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第138回
頑固になってはならない。
頑固は捨て去るべきことだ。
頑固さは、その者を孤独にさせる。
 
「争わぬことが、最も早い解決方法だ。決して争わぬことだ」
「で、でも・・・そうはおっしゃいますが、お釈迦様。私は被害を受けているんですよ。あの男は、生活費はくれない、ちょっと小言をいえばすぐに暴力を振るう。もうあんな男と一緒に暮らすことはできません」
「だから、その男と別れるがよい、と言ったのだ。別れればよいではないか」
「ですが、別れるといっても、ただ単に別れたのでは、私の腹の虫がおさまらないんです」
その女・・・名前をチッターといった・・・は、お釈迦様の前に座り、怒りで目を吊り上げ、腕を振り回しながらそう力説した。
「では、どうしたいのだ?。汝は何が望みなのだ」
「決まっているではないですか。私は、あの男にずいぶんつぎ込んだのです。たくさんお金を使ったのです。そのお金を取り返したいのです」
「それは無理というものであろう。聞けばその男は働いておらぬようだ。そんな者から、どうやってお金を取るというのだ?」
「だ・か・ら、その方法を教えてくださいといっているんです。お釈迦様は、なんでもわかるって聞いています」
チッターの言葉にお釈迦様は、悲しい表情になった。しかし、彼女は全く気付いていない。
「そのような方法は、私は知らぬ。それよりも、別れることで、今の苦しみから解放されるならば、それでよいではないか。そもそも、働きもしない男を気に入って、一緒に暮らし始めたのは汝自身ではなかったのか?」
お釈迦様の言葉にチッターは、餅のようにほほを膨らました。
「もういいです。お釈迦様に相談したのが間違いでした!」
彼女はそういうと、さっと立ち上がって、お礼も挨拶もせず、すたすた祇園精舎を後にしたのだった。お釈迦様は、深いため息をついた。
「ひどい人ですねぇ。挨拶もせずに行ってしまった。あんな人がいるのですねぇ」
アーナンダがつぶやいた。
「愚かな者は、自分の意見に固執して、あのように頑固になってしまっている。決して他者の意見を聞こうとしない。頑なに耳を閉ざしてしまっている。あのような者は、あたかも深海にすむ貝のようなものである」
お釈迦様は、そういうと瞑想に入ってしまった。アーナンダは、「貝のような者だ」という意味がよくわからなかったので、お釈迦様に尋ねようとしたが、その機会を逸してしまったのだった。

翌日のこと、またチッターがお釈迦様のもとへとやってきた。
「昨日は失礼いたしました。もう一回お話を聞いてください」
アーナンダは、
「あのような失礼な態度をして、よく来れましたねぇ。お釈迦様は忙しいのです。あなたのように頑固な人には、お釈迦様の意見を言っても仕方がないでしょう。あなたは聞く耳を持っておられるのですか?」
と、彼にしては珍しく冷たい態度をとったのだった。チッターは
「反省しています。今日は、ちゃんと話を聞きます。私が悪かったです」
と頭を下げたのだった。
「えっ?、あぁ、今日は・・・やけに素直なんですね。まあ、そういうことならば・・・」
アーナンダは、ちょっと迷ったが、断る理由もないのでチッターをお釈迦様の元へ連れて行った。
「おや、どうしたのだチッター?」
お釈迦様は、普段と変わらずチッターの話を聞いた。
「やっぱり駄目です。どう考えても、単に別れるだけじゃ、気がおさまりません」
「で、どうするというのだ?。昨日も言ったが、働いてもいない相手から、金銭を得ることはできないよ」
「わかっています。そこで、彼の両親に掛け合おうと思います」
「彼の両親は、どこにいてどのような生活をしているのだ?」
「あぁ・・・それは・・・わかりません」
「チッター、もういい加減に自分の思いや希望を捨てたらどうだね。できもしないことに頑固にこだわっていれば、前に進むことはできないよ。頑固さを捨てないと、汝に平穏は訪れないであろう。そもそも、あの男と結婚をした時も、頑固に自分の意見を押し通したのではないか?。周囲の者は反対したのではないか?。そうであろう?」
お釈迦様がそういうと、チッターは横を向いて
「そうです。そのおかげで、友人たちは私との付き合いをやめてしまいました。ひどい友人たちです。あの人たちの意見を聞かなかったからと言って、付き合いをやめるなんて・・・・」
「こうなることがわかっていたからであろう?。今、もし汝の友人が汝と付き合いがあったならば、汝はその友人たちに迷惑をかけていたのではないか?」
「そんなこと!」
と叫んで、そのままチッターは黙り込んでしまった。
「よいか、チッター。少しは周囲の意見にも耳を傾けたらどうなのだ。自分の意見に頑固に執着し、それをゴリ押ししてしまい、その結果汝が不幸になっても誰も救いの手を差し伸べてはくれないよ。あまり頑固でいると、汝と話をする者はいなくなってしまうであろう。それでもよいのか?」
お釈迦様にそういわれ、チッターはうつむいてしまった。泣いているのか?・・・とアーナンダは思った。チッターにしては珍しいことだった。しかし、ふと顔をあげたチッターの目には、涙の一つも流れてはいなかった。
「私は、今まで私の意見だけに従って生きてきました。ですから、これからも私の意見だけに従って生きていきます」
チッターは、そう宣言すると立ち上がり、お釈迦様を見下ろした。
「そうか・・・では、もうここにも来ないのだな。自分の意見に従って、頑固に、頑なに生きていくがいい。その結果がどうなろうとも、それは誰のせいでもない。すべて汝の責任だ。それを心得ておくように」
お釈迦様がそういうと、チッターは「ふんっ」といって、どたどたと足を踏み鳴らしながら祇園精舎を出て行ったのだった。
「な、なんて人だ!。今日は素直に話を聞くと言ったのに・・・・」
「アーナンダよ、たった一日で頑固な者がその頑固さを捨てきれるものではない。しかし、ほんの少しでもいいから、ほんの欠片でもいいからあの頑固さを捨てることができたならば・・・そう思ったのだが。哀れなるものよなぁ・・・・」
そういうと、お釈迦様は再び黙って深い瞑想に入ったのだった。アーナンダは、「貝のような者」という言葉の意味を聞く機会を再び逃したのだった。

その翌日のこと、祇園精舎の入り口をうろつくチッターの姿が見られた。
「なんだチッターじゃないか。どうしたのだ?。お釈迦様の教えを聞きに来たのか?」
「おやおや、それはいいことだ。頑固者のお前さんも、少しは素直になったようだのう」
顔見知りからそう声をかけられたチッターは、
「うるさい!」
と言って街の方へと走って行ってしまった。顔見知りは、「なんなのだ、あれは・・・」と頭をかしげたのだった。そのことを彼らはお釈迦様に話した。お釈迦様は
「頑固にもほどがある。あの者は、貝になってしまうであろう」
と一言いうと、別の法話をし始めたのであった。
その翌日も、祇園精舎の入り口でチッターの姿が見られた。彼女の知り合いが声をかけたが、「ふんっ」というなり、走り去っていった。そうしたことが数日続いたが、やがて彼女の姿は見られなくなったのだった。チッターの姿は、シュラーバスティーから消えてしまったのだった。

チッターが住んでいた町の長がお釈迦様の元を訪れていた。
「チッターの姿がどこにも見当たらないのです。彼女の家はそのままなんですよ。どうやら、ぐうたらの夫とも別れたようで、一人で生活していたらしい、ということまではわかっているのですが・・・。そのあとのことがさっぱり・・・。一応、前夫の家も尋ねてみましたが、もうそこは・・・ゴミ溜めのようなところで、とても人が生活できるような家ではなかったんです。あぁ、前夫は、そんな中にいましたけどね。いや、一人でした。一人でゴロゴロしていました。死んだ魚のような眼をしてね・・・・。あの男も全く他人の意見を聞き入れようとしない頑固者でしたなぁ。なにを言っても『うるさい』の一言だけでした。何であんな男とチッターは一緒になったのか・・・。一緒になるとき、周囲は反対したんですけどねぇ。チッターも頑固者で、周囲の意見には全く耳を貸しませんでしたなぁ。えっ?、自分ならばあの男を立ち直らせることができると?。チッターがそう言ったんですか?。バカな女だ。身の程知らずとは、このことだ。あぁ、世尊も反対をされたのですか・・・。でも、聞き入れなかったんですな。あの女は、本当に頑固者でした。もう少し、いや、ほんの少しでも周囲の意見を聞き入れてくれれば・・・・。
チッターは、おかしな女でしたな。助けを求めてくるのですが、それに応えようとすると拒否するのですな。特に、何か意見や忠告を言おうものなら、怒り出すこともあった。だったら、他人に相談などしなきゃよさそうなものなのに。なかなか自分を捨てきれなかったのでしょうなぁ。頑固に自分の意見にこだわって・・・。どこへ行ったのやら。世尊、チッターはどうなったのでしょうか?」
町の長の問いかけにお釈迦様は、悲しい目をしていった。
「チッターは、深海にすむ貝になったのだ。深海にすむ貝は、誰にも相手にされることなく、孤独に生きている。誰にも気づかれることなく、生きているのだ。あまり頑固なために、他人の意見を聞き入れず、その頑固さを通してしまったチッターは、深海の貝になるしかなかったのだ。頑固を捨て去ることができない者は、一人孤独に生きるしかないのだ」
アーナンダは、この言葉を聞いて、チッターのことを「貝のような者だ」といったお釈迦様の言葉の意味がようやく理解できた。
「頑固は・・・怖ろしくも淋しいものなのですね・・・」
アーナンダのつぶやきが、祇園精舎に悲しく響いたのであった。


昔は、周囲の意見や家族の意見を決して聞こうとせず、ワンマンを通す頑固オヤジがいました。昔は、こういう人を「一国者(一刻者)」、「ど一国(一刻)」と言っていました。まあ、その言葉には、批判が含まれていましたが。

昔懐かしい頑固オヤジ・・・ですが、家族は随分迷惑したと思います。気に入らないことがあると、すぐにカッとなって怒り出すし、自分の意見が通らないとすぐに手が出る・・・。家族にとっては、とても耐えきれないオヤジだったでしょう。現代にこんなオヤジがいたら、絶対に家族から嫌われますね。離婚に至ることもあるでしょう。頑固は、たいていは損をします。

