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 第132回
他の者からの指示を受け、それに従って生きていくのは確かに楽な道ではある。
人はおよそ楽な道を選びたがるものである。
しかし、自分で物事を考えなくなったら、それは虚しいだけである。
お釈迦様が布教活動を始めて20年もすると、仏教はコーサラ国やマガダ国をはじめ多くの国で盛んに信仰されるようになった。それに伴い、精舎も数多くでき、また修行者の滞在を受け入れる町や村も多くなった。と、同時にそれは出家者の数も増やしていったのだった。
出家者は、その多くがお釈迦様の教えに感動し、自分も悟りの世界に入りたい、苦の世界を解脱したいと願う者たちだった。しかし、中には托鉢で飯が食える、働かなくても生活できるという、不純な動機で出家する者もいたのだった。それは、怠け心から出家を望んだ者たちだった。
とはいえ、出家生活は厳しいものであった。戒律も多くあり、日々厳しい生活管理がなされていたのだ。当然ながら不純な動機で出家した者の多くは、その厳しさに耐えきれず、逃げ出すものが多かった。
しかし、別の面からみれば、出家生活は慣れてしまえば、案外楽な生活であるともいえたのだった。それは、出家という仕組みの問題点でもあった。

今日も新しい出家者が一人、祇園精舎に誕生した。名前をビシュタヤといった。
「今日から汝は出家者として修行の道を歩むこととなる。出家者の生活には数多くの決まりごと・・・戒律がある。長老からそれらの戒律を学び、出家生活を送り、悟りの修行に励むように」
お釈迦様は、ビシュタヤにそう告げた。彼は、お釈迦様を三度礼拝すると、長老の一人マハーカッサパに連れられて、所定の修行場所へと歩いて行った。
「さて、ビシュタヤ、これからいうことを記憶するのだ。それは、日々の生活で守らねばならぬ決まり事だ。細かい戒律については、あとで詳しく教えよう。まずは、生活の基本ができなければならないからな」
マハーカッサパの言葉に、ビシュタヤは素直に「はい」とうなずいたのだった。マハーカッサパは、
「まず、朝起きてからのことだが・・・」
と、一日の出家者の生活と修行の段取りについて彼に説いていった。
翌日になると、シュラーバースティーの街で托鉢をするビシュタヤの姿が見られた。彼は、マハーカッサパにつき従って、主に貧しい者が住む場所を托鉢していた。托鉢から戻ると、マハーカッサパのすることを見習い、食事をし、口をゆすいだ。
「ふむ、そうだビシュタヤ、それでいい。さて、食事も終えた。次はいよいよ瞑想だ。が、しかし、君はまだ世尊の教えをよく理解してはいないであろう。なので、これから世尊の教えの重要な点を説くから、それが真実であるかどうかを考察しなさい」
マハーカッサパはそういうと、仏教の重要な教えである「諸行無常・諸法無我・涅槃寂静」と「十二縁起」について説いた。ビシュタヤは静かにそれを聞いていた。
「よいかビシュタヤ。今言ったことをよく考察してみるのだ。それが真実であるかどうかを」
マハーカッサパはそういう言うと、他の弟子たちの指導にむかった。残されたビシュタヤは、しばし呆然としていたが、結跏趺坐したまま目を閉じたのだった。

そうした日々が何日か続いた。ある日のこと、マハーカッサパはビシュタヤに
「この間教えた諸行無常・諸法無我・涅槃寂静、それと十二縁起について考察したか?」
と尋ねた。ビシュタヤは「はい」とだけ答えた。マハーカッサパは
「では、私に説明してみよ」
とビシュタヤに言った。彼は、マハーカッサパに教えられたとおりに、それらの教えについて説いた。
「ふむ、よろしい。では、次の教えだ・・・」
マハーカッサパは、次の教えを彼に説いたのだった。
このようにしてビシュタヤは、多くの教えを聞いたのだった。やがて、彼は、周囲の者から
「ビシュタヤは悟ったのではないか」
と言われるようになったのだった。なぜなら、彼は何の苦しみや悩みの表情も見せず、ただ淡々と日々の修行生活をこなしていたからだ。無駄口も全くせず、ニヤニヤともせず、泣いたりわめいたりもしなかった。朝起きて、沐浴をし、托鉢に出て、戻って食事を済まし、口を注ぎ、瞑想に入る。ビシュタヤは、同じような毎日を同じように繰り返していたのだった。
そんなある日のこと、マハーカッサパがビシュタヤに言った。
「ふむ、そろそろ世尊のところに参ろうか。世尊に汝が悟っているかどうかを判断してもらおう」
ビシュタヤは、そういわれると「はい」と答え、マハーカッサパの後につき従った。
「世尊、このビシュタヤは大変まじめで、修行に日々励んでおります。教えもまるで乾いた砂地に水がしみ込むようにどんどん吸収しております。日々、何も不平も言わず、また何の苦しみも見せず、修行に励んでおります。世尊、この者は阿羅漢でありましょうか」
お釈迦様は、マハーカッサパにそう言われ、ビシュタヤをじーっと見つめたのだった。しばらくして
「マハーカッサパよ、汝ほどのものであっても、間違いは犯すのであるな。よく見なさい。よくビシュタヤを観察せよ。悟りと彼の状態とは、似て非なるものぞ」
そういわれたマハーカッサパは、ビシュタヤをあわてて見つめてみた。そして、
「ビシュタヤ、君がこの祇園精舎に来て約一か月・・・・。君は、何の不平も漏らさず、もめ事も起こさず、毎日修行者の決められた日々を過ごしてきた。それは・・・・、君に取っては、何が修行なのだ?」
と額から汗を流しながらビシュタヤに聞いたのだった。彼は、
「はい?。マハーカッサパ尊者が言われるままにつき従っているだけです」
と答えた。
「マハーカッサパよ、わかったか?。私が似て非なるもの、といった理由が」
お釈迦様はそういうと、マハーカッサパを厳しい表情で見たのであった。そして、
「ちょうど良い機会だ。アーナンダよ、修行者、全員を集めなさい。大事な教えを説こう」
とアーナンダに命じたのであった。

広い祇園精舎で修行をしている多くの僧や尼僧がお釈迦様の前に集まってきた。その数は千人は超えるものであった。長老たちは、お釈迦様を囲むようにそれぞれ所定の場所に座った。集まった僧や尼僧がしんと静まり返った。
「修行者たちよ、汝らは悟りに向かって日々修行に励んでいることであろう」
お釈迦様の話が始まった。
「悟りを得ることは、簡単なことではない。無論、多くの修行者の中には、簡単に悟りを得てしまう者もいるであろう。しかし、多くの者は、悟りを得るために、悩み苦しみ、そして修行に励むものなのだ。自分と同じころに出家した者、自分より後に出家した者が自分より先に悟ると、焦って苦しみ、悩むものである。それは、当然のことなのだ。むしろ、そうした苦しみを経てこなければ、悟りに至ることは難しいともいえる。
出家生活は、教えをよく理解し、悟りに真正面から向き合えるようにするための生活である。出家者としての生活をするが故に、悟り以外の物事に時間を割く必要がないように仕組まれているのだ。それは、皆の者もよくわかっているであろう。汝らは、日々の生活の煩わしさや誘惑から解放されているはずである。それは、悟りについて取り組みやすくするための仕組みである。
しかし、こうした出家生活に慣れると、一つの楽な道があることに気が付くであろう。出家生活には、汝らが決して踏み入れてはいけない楽な道が隠されているのだ。それは何か。答えられるものはいるであろうか?」
お釈迦様の質問に、即座にこたえる者はいなかった。しかし、しばらくして手を挙げる僧がいた。その者は、かなりの老人であった。
「それは、わしが今歩んどる道です。わしは、悟りに至る道を捨て、安易で楽な道を選んでしまいました。できれば、若い修行者には、わしの選んだ道を歩んでほしくはない。そう思いまして、今わしが歩んでいる道を示しましょう。世尊、よろしいかな?」
「もちろんである、老修行僧よ」
お釈迦様がやさしくそういうと、その年老いた修行僧は話を続けた。
「世尊が言われた行ってはいけない安楽な道、それは長老の言葉にただ従うだけの道じゃ。出家生活をしていれば誰しも気づくとは思うが、この生活をしていれば、何も考えなくてもよくなる、という落とし穴があるのじゃ。ただ朝起きて沐浴をし、托鉢に出て、食事を済ませ、瞑想し、寝る…そういう毎日を過ごしていれば、実に安楽な気分になれるのじゃな。困ったことが起きたら、長老に聞けばいい。長老は親切に指導してくれる。何をしていいかわからないことがあれば、長老に聞けばいい。それも教えてくれる。実に親切じゃ。わしは何も考えなくてもいい。ただ、日々を過ごしていればいいのじゃ。こんな楽なことはない。そういう日々を過ごしていれば、まったく悩む必要などないのじゃ。困ることは一つもない、悩むことは一つもないのじゃから。しかし、それは悟っているわけではない。悟ってなどいるものか。悟りとは全く違う。外見は似ているが、それは非なるものじゃ。わしは、ただたんに考えることを止めただけなのじゃ。自分で考えることを辞めて、長老の言うことに従っているだけになったのじゃ。そう、わしは長老の操る人形になってしまったのじゃ。しかし、人形になることは、実のところ意外と安楽なのじゃ。悩まなくてもいいからな。
世尊がおっしゃった、決して踏み入れてはいけない安楽な道とは、他の者から指示を受け、それに従っているだけで、自分では何も考えないで生活していく道のことなのじゃ。それは、もはや人ではない。単なる、人形じゃ。いや、生きる屍であろう。
若者よ、修行者よ、間違った安楽の道を選んではいけない。安楽な道は、こんな道を乗り越え悟った先にある道なのじゃ。初めからある道ではない。それを忘れぬように修行に励んでくだされ」
老修行者そういうと、ばったりと倒れたのだった。彼は、微笑みながらその生を終えたのだった。

