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第126回
人間として、基本的な規則を守るのは当然である。
さらに、周囲の者に迷惑をかけないよう自我を慎めば
人徳が増してくるのはいうまでもない。

「若者よ、惜しむ心を無くせば、徳が積めるのだ。特に惜しむ心を無くすことは、その人の全体の生き方が楽になっていくであろう。くよくよせず、楽しく明るく生きられるようになっていくのだ」
お釈迦様は、布施の徳について教えを説いたのだった。若者は、
「他の徳を積むための行為を教えてください」
とお釈迦様に願った。お釈迦様は、一度うなずくと教えを説き始めた。
「次に汝らがするとよい行為は、規則や決まり事を守るということである。私は普段から出家の者には、厳しい戒律を守るように指導している。それは出家者として、当然の振る舞いを身につけるためである。出家者である以上、俗世間の人々とは異なる生活をせねばならぬ。また、戒律を守ることは、より悟りを得やすくしているのだ。そのように戒律はできている。しかし、在家の者はそこまで厳しい戒律を守る必要はない。在家の者は、悟りを目的とはせず、精神的に豊かな生活、安心して生きていけるということ、心穏やかな日々を送ること、それらを目的としているからだ。そのためには、基本的な規則は守るべきである。それは、人として守るべき規則なのだ」
「それはどう行ったことなのですか?。私たちは、どんなことを守っていかねばならないのですか?」
若者がお釈迦様に尋ねた。
「在家の者が守るべき決まりごとは、基本的には五つある。第一には、殺生をしないということだ。これには暴力も含まれる。なぜ殺生をしてはならぬのか?。それは、命を奪う権利は誰にもないからだ。誰も他人の命を奪う権利など持ってはないない。だからこそ、殺生してはならぬのだ」
「殺生してはいけない、とおっしゃいますがお釈迦様、それは人に限ったことですか?。そうですよね?」
「いいや、人に限ったことではない。生ある者の命を奪うことは、本来はしてはならぬ」
「そうはおっしゃいますが、それは無理ですよ」
若者の口調に彼のおじいさんが怒った。
「こりゃ、なんという口のききかたじゃ。相すみませぬ、この者は智慧が足りぬもので・・・」
「よい、よい。若者よ、汝がいいたいことはわかっている。続けるがよい」
お釈迦様の言葉に、若者は勢いよく言った。
「我々は、畑を耕します。そうすると、畑を荒らすモグラが出てきます。こいつらは、農民にとっちゃあ、大きな敵です。ですから、俺たちは、モグラを退治します。つまり、殺してしまいます。畑に種をまけば、鳥がやってきます。畑にまいた種を盗ってしまう。放っておけば、野菜がとれません。ですから、俺たちは鳥を撃ち落とします。逃げる鳥もいれば、死ぬ鳥もいる。どちらにしろ、鳥は傷つきます。畑に作物がなれば、今度は虫です。虫が作物を食い荒らす。放っておけば、作物はできません。ですから、俺たちは虫を取って捨てます。毒液の中に入れて殺す場合もある。他にも、鳥肉や豚肉を食べるために鳥や豚を殺します。魚だって獲るし、他の生き物だって食べるために狩りをします。すべて殺生です。これもいけないんでしょうか?」
「出家者であれば、すべての殺生禁じる。しかし、在家においては、それは別なのだよ。生きていくために、必要最小限の殺生はやむを得ぬのだ。しかし、あくまでも必要最小限である。過ぎてはならないのだ。たとえば、食べきれもしないのに鳥や豚の命奪ったり、魚を獲ったりしてはならぬ、ということだ。命を奪っておいて捨ててしまうという愚行はしてはならいのだ。命を奪ってしまったらならば、有益に活かさねばならない。また、畑を荒らすモグラのようなものは、できれば殺さずに山に放すなりした方がよかろう。無闇に命を奪ってはならぬ。それが、人でない生き物であったとしてもだ。
たとえば、綺麗に咲いている花畑を無闇に潰す者がいたとしたら、誰もが心を痛めるであろう。そのように人々が心を痛めるような殺生をしてはならぬ、ということだ。
では、悪人ならば、命を奪ってもよいか、というと、それはそうではない。いくら悪人であるといっても、人の命を奪うことはいけない。どうしようもないくらいの悪人であっても、命を奪うことなく罪の償いをさせるのがよいのだ。
つまりは、在家においては、どんなことがあろうと他者の命を奪ってはならぬ。人以外の生き物の場合は、必要最小限の殺生にとどめること。暴力は、人であろうが、人でなかろうが、これをしてはならない。それは、何も活かしてはいないからである。これが、在家における殺生に関する決まり事である」
「そういうことならば、納得しました」
若者はにこやかにそう言った。

「次に在家が守るべき決まりごとは、窃盗をしてはならぬ、ということだ。他人の所有物を奪う権利は誰にもない。ほんの微々たるものであっても、他者の所有物を奪ってはいけないのだ」
「それは納得できます。盗みはいけません。自分で働いて手に入れなければ、それは当然です」
若者の答えにお釈迦様は微笑んだ。
「この窃盗をしてはならぬという決まり事には、盗み見や盗み聞きをしてはならぬ、ということも含まれるので注意するがよい」
「えっ、盗み聞きや盗み見もですか?。おい、じーちゃん、ときどき俺の部屋を盗み見してるだろ。今日からそれはやっちゃいけないぜ」
若者がそういうと、若者のおじいさんは、目を白黒させたのだった。

「次に在家が守るべき決まりごとは、性において乱れてはならぬ、ということだ。快楽に溺れてはいけない、ということだ。出家者は性行為をしてはいけないが、在家においてはそうではない。異性と付き合うことや結婚をすることは、いけないことではない。家庭を持つことは善いことである。が、しかし、複数の異性と交わり、遊びでしか性行為をしないということは、これは慎むべきことである。性に乱れてはいけないのだ。性行為に耽ってばかりではいけないのだ」
「あぁ、そういえば、俺の知り合いの連中に、働きもせず女の尻ばかり追いかけているヤツらがいるなぁ・・・。あいつらの相手をする女たちも女たちだけど。あの連中は、働きもしないで遊んでばかりいる」
「そういう者たちには、心の安らぎはやってこないであろう。いつでも不安で、焦りがあり、イライラしており、怒ってばかりいて、世間から疎ましく思われている。それらの者には、幸福は訪れない」
「確かに、おっしゃる通りです。あいつら・・・・不幸だよなぁ・・・・。ところで、お釈迦様。この国は、一夫多妻が認められています。それは構わないのですか?。性に乱れているとは言わないのですか?」
「それは構わぬ。それは国の決まりであるからだ。性に乱れるとは、性に溺れ、性に耽り、他に何もしなくなってしまうことをいうのだ。性行為ばかりを求めて、為すべきことを為さなくなることをしてはいけない、といっているのだ。やるべきことをし、他者に迷惑をかけぬのであれば、あるいは、夫を夫人を苦しめたり悲しませたりしないのであれば、よいのだよ。性行為を全面的に禁止しているわけでもない。節度を守っていればよい、ということである」
「じゃあ、その・・・少しくらいは、遊女のところへいっても・・・・」
「汝の伴侶が許すのであれば、かまわないであろう。しかし、生活に影響をきたすようではいけない。汝が、遊女と戯れることによって、不幸な者が生まれるようではいけないのだよ」
お釈迦様の言葉に、若者は頭を掻きながら下を向いてうなずいたのであった。

「次に在家が守るべき決まりごとは、口に関することである。具体的には、ウソをついてはいけない、悪口を言ってはいけない、他人を落としこめるような言葉を使わない、争いを生むようなことを言ってはいけない、ふざけた言葉使いをしてはいけない、ということだ。つまり、他者を苦しめるような言葉を口にしてはならぬ、ということだ」
「それは・・・・案外難しいですねぇ。俺なんか、ついつい他人の悪口を言ってしまいます。くそったれ!なんて叫んでますから。騙すようなことはしないし、争いをおこさせるようなウソも言わないし、まあ、ふざけた言葉はたまには使うかなぁ・・・」
そう言った若者をお釈迦様は優しい眼差しで見つめた。そして、
「なにも、厳格に守らねばならぬ、とはいってはいないよ。できるだけ守りなさい、と言っているのだ。汝らは、あくまでも在家なのだから。これが、出家者であるならば、厳格に守らねばならない戒律になる。しかし、在家者はあくまでも在家者。出家者のように、俗世間から離れて暮らしているわけではない。こうした決まりを完璧に守ることは困難を極めるであろう。だから、できるだけ、でよいのだ。
たとえば、ウソをつく癖のある者がいたとしよう。その者は、ウソをつかねば苦しくなって死んでしまうほどになる。そうした者は、絶対ウソをついてはならぬ、といえば、かえってウソをつきたくなるものだ。そうではなく、今まで一日10回ウソをついていたならば、それを9回に減らそう、8回に減らそう・・・といって、少しずつ減らしていけばいいのだ。急激な変化は、苦を生むだけである。緩やかに、出来る範囲で決まり事を守るようにすることが大切なことなのだ。
特に、口に関する決まりごとは、それを守るのに苦を伴うものだ。もし、決まり事を守れなかった場合は、素直に謝り、今後気をつければよい。
また、人を生かすウソ、人を救うためのウソならば、それは不問である」
と優しく諭したのであった。若者は、ホッとした顔をしてうなずいたのであった。

