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第120回
誰でも選択を誤ることはある。
大切なことは、選択を誤ったと気が付いたらならば、
修正するか、やり直しをする決断力をもつことだ。

「本当にこれでよかったのだろうか?」
ニガンダは、悩んでいた。ダイバダッタ長者についてきたのはいいが、本当にそれでよかったのかどうか、迷い始めたのである。
2週間ほど前のことであった。ダイバダッタ長者は、お釈迦様の前に出て進言をした。
「仏陀世尊、世尊はもう随分と年をとられた。そういう私も高齢になってきた。お互いに、体をいたわる年齢になってきたのだ。どうであろうか、世尊。この際、若い者に仏陀の座を渡してはいかがか?。いや、私に譲れ、といっているのではありません。若い者に譲って隠居されたらどうか、と申し上げているのです。どうでしょうかねぇ・・・・」
ダイバダッタのこの提案をお釈迦様は簡単に断った。
「その必要はない」
その一言で終わったのだ。しかし、終わらなかったのはダイバダッタであった。
「そう・・・・ですか・・・。いやはや、権力の座に執着するとは・・・・世尊ともあろうお方が・・・・」
「ダイバダッタよ、汝の心は見えている。恥をかかぬうちにやめるがよい」
お釈迦様にそう言われたダイバダッタは、怒りをこらえながら話を変えてきた。
「そう・・・ですか。えぇ、わかりました。この話はやめましょう。しかし、もう一つ提案があります」
お釈迦様は聞く気がなく、「もうよい・・・」と言いかけたのだが、ダイバダッタが勢いよく話し始めたのだ。
「いいえ、聞いてもらいます。世尊は、ぬるい。ぬるすぎます。戒律がぬるいのです。もっと厳しくしなければ、悟りを得られない者もたくさんいます。私よりも高齢で、私よりも長く修行をしているにもかかわらず、未だに悟りを得られない者が大勢います。その理由は、戒律がぬるいからです。ここにいれば、食事に困らず、寝る処に困らず、働くことなくダラダラと過ごしていける。厳しさが全くない。だからこそ、いつまでも悟りを得られず、ぶらぶらと過ごしているのだ。もっと厳しくしなければ、益々こうした連中が増えてくる。世尊、今こそ、戒律を厳しくしてはどうでしょうか。
たとえば、一つに人里離れて森林以外で生活すること、二つに接待は禁止、托鉢のみで食事を得ること、三つに在家者から袈裟の寄付を受け取らずぼろ布を縫い合わせたもののみを着ること、四つに屋根のあるところに座らず、木の下のみに座ること、五つに魚の肉を食べないこと・・・・。
如何でしょうか。最低でも、これくらい厳しくしないといつまでも悟りを得ららない者も多くなってきます。ぜひ、私の提案を受け入れ、戒律としていただきたい」
ダイバダッタは、一気にそうまくしたてた。しかし、お釈迦様は無表情のまま
「それは個人の自由だ。好きにすれば善いことであって出家者全員が守らねばならぬことではない。戒律は、集団生活が支障なく行えるようにというためにあるものだ。できれば、戒律など少ない方がよいのだ。悟りと戒律とは関係ないことだ。下がるがよい、ダイバダッタ。そもそも汝も悟りを得てはいないではないか」
お釈迦様の言葉にダイバダッタは顔を真っ赤にした。怒りで手が震えている。しばらく唇をかみしめて立っていたが、
「わかりました。好きにさせてもらいます」
と大声でいうと、その場を大きな足音をたてて去っていったのだった。

それから数日後のこと、ダイバダッタは霊鷲山の精舎の中を大声で
「私についてくる者は、ついてくるがよい。もっと厳しい環境で修行をしようではないか。悟りを得るため、もっと
良い環境で修行しようではないか。いまのようにぬるい修行に絶望しているものは、私についてくるがよい」
と精舎の中を触れて回ったのだ。当然、このことはお釈迦様の知るところとなった。しかし、お釈迦様は
「放っておきなさい」
とだけ言ったのだった。そこで、他の長老たちも修行のできていない修行者には、あえて何も言わなかった。
「ダイバダッタ長老が言っていることは正しいのでしょうか?」
と質問をされた場合のみ、戒律と悟りは関係のないことを説き明かした程度だったのだ。
翌日、ダイバダッタは霊鷲山を下りることにした。
「さぁ、ついてくるがよい。もっと厳しい環境での修行に行こうではないか。新しい修行場所へ行こうではないか」
ダイバダッタはそういうと、先頭を切って山を下りたのだった。その後ろには、20人ほどの修行僧がついて来ていた。ダイバダッタは、それでも満足だった。すぐに自分の正しさが伝わるであろう、すぐにもっと多くの修行者が山を下りるであろう、と思い込んでいたのだ。こうしてダイバダッタと20人ほどの修行僧は、霊鷲山と反対側にある森林へと向かったのだった。

その森林は、人里からずいぶん離れていた。托鉢するにも一苦労であった。確かにその点は、修行になるかも・・・・とダイバダッタについてきた20名の修行僧は思った。しかし、日がたつにつれ、森林での生活が苛酷であることがわかってきた。
ニガンダは一緒に山を下りた修行僧にそっと囁いた。
「なぁ、ここでの生活、きつくないか?」
「どうしたのだ。もう音をあげたのか?」
「いや、堪えられないわけじゃないが・・・・」
「何を言っているのだ。きついからこそいいんだろ」
「そうかもしれないが・・・・しかし、森林は虫も多いし、毒蛇も出てくる。そういうことに気を遣っていると、瞑想に身が入らないんだよ」
「あっ・・・、そうか、まあ、そう言われれば・・・・確かにそうだなぁ・・・」
「な、そうだろ。確かに、厳しいのはいいかもしれない。ボロをまとい、托鉢だけでの食事をし、木の下で瞑想をする・・・・。如何にも修行をしているという感じはする。だけど・・・・」
「そうだな、格好だけは修行中、だな。言われてみればそうだな・・・・」
「だろ?。なぁ、ひょっとしたら、俺たちは選択を誤ったんじゃないか?」
「うむ・・・・だがしかし・・・・。今さらどうすることも・・・・・」
「うん、そうなんだが・・・・。今さらなぁ・・・・」
ニガンダは、そのまま黙ってしまった。

それから数日後のことであった。森林で瞑想をしていた修行者が毒蛇にかまれることがあった。幸い、周囲の者が助けたために命を落とすことはなかった。しかし、腕を切ることとなったのだ。そんなことがあったにもかかわらず、ダイバダッタは
「腕の一本くらいどうということはない。だいたい、毒蛇にかまれるなんて、修行に身が入っていない証拠だ。ぬるい修行になれているからそうなるのだ」
と冷たく言い放ったのだった。ダイバダッタは、自分たちが山を下りて以降、誰も山を下りて来ないことにイラだっていたのだ。
このことがあって以来、ニガンダは益々迷い始めていた。
「はぁ・・・・。やっぱり選択間違いをしたようだ。どうしようか・・・・。いまからお釈迦様の元に戻って、お釈迦様は受け入れてくれるだろうか?。きっとダメだろうなぁ。あぁ、なんて俺は愚か者なんだ。逃げ出したい、ここから逃げ出したい・・・・」
ニガンダは、周りの修行者にも自分の気持ちを打ち明けた。すると、多くの者が同じ意見をもっていることが分かった。みんな、迷っていたのだ。しかし、誰もが
「今さら帰れないだろう・・・・。お釈迦様も長老様も許してはくれないだろう」
とあきらめていたのだ。それと、ダイバダッタの仕返しが怖かったのである。誰もが、ダイバダッタについて来たことを後悔していたのだった。しかし、誰もが、そこを抜け出す勇気を持てなかったのだ。ダイバダッタについてきた修行者たちは、助けを祈るしかなかったのだった。