「ここに集った修行者よ。かの老修行僧が自らの命と引き換えに説いた教えを忘れてはならぬ。よいか、人は楽な道を選びたがるものなのだ。しかし、初めから楽な道などない。楽な道は、自ら困難な道を乗り越え悟った先にこそ存在するものなのだ。自ら考えることを止めて、周囲の者にただ付き従うような、そんな人形のような生き方を決してしてはならぬのだ。また、長老たちは、自分たちの言うことだけを聞いていればいいというような指導をしてはならない。自分で考え、理解させるような指導を心がけよ。修行者を決して間違った安楽の道を歩ませぬように・・・・」
お釈迦様の言葉に、長老たちは深く反省したのであった。

しばらくして、ビシュタヤの表情が変わっていたのであった。以前は、無表情で、何も考えていない様子であったが、最近は笑ったり悩んだりするようになってきた。
「あやうく一人の修行者を間違った道を歩ませるところだった。あの名も知らぬ老修行者に感謝をしなければ」
マハーカッサパはそういうと、ひそかに合掌して目を閉じたのであった・・・・。


最近、TVをにぎわしているあるタレントがいます。そのタレントは、占い師と一緒に暮らし、家賃を滞納して問題になっています。一般のニュースにもなるくらいの問題まで発展しています。それは、そのタレントが占い師に洗脳されてしまっているのではないか、という問題が出てきているからでしょう。

かつて、オウム真理教という危険な宗教が世間を騒がせたときに「洗脳」という言葉がニュースや新聞をにぎわしました。
洗脳とは、悩みを抱えた状態の人を特殊な環境におき、ある指導者のもとで正しい思考をできなくしてしまうことをいいます。正しい思考ができなくなった人は、その指導者、もしくは指導者に親しい者の言うことしか聞かなくなります。洗脳された者は、自分でその指導者の言っていることが正しいことなのか、間違っていることなのか判断できなくなってしまいます。また、自分で考えることができなくなってしまいます。
こうした洗脳は、弱っている心の状態の人ほど陥りやすいものです。昔から、宗教や独裁者が使った手段です。弱った心の状態の時、人は宗教を頼ります。悪い宗教は、そこに目を付け、大いに洗脳を利用してきました。今でも、新興宗教には、布教という名の洗脳が見受けられます。実際、とある新興宗教の信者は、その宗教を批判すると徹底的に反抗してきますし、また、間違いを指摘しても受け入れようとはしません。洗脳は、宗教にはある意味、つきものなのです。

なぜ、人は洗脳されるのか。それは楽だからです。何も考えなくていい、自分で判断する必要がない、常に言われるままに従っていればいい・・・それはそれは楽なのです。なぜなら、悩まなくてもいから。
自分で何かを判断し、自分で考え生きていくのは、大変なことなのです。自分で責任を取らなくてはいけないからです。なので、人は、重要な判断をするとき、占い師やだれか相談できる人を頼るのです。人は、あまりにも自分だけで判断するには大きな出来事は、他人の判断を頼りたくなるのです。そこに悪い奴は付け込むのですね。

しかし、自分で考えることを辞めてしまう、自分で判断できなくなってしまうのは、もはや生きているけど、生きていない状態と同じでしょう。頼ってしまった安楽な道にどっぷりつかってしまえば、それは恐ろしい道になってしまうのです。
安楽な道など初めからありません。そんなものは、幻想です。何かに頼るのはいいですが、頼り切ってはいけません。参考にする程度にしないとね。最終判断は自分で決めるものです。
そうでなければ、安楽な道など得られないのです。安楽な道とは、悩み苦しみ、それらを乗り越えた後に、自然と開かれている道のことなのですよ。目の前の、安楽そうな道に逃げ込まないようにしてくださいね。
合掌。


  第133回
選択することは、迷うことではある。
しかし、選択できることは幸運である。
選択できないことは、つらいことであり苦しみを生む。

インドは古来からカースト制度という身分制度があった。現代でこそ、カースト制度は無くなってはいるが、人々の間にはカースト制度の名残はあり、身分制度を意識しない人々は少なくないであろう。
お釈迦様のいらした当時は、厳しいカースト制度はあったにはあったが、コーサラ国のプラセーナジット王やマガダ国のビンビサーラ王などは、優秀な人材は身分の壁を越えて登用したりしたので、身分を越えて職業を変えることもできないことではなかった。当時のコーサラ国やマガダ国のような大国は、比較的カースト制度は緩やかだったのだ。ただ、大国の隣国や周辺国は、カースト制度を厳しく守っていた国が多かったし、大国であっても人々の間では、カースト制度の意識は根強くあった。国王がどう考えようと、民衆の間に根付いた慣習は、そうそう変えられないものだったのである。人々は、生まれてきた家の職業によって、身分は決められていたのだ。そこに選択の余地はなかった・・・。

お釈迦様が生まれ育った国カピラバストゥは、シャカ族が治める小国であった。一応、独立国ではあったが、コーサラ国の属国となっていた。
比較的、自由を重んじるコーサラ国に対し、カピラバストゥは伝統を重んじていた。なので、厳しいカースト制度が守られていたのだ。
「お前は、なんて手先が不器用なのだ。これでは将来困るだろう・・・・。いいか、この国では、ほかの職業には変われないんだぞ。いい加減に覚えたらどうなのだ」
そう怒鳴る声がある家の裏から聞こえてきた。その家は、靴職人の家だった。皮を仕入れ、靴を作り、販売しているのだ。時には、注文でその人専用の靴も作る。手先の器用さが問われる職業であったが、身分は商人階級の中でも低い方に分けられていた。
怒鳴られた若者は、横を向いてふてくされていた。怒っているのは、その若者の父親である。
「いいか、代々うちは靴職人の家なんだ。お前はそのあとをつぐんだ。ほかに道はない。それはわかるな?」
「弟がいるじゃないか。弟は器用だ。弟に継がせればいいじゃないか」
若者は、父親にそう反論した。その若者には、手先の器用な二つ違いの弟がいたのだ。
「バカモノ!。お前たちは、二人とも靴職人しかなれないんだ。お前も弟も、同じ靴職人だ。いいか、お前はこの家を継ぐ、弟はほかの靴職人の家に養子に入るんだ。もう決まっていることなのだ」
「ちッ、わかったよ。ちゃんと練習するよ・・・・。あーあ、コーサラ国はいいよなぁ、職業を変えることも認められているからな。それにしても、おかしいよなぁ。仏陀が誕生したこの国なのに、ほかの国より自由がないなんてさ・・・・」
若者は、ブツブツ言いながら工房にしぶしぶ向かった。その後ろ姿に父親は怒鳴った。
「何をバカなこといっている。さっさと修行しろ!」

若者には、別の夢があった。夢というか、なりたい職業があったのだ。それは、建築業であった。大工である。彼は、細かい作業は苦手であったが、力があったせいか石を切り出したり、その石を積み上げ土台や柱を造ったりすることはうまかったのだ。あるいは、木材を切り出し、丁寧に組み合わせ、家を造っていくことが好きであったのだ。
「同じ職人の身分なんだから、職業くらい変えられてもいいのに・・・。身分を超えて仕事を変えようということじゃないのに・・・。なぜ、この国はその自由すらないんだ・・・・」
若者は、独り言を言いながら、せっせと皮を縫い合わせていた。
「痛て!、また針で指をさした。だいたい、こんな小さな針なんか、俺には扱えないんだ・・・・。あぁーあ、子供のころはまだましだったなぁ。同じ身分同士なら、お互いの家に遊びに行けたのに・・・。大人になると、みんなそれぞれの家業を覚えるため、お互いの行き来が無くなってしまう・・・。つまんねぇ国だなぁ・・・。コーサラ国やマガダ国は、もっと自由だと聞く。それも仏陀の教えを聞いてから、自由化していったらしい。仏陀が生まれたこの国が、どうしてもう少し自由にならないんだ。まったく、あの年寄りの国王がいけないんだ。年寄りは頑固で、伝統を変えようとしないからなぁ・・・・。あぁ、つまんねぇ・・・」
若者は、そういうと手にしていた皮と針を放り出して仰向けに寝転がってしまった。若者は、そのまま眠ってしまった。
若者は夢を見ていた。夢の中に光り輝いている人が立っていた。その人が言った。
『私はブラフマンだ。そう梵天である。間もなく仏陀世尊がこの地に立ち寄られる。汝、世尊に会うがよい・・・』
「また、寝てやがる!。いい加減にしやがれ!」
若者の夢は、父親の怒号で消え去ったのであった。

