは、街の人々に言った。
「このラージャグリハの街はずれの貧しい村人たちは、全員、わしの建物の外観の絵を描いて応募してくれた。こんな嬉しいことはない。たとえ、目的が千金を手に入れることだったとしても、それは村のために使う金だったそうだ。なんともいい話じゃないか。村のために村人がこぞって努力をする。たとえ、それが実らなくても、初めからあきらめないで、一生懸命努力した。その姿はとても美しいものだ。それだけではない。そうした努力は、必ず、どこかで実るものなのだ。彼らは、千金以上の尊いものを手にしたにちがいない。街の人々よ、見よ、あの一角に貧しそうな人々がたたずんでいよう」
ダナンジャヤは、街の一角を指さした。そこには、ヴィンガーとその村人たちが固まって立っていたのだ。
「街の者よ、見よ、あの者たちの清々しい顔を。自分たちの望み叶えられなかったが、みんないい顔をしている。あの顔は、努力した者だけが得られる顔だ。素晴らしい、素晴らしい、村長よ」
ダナンジャヤは、村長に声をかけた。
「大変いいものを見させてもらった。皆さんの願いはかなわなかったが、どうだろう、水路を造る事業、わしにも手伝わせてくれないか。資金をだそう。しかし、工事は村人で行ってもらいたい。みんな全員で協力し合うことができる村人たちだ。水路くらい、造れるじゃろう」
ダナンジャヤは、そういって大きな声で笑ったのだった。ヴィンガーは、
「あきらめずに努力することは、とても気持ちのいいことだ。あぁ、なんていい日なんだ・・・・」
と一人空を仰いでいたのだった。


うちのお寺に来られる方の相談事には、こんなパターンがよくあります。
「・・・・というわけです。どうすればいいでしょう」
「そうですか・・・・では・・・・、このようにすればいいでしょう」
「えっ、それは・・・・という事情があってできないのですが」
「ならば・・・・・とすればいいじゃないですか。具体的には、こうして、このようにして・・・・・」
「しかし・・・・それは・・・・・できないんじゃ・・・・」
「なぜできないんですか?」
「だって・・・・その・・・そんなこと・・・・言えないし・・・・。私にはできませんよ」
「困りましたねぇ、あれもできない、これもできない・・・・じゃあ、何ができるというのでしょうか?」
「それがわからないから、お尋ねしているんでして・・・・」
「でもね、こういうことはできることでしょ。なぜできないの?」
「だって、そんなこと、やったこともないし・・・・」
「やったことがあれば、誰だってできますよ。っていうか、やったことがあるなら、ここに相談には来ないでしょ。やったことがないから迷うんでしょ。一度でも経験がれば、思いつくはずです。経験がないからできない、なんてことはありません」
「しかし、ハードルが高すぎます・・・・」
「できない人には言いません。できる人だから言うのです。初めからあきらめたら、何も生まれません。大事なことは、それをやってみようと努力することです。そこから、何かが生まれ、何か目覚めるものです。初めからあきらめるのでしたら、聞く意味がないじゃないですか。やってみて、どうしてもできない、ということでしたら、他の方法も考えましょう。その時には、状況も変わっているでしょうから。まずは、このどちらかの方法で挑戦してみるといいですね。もっとも、実行するしないは、あなたの自由ですが・・・・」
多くの場合、こうしたパターンなんですね。

で、そのまま実行せず別の方法を模索するか、または何も手つかずにするのか、あるいは私の提案を受け入れ難しくても実行に移し努力するか、で大きな差が出ます。
やっぱり、何もしない、別の方法を模索する・・・・では、何の解決もなさないようですね。しかも、ほとんどの場合、どなたも
「やれないと思ってましたが、できたんですよ。やってよかったです」
とおっしゃいます。
やる前から「私にはできない、無理だ」とあきらめていては何にもなりません。それは年齢に関係なく、です。もう年だから、若すぎるから、などというのは理由にはなりません。私は、無理難題を言ったことはないのです。やってみればできる、ということしか言いません。
ですが、口をそろえて「無理です」というのですね。
でも、無理です、と思いつつも、やってみれば、案外ことはスムーズに運ぶものなのですよ。また、結果が望んだようでなくても、挑戦してみた、という事実が残れば、それは大きな自信につながるのです。
大切なことは、努力してみる、トライしてみる、挑戦してみる、ということですね。案外、
「難ずるより産むが易し」
ってこともあります。決して、初めからあきらめないでください。無理だと思えるようなことでも、できてしまうこともあるのです。
合掌。


第102回
耐え忍ぶことは大切なことだ。
しかし、それだけで善いというわけではない。
やらなければならないこと、言わなければいけないこともある。
お釈迦様がいらしたころのインドは・・・現代でもそうではあるが・・・カースト制度がとても強い時代であった。また、日本ほどではないが、男尊女卑の傾向があった。コーサラ国のプラセーナジット王やマガダ国のビンビサーラ王は、その時代では珍しく、身分に関係なく城の働き手に採用したが、それでも庶民の間では、人々の格差は激しく、しかも身分は世襲となっていたため、そこから抜け出ることは難しいものだった。多くの人々は、雇われる側であり、その多くが貧しい生活を強いられていたのだった。特に身分が低かったり、貧しい家庭での女性の苦労は多大なるものであった。
コーサラ国の首都シュラーバスティーのはずれに小さな村があった。その村でも身分の差や貧富の差はあった。ミガーラはその村のある男の家に嫁いだ。家には男の両親がいた。男は、村の有力者のマンゴー園で雇われていた。無論、賃金はたいしたものではなかった。
その日のミガーラの夫は荒れていた。
「なんだ、こんな食事しかないのか!。俺は一日中、働いているんだぞ!。もっとマシなものを食べさせろ!」
「す、すみません・・・、お、お金があまりなくて・・・・」
「なに〜、それは俺の稼ぎ悪い、ということかっ?。このクソ女め!、お前のやりくりが悪いんだろ!」
夫は、ミガーラの頬を叩いた。
「まあまあ、その位で勘弁してあげたらどうだ。ミガーラだって一生懸命やっているんだから」
舅が二人の間に割って入った。
「そうだよ、こんな年よりを二人抱えて大変だろうしね。まあ、私はもっとうまくやったけどねぇ・・・」
姑もミガーラをかばったが、嫌味は忘れなかった。
「も、申し訳ありません・・・。もっと、料理の腕をあげるようにします・・・・」
ミガーラは頭を下げた。そうすることにより、夫の怒りは鎮まるのだ。
(私がこうして頭を下げていればいい、私がつらくとも耐え忍んでいればいい。それで家庭が丸く収まるのなら・・・・)
このような出来事は、日常茶飯事であった。

やがて、ミガーラは子を産み、一家の人数は増えた。数年後には、子供の数は4人となっていた。家族は、8人に膨れ上がっていた。
「まあまあ、何も考えないで、あんたたちはこんなに子供ばかり産んで・・・・、いったいどうするんだね」
「まあ、いいじゃないか、子供は宝じゃ。賑わしくていいだろう。少し大きくなれば、働きにでも行けるしな」
「何言ってるんだね。ミガーラは、子育てを私に押しつけるんだよ。こんな年寄りにねぇ。私を殺す気なんだよ」
「そりゃ、困ったもんだな。年寄りに子供の面倒はキツイからのう。ミガーラ、婆さんが大変だ。さっさと家の仕事を済まさないか」
夫の両親は、家でぶらぶらしながら、毎日のように不平不満をミガーラに言っていた。二人とも、ミガーラに協力しようとはしなかった。ミガーラは
(私がしっかりしなきゃ。私が辛抱して、耐えていれば、みんなは安穏なんだから・・・)
と自分に言い聞かせ、毎日毎日、家の世話をしていたのだった。それだけでなく、夫の稼ぎは相変わらず悪かったため、ミガーラも子供を背負いながら、畑仕事の手伝いや、川魚を獲ったりもしていた。少しでも家計の足しになるように・・・・。