ダイバダッタと20人の修行者が山を下りて一ヶ月近くがたとうしていたころ、彼らがいる森に向かってくるお釈迦様の弟子らしき修行者の姿が数名みられた。ダイバダッタはその姿を見て歓喜の声を上げた。
「あれに見えるは・・・・シャーリプトラ尊者じゃないか。おぉ、モッガラーナ尊者もいるぞ。あの忌々しい世尊の高弟が二人もいる。それに続いているのは数名だが・・・・きっと彼らは先行して山を下りたに違いない。あははは、世尊め。いい気味だ。私が勝ったのだ。こうしちゃおれん、早速彼がら座る場所を設けねば。他の修行僧も集めねば」
ダイバダッタは張り切って、シャーリープトラやモッガラーナが座る場所を森林の広場に設けた。そして、彼についてきた修行者を全員集めたのだった。
ダイバダッタは真中に座っていた。そして
「やぁ、待っていたよシャーリープトラ、モッガラーナ。さぁ、私の左右に座るがよい」
と言った。それはあたかもお釈迦様がシャーリープトラやモッガラーナにするような振る舞いだった。その姿を見て、他の修行僧は益々ダイバダッタのことを侮蔑し、自分たちの誤りを嘆いたのだった。
シャーリープトラが言った。
「ダイバダッタ、君に用はない。さて、ここで修行する者よ。汝らの中に、世尊の元に帰りたいと願っている者はいるであろうか。もしいるのなら、私たちについてくるがよい。世尊は決してお怒りではない。さぁ、勇気をもってたちがるがよい。何も恐れることはない」
「な、なんだとシャーリープトラ!」
ダイバダッタはそう叫ぶと、シャーリープトラに掴みかかろうとした。しかし、その瞬間、身体が動かなくなったのだった。モッガラーナが神通力でダイバダッタを動けなくしたのだ。
「さぁ、ダイバダッタの元を離れ、世尊の元に帰りたい者は、私に続け。仕返しなど怖くはない。こちらには、モッガラーナが尊者がいるのだから」
シャーリープトラは、そういうと優しく微笑んだのだった。それを見て、20人の修行僧が立ち上がった。
「私たちは世尊の元に帰りたいです」
「よろしい、では出発しよう」
こうしてダイバダッタについていった修行僧は、すべて霊鷲山のお釈迦様の元に帰ることができたのだった。
山頂では、お釈迦様が待っていた。お釈迦様は優しく微笑んで
「改めて修行に励むがよい。さぁ、座るがよい」
そう言ってお釈迦様は話始めた。
「よいか、誰もが選択を誤ることはある。どんな優秀な智慧をもった者でも、選択を間違うことはあるのだ。選択を間違えた事がない者はいないのだ。そう、選択を間違うことは仕方がない。できれば間違わないほうがいいのだが、仕方がないこともあるのだ。そう、大事なことは選択を間違わない、ということではない。大事なことは、選択を間違ったと気付いた時、どう対処するか、である。そのまま間違った方向に進むのか、それとも間違いを認め、正しい方向へと軌道修正するのか、そこが重要なのだ。
汝らは、選択の間違いに気付き、自らの誤りを認めた。そして、間違いを正すべく、勇気をもって行動に出た。やり直しをしようと心に決めた。それが大切なことなのだ。この気持ちを忘れず、修行に励むがよい」
お釈迦様はそういうと優しく微笑んだのであった。


選択を誤ることは誰にでもあることです。
あの時ああすればよかったのだろうか?
あっちを選ぶべきであったか・・・・。
そう思うことは誰にでもあることなのです。特によく聞くのは、
「この人を選んで良かったのかしら。あっちの彼を選んだほうがよかったのかしら」
という奥様方の声・・・・ですね。
まあ、結婚の選択は、取り返しがつかないことも多いのですが(離婚してやり直すことも可能ですが・・・)、そのほかの場合は、やり直しがきくことが多いのではないでしょうか。

先日「フォックスと呼ばれた男」という映画を見に行きました。普段映画館には足を運ぶことはないのですが、この映画の主人公が知り合いの御親戚だったために、それならばぜひ見に行かねば、と足を運んだのです。
詳しいことは書けませんが、この映画の主人公、様々な場面で選択を迫られます。御本人は、きっと大いに迷われたことでしょう。本当にこの選択でよかったのだろうか・・・・・と。
しかし、迷っていても始まらないし、素早く決断をしなくてはならないこともあります。とにかく選択をしなければ、ですね。その結果、間違いを犯すこともあるのです。しまった、あっちを選ぶべきだった、とね。
そんなとき、悔むのは間違いです。なぜなら、悔やんでも問題は解決しないからです。ならば、どうすればいいのか。
答えは簡単です。やり直せばいいのです。もう一度、選択した場面に自分の頭を戻して、選択し直せばいいのです。

ところが。
人はえてして選択のやり直しをしたがらない場合が多いんです。それどころか、選択ミスをしたことを認めない人もいるくらいです。明らかに選択ミスだろう、と思われることでも
「いや、そんなことはない。これでいいのだ」
と意地を張って、益々悪い状況に陥る・・・・そういうことも多々見受けられます。

意地を張っていても損をするばかりです。後悔しても取り返しは付きません。選択ミスをしたと気が付いたら、すぐに選択をした状況にまで戻って、選択し直す勇気を持つことが大事なのです。
それが前向きに生きることであり、苦しまずに楽に生きる方法なのです。恥をかくこと、誤りを正すこと、間違いを認めることは苦しみでも何でもありません。そこを間違わないようにして欲しいですね。
合掌。


第121回
現実から逃げていても何も生まれない。
現実を受け入れ、なすべきことをなしていく、
そこに光明が見出されるのだ。

シツアーナは、ヴァイシャリの街で商売をしていた。
「くそー、このごろ売り上げが悪いなぁ。まいったなぁ・・・・」
シツアーナは、今日も暗い店の中でブツブツ文句を垂れていた。
彼は、10年ほど前に今の場所に店を出したのだった。その前は、ヴァイシャリの郊外で、ほそぼそと商売をしていた。しかし、コツコツ努力をしたのと、たまたま自分で考えた商品が売れに売れて、まとまったお金ができた。彼は自信を持ったし、周囲からの声もあり、ヴァイシャリの街に店を出すことにしたのだ。思ったよりも大きな店を彼は持つことができた。
ヴァイシャリの街の人々は、彼の商品を珍しがり、大いに売れた。彼は、さらに店を大きくした。色々な商品を仕入れ、商売は繁盛した。
しかし、人の気持ちは離れやすいものである。人間は飽きるのだ。シツアーナもそのことはよくわかっているつもりだった。それでも、自分で考え出した商品はそこそこに売れていたため、人々の気持ちがそう簡単に離れるとは思ってはいなかった。売り上げもあったため、生活や商売に困るようなことはなかった。そうして10年が過ぎていった。
「シツアーナ、お前のところの商品は飽きられたのじゃないか?。お前が考えたというこの店の売りモノな、あれもなぁ」
「なんだ、みんなが飽きたとでも言うのか?」
「あぁ、そうじゃないかなと、俺は思うんだが・・・」
シツアーナには親切な友人がいて、ときどき店を訪れては、やんわりと意見を言っていた。
「何を言っている。俺のあの商品は、今でもちゃんと売れているよ。ヴァイシャリの人たちは、喜んで買っていってくれる」
「じゃあ、なぜ店に客がいないんだ?」
「今日は、たまたまだ。いつもはいるんだよ」
「俺が来る時は、シツアーナ、お前いつも暇そうだぞ」
「たまたまうちが暇なときに来るんだろ」
「そうかなぁ、俺はそうは思わないんだが」
「あのな、商売のことは俺はよくわかっている。教えてやろう、今は不景気なのだよ。ヴァイシャリを訪れる他国の者も少なくなっている。ヴァイシャリの街自体が冷え込んでいるんだ」
「まあ、確かにちょっと不景気だけど・・・・それほどじゃないよな。それに活気のある店もあるし」
「うるさいなぁ。うちの店は大丈夫なんだよ。ちょっと、今が悪いだけだ」
「まあ、お前がそういうならいいんだけど・・・。しかし、現実はなぁ・・・」
友人は、そういうとシツアーナの店を出ていった。

今が悪いだけだ・・・。
シツアーナは、そう自分にいいきかせていた。しばらくすれば、前のように戻る・・・・と。
何の根拠もない願望を抱えたまま3年が過ぎた。シツアーナの希望とは裏腹に、彼の店から客は次第に離れていったのである。友人は、それを見かねて何度もシツアーナに注意をした。
「何か目新しい商品を考えたほうがいいんじゃないか?」
「新しいものを仕入れてみてはどうか」
「売りあげに通じる見せものとかをするとかさ、工夫が必要なのじゃないか」
色々言ってはみたものの、シツアーナは聴く耳をもたなかった。
「シツアーナ、現実をよく見ろよ。売り上げがひどく落ち込んでいるのじゃないか?。最近、お前の顔色も良くないぞ。どうかしてるぞ、お前は」
「うるさいなぁ、放っといてくれ。大丈夫だって言ってるだろ」
「そんなことはないだろ。ここ3年ほどで、ずいぶん悪くなっているじゃないか。言っておくが、不景気のせいばかりじゃないぞ」
「うるさいな。悪いように見えるかもしれないが、大丈夫なんだよ」
「大丈夫じゃないだろ。あぁ、そうだ、一度お前、お釈迦様にみてもらえよ。お前、おかしいからさ。どうみても、ちょっと変だぞ。そうだ、それがいい。お釈迦様に相談したほうがいい」
「お前はバカか。お釈迦様に商売のことがわかるわけがないだろ。修行者だぞ。商売のことは、俺が一番よく知っている。その俺が言うんだ、大丈夫だってな」
その言葉を聞き、友人はがっかりした表情でシツアーナの店を出ていったのである。

