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第113回
何度、同じ過ちを繰り返すのか。
以前の過ちを生かせなければ、進歩がない。
それでは救いようがないではないか・・・・。

「大変です、大変です、助けてください、お釈迦さま〜」
大声で祇園精舎に駆け込んできたのは、コーサラ国の兵隊長の妻ユガーラだった。
「主人が、主人が暴れて・・・・」
ユガーラは泣き叫びながら走ってきたのだ。それは祇園精舎の修行者たちも眠りにつこうかという夜遅くだった。
「こんな時間に・・・・困りますよ、静かにしてください、ユガーラさん!」
祇園精舎の門番をしていた若い僧は、そのようにユガーラを止めたのだったが、それを振り切ってユガーラは大声で泣き叫びながら奥へと走っていったのだった。
「いい加減にせぬか!」
大きな声ではなかったが、重々しい声が響いた。それはお釈迦様だった。
「落ち着くのだユガーラ。深呼吸をして・・・・そうだ。まずは落ち着きなさい。誰か、水をユガーラにあげなさい」
お釈迦様の言葉にアーナンダが鉢に入れた水を持ってきた。ユガーラはその水を一気に飲み干した。
「さぁ、落ち着いたら、何があったか話してみなさい」
お釈迦様は優しくそう言った。ユガーラは深呼吸を数回すると、ようやく落ち着きを取り戻した。
「はい、はい・・・・、もう大丈夫です。すみません、お釈迦様・・・こんな時間に・・・・。でも、明日までとても待てなかったんです・・・・・」
「そのことはよろしい。もう来てしまっているのですから。それよりも、今日はどうしたのいうのですか?。今度は、いったい何があったというのですか?」
ユガーラが精舎に駆け込んで来たのは、今回が初めてではなかった。これまでに何度もあったのだ。それも時間帯はまちまちで、この日のように夜遅くもあれば、昼間や夕方、ひどい時には明け方、という時もあった。その都度、お釈迦様も他の修行者も、嫌な顔を一つせず、ユガーラの対応をしたのだった。
「はい、あの・・・・・、主人が暴れて・・・・・」
よく見ると、ユガーラの顔はやや腫れていた。
「御主人に殴られたのですか?」
「はい、外から帰ってくると急に暴れて・・・・。私は殴られ、息子も殴るけるの暴力を受けて・・・・、それで、それで・・・・、息子が出て行ってしまったんです。家を飛び出してしまって・・・・・あぁぁぁ、あぁぁぁぁ」
ユガーラは再び泣き始めたのだった。

ユガーラが泣きやむまでお釈迦様は待った。ようやく泣きやんだユガーラは事情を話し始めた。
「主人が家に戻ると、なぜか主人は息子の部屋に行きました。息子は相変わらず働きもせず、だらだらと毎日を過ごしています。それが気にらないんです。いつもいつも主人はそのことでイライラしていました。その日も、息子の部屋に行った主人は、『お前なんか出ていけ、働きもせず、だらだら過ごすやつは家から出ていけ』と叫んで、息子を蹴り飛ばし、殴り、放り投げたのです。私は止めに入ったのですが、『お前が甘やかすから悪い』と罵られ、息子と同じように殴られたのです。息子は、それを見て・・・・家を飛び出してしまったんです」
お釈迦様の横で話を聞いていたアーナンダが
「またですかぁ・・・・」
とうんざりした顔をした。そなのだ、これはその日に限った事ではなかったのだ。ユガーラが精舎に駆け込んでくるときは、ほとんどがユガーラの主人ヤトナーの暴力で息子が家出をした、という話だったのだ。

ユガーラの話には嘘はなかった。真実、ヤトナーは息子に暴力を振るうのだった。それは、息子が幼いころからのことだった。そのためか、息子は大人に対し強い恐怖心を抱くようになり、家から出られないようになっていたのだ。
初めてユガーラがお釈迦様に相談をするために精舎に駆け込んで来た時、お釈迦様は息子に出家を勧めた。しかし、息子はその時一歩も外に出られなかった。無理やり連れて行こうものなら、舌を噛んでしまうというほどの状態だったのだ。お釈迦様は、息子に時間をかけて外に出ればいいと諭した。それ以来、ユガーラの家に托鉢するたびに、息子の状態を見ていたのだ。また、ヤトナーにもよくよく注意を与えていた。暴力では何も解決しないこと、幼いころからの虐待が息子をひきこもりの状態にしてしまったこと、その責任はヤトナー自身にあることを、こんこんと説いてきた。
しかし、ヤトナーの暴力はやまず、ついには息子を追いだすようになってしまった。そして、息子も家出を繰り返すようになったのだ。
ヤトナーが暴力をふるって息子が家を出る。そのあと、ヤトナーは自己嫌悪に陥り、暴れてユガーラを殴ったり自分自身を傷つけたりしたのだった。そして、息子が家を出るようになってからは、ユガーラはそうしたことが起きると、必ず精舎まで駆け込んでくるのだった。お釈迦様が滞在している・いないに関わらず、もう何度も同じことがあった。お釈迦様がいないときは、長老が対応するのだが、正直困り果てていたのだった。
なので、アーナンダは「またですか」と言ったのである。

アーナンダを横目でにらみ、たしなめたお釈迦様は、
「また、同じことなのか?。ヤトナーが暴れて息子を殴り、蹴り・・・・そして息子は家を出た。前回も前々回も、その前も、2〜3日で息子は帰ってきたが、それまでは待てないのかな?」
「待てません!。もしかしたら今回は帰ってこないかもしれないじゃないですか」
「ヤトナーはどうしている?。相変わらずか?」
「はい・・・・相変わらず、俺が悪かった、俺が間違っていた、早く息子を探して来い、早く探せ!・・・と・・・・・」
「ユガーラ、これで何度めですか?」
「えっと・・・・・」
「これで6度目です。私がいない時を含めると、10回は越えているでしょうか。あなたたちはいったい・・・・」
お釈迦様も流石に溜息をついたのだった。
「今から家に戻り、ヤトナーを連れてきなさい」
お釈迦様はユガーラにそういい、彼女を家に戻した。

しばらくして、ユガーラとヤトナーが泣きながらお釈迦様の前にやってきた。
「なんとかしてください。息子を見つけてください。お釈迦様お願いします」
ヤトナーは、そう泣きついてきた。
「お釈迦様の言う通りにしてきたのに、息子は・・・息子は・・・ちっとも働こうとしません。お釈迦様はいつも様子を見るだけにしておけというが、それじゃあ息子は立ち直れないんですよ」
「だから暴力でいうことをきかせようとしたのか、ヤトナー」
お釈迦様は強い口調でそう言った。
「ヤトナー、何度も言うが、息子を立ち直らすためには時間がかかるのだ。そもそも幼いころからの汝の暴力があのようにしてしまったのだ。それをなおすために暴力を振っては、何の意味もない。それどころか悪化させるだけだ。何度、そのことを汝に話したであろう。汝は何度同じ過ちを繰り返せば気が済むのだ!」
いつになく、お釈迦様の口調は強かった。
「そうは言っても・・・・他の家では、どこの息子も働いているし・・・・・」
「そのような比較は意味がないことだ。なぜ待てないのだ。まぜ見守ろうとしないのだ」
ヤトナーは答えられなかった。

「帰ってくるでしょうか?。どこに行ってしまったのでしょうか?」
ヤトナーは、小声でそう言った。
「そんなに心配なら、なぜ追い出すようなことをしたのだ?」
お釈迦様は質問した。
「自殺なんてしてないでしょうか?」
「質問しているのは私だ、ヤトナー」
再びヤトナーは口を閉じた。
「いいか、ヤトナー。いい加減に自分が悪いということを認めよ。自分の感情を抑えることをしなさい。なぜ暴力をふるう?。それは自分の感情を抑えられないからであろう?。なぜ、何度も同じことを繰り返す?。それは、本当に自分が悪いと思っていないからであろう。心の底から反省していないからであろう。よいか、ヤトナー。今回でいったい何度目なのだ。何度同じことを繰り返しているのだ。何度私から同じ注意を聞いているのだ。私は、同じ注意を何度繰り返した?」
ヤトナーは答えられなかった。
「よいか、ヤトナー。汝が私の教えに従わなければ、汝が進歩しなければ、汝が反省をし、以前の過ちを繰り返さないように努力しなければ、何も進展はしないであろう。同じことばかり繰り返していては、一歩も前に進めないであろう。それでは、私は何も言うことはなくなってしまう。それでは、いくら仏陀であろうとも、救いようがないではないか。同じことを繰り返さないように、初めの一歩を進みだすのは、汝なのであって、私ではないのだよ。先に進むのは、汝であって私ではないのだ。それとも、私に足を持たせて、前に進ませよというのだろうか?。そこまで汝は仏陀に甘えるのであろうか?。
ヤトナー、自分の足は自分で動かすものなのだ。誰かに足を持ってもらって進めてもらうものではないのだよ。自分で動かなければ、自分で進もうとしなければ、何度も何度も同じことを繰り返すだけなのだ。それは、単なる愚か者である!。そんな者は、もはや救いようがない!」
お釈迦様は、きつく言い放ったのだった。

夜は更けた。真夜中である。ヤトナーとユガーラはとぼとぼと家路を歩いていた。ヤトナーは文句を言い続けていた。
「ちっ、何がお釈迦様だ、何が仏陀だ・・・・。何もできねぇじゃねぇか。誰も何もしてくれねぇ。俺だって好きで暴れるわけじゃねぇ。自分が抑えられねぇんだ。仕方がねぇじゃねぇか・・・・。くっそ、誰もかれも・・・・勝手なことばかり言いやがって・・・・・何が仏陀だ、くっそ〜、何が自分で歩けだ、そんなことはわかっているよ」
ぶつぶつ言いながら家まで戻ると、そこには息子が立っていた。ヤトナーは、思わず息子に殴りかかろうとしたが、ユガーラが身体を張って止めたのだった。
「あんた、もういい加減にやめてくれ!」
そんな二人を見つめて息子はいった。
「これからお釈迦様のもとへと行く。出家するんだ。もう二度とあなたたちには会わない。縁を切るよ。そうしないと、お父さん、あなたはまた罪を犯し、苦しむだろうから・・・・・」
そう言い残し、息子は祇園精舎の方向へと駆け出したのだった。息子の言葉にヤトナーは、
「あぁ、俺がすべて間違っていたんだ・・・・・」
と泣き崩れたのだった。


同じことを何度も何度も繰り返す方がいますよね。同じ失敗、同じ内容の相談、同じ過ち・・・・。そういう場面に出くわすたびに、ホント、人間って進歩しないんだなぁ、と実感します。
典型的な例がありますよね。そうそう国会。日本の政治。まったく、毎度毎度同じことの繰り返し。ホント、嫌になりますよねぇ。彼らは、いったい何者なのだろうか?、と思います。
何年たっても、日本の政治は
「政治と金」
の問題でバタバタと騒いで、な〜んにも前に進んでいきません。いったい、いつになったら庶民の暮らしは楽になるのでしょうか?。

女性や男性に何度も騙されるっていう人もいますよね。
「えっ、また貢いでいるの?。結局は逃げられるよ」
という話、よくありますよね。本当に、最後はその相手に逃げられるんですね、これが。
「いったい何度目?、もういい加減にしたら」
と言うのですが、これが止まらないんですねぇ。そんな人に相談されても、こっちは困っちゃうんですよね。
だいたいそのような人は、わかっていて騙されているから始末が悪いんですな。まったくもって、何度も何度も同じ過ち、失敗を繰り返されると、いい加減、イヤになります。