何事もなく数週間が過ぎていった。が、そのころになると、街の人々の間に
「世尊が里帰りをされる。このカピラバストゥに久しぶりに立ち寄られる」
という噂が流れていた。靴職人の若者も出来上がった靴を届けに街に出た時に、その噂を耳にした。そして、夢のことを思い出したのだった。
「そういえば・・・、あの時夢を見たような・・・。あれは、梵天とか言っていた・・・・。確か・・・世尊に会えとか・・・・・。まさかな、このことじゃないよな。関係ないよな」
若者は、頭を横に振り、夢で聞いたことを忘れようとしたのだった。
しばらくして、噂の通りに仏陀がカピラバストゥに大勢の弟子を引き連れやってきた。が、城には入らず、郊外の森に滞在したのだった。人々は、手にお供え物を持ち、仏陀が滞在する森を訪れた。
靴職人の若者は、仏陀のことなど気にせず、仕方がなく靴を縫っていた。そのとき、若者は急に眠気に襲われた。ふと気が付くと、彼は夢を見ていた。
『何をしておるのか。早く仏陀のもとへ行くのだ』
「また眠りこけているのか。このバカモノが!」
父親の怒鳴り声で若者は目が覚めたのだった。若者は、すぐさまお釈迦様が滞在している森へと駈け出していったのだった。
若者は仏陀のもとにいた。二度も見た夢に従ったのだ。若者は、仏陀に「この国はカースト制度が厳しすぎる、せめて同じ身分の中では職業を選ぶことができるようにして欲しい」と懇願した。
「なるほど、汝の言うことはもっともであろう。すべてにおいて、選択ができないということは不幸なことだ。ましてや、生まれながらに職業が決まってしまっているというのは、生きていくうえでつらいものがあろう・・・・。よろしい、明日の午後、城内の庭園に多くの人々を集めるがよい。この地に住まう多くの者を集めるがよい」
お釈迦様はそういうと、静かに目を閉じたのだった。

翌日の午後、城内の庭園には大勢の人々が集まっていた。もちろん、シュッドーダナ王や大臣たちもいたし、靴職人の若者もいた。
「人々よ、汝らは自分たちの意思のもとで生活しているであろうか?。今の職業は、自ら好んで選択したものであろうか?。今の生き方は、自ら望んだ生き方であろうか?」
お釈迦様の問いかけに、多くの人々がポカンとした顔をしたのだった。
「始めから決められている道を歩むのは、確かに楽なことではある。何も迷うことはなく、何も考えず、決められた通りのことを決められたままに行う・・・・。それはそれでよいのだろうが、それは自分の意志に従ってのことなのだろうか?。
一つの道を示され、何も文句を言わず、その道に従う・・・・それも生き方の一つではあろう。それは、迷うこともないであろう、悩むことも少ないであろう。しかし、決められた道をただ決められたように押し付けられ、それに従うのならば、それは人形と同じではないだろうか?。そこに人としての意思はあるのだろうか?。
二つの道、あるいは、数種の道を示され、どれかを選べと迫られた時、人は大いに迷うであろう。しかし、どの道を選ぶのかは、自分の意思に従ったものであろう。選択するのは、自分自身なのだ。自分で選んだからには、そこには自己責任が生じる。自分で選んだのだから、たとえ苦しくとも文句は言えまい。確かに、自分で道を選ぶということは、苦しいことではある。
しかし、全く選択できないというのも苦しみではないか?。汝らは、食べたくもないものを毎日食べさせられて文句を言わないであろうか?。食べるものを選択できないとなると、苦しくはないか?。
よく考えるがよい。
人は、選択しなければいけないとき、大いに悩み迷う。どれを選んでいいのか決断がつかなくなり、こんなことならば選択できない方がいい、誰かに決めてもらったほうがいい、と思うであろう。しかし、それは、不幸なことなのだ。他人に決められ他人に従って生きるというのは、自分の意思をすでに捨て去っているということと同じことであろう。選択できない、選択しない、ということは、自分を捨てていることと同じことなのだ。自分を捨てるとはどういうことか。それは、自分で考えない、自分で生きていない、ということであろう。人は、自分で考えることを止めてしまえば、それは人でなくなることを意味しよう。
選択に迷うということは、考えるということである。そして、自分の生き方に責任を持つということである。そのほうが、人としての成長があるのではないだろうか?。
国王よ、いやいやながら親の職業を継ぎ、親の職業以外の職業を選択できない若者は、いったいどう思うであろうか?。仕方がない、とにかくやればいいだろう、とにかく続ければいい・・・・。そんな考えで仕事をして、果たしてその仕事は正しくまっとうに成就されるであろうか?。いやいやこなした仕事の仕上がりは、満足いくものであろうか?。
自分で選択し、自分で選んだ仕事ならば、それはその仕事に責任を持つということであろう。そのほうが、仕事の出来栄えがよいのではないだろうか。
国王よ、制度もよいが、制度に縛れれば国は発展しないであろう。人々よ、選択するのは迷うことであろうが、選択できないことはもっと不幸なことであることをよく知るがよい・・・」
お釈迦様の話に、だれもが深くうなずいていた。誰もが、自分で選ぶ喜びを知っていたのだ。
「せ、世尊よ・・・。どうもこの国は伝統にこだわるようだ。私自身、選択の自由を得ていなかった。これでいいと思い込み、考えることを放棄していたようだ。なるほど、そのせいか、この国は他の国よりも発展が遅れている。否、活気もない。小さな国でも、自由な国は、もっと明るく人が大勢集まっているようだ。私は、何も考えることなく今まで来てしまった。人々にこの失敗を押し付けてはなるまい。今日より、選択ができるような国を作ることを心がけよう」
シュッドーダナ王は、立ち上がって宣言したのであった。

数日後のこと、国王からお触れがあった。そこには
「同じ身分内であれば、職種を自由に選んでよい」
と記されてあった。靴職人の若者は、それを見て、
「やったー、俺は今日から大工の職人に弟子入りするぞ!」
と叫び、知り合いの大工職人のもとへと走っていったのだった・・・・。


「どっちを選べばいいでしょうか?」
こういう相談は、本当に多いですね。皆さん、選択には迷うものです。
こうした場合、
「どっちを選んだらメリットが大きく、デメリットが少ないか、まずはそれを考えたらどうですか?」
ということが多いです。あるいは、
「どちらを選んだら都合がよいか、それを考えてみましょう」
と言います。で、それぞれの選択肢の良い点・悪い点を聞き出します。
そうすることにより、相談される方は選択肢を客観的に見ることができるんですね。で、自分で選択をします。私が選ぶわけではありません。

選択に迷うとき、人は
「もう選ぶなんてことできない。初めから道が一つであればいいのに」
「迷ってしまうから決められない。迷わなくてもいいように、初めから一つに決まっていればいいのに」
と不平を言うことがあります。しかし、よく考えてみてください。選択できないってことは、まったくもって面白くない、ということをね。

選択することに不平を言う方は、選ばなかった方が後からよく見えてしまう方なのでしょう。
「あっちを選んでおけばよかった」
ということですね。でも、選んでしまった以上、もう遅いんです。選んだ道で頑張るしかないのです。
というより、「あっちを選んでおけば・・・」という方は、どっちを選んでも同じことを言うんですよ。「隣の芝生」ですね。選ばなかった方がよく見えてしまうだけなのです。自分で選んだのですから、とりあえず、その道で頑張ってみればいいのでしょう。どっちを選んでも、努力しなきゃいけないことには変わりはないのですから。

選ぶのはいや、迷いたくない、というのは、本当は贅沢な悩みなのです。選べない不幸だってあるのですからね。否、選べるというのは幸せなんですよ。やりたくもないのに、やらなければならない、ほかに選択肢はない、というのは、とてもつまらない、苦しいことではないでしょうか。いやいやながらもやらねばならない、というのはとても不幸なことでしょう。選択できるということは、喜ばしいことなのです、贅沢なことなのです。
レストランに入って、メニューを開き、そこに料理の名前が一つしか載っていなかったら・・・。
選択できないのは、不幸ですよね。人生の選択も、レストランのメニューと同じだと思えば、迷うのも楽しいじゃないですか・・・。
合掌。


 第134回
悩むことは善い。それは人を成長させるものだ。
しかし、悩みにとらわれてはいけない。
それは前進を阻むことであるから。

 
お釈迦様が祇園精舎に滞在していた時のこと。ビジタセーナ、マハーセーナ、ウパセーナという三人の兄弟が出家を願い、祇園精舎にやってきた。お釈迦様は、それら三人の出家を認め、シャーリープトラに指導を託した。
ビジタセーナは長男らしく、落ち着いてシャーリープトラの話をよく聞き、真面目に日常の修行者がやるべきことをこなしていった。次男のマハーセーナは、たまにシャーリープトラに反発したりしたが、積極的に修行に励んだ。末っ子のウパセーナは、何を考えているのかわからないほど、のほほんとしており、ただ言われるままに修行者の生活を送っていた。
ある日のこと、ビジタセーナが弟のマハーセーナに問いかけた。
「なあ、お前は空の意味がわかるか?」
マハーセーナは、
「うん、理屈ではわかるが、実感としてはわからないねぇ。まだ、そこまでは達していないよ。でも、修行していくうちにわかる時が来ると思う」
と答えた。そこに末っ子のウパセーナがやってきた。
「兄さんたち、何を話してるの?」
「あぁ、ウパセーナか。ビジタセーナ兄さんが、空の意味がわかるか?、と聞いてきたんで、その話をしていたのだ」
「空?、空ってなんだっけ?」
「ウパセーナ、お前は・・・・。つい昨日こと、シャーリープトラ尊者から教えを受けたではないか。覚えていないのか?」
ビジタセーナは、弟をにらみつけながらそう言った。
「あぁ、そういえばそうだったね。あははは」
「お前は、相変わらずだなぁ・・・。でも、お前みたいなものが、悟りに近いのかもな」
「うぅん、まあ、難しいことはよくわからないけど、ここでの生活は楽しいよ。じゃあ、僕は森の方へ行くよ」
「ああいう性格がうらやましいよ」
ビジタセーナは、すたすた歩き去って行く末弟の後姿を見てつぶやいたのだった。
「珍しいね、兄さんがそんなことを言うなんて」
「あぁ?、あぁ、そうだな・・・・」
「兄さん、元気がなさそうだけど、修行するしかないからね。お互い頑張ろう」
マハーセーナは、そういうと自分の修行場所へと去って行ったのだった。一人残されたビジタセーナは、大きくため息をつくと、
「理解できないことを理解しろと言われてもなぁ・・・・」
とつぶやきながら、森の中の泉の方へ向かったのだった。