さらに時は流れ、子供たちも働きに出るようになった。これで少しはミガーラも休めるはずであった。ところが、年寄りの態度が子供たちにも影響を与えていたのだった。何も文句を言わず、つらくとも耐え忍んでいる母親に対し、子供たちは夫の両親と同じような態度をミガーラにとったのだった。
「何だ、母親の癖にそんなこともやってないのか」
「そ、それくらいは・・・もうできる年になったろう」
「俺は仕事で忙しいんだよ。一日中こき使われて、疲れているんだよ。母さんにみたいに、家でブラブラしているわけじゃないんだ」
「私は家でブラブラなんて・・・・」
「家の中にいる人は楽でいいね。じーちゃんもばーちゃんも、そう言っていたぜ。ふん!」
と、このような調子だったのだ。成長した子供たちは、みんなミガーラに冷たく当たったのだった。ミガーラは、家族たちの態度に、いつも黙って耐えていたのだった。
そんなミガーラだったが、一度だけ反発したことがある。夫に彼の両親のことを訴えたのだ。家の食料品を勝手に持ち出したり、贅沢な物を買い込んだり、家の中で騒いだり、子供たちを甘やかしたりしたので、さすがにミガーラも我慢しきれなくなったのだ。しかし、
「そんなことはお前が悪い。お前が両親に言えばいいだろう。お金は隠しておけばいいことだ。子供たちに甘くても、いいじゃないか、年寄りなんだから」
「それが・・・おじいさんやおばあさんに言ってみたのですが・・・・聞いてもらえなくて。かえって『わしらが邪魔かね?、死ねばいいのかね?。すまんねぇ、長生きして』と言われて・・・」
「お前、どういう言い方したんだ!。親に対してそんな思いをさせるなんて!。このバカ女!」
結局、ミガーラは殴られただけだった。それ以来、彼女は文句や不平不満を一切言わなくなったのである。彼女は、いつも
(私一人が耐え忍んでいれば、みんながうまくいく。それなら、私は黙って辛抱しよう、耐え忍ぼう)
と決心していたのだった。

ある日のこと、ミガーラの村に出家者たちが托鉢に来た。ミガーラもせめて来世では自由になれるようにと、少ないながらも食事を修行者の鉢に入れたのだった。その修行者は、ひと際輝いて見えたのだった。
「あなたは、ずいぶん心にため込んでいる。それはやがて体をむしばむであろう。自ら変えようとしなければ、何も変わらない。我々は村はずれのニグローダ樹林に滞在している」
その修行者は、そう言い残したのだった。
その日、夫はミガーラが修行者に食事を与えたことに激怒した。
「あんな働きもしない連中に大切な食事を与えるとは!。お前の頭の悪さには、もう辛抱ならん!。出ていけ!」
夫は、激しくミガーラを殴り、家の外へ放り出してしまった。それを止めようとする者は、家族の中には誰一人としていなかった。ミガーラは、足を引きずりながら、歩いて行った。行きついた場所は、村はずれのニグローダ樹林だった。

すでに日は沈んでいたが、樹林の奥に明かりがともっているのが見えた。ミガーラはそこに吸い込まれるように進んで行った。
「やぁ、ミガーラ、あなたがここに来ることはわかっていました。なので、こうして灯りを点して待っていました」
そこには中央にお釈迦様、その左右にシャーリープトラとモッガラーナが座っていたのだった。ミガーラは、その姿を見るやホッとして泣き崩れたのだった。
「ミガーラ、あなたのことはわかっています。よくこれまで耐え忍んできました。しかし、それはすべて是というものではありません。あなた自身も悪いところはあります。ただ、耐え忍べば善い、というものではないのですよ」
お釈迦様は、ミガーラに優しく話しかけた。
「確かに、家族から疎外され、虐げられ、いじめを受け、こき使われるのは、それなりに原因というものがあろう。前世の因縁である。前世において、汝は家族からひどい仕打ちを受けなければいけない原因を作っているのだ。しかし・・・、だからといって、ただ何もせず、自分一人が辛抱し、耐え忍び、黙っていればことが済む、というものでもないのだ。汝が黙っていることにより、彼らの罪はますます増大するであろう。汝が清算しなければいけない前世の罪以上に、彼らは汝に対してひどい仕打ちをしてしまう。暴力は、それを行うことにより、次第に勢いを増してしまうものだ。限度を超えて・・・・。そうした行き過ぎは、身体による暴力だけでなく、言葉や態度でも、現れることなのだよ。汝が黙っていることにより、彼らは大きな罪を犯しているのだ。汝が耐え忍ぶことは美徳であって美徳ではないのだよ。汝は、自分一人だけが耐え忍んでいれば、みんなが幸せであると考えているようだが、それは大きな間違いなのである。汝の辛抱によって、汝の家族の罪は増大するのだから・・・・。
ミガーラ、今こそ汝の思いを言うべき時なのだ。汝の心の内を語り、汝の夫や子供たち、そして夫の両親に慈悲の心を目覚めさせねばならない時なのだ。彼らに慈悲の心を与えないと、彼らの心はますます荒むであろう・・・・」
お釈迦様の言葉に、ミガーラは
「私が今ままでしてきた辛抱や我慢は、かえってよくなかったことなのでしょうか?」
「そうだね、ミガーラ。辛抱や耐え忍ぶことにも限度がある、ということなのだよ。何事においても、し過ぎはいけないのだ」
「私は一体どうすればいいのでしょうか」
「汝がここにいれば、汝の家族は汝を探しに来るであろう。その時に、汝の心の内を話せばよい。ここで話すのなら、誰も汝に暴力は行わないであろう」
ミガーラは、そのままニグローダ樹林にお釈迦様たちとともに滞在している尼僧集団に預けられた。

ニグローダ樹林にミガーラの家族がやってきたのは、ミガーラを預かって二日後のことだった。
「おい、ここに俺の女房がいるだろ!、さっさと出せ!、出さないと訴え出るぞ」
ミガーラの夫は、大声を出しながらニグローダ樹林の奥へと入っていった。その後ろを家族がぞろぞろとついていった。修行僧たちは、その姿を何も言わず哀れな目で眺めていたのだった。それが、夫の怒りを増大した。
「くそっ!、気持ちの悪い目で見るな!」
そして、ついにお釈迦様と向き合ったのだった。
「遅かったですね。まあ、そこに座りなさい」
お釈迦様は、穏やかにそう言った。ミガーラの夫はお釈迦様の前で仁王立ちになっていたが、年寄りや子供たちは、慌てて座り込んだ。
「ミガーラは帰らないと言っている。このまま出家し、尼僧になると・・・」
「な、なんだと!。そ、そんなこと・・・・、お、お前・・・・」
「こ、これ!、お釈迦様に向かってお前とは・・・、す、すみません・・・」
夫の両親が慌てて頭を下げた。お釈迦様は、そうしたことを全く意に介さず、話を進めた。
「ミガーラ、自分で話しなさい」
すると、ミガーラが尼僧に付き添われて奥から出てきたのだった。
「わ、私は・・・・もう家には帰りません。私一人が辛抱し、耐え忍び、黙っていれば家族が幸せだと思っていましたが、それはかえってあなたたちの心を悪に染めていたことだとわかったのです。あなたたちは、私一人をいびり、私に何もかも押し付け・・・・まるで、私を奴隷のように扱いました。あの家に必要なのは、奴隷階級の女であって、私ではありません。そういうことなら、お金を出して、召し使いを雇えばいいでしょう。私は、あなたたちの召し使いではないのです。ここにいれば、辛抱する必要はありません。耐え忍ぶ必要はありません。私の心はとても穏やかです。ですから、私のことは忘れて帰ってください」
ミガーラが、初めて打ち明けた言葉に夫をはじめ家族たちは、驚いた。
「そうだったのか・・・、全く気がつかなかった。お前は、てっきりそう言う生活になれているんだと・・・。甘えていたんだな。俺たち家族は、みんなお前に甘えていたんだ。悪かった・・・本当に悪かった。もう、今までのようなことはしないから、帰ってきておくれ。お前がいないとみんなが困るんだ。お前の大切さがよくわかったんだ」
と涙ながらに訴えた。ミガーラは
「本当に、みんな私を歓迎してくれるのでしょうか。私につらく当たらないでしょうか・・・・」
「あぁ、約束するよ。本当だ・・・」
その言葉を信じ、ミガーラは家に帰ることとなった。
「お釈迦様、とりあえず一旦家に帰ります。でも、もし、家族が今の約束を破った時には、尼僧に迎え入れてもらえるでしょうか」
「もろんだ、ミガーラ。あの家族が、結局は何も変わらず、同じことの繰り返しをするのならば、汝は出家するがいいでしょう」
その言葉に、ミガーラには、もう一度、あの家族の間で耐える勇気と、逃げ場所があるという安心が生まれたのだった。こうして、ミガーラは家に帰っていったのであった・・・・。