「次に在家が守るべき決まりごとは、酒を飲まぬ、ということだ」
お釈迦様の言葉に、若者は
「えーっ、それはできませんよ。俺たちとってみれば、酒は唯一の楽しみだ。それをダメだなんて!。あんまりだ!」
と叫んでいた。そんな若者をお釈迦様は微笑んでみていた。
「慌てるではない。汝は、少々慌て者のところがある。それは、直さねばいけないな。よいか、酒を飲むなと言っても、たしなむ程度はよいのだ。絶対に、一滴も飲んではならぬ、といっているのではない。酩酊するほど飲んではいけない、といっているのだ。
たとえば、酒を飲みよいが回ると、人は何かと判断力が劣るようになる。普段は決してやらないようなことでも、やってしまうことがある。普段は穏やかな者でも、酒に酔ったせいで怒りっぽくなり、諍いを起こすこともある。暴力を振ることもある。そこまで行かなくても、大声をあげ、大騒ぎし、周囲の人々に迷惑をかけることもある。それがいけないのだ。そこまで酔うような酒の飲み方をしてはいけない、といってるのだよ。
周囲に迷惑をかけず、楽しく飲む酒ならば、それは構わないのだよ」
お釈迦様の言葉に、若者はうなずきながらも
「俺も時々、飲んで大騒ぎするからなぁ・・・・。これからは気をつけます。周囲に迷惑をかけず、楽しく飲む酒にします」
と誓ったのであった。

「よいか、今まで述べた決まりごとは、人として当然守らねばならぬ最低限の決まりごとなのだ。これを犯せば、人は人でいられなくなる。悪の道を走ることとなる。陽の当らない、闇の世界に生きることとなる。それでは、心の安らぎは決して得られないであろう。今述べた、五つの戒めを守ることは、心の余裕へとつながるのだ。そしてそれは、心の安らぎを生んでいくであろう。
そうなれば、やがて人は、周囲の者に迷惑をかけないよう心掛けることもできるし、周囲の者に優しくもなれるのだ。人としての基本を守ることが、周囲の人々から尊敬される人徳を生むのである」
お釈迦様の言葉に、話を聞きに集まった人々は、大きくうなずいたのであった。

「さて、これが二つ目の徳を積むための行為だ。では、次に三つ目の徳を積むための行いについて話そう」
お釈迦様の言葉に、人々は、身を乗り出したのだった・・・・。つづく。


江戸時代に慈雲尊者という、高徳の僧侶がいました。慈雲尊者は、十善戒を広く人々に説きました。慈雲尊者は、「十善戒は、人が人であるための戒めである」と言って、人々にこれを守るように勧めたのです。つまり、十善戒を守れない者は、人ではなくなる、ということ・・・・人の心を失う・・・・ということなのですね。

十善戒とは、殺生をしない、盗みをしない、淫欲に耽らない、ウソをつかない、不愉快な言葉を使わない、悪口を言わない、争いを生むような言葉を使わない(二枚舌を使わない)、貪欲にならない、怒り、妬み、羨み、恨み、ひがみなどの心を持たない、正しい教えを聞き従う、という10種類の戒めのことです。
なるほど、無闇に命を奪うことをすれば、人は人の心を無くすでしょう。否、人の心を無くしているから殺人などができてしまうのでしょう。たとえ、それが一瞬の出来事であっても・・・・。
窃盗もそうですね。常習になればなおさらです。出来心では済まされません。淫欲に耽るのも、人としてどうかと思います。家庭がありながら、あちこちの異性に手を出したり、最近では、出会い系サイトなどにはまってみたり・・・なんてこともあります。こうした行為は、人としてやはりどうかと思います。節制はしなくてはいけないでしょう。性行為において、すべて否定しているわけではありません。節度を守ればいいと思います。
他人を騙す、詐欺、言葉巧みに陥れる・・・こんなことをする者は、人間ではありませんね。振り込め詐欺など、典型的です。そんなことまでして金儲けをする人間は、人として、どうかと思います。また、ネットの詐欺でもそうですね。みなさん気をつけください。
悪口は、出来れば慎みたいですね。それは、聞いていていいものではありません。悪口を言う人は、やはり評価は下がってしまうでしょう。どうしても悪口が言いたくなったのなら、誰も聞いていないところでこっそりいうか、私のような人・・・・無関係な第三者・・・・のところに行って、ぶちまけてきましょう。
何でも貪欲に、貪っている人、どケチな人って、やはり皆遠ざけますよね。欲深な人って、信用できませんよね。
いつもイライラしたり、怒っていたり、ブツブツ文句を言ったり、他人を妬んだり、ひがんだり、羨んだり、恨んだりする人には、多くの方が近付きたくない、と思うでしょう。そういう人も、やはり人としての心を失っているのかな、と思います。
最後の正しい教えを聞き、従う・・・というのは、慎み深く、周囲に迷惑をかけず、マナーを守って生きましょう、ということと思ってください。わがもの顔で、図々しく、周囲の迷惑も顧みず、マナーなどどこへやら・・・なんていう厚顔無恥な人って、やはり人としてどうかと思いますよね。困った人、になってしまいます。

人徳を身につけたい、人として尊敬されるような人物になりたい・・・・。そう思うのなら、金持ちになることよりも、事業で成功することよりも、エリートとなって出世することよりも、人としてどうかと、ということの方が、大事になってきます。
たとえ貧しくても、たとえ仕事が世間的に見栄えが良くない職業であっても、そんなことは関係ありません。そんなことにこだわっているようでは、人徳はつかないでしょう。人徳は、その人自身の人としての評価から生まれてくるものなのです。

人の人たる道。これを心掛け、周囲に迷惑をかけないよう注意していれば、自然に人徳は身についていくものなのですよ。
合掌。


第127回
堪え忍ぼう。どんなにつらくとも、堪え忍ぼうではないか。
短気を起こさず、堪え忍ぶのだ。

その姿が、信頼を生むのである。
お釈迦様の言葉を人々は待った。
「若者よ、人々よ、これより三つめの徳を積む方法を教えよう。それは、どんなにつらくとも、堪え忍ぶことだ。下手に抗うことなく、焦って行動するのではなく、ただただ、耐え忍ぶ。それができる者は、大きな徳を積むことができよう」
お釈迦様がそう言うと、人々は、なぜか納得できないような顔をしたのだった。いや、理解できていないようでもあった。若者が、おずおずとお釈迦様に質問をした。
「あ、あの、お釈迦様、耐え忍ぶって・・・・どういうことですか?」
お釈迦様は、若者の顔を見、それから人々を見回した。そして、一度うなずくと、人々に質問をした。
「汝らは、日頃の生活が辛くはないであろうか?」
そう問われた人々は
「そりゃ、まあ、辛いことも多いけど・・・・仕方がないからねぇ。いまさら、騒いでみたって、身分がどうこうなるわけでもなし」
「そうだねぇ、辛い日々もあるけどねぇ。とりあえず、食べていければなんとかなるしねぇ」
などと言い合っていた。お釈迦様は、そうした人々の話を聞き、にっこりとほほ笑んだ。
「汝らは、もうすでに耐え忍んでいるのだよ。毎日の辛さに対し、無理な抵抗をすることもなく、焦ることもなく、耐えて生きているのだ。そう、それでいいのだよ。汝らの生き方は、正しいのだ」
お釈迦様にそう言われ、人々は褒められたような気になり、大いに喜んでいた。しかし、若者だけは違っていた。
「いいや、俺は我慢できない。今の生活には耐えられない。そりゃあ、辛抱しなきゃいけないこともわかるけど、できる辛抱とできない辛抱がある。そうじゃないでしょうか?」
若者の言葉に、人々はボソボソと話し始めた。やがて、
「あぁ、そうかもしれない。辛抱できることとできないことがある。それはそうだ」
と言いだしたのだった。お釈迦様は、すかさず尋ねた。
「その、辛抱できないこととはなんであろうか?」
お釈迦様の質問にある女性が答えた。
「あたしゃあ・・・姑の悪口が辛抱できない。寝たきりで誰も面倒見てくれないから、あたしが面倒みてるんだけど・・・・、もう口が悪くって・・・・。何度殺そうかと思ったことか。もう辛抱できない。そのうちに殺してしまいそうだ」
「あんたのところはひどいもんなぁ・・・。確かに、手にかけたくはなるわなあぁ・・・・」
「うんうん、あれは耐えられん。辛抱も限界がある」
その女性を知る者たちが、その女性に同調した。わかるわかると、うなずき合っていた。
「しかし、汝は堪えている。辛抱している。なぜならば、その姑はまだ亡くなってはいないからだ。汝は、日々の辛い看護を耐え忍んでいるのだ」
お釈迦様にそう言われ、その女性は、あっ、と言って口に手を当てていた。周囲にいた者も、「確かにそうだ、よく辛抱している」などと小声で言っている。
「汝は、姑の悪口によく堪え忍んでいるではないか。もし、この先も堪え忍んだならば、汝は周囲の者から、なんと素晴らしいものであろうか、という尊敬を集めるであろう。しかし、もしこの先、汝が耐えられなくなり、姑を手にかけたならば、汝は捕まり処刑をされるであろう。そしてその上に、周囲の者から、なぜ耐えなかったのか、愚かな者よ、と蔑まれるであろう。さて、どちらがよいであろうか?。辛抱強く耐え忍ぶのがよいか、それとも耐えるのを止めるのがよいか・・・・」
お釈迦様にそう言われ、女性は
「はぁ・・・・辛くても耐え忍びます」
と答えた。お釈迦様も、
「今まで耐えたのだ。耐えて来た時間に比べれば、これから先の耐える時間の方が短いであろう。そう思えば、耐えられないことはない。
かように、世の中には、耐えられることと耐え難いことがある。しかし、出来ることならば、忍耐強く耐えたほうがうまくやっていけるのだ。もしも、耐えることができなくて、簡単に我を通してしまえば、周囲との関係も悪くなるであろうし、仕事にしても、人間関係にしても、長続きすることはない。簡単に耐えることをやめれば、それに応じた損失は避けられないのである。たとえば、若者よ」
お釈迦様はそう言うと、若者の方を見て言った。
「汝は、仕事をよく変るか?」
そう尋ねられた若者は、
「はぁ、まあ・・・・。ちょくちょく変ります」
「それはなぜであろうか?」
「はぁ・・・その・・・たいていは、親方に怒鳴られて・・・・嫌になって・・・・やめます」
若者がそう言うと、周囲にいた年配者の者たちが
「最近の若い者は辛抱が足らんからのう・・・」
などと口々に言っていた。それを聞いた若者は、むっとした表情になった。
「そう、それなのだよ、若者よ。汝は、何か言われると、すぐに膨れ上がる。口を尖らし、不服そうな顔をする。それで得をしたことはあるだろうか?」
お釈迦様の指摘に、若者は下を向いた。そしてぼそりと言った。
「なにも得してません。言い事なんか・・・・一つもありません」
「そうであろう。ちょっと何かを言われただけで、不服そうな顔をすれば、たちまちに信頼はなくなり、さらに怒りを買うだけであろう。何を不服そうな顔をしいるのだと詰られるのが落ちだ。何もいいことなどない。
だからこそ、私は耐え忍べ、と説くのである。若者よ、汝がそこで耐え忍べば、仕事も辞めずに済んだのではないか?」
お釈迦様の言葉に、若者はもじもじとした。恥ずかしそうに、うなずいているだけだった。
「周囲の者のちょっとした誹謗中傷、悪口、批判、それどころか、ほんのささいな注意や小言にも過敏に反応し、耐えきれず、怒りを爆発させてしまう。そうなれば、結局は、自分が損をするだけであろう。あの者は、ちょっとしたことですぐに怒る、と噂され、さらにはあることないことが囁かれる。損することばかりであろう。ところが、注意や小言はもちろんのこと、誹謗中傷や悪口、批判などにも耐え忍んだならば、周囲の者たちは、汝のことを違った目で見るのではないだろうか。
誹謗中傷や悪口、批判をする者に対し、真っ向から相手にしたならば、それはまた争いを生むことにもなろう。嵐の中にわざわざ足を踏み入れることはないのだ。嵐がやってきたのなら、それが過ぎ去るまで静かに待てばよい。強い心を持って、嵐が去ってい行くのを辛抱強く待てばよいのだ。嵐に抗ってみたところで、何もできはしないであろう。汝らが、間違っていない、正しいというのであれば、的外れな誹謗中傷や批判、悪口は自ずと止むものなのだ。下手に抵抗をすれば、泥沼にはまるだけであろう」
お釈迦様の言葉に、若者は、「その通りです」と小さくなっていた。