何度も何度も同じ過ちを繰り返し、同じ失敗を繰り返し、ち〜っとも進歩しない人。こういう人は、愚か者、としか言いようがありません。以前の過ちや失敗を反省し、二度と同じ過ちを繰り返さないようにするのが、智慧ある者でしょう。それがどうでしょうか?。人間は何度も同じ過ちを繰り返し続けるのです。
仏の顔も三度、そういいますよね。お釈迦様だって、三度までしか許してくれないんですよ。三度までしか、同じ過ちや失敗を許してくれないんですよ。このままでは、お釈迦さまからも見捨てられてしまうんじゃないでしょうか?。

そうそう、ちなみにですが、馬は同じ場所で二度は転ばないそうです。一度転んだ場所で、二回転ぶ、ということはないそうです。同じ場所、同じ状況で、二回目、三回目と転ぶのは、人間だけかも知れません。
あぁ、なんと愚かしいことでしょうか?。
みなさん、くれぐれも、同じ過ち、同じ失敗を繰り返さないように、学習能力を高めましょう。決して、日本の政治家のようにならないでくださいね。
合掌。


第114回
日頃、立派なことやわかったようなことを吹聴し、
周囲に大きな態度を示している者ほど、いざとなると弱い。
真実を知る者は威張ることなく、穏やかに過ごすものである。
マガダ国とコーサラ国の間のバラナシは、交通の要所であり、商業が発展していた。訪れる人や滞在者も多く、街は賑わっていた。
カダは、バラナシでは中くらいの商店主であった。大国にいるような大きな商業者ではなかったが、バラナシでは裕福なほうであった。彼は、食品を主に手がていた。
カダは、熱心な仏教信者であった。そう周囲から思われていた。と言うもの彼は日頃から
「仏陀に布施をしていれば徳が積めて、暮らしも楽になる。豊かな心になれるのだよ」
「仏陀世尊のいうことをよく聞いて、忠実にまもり、こつこつと勤めていれば、幸せは掴めるものなのだ」
とバラナシの人々に事あるごとに話をしていたからだ。
というのも、彼自身、仏陀に救われたようなものなのであった。

カダは、若いころ宝石加工の職人に弟子入りしていた。しかし、その職人はなかなか意地の悪い職人であったため、カダの独立を認めないのはもちろんのこと、いつまでもいい使い走り程度にしか扱っていなかった。カダはやる気を無くしていた。そんなある日のこと、カダは職人を殴り飛ばし、工房をめっちゃめちゃにして、店を飛び出してしまったのだった。
カダは死ぬつもりで、街を歩いていた。バラナシの街はそう大きくはない。半日もあるいていれば、街はずれの河にでる。カダは河沿いをぶらぶら歩いていた。
「まだまだ若いのに、人生を捨てるつもりか」
カダに声をかけたのはお釈迦様であった。お釈迦様はカダが死ぬつもりなのを見抜いていた。カダはお釈迦さまから逃げようとしたが、足がすくんでしまい、思うように走れなかった。しかし、
「生きていても仕方がないんだ」
とお釈迦さまに向かって叫んでいた。お釈迦様は、そんなカダに、まだまだ可能性があることや、一度躓いたくらいであきらめてはいけないことを説いた。カダはお釈迦様の言葉を熱心に聞いたのだった。そして、カダはもう一度やり直すことを決意したのだった。
彼は、ヴァイシャリーの街へと流れていった。そこで、食料品を扱う店で奉公を始めた。しばらくすると、彼はお客の間で人気者になっていた。カダは職人よりも商売人に向いていたのだった。カダのおかげであっという間に店の売り上げはあがっていった。数年後、その店の主人は、カダに独立を勧めた。
「それなら、故郷で店を持ちたいのですが・・・・」
こうして、カダはバラナシに帰って来て店を持ったのだった。

カダの店はすぐに順調にいったわけではなかった。なかなか売り上げは伸びなかった。
「ヴァイシャリーのようなわけにはいかないなぁ・・・。あぁあ、俺ってダメだなぁ・・・・」
やがてカダは再び、腐り始めていたのだった。そんなときである。また仏陀に会う機会があったのだ。
その頃、仏陀はバラナシの郊外の果樹園に多くの弟子と滞在していた。その果樹園は、バラナシの遊女が持っていたのだった。その遊女は、
「毎年、仏陀やお弟子さんたちに滞在してもらうせいか、果実の実りがとてもいい」
と街の人々に話をしていた。それをカダは聞いたのである。
ある日のこと、果樹園にいる仏陀の元へカダは急いだ。そして、
「もし、仏陀に施しをすれば、それはよい結果として戻ってくるものなのでしょうか」
と質問したのである。考えてみれば、失礼な質問であった。見返りがなければ施しはしない、と言っているようなものであるし、決して信心から施しをしようというものではないのだから。
それでも仏陀は注意することもなく
「聖者に施しをすれば、幸が得られるということは昔から言われていることだ。それは仏陀に限ったことではない」
と答えたのだった。カダは、納得して帰っていった。

翌日から、カダは仏陀と弟子たちに、売れ残った食料品を施すことにした。売れ残りと言っても、食べられないわけではない。カダは、毎日のようにせっせと仏陀の元に通ったのだった。
やがてそれは評判となり、街の人々はカダとは一体どんな人物なのか、店に見に来るようになった。店の前が賑わえば、当然、店で買い物をしていく客も増えていく。客が集まれば、また客を呼ぶことになった。仏陀の元に通い始めて一年もするうちにカダの店は大きな食料品店に変わっていったのだった。
「世尊、世尊に施しをしたおかげで、うちの店は大繁盛です。ありがとうございます。これからも施しはやめませんので、益々の商売繁盛をよろしくお願いいたします」
カダは、調子よくお釈迦さまにお願いしたのだった。
周囲の弟子たち、特に高弟であったシャーリープトラやマハーカッサパなどは、これを快く思わなかった。
「よろしいのでしょうか、世尊。これでは、商売のために世尊の元を訪れているようなものです。世尊の話は聞かずに、お願いばかりをして帰っていきます。まるで、バラモンが神々に祈るようなものです。これでいいのですか?」
シャーリープトラもマハーカッサパも同じようにお釈迦さまに尋ねたのだが、お釈迦様は
「今、あの者に何を言っても聞く耳を持たないであろう」
と言うばかりであった。

バラナシで、カダは大きな顔をするようになっていった。
「俺みたいに成功したければ、仏陀や弟子たちに施しをすることだ。必ず成功するぞ」
「いいか、俺はな、仏陀にあきらめるな、こつこつ仕事をしていけば、必ず日の目を見ることになる、と教えられて、それを忠実に守ったんだ。その結果がこれだ。あんたらもコツコツ努力することが大事だ」
「何、金がない?。金がなければ身体があるだろ。仏陀が滞在している果樹園を掃除すればいいじゃないか。それも立派な施しだぞ」
「素直に教えを聞けよ。わからなければ素直に教えてもらえばいいのだ。遠慮するほうが間違っている」
「俺は、仏陀の言うことをよく聞いているから、うまくいっているんだ」
「困ったことが起きたら、すぐに仏陀に相談すればいい。えっ?、前に注意されていたのにそれを聞き入れなかったから今さら仏陀の前に出られないって?。何をバカなことを言っているんだ。仏陀はそんな気持ちの狭い人じゃないさ。ごめんなさい、と素直に謝って、今後の対策を聞けばいいのだ。素直さが大事なんだぞ」
「仏陀はわかってくださる。間違いを犯しても、素直に謝って許しを請うことが大事だ」
「君たちも、私を見習うといい。仏陀の教えを聞くといい」
カダは、店にやってくる客や人々に、そう説いていたのだった。人々は、
「カダはすごいねぇ、お釈迦様の言うことをよくわかっているんだね」
「お釈迦様の教えをちゃんと守っているから、いいんだね」
と噂し合っていた。

ある日のこと、仏陀の元を訪れたカダにお釈迦様は
「カダよ、油断するではない。日頃の努力を忘れると、足元をすくわれる。注意力を無くせば、魔は隙をついてくる。油断は禁物である」
と注意をしたのだった。しかし、カダは
「何を言っているんですか。私は努力を忘れませんよ。油断もしません。それに、こうして仏陀を始め、お弟子さんたちに多くの施しをしているんですから、悪いことなど起こるわけないでしょ。やだなぁ、あはははは」
と聞き入れなかった。
「それが油断というものだ。心の緩みは、商売の緩みとなり、魔がつけこむ。わからぬか、カダよ」
「はい、わかりました。でも、大丈夫です。油断はしませんから」
カダの気は緩みっぱなしであった。

それは突然とやってきた。カダの店で売った食料品を食べた人々が病気になったのだ。今で言う、食中毒である。あっという間にカダの店は評判が落ちてしまった。中には、店に石を投げる者もいた。
「あぁ、どうしよう。どうしよう・・・・。俺はいったいどうすればいいんだ・・・・」
カダは店の奥で縮まっていた。そんなカダに人々の怒声が聞こえてきた。
「何やってるんだカダ。日頃、偉そうなこと言ってたじゃないか。失敗してもいい、素直に謝れって!。謝れよ、今すぐ謝れよ!」
「出てこいカダ!、逃げるな!、隠れていることは分かっているんだぞ。いつもの調子はどうしたんだ」
「何だ、何だ、日頃のあの態度はどうしたんだ。いつも分かったような口をきいていたじゃないか」
「カダ!出てこい!、謝れよ、うちの家族に謝れよ!」
それでもカダは出ていけなかった。やがて店は人々によって壊されてしまったのだった。それでもカダはひっそりと店の中に蹲っていた。

それ以来、バラナシでカダの姿を見る者はいなくなってしまった。ある日のこと、バラナシの近くの樹林に滞在している仏陀の元にバラナシの人がやって来て尋ねた。
「カダはどこへ行ってしまったんでしょうねぇ。あれ以来、姿を見ないんですよ。いったいどうしてしまったのか・・・・。私たちが責め過ぎたせいでしょうか・・・・」
「日頃、立派なことを言い、理想的なことばかりを主張し、威張り散らして、大きな態度を示す者ほど、中身は弱いものなのだ。カダもその真実は、弱い弱い人間だったのだよ。そういうものは、真実を知るのが怖いのだ。自分の限界を知るのが怖いのだ。失敗するのが怖いのだ。自分が築いた地位や名声、財産を失うのが怖いのだ。日頃、大きな態度を示し、人々に威張り散らしている者ほど、いざとなると弱いものなのだよ。本当に強いものは、簡単には怒ることなく、威張ることなく、いつも穏やかでいられるものなのだ」
「はぁ、そういうものですか・・・。あぁ、そうですねぇ、そういえば、そうですねぇ。威張っている奴の方が、いざとなると逃げ足が速いですからね。カダもそうだったんですね。だから、素直に謝れなかったんだ。私たちには、謝ることが大事だ、なんて言っていたくせに・・・・。謝れば、済んだことなのに・・・・」
「心の弱いものほど、周囲に強い自分を示そうとするものだ。しかし、いざとなると、自分が言ったことを実行はできない。そうした自分の弱さを認めたくなかったのであろう。しかし、いつかまた帰ってくるだろう、きっと・・・・」
お釈迦様は、寂しそうに遠くを見ていたのだった・・・・。