頑固オヤジほどでなくても、自分の思いや意見にこだわり、周囲の意見やアドバイス、忠告を聞き入れない人は、結構いますよね。うちに相談に来られる方でも、頑固に自分の思いに固執する方がたまにいます。その頑固さを捨てないと、余計に苦しいんですよ、といっても、それが理解できないのか、なかなか頑固さを捨ててくれませんね。そうなると、いくらアドバイスをしても、意味が無くなってしまいます。意見を聞く気がないのなら、初めから他人の意見など聞かず、頑固に自分の意見を押し通せばいいのに・・・と思ってしまいますね。まあ、その結果、周囲から嫌われる、というおまけがつきますけど。
頑固な人は、周囲から敬遠されやすいですね。友人どうしの間でも、一人が頑固に自分の意見にこだわれば、やがては、その人から友人は離れていってしまうでしょう。付き合いにくいですからね。頑固な相手よりも、柔軟な相手の方が付き合いやすいですからね。

頑固は捨てたほうがいいです。頑固に、頑なに自分を通そうとすれば、周囲との軋轢は当然生じます。やがては、誰も相手にしなくなり、孤独がやってくるのです。
一つの世界、一つの国に閉じこもって、「自分が一番、自分の意見を聞け、聞かない者は、許さない」などと言っていても、虚しいだけですね。一国者は孤独です。小さな自分だけの世界で生きてはいきません。頑固を捨てて、世の中を見て、聞いてみましょう。
合掌。


第139回
身体が病気になると心もすさみ、心がすさめば、身体も不調になる。
身体の病には医者と薬、心の病には法が効果的である。
仏陀は心の病を治す医者のようなものである。

祇園精舎に大変仲の良い、ダーサカ、バーラカという修行僧がいた。彼らは、いつもお互いに助け合って修行に励んでいた。
ある日のこと、バーラカが腹痛を訴え、寝込んでしまった。ダーサカは、
「君の分も托鉢してきてあげよう。それから世尊に言って、医者をよこしてもらおう」
と、バーラカに伝えた。バーラカは、彼に礼を言うと、苦しそうに横になった。
ダーサカは、いつも二人で連れ立って歩いている道を一人で歩き、托鉢に出たのだった。
「ふむ、いつもはバーラカと一緒だが、今日は一人か・・・。なんとなく寂しいものだな・・・」
ダーサカの足は、いつになく重いものであった。それでも、自分の帰りを待っているであろうバーラカのためにと、彼は落ち込み気味の気分を振り払って、街へと向かったのだった。
托鉢から戻ると、ダーサカは、托鉢で得た食料を消化がよく食べやすいものとそうでないものに分けた。バーラカは腹が痛いと言っているので、なるべく消化のよいものを・・・と考えたのだ。そのように分けた托鉢の鉢を二つ持って、ダーサカはバーラカが寝ている部屋へと向かった。
「さぁ、食べやすそうなものを選り分けておいたよ。消化に悪いようなものは、避けたほうがいいと思って。具合はどうだい?」
「あぁ、ありがとう。さっきよりはだいぶ良くなった。あぁ、しかし、食欲はないなぁ・・・・」
「そうか・・・。まあ、無理して食べることもないからね。まあ、食べられそうなら、手を付けてくれ。私はこれから世尊のところへ行ってくる」
ダーサカは、自分の鉢をもって部屋を出ると、食事を終えて作法通りに口を漱いでからお釈迦様の元へと向かった。
お釈迦様にバーラカの具合がよくないことを報告し、医者を呼んでもらうようにお願いしたところ、
「ふむ、そうか、わかった。では、医者のジーヴァカに来ていただこう。アーナンダ、ジーヴァカのところへ行ってくれ」
アーナンダは、すぐに医者のジーヴァカの元へと向かった。ジーヴァカは、コーサラ国王付の名医で、お釈迦様の主治医でもあった。お釈迦様は、生まれついてより胃腸が弱く、よく腹痛を起こしたり激しい下痢起こしたりしていたのだ。そのたびにジーヴァカの薬に頼っていた。

しばらくして、アーナンダがジーヴァカを祇園精舎に連れてきた。彼は、早速、バーラカを診察した。そして、テキパキと薬を用意し、
「今日のところは、これを飲んで寝ていなさい。痛みは引くであろう。しかし、痛みが引いたからと言って、暴飲暴食はしてはいけない。消化のよさそうなもの・・・おぉ、この鉢に入っているような食事ならばとってもよい。明日、また診察に来よう」
と言って、バーラカの部屋を後にしたのだった。
ジーヴァカは、お釈迦様のところへ行くと、小声で何かを話した。それはお釈迦様以外には誰にも聞こえなった。ジーヴァカは、
「明日、また来ます」
と言って、深刻な顔をして祇園精舎を去ったのだった。

バーラカは、ジーヴァカの薬が効いたのか、腹痛は治っていた。彼は、すぐに鉢に入っていた食事をとった。
「大丈夫なのかバーラカ?」
「あぁ、心配かけた。すまなかった。さすがにジーヴァカさんの薬はよく効くよ」
バーラカは、にこやかにそういい、「明日は托鉢にも行けそうだ・・・」と喜んでいたのだった。
しかし、その夜のこと、バーラカは再び激しい腹痛に襲われた。ジーヴァカの薬を飲んだが、一時的には効くのだが、しばらくすると再び激しく痛み出した。看病していたダーサカは、一睡もできないくらいだった。
朝になると、早速ジーヴァカがバーラカのもとへとやってきた。そして、薬を渡し
「痛みが出たら、これを飲みなさい。痛くないときは飲んではいけない」
と言って、去って行った。
ジーヴァカの薬はよく効き、バーラカは少しは元気になったのだが、毎日激しい腹痛に襲われたのだった。その度に彼は薬を飲んだ。しかし、彼は、あまり口をきかなくなってきたのだった。仲の良かったダーサカにもむっとした態度をとっていたのだった。
「もういい、俺のことは放っておいてくれ。どうせ俺は・・・」
彼は、日に日にやつれ、誰とも会わなくなり、部屋に閉じこもるようになってしまったのだった。時折、ダーサカが部屋を訪れるのだが
「うるさい!、この苦しみがお前にわかるのか!。俺は・・・俺は・・・。来るな、ここにはもう来ないでくれ・・・。お前なんか、お前なんか・・・。顔も見たくない!」
と叫ぶだけであった。やがて、あれほど仲が良かったダーサカも、バーラカの部屋を訪ねることは無くなっていた。

「怖いよぉ・・・怖いよぉ・・・・死ぬのは怖いよぉ・・・」
夜になると、祇園精舎の中から不気味な声が聞こえるようになった。その声に、修行者の多くの者が寝られないと訴えてきた。その声の正体は、バーラカであった。お釈迦様は、バーラカの部屋へとやってきた。
「バーラカ、部屋に入るよ。私だ、バーラカ」
お釈迦様は、そう言って強引にバーラカの部屋に入ったのだった。そこには、痩せぎすの姿でバーラカが横たわっていた。
「せ、世尊・・・私は・・・・怖いのです・・・。私は、このまま・・・・どうなってしまう・・・のでしょうか・・・・」
「バーラカよ。薬は飲んでいるか?。そうか・・・。では、腹の痛みは、もうほとんど感じないな?」
お釈迦様の問いにバーラカは、うなずいた。お釈迦様は、彼に水を差しだすと
「バーラカよ、汝は何故出家したのだ?」
と問いかけた。バーラカは、
「はい・・・悟りを得るため・・・・です」
と答えた。
「バーラカよ、今その時が来たのだ。心を落ち着け、よく瞑想するがよい・・・。汝は何が怖いのだ?」
「は・・・い、死が・・・。このまま死んでしまう・・・のではないかと思うと・・・怖くて・・・寝られないのです」
「なぜ死が怖いのだ?」
「わかりません・・・ただ・・・怖いのです」
「誰にでもやってくることであるのに、死が怖いのか?」
「誰にでも?・・・・あぁ、そうですね。でも、世尊は・・・死はやってこないのでは・・・・」
「いや、私にも死はやってくる。この世に生きるすべてものは、いずれ死がやってくるのだ。
「せ、世尊も死ぬのですか?」
「そうだ、私も死ぬ」
「世尊・・・死とはいったいどのようなものでしょうか」
「バーラカよ、死とは・・・そうそれは、ここからそこへ行くような、そんなものなのだよ」
「ここからそこへいくような?」
「そうだ。この部屋の扉を開けて、外に出るような、それと同じようなものだ。だから怖いものではない。ただ、扉の向こうに何がいるのかわからないから、怖い気がするだけだ」
「扉の向こうには、いったい何がいるのですか?」
「扉の向こうにあるのは、安らぎである。それ以外のものはない」
「やすらぎ・・・・」
そういうと、バーラカは穏やかな表情へと変わっていったのだった。
「バーラカよ。病気になると、どうしても心がすさんでくる。汝は優秀な修行者である。心が堅固たる修行僧であった。しかし、それでも病気になると、心が弱くなるものだ。汝は、そこにはまってしまっただけなのだ。よくよく修行してきたことを思い出すがよい。私の説いてきたことは、心の病をも癒す教えである。汝の身体の痛みはジーヴァカの薬で消えた。では、心の痛みはどうか?。それは私の教えで消え去るであろう」
お釈迦様は、そのまましばらく話を続けたのであった。やがて、お釈迦様がバーラカの部屋から出てきた。
「彼は、穏やかに眠っている。今夜からは、皆も静かに眠れるであろう」
と言った。その言葉通り、翌日からは、バーラカの叫び声は聞こえなくなった。それどころか、バーラカは、静かに過ごすようになったのである。誰もが、「バーラカこそ、病人の鏡だ」と言うようになった。病気を抱えて苦しむものは、バーラカの元を訪れた。彼は、多くの病人に、
「身体の痛みは薬で治し、心の痛みはお釈迦様の教えで治すことだ。そうすれば、落ち着いて病気と相対することができる。私の病は、完治はしないだろう。しかし、私は死を恐れない。私には、尊い教えがあるからだ」
と、病気に対する心構えを説iいたのであった。