「数年前のことである。我が教団は大きな誹謗中傷の的となった」
お釈迦様がそういうと、多くの者が「ああ」といってうなずいた。
数年前、お釈迦様の教団は、激しい誹謗中傷の的になったのであった。事の発端はある女性がお釈迦様の子供を妊娠した、と世間に言いふらしたことだった。その女性は、大きなおなかを抱え、ラージャグリハの街を竹林精舎まで
「私のお腹の父親は仏陀であるお釈迦さまよ。あの男は、夜な夜な私の寝床まで来ていたの。で、やることをやって帰って行ったわ。ほとんど毎晩よ。でもね、私が妊娠したと知るや、さっさと逃げ出したのよ。あの男、許さないわ」
「仏教教団の修行僧たちは、欲がないとか言っているけど、私がいる遊郭にしょっちゅう遊びに来ているわ。あいつらは、遊女を毎晩のように抱いているわ。あいつらは、うちのお得意さんよ」
と吹聴しながら歩いてきたのだ。竹林精舎で、同じようなことをさんざん喚くと、大笑いをして帰って行ったのだった。その翌日以来、仏教教団は、大きな批判のあらしの中に投げ出されたのだった。
まず、誰も托鉢に応じなかった。歩いていると、石を投げられた。大きな声で悪口を言われた。ラージャグリハの人々は、手の平を返したように、仏教教団の修行者に冷たくなってしまったのだった。
修行者の中には、
「あの女性の言っていることは真実ではありません。ならば、そのように言うべきではないでしょうか」
とお釈迦様に迫るものもいたが、お釈迦様は、
「真実は自ずと知れるものである。今は黙って耐え忍ぶがよい。我々が何か言えば、反論を試みれば、ラージャグリハの人々を混乱に陥れるだけだ。我々は何も恥じることはしていない。どんな誹謗中傷を受けようとも、真実は一つであり、変ることはない。堂々としてればいいのだ。今は、何に対しても強く耐え忍ぶのだ。嵐に抗うことなく、堂々と耐え忍んでいればよい」
といい、深い瞑想に入ったのだった。弟子たちは、お釈迦様に習い、静かに瞑想したのだった。
街の人々の批判は、数日の間、激しく続いた。しかし、いつもと変わらぬ修行僧やお釈迦様の態度に、街の人々はあの女性の言ったことはウソなのではないかと疑い始めた。街は、お釈迦様を信じる者と疑う者と、二分された状態になった。
そんな頃、再びあの女性が現れ、みんな騙されるなと叫んだ。
「彼らは嘘つきだ。みんな騙されるな。あいつらは、夜中にこっそり遊郭に通っている。今もだ。私の子は、もうすぐ生まれる。その時わかるわ。この子を見れば、誰に似ているか、、この子の父親が誰なのかすぐにわかるわ。あはははは」
このことにより、教団を批判する者がまた増え始めた。こうした混乱は、数週間続いた。しかし、ある日のこと、噂を吹聴していた女性が、別のところで揉め事を起こして捕まってしまったのである。
女は妊娠などしていなかった。街で言いふらしたことはすべて嘘だと白状した。別の宗教の教団に頼まれてやったのだと。こうして、仏教教団の疑いは晴れた。街の人たちは
「やっぱりお釈迦様の教団は素晴らしい。あんなに批判されたり、悪口を言われたり、石を投げられたりしたのに、怒るどころか、一言も何も言わなかった。ただいつも通り、静かに托鉢に歩いていた。立派だ、真似できないことだ」
と褒め称えたのであった。

「あの時も、耐え忍ばなければ、我々の教団も嵐に巻き込まれていたであろう。何も対応せず、ただただ批判の嵐に耐え忍んだからこそ、人々に真実が伝わったのだ。
よいか、雄弁に語ることだけが真実を語っているのではない。多くを語るだけが、立派なのではない。沈黙も雄弁に語っているのだし、強く耐え忍ぶ姿は美しいものなのだ。短気を起こさず、辛抱し耐えることが大事なのだ。耐え忍ぼう。どんなにつらくとも耐え忍ぼうではないか。短気を起こさず、耐えてみようではないか。やがてそれが実を結び、大いなる信頼を生みだすのである。そうして、徳を積むのだ」
お釈迦様は、そういうと若者を優しく見つめたのだった。若者は、
「これからは短気を起こさず、ちょっと注意されたり怒られたくらいで、仕事を投げ出しません。なぜ怒られたかを考え、耐え忍んで頑張ってみます」
と誓ったのであった。


「石の上にも三年」
昔の人は、本当にいいことをいいました。今では
「座布団の上に30分」
でしょうか?。いや、もっと短いのかな?。
少し怒られた、注意された、というだけで、「面白くない」と言って仕事などを投げ出す人がいます。そういう人は、職を転々としますね。周りからもきっと言われるでしょう
「辛抱が足りない」
と。
まさにその通り。辛抱が足りませんね。本当に仕事をする気があるのなら、本当にその仕事を覚えようという気があるなら、ちょっと怒られたくらいで辞めちゃいけませんよね。怒られて、注意されて、何度も悔しい思いをして、そういうことに耐えて初めて仕事を覚えるんですからね。耐え忍ぶことは大事なことです。少なくとも、石の上にも三年・・・くらいはね。

また、言われのない誹謗中傷やイジメなどに耐えている人もいることでしょう。誹謗中傷や批判などのうわさ話は、いつの世もついて廻るものです。特にその対象者が幸せそうに見える人やうまくいっている人などは、いい的になりますね。みんな、
「人の不幸は蜜の味」
なんですよ(最近は、メシウマとかいうらしいですな。今日も人の不幸でメシがうまい、というらしいです。陰気臭いですなぁ、惨めですねぇ、そういうのは)。
しかし、そういうことを思う人の心って、本当に貧しいですよねぇ。かわいそうになります。なので、言われのない誹謗中傷をするような者は、放っておくがいいですね。真実は一つです。やましいことがないのなら(まあ、やましいことがあったとしても)、黙って耐え忍ぶのが得策です。下手に反論しようものなら、火に油・・・ですからね。他人の悪口や批判、誹謗中傷にはダンマリが一番いいのです。