しばらくたったある日のこと、マハーセーナがシャーリープトラに相談をしていた。
「最近、兄の姿が見当たらないのですが・・・」
「そうなのだ、私も心配していたのだよ。ここ二日間ほど、托鉢にも姿を見せない。いったいどこにいるのか、気になっていたのだ」
「はい、私も昨日探していたのですが・・・・。弟に聞いても知らないというし・・・。まあ、弟は当てにならないですけど」
「ウパセーナなら、いつも森で虫を探して遊んでいるよ。彼は・・・瞑想していると、虫が気になるらしい」
シャーリープトラは苦笑いしながらそう言った。しかし、すぐに真顔に戻ると
「仕方がない、神通力を使ってビジタセーナを探すか・・・・」
と言い、深い瞑想に入った。
「あぁ、見つかった・・・。この森の奥、泉の近くに大きな穴の開いた大きな木があるのだが、その木の穴の中に座っている」
「行ってみましょう。少し心配です」
シャーリープトラとマハーセーナは、森の奥の大きな木を目指した。

「いったいどうしたというのだ、ビジタセーナ」
シャーリープトラの問いかけに
「放っておいてください。私は、もうここから動かない方がいいんです」
「どういうことなのだ」
「私には、悟りなんて無理です。だって、空の意味すらわからないんですよ。空の意味がわからない者に、悟りなんて・・・。私はダメな男なんですよ。頭は悪いし、何もできない。弟たちに兄らしい顔をしていただけで、本当は何もわからない。いつもいつもどうしたらいいのか悩んでばかり。悩んでばかりなのに、悩んでいないふりをして今まで生きてきただけなんですよ。いつも悩んでばかりのダメな男なんですよ、私は」
「兄さん、何を言ってるんだ?。兄さんは今まで僕たちを守ってきてくれたじゃないか。何をそんなに悩んでいるんだよ。いや、そんなに悩んでいたのなら、なんで相談してくれなかったんだ」
「お、お前に相談できるわけないだろ。俺は兄だぞ」
「何言ってるんだよ、悩んでいるときは兄も弟も関係ないだろ。悩んでいるなら、悩んでいるっていえばいいじゃないか」
マハーセーナの言葉に、ビジタセーナはうつむいてしまった。
「まあ、待ちなさい」
シャーリープトラが割って入った。
「ビジタセーナ、君はいったい何を悩んでいるのだ?」
「な、何をって・・・」
「空がわからないから悩んでいたのか?。それとも、悟りは無理ということを悩んでいたのか?。それとも、兄としてしっかりしなきゃいけないのにできないことに悩んでいたのか?。あるいは、過去のことに悩んでいたのか?。はたまた、誰にも相談できないことに悩んでいたのか?。いったい何に悩んでいたのだ、君は?」
シャーリープトラにそう問いかけられ、ビジタセーナは、ゆっくりとシャーリープトラの顔を見つめた。
「あっ、あぁ・・・僕はいったい・・・。あぁ・・・、でも・・・、あぁ・・・何が何だか・・・」
と、そこに末っ子のウパセーナがやってきた。
「あれ?、兄さんたち何やってるの?。あぁ、シャーリープトラ尊者も。あっ、そうか、この木の穴の中に入って遊んでいるんだね」
「バカモノ!、お前はどうして・・・。これが遊んでいるように見えるのか?」
マハーセーナは大声で末弟を怒ったのだった。その様子を見てシャーリープトラは、
「やれやれ、悩みすぎるのもよくないが、悩まないのもよくないことだ。困ったものだな、君たちにも。仕方がない、世尊のところにいき、指導を受けようではないか」
と苦笑いしたのだった。

お釈迦様の前には、ビジタセーナ、マハーセーナ、ウパセーナの三人が座っていた。お釈迦様と彼ら三人の横には、シャーリープトラが座った。お釈迦様の後ろには、アーナンダが座って控えていた。
「話は分かった。さて、シャーリープトラ尊者にも問われたと思うが、ビジタセーナ、汝は何に悩んでいたのだ。少し整理してみなさい。言葉にしながら、ゆっくりでよい」
お釈迦様にそう言われ、ビジタセーナは、思い出しながらゆっくりと話し始めた。
「はい、えーっと・・・。初めは、空の意味がよく理解できなかったことから始まりました。それで一人で考えていたのですが・・・・。その・・・空を理解しようと一生懸命修行をしている弟を見ていたら、自分が情けなくなってきて・・・。自分はダメな人間じゃないかと・・・・思い始めたんです・・・・。あぁ、そうだ・・・・そこに何も考えていない末弟がやってきて・・・自分がやってきたことはいったいなんだったのだろうと思い始めて・・・・。それから・・・何が何だかわからなくなって・・・・」
ビジタセーナは、そういうと頭を抱えたえのだった。お釈迦様は、そんなビジタセーナを優しく見つめると
「ビジタセーナよ、悩むことは善いことだ」
といった。その言葉に
「えっ?、どういう・・・ことですか?」
とビジタセーナは問い返したのだった。
「よいか、ビジタセーナ。悩むことは大変よいことなのだよ。悪いことでもないし、間違っていることでもない。汝が、空について悩んだことは大変よいことなのだ」
「よいこと・・・なのですか?」
「そうだ、よいことだ。悩むのはよい。しかし、問題はそのあとだ」
「そのあと・・・ですか?」
「そうだ、汝は、悩んだあと、どうした?。その悩みに対してどのように対処したのだ?」
「え・・・っと・・・・。あぁ、弟に・・・マハーセーナにちょっと相談というか、話してみました。お前は空を理解できるかって?」
「すると、弟はなんといった?」
「理屈はわかるけど、実感はないと・・・・」
「それで・・・?」
「弟は、修行すればそのうちにわかるのでは・・・と・・・」
「そこに末弟が現れ、彼の何も考えていない様子に衝撃を受け、自分を見失ったのだな?」
「見失った・・・・・。あぁ、そう、そうです。そうなんです。なんだか、悩んでいる自分がバカらしくなり、こんなことでいいのかと悩み始めてしまったんです。あぁ、そうだ、あの時だ・・・・。それ以来、頭の中がもやもやとしてしまい・・・・」
「汝は、悩みにとらわれたのだよ」
お釈迦様は、そういうと、優しく微笑んだのであった。

「よいか」
お釈迦様が、三人の顔を順に見渡して話し始めた。
「悩むのはよいことなのだ。悩むことによって、人は考えるからだ。しかし、悩みにとらわれてはいけない。悩みとらわれるとは、いったい自分は何を悩んでいるのかわからなくなってしまう、という状態になることだ。何に悩んだのか、そのことを忘れてしまい、何を悩んでいるのかわからなくなるのはよくない。そうなると、自分はどうしていいかわからなくなり、生きていく気力をも奪われてしまうのだ。よいか、悩み始めたら、自分はいったい何を悩んでいるのか、何に悩んでいるのかを徹底的に見つめることだ。考えることだ。それを忘れると、悩みにとらわれることになってしまうのだ」
お釈迦様は、そういうと再び三人お顔を見渡した。
「ついでに言っておこう。悩まないのは、よくないことだ。いや、悩まないのはいいが、考えないのはいけない。目の前の問題に対し、何も考えず、自分の好きなことに走ったり、遊びまわっているだけではいけない。現実の問題をしっかり考え、取り組もうとしない者は、悩まない者よりはるかに悪い。わかるかウパセーナ」
お釈迦様の指摘にウパセーナは冷や汗を流し、縮み上がった。
「私は気がついていたよ、ウパセーナ。汝が、虫を追いかけ森を駆け回っていたのは、考えたくないからであろう?。現実から逃げたかったのであろう?。よいか、悩みなさい、考えなさい、どうしたらよいのか、よく考えることだ」
お釈迦様の言葉にウパセーナは、がっくりと肩を落としたのだった。

その後のことである。
「悩まない悩まない・・・。考えるのだ、自分・・・」
森の中からそういう声が聞こえてきた。ビジタセーナがつぶやいているのだ。彼は、そういって、悩みにとらわれるのを防ぎ、よく考えてやがて悟りを得たという。また、ウパセーナも逃避せず、修行にはげみ悟り得た。最もしかっりしていたマハーセーナは、三人の中で最も早く悟りを得、すぐに地方へ布教の旅に出たという・・・・。