一方、バーラカを救えなかったというショックから、ダーサカは日に日にやつれてしまった。やがて、部屋にこもるようになり、托鉢にも姿を見せなくなった。
お釈迦様は、バーラカの部屋を訪れた翌日の朝、ダーサカの部屋にやってきた。
「ダーサカよ、何を塞ぎ込んでいるのか?」
「あっ・・・世尊・・・」
ダーサカは、そう一言いうと、膝を抱えて部屋の隅に座ったまま動かなかった。
「あなたはいったい何を考えているのだ?」
お釈迦様は、そう尋ねた。しかし、返事はなかった。部屋の隅に膝を抱えて座り込むダーサカ、その前に結跏趺坐をしたお釈迦様がいた。二人は、全く動かなかった。
「私は・・・・何もできない・・・。何もできなかった・・・。ただ、いい気になっていただけだった」
日が暮れようとした頃だった。ダーサカが、ぼそりとそう言ったのだった。
「人が人を救うことは難しい」
お釈迦様は、そうつぶやいた。その言葉にダーサカは、はっと顔をあげたのだった。
「人が人を救うことなど、果たして可能であろうか?。救ったように見えることはあるかもしれない。しかし、それはほんの一瞬のことであり、次の瞬間には、別の状態になっているのではないか。そもそも、救うとはどういうことなのか?。ダーサカよ、人を救うとは、どういうことなのだ?」
お釈迦様にそう尋ねられたダーサカは、「わかりません」と首を振ったのだった。
「そう、わからない。人を救うとは・・・私にもわからない」
「せ、世尊にも?」
「そうだダーサカ。私にも人を救うということはどういうことなのか、わからないのだよ。救ったと思った者が、しばらくすると悩み苦しんだり、再び闇の世界に落ちていったりすることはよくあることだ」
「せ、世尊でもそのようなことが・・・」
「たとえ仏陀であろうとも、人を救うことは難しいものだ。ましてや、まだ悟りを得ていない者が、他の者を救うなどとは・・・。それは困難を極めるであろう」
お釈迦様は、そのまま夜明けまで話を続けたのであった。
翌朝、ダーサカは、お釈迦様とともに部屋から出てきた。久しぶりに見る太陽の光に、彼は顔をしかめながらも、すっきりした表情をしていた。そして
「まずは、自分を救うことから始めます」
と言い、泉へ沐浴に向かったのであった。

その日の午後、お釈迦様の前には祇園精舎の修行僧や尼僧、そして多くの人々が集まっていた。
「人は、病気になると、気が弱くなってくる。身体の不調が長く続けば、多くの不安を抱え、気が塞ぎ込み、気が滅入ってくる。やがて、ふて腐れたり、妙に頑固になったり、極端な我が儘を言ったりして、周囲の者の手を焼くようになるのだ。それは、病気により、心も病んでしまっているからである。
また、心の病もある。心が病めば、身体は不調になり、動くのも億劫になってくる。何もやる気が起こらず、ただ無為に過ごしたくなる。そして、身体は病んでしまうのだ。
身体と心、それは車の両輪のようなものである。前に進むには、両方が程よく動いていなければならない。身体が病んでいても、心が病んでいても、まっすぐ前には進めないのだ。そして、やがては止まってしまうであろう。身体も心も病んでしまったら、早めに治すことが大事である。
身体の病は、医者や医者の施す薬を頼ればよい。では、心の病はどうすればよいか。心の病には、法が最も良いのだ。私が説く教えは、心の病をよく癒すであろう。私は、心の病を癒す医者と同じなのである。悟りに向かうことこそが、心の病を癒す唯一の方法なのだ。汝ら、よく教えを聞き、自分のものとするがよい」
お釈迦様の言葉に、そこに集った人々は、大きくうなずいたのであった。


「私は、心の病を治す医者である」
これは、お釈迦様の言葉です。仏教は、本来は、心の在り方を説いた教えです。どう考えれば心が安定するか、それを教えたのが仏教です。決して、儀式ばかりを行っているのが仏教ではないのですよ。

よく勘違いをされる方がいます。
「仏教って、お葬式をやる宗教でしょ?」
「いろいろ祈願するところだよね?」
「法事や葬式をするのが仏教だ」
それらは、間違ってはいませんが、正解ではありません。それもある、というだけのことです。仏教とは何か、と問われたら、「仏になるための教え」と言うのが正しい答えでしょう。「仏になる」とは、何事にも揺るがない堅固たる心を手に入れることです。

仏教は、そもそも悟りを得るための教えです。仏教の最終目的は、すべての人が悟りを得ることです。それは、すべての人が、安定した心を手に入れることです。何の不安もない、どんなことが起きようとも、決して揺らぐことなく、泰然自若としていられ、何の憂いも感じることのない心の状態を得るのが、仏教の目的です。葬式や法事、祈願をするのが、仏教の目的ではありません。それは、方便であって、仏教の教えを理解してもらうための手段なのです。大切なのは、仏教的考え方のほうですね。その仏教的考え方ができるようになれば、日々の生活に不安は感じなくなってくるのです。たとえ、身体が病気であっても、たとえ貧しくあっても、たとえ何かと不自由な状態であっても・・・です。どんな状態であっても、仏教的生き方ができるようになれば、安穏に過ごせるのです。

最近は、現代型うつ病なる心の病が広がっているそうですね。また、日本は毎年3万人以上の人が自殺をする国になってしまっています。心が病んでいる人が大変多い時代なのです。
こうした時代にこそ、正しい仏教が必要なのでしょう。仏教は、本来「心の病を治す教え」なのです。ですから、気がふさぐようなことが起きたら、鬱になりそうになったら、何か悩みを抱え込んだなら、仏教の教えに触れてもいいのではないかと思います。お釈迦様は、心の病を癒す名医なのですから。
合掌。


第140回
やることなすこと裏目に出る者がいる。
その者は、運が悪い・誰それが悪いと嘆くであろう。
しかし、悪いのは己である。己の考えが浅いだけなのだ。
 
「いったい何をしに来たんだ・・・いまさら・・・」
カッタクの前に現れたのは、古い知り合いのリゲルだった。リゲルの顔を見て、カッタクは、緊張したのだった。
「ふ〜ん、いい店を持っているじゃないか。よその国の珍しいものを売りながら、メシを食わす店か・・・。うまくいっているようで何よりだな、カッタク」
リゲルは、ニヤニヤしながら店の椅子に座った。
「い、いったい何をしに・・・来たんだ?」
「飯くらい食わせてくれるよな。古い知り合いなんだから」
リゲルはそういうと、ニヤッと笑ったのだった。
「これを食べたら帰ってくれよ。あの時決めたじゃないか。もう会わないと・・・」
「そんな冷たいことを言うなよ。友達だろ。まあいい、またあとでな・・・」
リゲルはそういうと、黙々と食事をした。

リゲルとカッタクは、数年前までは、実は盗賊をやっていたのだった。大国を旅しながら貿易を営む隊商を襲っては、金品を盗んでいたのだ。しかし、ある程度金が貯まったころに、カッタクが、盗賊を止めようと提案したのだ。貯めたお金をもとに、商売でも始めようと、彼は言ったのだった。
リゲルは、初めは反対したが、そろそろ各国の司直の手も伸びてきそうな状況だったので、しぶしぶカッタクの提案を受け入れた。
「しかしな、急に商売を始めてはいけないと思うぞ。しばらくは、大人しく隠れている方がいい。田舎の村で貧しい生活をしていた方がいいと思うんだ」
そういうカッタクにリゲルは
「そんなことはわかっているさ。でもな、お前の指図は受けない。俺は俺のやりたいようにやるさ。なに、こう見えても俺は、考えているから大丈夫だ。今までの仕事を見てもわかるだろ。まあ、お前には迷惑をかけないよ」
「あぁ、わかった。じゃあ、今から、俺たちは他人だ。見ず知らずの者だ。もう二度と会うことはないだろう」
「あぁ、お互いにな・・・」
こうして二人は別れたのであった。

カッタクは、田舎の貧しい村に行き、細々と暮らし始めた。そして、1年ごとに村を転々としたのだった。あまり村人と仲良くはしたくはなったし、顔を覚えられるのも嫌だった。できるだけ、目立たないように行動したのだ。それは、後々のことを考えてのことだった。いずれ商売を始めるときに、顔が知られていない方がいいと思ったのだ。どこでだれが見ているかわからないと警戒したのである。
一方、リゲルは、すぐに所帯を持った。そして、小さな田舎の街で居酒屋を始めたのだった。店は順調だった。しかし、旅の商人がリゲルの顔をみてこういったのだった。
「店主さん、お前さん、どこかであったことがあるよな・・・。えーっと、あれは・・・うん?、まさかな・・・」
「俺は、あんたなんか知らねぇよ。誰かと間違っているんじゃないのか」
「いや・・・。実はね、去年のことだけど、俺たち隊商は、盗賊に襲われたことがあるんだ。二人組だったんだけど、これが妙にすばしっこいし強いしで、あっという間に商品や金を取られたんだよ。その盗賊の一人の顔がチラッと見えたんだけど・・・・。いや、まあ、人違いだよな。いくらなんでも、盗んだ金でこんな店は出さないよな・・・。ちなみにいつからこの店はやっているんだい?」
この話は、すぐに噂になった。結局、リゲルは、ある夜に店も女房も捨てて逃げたのだった。
「チッ、うまくいかねぇもんだ」
ヒマラヤ近くの山中で、リゲルはふてくされていた。幸い、金はすべて持ってきた。なので、生活に困ることはない。
「カッタクのいう通り、しばらく静かに暮らすか・・・」
リゲルは、そう決めたのだった。

しかし、隠遁生活は彼には無理だったのだ。彼は、いついた村で、ちょっとした家を建て、女房をもらい、普通に生活を始めたのだった。仕事は何もしていなかった。
「以前いた町でやっていた店を売ったから金があるんだ」
と彼は村人に言っていた。しかし、そんな嘘がいつまでも通用するはずがない。やがて村長がリゲルを怪しむようになった。結局、彼はまた夜逃げをすることとなった。
そんなことを何度繰り返しただろう。数年後には、たんまりとあった金は底をつき始めた。
「ちっ、くっそ、何をやっても裏目に出やがる。盗賊のころが一番よかったぜ。もう金もない・・・。また盗賊でもやるか・・・。しかし、相棒がいねぇ。あいつはどこに行ったのか、本当に行方が知れない。のたれ死んだかもしれない。仕方がない、新しい相棒を探すか」
こうしてリゲルは、盗賊に戻ったのである。
リゲルが盗賊としてうまくやっていけたのは、カッタクの力が大きかった。慎重なカッタクは、決して証拠を残さぬよう、乱暴なことはせず、顔を隠し、すばやく金品だけを狙うようにリゲルに指示していた。それがあったから、うまくいっていたのだ。
リゲルはどちらかと言えば、大雑把な男であり、乱暴者だった。だから、一人で盗賊やっても、うまくはいかなかったのだ。作戦も何もなしに隊商に突っ込んでいくのである。いくら新しい相棒ができても、カッタクのようなわけにはいかなかった。やがてリゲルは捕まってしまったのだ。しかし、彼は強制労働所から逃げ出した。そして、無一文でカッタクを探すことにしたのだった。