が、黙っていることは結構つらいのですな。どうしても反論したくなるものです。しかし、反論すればロクなことはありません。わざわざケンカすることはないのです。しかし、辛い。
ここをグッと辛抱我慢して耐え忍ぶんですね。黙って耐え忍ぶ。これが一番いいのです。

どんなに辛い状況におかれようとも、強く耐え忍ぶことができる人は、本当に尊敬できる人と言えるでしょう。キャーキャー騒ぐのではなく、黙って耐え忍ぶ、焦らず、慌てず、どんなにつらくとも、己のするべきことをなして、耐え忍ぶ。その姿が、美しいのですよ。その姿が、感動を呼ぶのです。そうして、徳が積まれていくのですね。
批判に対し、反論するのは簡単です。しかし、意味のない口論や争いは、極力避けるのが賢明でしょう。
耐え忍んだ先には、光明が必ず見えてきます。それを信じて、耐え忍ぶのです。
合掌。


第128回
何事も努力を惜しんではならぬ。
もう一工夫、もう一歩の努力が必要なのだ。
手間を惜しむことは、怠けることと同じである。
「耐えることを覚えたならば、次に必要なことは、努力である。そう、精進だ」
お釈迦様は、若者を見つめ、そして周囲の人々を見回した。
「努力と言っても、いったいどうのようにすれば・・・。自分では努力しているつもりだし・・・」
そういったのは、裕福そうな姿をした中年の男であった。
「汝よ。汝は、どのような仕事をしているのか」
お釈迦様がその男に尋ねた。
「はい、私は、マンゴー園を経営しております。まあ、この辺りでは大きなマンゴー園になります」
「長者よ、汝のマンゴー園は、初めからその大きさだったのか」
「いいえ、初めは小さなマンゴー園で、夫婦二人と手伝いの者が一人いればなんとかなった広さでした。今では、30人ほど雇わないと間に合わない規模になりました」
「なぜ、そのような規模にまで発展したのか」
「はい、私は、他のマンゴー園のマンゴーよりもおいしいマンゴーを作りたいと思いました。そのためには、どうしたらいいだろうかといろいろ考え、実験もしたりしました。随分と試行錯誤をしましたなぁ。そのうちに、これまでにないとてもおいしいマンゴーが出来上がったのです。それは、見る見るうちに高値で売れました。お陰で、土地を広めることができたのです」
「若者よ、そして人々よ。これが努力というものだ」
お釈迦様は、そういうとにっこりとほほ笑んだ。裕福そうな紳士は、
「私がしてきたことは正しかったのですね。私がしてきたことが・・・・」
「正しい努力というものなのだよ。もし、汝が何も努力せず、ただただマンゴーを作り続けただけならば、汝のマンゴー園は今ほど大きくはならなかっただろう。
たとえば、ここに飾り職人が二人いたとしよう。一人は、器用で何でも作り上げた。もう一人は不器用だったが、いろいろ工夫ができた。さて、この二人が競うようにある職人のもとで修行をした。やがて、二人の作品は売れるようにまでなった。ところが、よく売れるのは、不器用な職人が造った飾りばかりだった。器用な職人が造った作品はほとんど売れなかったのだ。器用な職人は怒った。荒れた。師匠になんで自分の作品は売れないのか、と詰め寄った。なんで不器用なアイツのばかりが売れるのか・・・と。
答えは簡単だ。器用な職人な作った作品は、見栄えはいいが面白さに欠けるのだ。器用であるため、何も工夫をせず、ありきたりのものをさっさと造り上げてしまい、商品棚に並べた。一方、不器用な職人は、自分は不器用であることを知っているがため、売れる品は何だろうかと考え、売れる作品を少量ではあるが作って商品棚に並べた。そこには、売れるものはなんだろうかと考え工夫を凝らすという努力があったのだ。努力とはそのようなことをいうのだ。
ある街に大きな食堂が一軒あった。食堂はそこしかなかったため、いつも客でにぎわっていた。そのようなときに、その食堂の近くに小さな食堂ができた。初めうちは客足は遠かった。しかし、いつの間にか、客が並ぶようになった。いつしか、大きな食堂は潰れてしまった。それはなぜか・・・。大きな食堂は、街に一軒しかなかったため、美味しい料理を作ることを怠っていた。いつも同じ料理、いつも同じ味の料理、何の工夫もない料理を出すだけだった。それでも、一軒しかないので客は仕方がないからその店に来ていたのだ。ところが、別の店ができて、その店では、珍しい料理や大きな食堂にはない料理を出したのだ。味も大きな食堂よりもおいしかった。瞬く間に客がとられてしまうのはいうまでもない。そして、そのあとからできた食堂は、街に一軒しかない食堂になったのだが、怠ることをしないで、工夫をし続けたため、後からできた食堂にも負けることはなく、長く続けていったのだ。これが努力というものだ。
よいか、ほんのひと工夫でもいい、ほんのひと手間でもいい、もう一歩、ほんの一歩、努力をしてみるがよい。そこで、まあいいや、これでいいや、と手間を惜しんでいては、成果は得られないのだ。納得いくまで、満足がいくまで、工夫を凝らす、手間をかける、努力してみる、それが大切なのだ。まあ、これでいいや、というのは、満足ではなく、怠けているにすぎないのだ。努力を惜しんでいるのだよ。そこで、差が付いてしまうのだ。
悟りに向かう修行も同じなのだ」
お釈迦様は、そういうと、弟子たちを見回した。
「初めからある程度理解力がある者でも、悟りを得るための努力をしなければ、いつまでも悟りを得られず、迷いの中にさ迷うことになろう。初めからある程度理解力があるものが、さらなる努力をしたならば、怠らず努力をしたならば、すばやく悟りに至ることができる。理解力に劣るものであっても、あきらめずに悟りに向かう努力を惜しまなければ、やがては悟りに至るのだ。怠けてはいけない、今日はもういいだろう、今日はこのくらいにしておこう、などといって怠けていては、何も得られないのだ。もう一歩、もう一工夫、もう少し・・・という思いが、悟りへの近道なのだ」
お釈迦様の目は厳しく光っていた。なかなか悟りを得られない弟子たちは、下を向いて小さくなっていた。
「とはいえ、当然ながら、し過ぎも行けない。努力し過ぎて、身体に支障をきたすようではいけないし、心に負担を変えるようでもいけない。もう一歩、もう少しと思う気持ちは大事だが、身体や精神を病んでまで、する必要はない。加減をよく考えて行わねばならない。努力というものは、そういうことなのだ。
身体や時間、手間などを惜しむことはいけない。それは努力が足りないといえよう。否、それは怠けていることと同じであろう。ここでもう一工夫してみよう、もう一つ考えを深めよう、もう一歩進んでみよう、そう思う気持ちが大事なのだ。気をつけねばいけないのは、もっともっともっと進もう、と欲張ることだ。それは努力にはならぬ。努力とは、通常の努力にもう一つ付け加えることなのだよ」
お釈迦様の話を聞き、弟子たちをはじめ、その場にいた者は、大きくうなずいたのだった。
「お釈迦様、私には、そのあと一歩の努力が足りなかったんですね。怒られたり注意されたりすると、すぐに嫌になり、耐えることができなかった。我慢することができなかった。なぜ、注意されるか考えなかった。これからは、注意されたら、よく耐え、なぜ怒られたかを考え、自分に足りないところは何かを見つけ、それを克服できるよう、努力します。そして、このくらいでいいだろう、などと考えず、自分を甘やかすことなく、あと一歩の努力を惜しまぬように生活していきます」
若者は、お釈迦様にそう誓ったのだった。お釈迦様は、やさしく若者を見つめたのだった。


運のいい奴ほど努力をしない。
これは本当のことです。運のいいものは、運だけで生きていくので、努力をしないんですね。でも、運というものは、いつかは尽きるものです。運が尽きた時、努力をしてこなかった者は、ものすごく惨めなのです。

うちの寺に相談に来る方で、特に男性に多いのですが、こういう方がいます。
「今までは、うまくやってこれたのですが、最近、何をやってもうまくいかなくて・・・」
で、その方の名前や生年月日から基本的な運勢を見ます。すると、そういう方のほとんどが「幸運の持ち主」なんですね。が、うまくいかない。行き詰っている。それは
「あなた、いままで運だけできたでしょ。なんでもちょっと頑張れば、出来てしまう。だから、そんなに努力してこなかったでしょ。あなたが今うまくいかなくなってきたのは、運が尽きてきたんですよ」
ということが原因なのです。今まで、運だけでのらりくらりと過ごしてきたため、実力が付いていないんですね。何となく思うようになってきたため、努力してこなかったのです。だから、自分の実になっていないんですね。実力が付いていないんです。それは恐ろしいのですよ。運が尽きた時、行き詰ってしまいますからね。

頑張ってこなければいけなった、努力して来なきゃやってられなかった、という方は、強いんです。逆境にあっても、壁にあたっても、なんとかしようと思うんです。ところが、のらりくらり、運だけできた者は、いざ壁にぶち当たると、前に進めないんですね。すごく弱いんです。そう思うと、運がいい、というのも考えものですな。