仏教では、耐え忍ぶことは修行であり、善いことである・・・とされています。しかし、それも場合によっては、修行にならないこともあります。ただ、耐え忍んでいればいい、というものではないのです。主張すべきことは主張しなければいけないし、やるべきことはやらねばいけないのです。

男女平等の世の中になったとは言いますが、女性は、働き場も少なく、賃金も低い場合があったりします。なかなか平等とはいかないようです。特に家庭内では、まだまだ女性の苦労は多いようです。
都会では、比較的に家庭内での男女平等は進んでいるようですが、地方では男尊女卑的な考え方が、根強く残っているようです。たとえば、このように・・・。
奥さんは家庭にいて家の中のことをしていればいい。
主婦には休みはない。
パートに出て、さらに家の中のことをして、子育てをして・・・・夫は協力してくれない。
夫の両親の面倒を見るのは、嫁の仕事。
夫は外で酒を飲んだり、遊んだりするが、奥さんは家で待っているだけ。
夫の言うことをきかなかったり、夫に逆らえば暴力をうける。DVの恐怖がある。
夫や家族の過干渉がうっとうしい・・・。
とまあ、こんな感じでしょうか。主婦の方に問えば、もっとある!とおっしゃるかも知れませんね。

こうした環境の中、奥様方は意外にも耐え忍んでいる方が多いのです。現代において、です。私は、ちょっと信じられないのですが、耐えて辛抱している奥さん方が、まだまだ地方には多く存在しているんですよ。その人たちは、皆こういいます。
「私一人が耐えて黙っていれば、家族が平穏に暮らせるから・・・・」
あなたは、奴隷ですか?、と聞きたくなります。
さらには
「耐えることは、いいことなのでしょ?。辛抱することは修行ですよね」
と尋ねてくる方もいます。これは、大きな勘違いですよね。

確かに耐えることは大切です。しかし、それには耐える意味、耐える意義、が必要でしょう。たとえば、この不景気の中、収入が少ないから、節約して貧乏に耐える・・・これは美徳でしょう。贅沢を慎み、今は節約をしよう、景気がよくなって、収入が増えたら、少しは贅沢ができるから・・・というような辛抱は大切です。
夫の両親や自分の両親の面倒も見なければいけないこともあるでしょう。子供の我がままに付き合わねばならない時もあるでしょう。それは、ストレスがたまることです。しかし、そうした辛抱や我慢、耐え忍ぶことは、奥さん一人ですればいい、というものではないはずです。いくら夫は外で働いている、とはいえ、奥さんだって家でやることはたくさんあるのです。主婦も大変な仕事なのですよ。
ですから、こうした辛抱や我慢、耐え忍ぶことは、家族がみんな協力し合ってするべきことなのです。奥さん一人が抱え込むことではないのですよ。

黙っていては始まりません。主張すべきことは主張しなければ、何も変わりません。自分が我慢していればいいんだ、という考え方は、あまりにも隷属的であり、人間性を欠いたものです。それは修行でも何でもありません。美徳でもありません。単なる、罪作りなだけなのです。
夫やその親、子供たちの理不尽な行為や言葉に、我慢する必要はありません。
「それはひどい仕打ちだ、夫婦間でも男女平等だ、男が上などという古い考えは捨てろ、そんなに威張りたいのなら、威張れるだけの器になれ!」
と声を大にして主張しましょう。そうでなければ、いつまでも最下級の身分となってしまいます。
合掌。


第103回
不注意な行動で取り返しのつかぬことになることもある。
それが、今その場に必要なことなのか、相応しいことなのか、
自分がやる立場にあるのか、よく考えてから行動せよ。
お釈迦様の弟子が、まだ数百人程度だったころのこと。そのころは、お釈迦様と弟子たちは、マガダ国の首都ラージャグリハの郊外にある竹林精舎に滞在し、修行をしていた。そこは、マガダ国の王、ビンビサーラが用意した精舎だった。お釈迦様たち修行僧は、その竹林精舎を拠点として、ラージャグリハへ托鉢に行ったり、王宮へ教えを説きに行ったり、また月に何度かの法話会を開いていた。
ある日のこと、旅姿の青年がラージャグリハの街で座り込んでいた。その青年は、腹を空かせて歩けなくなっていたのだ。彼は、修行僧が托鉢するのを見て、羨ましく思った。そこで、修行僧の一人について行って、竹林精舎まで来てしまった。
「食べ物を・・・・私に下さい」
その青年は、竹林精舎の修行僧に頼んだのだった。それがきっかけで、その青年は出家したのだった。出家してからの名前をビンドーラといった。
ビンドーラは、大食漢で、よくお釈迦様に注意された。
「ビンドーラ、食事は腹八分目にしておくことだ。それが身体のためにもよい。また、托鉢で食べ物が得られなくても、耐え忍ぶことだ。他の修行僧に食事をねだったり、食事をしている修行僧の周りをうろつくような、意地汚いことはやめなさい。自分は修行僧なのだという自覚を持つがよい」
ビンドーラは、何度も注意を受け、次第に大食漢を克服し、やがて悟りを得、神通力も身につけることができるようになった。その神通力は、後に神通力第一と称されたモッガラーナ(目連)尊者に匹敵するほどであった。
その後、お釈迦様たちはコーサラ国へ布教の旅に出た。コーサラ国では、スダッタ長者が精舎を用意してくれていた。それが祇園精舎である。しばらく祇園精舎に滞在したお釈迦様たちであったが、やがて再びマガダ国へと帰ることとなった。こうして、お釈迦様の布教活動の多くは、コーサラ国とマガダ国の往復と、その間に周辺の小国へ立ち寄るというものになっていくのである。

コーサラ国からマガダ国の竹林精舎に戻ってからほどないころのこと。マガダ国の首都ラージャグリハの街である大金持ちの長者が、高価な栴檀の木で鉢を作った。そして何本も何本も長い長い竹ざおつなぎ、その先端に籠をつけ、その籠に鉢を入れて高く空中に掲げ、
「さぁさぁ、バラモンでもいい、修行者でもいい、我こそは神通力の持ち主だ、というものがあれば、その神通力を使ってこの鉢をとってみるがいい。もし、見事神通力でこの鉢がとれたなら、その者にこの鉢を差し上げよう。いいかな、道具は使っては行かんぞ、神通力で取るのだ。さぁ、だれかできるものはいないかぁ〜」
と言ったのだ。
その声に多くの自称聖者がやってきた。が、誰もその鉢を取ることはできなかった。
「本物の聖者はおらぬのか。誰でもいいぞ、神通力が使える聖者よ、この鉢を与えるぞ」
この話は、ラージャグリハ中に広まっていった。

