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第206回
できないことをできると言ってはいけない。
それは周囲が迷惑するだけだ。
見栄を張らず、素直に「できません」と言えばいいのだ。

「君は、本当にこの店を切り回すことができるんだね?」
そう問われた若者は、
「はい、できます。以前にもやっていましたから」
と明るくはっきり答えた。
「じゃあ、この店の切り盛りを任せいいんだね?」
「はい、任せてください。ちゃんと店をやっていきますから」
若者の言葉に、店の主は
「じゃあ、君に任せよう。しっかり頼むよ」
と言った。その店は、雑貨屋である。台所用品も売れば、掃除道具も売っている。生活用品もある。何でも売っている雑貨屋だ。その店の切り盛りを店の主は、その若者・・・サハジャ・・・に託したのだった。主は、品物の仕入れに専念したかったのだ。

サハジャが雑貨屋の店に出た初日は、調子よく品物を売りさばいていた。その様子を見ていた主もホッとしたのだった。しかし、売り上げの計算をすると、売った品物と勘定が合わないことが分かった。主はサハジャにそのことを問うと、
「あ〜、ひょっとすると盗んでいった奴がいたかもしれません。怪しい人がいたんですよね・・・」
と答えた。主は、それを聞いて、そういう人物にはよく注意せよ、と言って勘定が合わなかったことをそれ以上は問わなかった。
翌日、サハジャは、張り切って店に出た。しかし、初日はうまく対応できたのに、その日はお客ともめることが多かったのだ。主はその様子をじっくり見ていた。どうやら、サハジャは、客が3人以上来ると、慌てふためいて何もできなくなるのだ。客が
「この商品だが、これはどう使うのだ?」
と聞いているとき、別の客が
「ちょっと、ちょっとこれなんだけど・・・」
と声をかけると、少しもたつくのだ。そこへ、もう一人の客が声をかけたなら、サハジャはその場で固まってしまい、何もできなくなってしまうのだ。次第に客が怒り始めると、
「あ〜、うるさい。そんなに言わなくてもいいだろ!」
と怒鳴ってしまったのだった。その結果、客とケンカが始まってしまった。慌てて主は、裏から出てきた。
「申し訳ございません。この者は、まだ雇ったばかりで不慣れなもので・・・。この商品ですね。これはこう使います。あ、それですね。ありがとうございます。あー、ちょっとお待ちくださいね。すぐに用意します・・・」
と、さっさと複数の客の対応をこなした。そして、店の客がいなくなったころを見計らって、主はサハジャに問いかけた。
「おい、お前は、客がいっぱい来ても大丈夫だ、と言ったよな。できます、と言ったよな。経験もあるといった。それなのに、今日の対応はどうなんだ?。どういうことだ」
サハジャは、
「えーっと、その、うまくやっているつもりなんですが、客がうるさくて・・・」
「ウソを言うな。私は、裏からずっと様子を見ていたのだ。お前、経験あると言っていたが、それもウソだろ。お前、客のあしらいなんて、できないんじゃないか。そうだろ、正直に言え。今なら、正直に言えば、許してやる」
主にそう言われて、サハジャは頭を下げた。
「すみません。つい、見栄を張って、何でもできると言ってしまいました。すみません」
「やはりな。はぁ、お前さんの口調につい騙されてしまったわい。もういい。明日から来なくていいからな。ほれ、2日分の給料だ。まあ、お前にも合った仕事があるだろう。それを探すことだな」
主は、そう言ってサハジャを帰したのだった。

その翌日、サハジャは仕事探しに出かけた。サハジャは、
「何でもやります。できないことはないです」
などと触れ回った。そして、塗装屋で仕事をすることになった。しかし、そこも2日目には
「お前、できるといったじゃないか。何だこの塗り方は。全然ど素人じゃないか。お前なんかクビだ。とっとと出ていけ。全くぅ、これ全部塗りなおしだ」
「あの、今日の給金は?」
「バカヤロウ、あるわけないだろ。どれだけこっちが損害を受けたと思っているんだ。とっとと消え失せろ!」
と怒鳴られる始末だった。
その後も、飲食店や居酒屋、大工、修理屋などをやったのだが、どこもすぐにクビになった。しかも、どの仕事も
「いや、できますよ、俺。やったことがありますから」
などと触れ込んで雇われたものばかりだった。しかし、どれもできるわけがなく、結局、すぐにクビになってしまったのだった。