「と、まあ、そういうことだ。随分とお前を探したぜ。いいよなぁ、お前は。こんなにうまくやっている」
店を片付けたところをカッタクはリゲルに呼び出されたのだった。人の気配がしない暗がりで、リゲルはカッタクに絡んでいたのだ。
「なぁ、金あるんだろ?。少し貸してくれよ。なに、ほんの少しでいいんだ」
「一度だけだぞ。俺だって生活していかなきゃならない。あの時の金は、この店の権利を買うのに使ってしまったからな。今は、なんとかかんとかやりくりしている状態なんだ」
カッタクはそういうと、いくばくかの金をリゲルに渡した。
「ありがとうよ、相棒。また来るよ」
「もう来ないでくれ。お願いだ」
カッタクの言葉を聞き流して、リゲルは闇夜へと姿を消したのだった。

2か月ほどたったころ、またリゲルがカッタクの店にやってきた。
「金がなくなったんだ。また頼むよ」
リゲルの頼みに、カッタクは待ち合わせ場所と時間を指定した。それは、翌日の昼過ぎ、とある森の中だった。
指定された通りにリゲルはやってきた。しかし、そこには多くの兵士がいたのだった。
「ちくしょう!、カッタクのヤツ、裏切りやがったな!」
リゲルは、走って逃げた。森の中を走り抜ければ、他国へ行ける。他国へ行ってしまえば、兵士も追ってこれない。下手に他国に兵士が入れば、戦争にもなりかねないからだ。だから、彼は走った。
ふと前を見ると、修行僧が二人、道の真ん中に立っていた。
「そこをどけ!」
リゲルは叫んだ。すると片方の修行僧が言った。
「先にある二股道は、左に行ってはいけない。行き止まりだから」
「うるせー」
確かに、その先は二股に道が分かれていた。リゲルは立ち止った。そして、二つの道を見比べた。右は、道幅が狭く枯れ枝が散乱しており、走りにくそうだった。左は広く平坦な道であったが、その先には柵がしてあった。
「なるほど、行き止まりか・・・。ということは、あの柵を超えれば隣の国だ。よしっ!」
彼は左を選び走った。そして柵を超えると、そこは大きな沼だったのだ。彼は沼にはまってしまった。

「だから、左は行ってはいけないといったのだ」
沼でもがいているリゲルに向かって、修行僧は言った。
「う、うるさい!、早く助けろ!。そ、そこのつる草を投げてくれ・・・」
リゲルがそう言ったので、修行僧の一人が、つる草を投げた。しかし、それはどこにもつながっていなく、リゲルが引っ張ると、するすると抜けてしまった。
「お、俺は・・・俺はなんて運が悪いんだ・・・。こんなところで人生を・・・終えたくねぇ」
「リゲルよ。汝は、何をしても裏目に出る人生だった。今もそうだ汝の選択は、裏目に出てしまっている。隣国へ行きたいのならば、右の細い道を選べばよかったのだ。そんなことは、深く考えればよくわかることだ。ここは、街外れの森で、隣国と接している。道が広ければ、隣国が攻め入りやすいであろう。そのために、わざと細く歩きにくい道にしてあるのだ。そんなことは、ちょっと考えればすぐにわかることなのだよ」
「う、うるさい!、説教なんぞクソくらえだ!。ちょくしょう・・・何もかも裏目に出やがった。あぁ、そうだよ、俺の人生はすべて裏目に出た人生さ!。俺はついていねぇ・・・。それもこれも、あいつと知り合ったせいだ・・・。ちょくしょう・・・」
「まだわからないのかリゲル。お前は、自分の人生の選択をすべて自分でしたではないか。誰かに強制されたわけではない。いや、それどころか、周囲の者の忠告を無視して、自分勝手に走ってきたではないか。その結果が、自分の思いとは異なり、裏目に出たのだ。それは、すべて自分の責任であろう。何の考えもなしに・・・自分では考えたつもりなのだろうが・・・、自分の好き勝手にしてきたではないか・・・。
さて、最後の選択だ。リゲルよ、自らの罪を今ここで、すべて話すか?、それとも自分は正しいといいはるか?、いずれであるかリゲルよ」
「俺は何も悪いことはしていない!。運が・・・たまたま運が悪かっただけだ!」
「哀れなリゲルよ・・・。最後の選択も誤ってしまったか・・・」
リゲルは、底なし沼に沈んでいってしまったのだった・・・。

お釈迦様は言った。
「何をやっても裏目に出る者がいる。このリゲルのように・・・。しかし、このように裏目に出るというのは、本来正しい表現ではない。彼らは、選択を誤っているだけなのだ。先のことやその時の状況などを正確に把握していないから、間違った選択をしているにすぎないのだ。したがって、裏目に出たのではなく、間違った選択の通りの結果が出ているだけなのだ。ただ、選択している本人は、自分の希望通りの結果が出ると思い込んで選択しているのから、裏目に出たと言っているに過ぎない。周囲の者から見れば、誰も裏目に出たとは思わないであろう。当然の帰結だと思うであろう。間違った選択をした自分だけが裏目に出たと思っているのだ。考えが浅いがゆえの結果なのだよ、アーナンダ」
お釈迦様は、アーナンダにそういうと、沼を後にした。その横を数名の兵士たちが通り過ぎて行ったのだった。
なお、カッタクは、その後すぐに過去の罪を告白し、出家したのだった。


やることなすこと裏目に出る人がいます。そういう人は
「もう、本当に運が悪いとしかいいようがなくて・・・」
と言います。あるいは、
「自分ではよかれと思ってやっているんですが、どうも周囲が邪魔をしてうまくいかないんですよ。裏目に出てしまうんです」
などと、他人のせいにしたりもします。人は、自分の望んだ結果と反対の結果が出た時、「裏目に出た」と嘆き、それを運や他人のせいにしてしまうものなのです。

もちろん、賭け事などは、運が大きく影響をするでしょう。いや、そもそも賭け事で大儲けをしようなどというのが、間違った考え方なんですけどね。冷静に考えれば、賭け事で大きく儲けることなど難しいのです。賭けた目の裏目に出たところで、それは有り得ることなのです。賭け事は、確率の問題なのですから。

話がそれました。何か策を弄して、あるいは作戦を練って、事をなそうとした時、その結果が裏目に出る・・・つまり自分の望んだ結果とは異なる・・・ことは、よく耳にする話です。そう言った場合、たいていは
「運が悪かった」
「タイミングがずれたのだ」
「アイツがあんなことを言い出さなきゃ・・・」
などと、運や他人のせいにしますね。しかし、それは正しくはありません。
よくよく考えてみると、
「その策では、いい結果は得られないでしょう。当然じゃない?」
ということも大いにあるのです。案外、弄した策や練りに練ったつもりの作戦も、振り返ってみれば穴だらけ・・・ということはよくあることです。そりゃ、裏目に出るよね、ということですね。

先のことをしっかり考え、あらゆる結果を予測し、最善から最悪までをよく吟味し、状況をしっかり把握していても、自分の思うような結果が得られるとは限りません。ましてや、よく考えもせず、一時の感情に任せて、あるいは自分の欲望のままや我が儘に任せて行動すれば、その結果は自分の望んだようになるはずがないでしょう。

「裏目に出てばかりなんですよ」
と嘆いている方は、よくよく自分の取った行動を振り返ってみてください。あまりにも考えが浅かった・・・のではないでしょうか?。あの時、あそこで簡単に判断したのがよくなかったのではないか・・・ということが見えてはきませんか?。もっと考えてから決めればよかった・・・ということが、はっきりとしてきませんか?。
よく考え、感情に任せて判断せず、状況をしっかり見極め、冷静になっていれば、裏目に出るような判断をすることは、大変少なくなると思います。裏目にでるのは、結局は自分の責任なのです。
合掌。


第141回
相手がいったことを真剣に考えよ。
適当に聞き流してはいけない。聞くことを拒んでもいけない
相手の話の内容をよく聞き、その意味を考えることが大切なのだ。
 
祇園精舎の昼下がりのこと。お釈迦様は、多くの人々を前にして話をしていた。
「よいか、人々よ。人の話は真剣に聞くものだ。いい加減に聞き流していては、その人が言ったことの真意を聞き逃すことがある。相手の言ったことを理解できなければ、誤解が生じることもあろう。そうなると、人間関係にも支障をきたすこともあるのだ。よいか、相手の言ったことはよく聞くのだ。そして、いったい何を意味しているのか、どういうことが言いたいのか、それをよく考えるがよい。そうすれば、難を逃れることもあるのだよ。たとえば、こんなことがあった・・・」
そうして、お釈迦様は、以前にとある街で聞いた話を皆に語り始めたのだった。

そこは、大きな商店だった。売っているものは、店主が遠くの国から買い集めた珍しい宝物だった。綺麗なガラスの器もある。宝石を散りばめた箱もある。何だかよくわからないが高級そうな置物もあった。数名の店員たちが掃除していたとき、そこへ店主に店の一切を任されている主任がやってきて言ったのだった。
「置物の配置を変える。このままでは在庫がはけない」
店員たちは「はい」と一言だけ言った。主任の言うことには逆らえないのだ。主任は、
「お前らに配置は任せる。もっと売れるようによく考えて置き換えておくんだ。いいな」
と商品の配置換えを店員らに任せたのだった。
彼らは、話し合いながら商品の配置を変えてみた。
「まあ、こんなもんでいいだろう」
「は、どのみち、どこへ置こうが売れないものは売れないんだよ」
「だよな。あぁあ、やる気がでねぇ。ま、適当においておくか」
とブツブツ文句を言いながら彼らは作業をしたのだった。しかし、彼らに同調しない者がいた。それはガティという若者だった。彼は
「いい加減に置かない方がいいよ。でないと、またやり直しをさせられる」
と主張したのだが、他の店員らは取り合わなかった。特に最古参の店員シャンティは、
「いいじゃないか、俺たち任せるって言ったんだから。お前、うるせーんだよ」
と言って、ガティを無視し始めたのだった。シャンティらはガティを横目でにらみ、適当に商品の配置換えをし終えたのだった。