普段、偉そうなことを言っている人ほど、実行が伴わない、そう思ったことありませんか?。
「アイツ、口ばっかりだよな」
そういう人って、たいてい周りにいますよね。
うちはお寺であるせいか、長くお参りに来る方と接触していると、そういう経験はよくします。お参りに来て、まだ日も浅いのに、さもわかったようなことを言う人ほど、アブナイですね。あっという間に消えていってしまいます。日頃、すごくいいことを言い、理想的な話をし、信心参りは大切だ、と説いているような人でも、ちょっとしたトラブルが起きただけで、意気消沈してお参りに来なくなる・・・なんてことはよくある話です。また、他のお寺でもよく聞く話です。
「エラソーなことを言っていたあの人が、あんなことでお参りに来なくなるなんてねぇ」
という、他のお寺さんの話もよく聞きます。
でもね、人ってそういうものなんですよ、みなさん。

普段、さも分かったような口調で説教している人は、案外中身は弱いものなんですよ。あるいは、理想論ばかり言って、他人には偉そうなことを言っている人って、現実は伴わないものなんですよ。
普段から、人に偉そうな態度をしないで、わかったようなことは言わないで、立派だぞというようなそぶりもしない人の方が、案外強いものなのです。
なぜか・・・・。
そういう人は、自分の弱さを知っているからです。日頃から、自分を飾らないからです。

威張っている人、偉そうなことを言っている人は、自分を偽っているんですね。本当の自分を隠しているんです。本当は、すごく気が小さく、弱っちいぃのに、それを人に見せないように、見られないようにしているんですね。だから、威張る、大きく見せようとするんです。こういう人は、いざとなると逃げ腰になってしまうんですね。すごく弱いんです。
日頃から、弱い自分、ダメな自分をさらけ出している人は、いざとなっても変わらないだけなんです。普段とギャップがないんですね。なので、いざという時、信用を失うようなことはないのです。

飾ることなく、普段の自分、弱い自分を見せていれば、こんな楽なことはありません。いざとなったら、逃げちゃうような、そんな自分を普段から見せておけばいいのですよ。素直にね。だって、みんな弱いんですからね。立派なこと、偉そうなことは言わないほうがいい、と言うものです。
合掌。


第115回
親の庇護に縋っていれば、やがては落ちていくであろう。
結局頼りになるのは、自分自身である。
怠りなく努力することが、自分自身を救うのだ。

コーサラ国は、プラセーナジット王が統治をするようになってから、身分制度が緩やかな国になった。奴隷階級出身でも、やる気と才能があれば兵士になることができたし、学問に優秀であれば、身分にかかわらずバラモンの弟子になることもできた。国王は、優秀な人材を集めたかったのだ。
そうした風潮は、街の人々にも伝わった。農園で奴隷として働いていたものでも、才能があれば自分の農園を持つことができたし、商業店で奉公をしていた者でも、実力によって自分の店を持つことができたのだ。身分制度はあるとはいえ、身分から離れることも可能であった。しかし、その逆に、実力がなければ高い身分の生まれでも、奴隷階級まで落ちてしまうこともあったのだ。いくら高い身分とは言え、安泰である、とは言えないのも確かであった。

シュラーバスティーの北外れの町にウディヤ―プトラの家はあった。彼の父親ウディヤーはバラモンで、その町の祭祀をすべて取り扱っていた。また、町の多くの者が、ウディヤーのもとに相談事や祈願にやってきた。彼らは神々への、たくさんのお供え物を持ってきた。
バラモン階級とあって、彼の家は尊敬されていた。身分も高く裕福な家だったのである。そんな環境でウディヤープトラは育った。
「息子よ、お前はバラモンになる気があるのか。あるのならちゃんと勉強をしなければならない」
「何を言ってるんだ父さん。まだ、僕が勉強する必要はないよ。お父さんが元気なんだから。そのうちにちゃんとやるって。それに、バラモンの家に生まれた以上、バラモンなのだし」
「何をのんきなことを言っておるのだ。コーサラ国王は、身分の差別なく才能と実力で職についてよし、としている。お前もぼやぼやしていると、バラモンの資格を失うぞ」
「あははは。そんな者は出てこないよ。いくらなんでもバラモンになれるわけがない。バラモンは、バラモンの家に生まれた者しかなれないよ。それに、もし身分を超えて職に就くなら、商人か兵士の方が人気があるよ。もういいからさ・・・・今日、バラモンの仲間で集まりがあるんだ。だから・・・・」
「またお金か・・・。お前の友人たちにも困ったものだ。早く一人前になって欲しいものだ。遊んでばかりいないで、友人たちで聖典でも読めばいいのだ」
「ありがとう。ちゃんと勉強するさ」
ウディヤープトラは、お金を父親から受け取ると、さっさと家を出て行ってしまった。繁華街へ向かったのだ。
彼は、いつもこの調子だった。そのため、町の人々も
「父親は信用できるが、あの息子は・・・。あの息子の代になったら、頼りになるバラモンを探さねばならないなぁ」
と噂し合っていた。しかし、そんな声はウディヤープトラの耳には入ってこなかった。こうした町の人々の声やウディヤープトラの態度に父親のウディヤーは悩んでいたのだった。

ウディヤープトラの家のそばに大きなマンゴー農園があった。そこでは、多くの使用人が働いていた。
「ターラナーター、また本を読んでいるのか。いい加減に働いたらどうだ!」
「す、すみません。ちょっと休憩しようと・・・。今、行きます」
農園の使用人の長に注意されたのは、ターラナーターという若者であった。彼は、そのマンゴー園の使用人の中でも、もっとも低い身分であった。
「あのな、お前には休憩というものはないのだ。一番低い身分だからな」
「はい・・・すみません。一応、自分の担当の分はやり終えてしまったので、休んでいいかと・・・・」
「なんだと、お前の担当分は終わっただと?。・・・・・あぁ、本当だ・・・・。まあ、だからと言って休んでいいとは限らない。お前の分が終わったら、他を手伝うべきだ。わかったか・・・・それにしても、何を読んでいるのだ?」
「あぁ、はい、バラモンの聖典を・・・・」
「な、なに?、聖典を・・・・だと!。お前、そんなものどこで手に入れた?。身分違いもはなはだしいぞ!」
バラモンの聖典は、バラモンしか読むことができなかった。従って、他の身分の者が聖典を手に入れることは難しかった。尤も、好き好んで聖典を読もうとする者はいない。内容が難解なうえに、解説者がいなければ理解ができないからだ。
「はぁ・・・。実は、農園の横の川に捨ててあったんです。でも、これは正式な聖典ではなく、個人的に写したものだと思います。勉強用でしょうか」
「それが、そこの小川に捨ててあったのか・・・・。捨ててあったのなら、まあ、読んでもいいのだろうな・・・・。どうせ捨てたのは、あのバカ息子だろうし・・・、あ、いや、今の言葉は聞かなかったことにしろ」
「大丈夫です。何も言いません」
「それよりもお前、そんなの読めるのか?。いや、わかるのか?」
「はい、だいたいは・・・。でも道具がないとわからないこともありますので・・・。そのほかはわかりますよ。占星術も理解しました」
ターラナーターは、その捨ててあった聖典をほとんど理解していたのだった。

ある日のこと、ウディヤーが高熱を出して寝込んでしまった。医者が呼ばれたが、なかなか回復しなかった。高熱で寝込みながら、ウディヤーは仕事の心配をしていた。
「困った・・・・困った・・・・三日後に・・・・祭祀がある・・・・。む、息子よ、お前、私の代わりが・・・・・できるか?」
三日後に重要な祭祀を抱えていたのだ。
「そ、そんな急に言われても・・・・」
「なに、たいしたことではない。しかし、祝詞をあげねばならぬ。あぁ、そうだ、以前、お前に・・・・学習用の聖典の写しを与えたはずだ・・・・・。あれにやり方が書いてある。あれを持ってきなさい」
父親にそう言われ、ウディヤープトラは青くなってしまった。彼は、それを川に捨ててしまったのだ。
「あ、あ、あれは・・・・そう、友達に貸してあるんだ・・・・えっと、今からそいつの家に行って返してもらってくるよ」
そう言うと、ウディヤープトラは家を飛び出してしまったのだ。彼は、そのまま帰ってこなかった。

三日がたって、祭祀の日がやってきた。ウディヤーは、まだ高熱が下がらなかった。息子も帰って来てはいない。仕方がないので、ウディヤーは自分で祭司を務めることにした。向かったのは、近くの農園だった。
農園の者に手伝ってもらい、祭壇をこしらえ、お供え物を置き、祭祀用の道具をならべた。ウディヤーは椅子に座って、それを指示していた。
「すまないねぇ、皆さん。熱が高くて、どうも動けん。今日は、椅子に座ったまま、祭司を勤めさせてもらいます」
そういうと、ウディヤーは儀式にとりかかった。ターラナーターは、それを興味深そうに見ていたのだった。
儀式は、とりあえず順調に進んでいった。しかし、いよいよ神々への祝詞をあげるだんになって、ウディヤーは倒れてしまったのだ。彼は、うわごとのように
「誰でもかまわん、祝詞を・・・・祝詞をあげてくれ・・・・。でないと・・・・神々が・・・・神が・・・怒る・・・・」
と何度も繰り返し言っていた。農園は大騒ぎになった。
「誰か祝詞を読める者はいないか?」
農園主の言葉に、ターラナーターが手を挙げた。
「うそだろ?、お前が?、最も低い身分のお前が?」
農園主の言葉に、使用人の長が
「彼は聖典のほとんどを理解し、読めます。身分が低いといっても、この際仕方がないのではないでしょうか。神々の怒りを買うよりも、彼に祝詞を読ませた方がいいのではないでしょうか」
とまくし立てた。
しばらく、農園主は考えたが、ウディヤーの「早くしないと、誰でもいい」という言葉を思い出し、ターラナーターにやらせることにした。
ターラナーターは、祝詞どころか、その続きも見事にやり終えていた。祭祀をやりこなしたのだ。
「お前が・・・まさかお前が・・・・。いやいやターラナーターよ、お前は農園で働くよりも、バラモンに弟子入りしたほうがよさそうだ。どうだろう、ウディヤーさん、このターラナーターを弟子にとってはもらえないか」
農園主は、横になってホッとした顔をしているウディヤーに頼んだのであった。
「それは私の方からお願いしたいくらいだ。ターラナーターよ、今日からお前はバラモンだ。さぁ、私を私の家まで運んでおくれ」
こうして、ターラナーターは、ウディヤーの家に入ったのだった。彼は、身分を超えてバラモンになる第一歩を踏み出したのである。
一方、この様子を農園の外れの木の陰から見ていた者がいた。ウディヤープトラである。彼は、
「くっそ、もうあんな家に二度と戻るものか」
と言って、駆けだしていた。