ある日のこと、シツアーナの店の前に托鉢の修行僧が立った。その姿を見て、シツアーナは怒鳴った。
「帰ってくれ、見た通り、うちは貧乏だ。あんたらに与える食事などない」
「ふむ、現実が見えているようだ。ならばよかろう」
「な、なんだと、どういう意味だ」
「汝は、現実が見えていないのだと思っていた。しかし、自分の店がもうダメだとわかっているようなので、私が何も言うことはないな、と思っただけだ」
「この店がもうダメだというのか?」
シツアーナは大声で怒鳴った。
「おやおや、やはり現実がわかっていないのか?。いや、わかってはいるが、それを受け入れようとせず逃げているだけか・・・。哀れなものだ。早くに現実を受け入れ、逃げなければ打つ手もあったものを・・・・。哀れなものだ・・・・」
修行僧はそう言って、シツアーナの店をでて、次の家へと向かった。シツアーナは、慌ててその修行僧を追いかけた。
「もっと早くにって・・・打つ手はあったって・・・・どういうことだ」
シツアーナは、修行僧の後ろ姿に叫んだ。修行僧は振り向かずにそのままの姿勢で言った。
「汝の友人が忠告をしたとき、汝が現実を認め、それを素直に受け入れ、友人の忠告に従い、気持ちを入れ替えて商売に臨んだのなら・・・・・こんなことにはならなかったであろう。根拠のない願望にしがみつき、現実を見ようとしないから、このような結果になったのだ。現実を受け入れ、なすべきことをしていれば、今ごろは光明がさしていたであろう。現実逃避からは何も生まれないのだ」
そういうと、修行僧はどこかともなく、いつの間にかいなくなったのだった。シツアーナは、その場から動けなかった。

そのしばらく後、シツアーナの店があった場所は、空き地になっていた。その空き地にたたずむ人影が二つあった。
「私がもっと早くお釈迦様に相談していれば、彼は救われたのかもしれません」
「それはないであろう。シツアーナは現実から逃げることで、自分を維持していた。現実を受け入れることを拒否していたのだ。現実から目をそむけ、逃げてばかりいては、何も生まれない。何も進歩しない。前には進めないのだ。前に進みたい、現状を変えたい、どうにか立ち直りたい、と思うのなら、まずは現実を受け入れることが大事なのだ。現実をしっかり見つめ、それを受け入れるからこそ、なすべきこと、やるべきこと、が見つかるのである。そうして、努力を重ねていけば、やがては光明が差すのだ。現実を受け入れることを拒否する者に、光明はささないのだよ」
お釈迦様の厳しい言葉に、シツアーナの友人はうなだれるだけであった。
「汝も、現実を受け入れることだ。もうここにシツアーナはいない。彼はどこかへ去ってしまったのだ。その現実から逃げてはいけない」
シツアーナの友人は、何度もうなずいたのであった。


東北沖で大きな地震がありました。とてつもなく大きな津波がやって来て、多くの尊い命を奪っていきました。また、多くの街や建物を打ち壊していきました。これは、映画でもなければ夢でもありません。現実そのものです。被害に遭われた方の中には、
「眼が覚めたら夢だった・・・・となってくれたら」
と願う方もいらっしゃるのではないかと思います。しかし、それはあり得ません。現実は現実であり、変えようがないのです。

阪神大震災の時もそうでした。自然の驚異の前に、多くの人々が愕然としてしまいました。考えることすらできず、どうしていいかわからず、ただただ茫然としていただけの方がたくさんいらっしゃったことでしょう。今回も同じです。現実のあまりのひどさに、茫然自失状態だと思います。
しかし、いつまでも茫然自失でいてはいけません。厳しい言葉かも知れませんが、現実を早く受け入れることです。ショックでしょうが、それをいつまでも引きずっていてはいけないのです。早くに現実を受け入れ、認め、今なすべきことは何か、何をすべきか、を考えることです。そして、コツコツ努力を積み重ねていくことです。

それは厳しい道のりでしょう。あまりにも被害が大きすぎて、何をしたらいいのかわからないくらいでしょう。しかし、それでも考える必要があるのです。そうしてきたからこそ、神戸は立ち直ったのです。
現実から逃げずに、現実を受け入れ、なすべきことを見出し、それをコツコツこなしていく。
それこそが立ちなおる早道なのです。そうした努力を積み重ねるからこそ、やがて光明がさしてくるのです。

今回の震災の被害に遭われた方だけではありません。どんな場合でも、どんな状況であっても、現実から逃げてはいけません。そこからは何も生まれません。現実を受け入れて初めて道が開かれるのです。そこから、打開策が出てくるのです。厳しく、辛い道かもしれませんが、応援する方もたくさんいます。皆とともに前に進みましょう。
合掌。


第122回
言葉の意味の重要性は、それを言った者によって変るものではない。
言葉の内容そのものにより、重要性は決まるのだ。
誰が言おうが意味のある言葉は重要であり、意味のない言葉は無用である。
「この世に生まれた以上、死は免れない。この世に誕生した者すべては、老化し、あるいは病むこともあり、やがては死を迎えるのである。これは誰にも避けられないのだ。死からは誰も逃げることはできないのだ。それをあなたたちは、まず認識しなければならない。よいか、逃げられないものであるならば、受け入れてしまえばよいのである。生まれた以上、老いるのは当然だ、時には病にもかかろう、そして死を迎えるのだ。それはすべて当たり前のことである、自然のことである、と受け入れてしまうがよい。自然の流れに抗うことなく、時の流れに逆らうことなく、すべてを受け入れたとき、死の恐怖は無くなるのである」
お釈迦様は、そこに集まった人々や弟子たちに、教えを説いていた。教えはまだ続いた。
「よいか、この世に同じ状態でとどまるものは、何一つあり得ない。すべては時の流れとともに変化し続けているのだ。変化しないものはないのだ。すべては無常なのだ」
その時、一人の若者が叫んだ。
「じゃあ、未来に夢も希望もないじゃないか。いずれ人間は死んでしまう。何もかも変化していってしまう。ひょっとしたら、もっともっと悪い人生に変って行くこともある。今、せっかく安定した生活を送っているのに、いつまた不幸に添われるかわからないじゃないか。お釈迦様のおっしゃることは、今の幸せは続かないってことでしょ?。ならば、将来に夢も希望もないということじゃないですか。そんな人生って・・・・じゃあ、何のために生きているのですか?」
「こりゃ、世尊になんて無礼な口のきき方をするのじゃ。もう少し言葉遣いを丁寧にせんか。・・・・申し訳ないです、お釈迦様。この者は、愚か者ゆえに言葉を知らないもので・・・」
若者の隣にいた老人がお釈迦様に頭を下げた。「こりゃ、お前も謝らんか」と小声で言っている。
「よいではないか。元気があってよろしい。しかも、汝の質問はとても良い質問だ」
お釈迦様は、優しく微笑んだのだった。

その若者は、かねてからお釈迦様の教えに疑問を抱いていた。
「お釈迦様はさ、諸行無常とかいって、教えを説くけどさ。何もかも変化していく、いいことも悪いことも変化ししていく、同じ状態にはとどまらない、っていうならさ、努力しても仕方がないんじゃないのかな?」
その若者は、おじいさんと二人で暮らしていた。
「なんてことをいうんだ、お前は。お釈迦様のありがたい教えをそんなふうに・・・・」
「なに言ってるんだじいちゃん。いくらお釈迦様の言ったことだからって、すべてが真実とは限らないだろう」
「この罰あたりめが!。お釈迦様は仏陀であらせられるのだぞ。伝説の聖者だぞ。そのお言葉はすべて真実なのじゃ。この愚か者めが!」
「そうかなぁ・・・・。でもさ、どうしてそうなるのか、ってことを理解しなきゃ、納得できないんだよなぁ」
「何をいうか。仏陀はウソはつかないから、仏陀なのじゃ」
「じゃあさ、じいちゃんわかるか?。諸行無常なんだろ。すべては変化しているんだろ。じゃあさ、べつに頑張らなくても、そのうちになんとかなることもあるんじゃない?。悩まなくてもさ、勝手に悩み事だって消えてしまうこともあるってことだろ。今はさ、こうして楽に暮らしているけど、いつまた不幸がやって来て、食えなくなる時が来るかもしれないってことだろ。だっらさ、あんまり頑張らなくてもいいんじゃないか?。世の中の方が勝手に動くって言うならさ、なにも俺が動くことはないじゃないか。そういうことなら、努力したって無意味だし、努力したってそれが実る頃には世の中が変っちゃって、その努力を必要としなくなることもあるよね。じゃあ、努力は無駄じゃん。適当に生きればいいんじゃないのかな?。ということは、俺みたいな人間には、将来の夢も希望ないってことになるぞ。頑張っても無意味。夢も希望もありゃしない。お釈迦様は、そういうことを教えているわけなのか?」
「違う違う、そういう意味じゃない」
「じゃあ、どういう意味なんだよ?」
「う〜ん、なんというか・・・・。お前も難しいこというなぁ・・・」
「じいちゃんみたいにさ、お釈迦様の言ったことは何でもありがたいって、頭っから信じてしまうのは、俺はどうかと思うよ。もっと自分で考えなきゃ。そんなふうに、何でもかんでも鵜呑みにしてたら、うわさ話に振り回されることだってあるよ。そういえば、この間も、なんとかの野菜がなくなるっていう噂を信じ込んで、たくさん買い込んでいたよな」
若者は、おじいさんを軽蔑するような眼で眺めた。
「結局、全部腐らせてしまった」
「あれはな、町名主のお方がそう言ったから、ついつい・・・・」
「だから、偉い人が言ったことだからって、それが真実とは限らないだろ。本当のことかどうか、確かめてから動くべきだろ。じいちゃんは、そう思わないのか?」
「う〜ん、そうは言ってもなぁ・・・・」
「そうは言ってもなぁ・・・じゃないよ。少しは、自分で考えたほうがいいじゃない?」
「考える・・・・のか?」
「そう。その言葉が本当かどうか、自分の頭で考えなよ。じゃないと、簡単に騙されるよ」
「そんなことはない、わしは騙されん」
「現に騙されたじゃん。あの野菜、買い込んだだろ?」
「うん、買い込んだ」
「あれはさ、あの町名主が、でき過ぎたあの野菜を売りさばくために言ったことなんだぜ」
「な、なんと。それは本当か?」
「あぁ、本当だよ。俺は調べたんだ。で、町名主の懐には売り上げの一部が入ったっていう仕組みさ」
「あぁ〜、騙された・・・・。なんと、そんな裏があったとは・・・」
「それはさ、騙される方も悪いよ。ちょっと考えればわかることじゃないか。野菜が取れなくなるなんて、そんなことはないだろうに」
「いいや、天候によっては、野菜が取れなくなることもあるぞ」
「いつ、天候不順だったのさ?。ここ何年も天候は順調だよ。だから、ちょっと考えればわかることだ、っていったの。じいちゃん、少しは本当のことかどうか、疑うことも必要だよ」
若者の言葉に、おじいさんは小さくしぼんでしまったのだった。
「まあ、じいちゃんは年寄りだから仕方がないけどな。というわけなんで、俺はお釈迦様のところに行ってくる。ちょうど近くの花園に滞在しているそうだから」
「なんでじゃ。お釈迦様はウソはつかんぞ」
「だから、頭からそう信じちゃいけないって。少しは疑ってみないと、その言葉の本当の意味も見えて来ないじゃないか。だから、これから行ってくる、お釈迦様の元へね」
「ちょっと待て、わしも行く。お前ひとりじゃ心配だからのう。お前は無礼だからな。そうじゃ、今日は午後から法話の会がある日じゃ。ちょうどいい。お前もお釈迦様の尊い話を聞いて、その腐った根性を叩き直すがいい」
「なに言ってるの、じいちゃん。俺は、叩き直されるようなことは何一つしないよ」
ということで、二人はお釈迦様の法話会に参加していたのだった。