翌日のこと、主任が店に入ってきた。
「なんだ、この配置は!。これじゃあ、売れ筋の商品が目立たないじゃないか!」
主任は店に入ってくるなり、大声で怒鳴った。
「もう一回やり直しだ!」
主任は、そう命令すると、店の奥へ引っ込んでしまった。結局、シャンティらは、また商品を並べ替えることとなったのだ。
「あんなに文句を言うなら、自分でやればいいんだよ。自分ではできない癖に何でも俺たちに押し付ける」
「ホントにその通りだ。主任が自分でやればいいんだよ」
彼らは、またブツブツ文句言いながら、ダラダラと商品を並べ替えていた。
「面倒だからさ、これとそれを入れ替えて・・・。そうそう、隣どうしをいれかえるだけでいいんじゃないの?」
「そりゃあいいや。楽なもんよ。どうせわかりゃしないからな」
彼らがそう言っていると、ガティだけが反論した。
「いや、それはまずいと思うよ。いくらなんでも、隣と入れ替えるだけっていうのは、バレるよ。もっと真剣に考えたほうがいい。主任さんだって、ちゃんと考えて置け、って言ってたし」
「あのな、うるせーんだよ。ちゃんと考えてっていってもな、わからないんだよ。どうでもいいだろ、そんなこと。適当に置けば、そのうち満足するって」
ガティの意見にはだれも耳を傾けなかったのだった。
しばらくして、主任が戻ってきた。
「な、なんだこれは?。おいおい、さっきと変わってないじゃないか。隣と隣を入れ替えただけだろ、これ。もう一回やり直しだ。いいか、もっと真剣に考えろ。わかったな。あぁ、それからついでに言っておくが、商品を動かしたら、その台を拭いておけ。商品の跡が残っているぞ。商品を動かしたことがバレバレだ。それくらいは気付いてほしいものだ」
主任は、そういうと、再び奥へ引っ込んでいった。主任の一言に、シャンティらは、苦い顔をしてうつむいたのだった。
「くっそー、やってられねぇ。イチイチ口はさみやがって。俺たちのやったことのどこが悪いっていうんだ?」
「あーもうやってられねぇ。面白くねぇ」
彼らは少しの間、商品を置く台を拭いていたが、ぞうきんを投げつけると、とうとう座り込んでしまったのだった。
「ちゃんとやろうよ。これじゃあ、いつまでたっても仕事が終わらないじゃないか」
「うるせーな。そういうのなら、お前が一人でやればいいじゃないか」
「そうだそうだ、お前が一人でやれ」
ガティの一言に、シャンティらがかみついた。彼らは、まったくやる気をなくしていた。
「いい加減なことをやるから主任が怒るんだって。もっと考えて、ちゃんとすれば主任だって怒らないって」
「はぁ?、言っている意味がわからないね」
「だから、主任はさ、よく考えて配置を変えてみろっていったじゃないか。それは、店の外から見て、お客さんが買いやすいように商品を並べろってことじゃないのかな?」
ガティの言葉に、シャンティらは「はぁ?」という顔をしたのだった。ガティは、さらに続けた。
「だってさ、商品が売れなきゃ、俺たちだってお給料をもらえないじゃないか。このところ、あまり売れていないんだよ、店のもの。お客も来ないだろ、あんまり・・・。ひょっとすると、俺たちだって、クビになるかも知れないじゃないか」
ガティの言葉に、ようやくシャンティらは深刻な顔つきになった。
「まあ、確かに、客は来てねぇけどさ・・・」
「あ、でもさ、主任が前に言っていたけど、上得意さんがいて、時々高価なものを買ってくれるんだってさ。でね、主任がそれを担当してるんだってさ。そういう人は、店には来ないんだって」
「なんだ、そうか。なら心配ないじゃないか。まったく、うるせーんだよ、ガティは。心配性で気が小せぃからな、お前は。あはははは」
「そうそう、真っ先にクビなるのは、お前じゃねぇのか?。あははは」
シャンティらは、大笑いして仕事に取り掛かろうとしなかったのだった。仕方がないので、ガティだけが、店の外から中を見てみたり、斜めから店の中を見てみたりしながら、商品の配置を考えていた。
ようやく商品がきれいに並んだ頃、シャンティたちは床に寝転がって眠っていた。
「あぁ、起こさなきゃ」
ガティがそう思った矢先だった。主任が店に戻ってきた。
「そうか、私の話の意味を理解していたのは、ガティ、君一人だけだったか」
主任はそういうと「うん、よい配置だ。これなら合格だ」とつぶやきながら、床に寝転がっていたシャンティらを起こした。
「おい、起きたか?。お前らに伝えることがある。ガティ以外は、明日から店に来なくてもいい。クビだ」
主任の一言にシャンティらは騒いだ。
「どういうことなんですか?」
「そんな・・・いきなりクビだなんて・・・」
しかし、主任は取り合わなかった。真剣な顔つきになると
「いいか、君たちは私の話をいい加減に聞いていた。いい加減に聞いていたからこそ、いい加減な仕事しかできなかった。なぜ、商品の配置換えを命じたのか?。君たちはそれを考えたのか?。何も考えず、ただ適当に並べ替えておけばいいと思ったのだろう?。それがダメだと言われると、さらに適当に置き換えた。どうせわかりはしないだろうとな。それほど、君たちは仕事に真剣ではないのだ。なぜ命じられたのか、そこを考えないで、言われたこともせず、自己本位に振る舞っている。そんな者は、不要なのだよ。ガティを見てみろ。彼は、私が言ったことをよく聞き、なぜ配置換えが必要なのかを考えた。だからこそ、私の言葉に逆らわずに、素直に従って、私の期待以上のことをしてくれたのだ。そういう人間でなければ、店は任せられない。さぁ、ガティ、今日から君がこの店の主任だ。私は、新しく開く店を任されているのだ。君にこの店を任せた。益々繁盛するようにしてくれ」
こうして、ガティは店の運営を任されるようになったのだった。
一方、シャンティらは、店を追い出されたあと、他の店に雇われたりもしたが、結局はうまくいかず、どこへ行ったかはわからなくなってしまった。

お釈迦様の話は終わった。
「よいか、人々よ。人の話は真剣に聞いておこう。その話がいったい何を意味しているのか、よく考えるのだ。適当に聞き流してはいけない。拒んでもいけない。よく聞いて、その意味をよく考えるのだ。それが大切なのだよ。よいか、私が言ったこの言葉の意味もよく考えるように・・・」
お釈迦様は、そういうと、微笑んだのだった。


人の話を全く聞いていない人がいます。あるいは、聞いていても、通じていない人がいます。あるいは、勝手な解釈をして、勝手な判断をしてしまう人もいます。こういう人って、案外いるものなのです。
初めは、勘違いなのかな?、と思うのですが、そうしたことが何度もあると
「あぁ、この人は話の真意を理解できないんだ」
とわかります。そうなると、「話の通じない人」となってしまうでしょう。これは、実は困ったことなんです。

「話が通じない人」
このように周囲に判断されると、誰もその人には大事な話をしなくなります。適当な、些細な、どうでもいい話しかしません。なぜなら、大事な話をしても通じないか、間違って理解されるということになってしまうからです。通じないならまだしも、間違って理解されてしまうと、大きなトラブルに発展してしまうこともありますからね。結局、
「あの人には大事なことは言えないね」
となってしまうのです。そうなれば、その「話の通じない人」は孤立してしまうでしょう。

他人の話は、よく聞くことです。よく聞き、
「なぜ、そういう話が出たのか」
「その話の真意はどこにあるのか」
ということをよく考えることです。特に部下が上司に命じられた時などは、命じられたままにするのではなく、
「なぜ、そう命じられたのか」
ということをよく考えることです。そうすることにより、命じられた以上の成果が上がってくるのですよ。

人の話はちゃんと聞きましょう。そして、その話の真意がどこにあるのかを考えましょう。そうして、人は、成長していくものなのです。人の話を聞けない、理解できない、話を聞いても考えない・・・では、孤立した人生を歩むこととなってしまうでしょう。考えることは大切なのですよ。
合掌。


 第142回
人は本来、怠け者である。
自分で自分を制御することは難しい。
だからこそ、監視や指導が必要なのである。
 
お釈迦様の弟子の数は、数千人あるいは万を超える数だとも言われていた。いずれにせよ、仏教における出家者の数は、大変な人数だったのである。その中でも、悟りを得た者や悟りは得ていなくても人物的に尊敬される者は、長老として、まだ悟りを得ていない若い修行者の指導に当たっていた。しかし、若い出家者の中には、こうした指導を嫌う者もいた。
「なぜ自由に修行してはいけないんですか?」
シャーリープトラに食ってかかったのは、バジュラという出家して間もない若者だった。
「君たちは、自由に修行しているのではないか?。午後からは、君たちの裁量に任せてあるが・・・」
「いいえ、そんなことはありません。午後からも、やれ瞑想をしなさいとか、今日は世尊の教えを学べとか、世尊の言葉を暗証しろとか・・・、口をはさむじゃないですか」
「あぁ、確かにそうだね。でも、そうしないと、君たちはどのように悟りに向かえばいいのか、わからないのではないかな」
シャーリープトラは、冷静にそう答えた。
「そんなことはないと思います。私たちは、私たちなりの方法で悟りに向かえばいいと思うのですよ。午前中の決まりごとも、もう少しゆるくてもいいと思います。必ずしも托鉢に出る必要はないじゃないですか」
「あぁ、もちろんそうだよ。必ずしも、托鉢に出る必要はない。しかし、この世尊の教団にいる以上、最低限守らねばならないこともある。それができないのなら、教団を出ることだ」
「そんなことはわかっています。私が言いたいことはそういうことではありません。融通をきかせるべきこともあるのではないか、出家者の自主性に任せるべきこともあるのではないか、そういうことを言っているのです」
バジュラは、手振り身振りを交えて必死に訴えた。シャーリープトラは、優しく微笑むと、
「君たちの言いたいことはよくわかった。最低限の決まりは守るけど、ある程度は自分たちの自由にさせて欲しい、そういうことだね?」
「そうです。その通りです」
「ふむ、よくわかった。では、朝の沐浴、掃除等の当番、周囲の修行者に迷惑をかけない、といった最低限の決まりごとを守ってくれるなら、君たちの自由に修行をしてもよいという許可を与えよう。ただし、君たちに任せていてはいけない、と私が判断した時は、私の指導に従ってもらうが、それでいいかい?」
「もちろんですとも。まあ、シャーリープトラ尊者の指導を再び仰ぐようなことにはならないと思いますけどね」
こうして、バジュラを始め数名の者が、シャーリープトラの指導を外れて自分たちで修行を始めることとなった。