一年の時が流れた。ターラナーターは、立派なバラモンになっていた。その町の誰もが彼を尊敬していた。むしろ、息子が継がなくてよかった、と言う者もいたほどだった。
一方、息子のウディヤープトラは、シュラーバスティーの裏街でボロボロの姿で物乞いをしていた。
「汝はウディヤープトラだね」
そう声をかけたのはお釈迦様であった。
「今の汝のその姿、汝はどう思う」
お釈迦様の問いかけに、彼は横を向いた。
「ウディヤープトラよ、なぜそのような姿になったのか、わかるかね?」
「ふん、あの奴隷の男が悪いんだ。余計なことをしやがって、出しゃばりやがって・・・・」
「本当にそう思っているのか?」
彼は再び横を向いて、ふん、と鼻をならした。
「もし、今の汝の姿がターラナーターのせいだと、本当に思っているのなら・・・・汝は救いようがない。私は何も言わずここを去ろう。さて、ウディヤープトラよ、汝がこうなったのは、何が原因だ?」
彼は、しばらく黙りこんでいたが、やがてボソボソと口を開いた。
「わかってるよ・・・・。わかってます。俺が悪いんだ。何もしなかった俺が悪いんだ。・・・・親に甘えてばかりで、何も勉強しなかった俺が悪いんだ・・・・。わかっているけど・・・・もうどうしようもないんだ!」
最後にそう叫ぶと、彼はその場で泣き崩れていた。
「ウディヤープトラよ、わかっているではないか。その通りだ。親の庇護のもと、甘えてばかりで努力を怠れば、すべてを失うこともあろう。よいか、結局は親も誰も救ってはくれぬ。自分で努力し、自分で立ち上がり、自分で歩まねば、前へは進めぬのだ。結局は、頼りになるのは自分自身である。その努力を怠れば、救いはないのだ。わかるね?」
ウディヤープトラは、泣きながら頭を縦に振ったのだった。
「そうか、それでは汝に道を示そうではないか。さぁ、ついてくるがよい。汝は、今日から我が弟子である」
お釈迦様はそう言うと、祇園精舎の方へ向かって歩き始めた。ウディヤープトラは、涙と垢で汚れた顔をあげ、しばらくお釈迦様の後ろ姿を見つめていたが、あとを追いかけるべく、慌てて走り出したのだった。


「二代目のドラ息子」
「二代目は、会社をつぶす」
よく言われることですよね。
「創業者は立派だったけど、二代目はねぇ・・・・」
と言う話はよく聞く話です。しかし、それも本人次第であって、絶対に二代目が潰すわけではありません。立派な二代目もいますし、創業時より発展させる二代目もいます。
が、どちらかと言えば、二代目で潰してしまう方が多いのは否定できないようですね。

親が立派であると、どうもその子供も威張りがちになるのは、よくあることですよね。
「俺の親は○○会社の社長なんだぞ!」
なんて威張っているバカ息子って、結構いるでしょ。特に、子供のころには多いんじゃないでしょうか。こういう子供は、一般のお子さんと違って、大金を持っていたり、ブランド物を身につけていたり、贅沢にしっかり染まっていたりします。どこからどうみても、庶民のお子さんとは毛並みが違うんですよね。

とはいえ、そんなものは自分の力で身につけたものではありません。親の力です。親の庇護があるからこそ、できることですよね。ある日突然、親がいなくなったり、なくなったりしたら、すべてパーになるのです。それもよくある話ですよね。
親の会社が倒産して、急に贅沢ができなくなった。今までのように生活できなくなった。しかし、身にしみついた贅沢、威張り癖が治らなくて、結局は誰も相手にしてくれなくなり、孤独でうらぶれた人生を歩むことになる・・・・。下手なドラマのような話ですが、よく聞く話です。

自分が一人でやっていけるかは、結局のところ自分次第です。親が立派であれ、金持ちであれ、資産家であれ、なんであれ、生きていくのは自分なのです。親がいなくなれば、実力がない者は捨てられても仕方がないでしょう。
親の庇護があるからといって、努力しないで過ごしてしまえば、救いようがありません。親など関係なく、大事なのは自分なのだ、とよく理解して、努力を怠らぬことです。
何か苦しいことがあっても、好き好んで助けてくれる人はいません。結局のところ、最後に頼りになるのは、自分自身しかないのですから。
合掌。


第116回
嫉妬にとらわれれば、周囲のことが目に入らなくなる。
嫉妬にとらわれれば、正しい判断ができなくなる。
やがて、嫉妬の炎は、自らを焼き尽くすであろう。

お釈迦様がいらした当時のインドは、コーサラ国とマガダ国と言う二つの大国が小さな国を支配していた。コーサラ国もマガダ国も商業や工業が発展しており、国王をもしのぐほどの財力を持った者が何人もいた。たとえば、コーサラ国にはスダッタという大金持ちがいた。彼は祇園精舎を一人で建立し、お釈迦様に寄付したことでも名が知られていた。
これはスダッタ長者のように名を残せなかった大金持ちの話である。名前は残っていないので、仮にゴーラクシャとしておこう。
ゴーラクシャは、大きな貿易商を営んでおり、大きな船を何艘も所持していた。彼はスダッタ長者よりも金持ちだと噂されるほどの財力を持っていた。国王すらも一目置くほどとも言われていたのだった。
しかし、このところゴーラクシャは面白くなかった。
「なんなんだ。街の者は・・・否、田舎の者に至るまで、コーサラ一の長者はスダッタだと囃したてている。どこへ行ってもスダッタ、スダッタ、スダッタだ。あぁ、面白くない。スダッタめ。いったいどうなっているんだ!」
彼は、今日も屋敷の中で一人わめいていた。それをとりなすのは、いつも彼の妻であった。
「仕方がないでしょ、あなた。スダッタは祇園精舎を、あの仏陀に寄付したのよ。評判もよくなりますよ。仏陀と言えば、プラセーナジット王も信者になったとか。マガダ国のビンビサーラ王も信者だといいます。そうそう、ヴァイシャリーのヴィマラキールティも熱心な信者ですわ。そのほかにも・・・・」
「もういい、言われなくてもわかっておる。私だって、スダッタよりも先に仏陀を知っていたら、多くの寄付をしたさ。精舎だって建てたさ。しかし、今さら何をやっても遅いだろう。スダッタのまねだ、と言われるのが落ちだ。この私がだぞ、スダッタのまねなんぞできるか?。そんなみっともないこと、できるわけがないだろ!」
「そうですわねぇ。では、知らないふりをしていればどうです?」
「そんなわけにいくかっ!。いいか、私はコーサラ国一の財力を誇るゴーラクシャなんだぞ。巨大貿易商で、船を何艘も所持している。スダッタの財力など、私の足元にも及ばんのだ。プラセーナジット王ですら、私には敬意を表するのだ。それがなんだ、みんなどいつもこいつもスダッタ、スダッタと、スダッタばかり持ち上げる。ついこの間まで、街の者も田舎の者も私に頭を下げていたではないかっ」
「今でもあなたには頭を下げますわよ」
「そうかも知れん。確かに私にも頭を下げる。それは変わりないかも知れん。しかし、あいつらの眼は、以前とは異なる。私を・・・この私を蔑んでいるように、そう見えるんだよ」
「それは考え過ぎですわ。私は何にも感じませんが・・・・」
「お前は鈍いのだ。くっそ〜、それもこれも、みんなあのスダッタのせいだ。余計なことをしやがって。何が善意の寄付だ。善意が聞いてあきれる。きっと、自分の評価をあげて、それを商売につなげるつもりだったんだ。実際、スダッタは精舎を寄付して以来、商売大繁盛だ。あぁ、面白くない。本当ならば、その場所は私の位置なのだ!」
ゴーラクシャはつばを飛ばして、大声でスダッタ長者を罵った。夫人は、呆れて
「そうですわねぇ、あなたの言う通りかもしれませんわねぇ」
と、適当な返事をしてさっさと部屋を出て行ってしまったのだった。それは、このところ、日常茶飯事であった。

確かにコーサラ国は、首都のシラーヴァスティーだけでなく、遠い田舎に至るまでスダッタ長者の話で持ちきりだった。ジェータ太子が所持していた広大な公園をスダッタ長者が全財産をなげうって手に入れ、精舎を建てた。その功徳で無一文になったはずのスダッタ長者は以前よりも増して財産が増え、商売も大きくなった、スダッタ長者は大きな徳を積んだ、彼こそが真実の資産家であり、コーサラ国を代表する商人だ・・・・町や村の噂は、おおかたこのような話であった。そこには、スダッタよりも金持ちであるはずのゴーラクシャのことは一言も出てこなかった。
コーサラ国の人々は、スダッタ長者とゴーラクシャを比較してはいなかった。スダッタ長者に比べゴーラクシャの方が財力があるのに・・・・などとは誰も噂していなかった。それがまた、ゴーラクシャの怒りを買っていたのだ。
「私のことは話の端にも入らないのか。目にも入らないのか。気にもかけられないのか。あぁ、面白くない」
うわさ話が耳に入るたびに、ゴーラクシャは心の底で怒り狂っていたのだった。しかし、実際、誰かがゴーラクシャの批判でもしたならば、きっとその者はひどい目にあっていただろう。ゴーラクシャのイライラは、抑えがたいものになっていた。
「なんとかならないか・・・。あのスダッタの評判を落とすようなことはできないものか・・・・。どうにも腹の虫がおさまらん。もし、街であいつと顔を合わせるようなことがあったら・・・・。あぁ、なんとしようか!。どうしてくれよう・・・・。くっそ〜、スダッタめ。お前ばかりが、なぜそんなにいい目を見る。なぜ、そんなにいい思いをする」
ゴーラクシャの、スダッタ長者への嫉妬の炎は燃え盛っていくばかりであった。

そんなとき、ゴーラクシャに近付く者がいた。マハースカというバラモンだった。
「あなた、スダッタに恨みがあるようですね」
「誰だお前は?」
「私はバラモンですよ。シラーヴァスティーのバラモン。面白くないんですよね。ゴータマばかりがもてはやされて。何が仏陀だ。誰も彼も騙されているんですよ。スダッタだってそうだ。騙されて寄付したんですよ。目立ちたいがためにね」
「ほう、あなたもそう思うか?。あなたとは話が合いそうだな」
二人は意気投合して、スダッタと仏陀の悪口をお互いにいあった。そして
「なんとかしたいですな、あの二人」
「あなたはバラモンだ。いい智慧があるんじゃないですか?」
「ふっふっふ、ないわけではありませんよ。しかし・・・、お金が少々かかる。私もね、あの憎きゴータマに信者をとられてしまったので、収入がないんですよ」
「金のことなら心配はいらぬ。私に任せてもらおう」
「では、私は智慧を、あなたは費用を、ということで」
「あぁ、いいだろう、それであいつらにひと泡吹かせれば・・・面白い」
こうして二人の悪だくみは成立したのである。