世の中でそれなり成功している方を見てみますと、ただ仕事をしている・・・というだけではありません。何か、一工夫しているんです。何か一つ手間をかけているんですね。他の人とは違う、ちょっとした手間を惜しんでいないんです。そのちょっとした手間や工夫、考えが、大きな差になってくるんですよ。本当の努力というものは、普段の頑張りではなく、さらにもう一歩進んだ、ひと手間、一工夫のことをいうのです。
努力しているのに、なかなかうまくいかない・・・・。そういう方は、このもう一歩、もう一工夫、もうひと手間、がないのでしょう。よくよく自分のやってきた努力を振り返ってみるといいでしょう。きっと気付くはずです、
「あぁ、あのときに手間を惜しんだな、時間を惜しんだな・・・・」
とね。
手間を惜しまず、時間を惜しまず、もうひとひねり、もう一工夫、もうひと頑張り、もう一歩の思考・・・・それが努力というものなのです。それを行う者ことが、徳や運が付いてくる者なのですよ。
合掌。


第129回
あわてても何の得にもならぬ。
焦って行動しても、周囲に迷惑をかけるだけなのだ。
まずは、冷静になることが大事なのだ。

「これまで4つの徳積みのためにすることを聞いてきました。あと二つですね」
若者はお釈迦様にそういった。
「そうだ、今までのこと、汝は覚えているか?」
お釈迦様が若者に尋ねた。
「はい、覚えていますよ。まずは布施ですよね。布施も金銭だけじゃなく、労働でもいいということでした。特に大事なことは、心を布施するということでした。二つ目は、社会や地域、人々との間の決められたことを守ることです。お互いに決まり事を守って生きていくことが、相手を思いやる心に通じるのですね。三つ目は堪え忍ぶことです。簡単にあきらめないで、見切りをつけないで、辛抱強く堪えることが大事なのです。四つ目は先ほど聞きました。もう一歩の努力が必要、ということでした」
「そうだ、よく覚えている。では、これより五つ目の徳積みの方法を教えよう。それは、たえず冷静さを持っていることである。何事があっても、慌てず騒がず、落ち着いて物事を考えるようにする、その心構えを持つことが五つ目の徳積みの方法なのだよ」
「えっ、冷静でいることがどうして徳積みになるのですか?」
「ふむ、よい質問だ。若者よ、汝はとても良い質問をする。なぜ冷静さが徳積みになるのか。それは冷静な人間は、周囲の人々を振り回さず、的確な方向へと導くことができるからだ。冷静さがなく、心に落ち着きがないものは、ちょっとしたことで大騒ぎをし、周囲の者を慌てさせたり、怖れさせたりする。周囲のものを振り回すのだ。それは、周囲のものも迷惑な話であろう。あるいは、何か大きな災い事があって、みんなが困惑しているとき、慌ててよい考えが浮かばないときなど、冷静な心を保てるものがいたならば、きっと打開策を見つけることができるであろう。それは、周囲のものを安心へと導くことになるのだ。
それに冷静な者は、よく話を聞くことができる。よく話を聞き、考えることができる。それは正しい判断ができる、ということにも通じる。あわて者は、話をしっかり聞かず、噂話だけでウロウロしてしまい、正しい判断ができない。正しい判断は、安心を生みだすのだ」
「あぁ、そういうことですか。なるほど・・・わかりました。確かに、あわてんぼうにくっついていると、あっちに振り回され、こっちに振り回されで、とても安心できませんからね。そういう者と一緒にいると、疲れるだけです。そうか、それじゃあ、徳は積めないなぁ。周囲の者を振り回すのは、周囲の者に迷惑をかけているし、不安にもさせているんですからね。徳積みどころか、罪を犯しています」
「そうだ、その通りだ、若者よ。ところで、汝は、どちら側の人間であるか?」
「えっ、どちら側って・・・?」
「振り回す方か、落ち着いて行動できる方か、と問うている」
お釈迦様は、微笑みながら若者に尋ねたのだった。若者は、少し考えこんでから
「自分では冷静なつもりでいるのですか・・・・」
と答えた。すると、その横から彼の祖父が口を挟んできた。
「何を言うとるか、お前は。お前が冷静なわけがなかろう。いつもいつも周囲の者を振り回しよって。自覚がないのかっ」
「じいちゃん、俺がいつ振り回したよ」
「いっつもじゃ」
このやり取りを聞いていた、周囲の者たちは大いに笑ったのだった。

「若者よ、汝はどうやら振り回す側の人間のようであるな」
お釈迦様が微笑みながらそう言った。
「自覚はないのか?。よく自分の今までのことを振り返ってみるがよい」
お釈迦様にそう言われ、若者は目を閉じて考え始めた。しばらくして
「あぁぁ、そうだ。はぁ・・・俺は・・・はい、振り回しています。今の今まで忘れてましたが、俺はよく村人を振り回しています」
「ほう、たとえばどんなことで」
「はい、俺は・・・結構いろいろな噂ばなしを聞きこんでくるんですよ。仲間は俺のことを情報屋なんていいますけどね」
「お前の情報はあてにならんことばかりじゃ」
横から若者の祖父が口をはさんだ。若者は祖父を睨み、話を続けた。
「たとえば、この間は・・・。そう、コーサラ国の王子の象の大群が逃げ出したって情報が入ったんですよ」
それは数ヶ月前の話だった。コーサラ国の第二王子ビドゥーダバが持っている象の軍隊の一頭が逃げ出したのである。それはラージャギリという大きく凶暴な象であった。その象は、托鉢中だったお釈迦様にめがけて突進したのだが、なぜかお釈迦様の前で止まってしまい、急におとなしくなったのだった。そして、お釈迦様がその象をなでると、象もお釈迦様にすり寄ってきた。お釈迦様はその象を従え、宮殿にまで連れて行った。それ以来、その象は大人しくなったのであった。若者は、その話をしているのである。
「で、王子の象が俺たちの村に向かっているっていうんですね。その話を俺は村の誰よりも早く聞きこんできた。で、俺は村に被害があってはいけないと思い、村中の者に逃げるように指示したんだ。そしたら・・・」
「象は来んかった。それどころか、そんな話はなかったんじゃ」
最後は、若者の祖父が話を締めくくった。そして
「いつもこうやって、いい加減な話ばかりを聞き込んでは、村人を振り回しておるのです。お釈迦様、こいつに説教をしてやってください」
と頭を下げたのだった。お釈迦様は、にこやかな表情のまま若者に言った。
「若者よ、汝がその話を聞き入れた時、汝はあわてただろうか?」
「そりゃもう、あわてましたよ。大慌てで村に駆けて行きました」
「そこで汝はあわてなかったらどうなっていただろうか?」
「あわてなかったら?」
「そうだ。汝がもっと冷静でいたならば、どうであったろうか?」
お釈迦様の言葉に、また若者は考え込んだ。そして
「あぁ、そうか。わかりました。あの時、俺がもっと冷静でいられたならば、俺が聞いてきた情報がうそかどうかを俺は確かめに行ったと思います。そうすれば、俺は村人を振り回すことはなかったんですよね。あぁ、そういうことなんですね。冷静でいなさい、ということは・・・・」
「そうだ、その通りだ。若者よ、汝が冷静でいられる人間であるならば、聞いてきた話が本当かどうか汝は確かめたであろう。冷静でいられたならば、落ち着いて考えることができたのだ。汝があわててしまったがため、その結果汝は村人を不安に陥れたのだ。これは罪なことだな。
たとえば、その情報が本当だったとしたならば、冷静なものならば、どのような対処方法があるか考えたであろう。その上で、避難すべきだと判断したならば、避難させればいいのだよ。あわてて取った行動は、得てして周囲を不安がらせたり、振り回したりするものなのだ。心の冷静さがあれば、あわてた行動をしないで、的確な判断ができるであろう。それは周囲の人々の利益となるのだよ。だから、徳が積めるのだ」
お釈迦様の言葉に、若者は頭をかきながら
「はい、もう少し落ち着きます。そうだ、あわてて動き出す前に、一回深呼吸をすることにします。そうすれば、冷静になれるかも知れませんよね」
「そうだな、それがいいであろう」
お釈迦様はそういうと、にっこりとほほ笑んで若者を見たのであった。


予想外のことが起きると、人はあわてます。そして、どうしていいかわからなくなります。あるいは、思ってもみなかったことが起きても、人はあわてますよね。たとえば、医者や家族から不治の病を告げられた時など、目の前が真っ暗でどうしていいかわからなくなるのが当然ですよね。人は、突然の出来事にあわててしまうものなのです。
ところが、当事者や周囲の者があわてていたり、焦っていたりする中で、一人だけでも冷静なものがいたらどうでしょうか?。きっとその人は
「まあ、待て、ちょっと待て。少し落ち着こうじゃないか」
と言ってくれるのではないでしょうか。

何か事がおこった時、あわてて行動しても、多くの場合ロクなことにはなりません。下手をすると、火に油を注ぐようなことにもなりかねません。早急な対処が必要であったとしても、まずは状況把握が大事でしょう。それには、落ち着くことが第一なのです。
たとえば、救急の患者が病院に運ばれても、医者はすぐに手術はしません。その状態がどのような原因から起きているのか、それを判断してからでないと対処ができないからです。それは当然のことですよね。患者が苦しんでいるからと言って、腹を開けて調べましょう、なんていう医者はいないのです。また、病気の診断を下すときは、冷静さが必要です。あわてていては、大事な原因を見落とすこともあり得るからです。なので、医者はどんな緊急な時でも、冷静さが求められるのです。
同様に、我々の生活の中でも、予想外のことが起きたりしても、あわててはいけません。あわてないで、まず落ち着くことが大事です。一呼吸おいて、まずは状況を把握し、それから判断しなければ、よい判断はできないのです。