彼らは真面目であった。特にバジュラは、仏教教団で出家する前には、他の宗派の聖者のもとで修行をしていたため、真剣に修行に取り組んでいた。
彼らは、朝の沐浴を済ませると、自由に托鉢に出た。托鉢に出る必要はない、出たくないと思った時には、托鉢に出ないで断食をしたのだった。午後からも、瞑想したり、お釈迦様の教えをみんなで考察しあったりしていた。
「ほら、自分たちでもできるじゃないか。このまま悟りを得ることも可能だな」
バジュラは、そうつぶやき、微笑んだのであった。
ところが、10日程たつと、バジュラの仲間たちの中で、揉め事が起き始めたのだった。
「おい、どうして起きてこないんだ。朝は日の出とともに起きるのが最低限の決まり事だろ?」
バジュラは、大声で言った。言われた修行者は
「うるさいなぁ。今日は、調子が悪いんだ。ゆっくり寝させてくれよ。それにお前には迷惑かけてないだろ。俺たちは自由に修行するんだろ?」
「しかし、最低限のことくらいは・・・」
「だから、調子が悪いって言っているんだよ」
そう言って、その修行者は起き上がろうとはしなかったのである。
これが、バジュラの仲間たちが揉めはじめるきっかけとなったのである。

「バジュラもうるさいよな」
「あぁ、いちいち、口を挟んでくる」
「そうそう、それはいけない、あれはいけない・・・。そのことは最低限しなきゃいけないことだ・・・。シャーリープトラ尊者の指導を受けていた時と同じだ。俺たちに自由はない」
「そうそう。そもそも修行の自由を手に入れるために、尊者の指導から離れたのにさ。今度は、バジュラが尊者面しているんだから、かなわないよ」
バジュラ以外の者たちは、バジュラがいない時を見計らっては、バジュラの悪口を言っていたのだった。そうして、次第に彼らは修行を怠けるようになっていった。
まず、彼らは朝起きるのが遅くなった。沐浴も怠るようになった。托鉢にも出ることなく、他の修行者から食事を分けてもらうようになった。掃除などもダラダラとするようになった。バジュラが少しでも注意したならば
「ふん、悟ってもいないのに尊者面か?。偉くなったんだなバジュラも」
と文句を言った。そう言われると、バジュラも何も言い返せなくなってしまった。それをいいことに、彼らは午後からもダラダラと過ごした。瞑想という昼寝を貪ったのである。ついにバジュラは孤立してしまったのだった。
「なんてことだ・・・。私がとった行動は間違っていたのだろうか?。私は、彼らを怠け者にしてしまったのだろうか・・・。彼らをあのようにしたのは、私のせいなのだろうか・・・・」
バジュラは、悩み始めていた。

「どうやら行き詰ったようだね」
そうバジュラに声をかけたのは、シャーリープトラだった。
「尊者様、私は間違っていたのでしょうか?。彼らをあのようにしてしまったのは、私なのでしょうか?」
「う〜ん、まあ、そこのところは世尊に聞いてみようではないか」
シャーリープトラは、そういうとバジュラの腕をつかんで歩きはじめたのであった。
お釈迦様の前にバジュラはシャーリープトラと並んで座った。バジュラは、シャーリープトラに促され、今までのことをお釈迦様に話した。
「ふむ、バジュラ、汝の話はよくわかった」
お釈迦様は、そういうとにっこりとほほ笑んだのであった。そして、優しく語り始めた。
「バジュラよ、人は、本来、怠け者にできているのだ。苦しい道と楽そうな道があった場合、ほとんどの者が楽な道を選ぶものなのだ。志や目標をしっかり持っているものでないならば、人はついつい怠けてしまうものなのだよ。自分の行動や心をしっかりと制御することは、大変難しいことなのである。
こんなことがあった。とあるマンゴー園では、多くの者が働いていた。皆、よく働き、たくさんのマンゴーが収穫できた。樹木の手入れもしっかりできており、誰もが羨ましがるようなマンゴー園であった。そのマンゴー園の持ち主は、いつも使用人たちに目を光らせていたのであるが、『わしが見ていなくてもみんなよく働くのだ』と周囲の人たちに自慢をしていた。ある日のこと、『そんなに自慢の使用人たちなら、毎日マンゴー園を見ていなくてもいいじゃないか』と彼はからかわれた。彼は、怒って『わしは毎日マンゴー園には行っていない。毎日、遊んで暮らしている』と言い返してしまったのだ。そのため、持ち主は、マンゴー園に行くことはなくなってしまった。しばらくして、マンゴー園は見る見るうちに荒れ果ててしまった。園の持ち主が来なくなってしまったため、使用人たちが怠けはじめたのだ。中には、マンゴーを盗んで勝手に売ってしまう者も出てきた。そうこうするうちに、その持ち主は破産してしまったのだ。
よいかバジュラ。人は、誰かに見られていたり、指導されていないと、怠けてしまうものなのだよ。自分の行動や心を誰から何も言われないでしっかりと自分で制御できる者は、悟った者か、強い志や目標がある者だけなのだ。そうした者は、本当にわずかしかいないのである。だからこそ、監視や指導が必要となるのだ。多くの者は、自制ができない未熟者なのだよ。わかったかね、バジュラよ」
お釈迦様にそう言われ、バジュラは
「はい、私が間違っておりました。今後は、よき指導者・・・シャーリープトラ尊者・・・のもとで修行にはげみます」
と誓ったのであった。が、シャーリープトラは
「いいや、バジュラ、君は一人でも大丈夫だ。指導や監視を必要としているのは、他の連中だよ」
と言い、にっこりとほほ笑んだであった。


人は怠け者である。
まさにその通りだと思います。現に、私自身もそうなのです。私も、放っておけば、きっとダラダラ・ゴロゴロと怠けて過ごしてしまうでしょう。仏様の目があるからこそ、怠けずにいられるだけです。きっと、お坊さんでなかったならば、怠け者のどうしようもない人間になっていたことでしょう。

よく聞く話ですが、工場の効率を上げるためには、工場長という存在が欠かせないそうです。特に海外の工場では、工場長の存在はその工場が上手くいくかどうかを左右するくらい、重要な存在だそうです。かといって、工場長は、何かうるさく指導しているわけではありません。ただ、単に見ているだけのことが多いのだそうです。そう、工場内、全体を見渡せる場所に立って、みんなの働きぶりを見ているだけなのです。それだけで、効率が上がっていくんですね。

人は、誰かに見られていると意識するからこそ、自分をしっかりと保たねば、という気持ちが生まれやすくなるものです。誰かが見ているからごみのポイ捨てはやめよう、誰かが見ているから犯罪行為を止めよう・・・。誰かが見ているから、という視線を気にするから、誤った行動をしなくなるものなのです。
先生がいない自習時間の教室などいい例でしょう。高い志や目標を持っている生徒でない限り、騒いでしまいますからね。他人の視線は、人の行動を制御するという大きな役割を果たしているんですね。

できれば、他人の視線など意識せずに、自分自身をしっかりとコントロールできるのが、大切なのでしょう。他人の監視や指導などなくても、自分の欲望をコントロールできることが、本当は大事なのです。
しかし、人は弱いものです。ついつい怠けたくもなるし、欲に負けてしまうこともあります。だからこそ、いつまでも、自分を監視してくれる人が必要だし、指導してくれる人がいると、助かるのですよ。人間は、みんな怠け者ですからね。
合掌。


第143回
自分は深く考えることができるかどうかをまず考えよ。
自分で深く考えることが苦手ならば、それを素直に自覚し、
深く考えることができる者に相談すべきであろう。

 「シャーリープトラは、なぜ智慧第一と称賛されるのか?」
お釈迦様が霊鷲山に滞在していた時のことであった。多くの弟子たちを前にお釈迦様は、その言葉を発した。それは、多くの弟子たちが、
「なぜシャーリープトラ尊者は、あのように智慧があるのか?」
と言う疑問を抱き、
「きっと、生まれつき頭がいいのだ。我々には、あのような智慧を得るのは無理なのだ」
と決めつけて修行を怠り始めたからである。弟子たちの一部に、「修行をしてもダメな者はダメなのだ」という空気が流れ始めていたのである。お釈迦様は、それを懸念したのだ。