「若者よ。良い質問だ。そうだ、そのように疑問を持つことはよいことだ。汝の質問に答える前に、皆の者にも注意しておこう。たとえ、聖者と言われるものが言った言葉であっても、鵜呑みにしてはいけない。たとえ、立派な者がいった言葉であっても、そのまま信じ込んではいけない。その言葉の真意は何か、その言葉は真実なのか、なぜそのようなことを言ったのか、そうしたことを考えることが大事なのだ。
私が諸行は無常である。と言ったならば、多くの者は『あぁ、そうなのか。諸行は無常なんだなぁ。すべては移り変わって行くんだなぁ』と簡単に信じ込んでしまうであろう。しかし、それは本当の理解ではない。『あぁ、そうなんだ』で終わりなのだ。それは理解とは言わないのである。本当に諸行無常なのか、なぜ諸行無常なのか、ちゃんと考察してみて、納得して初めて理解したことになるのだ。
それを言った者が、世間で信用のあるものであるとか、地位や名誉のあるものだからとか、そういう理由で、鵜呑みにしてはいけないのである。吐かれた言葉の意味の重要性は、それを言った者にあるのではなく、その言葉の内容にあるのだ。その言葉を言った者の地位や身分などによって言葉の重要性を決めていてはいけないのだ。言葉の重要性は、その内容そのものにあるのだよ。
よいか、言葉を吐き出す者に惑わされてはいけない。誰が言った言葉であれ、意味の深い言葉は重要であり、意味のない言葉は無用なのだ。身分の高いもの、有名な者が言ったか言葉であっても、無意味な言葉はあるのだ。惑わされてはいけないのだ。そのことをよく注意しておくように。それを忘れたならば、あなたたちは、言葉に振り回され、言葉の真実を知ることなく、言葉に苦しめられるであろう。
若者よ、汝の質問により、大変良い注意を与えることができた。さて、では、汝の質問に答えるとしよう」
お釈迦様は、いつにない笑顔で教えを説き始めたのだった・・・・・。


名前が知られた方、有名な方、地位や名誉のある方が言った言葉は、世間に歓迎されます。
「あの人がこんなことを言っていた。さすがだなぁ。いやあ、すごい」
というようにね。ところが、同じ内容のことをそこらへんのオッサンがいっても、あまり受け入れてもらません。新橋あたりで飲んだくれているサラリーマンのオジサンが、いくら立派なことを言っても、
「誰の受け売り」
と言われる程度です。まったく同じことを言っても、尊敬など少しもされないでしょう。
そう、人は、その言葉の意味自体によって、その言葉の価値を判断しているのではなく、言葉を言った人物の肩書によって言葉の重要性を判断しているのですよ。
だから、騙されたりするんですよね。いい例が、「TVで言ってたから」です。

日本人の多くの人は、TV番組の内容を信じやすい人が多いようですね。疑うことをしないようです。
「TVでこんなことをいっていたよ」
「TVで言ってたんだけど、これが流行るんだって」
というのは、よく耳にする言葉ですよね。こうしたことは、まだかわいいものですが、
「TVで言ってたけど、トイレットペーパーがなくなるんだって」
といって、かつてパニックを起こしたこともありますからね。TVは怖いものです。今も、TVで放射能被害を報告するという正常な報道活動の裏で、風評被害という副作用を起こしています。正しくTV報道を聞いていれば、こんな副作用は起こらないんですけどね。ちゃんと最後まで聞かない、報道されたことの意味をよく考えない・・・から、おこってしまう悲劇なのでしょう。

TVでいっているから、あの立派な人が言っているから、あんな偉い人が言っているから・・・・といって、何でもかんでも鵜呑みにするのは、よくありません。その言葉の意味の重要性は、その言葉を吐いた人間にあるのではありません。その言葉自体にあるのです。
有名な社長が言ったからって真実とは限りません。
TVで言ったからと言って、本当のこととは限りません。実際、やらせ報道もありましたし、取材で得た情報をすべて流しているわけではありませんからね。そこには、編集という、人間の勝手な考えが入り込みますから。
宗教家が言ったからと言って、それが本当とは限りません。さもそれらしいことはいいますが、それが真実かどうか証明のしようがないことは、一応疑ってみてもいいとは思いますよ。

誰それが言ったから、TVで言っていたから・・・・などといって、簡単に信じてしまうのは止めましょう。まずは、その言葉が本当なのかどうか、確かめてみましょう。今は、ネットがあります。簡単に色々調べることができます。言葉を鵜呑みにする前に、自分で考えることも大事でしょう。
それを忘れてしまい、すぐに信じてしまうと、騙されやすくなります。疑うことも必要なんですね。

さて、この話には続きがあります。諸行無常の意味、ですね。諸行無常ならば、努力する必要はないのではないか、という疑問に対する答えです。それは次回に掲載いたします。
合掌。


第123回
世の中のことはすべてにおいて変化し、固定されない。
だからと言って何もせず放っておいていいものでもない。
なぜなら、変化には良い変化もあれば悪い変化もあるからだ。
良い変化を得たいのであれば、そのための努力が必要である。