世の中は、いつ何時、どんなことが起こるかわかりません。予想外、想定外のことが起きてしまうのが世の中です。自分の常識や一般の常識が通じない者が、突如現れるかもしれません。今まで文句も言わなかった人が突然、反乱を起こすかもしれません。
そんなとき、あわててしまえば、判断は間違うし、周囲の人にも迷惑がかかるでしょう。そんなときは、あわてないで、心を落ちつけ、冷静になることです。そうすれば、いい知恵も浮かぶというものです。
あわてない、あわてない、一休み一休み・・・ですね(昔、放送されていた一休さんのアニメの言葉です)。
合掌。


第130回
正しき智慧こそが、人々を幸福へと導くものである。
正しき智慧がなければ、禍をもたらすこととなろう。
だからこそ、智慧が最も重要なのだ。

「さぁ、最後の徳積みの方法を教えよう」
お釈迦様はそういうと、そこに集まっていたすべての人々を見回した。
「最後の徳積みの法とは、正しき智慧を身につけ使うことである」
お釈迦様は、そう力強く言った。すると、若者が
「正しき智慧・・・・ですか。智慧と言っても・・・。それがなぜ徳を積む方法になるのですか?」
と質問をした。
「正しき智慧は、人々を正しい方向へと導くことができる。逆に、智慧がなければ、それは人々を不幸へと導くであろう。正しき智慧は、多くの人々に幸福をもたらすものなのだ。それは、おおきな徳積みの行為となる。正しき智慧は、それがあるならば、どんな行為よりも徳を積む行為となるのだ」
「うぅーん、なんだかよくわからないのですが・・・・・」
若者は唸ってしまった。首をひねっていたのは、若者だけではなかった。そこに集まった人々の多くが首をひねり、わからない・・・という顔をしていたのだ。その様子を見て、お釈迦様は、
「そうだな、わかりにくいであろう。では、たとえ話をしよう。若者よ、先ほどの話を憶えているか」
と若者に言った。
「先ほどの話・・・ですか・・・。あぁ、象が村を襲ってくるという噂話に騙されて村人を振り回した話ですか?」
と若者が言うと、若者のおじいさんが口をはさんだ。
「騙されたんじゃない。お前があわてん坊だっただけじゃ。冷静になっておれば、村人を振り回すことなどなかった」
若者はうんざりした顔をして言った。
「もういいじゃないか、その話は・・・・。で、その話がどうしたのですか?」
「その象が、本当に村に向かって突進してきたとしたら、汝はどうするか?」
「えっ?。あぁ・・・・。そうですね。その時もそうだったんですが、村人を避難させますね、やっぱり」
「ふむ、それだけか?」
「えっ?、それだけかって・・・、他に何かやるべきことは・・・・」
「村人を避難させた、それはよかろう。そのおかげで村人は命を落とさずに済むであろうから。しかし、象は村に突進してくる。そうなれば、村人の家はすべて潰れてしまうであろう」
お釈迦様は、そういうと若者の顔をじーっと見つめて、さらに言ったのであった。
「さて、汝は象が村に向かってきているという話を聞きこんだ。まだ時間はある。村人を避難させよう。汝はそう思い、村にすぐに戻った。そして村人に狂った像が村に向かってきていることを告げ、避難するように言った。村人はその言葉に従い、避難した。しばらくして、象がやってきた。村の家々を踏みつぶし、食料をあさり、村を壊滅させて象は去っていった・・・・。それで良いのか?」
「あっ、あぁ・・・・。そうか・・・・」
若者はそういうと考えこんだのであった。

しばらくして、若者が口を開いた。
「象が村に入らないように・・・・するとか・・・・」
「そうだ、その通りだ」
お釈迦様は、若者にそう言うと、にっこりとほほ笑んだのであった。
「よいか、若者よ。村人は皆助かっている。村人が全員避難するまでには、多くの時間を要するであろう。その間に、汝ら若者は為すべきことがあるであろう。智慧のあるものであるならば、狂った象が村に入らないように工夫をするとか、考えるであろう。たとえば、村に入る前に食料を置き、足止めをし、その間にわなを仕掛けることなど、できないことではない。象を食い止める方法を考えるのが、智慧のある者のやることであろう。たとえ、それが失敗に終わったとしても、象の進行を遅くすることは可能であろう」
お釈迦様の言葉を聞き、若者は「あぁ、そうだった」と言った。
「そうなんですよ。あのとき、まだ時間はあったんです。象が村に向かっているという話を聞いたときは、まだまだ時間があったんだ。村人を避難させるほかにも、わなを仕掛けるくらいの時間はあったんです。でも、そこまで頭が回らなかった・・・。もし、あの日、本当に狂った象が村に向かっていたら、今ごろ村は壊滅していました。あの話が嘘だったからよかったものの・・・・。もし本当だったら・・・、あぁ、俺はもっとやるべきことがあったんだ・・・・」
「そうだ若者よ。その通りなのだよ。よいか、智慧とは、そのように災難を避けるだけではなく、災難が訪れないようにしたりする工夫ができることをいうのだ。正しい智慧とは、世の中の現象を見て、それがいったい何を意味しているのか理解できることである。その智慧が身につけば、自ずと災難は避けられ、不運からも逃げることができ、幸福に暮らしていけるのだ」
お釈迦様は、そういうと、遠くを見るような表情をした。そして、少し淋しそうに話を始めたのだった。
「随分前の話である。我が弟子に智慧第一と称されたシャーリープトラと神通力第一と称されたモッガラーナという弟子がいた。いまでは、二人とも涅槃に入ってしまったが・・・。あるとき、彼らは、一緒にある村に滞在していた。その村は川を挟んで東の村、西の村と別れていた。シャーリープトラは東の村、モッガラーナは西の村にいた。ある日のこと、村の北側にある山に黒い雲がかかっているのを二人が見つけた。シャーリープトラは、すぐに村人に山で大雨が降っているであろうことを教え、そのうちに川が増水するであろうから、家財道具や食料を屋根に上げることを指示した。さらに、川と村の境に土を積み上げるように指示もした。当然、女や子供は屋根の上に避難するようにした。一方、モッガラーナは村人に山で大雨が降っているであろうことを教えた。そして、やがて川が増水するであろうと言った。村人は、避難したほうがいいのではないか、とモッガラーナに告げたが、モッガラーナは「安心せよ、我が神通力で汝らを守ろう」と言い、増水に対する対処は何もしなかった。
やがて、シャーリープトラやモッガラーナの予測通り、川が増水した。東の村は、たくさんの土を積んでいたので、川が増水しても村に水が大量に流れてくることはなかった。足首くらいまで水が入り込んだだけであった。一方、西の村はモッガラーナの神通力により、水は一滴も流れ込んでこなかった。村人は安心していつも通りの生活をしていた。さて、この場合、村人にとってどちらが幸せか?」
お釈迦様の質問に、そこに集まった人々はぼそぼそと話しあった。そして、若者がみんなを代表して答えた。
「やっぱり、西の村の方が幸せでしょう。水が一滴も入ってこなかったんだし、家財道具を高いところに運ぶこともしなかったんだし・・・。水が引いて、家財道具をまた元に戻すのも大変だし。モッガラーナ尊者の方にいた村人、西の村は幸運だったと思います」
その答えを聞いてお釈迦様は、首を左右に振ったのだった。
「汝らは間違った。私は、この話を聞いた時、シャーリープトラを褒め、モッガラーナを叱った。今また、同じような過ちを犯した汝らを叱らねばならない。汝らは、間違った選択をしたのだ。それはなぜか?。答えは簡単である。そうした大雨や川の氾濫は、その時だけあるのではない。いずれまた、必ずやってくることである。数ヵ月後か、1年後か、2年後か・・・はたまた数年後か、それはわからない。しかし、自然というものは、災害を繰り返すものなのだ。必ずや、その村を川の氾濫が襲うときが来るであろう。そのときに、またモッガラーナは西の村に居るであろうか?。川の増水のたびに、神通力を使える修行僧が村にいるであろうか?。いないであろう。そうそう都合よく神通力を使える修行僧が現れることはないのだ。
シャーリープトラは、山に黒い雲がかかった時、川が増水することを教え、そうした場合に村人がどのような行動をとれば、被害が最小限に抑えられるかを教えたのだ。モッガラーナが使った神通力程度ならば、シャーリープトラにも当然使うことができる。しかし、あえてシャーリープトラは、神通力を使わずに、村人たちの手で災害を回避する方法を教えたのだ。それは、将来を見越しての行為だったのだよ。次に川が増水するときは、シャーリープトラは、居ないであろう。ならば、村人だけで危険を回避できるように教えておく・・・・。それが本当の親切であろう。そこまで考えて行動できるのが、正しき智慧なのだ。だからこそ、シャーリープトラは、智慧第一と称賛されるのだよ。
よいか、正しき智慧は、先の先まで見越すことができる。そして、人々にとって何が重要であるか、ということまで考えることができる。その場しのぎの智慧ではないのだ。その場しのぎの智慧は、正しき智慧とは言わないのだ。
よいか若者よ。その判断でよいのか、もう一歩考えを進めてみよ。先を考え、さらに先を見て、それで万全であるのか、不安要素はなんであるのか、不安要素を取り除くにはどんな方法があるのか、それでも不測の事態は起こるであろうから、その時の対処はどうすればいいのか・・・・。そうやって深く深く考えること、それが正しい智慧を生むのである。その智慧こそが、周囲の人々を幸福へと導くのだ。だからこそ、智慧により、徳を積むことができるのだ」
お釈迦様の話を聞き、若者はもちろんのこと、その場にいた人々は
「あぁ、なるほど・・・その通りだ」
「そうか、安易な方法を選んでしまったのう・・・・」
などと口々に反省していた。
「よいか、運の善し悪し、努力して実る実らない、禍に遇い易い遇いにくい、それらは、それぞれの人の徳の差なのである。その徳は、身につけようと思えば身につくものなのだ。今まで説いてきた六つの方法・・・布施をすること、決まり事を守ること、堪え忍ぶこと、さらに一歩の努力をすること、冷静に落ち着いてあわてないこと、先を見越し深く考えること・・・こうしたことを心掛けて生活していれば、自ずと徳は積めるものである。そうすれば、人に騙されることもなく、利用されることもなく、禍を避け、あるいはたとえ禍に見舞われたときも落ち着いていられるのだよ。若者よ、人々よ、汝ら幸福に生きたいと願うのならば、この六つの法を実行するがよいであろう」
お釈迦様がそう言うと、人々は、この六つの法を実践していくことを固く決意したのであった。