そのとき、たまたま托鉢中だったモッガラーナとビンドーラが、そのあたりを通りかかった。
「モッガラーナ尊者、今の声、聞こえましたか?」
ビンドーラがモッガラーナに話しかけた。本来、托鉢中は話をしてはいけないことになっているので、モッガラーナは、顔をしかめながら、短く答えた。
「聞こえましたよ」
「モッガラーナ尊者よ、あなたの神通力は素晴らしい。私は、以前より尊者の神通力は教団ではずば抜けていると思っています。どうですか?、あの鉢を取ってはもらえませんか?」
「いや、ビンドーラ尊者よ、私はあのような鉢は要らぬ。神通力というのなら、あなたの神通力もすごいではないですか。あの鉢が欲しければ、あなたがとればよろしいのではないですか」
モッガラーナは、興味はない、という顔をしたのだった。
「ほう、そうですか・・・、あのような見事な鉢を要らないとおっしゃるのですか・・・・」
ビンドーラは考えた。モッガラーナは、ちょっと眉をひそめたのだが、ビンドーラはそれに気付かなかった。そして、
「よし、では、私がいただくとしよう。他の誰も手に入れられないようだしね」
というと、空中高くに飛び上がったのだった。
「では、この鉢は頂くとしますよ」
ビンドーラは、空中でそう言うと、竹竿の籠の中の鉢を取り、その鉢を持った手を高々と上げ、そのまま空中を三周したのだった。
地上では、やんやんやの大拍手である。
「おぉ、素晴らしい、素晴らしい神通力だ。そのものこそ、聖者だ」
多くの者がそう叫んで、ビンドーラを囃したてた。
ところが、それを見ていた観衆の中に妊婦がいた。その妊婦はビンドーラがくるくる空中を飛びまわっているのを見て、驚き、怖くなってその場で倒れこんでしまった。そして、不幸なことに流産してしまったのだ。
あたりは騒然となった。誰かが、医者を呼んだ。誰かが、ビンドーラに
「神通力で救うことはできないのか」
と叫んでいた。ビンドーラも空中から下りてきて、すまなさそうに、その倒れている妊婦のそばに立っていた。そこへ、鉢を竹竿につるした長者がやってきた。
「みなさん、これは私どもが悪い。こちらの聖者の方には何の落ち度もない。さぁ、さぁ、みなさん、帰って下さい。この女性の方のことは私が面倒をみます。これはたまたま起きた不幸な事故です。さぁ、皆さんお引き取りを・・・・」
妊婦は、医者に連れて行かれ、一命は取り留めたものの、ショックのあまり、しばらく寝込んでしまったのだった。

ビンドーラは、思い足を引きずりながら竹林精舎へと戻った。早速、ビンドーラとモッガラーナがお釈迦様に呼び出された。
「いったい何の騒ぎがあったのか、説明をしなさい」
お釈迦様にそう言われ、モッガラーナがいきさつを話した。ビンドーラはモッガラーナの横で、うつむいて小さくなっていた。すべてを聞いたお釈迦様は、厳しい顔で言った。
「ビンドーラ、私は常々、修行僧は人々を救わねばならぬ、と説いてきたはずだ。それが人の命を奪うようなことをするとは・・・・。よいかビンドーラ、その行動が、その言葉が、その場に相応しいものかどうか、そのときに必要なことなのかどうか、それをする立場にあるのかどうか、よく考えたのか。ビンドーラ、答えてみよ」
ビンドーラは、涙をこぼしながら、もそもそと答え始めた。
「も、申し訳ございません。私は・・・・ついつい調子に乗って、とんでもないことをしてしまいました。私は何も考えていませんでした。この・・・・この栴檀でできた鉢が欲しいばかりに・・・・、神通力が使えないくせに聖者と名乗る者がいるからその中でいい格好をしたくて・・・・、愚かなことをしてしまいました。私は世尊の弟子で、みだりに神通力を使ってはいけない立場にありながら、使ってしまいました・・・・・・。決して、神通力を使っていい状況にないのに、神通力を使ってしまいました・・・・・。悔やんでも悔やみきれません・・・・」
「ビンドーラ、お前は教団の戒を破り、一つの命を奪ってしまった。この罪は大きなものだ。この責任をどうとればいいか、わかるね」
「はい世尊。私は、もはやこの教団にいることは許されないでしょう。すぐにでも、旅に出ます。山中深く籠って、一人で修業をします」
「そうだビンドーラ、お前の行く道は、それしかない。・・・・南インドに、小さな村がある。その村は昔より疫病で苦しむ人が多い。その村の近くには小高い山がある。お前は、その山に入り、修行せよ。そして、そのふもとの村の人々のために働くがいい。その村を救うことができぬ限り、輪廻を解脱し涅槃に入ることは許されない。肉体が滅びても、人々のために尽くすがよい」
お釈迦様は、厳しくそう言ったのだった。しかし、この言葉にビンドーラは救われたのだった。ビンドーラは顔をあげ、お釈迦様を見つめると深く頭を下げたのだった。
「ありがとうございます。これよりすぐに南インドの、その村の山に向かいます。その山で決して涅槃に入ることなく、多くの人びとを救うことを誓います」
ビンドーラはそういうと、早速手荷物をまとめて南インドに旅立ったのである。

「モッガラーナよ」
お釈迦様の言葉はまだ終わらなかった。
「精舎にいる修行者をすべて集めよ」
と命じたのだった。すべての修行僧が集まったのを見て、お釈迦様はビンドーラの行ったことと、その結果、不幸なできごとが起きたことを説明した。そして
「今後、みだりに神通力を使うことを禁ずる」
という戒律を決めたのだった。さらに
「モッガラーナよ、汝も何故ビンドーラを止めなかったのか。ビンドーラの性格はよく知っていただろうに。汝は、長老である。ビンドーラを止める立場にあろう。汝にも罪がある」
とモッガラーナを叱ったのだった。モッガラーナは、一週間の精舎の清掃活動を行うこととなった。
「よいか皆の者。調子に乗って我を忘れてはならぬ。常に自分の立場を考えよ。そして、自分の行動や言葉が、その場に必要なことなのか、その場に相応しいものなのか、自分が行なったり言ったりする立場にあるものなのか、よくよく考えてから行動にでたり言葉にすべきなのだ。不用意に行動したり、話をしたりしてはならぬ。考えなしの言動は、必ずや取り返しのつかぬことを招くことであろう。このことを決して忘れぬように」
お釈迦様は、いつになく厳しい目でそう言ったのだった。


お調子に乗って、ついついやり過ぎてしまったことはないだろうか?。
酒の席で、みんなと集まって楽しんでいるときなどに、ついつい調子に乗ってやり過ぎたり、言葉が過ぎたり・・・・っていうこと、よくあるのではないでしょうか。自分はしなくても、仲間内でそう言うことがあったとか、飲み会の席でそう言う場面に出くわしたとか・・・・。
結構、調子に乗って失敗してしまうことって、経験ありますよね。