翌日からシラーヴァスティーには、妙な噂が流れ始めた。それもあちこちでほぼ同時に、であった。
「仏陀は、贅沢な食べ物を毎日のように食べている。それを提供しているのはスダッタだ」
「聖者のくせに、スダッタとともに毎晩のように酒を飲んだくれている」
「何が仏陀だ。毎晩のようにスダッタと一緒に夜の街で遊んでいる。俺は見たんだ!」
「スダッタは仏陀を利用して、商売を広めようとしているのだ。そのための寄付だ。売名行為だ!」
「スダッタは、弱い商人の店を乗っ取って、仕事を我がものしている。利益を独り占めしている。そのうちに国を乗っ取るつもりだ」
などなど、その内容はひどいものだった。
あっという間に噂は広まり、修行僧が托鉢に言っても
「なんだい、あんたたちはスダッタからいいものを貰っているんだろ!」
「私たちより贅沢な食べ物を毎日のように食べているんだろ!」
とののしられ、ろくに托鉢もできなくなっていた。修行僧たちは現状をお釈迦さまに訴えた。
「もちろん、うわさ話は知っている。托鉢ができないこともわかっている。現に私が托鉢に行っても、戸口は閉ざされたままだった」
お釈迦様は穏やかな口調でそう言った。
「しかし、この噂は長くは続かない。なぜなら、事実ではないからだ。真実ではないからだ。スダッタ長者にもそう言ってある。安心するがよい、普段通りふるまえばよいのだと。やましいことがないのなら、堂々と聖者としてふるまえばいいのだ」
その言葉に、修行僧たちは勇気づけられたのだった。
やがて、毎日のように普通に托鉢にやってくる・・・・食べ物がもらえなくても・・・・修行僧やお釈迦様を見て、噂は嘘なんじゃないか、と言いだす者が現れた。それは、次第に人々の中に広まっていった。
その中には、噂の真相を確かめるべく、精舎とスダッタの家を毎晩見張るものまで出てきた。噂は本当なのか、ウソなのか、誰かが故意に噂を流したのか、街中その話題で持ちきりだった。

3週間ほど過ぎたころ、シラーヴァスティーの青年が男を一人捕まえてきた。そして、シラーヴァスティーの真中で大声で叫んだ。
「仏陀やスダッタについての噂は、ウソだったぞー!。こいつが全部白状した。まだほかにも仲間がいるらしい。今、俺の友達がそいつらを捕まえに行っている」
その声に、街の人々が青年の周りに集まってきた。ころ合いを見て、青年は男を締め上げ、問い詰めた。
「誰に頼まれたんだ?」
「バ、バラモン・・・・」
「バラモンの誰だ?」
「く、そ、それは・・・言えない・・・・いててて、わかった、言う、言うから・・・・。バラモンのマハースカだ。金を貰ったんだ。噂を流せと言われた」
マハースカの名前が出たことで、街の人々は大いに驚いた。
「マハースカを捕まえに行け!」
街の人々は一斉にマハースカの家に向かった。

あっという間にマハースカは、人々に取り囲まれた。
「どういうことなんだ!」
人々の追及にマハースカは簡単に口を割ったのだった。
「大金持ちのゴーラクシャに頼まれたんだ。仏陀とスダッタを陥れたいと。金はいくらでもやるからと、そう言われたんだ。私も最近、食うに困っている状態だったので・・・・ついついゴーラクシャの口車に乗ってしまったんだ・・・・」
マハースカは、治安を守る兵士に渡されたのだった。そして、すぐにゴーラクシャも捕縛された。
国王の前に引き出された二人は、お互いに罵り合った。責任のなすりあいである。これにはプラセーナジット王もあきれ果ててしまった。
「もういい。二人とも財産と身分を没収したうえ、国外追放だ」
国王の言葉に、二人とも蒼ざめて黙り込んでしまった。

この話の顛末を聞いたお釈迦様は、
「つまらない嫉妬は、一度火がつけば大きく燃え広がるものだ。嫉妬の炎は恐ろしい。周囲の注意の声も聞こえなくなるし、正しい判断もできなくなる。やがて嫉妬の炎は自らを焼き尽くしてしまうのだ。嫉妬などしないで、自分自身の良さを出していけばいいのだが・・・・。何も嫉妬の対象者と同じことをしなくてもよいのだ。人にはそれぞれ良さがあるのだし、個性があるのだ。それを生かしていけば嫉妬なぞする必要はないのだ。同じ立場に立って、競争することなど必要ないのだ。競争や比較などしなければ、嫉妬の炎も燃え盛らないだろうに・・・」
と悲しそうな顔をして語ったのだった。


「嫉妬の炎は身を滅ぼす」
昔から言われてきたことですよね。でも、いつの時代も人は嫉妬の炎に狂わされてしまうんです。

男女間の嫉妬はよくある話ですが、同性同士の嫉妬もよくある話で。女性同士の嫉妬話などは、しょっちゅう聞かれるんじゃないでしょうか。女性が集まると、その場所にいない人のうわさ話に花が咲いていること、よくありますからね。その多くは嫉妬を元にしているんじゃないかと思うのですが、それは偏見でしょうか?。
「あの人ったらねぇ・・・・なのよ、や〜ね〜」
なんて、聞こえてくること、多いと思うんですけどね。
男同士の嫉妬も実はよくあるんですよ。
「なぜあいつばかりがモテる。許せん、憎い・・・・」
「なんで、あいつばかり出世するんだ。あいつのせいで俺の人生は・・・・」
これもよく聞く話です。思い当たること、あるんじゃないでしょうか?。

嫉妬、妬み、羨み・・・・。これは誰しも持っている感情ですね。それのすべてが悪い、とはいいません。しかし、それらの感情は、過ぎれば恐ろしいものへと発展していきます。
嫉妬に狂った殺人事件、妬みによるイジメ、羨みや妬みが高じてウツになる・・・・。よくある話ですよね。ドラマの中だけではありません。いつどこで、自分が巻き込まれるか、あるいは、その中心にいることになるのか、それはわからないことです。
もし、そうなったら、早めに嫉妬の炎を消すことです。

そもそも、嫉妬や妬み、羨みは比較から生じるものです。他人との比較で、そうした感情は生まれてくるんですね。
ならば、比較などせず、自分は自分、自分らしく生きるんだ、と考えれば嫉妬や妬みなど起きないのです。他人と比較して、他人に追い付こう、追い越そう、他人より目立とうなどと思わず、自分は自分の道を歩めばいいのでしょう。そうすれば、嫉妬に狂うことなどないでしょうから。

えっ?、男女間はどうするって?。
あなたを嫉妬に狂わせるような相手は、捨てておやりなさい。もっとあなたに相応しい相手がいますよ。もっとも、少しばかりの嫉妬はかわいいものですから、これが完全になくなってしまうのもよくないですからね。嫉妬がないのも寂しいものです。男女の仲は難しいですね。
合掌。


第117回
戒律や規則を守ることは大切なことである。
しかし、戒律や規則に囚われてはならない。
守ることと囚われることは、大いに異なる。

お釈迦様が率いた仏教教団には、数多くの戒律があった。男性の修行者は約250の、女性の修行者には約350の戒律があったのだ。また、在家の信者には、基本的な5つの戒律である五戒のほかに、在家としての修行を行うための8つの戒律である八斎戒、すべての人々に通用する十戒(十善戒)などがあった。
出家修行者は、戒律を守ることを厳しく教えられていた。それは、出家者の集まりである教団の規律を乱さないためと、より悟りに至りやすい環境を作るためであった。また、在家の戒律は、主に正しい生活を行えるように決められていたのだった。

「もっと戒律を厳しくするべきです」
そうお釈迦様に進言したのは、ダイバダッタだった。ダイバダッタは、出家修行者の戒律をもっと厳しくし、自己管理を徹底したほうが悟りに至りやすい、とお釈迦様に常日頃、訴えたいるのだ。ダイバダッタの主張は次のようなものであった。
「第一に、肉食を断つこと。肉食は、身体によくありません。欲望の炎が燃え上がる元です。
第二に、乳製品を断つこと。乳製品は、味にこだわる元です。味覚に対して空にならねばならないのに、乳製品をとることにより、味覚にこだわることが多くなります。
第三に、衣は裸体に近い方がよい。ジャイナ教のように裸ではいけませんが、なるべく少ない方がよい。そのほうが執着を断ちやすく、悟りに近付きます。また、高価な布の寄付は拒否したほうがいい。
第四に、出家者は一生涯において森林にて生活をすること。今のような精舎に寝起きしていては、本当の修行にはなりません。
第五に、出家者の食事は、すべて托鉢で賄うこと。お釈迦様をはじめ、長老などは、信者の接待を受けるものが多い。それは、贅沢ではないでしょうか。出家者は贅沢を慎むべきです。
第六に、修行場所は樹下のみにすること。それ以外で修行しては、修行にはならない。屋根のある場所で瞑想など、もってのほかだ。それでは真の瞑想にはならない。
出家者は、もっと己にもっともっと厳しくなくてはならない。私は、そう考えます。したがって、現在ある戒律をもっと強化し、さらには、戒律の順守を徹底するべきです」
ダイバダッタは、力こめてそうお釈迦さまに進言したのだった。しかし、お釈迦様は
「そこまで厳しくする必要はない。今のままで十分だ。戒律を守ることが目的ではない。悟りを得ることが目的なのだ。戒律を厳しくすればよい、という問題ではないのだよ」
といつも答えていた。しかし、ダイバダッタは自分の主張を収めなかった。
「そんなことはありません。戒律を厳しくした方が、より悟りに近付けるものです。悟りやすい環境を作ってやることが、教祖や長老の役割でしょう」
「よいか、ダイバダッタよ。戒律は方便である。できれば、そんなものはない方がよいのだ。本当ならば、戒律などなくても、悟りを得られるのが理想なのだよ。戒律とは、単なる方便であって、悟りにとって重要なものではないのだ」
「世尊、私は失望いたしました。私の考えが世尊には理解できないようです。世尊が受け入れなくても結構です。私は、私なりに、自分に厳しく修行をします」
「ダイバダッタよ、汝が己に厳しくすることに関し、私は不問である。自由にするがよい」
ダイバダッタは、その言葉を聞くと、お釈迦様を睨みつけて、礼拝もせずに立ち上がると、すたすたとお釈迦様の前から去っていったのだった。

「世尊は甘すぎる。あんな甘い考えだから、最近の教団は緩んでいるのだ。見てみろ、これが修行か?。あいつら、この精舎の中で瞑想という昼寝をしているだけだろう。まったく、どいつもこいつも本当に瞑想しているのか?。世尊がアマちゃんだから、長老たちも甘いんだよ。誰ひとり、あんなのんびりした修行を注意しない。瞑想するなら、もっと厳しくすればいいんだ」
ダイバダッタがそう毒づくと、そばにいた仲間が
「厳しい瞑想ってどんな瞑想だ?」
と聞いてきた。ダイバダッタは苦しげに答えた。
「う、うぅぅん、たとえば石の上で瞑想するとか、イバラの上で瞑想するとか・・・・」
「それって苦行だろ。苦行は悟りには意味がないと・・・」
「そんなこと、やってみなければわからないだろ。あぁ、うるさい。お前らも瞑想しろよ。ちっとも悟れないぞ」
「ダイバダッタだって、未だに悟ったと認められてないじゃないか」
「ええい、うるさい。だからこそ、俺は厳しく修行しているんだ。生ぬるいのは俺にあっていないんだよ」
ダイバダッタは、そういうと森の奥へと一人で入っていったのだった。