悩みは尽きることはありません。次から次へと悩みは生まれてきます。普通の生活をしていれば、それは仕方がないことですね。悩みのない生活など、なかなか得られるものではないでしょう。
しかし、悩むことはいいことだと思います。何も悩まなければ、それだけ考えることもしないでしょうし、悩むということは、それだけ辛さを知っているということだからです。何も悩まずに生きてきた人は、悩んでいる人に対し、
「えー、なんでそんなことで悩むの?」
などというキツイ言葉を吐くものです。ですから、少しは悩みを持った方がいいのです。

しかし、悩みも考え込みすぎてしまっては、困ったことになります。そのうちに、初めの悩みは忘れてしまい、ただ息苦しい、気力がわかない、どうしていいかわからない、死にたい・・・・になってしまっては、大変なことでしょう。もっとも、これは悩んでいるのではなく、悩みにとり憑かれてしまった状態ですけどね。
悩むのは大いに結構なことです。悩めば悩んだだけ、考えますし、経験が積まれていきます。しかし、悩みにとり憑かれてしまっては、いけません。そうなると、当初の悩みを忘れてしまい、悩みの海に沈んでしまいます。そうなると、なかなか浮き上がることはできなくなります。

もし、そうなってしまったら・・・。
その時は、原点に返ることです。いったいいつから、何について悩んでいたのだろうか・・・。それを考えてみることです。一つ一つ振り返ってみて、何について悩み始めたのか、それをよく考えることです。そうすることにより、悩みの深海から浮かび上がる方法が見つかるのです。
もし、一人では振り返ることができないのなら、他人に話してみることです。話すことによって、悩みの整理ができるからです

あなたは悩みの海に沈んでいませんか?。
もし、沈んでいるのでしたら、誰かに話してみてください。悩みは、整理すれば、解決の糸口が見つかるものなのですよ。
合掌。


第135回
自分の弱さ、愚かさを認めるがよい。
嘘で自分を覆い隠しても周囲の者は気付いている。
それはあまりにもみじめであろう。
 
ガラハンディは、コーサラ国の首都シューラバースティで飲食店を経営していた。その店は父親の代から引き継いだものであって、評判もよく繁盛していた。店を仕切っていたのは、父親の代から店を任されていた調理人のシグリッタであった。彼は、人柄もよく、よく働き、よく気が付いた男であった。そのため、ガラハンディは、たまに店に顔を出すだけで、何もしなくても安泰であった。十分に生活できるだけの収入は、その店だけでまかなうことができたのだ。
ある日のことだった。夜になって店に顔を出したガラハンディは、店の客とシグリッタが話をしているのを店の裏で聞いてしまった。彼らは笑いながら大きな声でしゃべっていたのだ。
「それにしてもシグリッタ、なんでお前さんは、自分で店を持たないんだ」
客がシグリッタに聞いた。
「自分の店をもってもいいけど、雇われていた方が気が楽だろう。一から店を作るのは大変だからね。ここは給料もいいし、主人もうるさいことは言わない。まあ、先代のお陰なんだけどね」
「そうそう、先代はやり手だったなぁ。新しい料理を次々作り出したし、よその国に行っていろいろな食材を集めてきたもんな。今の主人・・・先代の息子はそこまでしないだろ。つまり、この店が繁盛しているのは、お前さんのお陰じゃないか。お前さんが辞めたら、この店も終わりだと思うよ」
「いやいや、そんなことはないさ。俺くらいの料理人はいっぱいいるよ」
「そうかねぇ。そんなことはないと思うけどね。いや、俺が気に入らないのは、お前さんの腕のお陰でこの店が繁盛しているのに、さも自分が店を仕切っているような顔をしている今の主人のことさ。先代は、よく店に来て新しい料理の試作品を作っていたじゃないか。それを客に出してさ、俺たちの意見を聞いてたよな。でも、先代の息子は、何にもしない。たまに店に顔を出して、ちらっとのぞいて、売り上げの金をもって帰ってしまうんだろ。なんだか、バカにしてないか?」
「いや、そんなことはないと思うけど・・・。まあ、主人は主人なりに、考えていることがあるんじゃないかな」
「なんだ、それは?」
「たとえば、資金をためて次の店を造るとか・・・」
「あぁ、それはないな。ないない。あの息子は、そんな器量じゃないよ。無理無理。あはははは」
ガラハンディは、自分が客から見下されていることに悔しい思いをしたのだった。

しばらくした日のこと、ガラハンディのもとにコーサンビー国に店を出さないか、という話が舞い込んできた。その話を持ってきたのは、あの夜、調理人と話をしていた客だった。ガラハンディは、腹立ちを抑え、話を聞いた。
コーサンビー国は、コーサラ国に隣接した国で、のどかな平和な国であった。財政的にも豊かで、大農場主や大商人がたくさん住んでいた。なので、ガラハンディはすぐに店を出すことに応じたのだった。その客を見返してやりたい、という気持ちが大いに働いたのも確かにあった。
次の日から、ガラハンディは、コーサンビー国まで行って、料理人探しや店の建築の準備に奔走した。しかし、その作業はなかなか進行しなかった。多くの国民が裕福な国であるため、仕事に困っている者がいなかったのだ。また、店の建築も自分が考えていたよりも高くついたのだった。店は出来上がったが、調理人が見つからず、店の開店は延期することとなった。彼は、一旦コーサラ国へ戻ることにした。
その日の夜のこと、彼は自分の店に行ってみた。シグリッタに誰か調理人がいないか相談しようとしたのだ。しかし、店にはあの客が来ており、シグリッタと話をしていたのだった。
「ありゃ、いつまでたっても店は開店できないぜ」
「コーサンビー国の店のことですか?」
「そうそう、お前さんの主人、ありゃダメだな。コーサンビーの連中にいいようにされているよ。店の建築も彼らにお任せだから、法外な金額を請求されて、そのま支払っている。商売人なら、少しくらいは交渉するだろう。でも、しないんだな、彼は。それにさ、妙に・・・威張っているんだな」
「そうですか?。ここでは威張ってませんよ」
「そりゃ、ここじゃあ威張れないだろう。客の多くは、ガラハンディが若い頃か知っているからな。ここで、もし威張ってみろ、客の多くが怒りだすぜ。だから、よそへ行くと威張ってるんじゃないか」
「そうなんですかねぇ」
「あぁ、そうさ。コーサンビーで料理人を探していたんだが、ガラハンディの態度がでかいから、誰もやってこないし、誰も協力しないんだよ。だから、いい料理人が見つからないんだ。彼は・・・ダメだね。交渉事ができない、愚か者さ。商売人には向いてないさ」
「そうなんですか。そうとは思えないですけどねぇ。この地域の商店街の集まりでも、他のお店の主人たちから頼りにされていますよ」
「それは、いい顔をしたいからだろ。頼まれても嫌と言えないからじゃないのか。気が小さいんだよ。本当は、商売のことをわかっていないのに、それを見透かされるのが嫌なんだろう。そう思うよ、俺はね。ま、いずれにせよ、コーサンビーの店は失敗だね。ここも危ないかもよ」
客はそういうと、大声で笑い、帰って行ったのだった。ガラハンディは、悔しくて仕方がなかったが、じっと堪え忍んだのだった。

数日後のことだった。ガラハンディは自分の店がある地域の商店主の集まりに出ていた。彼は、そこで熱弁を振るっていた。国王に税金を下げてもらう交渉をすべきだ、と訴えていたのだ。商店主の多くは、「国王ににらまれるのは嫌だ」と反対したのだが、ガラハンディは「そんなことでは街が発展しない」と強く訴えたのだった。最終的には、ガラハンディが国王に交渉に行くということで話がまとまった。彼は、胸を張って
「私に任せてください。きっと、皆さんが喜ぶようになりますよ」
と宣言したのであった。しかし、実のところ、商店主たちは、内心では反対していたのだった。
意気揚々と国王のもとに行ったガラハンディだったが、国王には一蹴されたのだった。それだけではなく、大臣がその地域に遣わされ、税金値下げの首謀者は誰かと追及されることになったのだ。商店主たちはあわててた。彼らは、ガラハンディに責任を取るように迫ったのだった。結局、ガラハンディが勝手に国王に交渉したという話になり、彼の店だけが税金を値上げされたのだった。彼は、その地域の商店主たちから
「できないことをやろうとするんじゃない。いい気味だ。今後は威張るなよ」
「お前には荷が重いとわかっていたんだ。言っておくが、お前さんは、実力はないぞ。みんな、そんなことは知っているぞ」
と、ののしられることになったのであった。