それが、笑って済ませられことならば、それは構いませんよね。笑い話で終わりです。ところが、とんでもないことに発展しないとは言えないのです。
たとえば、接待の席でついつい調子に乗って言わなくてもいいこと、言ってはいけないことを口走って、大事な取引を壊してしまったとか、相手を怒らせてしまったとか・・・・。そうなると、もう後が大変ですよね。言っちゃってから青くなっても取り返しがつきません。時よ戻れ!と願っても叶うはずもなく・・・・ですね。

そうならないためにはどうすればいいのか。それは、いつも冷静でいることでしょう。大騒ぎしているときでも、ちょっと冷静になところが少しでもある、それが大事です。いれこまない、ことですね。
ほんの少しでも冷静なところがあれば、冷めたところがあれば、お調子にのるなんてことはないでしょう。心のどこかで必ずブレーキがかかるはずです。いれこまず、夢中になり過ぎず、ちょっと冷めてみる、それも必要なことなのでしょう。

自分が今、それをしていい状況なのかどうか、言っていい状況なのかどうか、まずは考えましょう。
自分が今、それをしていい立場にあるのか、言っていい立場にあるのか、考えましょう。
自分が今、それをすることが必要なことなのかどうか、それを言うことは必要なことなのかどうか、考えてみましょう。
そういう思いを持っていれば、調子にのることなく、いつも冷静でいられるものです。
どこかの国の政治家のように、不用意な言動で自らの首を絞めるようなことになっては大変ですからね。
合掌。


第104回
子どもを正しく育てることは親の責任である。
しかし、子供が自分の犯した罪科を親の責任にするのは筋違いである。
己の言動は、自分自身に責任があるのだ。

「罪人をこちらに連れてくるように」
裁判官の命に兵士が動いた。奥の牢獄から罪人を法廷に連れてくるのだ。法廷といっても、裁判官と数名の兵士がいるだけである。裁判官は、報告のあった罪状を見て、その罪人がどれほど重い罰を受けるべきかを言い渡すだけである。つまり、罪人は罰を与えられるのを待つだけであった。
しかし、その年から裁判官の仲間入りをしたツラーパタヤはほかの裁判官と少し異なっていた。
罪人がツラーパタヤの前に連れてこられた。
「私の名前はツラーパタヤという。そう、名前の意味は『秤の主』だ。私は、汝の罪と罪でないことを秤にかけるのだ。その上で汝の刑罰を決める。さて、まずは名前を聞こうか」
ツラーパタヤは、罪人に名前を聞いた。しかし、その罪人は横を向いたまま返事をしようとしなかった。
「もう一度聞く。名前は何と言うのか?」
兵士が棒で罪人つついた。
「ちっ、名前なんて聞かなくても、裁判官様はご存知だろ?。手に持っている書類に書いてあるはずだ」
「あぁ、これを見ればわかるよ。でも、私は汝の口から聞きたいのだよ」
ツラーパタヤは、にっこりとほほ笑んで罪人に言った。
「ふん、くだらねぇ。そんなことやってないで、さっさと刑罰を言ったらどうだ?。俺様はな、もう何度も同じことを繰り返してるんだ。だから、何とも思っちゃいねぇ。いいから、さっさと判決を言えよ。強制労働か?、まさか死刑はないだろうな。はっはっは・・・・」
「ふむ、なかなか面白い男だな。そんなに強制労働が好きなのか?。しかし、どうしてそんな罪を犯すような人間になったのかねぇ。そこが知りたいのだが・・・・」
「そんなことは、あんたの知ったことじゃねぇ。大きなお世話だ。まあ、いやぁ、育ちが悪かったのよ。親が悪かったんだな。よくある話さ」
「ほほう、確かによく聞く話だな。しかし、それだけだろうか?。汝が罪を犯した原因は、親のせいだけだろうか?。なぜ、罪を犯すような、そんな人間になったのか・・・・。それは、親のせいなのかな?。本当の原因は、実は違うところにあるのではないかな?。・・・・それを汝が理解しない限り、汝はまた同じことを繰り返すであろう。そうではないか?」
「あのなぁ、裁判官様よ、そんなことは俺はどうでもいいんだ。さっさと裁判を終わらせておくんなさいよ」
そういうと、男は大きなため息をついてニヤニヤ笑いながら、
「裁判官も暇になったもんだねぇ。それとも兵士たちがボンクラで、悪い奴らを捕まえられなくなったのかねぇ」
と言った。
「何を言うか!。お前は素直に名前を言えばいいのだ!」
兵士がいきり立って棒で男を打った。
「まあまあ、抑えて抑えて・・・。裁判官が暇なんだよ。兵士が悪い奴らを捕まえられなくなったのではないのだよ。汝は、長い間牢獄にいたから知らないのかもしれないが、このコーサラ国は平和になったのだ。罪人が極端に減っているのだよ。だから、私たちは暇なのだ」
その言葉を聞いて、男は怪訝そうな顔をした。
「お釈迦様のおかげなのだよ。お釈迦様は、本当に心から反省をしている罪人を出家させて、修行させているのだ。また、罪を犯しそうになる前に、お釈迦様のところに相談に行くものが増えてな・・・・。罪を犯すものがものすごく減っているのだよ。ひょっとしたら、お前さんが最後の罪人かもしれないぞ」
「お釈迦様・・・・ま、まさか・・・」
「私もお釈迦様の教えを受けているのだ。だから、その教えに従って裁判をしたいのだよ。それがお前さんたちのためでもあるし、私自身のためでもあるのだ。さぁ、つまらないことを言って、兵士に棒でたたかれても痛いだけで損だろう。素直に答えなさい。名前は何と言うのかね?」
ツラーパタヤは、穏やかにそう言った。