そんなある日のことである。教団内に妙な噂が広まった。その噂は、お釈迦様が飲酒の戒律を破った弟子を見逃した、というものだった。それを聞きつけたダイバダッタは、真偽のほどをお釈迦さまに迫ったのだった。
「世尊、世尊が飲酒をした弟子を見逃したという噂が流れていますが、それは本当なのですか?。事実をお教えください」
ダイバダッタの大声は、教団内に響いた。その声を聞きつけ、多くの弟子たちが集まってきた。ダイバダッタは、今こそいい機会と、
「世尊、世尊は年をとられ、気力がなくなったのではないのですか?。弟子の管理ができていないのです。いいですか、これは由々しき問題です。出家者が、教団を抜け出し、酒を飲んでいたのですよ。こんなことは許せないことでしょう。それを見逃したとは・・・・。あぁ、教団の規律はいったいどうなるのでしょうか?。みなさん、みなさんはどう思われる?。世尊には、教団を率いる能力がない、そうは思われないか?」
演説をぶったのであった。
ダイバダッタの演説に、長老たちは耳を貸さなかった。ダイバダッタの狙いがわかっていたからである。しかし、修行したての者は、ダイバダッタの言葉に惑わされ始めていた。
「どういうことなのだ?。世尊が飲酒を許したのは本当のことなのか?」
「世尊は、どうされたのか?。そういえば、以前より厳しさがなくなっているように思うが・・・」
まだ悟りを得ていない修行者がダイバダッタの周りに集まり、口々に話し始めていたのだった。その声は、次第に大きくなっていった。
ここぞとばかりにダイバダッタは、大きな声で
「如何か、世尊。噂の真相をお教え願いたい」
と叫んだ。その声で、周囲は一斉に静まり返った。誰もが、お釈迦様の答えを待ったのだった。
お釈迦様は、静かにそこに集まった一同を見回すと、
「ダイバダッタよ、そしてここに集まった修行者たちよ、聞くがよい。確かに、私は酒を飲んでいた修行僧二名を不問に処した」
その答えに、集まった修行者たちは、ざわつき始めた。
「鎮まるがよい。それには理由がある」
お釈迦様の言葉に、ざわついていた者たちは、鎮まり返った。
「その修行者たちは、確かに夜中にこの精舎を抜け出し、酒場に行っていた。私はそこにシャーリープトラとモッガラーナを伴い、通りすがりを装って店から出てきた彼らと出会うようにした。彼らは、私たちの姿を見るや否や、道端に座り、頭をすりつけて縮こまった。私は言った。『汝ら、この先いかにするか?』と。二人は『もう二度としません。しっかりと修行いたします』と誓った。それで不問にしたのだ。これが真相だ。なお、その二名は、すでに悟りを得ている。彼らは、その時のことがきっかけで修行に励み、悟りを得たのだ。だから、彼らはこう言っている。
『私たちは確かに夜中に酒を飲みに出かけた。これは出家者としてはあるまじき行為だ。教団追放になってもおかしくない行為だ。それを世尊は許してくれた。もし、あのとき世尊が私たちを許してくれなかったならば、私たちは行くところがなくなり、悟りどころか野垂れ死にをしていたであろう。世尊の許しは、私たちを悟りへと導いたのだよ。だから、戒律を守ることは大切だけれども、戒律にとらわれ、厳しくすればいいというものではないのだ。許しも必要なのだ・・・・』
と。
よいか、皆の者。戒律とは、悟りを得やすく生活できるようにしたものであり、出家者としての立ち振る舞いを如何にすべきかを定めたものである。その意味で、戒律を守ることは重要なこと、大切なことであるのは、間違いはない。しかし、戒律を守らなかったからと言って、何もかも厳しく処罰するべきものではない。戒律違反をしたことにより、それがきっかけで悟るものもいるのだ。戒律は、あくまでも方便である。それを守らなかったからといって、何もかも厳しく罰するのは、戒律を守ることが目的となってしまっていることに他ならない。
よいか、戒律を守ることは大切だ。しかし、戒律にとらわれ、戒律に振り回されては本末転倒である。戒律は、悟りを得やすいよう、生活がしやすいようにしてある規律である。悟りを得ることが目的であって、戒律を守ることが目的ではないのだ。それを忘れてはならぬ。
そうであるからこそ、戒律はこれ以上厳し過ぎないほうがよい。厳しくすることに意味はないのだ。できれば、戒律などない方がいい、自分自身で身を律することができればそれでいい、ということを忘れないことだ。
また、教団内にあった妙な噂は、飲酒をした彼らの言葉・・・飲酒をとがめられなかったことがきっかけで悟り得ることができたという言葉を、誰かが悪意を持って曲解したがために流れたものである。しかし、私は、その噂を流した者も追求はしない。それも戒律違反ではあるが、そのことは本人が一番よくわかっていることであろう。これを契機に、その者も心を入れ替え、悟りに向かえばいいと、私は期待しているのだ」
お釈迦様の言葉に、まだ悟りを得ていない者たちは納得し、修行の大切さ、身を律することの意味を理解したのだった。しかし、ダイバダッタだけは、怒りをこらえたまま、その場を立ち去ったのだった。
「やはり、ダイバダッタには通じないか。己に厳しいのはいいのだが、それにとらわれては意味がないことを理解はできぬようだ。あれでは悟りは・・・・」
お釈迦様は、悲しそうにダイバダッタの背中を見つめていたのだった。


私たち出家者には、厳しい戒律があります。しかし、その多くは、有名無実、ほとんど形骸化しています。まあ、お釈迦様がいらしたころとは、時代が多いに違いますから仕方がないことではありますが。
とはいえ、多くのお坊さんたちは自覚があります。自分たちは僧侶である、という自覚ですね。ですので、一般の方のように、大きく羽目を外すということはありません。たまに、一部の人が例外的に羽目を外すことはありますが、それはどんな職業に関わらず、あること、です。坊さんだけではないですね。
そもそも、悟りとは、一切のこだわりを無くすことです。完全なる解放ですね。そういう世界には、戒律は本来ありません。戒律などなくても、我が身を律することはできるからです。また、本当に守るべきものは何か、ということをよく知っているからです。

日本人は、どちらかというとストイックなほうだと思います。こんなことやっちゃダメだろう、こんなことをしたらバチが当たる、そんなことをしていいの?、などとこだわる方が多いですね。みなさんも、よく言いません?
「そんなことして、バチが当たるよ」
って。
まあ、バチはあまり当たらないですね。そういう場合、多くはあまりたいしたことではないことでしょうし。
本当にしてはいけないこと、以外は、そんなに気にすることはないのですよ。あまり、厳しいことばかり言っていると、窮屈で息苦しくなります。
「そんなことしちゃダメ」、「いい子になれない、バチが当たる」、「もっと真面目に生きなさい」、「遊んでばかりいてはいけない」・・・・・。
そういうこと言ってませんか?。
特に学校などは、規則規則で子供を縛っていますよね。そんなに規則ばかり押し付けていても、子供はうんざりするだけで、その規則の意味を考えようとはしません。また、規則さえ守っていればいい、というつまらない子供になってしまいます。

もちろん、限度はあります。限度はありますが、全くダメっていうのも問題でしょう。あまり厳格なことを言っても、中身がともなわなければ意味がありませんからね。大切なのは、厳格にすることや厳しくすることではなく、如何に生きるか、のほうですからね。外身ばかりを守っていても仕方がないのです。問題は、中身なのですよ。

戒律だけを守っているお坊さんが立派なのか。
戒律はあまり守らないが、人々を救っているお坊さんが立派なのか。
戒律や決まりごと、規則、ルールはしっかり守ることは大切ですが、それも時と場合によると思います。規則だから、ルールだから、とこだわる人は、やはり世間が狭いように思います。
許す、ということも大切なのではないでしょうか。
合掌。


第118回
大きな目標を持つことはよいことだ。
しかし、地道な努力なくしては目標達成はできない。
やれることは小さなことからなのだ。

『俺はコーサラ国一の宝石職人になる』
そう言って家を飛び出したのはいつのころだったのか。ウダヤは河岸で座り込んで振り返っていた。
「はぁ〜あ、田舎を飛び出して何年になるのかなぁ・・・。もう俺も30歳近いや。それなのに・・・・あぁ、情けない」
ウダヤは、10代の頃、家出をしていた。家業の竹細工職人になるのが嫌だったのだ。カースト制度が強くあるインドでは、自由に職業を選ぶことができなかった。とはいえ、コーサラ国やマガダ国のような大国は、そのカースト制度も緩やかになっていた。実力があればある程度の身分を飛び越えた職業に就くことはできたのだ。特に、同じ職人同士ならば、簡単に職業を変えられた。ウダヤは竹細工職人は嫌だったが、宝石を扱う職人ならば、なりたいと願っていたのだ。そこで親に相談をしたのだが、
「バカなことを言っているんじゃねぇ。竹細工職人の息子は竹細工職人になるのが当たり前だ。他に何ができるんだ?」
と父親に言われ、あっけなく夢は打ち砕かれてしまったのだった。しかし、彼はあきらめ切れなかった。彼は、親の手伝いをしながらも、心の中は宝石職人になることに向かっていたのだった。そのためか、家業に少しも身が入らず、なかなか手が進まなかった。
「何度言ったらわかるんだ。お前、やる気があるのか?」
どれだけ親に怒鳴られただろうか。しかし、それも仕方がなかった。実際にウダヤはやる気がなかったのだから。
ある日のこと、いつものように父親に怒鳴られたウダヤは
「もうやってられねぇ。俺はな、竹細工職人なんかになりたくねぇんだよ!。あ〜、もう嫌だ。こんな家出て行ってやる!」
と父親に怒鳴り返して、家を飛び出してしまったのだ。ウダヤ、18歳のときである。

家を飛び出した彼には、あてなどなかった。何も考えず、勢いで出てきてしまったのだ。
「はぁ・・・困ったな。今さら家に帰りたくないし・・・」
とは思ったものの、どうしていいかわからず、コーサラ国の首都へ向かう道をぶらぶらと歩いていたのだった。
「君はどこから来たのかね?」
ぶらぶら歩いているウダヤに声をかける者がいた。彼がその声の方を振り返ると、そこには馬にひかせた車があった。車の中からその声の主は言った。
「いい若い者が、いったい何をしている?。仕事がないのか?」
ウダヤはそれに答えた。
「その・・・家を飛び出してきてしまって・・・・。家業が嫌で・・・・」
「家業が・・・。何をやっているのだ、君の家は?」
ウダヤはその男にいきさつを話した。男は、
「そうか、宝石職人なぁ・・・。ふむ、私でよければ力になってやろう。折角やる気があるのだ。夢を持っているのだ。その夢をつぶすようなことはいかんな。しかし、どうせ夢を持つなら大きく持つべきだな。コーサラ一の宝石職人になるつもりならば、紹介をしてもいい。ただし、親の許可を貰ってきてからだ」
とウダヤに言ったのだった。ウダヤは喜んだ。すぐに家に戻って事情を説明した。そして
「コーサラ国一の宝石職人になってきます」
と親に言って、親元から離れたのだった。それなのに・・・・。