「彼は、私の弟子の中で、最も深く物事を考える。たとえば、何か問題が起きた時、多くの者はすぐに答えを出そうとしたり、意見を言おうとしたりするが、シャーリープトラは、何も答えないし、意見を言うそぶりもしない。彼は、ともかく話を聞いている。起きてしまったことの状況を詳細に聞く。そこに人が絡んでいるならば、関係している者たちすべてから話を聞く。まるで聞くことが仕事であるかのように。
そうした時のシャーリープトラは、大変冷静である。偏った聞き方をしない。常に客観的である。人が関係していることならば、その関係者の誰にも肩入れをしない。誰かをひいきするということはないのだ。すべてに対し、平等なのだ。そして、一切の推測を加えない。推測で物事を判断しないのだ。
そのように話を聞いた後、彼はどのように考えるのだろうか。彼は、まず『なぜ、そのようなことが起きたのか』と言うことを考えるのだ。どんなことにでも、起きたことであるならば、それには原因がある。それは、常々私が言っていることである。彼は、実はそれを実践しているに過ぎない。ただ、その原因をとことんまで追及しているのだ。たとえば、このように・・・。
この起きた原因は何か・・・それはこれだ。では、その原因となったことの原因は何か・・・それはこのことだ。では、その原因は?・・・・・彼は、このように、原因の原因、そのまた原因といったように考えていくのだ。そして、『根本的な原因は、これなのだ』と言うところまで原因を探る。これ以上、追求できないところまで考えるのだよ。しかし、彼は、その根本的原因がわかっても、解決策など自分の意見を口にはしない。次に、彼はこのように考えるからだ。
『その根本の原因を解決するためには、何をすればよいか』
ここで、できることとできないことが出てくるであろう。前世からの因縁により、到底避けられないことであるならば、彼は
『それを受け入れる』
と言う答えを出す。何らかの方法により、避けることができるのであれば、その方法を考えるのだ。方法が見つかれば、その方法により、根本原因が生み出した結果をすべて解決できるかどうかをたどっていく。根本原因から、現在の結果までをたどってくるのだよ。そして、考えた解決方法が有効ならば、それを実践するように指導するのだ。ここで、彼は初めて言葉を発するのだよ。
もし、考え付いた解決方法が、根本原因にしか当てはまらない場合は、次の原因の解決策を考える。そうして、次から次へと原因の解決策を考えることにより、現状の結果をよくする方法に至るのだ。彼は、このように物事を考えているのである。だから、彼は、すぐには答えを出さないのだよ。
修行者よ。シャーリープトラは、問題が起きた時、その問題が大きなことであればあるほど、彼は指導をすぐにはしないであろう?。当事者から徹底的に話を聞くだけだ。そのあと、深い瞑想に入るはずである。その瞑想の間、彼は、先ほどのようなことを考えているのだ。そして、考えがまとまったらならば、初めて言葉を口にするのである。
さて、修行者よ、汝らは、どうであるか?。何か問題が生じた時、それに対し、すぐに口を出してしまうであろうか?」
お釈迦様にそう問われ、修行者たちは、考え込んだり、自問自答したり、お互いに「どうかな?」などと聞きあったりしていた。修行者たちは、次第にざわつき始めた。その様子を見て、お釈迦様やシャーリープトラを始め、悟りを得た尊者たちは、微笑んでいた。

お釈迦様が、一瞬、とてもまばゆい光を放った。その光により、ざわついていた修行者たちは、瞬時のうちに黙った。あたりは水を打ったように静まり返ったのだった。
「今、私が発した質問・・・『汝らはどうであろう』という質問・・・それに対し、一人で考え込んだ者、自問自答しながらブツブツ言っていた者、周囲の者と相談しあった者、それぞれに分かれた。多かったのは、周囲の者と相談しあった者だ。そうであろう?」
お釈迦様の言葉に、修行者たちはうなずいた。
「たったあのような質問に対しても、これだけの差が生じるのだ。大きな問題に直面した時、それぞれの反応が異なるのは、当然のことであろう。
そこでだ、汝らの反応をよく考えてみて欲しい。先ほど、私がシャーリープトラの考え方の話をしたが、そのことを参考にして、汝らの反応はどうのような反応が正しかったのか?」
お釈迦様の問いかけに、多くの者たちがポカンとしていた。その中で、一人の者が立ち上がった。
「正しい答えかどうかわかりません。しかし、私は、世尊が説かれたシャーリープトラ尊者の考え方を真似て考えてみました。
世尊が問いかけられて、一人深く瞑想した者が、正しい考え方を実践していると思います。なぜならば、その者は、自分の思考を深く掘り下げたであろうからです」
その答えにお釈迦様はにっこりとほほ笑んで言った。
「その通りである。よいか、私の問いかけに、すぐには言葉を発せず、深く深く考え込んだ者は、深い思考ができるものだ。ついつい言葉を発してしまったが、自問自答していた者は、少しは考えることができる者だ。この者は、言葉を発しながらでないと思考できないのであろう。それを言葉を発せずにできればよいのだね。さて、問題はすぐに周囲の者たちに話しかけた者たちだ。この者たちは・・・もっとも数が多かったのだが・・・一人で思考できない者たちである。
よいか、人には、深く深く考えることができる者がいる。シャーリープトラのように。また、少しは考えることができる者がいる。これは、一般には少々頭がいい、と言われている人々だ。そして、考えることが苦手な者もいるのだ。大きく分ければ、人はそのように分けることができる。
深く物事を考える者は、それでよい。深い思考は、どんな場合でも大切である。
少し考えることができる者は、さらにもう一歩深く考えることを心がけよ。さらに、別の角度から見たらどうであろうかとか、他に原因や解決策はないであろうかとか、別の考え方はないであろうかとか、一つの考えではなく、他方向からの考え方をしてみるのだ。そうすれば、深く考えることが習慣となろう。
さて、物事をあまり深く考えない者。問題は、この者たちである。答えを先に言ってしまえば、汝らが取った行動は正しい。周囲の者に相談する、と言うことはよいことだ。自分は深く考えられない、だから周囲の者に相談してみよう、そう考えての行動であるならば、それは正しい行動であり、正しい判断である」
そこまではにこやかな表情で話をしていたお釈迦様であったが、急に表情が厳しくなった。

「しかし、何も考えず、安易に周囲に相談したのなら、それは正しい判断でも、正しい行動でもない。それは、何も考えていないことと同じである。周囲に相談するならば、その前に、自分でも考えてみるべきであろう。何も考えず、周囲の者に『ねぇ、どうなんだろうね?、どう思う?』などと尋ねるのは、最も愚かな行為であろう。少しは自分で考えてみて、その考えが不安であるならば、周囲の者に相談するべきであろう。自分でも考える努力を少しはすべきなのだ。そうすることにより、思考する、という癖がついてくるのである。
が、汝ら、周囲に相談した者は、まだよいのだ。最も愚かな者は、深い思考をしているふりをして、その実何も考えていない者である。愚かであるのに、その愚かさを自覚せず、考えているふりをしている者、それが最も罪悪である。そのような者は、進歩することがないであろう。
よいか、自分は深く考えることができる者かどうか、それをまず自覚せよ。そして、深く考えることができるならば、それを怠らず実践するがよい。まだまだだと思う者は、深く考えるように努力せよ。
そして、深く考えることが苦手な者は、それを素直に認め、考えることを努力しながら、その考えが正しいかどうかを周囲にいる、深く考えることができる者に相談するがよい。それを繰り返すうちに、次第に考えることがどういうことか、理解できるようになるであろう。
よいか、そのように訓練することにより、考えることはできるようになるのだ。初めから、考えることを放棄してはならない。頭の良さは、生まれつきではない、怠らぬ努力が大切なのだ。あきらめない心が大切なのだよ」
そういうと、お釈迦様は、にっこりほほ笑んだのである。修行者たちは、考える努力を怠らないことを誓い合ったのだった。


「口にする前に百回考えろ」
若いころによくそう言われました。
「簡単に答えるものではない。よく考えてからものを言え」
と。

自分ではよく考えているつもりなのですよ。なので、そのように言われると、ついつい不貞腐れてしまいました。面白くないんですね。
しかし、実際はどうかと言えば、自分の考えは、やはり足りなかったのです。もう一歩も二歩も、あるいは、別の方向から考えてみれば、別の答えが出てくることがよくあったのです。
深く考えることは難しいことだと思います。
あらゆる方向から眺めてみる、原因を深く深く追求していく、別の方法・別の切り口はないか試行錯誤してみる・・・・。
口では簡単には言えますが、それを実践するとなるとすごく難しいことでしょう。なかなか簡単にできることではありません。

しかし、深く考えるということを実行していかなければ、それは身には付きません。いつまでたっても、深く考えることができない者になってしまいます。少しでも深く考えることができるようになるには、失敗を繰り返しながら、痛い目に遭いながら、前に進むしかないのです。痛い目に遭ったり、失敗を繰り返したくないのなら、経験者や深く物事を考えることができる者、あるいは専門家に相談することでしょう。
大切なのは、自覚です。自分は深く物事を考えるほうではない、という自覚ですね。その自覚がないと、
「口にする前に百回考えろ、よく考えてからモノを言え」
などと注意されて、逆ギレすることになるのです。それこそ、深く考えられない証拠なんですけどね。愚かなものです。

自分は深く物事を考えられるかどうか・・・・。
もし、考えられない方に入るならば、あまり簡単に言葉を発しない方が無難でしょう。そして、簡単に結果を出す前に、あるいは悩んでしまう前に、自分よりは考えることができる人に相談してみましょう。そのほうが、痛い目には遭わないと思いますから。
合掌。


第144回
お互いに自分の意見にこだわり主張し合えば、
争い事となるのは当然である。
お互いの意見をよく聞き、譲歩し合えば争い事は起きない。
マガダ国の首都ラージャグリハの街は、大きな商店が多く、通りも広いので各地から人が集まっていた。しかし、通りが広いのは、街の中心にある道や、王宮に向かう道だけで、裏通りに入ると、それほど広い道ではなかった。人が二人並んで歩けば通り抜ける隙間がないほどの道もあった。街自体が古いので、細い道も多かったのである。
その日は、祭りが近かったため、街はいつもよりにぎわっていた。大きな荷車を曳きながら走る者もいた。
「ちっ、表通りは混雑しているなぁ。全く、人人人であふれかえって荷車も通れやしねぇ。困ったなぁ、これじゃあ、約束の時間までに荷物を届けられないや。どうしようか・・・」
その男は、荷車にいっぱい荷物を載せて、その荷車を曳いていたが、大勢の人に行く手を阻まれて身動きが取れなくなってしまっていた。
「あぁ、このまま突っ走るわけにもいかないし・・・」
ふと横を見ると、小道があった。
「おぉ、あの道なら何とかこの荷車でも通れそうだな。いくら狭い道が多いラージャグリハでも、荷車くらいは通れるからな。確か、あの道は・・・あぁ、大丈夫だ。向こうの商店街に抜けられる。よし、迂回するか」
男は、中心の通りから脇道へと荷車を曳いて入って行った。その横道は、荷車がギリギリ通れる幅しかなかった。
「ギリギリだなぁ。これじゃあ、走るわけにはいかないかもしれないが・・・。まあ、まっすぐの道のところは走るか。曲がっているところは、ゆっくり行こう。しかし、人でも飛び出して来たら・・・。神様、無事にこの道を抜けられますように」
男は、そう祈ると、幅の狭い道を荷車を曳いて走り出したのだった。