ツラーパタヤの穏やかさにはわけがあった。実は、彼は青年のころ・・・ほんの数年前のことである・・・・どうしようもないくらいの悪者だったのだ。
親は殴る、家のモノは勝手に盗み出し売り払う、暴れる、盗みは働く・・・・どうしようもないくらいの悪ガキだったのだ。
ある日のこと、ツラーパタヤは、ある商店に盗みに入ったところを街の警備にあたっていた兵士につかまってしまった。兵士につかまりながらも暴れていたツラーパタヤだったが、急におとなしくなった。兵士はあっけにとられていたが、その理由は簡単だった。お釈迦様がその場にいたのである。お釈迦様は、ツラーパタヤを悲しげな眼差しで眺めていた。そのれに気付いたツラーパタヤは、急に動けなくなったのだ。しかし、口だけは威勢がよかった。
「な、なんだっていうんだ。そ、そんな目で俺を見るな!。あ、あっちへ行け!」
ツラーパタヤの悪態にお釈迦様はやさしく答えた。
「何をそんなに怯えているのか。私は汝に何も危害は加えない。それほど怯えることはなかろう」
「う、うるさい!。や、やめろ!、見るな!、その目をやめろ!」
「私は何も見ていない。汝を見ているわけではない。だから、怯えなくてもいい」
「うわー、やめろー」
そう叫ぶと、ツラーパタヤは、気絶してしまったのだった。
しばらくして気がついたツラーパタヤは、たくさんの修行僧に囲まれていた。
「うわっ、な、なんだ、なんだお前らは・・・・。ここは、ここはどこだ?。地獄か?」
「ここは祇園精舎ですよ。地獄に修行僧はいませんよ。あぁ、私の名前はシャーリープトラといいます。間もなく世尊・・・・お釈迦様がここに来られるでしょう。楽にして待っていなさい」
「な、なんで・・・なんで俺がここに?」
「あなたは盗みをして、兵士につかまったのですよ。そのあと気絶をして・・・。で、ここに連れてこられたのです。気絶してよかったですね」
ツラーパタヤは、何が何だかよくわかっていなかった。そこにお釈迦様がやってきた。
「気がついたようだね、ツラーパタヤ。さぁ、話をしよう」
「お、俺に話かけるな!」
「何を怯えているのかね?。私たちは修行僧だ。修行僧は殺生はしない。汝の命を奪うようなことは決してしない。怯える必要はなかろう」
「お、怯えてなんかいない!」
「ならば、話をしよう。ツラーパタヤ、汝に聞く。なぜそんなに荒れるのか?」
ツラーパタヤは、横を向いてむくれていたが、お釈迦さまも微動だにせず彼の言葉を待っていた。根競べであった。
「・・・俺のせいじゃねぇ・・・。俺がこうなったのは・・・何もかもアイツラが悪いんだ・・・・」
しばらくして、絞り出すような声でツラーパタヤはぼそりと言った。
「アイツラとは誰のことかね?」
お釈迦様は淡々と尋ねた。
「アイツラ・・・・親だよ、親!。ロクに子育てもしないで、毎日毎日ふらふらとしやがって。オヤジは酒を飲んだくれてる。オフクロはどこへ行ったのやら・・・・。そんな家庭にいたら、ロクな人間は育たないだろ!。俺がこんな風になっても仕方がないだろ!」
「何を言っているのかわからないが・・・。親の出来が悪いのと汝が泥棒になったのと、どういう関係があるのだ?。親が泥棒をしろとでも教えたのか?」
「そんなことはいわねぇよ。親は・・・・オヤジは・・・・ちゃんと働け、働きさえすればコーサラ国は身分に関係なく、兵士にもなれるし、商人にもなれる・・・って言っていたさ」
「ならば、親のせいではあるまい?」
「何を・・・・わかってないなぁ・・・・あのね、そういう偉そうなことを言ってるくせに、自分はどうだっていうの?。そこに子供は反発するんだろ。偉そうなこと言っている自分はただの飲んだくれ。ほとんど働きもしないでさ。おかげでうちは貧乏のどん底だったんだよ」
「でも汝はここまで育ったではないか」
「ま、確かに育ったよ、育ったけど・・・・あぁもう・・・・。でもね、俺がこうなったのは親が悪いんだよ」
「なぜ、親が悪いのだ?。親が盗みをしろとでもいったのか?。食料品を盗んで来いと言ったのか?」
「だから、そんなことは言ってないって。あぁ、もういい。もうたくさんだ!」
「いやいや、たくさんではない。ここは大事なことだ。さぁ、教えてくれ。なぜ汝は盗みを働くような人間になったのだ」
お釈迦さまとツラーパタヤの問答は、何度も同じことを繰り返していた。
「だから・・・お釈迦様もわからない人だなぁ・・・・。何度も言うように、親の責任でしょ、子育ってって言うのはさ。俺がこうなったのは、親の育て方が悪かったからでしょ。だから、親のせいなの。わかった?」
「いや、わからぬ。親の務めは子育てにある。それはわかる。確かに、親は子供があれば、その子供が世間様に通用するように、世間に出てまっとうに生きていけるように、社会に適応できるように、育て上げるのが親の責任である」
ツラーパタヤは、うんうんうなずいていた。
「悪者を育てる親はいないであろう。たまに例外的にそのような親は存在するが、多くの場合、親は子供に対し、よき人であってほしいと望んで子どもを育てるものだ。だが、そのように子供は育たない場合もある」
「そうそう、それそれ、それが俺なの。だから、親の責任ね」
「否、そこは違う。それは親の責任ではない。親は、決して悪者を育てようとしてはいない。多少、方法論的に間違いはあったにせよ、良かれと思ってしたことのほうが多いであろう。ただ、それが裏目に出ただけである。それは親の責任というよりも、親の心を理解しようとしない、汝の責任もあるのではないか」
「意味がわからないんですけど」
「汝も大人であろう。もう立派な青年だ。やっていいこと悪いことの判断はつくであろう。悪いことをして、捕まって、親のせいにするのは筋が違わないだろうか?。悪いことをしたのは汝自身であろう。親がそれをしろと言ったのか?。盗みをしてでも生きて行けと教えたのだろうか?。盗みを働いたのは、汝自身の意思ではないのか。盗みを働くような人間になってしまったのは親の責任です、というのは単なる甘えであり、言い逃れにすぎない。汝の行動は、汝が決めたことであろう。盗んでいいか悪いかは、汝がよく知っていることであろう・・・・。
さて、では改めて聞こう。なぜそんなに荒れた生活を送っているのだ?」
お釈迦様の言葉にツラーパタヤの表情が変わった。彼はしばらく考え込んだのだった。

「・・・・働くのが面倒だったからです。働くよりも盗みをして生活をしたほうが楽しいからです。捕まるかもしれないという恐怖心も、いい興奮剤だったのかもしれません。まじめにこつこつと働くのがバカらしいからです」
「それは誰がそう判断したのだ?」
「俺自身です・・・。俺が決めて、俺のために盗みをしていました」
「そうだな。誰のせいでもない、自分自身の責任だな」
「はい、そうです」
「さて、盗みは正しいことかどうか。やっていいことかどうか、わかるかね?」
「わかるに決まっているでしょう。悪いことですよ。やってはいけないことです」
「では、なぜやってはいけないことをしたのだ?」
「だから、まじめに働くのは馬鹿らしいと思ったからです。俺に仕事をしろというのは無理ですよ。どんな仕事をしても長続きなんてしないし・・・・。つまらないんです。こんな俺になったのは・・・・」
「親のせいではないよ。自分自身のせいだ。辛抱して、堪え忍んで働こうとしなかったのは、自分自身のせいであろう。辛くとも頑張ろうと思うのは、親ではない、自分自身なのだ。辛抱が足らず逃げ出したのは、ツラーパタヤ、汝自身であろう。親ではない。親のせいにしているのは、自分で責任を取りたくないだけだからであろう。自分の無力さ、努力の足りなさ、無能さ、ダメ人間さを認めたくないからであろう。ツラーパタヤ、甘えるでない。いつまでも汝の行動を親のせいにするでない。汝の行動は汝自身で決めているではないか。親の育て方が悪かったから、などというのは単なる甘えであり、言い逃れなのだ。親がどうあれ、どのように生きていくかを決めるのは己自身なのだ。親が悪いのならば、自分はそうならないようにすればよいのだ。自分の言動を親のせいにするのは、筋違いである。今はそれがわかるね?」
お釈迦様の言葉に、ツラーパタヤは、大きくうなずいていた。
「はい、わかります。俺は・・・・自分のダメさを自分の責任とは思いたくなかった。それを認めてしまえば、俺は本当にダメな人間になってしまいそうだったから・・・。怖かったんです。だから、親のせいにして逃げていた。本当は、そうやって逃げている自分自身が一番弱くてダメなんですね。よくわかります・・・・」
「そうだ。自分の弱さ、無能さ、ダメさを心から素直に認めてしまえば、人間はやり直しができる。自分のダメさを親のせいにしたり、他人のせいにしたりするうちは、成長は望めない。よいかツラーパタヤ、汝は今、自分の無能さ、愚かさを悟った。ならば、いくらでもやり直しができる。汝に足りないのは努力する姿勢である」
「はい、よくわかりました・・・・。でも、俺は何をすればいいんでしょうか?」
「世の中の罪人は、汝のように己の犯罪の原因を親の育て方が悪かったといって、親のせいにしたがる者が多い。しかし、必ずしも親のせいばかりではないのだ。己の行動の原因は、己自身にあるのだ。それが分かった汝は、そのことを罪人に伝えるがいい」
「でもどうやって・・・」
「裁判官になればよいではないか。このコーサラ国は、身分に関係なく、優秀な人材を宮中の役人に取り立てている。汝にもその機会はあるのだ。自分の経験を生かせばよいではないか」
「お、俺に裁判官なんかできるのでしょうか・・・・」
「努力すればできるであろう。汝にはその力がある」
ツラーパタヤの顔は希望に輝いていたのだった・・・・。