今まで説いてきた6つの法・・・布施をすること、決まりを守ること、堪え忍ぶこと、さらに一歩の努力をすること、落ち着いて冷静でいること、先を見越し深く考えること・・・は、六波羅蜜(ろくはらみつ)と呼ばれる修行方法です。実際にこの修行法を行えば、運はよくなっていきます。つまり、徳は積めるのです。これは、古くから出家者・在家者問わずに行われてきた修行法なのですよ。
ただし、勢い込んで、何が何でも・・・なんて思いで実践することではありません。そんなことを思って実践したのでは、おそらくは長続きはしないでしょうから。何事も自然体がいいのです。まあ、そう考えることができることも、冷静な気持ちが必要であり、智慧が必要なんですけどね。

ちょっと考えてみればわかるでしょう。何事も「よしやるぞ!」なんて勢い込んで始めることは、長続きしないですよね。たいていは、途中で息切れしてしまいます。
よく、年の初めに日記を書くぞ!と誓う方がいますが、その日記も初めはいっぱい書いている人ほど長続きはしないものです。日記を書くぞ!と勢い込む人ほど、三日坊主になりやすいんですよね。
ところが、「まあ日記でも書いてみるか。まあ、気負わずに少しずつでもいいか」程度に書き始める人は、案外長続きするんですね。書くときもあれば書かないときもある・・・そう言うつもりで始めたほうが楽なんですよ。

新年ですよね。新しい年の始まりです。今年の目標などを決める方もいらっしゃることでしょう。それは大変いいことだと思います。今年こそは、こうするぞ、あれするぞ・・・などと気合を込めるのはいいことでしょう。しかし、あまり気合を入れ過ぎない方が、いいですよね。長続きさせるには、ゆっくりと進むのが一番良いのです。熱くなりすぎず、浮かれず、冷静になって、じっくり考える、先を見て、よ〜っく考えて、目標に向かうのが、無理のない進歩となるのでしょう。

年の始めです。今年こそは!と目標を立て、ゆっくり、無理せず、歩んでください。そして、今年が終わるころに、「あぁ、楽しい1年だった」と言えるように、過ごしていきたいですね。
合掌。


 第131回
言われたことだけを文句を言わずこなしていく、
それが真面目な者である、とは本当は言わないのだ。
本当にまじめな者は、自分の将来を考え、
自立して生きていくことを選ぶ者である。
ラーガは真面目な青年と世間ではいわれていた。当時のインドでは、カースト制度がしっかり守られており、多くの若者がそうであるように、ラーガも家業を継いでいた。なので、世間では、親のあとを継いだ真面目な青年と見られていたのだ。
といっても、まだ父親は健在で、ラーガ自身はあまりやることもなく、ブラブラしているだけの毎日であった。それでも、家を継ぐということは、世間では当然のことと考えられていたし、家を継ぐ若者は真面目である、と思われていたのだ。
ラーガの家は、先祖代々、日用品を販売する店を経営していた。ラーガの父親で4代目になる。店は昔から変らず、大きくもならなければ潰れるわけでもなかった。こじんまりと、日々の生活ができる程度の店だったのだ。
そんな店だから、働き手は二人も必要はなかった。父親一人で十分だし、たとえば父親に何かあったとしても、すぐに覚えられるような仕事であったから、ラーガが店に出ている必要は全くなかったのだ。
「ラーガ、毎日毎日店の中に座り込んで、お前は退屈じゃないのか?」
ある日のこと、父親がラーガに言った。
「どうしたんですか、急にそんなことを・・・」
ラーガは、ボーっとした顔をして父親に聞き返した。
「前から思ってたんだが、別に無理して店にいなくてもいいんだぞ。何かやりたいことがあったなら、やればいいんだ。ここシューラバスティは、王様が理解のある方だから、身分を問わず職業を変えてもいいとおっしゃっている。うまく行けば、武士階級にだってなれるんだ。しがない商売屋の息子に納まってないで、何かに挑戦してみようとは思わないのか?」
父親のその言葉にラーガは苦笑いして言った。
「ふっ、今さら何だよ。小さいころから、お前は店を継げばいい、余分なことはするなって言ってきたじゃないか。余分なことをして失敗したら、店がなくなってしまう。親に迷惑をかけるな、お前は店を継ぐことだけを考えればいい、と言ってきたじゃないか」
そういうと、ラーガは店の奥に引っ込んでしまった。店の奥の部屋でごろごろしているのだ。
「また、ゴロゴロしやがって・・・・」
父親がそういうと
「やることがないんだから、仕方がないじゃないか。じゃあ、どうしろっていうんだ?」
と寝ながらいい返すのだった。

確かにラーガはある意味、真面目な青年であった。家業を継ぎ、遊びにも行かず、酒を飲んだくれるわけでもなく、色街に通うこともせず、一日中店にいたのである。彼の行動範囲は、店と店の奥の部屋、自分の寝室だけである。たまに、父親と一緒に商品の仕入れについて行くくらいであった。はたから見れば、遊びもしない、悪さもしない、真面目な青年に見えたのである。否、世間では、そうした者のことを真面目である、というのだ。
ラーガ自身も、自分のことを真面目だと思っていた。だから、父親が怒るのが理解できなかったのだ。
「いったい僕のどこが悪いっていうんだ。僕は遊びにもいかないし、店のお金を取ることもしない。色街にもいかないし、酒を飲みにもいかない。仕事だけしている僕が、なぜ怒られなかればいけないんだ。僕は、父さんや母さんの言う通りにしてきた。余分なことには手を出さず、店を継ぐことだけを考えて生きてきた。親のいう通りにしてきたんだ。それのどこがいけないんだ。なんで今さら怒られなければいけないのだ。だいたい、世間のみんなだって、僕のことを褒めてくれるじゃないか。真面目ないい青年ですね、って。そうだよ、僕は親のあとをついで、余分なことはしないで、遊びにも通わないで、真面目に真面目に生きているじゃないか。それがなぜ怒られなければいけない?。全くわからない・・・・」
ラーガは、店の奥の部屋で寝転がって、そんなことを考えていたのだった。
実際、店を訪れる客もラーガのことを褒めていくので、ラーガは自分が怒られるいわれなどないと思っていたのだ。
「きっと、店に来るお客さんだって、僕が怒られているなんてしったら、びっくりするだろう。反対に父さんが怒られるに違いない」
と彼は思いこんでいたのだ。しかし、それはあながち間違いではない。店に来る客はラーガを褒めるし、父親がラーガのことで小言をいえば、
「そんなことをいうとバチが当たるよ」
などと反対に注意される始末だったのだ。

父親は困り果てていた。その日の夜も自分の女房に愚痴っていた。
「確かにアイツは真面目なんだが・・・・。それ以上のことをしないっていうのも、困ったものだ。なんというか、やる気がないというか、ただ店番をしているだけで・・・。あれで大丈夫なのだろうか?」
しかし、女房はと言うと
「いいじゃないか、真面目で。変な遊びもしないし、金遣いも荒くない。あんたのあとを継いでくれているんだ。文句は言えないよ。最近じゃあ、遊んでばかりいて家を継がないロクでもない若者が増えている。それに比べれば、うちの息子はいい子だよ。何が文句があるの?」
「まあ、真面目なのはいいさ。しかしなぁ、全く遊びもしない、友達もいない、ずーっと家と店に引き籠ったままで大丈夫か?」
「お客さんには愛想はいいじゃないか。ちゃんとお客さんの相手をしているよ。あとは、いい嫁をとれば何も不服はないことだろう」
「しかしなぁ・・・・。このままで本当にいいのか?。まあ、店は大きくする必要はないだろうが・・・しかしなぁ・・・。このままでいくと、店はじり貧になっていくように思えるのだが・・・・」
「そんな先の心配なんてする必要ないでしょう」
「うん、まあ、そうなんだが・・・。しかし、若いんだから、何かやってみたいこととかあるだろ、普通は」
「いいんだよ、余分なことなんかしなくて。今のままでいいじゃないか、真面目で。なんだい、そんなに心配なのかい?。じゃあ、お釈迦様にでも聞いてみればいいでしょ。今、祇園精舎に滞在していらっしゃるから、行ってきて聞いてみなよ」
女房の言葉に、ラーガの父親はお釈迦様に相談することにしたのだった。