その夜のこと、ガラハンディは、一人である泉の近くにいた。その泉は、大きな森で囲まれていた。
「はぁ・・・。俺ってダメな人間なのかなぁ・・・・。実力は・・・ないのかなぁ・・・。そんなことはないよな。はぁ・・・。くっそ、どいつもこいつも俺をバカにしがって。俺だってできるんだ。そう、できるはずだ。できないことはないさ」
そんなときだった。森の奥から声が聞こえてきたような気がしたのだった。ガラハンディは、耳を澄ました。それは、とてもきれいな声だった。その声は
「嘘で自分を塗り固めても、すぐに下地が見えてくる。
みんな周りの人たちは、お前の弱さを知っている。お前の愚かさ知っている。
自分の嘘で自らをごまかそうとしても、無駄なこと。
そんな嘘は通用しない、甘くない。
そろそろ、自分の弱さや愚かさを認めたほうがいいだろう。
手遅れになる前に、自分をさらけ出すがよい」
と歌っていたのだった。
「だ、誰だ!。そ、それは俺のことか!。俺のことか!・・・・。くっそ、どいつもこいつも俺をバカにしやがって。親父がなんだっていうんだ。俺だって、俺だって、俺だって・・・・」
ガラハンディは、泉のほとりで泣き崩れたのだった。
「ガラハンディよ、少しは素直になったらどうなのだ。よいか、自分の弱さを認められない者が、この世で最も弱い人間なのだよ。自分の愚かさを認められない者こそが、この世で最も愚かなものなのだよ。弱い自分、愚かな自分を認めずに、嘘で塗り固めてみたところで、周囲の者たちはよく知っている。それがすべて嘘であり、見栄であることを。ガラハンディよ、周囲の者は知っているのに、それでも自分は弱くない、愚かでないと主張するのか?。それは、あまりにもみじめではないだろうか。ガラハンディよ、そんなみじめな姿をさらすより、自分は弱い人間だ、愚かな人間だと認めて、年長者から教えを仰ぐ方が、賢いのではないか?。よく考えるがよい、ガラハンディよ・・・・」
ガラハンディは、泣きながらその声を聴いていた。そして、彼は、そのままそこで寝入ってしまったのだった。

翌朝、ガラハンディが目覚めると、彼の周りには修行僧がたくさんいたのだった。
「おや、目を覚まされましたね。よかった」
修行僧の一人がガラハンディに声をかけた。
「このまま起きないようであれば、医者を呼ぼうと言っていたところです」
「あ、あの・・・ここは・・・、ここはどこですか?」
「あぁ、ここですか。ここは、祇園精舎ですよ。ほら、それに見えるのが、精舎です。ここは、精舎が立っている森の中の泉です。私たちの沐浴場所です」
そういわれ、ガラハンディが周囲を見回すと、修行僧が、呪文を唱えながら泉で身体を洗っている姿がそこにはあった。
「あ、あ、それはどうも、お邪魔をしました。私は、帰ります」
そういって、彼は泉に背を向け、森の外に出ようとした。その後ろ姿に修行僧は、
「世尊の言葉を忘れないようにしてください。素直に自分を認めたほうがいいですよ」
と声をかけたのだった。ガラハンディは驚いて振り返った。修行僧は、ただにっこり微笑んでいたのだった。
その日の夜、ガラハンディは、自分の店で、いつもくるあの客を待った。そして、その客が来ると
「私が間違っていました。私は、自分が弱く、愚かだということを他人に知られたくなかったのです。みんなにバカにされるのは嫌だったんです。だから、嘘で自分を塗り固めていました。本当は、私は・・・・何も一人でできない、弱い愚かな者なのです」
と、いきなり大声でそういったのだった。客は、びっくりしたが、しばらくして
「で、どうするんだい?」
とガラハンディに尋ねたのだった。彼は、
「お願いします。いろいろと教えてください。お願いします」
と頭を下げたのだった。客は、
「仕方がない。先代からの付き合いもあるしな。わかった。じゃあ、まず手始めに、料理作ってみるか」
と言って、笑ったのだった。
それから数か月後のこと、コーサンビーの街に、料理人として店を仕切っているガラハンディの姿が見られた。彼の目は、自信に満ち溢れていたのだった。


自分で自分のことを認めるというのは、大変難しいことです。誰でも、自分の嫌な部分、弱い部分には、目を向けたくないものでしょう。自分の悪い部分を素直に認めるというのは、プライドが邪魔をするのでしょうね。実は、自分でも気が付いているのですが、なかなか素直にはなれないものです。ついつい、見て見ぬふりをしてしまうものです。

ところが、周囲の人たちは、よく知っているのです。自分が気づいていないことまでも知っています。また
「自分でも知っているくせに、何で認めないの?。認めたくないだけでしょ」
ということまで知っているものです。内心では
「気づいていないのは、あんただけだよ。周囲のみんなはよーっく知っているよ、あなたがダメだってこと」
と、思っているものなのです。

そんなことには、まったく気が付かず、弱い愚かな自分を隠して、強い振りやできるふりをして振る舞うことは、よく見られることです。嘘で自分をごまかし、嘘で自分を塗り固め、嘘の鎧を着て振る舞うのですね。でも、そんな嘘は、簡単に見破られるものなのです。メッキは、いとも簡単にはがれるものなのですよ。

周囲のだれもが、
「それメッキでしょ」
と気付いているということを知らずにメッキがはがれていないと思い込み、行動し言葉を発してみても、それはとても滑稽な姿をさらしているだけですよね。単なるピエロです。とても惨めな姿ですよね、それは。
自分の弱さや愚かさを隠し立てせず、嘘で塗り固めることなく、薄っぺらなメッキを施すことなく、素直に自分の弱さ愚かさを認めたほうが、いいですね。
メッキがはがれていることに気付いていないのは、あなた自身なのですよ。周囲の眼は、メッキのないあなたを見ているのです。早くそのことに気付いた方が、賢いでしょう。
メッキがはがれていることに気付かれていることに気付いていないあなたは、とても惨めで愚かですよ。素直に、これはメッキです、と認める勇気を持ちましょう。そのほうが、器の大きな人間と言えるでしょう。
合掌。


 第136回
反省することは善いことだが、
自分を責めすぎるのはよくないことである。
時には、自分を許すことも必要であろう。
ブチャランダは、真面目な青年だった。彼は、石切職人の家に生まれたため、その家業を継いで父親と一緒に石切り場で働いていた。力も強く、技術もあったため、周囲からも信頼されていた。しかし、父親ほどの腕はまだまだなかった。彼は、まだ多くのことを学ばねばならなかった。もちろん、彼にはその自覚もあり、自分は未熟であることを十分に理解していた。
「今日は、少し高い場所に登るぞ。危険が伴うが、注意していれば心配はない」
父親にそう言われ、ブチャランダは緊張しながらもその日の仕事に取り掛かった。
その石切り場は、いつも行く場所よりも高いところにあり、少々行きにくい場所であった。難所とまではいかないが、ブチャランダは『帰るときには気を付けないと、足を滑らせるな・・・』と注意を怠らず、山を登っていた。彼の前には父親、彼の後ろには父親が雇っている職人や石を運ぶ役割の使用人が数名続いていた。足場はあまり良いとは言えず、こぶし大ほどの石がごろごろしていた。ブチャランダは、石を蹴落とさないように注意して山道を登っていた。
ブチャランダたちは、ようやく目的地に到達することができた。汗が玉のように流れ出ていた。父親は、休憩もせずに貴重な石を切り出し始めていた。それを見て、ブチャランダも仕事に取り掛かった。父親が切り出した板状の石を数枚重ねて頑丈な縄で縛り、持ち運びができるようにするのだ。
日が傾き始めた。父親は、
「そろそろ仕事を終えるぞ」
と言い、片付けを始めた。ブチャランダたちも、それぞれ自分が運ばねばならない石をまとめていた。夕方になってきたというのに涼しくはならなかった。
「汗で滑るから注意していけ」
父親は、職人たちみんなにそう声をかけた。重い石を背負い、下山することとなった。
少し降りるとやや難所のところに来た。誰もが注意深く、ゆっくりと足を進めている。ブチャランダも注意深く、慎重に歩を進めた。その甲斐あって、何事もなく、すべての者が難所を超えることができた。が、しかし、災難はそのあとに起こったのだった。
「あっ!」
と、ブチャランダが叫んだ時には、もう遅かった。彼の前にいた職人が背負っていた石の縄がほどけてしまったのだ。石の板はバラバラと下へ落ちていった。そして、その石板は、前を行く職人や使用人たちに当たってしまったのだ。叫び声が聞こえた。職人と使用人が数名倒れていた。

石が当たってしまった職人たちは、大怪我ではあったが、命に別状はなかった。しかし、当分の間は働くことはできなかったし、再び山に登ることは無理だということだった。
「いったいなぜ、石が荷崩れしたのだ」
父親に尋ねられ、ブチャランダは
「私の責任です。しかっかり縛ったつもりが、汗で手が滑っていたのでしょう。縛り方が甘くなっていました」
と自分の責任であることを素直に認めたのであった。父親は、彼が十分反省していることを知って、それ以上は責めることはしなかった。むしろ、今後はもっと注意深くなるだろうと期待をしたのだった。
しかし、それからブチャランダは元気をなくしてしまった。いつも下を向き、暗い顔をしていたのだ。「山へ行くぞ」という父親の誘いも断り、山のふもとの仕事場で、ひたすら切り出された板状の石を縛って運ぶことだけをしていた。
『自分は注意をしていた。しかし、荷崩れしてしまった。あの時、もっともっと強く縛っていれば・・・。油断したのか、慢心があったのか・・・。うぬぼれていたのか、調子に乗っていたのか・・・・。そうだ、周りから褒められ俺は調子に乗っていたのだ。あの時だって、職人さんたちが上手くなったというものだから・・・手が緩んだんだ。俺は笑っていた。笑いながら、職人たちと話をしながら仕事をしていた。父が黙々と仕事をしているにもかかわらず、俺は笑って仕事をしていた。俺は・・・バカだ。俺のせいで、あの人たちは・・・。どうしよう、あの人たちが、もう働けなくなったらどうしたらいいのだ。俺は、あの人たちの仕事を奪ってしまったのか?。俺のせいで?・・・・あぁ、俺はダメな人間だ。俺が怪我をすればよかったんだ。そうだ、俺の代わりなどいっぱいいる。俺がバカでドジだから・・・』
そんなことを考えながら石を縛っていたせいであろう。彼が運んでいた石は、また荷崩れしたのだった。
『俺は、ダメな人間だ・・・』
彼は、自分を責めていた。
彼の周りの者たちや、父親は、その姿を見かねて
「もう自分を責めるのは止めろ。それよりも、二度と失敗しないようにすればいいじゃないか」
と声をかけたが、彼は返事をしなかった。彼は、ただひたすら、石を縛り続けたのだ。黙々と、彼は石板を束ねて固くきつく縛ることばかりしていた。彼の手は、縄で擦り切れ、血が流れていた。
『ダメだ、こんなんじゃあダメだ。もっと強く、もっときつく縛らないと、また荷崩れする。もっとしっかり縛れるようにならないと、仕事にはならない』
彼は来る日も来る日も石板を縛り続けていたのであった。