「若者よ、汝は私が世の中は諸行無常であり、常に移り変わっているという真理を説いたことに対し、大変良い質問をした。汝、もう一度、その質問をしてみるがよい」
お釈迦様に質問をした若者は、少々照れながら立ちあがって言った。
「あの・・・えっと・・・。世の中は常に移り変わっているというのなら、未来に夢も希望もないのじゃないかと思います。いずれ人間は死んでしまいます。何もかも変化していくというのなら、今よりも悪い人生になってしまうかもしれないし、安定した生活をしている人もそれを失ってしまうかもしれません。お釈迦様がおっしゃることは、今幸せであってもそれは続かないということでしょ?。だとすると、将来すごく不安じゃないですか。今、うまくいっていることも行かなくなるってことでしょ。その可能性があるんですよね。そんな不安定な未来を抱えている我々は、どうやって生きていけばいいんでしょうか?。何もかも変化するなら、ひょっとしたら悪いことが良い方向になることだってあるってことでしょ。ならば、人間の努力ってなんですか?。努力しなくても良くなったりすることだってあるってことでしょ?。じゃあ、努力って無駄ですか?。いや、下手な努力なんてしなければいいじゃないですか。なんだって勝手に変化して行くんですから」
若者の質問に、出家者の多くの者は顔をしかめた。何をバカなことを・・・と思っているのだろう。しかし、在家の者たちの多くは、なるほど・・・と小声でうなずいていた。若者に同調する者は多かったのだ。
お釈迦様は、その様子を見て、満足げにほほ笑んで言った。
「若者よ、汝の疑問はもっともなことだ。そうした疑問を持つことはとても良いことだ。では、汝の質問に答えよう。
この世の中は諸行無常である。これは真理だ。この諸行無常の真意をまず説明しておこう。よいか、この世に生まれたものすべては滅びに向かっている。それは、生ある者であっても、生のない物質であっても同じだ。この世に誕生したと同時に、すべてのものは死に向かっている、滅びに向かっているのだ。若者よ、汝も同じだ。汝が身につけている衣服や履物も同じだ。滅びに向かっている。そして、この大地も空も宇宙もすべては、誕生したと同時に滅び・・・死に向かっているのだ。これはまぎれもない事実である。そう、すべては死に向かって生きているのだよ。
ならば、生きていくための努力は無駄か、と問われれば、それは否、であろう。若者よ、考えてみよ。たとえば、この世に人が生まれたとする。赤ん坊だね。諸行無常であるからといって、その赤ん坊を放っておいたらどうなるか?」
お釈迦様は若者に尋ねた。
「そりゃあ、間違いなく死にます。すぐに死にます」
若者は答えた。
「ならば、母親が乳を飲ませたらどうなる?」
「生きます。死ぬことはありません」
「そうだな。では、その子が少し大きくなって病にかかったとしよう。医者に見せずに放っておいたらどうなる?」
「病気によっては治る場合もありますし、治らない場合もあります。ひどい病気ならば死にます。軽い病気なら、放っておいても治るでしょう」
「そうだな。ならば、早めに医者に診せたらどうなる」
「軽い病気なら早く治ります。重い病気でも、医者に診せたら助かる場合もありますし、助からない場合もあります」
「そうだな。病が治る可能性はいくらでもある。しかし、医者に診せなければ、その病が治る可能性は高くなるか低くなるか?、どちらだ?」
「医者に診せなければ・・・治る可能性は当然低くなります。助かったはずが、助からない場合もあります」
「そういうことだ。よいか、若者よ。諸行無常とは、そういうことなのだよ」
お釈迦様の答えに若者は一瞬「えっ」という顔をしたが、すぐに「あぁ」と言って納得したのだった。そして、自分なりに説明をしてみたのだった。
「なるほど、そういうことですか。たしかに、病に罹った子供は常に変化していきます。快方に向かう場合もあれば、悪化する場合もあります。放っておいても治る場合もあれば、放っておくことで益々悪化する場合もあります。しかし、早めに医者に診せれば、快方に向かう可能性は大きく上がります。反対に医者に診せなければ、快方に向かう可能性は下がっていくでしょう。生まれた以上、死に向かっているといっても、長く生きて死を迎える場合もあれば、短く生きて死を迎える場合もあるわけです。医者に診せれば長く生きられる可能性が上がるのですね・・・・。なるほど、つまり・・・・」
若者はそこでいったんうなずいた。
「つまり、努力とは、医者に診せることと同じなわけですね。病が快方に向かうというのは、生活が良くなる方向、幸せに向かうと同じことです。病が悪化するとは、不幸になるということと同じです。医者に診せるというのは、努力することと同じです。すなわち、我々の人生は、努力すれば幸せになる可能性が増えるし、努力しなければ不幸になる可能性が増える、ということです。最終的な結果は、同じ『死』ではあるのですが、努力次第でその『死』を早く迎えるか、遅く迎えるか、幸せな状態で迎えるか、不幸な状態で迎えるか、それが変ってくる、ということなのですね。なるほど・・・わかりました」
若者の話を聞き、お釈迦様は大きくうなずいた。
「そうだ、その通りなのだよ。我々人間は、重い病に罹った子供と同じなのだ。放っておいても、自然に幸運が舞い込み病が治る・・・すなわち幸せになる・・・者もいるが、可能性は低いであろう。病を治すための努力した者は、その病が治る・・・すなわち幸福になれる・・・可能性が増すのである。しかし、それはあくまでも可能性である。確定的ではないのだ。しかも、医者によって治り方も違うように、努力の仕方によって、幸福の度合いも、いつ幸福になるかも、自ずと異なってくるのだ。しかし、何もしなければ、病が治る可能性は大変低くなるのだよ。最悪の場合は、早い死を迎えることになるのだ」
「つまり、医者に診てもらうことは無駄ではないし、早めに診てもらった方がいい、ということですね。すなわち、努力は無駄ではないし、早めに努力したほうがいい、ということですね」
「そういうことだ」
若者とお釈迦様のやり取りを聞いていた人々は、みな納得をした顔をしたのであった。
「たとえば、今汝は幸せな状態にあるとしよう。何もかもに恵まれて、幸福を味わっている。しかし、その幸福にもやがては影が差す時が来るのだ。幸福も変化いしていくのだ。しかし、若者よ、もし幸福になったならば、その幸福をできるだけ長く続けていたいであろう?」
「もちろんです。できるだけ長く幸福でいたいです。できれば、死を向えるまで、幸せな気分でいたいです」
「しかし、永遠に幸福はあり得ないのだ。病にかかるかもしれない。突然の不幸に見舞われるかもしれない。何が起こるかは分からない世の中だ。それこそ、諸行無常である。だから、人々は、幸福をより長く続かせようとして、努力するのである。その努力を怠れば、幸福な時期などあっという間に去っていくであろう。
逆に、若者よ、汝が今不幸であるとしよう。その場合、諸行無常であるからと言って、何もせずにいたら不幸は幸福に変化するであろうか?」
「通常、そういうことはないです。何か奇跡的なことでも起こらない限りは、不幸な者が努力を怠れば、益々不幸になっていくでしょう」
「その通りだ。不幸にあるものは、大いに努力せねば、不幸からは抜け出すことはできない。諸行無常だからと言って、不幸な状態のまま何もせずにいたら、益々不幸になるのは目に見にえている」
「なるほど、よくわかりました」
若者は、大きくうなずいたのだった。

「でも・・・・」
若者が再び疑問を声にした。
「でも、努力しても努力しても報われない人もいますよね。あぁ、そうか、いくら医者にかかっても、治らない病もあるなぁ・・・・」
「その通りだ。努力してもなかなか報われない場合もある。医者にかかっても治らない病もある。だからといって、医者にかかることをやめれば、すぐに死が訪れよう。努力することをやまてしまえば、さらに落ちぶれてしまうことは否定できないであろう。病の場合は、医者を替えたら治る場合もある。同じように、努力の仕方を変える、あるいは職業を変える、生活の何かを変えることにより、好転する場合もある。努力の仕方によっては、さらなる変化をもたらすことになるのだ」
「なるほど・・・わかりました」
若者の顔はすっかり晴れていた。
「よいか、皆の者」
お釈迦様は、そこに集まっていた多くの弟子たちや人々の顔を見回して言った。
「この世は諸行無常である。何かもが常に変化し、固定はされない。変化しないもの、永遠のものはないのだ。
しかし、常に変化しているからといって、何もせず放っておいていいものではない。もちろん、ごく稀に放っておくことが効果的であることもあるであろう。しかし、多くの場合は、放っておけば悪化する場合が多いのだ。
よいか、変化には良い変化もあれば、悪い変化もある。多くの場合、放っておけば、悪い変化になるのだ。それは、人が病にかかった場合と同じようなものなのだ。もし、汝らが、よりよい変化を求めるならば、そのためには努力が必要なのである。
諸行無常とは、世の中は常に変化しており、永遠のものはない、という真理のことである。生まれた以上、死を迎えるという真理を説いたのだ。その死を早く迎えるか遅く迎えるか、死に至るまでどう過ごすかをいうことを説いたのではない。そこを混同してはいけない。生き方は、別のことなのだよ」
お釈迦様がそう説いているあいだ、若者は別のことを考えていた。そして、お釈迦様が話し終わると、手を挙げて質問をしたのだった。
「また一つ疑問が湧いたのですが」
「なんであるか、言ってみよ」
「人によっては、少し努力すれば報われる人もいますが、努力しても報われない人がいますよね。先ほども少しふれましたが・・・。そのとき、お釈迦様は医者を変えるものよい・・・つまり、努力も仕方を変えたり、生活の中において何か変えるべきものを探すのもいい、職業を変えるのもいい、とおっしゃいました。しかし、それでも、基本的に同じように努力をしているのに、差が生じます。同じように頑張っているのに、報われ方は差があります。運のいい奴もいれば、運が悪い奴もいて、あまり努力もしていないのに、幸運に恵まれる者もいます。そもそも、始まりの時点で差があります。それはなぜなのでしょうか?」
若者の質問にお釈迦様は
「これはまたいい質問だ。では、汝の質問に答えよう」
と、ほほ笑んで言ったのであった・・・・。


「諸行無常なら努力しなくてもいいんじゃないか」
という質問はたまに受けることがあります。しかし、それは、その質問自体がナンセンスなんです。本当はね。
諸行無常とは、「生まれたものは滅びに向かう。永遠はない」という真理を表した言葉です。ですから、努力する、しないという能動的なことは含まれていないのですよ。

確かに世の中には、放っておいた方がいいこともあります。余計なことをして悪化させてしまう場合もあります。特に人間関係などは、大きなお世話によって、関係をこじらせてしまう場合がまま見受けられますよね。しかし、間に取り入ることによって、人間関係を修復する場合もあります。それは、ケースバイケースで、一概には言えないことですよね。放っておくか、介入するかは、見極めが必要です。その見極めができるようになるのは、「努力」あってのことでしょう。

たとえば、勉強。努力すれば、進路が広がります。進路の選択肢が色々増えてきますよね。しかし、努力せずサボってばかりいたならば、進路の選択肢はものすごく狭くなるでしょう。世の中、努力しなければ、先への可能性が低くなるのは間違いありませんよね。努力を怠れば、それなりに進むべき道は狭くなっていくのです。