ウダヤを宝石職人のところに紹介したのは、コーサラ国でも大きな貿易商を営んでいるグプタというものだった。彼はウダヤに言った。
「よいかね、ウダヤ君。初めからうまくできることは何もない。みんな一つずつ、コツコツと覚えて行くんだよ。君は、大きな目標を持った。その目標に向かって、コツコツと進むがいい」
ウダヤは、
「はい、そのつもりで頑張ります」
と誓ったのだった。しかし、その誓いは3年ともたなかった。
グプタに紹介してもらって、宝石職人のところに働きに行ったウダヤだったが、すぐに嫌気がさしてきてしまった。工房の掃除ばかりさせられる毎日にうんざりしてしまったのだ。
「いったいいつになったら宝石を触れるんだ?。こんなんじゃあ、いつまでたっても奴隷と同じだ」
そうした思いがウダヤの心の中に渦巻いていた。
それでも、1年辛抱した。1年たって、やっと宝石を削る道具の手入れをさせてもらえるようになった。それが1年続いた。
「ふん、ようやく掃除もテキパキできるようになったし、道具の手入れもできるようになった。この次は、宝石の種類を覚えてもらおうか」
職場の主人にそう言われ、ウダヤは完全に切れてしまった。
「いい加減にしてください。いったいいつになったら、宝石をいじらせてもらえるんですか?、俺は奴隷じゃない!」
「ウダヤ、ものには順序と言うものがある。順序よく学んでいってこそ、できることなのだよ。一足飛びに職人技ができるわけがないだろう。ウダヤ、君に基礎がなければ、何も教えられないのだ」
主人はそう言ったがウダヤには通じなかった。結局、折角紹介してもらったところなのにウダヤは3年ともたずに飛び出してしまったのだった。
その後、彼はいろいろな店を転々とした。しかし、どこの店も長続きはしなかった。職種は宝石関係ばかりだったが、職人にはなることはなかった。否、なれなかったのである。

「もう俺も30歳近い。そうか、家を飛び出してもう20年になるのか・・・・。つまらない人生だったな。俺は結局何ものにもなれなかった」
そういいながら、河岸から河の中にとぼとぼとウダヤは歩いて行ったのだ。彼は死ぬつもりだったのである。
「待ちなさい、そこの者、待ちなさい」
河に入っていこうとするウダヤに声をかけた者がいた。ウダヤはその声をした方を振り返った。そこには聖者らしき修行僧が立っていた。
「放っておいてください。俺はもう生きていけないんです。俺は・・・・バカでダメな人間なんです」
「待て、待つがよい。いったい何があったというのだ。汝が死ぬのは止めないが、その前に何があったかだけを話してはどうか」
その修行僧はそう言った。
「あんた変ってるな。今、俺が死のうとしているのにそれは止めないのか?」
ウダヤは、腰のあたりまで水につかっている。そこから、修行僧の言葉に答えたのだ。
「面白い修行者だ。そうだな、最後に話をしてもいいな。聞いてくれるかい?」
ウダヤはそういうと、水に浸かったままで、それまでの経緯を話したのだった。

ウダヤの話を聞き終わると、修行僧は言った。
「結局は、コツコツとできなかった・・・ということだね?」
「そういうことだな。俺は・・・・最初から職人でありたかったんだよ。でもそれは無理だとわかった。だからといって、今さら努力なんて・・・・バカらしい」
「そうか。ならば仕方がないな。しかし、どんなことでも人間にできることは小さなことしかないのだと、私は思うがな。いくら大きな目標を持っても、人間にとってできることは、ほんの些細なことしかない。地道な努力の積み重ねでしか、目標は達成できないのだ。そうだね、この河の堤防のように・・・だ」
「堤防?」
「そう、河の水が街に流れて来ないように、この河には堤防がある。これができたのは数年前だが、完成までには50年以上の歳月がかかっている。石を一つずつ積んで、粘着性のある泥で固めて、また石を積んで・・・・そうしてこの堤防は完成している。人間も同じであろう。生きていくには、一歩一歩、少しずつ、小さなことからしかできないのだよ。否、死ぬ時もそうだ。汝は、これから死に向かおうとしているが、水の中に入れば、まず水が口の中に入ってくる。息ができなくなる。苦しみが増大する。もがく、暴れる、苦しむ・・・・。で、少しずつ、死に向かうのだ。一足飛びに死んでしまうわけではない。何事も小さなことから順に進んでいくのだよ」
そういうと、その修行僧はウダヤを残して立ち去ろうとしたのだった。
「ま、待ってくれ。ちょっと待ってくれ」
ウダヤはあわてて河から出て、修行僧を追いかけた。
「あんたは、何が言いたいんだ?。俺の何が悪いっていうんだ?」
ウダヤの問いかけに修行は振り返った。
「何を言っているのか?。汝は自分でもわかっているだろう。気付いているだろう。地道な努力ができない自分が最も悪いのだ、ということを」
そういうと、修行僧はは、再びウダヤに背を向け歩き始めた。
「待ってくれ・・・。俺はいったいどうすれば・・・」
修行僧はウダヤに背を向けたまま言った。
「簡単なことだ。家に戻り、家業を継げばいい。今度は小さなことから始めればいい。それだけだ」
そう言い残した修行僧は、ウダヤが気がつくと忽然と姿を消していたのだった。

結局ウダヤは実家に戻り、家業を継いだ。竹の選び方、道具の手入れ、裂き方・・・・基礎を覚えるまで数年を費やした。それでも、今度は家を飛び出すことはなかった。父親も年をとったせいか、あまり怒鳴ることはなくなっていた。
「基礎を覚えるまでには時間がかかる。それが若い時にはわかっていなかった。俺もお前に早く基礎を教え込もうとして焦っていた。怒鳴ってばかりいた。こうやって穏やかに教えていけば、もっと早くに覚えられたんだなぁ」
父親は、そう言って自分の教え方のまずさを反省していたのだった。
そんなある日、托鉢に来た修行僧がいた。父親たちは
「これはこれはお釈迦様。たいしたものはございませんが・・・。こちらに滞在していらっしゃったんで・・・。では午後からの法話会には行きます」
と挨拶していた。ウダヤは扉の所に立っている修行僧を覗いて見てみた。その修行僧はウダヤを止めた修行僧だった。
「お、お釈迦様だったのか・・・・」
ウダヤはつぶやいた。お釈迦様は、そんなウダヤを優しい眼差しで見つめていたのだった・・・・。


一足飛びに何でもできるってことはありません。どんなことでも地道な努力があってこそ成就するものです。いきなり完成品、というわけにはいかないのは当たり前のことです。
ところが、人は地道な努力を嫌うことがあります。コツコツ、毎日毎日同じことをするのが嫌なんですね。ついつい
「俺には大きな目標があるのに・・・。こんなことばかりしていたら一生が終わってしまう」
と、コツコツ努力することを放棄してしまいがちなのです。
しかし、どんな大きな目標も、初めは小さなことからスタートするのですよ。

悟りを得る過程には大きく分けて二種類あります。徐々に悟りに近付いていってある日目覚める悟りと、ある日突然、何の前触れもなしに悟ってしまう悟りです。前者を漸悟(ぜんご)、後者を頓悟(とんご)といいます。
突然悟る、と言いますが、やはりあるい程度基礎がなければいけません。仏教的知識や要素がなくては、悟りも何もないでしょう。修行無しでは頓悟もあり得ないのです。そう言った意味では、悟りに次第に悟ることも急に悟ることもないわけですね。悟りに一足飛び、ということはないのです。

どんな場合でも、基礎は大切ですし、一足飛びにできるようになることはありません。過程が大切なのです。
お正月です。今年一年の目標をたてることもあるでしょう。大きな目標をたてることは大いに結構なことですが、できることは地味で小さなことからである、ということを忘れないでください。
合掌。


第119回
今まで信じていた人や事柄を他者の言葉で疑い始め、
確認もせずに信じることをやめてしまう。
それは残念なことだ。
アンジュリは熱心な仏教信者であった。週に2回は精舎に行き、お釈迦様を始め弟子たちをお参りしに来ていた。また、いろいろな話を聞きに来ていたのだった。
彼は、食料品店を営んでいた。よその国で仕入れた珍しい食品も手掛けていた。商売はうまくいっており、生活にも少しではあるが、余裕があった。
彼は、月に一回、お釈迦様をはじめ、20人程度の高僧を接待することを恒例の行事として行っていた。各国から仕入れた珍しい食べ物をお釈迦様やその弟子たち・・・長老と呼ばれている弟子たち・・・・に食べていただくことで、自分の商売繁盛につながると信じていたし、また生まれ変われば天界に行けると堅く信じていたのだ。
今月もその恒例の接待が行われた。食後の後、アンジュリはお釈迦さまに尋ねた。
「こうした接待を行えば、私は天界に生まれ変わることができますね?」
お釈迦様は答えた。
「正しき修行をし、正しき日常を過ごしている聖者に食を施すことは、この上ない徳積みである。それは何も我々仏教徒の者に対する接待に限ったことではない。昔から聖者に接待する者は天界に生まれ変わることができる、とされているのだ。アンジュリ、疑うことなかれ。あなたは大きな徳を積んでいるのだ」
お釈迦様のこの言葉を聞くことが、アンジュリの何よりの楽しみであったのだ。アンジュリはお釈迦様の言葉に励まされ、商売に打ち込むことができた。

そんなある日のことである。ある男がアンジュリを訪ねてきた。
「あんたがアンジュリかね?」
その男はアンジュリにそういうと、ニヤリとした。
「あぁ、私がアンジュリだが、何か用かね?」
アンジュリは胡散臭い男だと思った。こんな男はさっさと追い返そう、と思い、冷たい態度をとった。
「ふ〜ん、あんたがたいしたこともないくせに、毎月お釈迦さまに接待をするアンジュリか」
男はニヤニヤしながらそう言った。
「おい、ちょっと待て、なんだそれは。たいしたことはない、とはどういう意味だ」
アンジュリはちょっと腹が立って、語気荒く言い返した。
「そのままだよ。ふふふ。お前は知らないだろうが、この辺りじゃあ有名な話さ。アンジュリとかいう、食料品屋のオヤジは、一人前にお釈迦様やその弟子を20人ほども接待している。かなり無理しているんじゃないか、ってね。もっぱらの噂だよ」
「あぁ、そうかい、そんなことはどうでもいいさ。別に俺は無理などしていない。・・・・ははぁーん、それはうちの商売仇が流した噂だろう。やっかみだな。妬ましいんだ。まあ、妬まれるのも仕方がないか。うちは商売繁盛しているからな」
「はっはっは。噂の出所がそんなところだと思っているのか?。めでたいヤツだ。噂どおりだな」
「な、なんだと。ならば、誰がそんなことを言っているっていうんだ!」
アンジュリは大声で怒鳴っていた。男は平然とした顔をして
「さぁねぇ・・・・。知りたいのか?」
「べ、別に知る必要はない。俺は好きで接待をしているんだから」
「ふ〜ん、そうなのか・・・・。あのなぁ、俺はついこの間までお釈迦様の教団にいたんだよ。弟子だったのさ」
「な、何だと?。お前なんかいたかなぁ・・・・」
「いたんだよ。もっとも、できの悪い弟子だったから、追い出されたんだけどな。ハライザイってやつだ」
「なんだお前、教団追放になったのか。そんな奴の話なんぞ聞く気はないね。さっさと出て行ってくれ」
「聞いたほうがいいと思うぜ。俺はな、修行を怠けていたからハライザイになっただけだ。何もしなかった、ただ長老たちの話を盗み聞きしていたんだな。それで追放されたんだよ」
「盗み聞き?。そりゃあ、立派な戒律違反だ。追放されて当然だね」
「そうかね?。違うだろ。盗み聞きくらいで追放にならないだろ。なんで追放になったか・・・・。それは聞かれたくないことを聞かれたからだよ」
「な、なんだと・・・・」
いつの間にか、アンジュリはその男の話を聞く気になっていた。
「どういうことなんだ」
「ふふふふ。気になるかい?。・・・・・ある長老たちの話だ。
『接待もいいが、スダッタ長者のように豪勢なら分かるが、力もないくせに接待する者とは、どういうつもりなのだろうかねぇ』
『そうそう、いるなぁ、そういう身の程知らずの者が。たとえばアンジュリとか』
『あぁ、彼はいい例だな。無理していることが丸わかりだ。何もあんなに無理しなくてもいいものを』
『本人は各国の珍しい食べ物を集めて、我々に喜んでもらおうと思っているのだが、あれじゃあねぇ。スダッタ長者のところで食べ慣れている我々にとっちゃあ・・・・』
『そこらへんの托鉢と変らない・・・か。あははは』
とな、言っていたんだよなぁ。俺は、そういうことを盗み聞きしてたんだ。で、追放さ」
この話を聞いてアンジュリの顔色が見る見るうちに青くなってきた。
「そうそう、まだこんなことも言っていたなぁ。
『お釈迦様なんぞ、悟っているから味など気にしない。モノが何であれ、食べ物に関しては何の関心も示さない。そんな人に接待して楽しいのだろうか?。おいしい、ありがとう、すら言わないんだぞ』
『普通、そういうのって失礼なことだ。接待を受けたら、おいしかったです、ありがとうくらいは言うものだろう』
『お釈迦様は決して言わないよ。聖者だからな』
『いや、接待されるのが当たり前と思っているからだろう。ありがたみがわからないのだ』
と、まあ、こんなやり取りもあったな・・・・。どう思うかね、アンジュリさんよ」
「う、うそだ。お前の言っていることはでたらめだ。帰れ、帰ってくれ!」
アンジュリはそう叫ぶと、男を無理やり追い出したのだった。