それから数か月が過ぎた。山の事故でけがをした職人や使用人たちも職場に復帰していた。ブチャランダにも少し笑顔が戻っていた。しかし、彼は決して山には入ろうとはしなかった。まだ、自分が許せないでいたのである。そんな彼を周りの者はは心配した。怪我をした者たちも
「あれは、ブチャランダの責任じゃない。山に登れば、ああいう事故はつきものだ。運の良し悪しの問題だよ」
と言ってくれたのだが、ブチャランダは「まだ、山に登っていい時期ではない」と言っては石板を縛る毎日であった。
そんなブチャランダに少しは気晴らしをさせようと、父親は旅に出すことにした。と言っても、2日間ほどで終わる旅である。隣国であるコーサラ国の大工のところから注文のあった石板を届けるのだ。ブチャランダは、初めは嫌がったが、父親の命令に逆らうわけにもいかず、しぶしぶコーサラ国へ向かうことにした。気が重かったが、しっかりと縛った石板の紐を何度も確かめ、石板の荷を馬の背に乗せたのだった。馬に乗せた後も、紐がほどけていないか、緩んでいないか、何度も確かめていた。
翌日、ブチャランダはコーサラ国へ向けて出発した。寄り道せずに行けば、その日の夕方には到着する。彼は、どこにもよらずにコーサラ国の大工の店に石板を届けた。
「いやにしっかり縛ってあるなぁ。おぉ、まだ縛ってあるのか・・・。こんなに縛らなくても大丈夫だろうに・・・」
大工は、ブツブツ言いながら何重にも縛ってある紐をほどいていた。
「こんなに縛ってあると、紐で石板が痛んでしまうよ。ほら、縁が欠けているだろ。きつく縛りすぎだね」
大工の言葉を聞いて、ブチャランダは、また自分を責めていたのだった。
『結局、俺は何もできないのか。何も満足にはできないのだ。こんなことを続けていると、また誰かを傷つけてしまうに違いない。俺みたいな中途半端な人間は、生きていない方がいいのかもしれない・・・・』
彼は、そんな思いを抱えながら、馬にもたれて森の中で夜を過ごしたのだった。

翌朝、彼は森の中を横切って家に帰ることにした。往来を通るのがなんとなく嫌だったのだ。森の中は静かだったが、しばらくいくと厳かではあるが、温かい声が聞こえてきた。その声は、ブチャランダの心に染み入ってくるように感じられた。彼は、その声がする方へ近付いた。するとそこには、光り輝く人が座っており、その前に数人の修行僧が頭を垂れて座っていた。
「よいか、汝ら反省するのはよい。しかし、反省した後が問題なのだ。その反省を生かさねば、反省した意味がないであろう。汝らは、反省してもそれを生かしていないであろう。自分ばかりを責めている。そんなに自分を責めて、いったいどのような進歩があるというのだ。自分を責めているばかりでは、何も進歩がないであろう。事実、汝らは、あれから悟りに近付いているか?。答えは否だ。あれ以来、何も進歩はしていない。それはなぜか?。あの時の失敗が生かされていないからだ。
よいか、反省と自分を責めることとは違うのだ。もうそろそろ、自分を許し、次に向かってはどうか。進歩をするためには、自分を責めすぎず、時には自分を許すことも大切なのだよ。自分に厳しいのはいいが、厳しすぎることはよくないのだ。そこを忘れてはいけない。それにだ、周囲の修行僧は、もうすでに汝らを許しているのだ。これ以上、自分を責めることにこだわれば、それはむしろ周囲の修行僧にとっても害悪となろう。自分を責めることは決して美しいことではない、ただ、そこへ逃げ込んでいるだけなのだ。それを理解すべきであろう。自分を許すことも必要なのだよ」
数名の修行僧たちは、うなずいていた。そして、
「世尊、ありがとうございます。私たちは自分を責めすぎていました。周りの修行僧たちはすでに私たちのことを許しているのに、それでもなお私たちは自分を責めていました。それは、かえって周囲の修行僧たちにとっては迷惑であったことでしょう。私たちは自分を責めることで、自分がした失敗から目をそらせていたのでしょう。今から考えを改めます」
と誓ったのだった。光り輝く人はゆっくりとうなずくと、急にブチャランダの方を振り返ったのだった。
「そこを行く汝よ。汝も彼らと同じだ。自分を責めていても何も解決はしない。反省は大事だが、自分を責めるだけでは、その反省は生かされないのだ。もういいではないか、周りの言葉に甘えて、自分を許したらどうだ。時には、自分を許すことも必要なのだよ」
その言葉に、ブチャランダは、泣き崩れたのだった。

その日の夜遅く、ブチャランダは帰宅した。帰宅するなり、
「父さん、今まで迷惑をかけていてすまなかった。僕はちょっと意固地になっていたようだ。明日から山に入ります」
と力強くいったのだった・・・・。


「あれは自分が悪かった」
「自分はなんてダメな人間なんだろう」
そう自分ばかりを責めて苦しんでいる人たちがいます。いや、最近は、そうした人が増えているようでもあります。片方で、まったく鈍くて意に介さない人がいるかと思うと、片方ではちょっとしたことを気にして、いつまでもできない自分を責め続ける人がいるのです。世の中上手くいかないものですね。

人は大きな失敗をすると、反省はするのですが、その先へ進めないことがあります。また同じ失敗をするのではないか、自分は実力がないのではないか、また迷惑をかけるのでは・・・と恐れて前になかなか進めないのですね。怖くなってしまうことがあるのです。そして、怖がっている自分を責めたり、そうした自分に嫌気がさしたりして、気が滅入ってしまうのです。

確かに、大きな失敗をした後は、前に進むには勇気がいりいます。怖さが伴います。それは、「もし、また失敗したらどうしよう」という恐怖感があるからでしょう。責任感が強い人ならば、それは余計に感じるでしょう。自分の責任では負えないほどのことになったらどうしようか、ということですね。はたまた、その責任を背負う重さに耐えられない、ということもあります。責任感が強い人や正直な人、正義感の強い人にはありがちですね。そうして、自分自身を責め、自分で自分の首を絞めるようなことを考えてしまうのです。

他人を許すことがあるように、自分を許すことがあってもいいのではないでしょうか。たまには、自分に甘くなってもいいのではないでしょうか。
「もういいじゃないか、お前は一生懸命やっていたよ。少し休もうよ」
と、自分に優しくなってもいいのではないでしょうか。あるいは、できない自分を許し、認めてあげてもいいのではないでしょうか。
無理をしても身体や心を壊すだけです。自分を責めすぎず、自分を許すことがあってもいいと思いますよ。
合掌。


 第137回
誰もが、自分が最も大切と考える。
だからこそ、暴力を振るってはいけないのだ。
自分がされて嫌なことは、他人も嫌なのだ。

祇園精舎内は、今日も静かであった。修行僧は午前中の托鉢を終え、昼までには食事も終えていた。今は、各々自分が落ち着く場所を選んで瞑想をしたり、長老に教えを受けていたりして過ごしていた。
そんな中でひときわ大きな声が響いてきた。
「いったい私が何をしたというのだ!」
「何を言っているんだ。君は急に何を言い出すんだ」
「何をとぼけているのだ。さっきから、君は私に意地悪をしているだろう」
「意地悪だって?、私は何もしていないよ」
「嘘をつくな。先ほどから、私の瞑想の邪魔をしているじゃないか」
「な、何を言っているんだ・・・・。わけのわからないことを・・・」
「何を〜、君はあくまでもとぼけるつもりかっ!」
二人の修行僧が、大声で言い争いをしているのだ。すぐさま、そばにいたモッガラーナ長老が、二人のところに駆けつけた。
「いったいどうしたというのだ」
モッガラーナ長老が、二人の修行僧に尋ねた。すると、初めに怒り出した修行僧・・・タンターという名だった・・・が、
「この者が、私の瞑想を邪魔したのです」
と訴えたのだ。事情をよく聞くと、二人は大きな木を挟んで瞑想をしているところだった。しばらくは、二人は静かに瞑想をしていた。やがて、「何もしていない」と言った修行僧・・・名をチャンダといった・・・が、いきなり立ち上がって「わかった」と叫んだのっだった。それにより、タンターは、もう少しでわかりかけていたものが、逃げて行ったというのだ。しかも、こうしたことは、これで二回目だったと、タンターは訴えたのだ。
「そういうことならば、もう少し離れて修行したらいいだろう。お互いに別々の場所で修行しなさい」
モッガラーナは、あきれて二人の修行僧に注意したのだった。二人はそれ以来、離れて修行するようになった。