諸行無常だからといって、努力しなくてもいい、ということではありません。まあ、努力しなくて放っておけば、苦しいだけ、ではあります。で、努力せず、自然にまかせたならば、その苦しみからなかなか抜け出せないでしょう。努力は、やはり、それなりに必要なのです。いい状態を長続きさせるためにもね。
つまり、諸行無常であるから、いい状態も続くことはないのですよ。しかし、そのいい状態をできるだけ長く保ちたいのが人間でしょう。ならば、いい状態を長く保てるようにするには、それに応じた努力が必要になるわけです。努力しなければ、いい状態も長く保つことはできないのです。逆に、悪い状態もいずれは変化するのですが、さらに悪い状態に変化する場合もあるでしょう。できれば、悪い状態から脱出したいし、早く脱出したいものです。ならば、それに応じた努力は必要になるのです。それは、当然のことですよね。
良い状態を保ちたい、良い方向に転じたいと思うなら、それに応じた努力が必要になるのです。
合掌。


第124回
なぜ人によって差があるのか。
それは、前世の行い・・・徳と罪の差による。
そうした現実を受け入れ、不平不満を言わず努力と徳積みをしよう。
それが、幸運への道なのである。

「若者よ、もう一度、尋ねてみよ」
お釈迦様は、優しく若者に促した。若者は、「では・・・」といい、居住まいを正して再び質問をした。
「同じように頑張っているのに、世の中の人々によっては、報われ方は差があります。運のいい人もいれば、運が悪い人もいて、あまり努力もしていないのに、幸運に恵まれる人もいます。そもそも、始まりの時点で差があります。そうした差は、なぜ生じるのでしょうか」
「若者よ、汝は本当に良い質問をする。私の弟子も見習って欲しいくらいだ。では、汝の質問に答えよう」
お釈迦様はそういうと、周囲の者たちを見回した。それは、皆もよく聞きなさい、という意味だった。
「そう、この世には人によって大きな差がある。まずは、身分の違いがある。生まれながらにして王族の者もいれば、バラモン階級の者もいる。商人の者もいれば、農業を営む者もいる。工芸品を作る者もいれば、雇われている者もいる。奴隷階級もあれば、その下の身分もある。生まれながらにして、まずは身分という差がある。
また、それぞれの身分の中にも差がある。王家直属の者もいれば、王家に属するだけの者もいる。同じ部族であっても武将もいれば、単なる兵士もいる。同じ商人であっても大商人もあれば、小さな商売を営む者もいる。奴隷階級のものでも、裕福な家に雇われる者もいれば、どこにも雇われない者もいる。それぞれの階級の中でも差が生じているのだ。
さらには、それぞれの階級の中でも、懸命に努力をして、出世していく者・大金を掴む者・武将へと昇進していく者もいれば、懸命に努力をしても、なかなか出世しない者・お金を儲けられない者・金を失う者・昇進の機会のない者・・・もいる。むしろ、懸命に努力をしても、なかなか報われない者の方が多いくらいであろう」
お釈迦様の言葉に、集まっていた人々は大きくうなずいた。お釈迦様の話を聞きに来ている者たちは、王族や武士階級の者もいれば、商人や農民、奴隷階級の者もいる。その割合は、圧倒的に貧しき者や不幸な境遇にある者の方が多い。だからこそ、お釈迦様の言葉に大きくうなずいたのだ。

「ここにいる者もそう思うであろう。懸命に努力しているのに、なかなか思うようにならない・・・・。毎日毎日修行し、瞑想しているのに悟りが得られない、あとから弟子入りした者に抜かれてしまっている、いったいなぜだ・・・・と思う修行僧も多いことであろう。そう、世の中は、思うようにはならない・・・・それは真理なのである。
思い通りにならないはずの世の中なのに、少し努力しただけで思うようになっていく者もいる。昨日今日始めたばかりなのに、前からいる者を簡単に抜き去ってしまう者もいる。懸命に努力をしているものを尻目に、あっという間に抜き去ってしまう者がいるのも事実である。
この差はいったい何なのか。なぜ、人によって、このような差が生じるのか。思い悩むことであろう。
差はそれだけではない。容姿の差もある。美しく生まれる者もいれば、醜く生まれる者もいる。大勢の者から好かれる者もいれば、嫌われる者もいる。どうしようもない差が、そこにはあるのだ。このような差がなぜ生じるのか・・・・・」
お釈迦様の言葉に、集まった人々はしんみりとした。皆、心のどこかでひっそりと思っていたことだからである。普段は、見ないようにしようとしていたことだからであった。
「さて、この差がある現実、これはなぜ生まれるのか・・・・。
汝らは、輪廻転生を信じていよう。人は死を迎えたら、生きていた時の罪と徳によって、生まれ変わり先が変っていく・・・・それを汝らは信じていよう。そう、人の命は輪廻するのだ。しかし、この世に生まれる以前の記憶は、もちろんない。それは我が引き継がれるわけではないからだ。今ある我・・・個といってもよい・・・は、今の世で終わる。次の世には、今の我を持ちこすことはない。我は本来無いものであるから、この世での命が終われば、我も終わるのだ。稀に、前世の記憶を持っている者もいるが、それはほんのわずかである。悟りを得て、神通力が使えるようになれば、己の過去世を知ることはできるが、ほとんどの者は、過去世の記憶はない。我は引き継がないのだよ。
しかし、次の世に引き継いでしまうものがある。それが罪と徳である。この世で行ったことの善と悪、徳と不徳・・・そうしたものは、次の世へも引き継いでしまうのである。
たとえば、この世に美しく、あるいは多くの者に好かれる者として生まれた者は、前世において好かれるような徳を残したのだ。美しくなるような徳を残したのだ。具体的に言えば、決して他人の容姿について悪口を言わなかったとか、決して争いの中に身を置かなかったとか、自分が争いの原因とならなかったとかいう、徳を残したのだよ。
たとえば、手先が器用に生まれた者は、過去世において手先が器用になるような努力をしていたのだ。過去世では報われなかったのではあるが、次の世でその努力は徳なって引き継がれ、手先が器用な者に生まれたのだ。
たとえば、この世で大金持ちになる者は、過去世において、大いに布施をした者なのだよ。貧しい者への施し、神への寄付、困っている者たちへの助け、そうした救済という行為を大いになした者が、この世で大金を掴むこととなる。逆に、懸命に働いても、なかなか大金を掴むことができぬ者は、過去世において寄付や施しを渋った者なのだ。
つまり、この世での差は、前世にその原因を作ったことによるのだ」
お釈迦様の言葉は、重く人々にのしかかった。多くの人々は、肩を落とし、うなだれていた。そこには、一種のあきらめという思いが流れていたのである。

「前世に原因があるなら・・・・俺たちはどうしうようもない。あきらめろ、というのですか?」
何度も質問をした若者が、立ち上がって怒鳴った。
「懸命に努力しても無駄。頑張っても無駄。あきらめて今のまま生きていればいい、ってことですか?。それじゃあ・・・・そんな人生じゃあ・・・・やってられない!。お釈迦様だって、諸行無常だから、いい方向に変ることもあるし、変えることだってできる、って言ったじゃないですか!」
若者は、大声で叫んだ。「そんなのおかしい!」と。
お釈迦様は、その若者を見て、にこやかにほほ笑んだ。
「そう、おかしい。汝の言う通りだ。懸命に努力しても報われないなんて、おかしい。が、私はそんなことはいっていない。だからよく聞きなさい、といったのだ。よいか・・・・。
この世での差はなぜ生じるのか、という質問を汝はした。その答えが、前世での罪と徳によるものだ、と答えたにすぎない。あまり努力もせずに幸運を手にする者は、前世において徳を積んだ者、努力してもなかなか報われない者は前世において徳を積まなかった者、と言っているにすぎない。わかるかね?」
「あっ、あぁ、そうでした。お釈迦様は私の質問に答えてくださっただけです。先走ってしまったのは、私たちのほうです・・・・」
「そうだ、汝らは先走って物事を解釈してしまった。そういうところから、誤解が生じるのだよ。人の話は、ちゃんと聞かねばならない・・・・。
よいか、私は、この世での人々の差の原因は前世にある、と言ったにすぎないのだ。前世の徳と罪によって、この世での差が生じるのだよ、と。これは、真実なのだよ。
しかしながら、だからといって、人生をあきらめろ、などとはいっていない。では、どうすればいいのか。この差をどうしたらいいのか・・・・・。汝らが知りたいのはそこであろう」
お釈迦様は、そういうと優しく微笑んだのである。