まっすぐのところは見通しもよく順調に走ることができた。その道に横から入り込もうとする者もいなかった。その先は、道がやや左に曲がっていた。見通しが悪かったが、男は
「まあ、みんな大通りに行っているだろう。こっちの道は誰も通らないさ。このまま走ってしまえ」
と走る速度を緩めることなく、左に曲がった道を突き進んでしまったのである。
「あっ、危ない!。あぁぁぁぁ」
男は足を踏ん張った。なんと、目の前に荷物をたくさん積んだ荷車が飛び出してきたのである。
「あぁぁぁ」
と叫んでいる間に、男の荷車は左右の家の壁にぶつかってしまった。そのため、荷物を縛ってあった紐が擦り切れてしまったのだった。あっという間に男の荷車に積んであった荷物は、道に散乱してしまった。
飛び出してきた荷車を曳いていた男は男で、びっくりしてその場で立ち止ってしまった。
「うわ、ぶつかる。来るな、こっちに来るな」
しかし、男は飛び出してきた荷車にぶつかることはなく、ギリギリのところで止まった。
「な、なんなんだ、くそっ!。なんで飛び出してきやがる!」
男はそう叫んだ。すると、飛び出してきた荷車を引いていた男が言った。
「なに言ってるんだ!。飛び出したわけじゃないぞ。俺はな、よく見てからこの道に入ってきたんだよ。こんな細い道を突っ走ってきたお前が悪いんだろ。俺は関係ないからな。あばよ」
その男は、荷車同士がぶつからなかったことを幸いに、さっさと先へ進もうとした。
「おい、ちょっと待てよ!。お前のせいで、こっちの荷物はバラバラだ。どうしてくれるんだ!」
「どうしたこうしたも、そんなの知るかい。俺には関係ないね」
「なんだと、この野郎!」
荷物が散乱してしまったほうの男が、もう一方の男に掴み掛って行った。
「い、痛いな、何しやがる」
「お前のせいで荷物が落ちたんだ。拾って積み直せ!」
「そんなこと知るか。お前の荷物なんだろ。お前がやればいい」
「なんだとこの野郎。急に飛び出してきたくせに。お前のせいだろうが」
「こんな狭い道を走ったお前が悪い。俺は関係ない」
「俺はな、急いでいるんだよ。早くこの荷物を届けなきゃいけないんだ」
「うるせー、俺だって急いでいるんだ」
とうとう、二人の男は、取っ組み合いのけんかを始めてしまったのだった。

二人が言い争う声を聞いて、小道の左右の家の中から人が大勢出てきた。
「どうした、どうした?。ケンカか?」
などといって、二人の男を取り巻いていたが、そのうちに
「あー、うちの壁が壊れている!。誰だ?、うちの壁にぶつかったのは!」
と言う声があちこちから聞こえてきた。そしてその声は、
「おい、お前らのうちどっちがうちの壁にぶつかったんだ?」
という声に変わった。取っ組み合いをしていた男たちは、その声により、ようやく周囲に人だかりができていることを知った。
「おい、どっちなんだ。うちの壁を壊したのは」
「うちの壁もだ。壊れているぞ」
「たぶん、この積み荷が散乱している方の荷車を曳いていたやつだな」
「お前か?、それともお前か?」
「どっちでもいい、弁償しろ!」
そう迫られたケンカをしていた男たちは、お互いに
「こいつが悪い!」
と主張したのだった。

街の人たちは、二人の男から事情を聞いた。
「こいつが飛び出してきたから、あわてて止まろうとしたんだ。そしたら、荷車が揺れて左右の壁にぶつかったんだ。お陰で荷物を縛ってあった紐が切れてしまった。悪いのは、こんな細い道に急に飛び出してきたこいつが悪いんだ」
男は、もう一人の男を指さしてそう言った。
「何言ってるんだ。おいおい、みんなよく聞いてくれよ。俺はな、大通りからこの道に入るときにちゃんと左右を確認したんだ。でな、誰も来ていないから、ゆっくりとこの道に入ってきた。この道は狭いから、危ないと思ってゆっくりと入ってきたんだ。そしたら、こいつがいきなり走ってきてぶつかりそうになったんだ。悪いのはこいつだ。俺は何にも悪くない」
その男は、余裕の表情でそう言ったのだった。
「嘘だね。左右を確認しただって?。俺はな、お前が急に飛び出してきたのを見ているんだぞ。それであわてて止まろうとしたんだ。大通りからこっちの道に入るときに、顔だけ出してりゃあ、俺の姿が見えたはずだ。こいつは、確認なんかしてなかった」
「いや、確認した」、「してない」・・・・。
男たちは、どちらも一歩も譲らなかった。そのうちにまた取っ組み合いのけんかをしそうになったのだった。
「これじゃあ、らちがあかない。このままじゃ、日が暮れてしまう。どうすりゃあいいんだ」
「仕方がない、お釈迦様の裁定を仰ごうじゃないか。ちょうどここは、竹林精舎にも近い。みんなで行こう」
街の人たちは、お互いの主張を変えようとしない男たちにあきれ返り、その男たちをお釈迦様の前に連れて行くことにしたのだった。お釈迦様の神通力にかかれば、どちらが嘘を言ってるのかたちまちにわかってしまうだろうと考えたのだ。

お釈迦様の前に二人の男は座った。お釈迦様は事情を説明するよう、男たちに言った。男たちは、街の人に言ったことをお釈迦様の前でも繰り返したのだった。
「このように、お互いに譲ろうとしないのです。お釈迦様、何とかしてください」
街の人たちは、お釈迦様にそう頼んだのであった。
お釈迦様は、しばらく目を閉じていたが、ゆっくりと目を開くと、二人の男を見つめて言った。
「愚かなものよ。そのように、相手の意見に耳を傾けようとせず、自分だけの意見を主張していれば、争い事が起きるのは当然であろう。少しは、相手の意見にも耳を傾けたらどうなのだ。そうすれば、争うことなどないであろうに」
お釈迦様にそう言われ、男たちは、しゅんとして頭を垂れたのだった。
「よいか、お互いに自己主張だけしていると、争うのは当然なのだ。それは、こうした小さな争いだけでなく、国同士の争いも同じだ。お互い自分勝手な主張だけを繰り返せば、その先にあるのは争いしかないであろう。その間に、お互いの荷車に乗っていた荷物は、どうなる?。国や街、村同士の争いなら、人々はどうなる?。双方が争っている間に、荷車の荷物は用がなくなり、汝らの給金もなくなるどころか、雇い主に大目玉をくらうだろう。さらには、もう仕事を取れないかもしれない。ちょっとした言い争いで大損をするのは誰なのだ?。
国や街、村どうしのでの争いもそうだ。双方が争っている間に人々は疲れ果て、戦地に人がとられるために田畑は荒れ、農作物ができなくなり、国や街、村は貧しくなっていく。損をしているのは誰だ?。
よく考えなさい。双方が自分の主張を曲げず、争っている間に、お互いに損をしているのだよ。大きな損害を抱えているのだ。
ところが、相手の意見をよく聞き、お互いに譲歩しあい、お互いに非を認め合ったならばどうであろうか?。汝ら、もしお互いに非を認め合っていたらならば、今頃はどうなっていた?」
お釈迦様は、うなだれている男たちにそう尋ねた。男らは、小声で
「はぁ、今頃は雇い主の方に荷物を届けて・・・」
「給金をもらっております」
「そうであろう。しかし、現実はどうだ?。汝らは、私に説教をくらっている。給金どころか、私の説教では、腹もふくれない。愚かしいとは思わんか?」
お釈迦様の言葉に、男たちは益々うなだれたのであった。

「さぁ、これで、汝らがやらねばならないことが分かったであろう。わかったならば、さっさと戻ってなすべきことをなしなさい」
お釈迦様の言葉に、うなだれていた男たちは、もとの小道へ戻って行ったのであった。そして、お互いに謝りあい、散乱した荷物を二人で協力して荷車に乗せたのであった。また、壊してしまった壁は、後日二人で修繕することに決まったのだった。街の人たちは、
「初めからそうすればよかったものを。あの者たちは、争った分だけ、給金を引かれるに違いない」
「それじゃあ、儲けはほとんどないね。むしろ、損をするくらいだ」
「争う前に、譲り合うことだねぇ。お釈迦様の言う通りだ」
と話し合ったのだった。


今、日本は中国や韓国と領土の問題を抱えています(ロシアとも抱えていますが・・・)。お互いに自己主張を譲らず、にらみ合いのような状態になっています。いや、日本側はそれほど強固な態度をとっているわけではないのですが、中国に至っては、どうもキナ臭い感じまで漂ってきています。あの国は、どうもいけませんなぁ。
他の地域でもあの国は、とんでもない主張をしているようでして。自分勝手なこと甚だしい、と世界から見らているようですね。自国の管理はしっかりできていないのに、他国への干渉や主張は、ものすごく勝手だと思われいるようです。身勝手国家で通そうというのでしょうかねぇ。

国どうしの大きな問題だけではありません。お互いに自己主張だけして、双方の意見を聞こうとせず、言い争いになってしまうことは、身近にも多々あることですね。いや、多々あるどころか、争い事やケンカの原因は、お互いの意見を聞かない、意見を聞かないから誤解が生じた、というところから始まっていることがほとんどでしょう。自分の主張を決して曲げず、相手の意見に耳を傾けないから、話がこじれるのです。

お互いの意見が譲歩できることなのか、受け入れらることなのか、理不尽なことなのか、誤解なのか・・・と言ったことは、お互いに双方の意見をよく聞かないことには判断できないでしょう。お互いに怒り狂って、お互いの話に耳を傾けないでいては、争いごとに発展するのは当然なのです。争いごとに発展してしまえば、解決できることも解決できなくなってしまいますね。しかも、お互いに傷ついたり、時間がかかったり、費用が掛かったりして、損をすることばかりが増えてきます。そう、争い事は、損しか生まないのです。

お互いに意見を聞き入れ、よく話し合って、譲り合えるところは譲り合い、妥協できることは妥協すれば、争うことなく、話は進んでいきます。時間のロスもありませんし、何よりも疲れません。
初めからケンカ腰ではなく、お互いの意見を聞きながら、損をしない方法をお互いに考えたほうが賢明だと思います。争うよりも譲り合いの方が、お互い損はしません。貴重な時間をつまらない争いごとに費やすのは、やはり愚か者でしょう。
譲り合いの中からは、争い事は生まれません。これを忘れないようにしたいですね。
合掌。


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