ところが、その日からアンジュリの頭の中から、男の言葉が離れなくなってしまったのだった。
「俺が無理している?。力もないくせに接待をしている・・・・?。いやいや、そんなひどいことをあの長老たちが言うはずがない。ウソだ、ウソに決まっている。お釈迦様だって・・・・。そう言えば、悟りを得たものは味を超越しているとかいっていたな。味も空であるとかなんとか・・・・。いやいやいやいや、接待することに意義があるのだ。お釈迦様やその弟子がなんと言おうが、どう思おうが関係ないことだ。そうだ、接待することが大事なことなのだ。あやうくあの男にだまされるところだった。アブナイアブナイ・・・・」
と言いつつも、アンジュリの心の中の疑いの芽は確実に育っていったのだった。
そんな気持ちを引きずったまま、恒例のお釈迦様たちを接待する日がやってきた。アンジュリはいつものように、各国の珍しい食べ物を食卓に用意した。そして、いつものようにお釈迦様たちにそれを提供したのだった。しかし・・・。
「アンジュリ、どうかしたのですか?。いつものような元気がないが・・・・」
お釈迦様の言葉にアンジュリはドキリとした。彼は、お釈迦様たちがどう思って食べているのか、黙って観察していたのだ。
「アンジュリ、何を考えているのか、何を迷っているのかは知りませんが、己の信じるところを貫くことが大切です」
お釈迦様はそういうと、すっと立って精舎へと帰っていったのだった。弟子たちもそのあとに続いていった。アンジュリは冷や汗をかきながらも、弟子たちの視線が冷ややかなものに感じられ、むしろ腹を立て始めていた。
「やっぱりあの弟子たちは、俺をバカにしているのだ。きっとそうだ。あの目つきはそうに違いない・・・・。しかし、お釈迦様のあの言葉は・・・・。あぁ、俺は間違っているのか?。疑っている俺は愚かなのか?」
アンジュリは、弟子たちの後ろ姿を茫然として見ていたのだった。

その様子を男は覗き見していた。そして、その日の夕暮時のことだった。
「よう、アンジュリ。今日も接待したんだってな。もったいない。なんだってヤツらを・・・」
「あんたには関係ないだろ。帰ってくれ」
「弟子たちの態度、悪かっただろ?。そうじゃないか?。アンジュリ、お前さんも気が付いているはずだ」
「うるさいなぁ。いいんだよ。お釈迦さまにも今日言われたんだ。己の信じるところを通せばいい、ってさ」
「ふ〜ん。お釈迦さまねぇ・・・・。そういえば、お釈迦様って、本当は冷たい人なんだぜ、知ってるか?」
「あぁ、関係ない、聞かないよ、そんな話は。帰ってくれって」
男は構わず話を続けた。
「お釈迦様は冷たい人なんだぜ。死に行く人に向かって、お前は地獄へ行くんだなんて平気で言うしな。修行の途中で死んじまった弟子の遺体をその辺に捨てておけなんて、平気で言う人なんだぜ。ひどいだろ。だから、俺はあんなところにいるのが嫌になったんだ。それで追い出されるようにしたんだ」
アンジュリは顔をしかめて男の話を聞いたが、
「もうわかった、出て行ってくれ。もういい、あんたの話は聞かない」
と言って、男を追い出したのだった。
しかし、その後も男はたびたびアンジュリのところへやってきては、お釈迦様やその弟子の悪口を言った。アンジュリはその度に追い出したのだが、次第に男の話を聞くようになってしまったのだった。
やがて、アンジュリは精舎へも足を運ばなくなった。以前は欠かすことがなかった法話会にも、顔を見せることはなかった。そして、毎月行っていた恒例の接待もしなくなったのだった。

「お釈迦様、最近アンジュリの姿を見ません。なにかあったのでしょうか?」
アーナンダがお釈迦さまに尋ねた。
「そのことならば、他の弟子からも聞いている。精舎に訪れることもなくなったし、法話会にも顔を見せなくなった」
「いったい何があったのでしょうか。托鉢に行っても、返事がありません」
お釈迦様は、アーナンダの質問に
「己の信じていることや人物のことを、周囲からとやかく言われることがある。周囲の者は無責任にも、他人が信じている事がらのことをよく言わないことがあるのだ。それで迷ってしまう者もいるのだよ。それが人間の弱さなのだ。己の信じている事柄のことを、他人から何かを言われても関係ない、と突っぱねるほどの強い信心をもつことは難しいものなのだ」
と答え、静かに瞑想に入ったのだった。
アンジュリが精舎に顔を見せなくなって数カ月後のことだった。アンジュリの食料品店は姿を消していた。店をたたんでいたのだ。アーナンダは心配になり、托鉢のついでに近所の人々にアンジュリのことを尋ねた。それによると・・・・。
アンジュリは、精舎へのお参りをやめた、と近所の者に言っていた。仏教教団の弟子たちは贅沢ばかり言って、自分の接待を喜んでいない。それどころか、自分をバカにしている。お釈迦様も自分の接待に御礼を言ったことがない。失礼な話だ。もう法話会にも行かないし、仏教教団とは縁を切るのだ・・・・。
と言ってたそうだ。そうこうするうちに商売がうまくいかなくなり、夜逃げ同然でどこかへ行ってしまった・・・。
ということだった。
アーナンダは、お釈迦様にアンジュリのことを報告した。

ある法話会のことだった。お釈迦様が集まった人々に話を始めた。
「あなたたちは、こうして私の教えを信じ、ここに集まって来ている。あなたたちは、如来を信じ、如来の教えを信じ、その教えに従って修行をしている僧を信じている。信じているからこそ、頼りにしているからこそ、こうして精舎に集まってくるのであろう。しかし、その信じる気持ち、信じる心は、如何なるものであろうか。本当に堅いものであろうか。金剛石のように堅く、簡単には壊れないほどの信心であろうか。
たとえば、あなたたちに仏教教団の悪口を吹聴する者がいたとする。もっともらしいウソを並べ立て、あたかも我々が悪者であるかのようなことを言う者がいたとする。あなたたちは、その者の言葉を簡単に撥ねつけることができるであろうか。ウソと見抜くことができるであろうか。
人は、迷うものである。ちょっとした、ほんの些細な疑いの心は、やがて大きくなり、疑いの心はさらなる疑いを呼び込み、真実はなにか、ということを見失ってしまうことがあるのだ。
本当のところはどうなのか、確認をすればいいものを人はそれを怠る。疑っているのだ、と相手に思われるのが怖いからだ。しかし、確認もせず、疑いをどんどん膨らませれば、やがてそれは爆発してしまうであろう。結局は、疑いを信じてしまい、真実を失ってしまうのだ。そうして、本当に信じなければいけないものを捨ててしまうのである。
あなたたちの信心は堅いか?。あなたたちを迷わす者の言葉を受け付けないだけの信心はあるか。もし、疑いの心をもったときはどうすればいいか、あなたたちはわかっているだろうか。疑いに負けて大切なことを捨ててしまわないように気をつけることだ。もし、あなたたちを迷わす者がいたのなら、すぐに確認をするがいいであろう。疑いは晴れ、真実が残るであろうから」
そこに集まった人々は、アンジュリのとった行動を心から残念に思ったのだった。


うちのお寺は壇家さんがありません。みなさん信者さんです。うちの寺のことを信じてお参りに来ている方ばかりです。熱心な方は、月に何度も話を聞きに来られます。
そうした信者さんばかりの寺なのですが、その信者さんはなかなか増えていきません。増えたかな、と思うと、減っていたりします。その原因はいろいろです。亡くなってしまったとか、遠くへ転勤したとか、そういう仕方がない場合もあります。ところが、多くの場合は、信心をやめた、という方なのです。
信心をやめる理由も様々です。多くは、新興宗教に入ってしまった、ですね。案外、これ多いんです。うちの寺は、新興宗教のように会員とかにしていません。新興宗教は、会員制にして、会員証とかを渡したり、信者をたくさん連れてくると徳がつくようなことも言います。あるいは、ステージが上がる、なんて胡散臭いことをいう新興宗教もあります。
お寺はどちらかというと、来ても来なくてもいい、とういう態度をとっています。お寺にお参りに来るのは、自分の意思によるのだ、というのが仏教ですからね。お参りに来なければ徳が積めない、先祖が苦しむ、運がよくならない、などと半ば脅しのようなことをいう新興宗教とは異なるんですね。だからこそ、お寺は離れやすいともいえます。しかし、仏教は、強制するものではありません。信じる信じないは自由なのです。

しかし、長年仏教を信じてお参りに来た人でも、急に来なくなったりすると「なんで?」とは思います。さらには、とても残念に思います。後々、風のうわさ話で「新興宗教へ行ったらしい」と聞くと、本当に残念ですね。と、同時に自分の力量不足を感じます。どうにかできなかったか、とね。
あるいは、周囲の者にいろいろなことを吹聴され、その寺の住職や集う人たちのことを疑ったりするようになり、そこへお参りにいかなくなった、という場合もあるでしょう。
私は仏教を説きます。お釈迦様の教えを説きます。それがもの足らない、と感じる方もいるのかも知れません。新興宗教の方がいい、という場合はそういう方なのでしょう。
しかし、とても残念に思います。本当の仏教とは、真の教えとは、如何なるものか、と思うと、新興宗教に走ったりすることは、大変残念に思うのです。

来たるものは拒まず、去るものは追わず。
仏教の精神ですが、折角長く信心参りをしてきたのなら、何があっても途中で放棄せず、最後まで仏教を信じることを貫いて欲しいですね。
途中でやめてしまうのは、とても残念なことです。
合掌。

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