「簡単なことである。この世の差が生じた原因が、前世での徳と罪ならば、この世で徳を積み、罪を犯さぬようにすればいいのだよ。そうしたうえで、努力をすれば、やがてこの世での徳と努力により、汝らは幸運をつかむことができるであろう。
よいか、差があることを嘆いていてはいけない。努力が報われないことを悲観してはいけない。嘆き、悲観する暇があるのなら、徳を積み、罪を犯さぬようにして、努力を重ねることだ。
差があるという現実を素直に受け入れ、差があることに対して不平不満を言わず、徳を積む行為をし、生きることに対し努力をすること、それが幸運をつかむ方法なのである」
お釈迦様はそういうと、にっこりとされた。人々は、あぁなるほど・・・という顔をして、うなずいたのであった。
「そ、そうか・・・。なかなか努力が報われないことや、生まれながらに差があること、追い抜かれたり、なかなかうまくいかなかったりすることを嘆いたり、悲観したり、不平不満を言ったりしてはいけないのですね。そんな暇があったら、徳を積め、と・・・・。仕事にしても人間関係にしても、何にしてもそれに応じた努力をしろ、と・・・・。そういうことですね」
「その通りだ、若者よ。
たとえば、私の弟子たちにおいても同じことが言える。懸命に修行し、毎日厳しい生活を続けていても、なかなか悟れない者がいる。それなのに、つい先日出家した若者にあっという間に抜かれてしまうことがある。数日の修行で悟ってしまう者もいるのだ。それは現実である。ならば、悟れないことや、追い抜かれたことに対し、不平不満や愚痴やひがみや妬みを言っていても仕方がないことだ。何を言っても現実は変わらないのだから。現実は現実である。それを素直に受け入れなければ、何も始まらない。
現実を素直に受け入れ、自分は自分であることを自覚し、自分の歩調で徳を積み、努力を重ねればいいのだ。
ヒマラヤの山頂も、小さな一歩から登り始めるのである。途中で努力することをやめなければ、やがては山頂にたどり着けるであろう。それと同じなのだよ。
よいか、努力とは山頂を目指して歩き続けること、徳とは努力を続ける体力を支えることである。努力だけでは山頂へ辿り着くのは難しかろう。しかし、その努力を続けることができるよう体力が得られれば、山頂へ辿り着くことは大いに可能になってくる。
努力と徳積み・・・・これは、車の両輪のようなものだ。この二つが、調和してこそ、よい結果が生まれるのである」
「そうか・・・ただ努力だけしていればいい、というものではないのですね。わかりました・・・。でも、その徳積みって、どうすればいいのですか?。私たちのような貧乏な者にも徳積みはできるのでしょうか?」
「若者よ、汝は本当に賢い。またよい質問をした。では、徳積みについて話をしよう」
お釈迦様は、そういうと大きく息を吸って、人々をゆっくりと見回したのだった・・・・。
つづく。


「一生懸命努力しているのに、ちっともうまくいかないんです」
という相談を受けることもしばしばあります。その答えは、多くの場合は
「努力の仕方が間違っている」・・・努力の方向性が違っているんですね
もしくは
「仕事があっていない、その才能が乏しい」・・・そもそもあっていないということですね
もしくは
「メンタル面が弱い、考え違いをしている」・・・気持ち負けしている、考え方が間違っているということですね
あるいは
「努力が足りない」・・・自分では努力しているつもりでも、そうでない場合ですね
または
「努力は認めるけど、徳がないんだねぇ」
というものです。
まあ、ほとんど場合、この中にあてはまりますね。特殊な場合を除いてね(特殊な場合とは、霊的な原因がある場合です。そういう原因でなかなかうまくいかないという人もいます。が、多くはないですね)

努力の仕方が間違っている場合は、方向を変えてあげれば終わることです。そういう努力じゃなく、こっちの努力が大事だろ、という場合ですね。
仕事があっていない場合は、転職できる年齢ならば転職を勧めます。転職するには遅いという場合には、今さらいいじゃないですか、まあのんびりやっていきましょうよ、他にも楽しみがあるでしょ、仕事ばかりが人生じゃないでしょう、と諭すことになります。
才能がない場合も才能がある方向に変えるよう進言します。人により、その道が合う合わないがありますからね。
メンタル面が弱い人には、その旨をいい、メンタル面を鍛えることを勧めます。また、考え違いをしている場合は、正しい考え方を教えることになります。
努力が足りない、という人には、もっと努力せい!ですよね。
問題は、徳がない・・・・場合です。

努力はしています。それは認められます。しかし、何かとうまくいかない、どうも今一つだ・・・・そういう場合は、徳がない・・・のですね。だから、努力が空回りしてしまうのです。
よく、同じように努力していても周囲の者に追い越されてしまう・・・・という場合がありますよね。もちろん、才能がない場合もありますが、そうしたことはすべて排除したとして、同じように努力しているのに、なかなか出世しない、なかなか報われない、ってことありますよね。
この差はなんだろう・・・・。
そういう疑問を抱えたことがある方は、少なくないと思います。

人は、それぞれ命が異なるように、個性があります。個性が異なるように、運も異なります。運が異なるように、人生の流れも異なります。うまくいく人もいれば、うまくいかない人もいるし、宝くじに当たる人もいれば、当たらない人もいるし、努力が簡単に報われる人もいれば、なかなか報われない人もいるし、そもそも努力なんてあまりしないのにとんとん拍子に進んで行ってしまう人もいます。
この差は何だ・・・・誰もが思うことでしょう。

この差が生じる原因が、実は徳の差なんですよ。多くは、前世での徳の差ですね。徳がある者は、いわゆるラッキーが付いて回るわけです。徳がない者は、努力しても報われにくいんですね。
しかし、前世での徳の差は、もう今更どうしうようもありません。なので、この世で徳をつんで、徳の量を増やすことを考えたほうがいいんですね。

差があることをひがんだり、嘆いたり、羨んだり、妬んだりしてはいけません。そんな暇があるなら、努力することと徳を積むことが大事ですね。そこから、活路が見出されるのですよ。
合掌。


第125回
何かと惜しむ心が、その人の徳の妨げとなる。
徳のある人物は、物惜しみをしないものだ。
それには貧富の差などない。あるのは、心の美しさの差だ。
「若者よ、汝は本当に良い質問をする。在家にあって、汝は最も良い質問をする者として讃えよう」
お釈迦様はそういうと、その若者に微笑んだのであった。
「若者よ、徳を積むにはいかにすればよいか。それには六つの道がある。その中で、もっとも初めに行うべきは施しである。他者への施しは、最も徳が積める方法なのだ」
お釈迦様は、若者にそう教えた。しかし、その答えを聞いて、若者は口をとがらせて抗議したのだった。
「そ、それはないですよ、お釈迦様。施しって・・・。それじゃあ、私たちのような貧乏人にはとても無理です。施しをしたくてもそのお金がない。その日、働いて得た賃金は、その翌日の私たちの生活費に消えてしまう。私らも人間だ。食わなきゃ飢え死にしてしまう。その上にさらに他人に施しをしろって・・・・それは無理ってもんです」
「こ、こりゃ、なんじゃ、その口のきき方は。す、すみません、本当にもうこいつは愚か者で・・・。こりゃ、お釈迦様に無礼を詫びんか!」
若者のおじいさんが、その若者の頭を掴んで怒った。お釈迦様に頭を下げさせようとしているのだ。
「御老人、この若者の言っていることはもっともなことだ。大変的を射ている。そんなに怒らなくてもよいことだ」
お釈迦様は、にっこりほほ笑みながら、若者のおじいさんを諭したのだった。
「そうだ、若者よ、汝の言う通りである。お金もなく、その日暮らしが精いっぱいの者にとって、他者への施しなど、とてもできることではない。が、しかし、かといって、全く不可能かと言われればそうでもないであろう。施しは・・・・特に修行者への施しは、修行者の托鉢の際に、汝らの食事の残りモノでよいのだ。あるいは、ほんの少し、ほんの一口を分け与えるだけでよいのだ。その日稼いだ賃金のほんの一部のお金でもよいのだ。生活に決して困らないだけの金額のお金を精舎においてある施しのつぼに入れるだけでよいのだ。それだけでも大きな徳を積むことができるのだ」
「うぅ〜ん、まあ、そう言われれば、そうなんですけどねぇ・・・」
若者は釈然としない様子であった。
「その・・・施しがお金っていうのが・・・・。それに、たとえば、私たちよりももっと身分の低い奴隷階級の者や、それよりも低い階級の者、否、奴隷にすら入れてもらえない者は、それこそ施しの余裕なんてないですよ。その日食べるものですら、足りない状態なのですから。その中から食べ物を施せ・・・っていうのは、ちょっと酷だと思います」
「ふむ、その通りだ。それはとても酷なことであろう。では、その者たちはどうすればよいのか?。彼らは救われることはないのか?・・・・いいや、決してそのようなことはない。彼らとて、同じ人間である。人間としては平等である。しからば、彼らも当然救われる者の中に入っているであろう。では、どうすればよいのか。
食事を施すことができぬほど、食に困っている者は、身体で施しをすればよい のだ。労力を施すのだ。たとえば、精舎の掃除を手伝うとか、精舎の補修を手伝うとか、そうした肉体で奉仕をすればよいのだ。
では、身体が弱く、肉体での施し、労働もできない者はどうすればよいのか。それは、言葉を施せばよいのだ。
ありがとう、すまないね、お世話になります・・・・元気を出しておくれ、無理をしないでおくれ・・・・そのような言葉で労うことで、施しはできるのだ。言葉が無理ならば笑顔を施すがよい。
目も見えぬ、耳も聞こえぬ、言葉も話せぬ、笑うことも泣くこともできない・・・そういうものでも施しはできるのだ。それは、心に世の中の平和を願うことだ。世間を恨んだり、そのような身体で生まれた己を呪ったり、親を恨んだり、周囲のものを妬んだり、羨んだりしないで、心から他者の幸せを願うことだ。それだけで、大きな施しとなる。人は、他人の幸せを願うことを喜びとしない。口先では、そのように言うが、心の奥底では、他人の不幸を面白がるものなのだ。そうした悪い心の働きをよく抑え、心より他人の幸せを願うことは、なかなか出来にくいことである。できにくいからこそ、それをすれば大きな徳を積むことができるのだ」
お釈迦様は優しくそう説いたのであった。