翌日の午後のこと、ラーガの父親は祇園精舎の奥、お釈迦様の正面に座っていた。彼は、お釈迦様に息子ラーガのことを話した。
「果たして、息子はこのままでいいのでしょうか?」
その話を聞いたお釈迦様は、
「そもそも、そのように仕向けたのは、汝ではないのか?」
と言った。父親は面目なさそうにうつむいて
「はぁ、まさにそうなんですが・・・・。しかし、今さらと思われるかもしれないですが、その・・・あの姿を見ているとこの先が心配で・・・・」
と申し訳なさそうに言ったのだった。
「汝の気持ちはわからないではない。しかし、自分の子供に、自分の考えを押し付け、自由を与えず、自分のあとを継ぐだけでいいと教え込んできたのは、汝自身であろう。そのツケが今、回ってきただけであろう。汝の息子がそうした状況にあるのは、汝が原因であろう」
「はい、まさにその通りなんですが・・・・。自業自得と言ってしまえば、その通りで・・・。しかし、悪いことに周囲の者が、息子は真面目だと褒め称えるんで、余計に息子は増長しているように思うのです。このままでは・・・・」
「このままでは?」
「息子は自立できないのではないかと・・・・。嫁を貰っても、どうやって生活していけばいいのかわからないのではないかと・・・・。ただ、言われたことだけをやって、ただ店番だけをして、何も望まず、他の若者のように恋愛することもなく、自分の将来のことも考えず、ダラダラと一日を過ごすだけでいいのかと・・・・」
「そんな者は、真面目な者とは言わないであろう。それは、何も考えないで、ただ生きているだけに過ぎない。まるで、人形のようなものだ。確かにそれでは、いけないであろうな」
「私は何度も注意してきました。しかし、息子は注意される理由すら理解できないようで・・・・。なんとかなりませんか、お釈迦様。なんとか助けてください」
「よろしい、では、15日の午後、息子を連れてここに来るがよい」
お釈迦様はそういうと、目を閉じて瞑想に入ったのであった。

15日がやってきた。その日は、布薩の日で、修行者が全員集まり反省会を行う日であった。午前中は、修行僧が、戒律を守っているかどうか確認し合うのだ。そして、午後からは在家の人も集めて法話会が開かれることになっている。ラーガもラーガの両親の姿もその場にあった。
お釈迦様のお話が始まった。
「今日は、布薩の会の日であった。この日は、我々修行僧が、真面目に戒律を守り修行に励んでいるかを確認し合う日である。戒律を守れなかった者は、自ら申告し、反省し、皆から罰則を与えられるのだ。幸いにも、今日は誰も戒律を破ることなく、真面目に修行に励んでいたことが確認でき、喜ばしいことであった。
しかし・・・。真面目に・・・というが、真面目とは一体どういうことであろうか?。今日は、ここに集った修行僧を始め、在家の人々にもそれを考えてもらいたいと思う。真面目とはいったいどういうことであろうか?」
お釈迦様の問いに、修行僧の一人が答えた。
「我々にとって真面目とは、戒律を守り修行をすることです」
「戒律を守ればいいのか、守るだけでいいのか、修行をすればいいのか、修行をするだけでいいのか、それだけで真面目となるのか?」
お釈迦様はさらに問うた。これには、修行僧たちは考え込んでしまった。しばらくして、シャーリープトラが立って言った。
「我々修行僧にとっての真面目とは、戒律を守ることはもちろんのこと、悟りに向かって修行に励むことを真面目というのでしょう。その修行の中には、瞑想もあれば所作を正すこともあり、また世尊の教えを聞くことでもあり、さらには人々に教えを説くことでもあります。すなわち、与えられたことをただこなすことだけが真面目なのではなく、悟りに向かっていろいろ工夫することが真面目な修行と言えると私は思います」
「見事だ、見事だシャーリープトラ。その通りである。修行僧においては、真面目とはシャーリープトラが言った通りである。では在家においてはどうか。
在家においては、真面目とは、与えられた仕事ややるべきことを文句も言わず、ただ単にこなしていくことだけをいうのではない。それは真面目なのではなく、当然のことなのだ。本当の真面目さとは、目標に向かって、その目標をいかにすれば達成できるかをよく考え、いろいろ工夫しながら行動することを言うのだ。在家にあっては、家業を継ぐことが真面目なのではない。それは制度の中で当然のことなのだ。また、今では、国王の計らいで、家業を継ぐ制度は緩んできた。その中で、家業を継ぐことは必ずしも真面目とは言わないのだ。
本来、真面目であるということは、生きることに目標を置き、その目標に向かって努力し、いろいろな工夫をして生きていくことを真面目である、というのである。それは、簡単に言えば、この世に生まれた以上、親のもとで細々と生きていくことではなく、親元から自立することを実行する、それが真面目、というのだ。真剣に生きることを考え、それを実行していくことを真面目、というのだ。
つまり、真面目な人とは、自立を考え、将来を考え、一人でも生きていけるよう努力し、また家庭をもっても大丈夫なように生きていく努力をする者を真面目な者と言うのだ。
最近、世間では、何も文句を言わず、遊びもせず、親のあとをついでいる若者を真面目な青年としてもてはやす傾向にあるようだが、それは無責任なことであろう。そのような者を真面目な者として褒めてはいけない。真面目な者は、自分の将来を考え、自立することを考え、親に甘えることなく努力や工夫をする者のことを言うのだ。むやみやたらに、家業を継いだからと言って真面目な者、と褒め讃えては、その者の将来が自立とは遠くなってしまうであろう。皆の者よ、本当の意味での真面目ということを深く考えるがよい。ただ単に与えられたことだけをこなすのは、真面目ではないのだよ」
お釈迦様の言葉には厳しさが感じられ、そこに集まった人々は、日頃の無責任な発言を深く反省したのだった。
そして、ラーガはと言うと
「僕は真面目ではなかったんだ。ただ何も考えないで生きていただけだったんだ・・・。あぁ、僕は大きな勘違いをしていたんだ・・・・」
とうなだれていたのだった。その横で彼の父親は
「いいじゃないか、これから考えれば。お前はまだ若い。親の元にいなくてもいいのだ。自分の将来を考え、何を今すべきかをよく考えることだ。我々の元から自立する為に・・・・」
と、ラーガの背に手を置いて言ったのだった。ラーガは、大きくうなずいたのだった。


「僕の長所は真面目なところです。言われたことは文句も言わず、しっかりやり遂げます。また、注意されてもいい返すことはありません」
就職のシーズンですね。面接で「あなたの長所は?」と質問されて、上のように答える方は多いのではないでしょうか?。まあ、確かに、真面目な答えですね。
世間一般では、遊びもせず、飲んだくれもせず、賭け事もせず、日々仕事に没頭している人のことを真面目な人、と言いますよね。家と会社の往復だけで、あとは何もしない。会社においても、決して文句もいうことなく、愚痴ることもなく、言われた通りに仕事をこなしていく・・・・。いやぁ、真面目ですなぁ〜と人々はいうでしょう。また、その人の周りの人は、嫌みを込めて
「あの人は真面目だから」
というでしょうなぁ。
でも、それって本当に真面目なのでしょうか?。

本当の意味での真面目、ということを考えたことはあるでしょうか?。
私は、上に書いたような人のことを真面目な人とは思わないんですよ。ひねくれているかもしれませんが・・・。
本当に真面目な人は、仕事に関しても文句を言うと思うんですよね。真剣に仕事をしていれば、ボンクラ上司には腹は立つでしょうし、無謀な話には、おいおい待てよ、っていいたくもなるでしょう。全く文句も言わず、ただ仕事をしているというのは、怒られるのが嫌で黙っているのか、それともやる気がないかのどちらかでしょう。真剣に仕事のことを考えているなら、意見が出てきて当然ですからね。
遊びをしない、飲みの付き合いをしない者も真面目とは言えないんじゃないでしょうか?。それは真面目ではなく、付き合いが悪い、勝手なヤツ、となるでしょう。真面目ならば、職場の横のつながりやチームワーク、情報収集などを考え、たまには飲みに付き合うものです。遊びだって、ある程度は知らないと、人生の深いところまでは理解できないでしょう。冒険心だって生まれてこないようじゃ、生きることに真面目とは言えないと思います。

真面目とは、生きることに対して真面目であるべきなのでしょう。それは、自分の将来を考え、親や誰に頼ることもなく、家庭を持ち、あるいは自分ひとりで生きていけるように、自立していくことを真面目に生きる、というのでしょう。ただ、日々を文句も言わず、愚痴もいわず生きていくのは、真面目とは言わないと思います。もっと、生きること、生活していくことを真剣に考えること、それが真面目さなのではないでしょうか。

就職活動中の若い人たちにいたいですね。あなたの長所はと聞かれたら、
「自分の人生の将来を真剣に考え、仕事に対しても、生活に対しても、真面目に取り組むことです。真面目に考えていますから、ときに周囲の者や上役の方と衝突することもあるかもしれません。ですが、それが自分の真面目さだと思っています」
そう答えて欲しいですね。就職難ですからね、真面目に真剣に自己アピールをしてください。
合掌。


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