こうしてツラーパタヤは、裁判官になったのであった。
「そういうことがあったのだよ。この私も、昔は悪いことをしたことがあるのだ。さて、改めて聞こう。汝の名前は何というのか?」
ツラーパタヤの穏やかな裁判が始まったのであった・・・・。


「どうしてあんなことをしたのだろうかねぇ、親の育て方が悪かったのじゃないのかねぇ」
TVで犯罪などの報道が流れていると、このような言葉をよく耳にします。あるいは、若者のちょっと変質者的な事件があったりすると、
「親の育て方が悪いんじゃないか」
とよく言いますよね。また、暴走族や不良たちを見ると
「親はなにをしてるんだろうねぇ」
「ああいうのは、親の育て方がいけないのだろうね」
などと口にしたります。
確かに、子供たちの品行が悪いと親の責任は問われます。あるいは、一般常識がないと「お里が知れる」とか「育ちが悪い」などと親の育て方が悪いのだ、と世間は判断します。実際に、育て方が悪い親もいるし、子供を教育しようとしない親もいます。それは事実でしょう。
しかし、悪いのはすべて親なのでしょうか?。

子どもを間違った方向に育てたい、と思う親は滅多にいないでしょう。できれば世間で笑い物にならないように育って欲しい、と願うのは親の共通した思いではないかと思います。もちろん、例外はありますが、それは特殊な例でしょうから、省きます。あくまでも一般論ですね。
そう、親は子供を悪意を持って育てようなどとは思わないのです、普通はね。

ですが、子供側はなかなかそうは思ってくれないものです。親は一生懸命に育てているつもりでも、子供には響いていない場合もあります。そんなとき、子供は
「親のあなたたちがしっかりしていないから、こんな風に育ってしまった!」
と親にあたったりします。よく聞く話ですよね。
でも、本当にそれだけなのでしょうか?。本当に親のせいだけなのでしょうか?。

いくら親が悪くても、子供自身がしっかり考え、世の中をよく観察し、自分自身で判断をするようになれば、案外子どもはしっかり育っていくものです。親の手を借りずに、子供自身が自分の言動を判断するようになるのです。否、本来ならば、ある程度の年齢になったなら、親に甘えずに自己責任で自分のことを決めていくべきでしょう。

「親のあなたたちの育て方が悪かったから、私はこんな風なんだ!」
と親のせいにして泣き叫んだり、八つ当たりするのは、単なる甘えです。自立していない証拠ですね。自分のことは自分でよく考え、自己責任で行うべきなのです。
いい年をして、
「お母さんが悪い、お父さんが悪い」
など言うのは、いただけません。いい加減に自立したらどうですか、と言いたくなりますよね。大人の仲間入りの年齢に達したら、親のせいにするのも卒業しましょう。自分の言動は、自分で責任を持つべきなのです。
合掌。


第105回
正しく見るとは如何なることか。
欲望や願望、私情を含めず、周囲の意見に左右されず、
ただあるがままに見ることである。
正しく見ることができれば、人や物事の本質がわかる。

お釈迦様の故郷カピラバストゥは、子供たちの教育に熱心な国であった。その熱心さは他国も聞こえ、近くのコーサラ国はもちろんのこと、遠くのマガダ国や他の小国からもカピラバストゥに留学する子どもや青少年が多くいた。
パンジュカもその一人であった。彼は、15歳からカピラバストゥに留学していた。インド南方の小さな国からはるばるカピラバストゥにやってきたのであった。
当時、インド南方は気性の激しい民族の国が多く集まっていると恐れられていたが、その反面、蔑まれてもいた。田舎者、とバカにされていたのである。パンジュカも当然のことながら、陰口をたたかれていた。しかも、彼は優秀であったため、陰口は単なる陰口に終わらなかった。
「どうもあのパンジュカは目障りだ」
そう言ったのはカピラバストゥの青年であった。
「あぁ、田舎くさいし野蛮なにおいがする。ああいう者は都会に来てはいけないのだ」
そう言ったのはコーサラ国の貴族の青年であった。
「ちょっと勉強ができるからと言って、それを鼻にかけ威張ってやがる。イヤなヤツだ」
「教師も嫌っているっていう話じゃないか」
「あぁ、教師の間でも早く国へ追い返したほうがいいという話が出ているそうだ」
「でも、反対している教師もいるらしい」
「確かに、パンジュカは優秀だからな」
「だからなんだ。俺はあの人間は嫌いだ。俺は認めない」
「優秀であろうと、人当たりがよかろうと、嫌いなものは嫌いだし、だいたいあの国の出身で礼儀正しい人間などいない。あいつの国は野蛮な民族なんだ。あいつも一皮むけば野蛮人だ。我々とは身分が違うのだ」
「そうだそうだ。あいつは国へ帰すべきだ」
カピラバストゥに学ぶ青年たちの多くは、パンジュカを差別していたのであった。
そんな中、一人の青年が言った。
「そうだろうか。パンジュカはそんなに悪い青年だろうか?」
「何だお前は。それはどういう意味なんだ」
パンジュカを目の敵にしている青年たちが、一人の青年に詰め寄った。
「お前、あのパンジュカの味方をするのか?」
「いや、そうじゃないさ。味方とか敵とか、そんなことを言っているんじゃないよ。そういう差別的な見方をしないほうがいいんじゃないかと、そう思って・・・・」
「差別的な見方?。何を言ってるんだ。俺たちは、公平な目で見ていっているんだぞ。どう考えたって、パンジュカは野蛮国の出身なんだ。これは事実なんだ。だから、彼は野蛮で低俗な人間なんだよ。そんなことは常識だろう」
「そ、そうかなぁ・・・。野蛮な国出身だからと言って、野蛮な人間とは限らないと思うけど・・・・。そ、それに・・・」
「それに何だ?」
「それに・・・どう見ても、彼は礼儀正しいし、勉強はできるし、僕らに迷惑をかけたことなどない。いつも清潔な身なりはしているし、人当たりもいい・・・。なのにどうしてパンジュカを排除しようとするのか?」
「お前、どこに目を付けているんだ?。パンジュカが礼儀正しいって?。あれは、我々のモノマネをしているにすぎないんだよ。学校から帰れば、みっともない服装や態度になっているに決まっている」
「そ、それを見たのか」
「見なくてもわかるよ。当たり前だろ」
多くの青年たちが、パンジュカを擁護した青年を取り囲み、その青年に食ってかかっていた。やがて、その青年も何も言わず、ただ首を横に振るだけだった。
「もういいよ。僕にはよくわからなくなった。誰が正しいことを言っているのか、よくわからない」
「正しいことを言っているのは、我々さ」