「なるほど・・・・。施しというのは、モノやお金ではないのですね。本当の施しは、心を施すことなのですね」
「そうだ、若者よ。よいところに気が付いた。その通りである。よいか、なぜ私が一番初めに徳を積むための行為として施しをあげるか、それが汝にはわかるか?」
お釈迦様は、若者に質問をした。
「えっ、えっと・・・まあ、その修行ということではやりやすいかな、ということで・・・・」
「たしかに、施しという行為は、やりやすい行為ではあるが、その反面、とてもやりにくい行為でもあるのだ。なぜなら、人には執着心があるからだ。モノを惜しむ気持ちがあるからなのだよ」
「モノ・・・惜しみ・・・・ですか。あぁ、他人にやるのは惜しい、という気持ちですね。自分のものにしたい、というか、他人には譲りたくないというか・・・・」
「そうだ、何事も人はものに執着をする。ものだけではない。その時の状況にも執着をするのだ。たとえば、若者よ、汝は私の前に座っている。そこに老人が立っていて、私の前に座りたいと思っているとしよう。汝はすぐに席を替わることができるか?」
お釈迦様にそう問われ、若者は唸って考え始めた。
「そうですねぇ、正直言えば、素直にはいどうぞ、とは言えないですね。心の中ではしぶしぶだけど、作り笑顔ではいどうぞ、とは言えると思います」
「若者よ、汝は正直でよろしい。多くの者は、そのように執着をするのだ。素直に自分のいる立場、自分が持っているもの、自分の状況を、他者に譲ることはしがたいものだ。できたとしても、汝のように仕方がないから、しぶしぶ・・・譲るのだ。そのように人は執着心にとらわれている。それでは徳など積めないであろう。いやいや、しぶしぶ、施しをしても積めた徳は半減である。それよりも、心から喜んで施しをするほうが、大きな徳が積める。それを教えるために、施しを最初にあげるのだよ。
よいか、若者よ。人は、お金惜しみ、モノを惜しみ、食を惜しみ、ひと手間を惜しみ、あと一歩を惜しみ、労力を惜しみ、時を惜しみ、心を惜しむものなのだ。その惜しむ心を少なくしていく修行が布施なのだよ」
「なるほど・・・・確かに惜しみますねぇ。あとひと手間しておけば、もっといい仕事ができるのに・・・ということがありますからね」
「そうだ、その惜しむ心が徳・・・運ともいうが・・・を無くしている原因なのだよ。世に尊敬される者、一代で大きな財を築く者、大成功を収める者・・・・そうした者は、惜しむ心を克服した者なのだよ」
「う〜ん、難しいですねぇ。それって、人間が最も嫌だと思うことですよね、惜しむなとか、施しとかって言うのは・・・・。お金に余裕がればなぁ、物惜しみせずにいくらでも施してやるのに・・・・」
若者がそう言ったときだった。お釈迦様のやや厳しい声が響いた。
「それは大きな間違いだ!」
若者は、びっくりしてお釈迦様を見つめたのだった。

「汝も大きな間違いをしている」
そうお釈迦様はいうと、「たとえ話をしよう」と穏やかな口調で言った。
「これはほんの少し前の話だ。祇園精舎においてあらゆる魂の救済のために、ある夜、万という灯をつけることとなった。万という数の灯に夜叉や悪鬼、羅刹などが集まってきた。そして、私は彼らに法を説いた。彼らは法を聞き、悪心を消していったのだ。その時に施された万という数の灯は、街の長者の施しによるものだった。たった一灯を除いて・・・。そうだ、ただ一つの灯は、金も持たぬ、食も持たぬ貧しい老婆が、唯一蓄えた長い髪を売って得た灯だったのだ。しかし、それでもその灯により、夜叉や悪鬼、羅刹は心を入れ替えた。たった一つとはいえ、彼らを改心させたきっかけとなった。これは大変大きな徳だ。その証拠に、その時、大風が吹いたが、その老婆が施した灯明以外はすべて消えてしまったのだ。
よいか、金持ちの万という灯の布施は、金持ちにとってどうということはない。しかし、貧しい老婆にとっての一灯は、その価値は計り得ないほど大きなものなのだ。たとえば、金持ちの鉢いっぱいの食事の施しと、汝ら貧しき者の鉢いっぱいの食事の施しでは、その徳は大海ほどの差があるのだ。
施しは、たくさんすればよいというものではない。自分の器にあったようにすればよいのだ。無理してしても意味がないものである。大切なのは、施す量ではなく、心の問題である。
さらには、施したことを自慢しているようでは、徳積みにはならぬ。施しはしても、黙っているがよい。一つの灯明を施した老婆のごとく、黙っていればよいのだ。彼の万の灯を施した者は、それを皆に吹聴していた。『私がこの灯を施したのだ、そのおかげで多くの夜叉や悪鬼。羅刹が救われるのだ・・・』と。だから、消えてしまったのだよ。施しで大切なのは、その心なのだよ」
お釈迦様の話が終わって、若者は正しく座り直した。そして
「すみません、私が間違っていました。お金があれば施すのに・・・・なんていうのは、思いあがりですよね。私にお金があったら、きっと施しなどせずに、全部自分のために使ってしまうでしょう」
「そうだな、お金があれば施しをするのに・・・・というものに限って、お金があっても施しなどしないものだ。お金がなくても施しをする気持ちのある者は、たとえ髪を切ってでも施しをするのだよ。施しとは、そういうものだ。だからこそ、最も徳が積めるのだよ。そうであるから、私は施しを勧めるのだ。よいか、お金の問題ではない。金額の多寡のの問題ではない。食の量や内容の問題ではない。心の問題なのだ。多くを惜しみながら施しをするのか、わずかであるが喜んで施しをするのか、その違いは遥かに隔たっているのだよ」
お釈迦様の言葉に若者は、大きくうなずいたのであった。そして、お釈迦様にさらに尋ねたのだった。
「施しのほかにも、徳を積む方法はるのですか?。確か、六つの方法があるとおっしゃってましたよね。施しが一番目なら、まだ五つの方法があるですね?」
「そうだ、若者よ、これより、他の方法を話そう」
お釈迦様は、そういって、にっこりとほほ笑んだのであった。


東北で大きな地震があり、町や村が壊滅状態になりました。その様子を見て、日本中の多くの人々が、いや、日本だけでなく、世界中の多くの人々が、東北の復興のためにたくさんの寄付をしました。金額の多寡は関係なく、多くの人々の心が東北に届いたことだと思います。
あのような悲惨なことがあると、人間は寄付という行為を惜しみなくすることができます。もっとも、あの頃よく聞いた話では、
「あちこちで寄付を強制されるからうんざりだ」
という声もあったことはありました。まあ、これは、寄付の仕方が悪かったせいでしょう。強制ではなく、あくまでも志で寄付を募れば、そんな不平もなかったことでしょう。まあ、それは余談ですけどね。
あのような大変なことがあると、人は他人のために何かをしなくっちゃ・・・と思えるのです。寄付もそうですし、ボランティア活動もそうでしょう。でも、普段はどうなのでしょうか?。

電車の中で老人が立っていても席を代わることはない。
体の不自由な人が駅や通路、歩道などで困っていても見過ごす人が多い。
赤い羽根のような募金活動をしていても、見て見ぬふりをして通り過ぎる人が多い。
周囲の人が困っていても、手を差し伸べることは少ない。
スーパーの駐車場では、少しでも近くに止めようと障害者用の駐車スペースにとめる。
あとひと手間を面倒だと言ってやらない。
時間がないと言って面倒事から逃げている。
案外、普段は寄付やボランティアとは遠いところにいることが多いようですね。それどころか、同じ人物?と思えるほど、冷淡になってしまう場合もあります。

あるいは、寄付をしたことを自慢げに話をする人も多くいます。周囲の人は聞きたくはないんですけどね、他人の自慢話などは。でも、それに気が付かずにタラタラと自慢話をするのです。寄付したことがそんない自慢なのかな、と思うし、折角のよい行為が、偽善になってしまいますよね。

寄付や他人への心遣いということは、なかなかできないことではあります。誰だってお金は惜しいし、電車の中では座っていきたいでしょう。いいことは、利益になることは、本当は自分ひとりで囲い込みたい、と思うのが人間です。それは、人間の本能のようなものですよね。自分優先となるのは仕方がないことです。
しかし、それをあえて止めるというところに、美しい人間性が現れるのでしょう。なにも考えず、何も惜しまず・・・お金を惜しまず、モノを惜しまず、労力を惜しまず、手間を惜しまず、心を惜しまず、時を惜しまず・・・・、すっと自然に寄付が出来たり、席を譲ったり、ひと手間加えてみたり、時間を上手に使ってみたり、周囲のひとに心遣いをしたり・・・ということができる人こそが、徳のある人物、と言われるのでしょう。

徳のある人・・・・それは、お金持ちであろうが無かろうが、職業が何であろうが、関係のないことです。徳のあるなしは、貧富の差、職業の別、そうしたことに影響をされないものです。影響されるのは、心の美しさだけですね。
合掌。

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