ところが、何の縁か、タンターとチャンダは、よく出会うことが多かった。朝の沐浴ですれ違ったり、托鉢の先でかち合ったり、必要な道具を倉庫に取りに行くと出会ったりしていた。そのたびに二人はにらみ合うようになっていた。お互いが、相手のことを妙に意識しだしたのだ。
「アイツは、俺のことが邪魔なんだ。だから、イチイチ俺の目の前に現れる」
とタンターが友人に言えば、チャンダも他の者に
「タンターは、おかしいんじゃないか。わざと俺の目の前に姿を見せているとしか思えない」
と愚痴っていたのだ。
その二人が、ついにぶつかる日が来たのだった。

その日、朝の沐浴の時から、タンターとチャンダは出会っていた。タンターが沐浴をしていると、そのすぐ後ろにチャンダがいて、泉の水をバシャバシャと乱暴に身体にかけていたのだ。ゆっくり静かに沐浴したいタンターは、怒りが爆発しそうになっていた。それでも、その場は、冷たい水に頭を沈めることにより、なんとか耐えることができた。
托鉢に出ようと、自分の鉢を取りに行ったタンターは、不意に立ち止まった。自分のものが置いてある所定の場所に鉢がないのである。よくよく探してみると、森へ行く道の隅の方に鉢が一つ転がっていた。
「くっそー、誰がこんなことを・・・。あぁ、そういえば、鉢を取りに来る前に、ここをチャンダが通って行ったのが見えた。そうか、きっとチャンダが、この鉢を・・・・。あぁ、そういうことか、ならば、今朝の沐浴の時も、わざとやっていたのか・・・・」
タンターは怒りに震えていた。怒りながらも、日常の行動はしなくてはいけないので、タンターは、托鉢に出たのだった。いつも立ち寄る馴染みの商店に行くと
「おや、タンター。もう大丈夫なのかい?。お腹の具合はどうだね?」
と商店主に聞かれた。いったい何のことか、と聞き返すと
「えっ?、今日はお腹を壊して托鉢には来ないって・・・さっき別の修行僧が言っていたけど・・・・」
タンターは、お腹はもう治ったので、托鉢に出ているのだ、とその場を取り繕った。心の中には、チャンダに対する怒りがものすごい勢いで燃え上がっていたのだった。

托鉢から帰るや否や、タンターはチャンダに食ってかかった。
「君はいったい私に何の恨みがあるのだ。いい加減にしろよ」
そういうと、座って食事をしようとしていたチャンダの袈裟をつかみ、ひっぱったのだった。
「いててて、何をするんだタンター」
チャンダは、そういいながらもニヤニヤと笑っていた。
「ひどいじゃないか、タンター、私が何をしたというのか」
ニヤニヤ笑いをしながら、チャンダは立ち上がって、タンターを見た。その顔にタンターは、ついにキレていしまった。
「この野郎!」
タンターは、ついにチャンダを殴ってしまったのだ。これには、チャンダも黙っていなかった。
「何をしやがる」
とうとう二人は殴り合いのけんかを始めたのである。

長老たちが駆け付け、二人の間に割って入った。そこにお釈迦様もやってきた。
「タンター、チャンダ、わけを話しなさい」
お釈迦様は、その場に二人を座らせ、事情を話させた。二人はお互いに殴られて張れた顔で、交互に言いたいことを言ったのだった。
「タンター、汝は、チャンダがわざと意地悪をした、そういうのだね?」
「そうです。今朝の沐浴も托鉢の鉢が道端に転がっていたのも、わざとチャンダがやったことです。私への意地悪をしたのです」
「ふむ、チャンダ、タンターはこう言っているが、汝はどうなのか?」
「私は知りません。今朝の沐浴って?。そんなことあったかなぁ・・・。それにタンターの托鉢の鉢なんて・・・、知りませんよ」
チャンダはそういうと、横を向いてしまった。
お釈迦様は、そんな二人をしばらく眺めていたが、
「誰しも、自分のことが一番かわいい。自分が一番大切と思うのは、誰もが同じだ」
と話し始めたのだった。
「よいか、これはどのような者でも同じである。誰もが皆、自分が一番大切なのだ。大切な人がいる、という者でさえ、究極的には、自分が最も大切と考える。人はそういう生き物なのだ。だから、人は、自分が傷つくことを恐れる。自分が嫌だと思うことをされることを嫌う。嫌なことをされて喜ぶ者はいない。誰もが、暴力に怯え、疎外されることを厭い、悪口を言われることを嫌い、非難されることに怯えるのだ。自分がされて嬉しくないこと、嫌なことは、誰もがされることは嫌なのだ。
だからこそ、他人に暴力振るってはいけないのだ。他人を疎外したり、他人に意地悪をしてはいけないのだ。他人の悪口を言ったり、そしったり、非難したりしてはいけないのだ。
二人とも、殴られるのは痛くていやであろう?」
お釈迦様の言葉に、二人は力なくうなずいた。
「先に手を出したのは私です。申し訳ないことをしました」
タンターは、そういうとチャンダに対して深く頭を下げたのだった。チャンダも
「いや、謝るのは私の方だ。意地悪を繰り返したのは、私だタンター。実は・・・以前の瞑想の時も、わざと大声を出して、君の邪魔をしていた。申し訳なかった。許してください」
チャンダは、そういうとタンターの前に額を地面に擦り付けて謝罪したのだった。
「やはりそうだったのか・・・君はなんてことを・・・・。いや、もういい。すべて終わったことだ。それに・・・もう殴り合いは嫌だから」
タンターは、そういうと、にっこりとほほ笑んだ。お釈迦様は、
「ここに集う修行者すべてに言おう。誰もが暴力に怯える。なぜならば、誰もが暴力にさらされることが怖いからだ。それは、自分が傷つくことが恐ろしいからである。自分がされて怖ろしいと思うこと、自分がされて嫌だと思うこと、自分が避けたいと思うことは、他人も嫌だと思うし、恐ろしいと思うし、避けたいと思うのだ。自分をいたわるように他人もいたわることが大切なのだ。自分にされて嫌なことは、決して他人にしてはならぬ。よく心得ておくがよい。これがわかったものは、食事に戻るがよい。わからぬ者はさらに問え」
というと、皆を見渡したのである。その場にいた修行僧は、誰もが深くうなずき、それぞれの場所に戻っていった。いつの間にか、タンターとチャンダも、二人並んで食事を始めていたのだった。


学校で先生が生徒に
「なぜ人を殺してはいけないのですか?」
と質問をされて、それに答えられない先生がいる、と聞いたことがあります。びっくりします。せめて
「命は大切だから」
くらいは言えばいいのに、と思います。同様に
「なぜイジメはいけないのか」
という質問に、あなたは明確に答えられるでしょうか?

このところ、毎日のようにイジメ問題が新聞やニュースで取り上げられています。いまさらなにを・・・と思う方も多いことでしょう。イジメ問題は、昨日今日に始まったことではありません。もう何年も前から問題になっていることです。イジメが大きく取り上げられ、そして沈静化していき、イジメ問題は影をひそめます。しばらくして、また事件が起き、マスコミが騒ぎます。今回もやがて沈静化し、イジメ問題は忘れ去れていくことでしょう。結局のところ、根本的解決などできず、そのまま流されていってしまうのです。それが現在の教育の現状ですね。

お釈迦様は、「誰もが自分を可愛いと思っている、誰もが自分が一番大切だと思っている」と断言しています。「そんなことはない、私は家族が最も大切だ」、と反論する方もいるでしょう。しかし、突き詰めて考えてみてください。行きつく先は、結局は自分が一番大切じゃないですか?。もし、家族が大切、と思うのならば、奥さんや旦那さん、お子さんに文句は言わないでしょう。不平不満は持たないでしょう。自分に対しては持たない不平不満を自分以外に持つのでしたら、その時点で大切な方は自分になっていますよね。人間、自分が一番大事なのです。それを素直に認めたほうがいいですよね。

自分が大事である・・・誰もがそう思うのなら、自分以外の人も「自分が大事」と思っていることでしょう。それは間違いのないことですね。ということは、自分がされて不快に思うことは、やはり他人も不快に思うでしょう。自分が、意地悪されたり、悪口を言われたり、非難されたり、暴力を振るわれたりされたら嫌だと誰もが思います。同様に、自分以外の人もそのように思うのです。
自分がされて嫌だと思うことを他人するべきではないでしょう。同じことを自分にされたら、嫌なことですから、他人だって嫌だと思うのです。嫌だと思うことをするのは、悪魔の所業ですよね。もはや人間性を捨てています。

「なぜ人を殺してはいけないのか?」
この質問に対する答えは簡単です。
「あなただって殺されたくはないでしょ。自分がされたくないと思うことを他人が望みますか?」
自分が望まないことは、他人も望まないのです。
合掌。

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