学校内でこうしやり取りが日常的にあることを当の本人であるパンジュカは、よく知っていた。しかし、直接何かされるわけでもないので、何も言わずに黙っていた。ただ、誰一人彼に話かけるような者はいなかったのである。
「田舎出身というだけで、僕に対する風当たりは思った以上に強い・・・・。なぜ、出身地が田舎だからというだけで、僕という人間を野蛮だと決めつけるのだろうか・・・・。なぜ僕という人間を見てくれないのだろうか・・・。それとも、やはり僕は、カピラバストゥに集まってきた彼らたちから見ると、野蛮な人間に見えるのだろうか・・・。そうとは思えないのだが・・・・・・」
パンジュカは一人悩んでいた。
実際、教師の中にもパンジュカを嫌っている者もいた。田舎出身のくせに妙に成績がいいのが、鼻もちならないのだ。成績が優秀な者は、コーサラ国やマガダ国の王族関係出身の者か、または教育熱心な釈迦族の者でなければならない、と決め込んでいるのだ。だが、パンジュカは彼らよりもかなり優秀だったのだ。そのことで、パンジュカを目の敵にする教師もいたのである。
やがて、青年たちが学ぶ教室は、険悪な空気が漂い始めていたのだった。そして、ついに教師の一人がパンジュカを責め始めたのだった。
「パンジュカ、君がいると授業がはかどらない。そろそろ国へ帰ったらどうだ。そうすれば、礼儀正しいふりをすることもないし、慣れない都会で窮屈な暮らしをする必要もない。背伸びをする必要はないのだ。偽善的な態度もする必要もない。君は君本来のままでいられるのだ。どうだ、国へ帰らないか」
パンジュカは、こうした空気にいい加減に腹が立ってきていた。
「お言葉ですが、私は偽善者ではありません。礼儀正しいふりをしているのでもありません。都会の生活に慣れていないこともありません。背伸びもしていません。これが私本来の姿です。無理をしているわけではありません。あなたたちこそ、身分が高いのを鼻にかけ、正しい礼儀作法も行わず、ただ威張っているだけでしょう。本当にあなたたちが優秀ならば、私の本質を見抜けるはずです。ましてや、あの仏陀であらせられるお釈迦様は、この国の出身ではありませんか。あなたたちも少しは仏陀様の教えを守っているのかと思いきや・・・・。がっかりしましたよ」
「な、何ということを!。お前のような低い身分の者が、仏陀の悪口を言うとは!」
「あぁ、なんとい愚かしいことでしょうか。私は仏陀世尊の悪口など一言も言ってませんよ」
「言ったではないか!」
教師は顔を真っ赤にして怒り出したのだった。また、周りの生徒たちもパンジュカを責め始めていた。教師と生徒によるイジメであった。

「いい加減にしてはどうかね」
そのとき、よく通る声が大きく響いた。声したほうをすべての者が振り返った。そこには、弟子を数名引き連れたお釈迦様が立っていたのであった。
お釈迦様は、教師を指さし厳しい表情で言った。
「いい年をした大人が、一人の青年を理不尽に責めるとは・・・・嘆かわしいことである。これが私がかつて学んだ釈迦族が誇る教育の場であろうか」
その声に、教師の顔は見る見るうちに青ざめたのであった。
「私はいつも説いているであろう。まずは正見(しょうけん)せよ、と。正しく物事を見ることから始まると。これが正しく物事を見た結果であろうか?」
「お、お言葉ですが・・・・私たちは、いつも世尊の教えを守り、物事を正しく見ております」
「愚かなことよ。正しく物事を見るということが分かっていないようだ・・・・。では、尋ねよう、汝はこの青年を正しく見て、この青年に国へ帰れと言っているのか」
「も、もちろんです。私はパンジュカを正しく見て、国に帰れと言ったのです」
「正しく見た結果はどうであったのか?」
「はい、パンジュカは無理をしているであろうと・・・。都会の礼儀を知らず、必死に背伸びをして他の青年たちについていこうとしているのです。その態度は偽善的で、他の青年たちに悪影響を及ぼすのです」
「愚かな者よ。あぁ、愚かな者よ。それで教師とは・・・・。いったい何を学んできたのか。それで大人であるとは、いたずらに年をとったにすぎぬ愚か者よ。汝の目は腐っているのか」
お釈迦様の口調はいつになく厳しいものになっていた。
「このパンジュカが無理をしているように見えるのか?。この者は、作法に則った礼儀を知っている者だ。したがって、何も無理はしていない。背伸びをしていることもない。偽善的でもない。むしろ、他の青年の悪影響を受けずに、大変純粋でいられることが喜ばしいことであろう。愚か者よ。汝、正しく物事を見ないがゆえに、この青年の本質を見誤っているのだ。この者が南インド出身であるということだけで、偏った見方をし、学生たちの噂話をうのみにし、私情をはさんだ目で彼を見ているのだ。だからこそ、そのような判断しかできぬのだ」
お釈迦様の厳しい叱責に、教師は言葉がでなかった。お釈迦様は続けた。
「汝にさらに問う。正しく見るとは如何なることよ」
教師は、何も言えず下を向いてしまった。

「若者たちよ、汝らでもよい。答えられる者はいないのか」
お釈迦様は、教室の中を見回しながらそう言った。しばらくして一人の青年が手を挙げた。それはパンジュカであった。
「正しく見るとは、己の感情や欲望、願望をはさまず、またうわさ話などの他からの影響を排除し、ただそのもののあるがままを見ることだと思います」
その答えにお釈迦様はほほ笑んだ。
「その通りだ、パンジュカ。正しく見るとは、私情をはさまず、こうであってほしい、ああであってほしい、こうに違いない、そうに違いない、といった願望や欲目をすべて排除し、また周囲の意見に惑わされず、その人物や物事、できごとなどの現象をあるがままに見ることである。パンジュカ、君は正しい。
さて、皆の者よ。君たちはどういう目でパンジュカを見ていたであろうか。パンジュカを正しく見ていたであろうか。よく考えるがよい。よく考えて、己が間違っていたと理解したならば、素直に懺悔し、これよりは正しく物事を見ることを心掛けるがよい」
そう言い残してお釈迦様は弟子を引き連れ、去っていったのであった。

しばらくして、教室にいた青年たちは、パンジュカに謝罪をしていた。自分たちの見方が間違っていたことを素直に認めたのであった。ただ、教師一人だけが、怒りの顔をしたまま、黙って去っていったのであった。お釈迦様は、そのことを神通力で知って、
「救いのない愚かな者よ・・・・」
と嘆いていたのであった。


皆さんは、正しく物事や人物を見ているでしょうか。
人間には感情があります。好き嫌いもあります。したがって、特に対人関係においては、感情を交えた人物評をしてしまいがちです。
「あの人は、なんとなく嫌い。だから、あの人の持っているものすべてが嫌い」
「あの人に限って、そんなことをするわけがない」
好きなものに対してはひいき目で見ますし、嫌いな者に対しては、その人物に関するものすべてに嫌悪感を感じます。坊主憎けりゃ袈裟まで憎い・・・ですね。
また、周囲の評価やうわさ話によって、知らず知らずのうちに、よく知りもしない人間の価値判断をしてしまうこともあります。つまり先入観を持って、相手を見ることになるのです。

こうした感情や欲目、願望、先入観を持っていると、正しい人物評価や物事への評価はできません。色眼鏡をかけて人を見たり、物事を見たりすることになるのです。
たとえば、投資などの詐欺事件もそうでしょう。
あの有名人が宣伝をしているのだから、という先入観。
儲かるらしい、という欲望や願望。
これらが邪魔をして、正しい判断を狂わせ、セールスマンの巧みな話術にはまってしまうのです。これが、先入観もなければ、儲けたいという欲も願望もなければ、怪しい話だ、ということに気づくでしょう。正しく物事を見ることができるのです。

あるがままに物事を見る。あるがままに人物を見る。何の感情も欲望もひいき目も、願望も、先入観も含めず、そのものをそのままに見る。それがお釈迦様の説かれた正見です。これができるようになれば、自分のお子さんも、彼氏・彼女選びも、セールスマンの話も、怪しい宗教者の話も、霊能者の話も、見誤ることはないし、世の中のこともよく見えることになるでしょう。
こうであってほしい、こうであるといいな、私はこう思うんだけど、好き・嫌いなどなど、己に感情を入れないで、物事や人物を見るようにしたいですね。そうすれば、きっとそのものや人物の本質が見えてくるのです。本質が見えれば、迷いもなくなることでしょう。
合掌。


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