「あぁ。またクビかよ・・・。仕方がないな。できないんだもんな・・・。なんで、こんなにできないんだろうか」
サハジャが河原で、河に向かって石を投げながらそうつぶやいたとき、どこからか声が聞こえて来た。
「当たり前だ、お前は何も学んでいないからな。初めから、『できません。でも、できるようになるまで努力します。見習いとして雇ってください』と素直に言わないからだ。見栄を張って、『できます』などと言うからだ」
「だ、誰だ・・・。誰か知らないけど、できますって言わないと雇ってもらえないだろ。だから、できます、って言うんだよ」
「それが愚かだというのだ。できないことをできると言っても、すぐにバレてしまうであろう。で、そのあげくクビになるのだ。そんなことを繰り返して何になる?。それよりも、一からコツコツ学んで、努力して、いろいろと覚えていくのだ。それがわからぬ者は、愚かものであろう」
「う、そりゃそうかもしれないけど・・・。だけど・・・」
「コツコツ、努力をしたくないのだろ?。そんな者は、仕事をする資格などないのだ。乞食でもするがよい。できないことを素直に言って、できるようになるまで努力をする。それが生きる道なのだよ。わかるかサハジャ?」
そう言われたサハジャは、頭を抱え唸っていた。
「わかってはいるんだけど・・・。できないって言うのは、格好悪いし・・・。自分がダメなヤツだと思われるし・・・。あぁ、どうすりゃいいんだ」
彼は、一晩中、河原でもがいていた。

翌朝、サハジャは
「あぁ、そうか。できないことはできないと言ったほうが楽か・・・。できないことをできると言ってしまえば、負担は大きいよな。それに、みんなに迷惑かけるし・・・。あぁ、俺はバカだった。初めから、できません、教えてください、と言っておけばよかったのだ・・・。見栄を張って損していたなぁ・・・。それにしても、あの声はいったい誰だったのだろう?。おかげで目が覚めた。ありがたかった・・・」
と独り言を言いながら河原から街に向かって行った。そのサハジャに
「ようやく分かったようだな。これからは、できないことをできると言わないようにしなさい」
と声をかけた者がいた。それは修行僧であったが、ひときわ輝いていた。
「あっ、あっ、昨日の声の人・・・。あっ、お釈迦様だったんですね。ありがとうございます。ようやく分かりました。俺がバカだったって。もう二度と、できないことをできます、なんて言いません。できないことは、できない、と素直に言います。で、教えてください、とも言えると思います。頑張ってできるようになります」
とサハジャは、頭を下げながらそう言った。お釈迦様は、
「それでいい。それでいいのだ」
と優しく声をかけたのだった。


できないことを「できます」と断言するような人はいないだろう、と皆さんはそう思うでしょ。でも意外にこういう話は結構あるんですよ。お坊さんでも、「できます」と言って、ロクにお経が読めないって言う話も聞きますからね。できないのに、「できる」と言われて信じてしまうととんでもない目に遭いますな。

たまに聞く話ですが、正社員やパートの面接に来た人が、
「あぁ、そういう仕事でしたら、できます。大丈夫です」
と言うのだそうです。で、いかにもできそうな雰囲気なんだそうです。それで雇用するのですが、実際現場に立つと、何もできないことがあるのだそうです。
「できるって言ったじゃないですか」
と雇った側は責めますが、当の本人は
「えっ?頑張ってやっていますけど」
と言う顔をするのだそうで。法律上、簡単にクビにできないので、雇った側は困りますな。

できないのに何とか働き口を得たいがため、「できます」と言ってしまう気持ちは、まあ、わからないでもありません。当の本人は、
「現場に出てから頑張ればなんとかなる」
と思っているかもしれません。そこに悪気はないのでしょう、きっと。でも、できないことを「できます」と言うのは、やはりいけないと思いますね。
できないのに「できる」といって雇われたとします。でも、実際現場に立つと、当然できませんよね。そうなると、困るのは周囲の人たちなのです。周囲に思いっきり迷惑をかけてしまうのですよ。迷惑なのです、できないくせに、できるなどと言って現場に来られたら。
どんな職業であれ、できないものはできないと言ったほうがいいでしょう。見栄をはって、「できますよ〜」なんて言っても、結局、メッキは簡単にはがれてしまうのです。それは惨めなことですよね。

できないことは「できません」と素直に言いましょう。そのほうが気が楽です。変なプレッシャーもないでしょう。できないことがある、というのは、恥ずかしいことではありません。何も見栄を張る必要などないのです。下手にできないことをできるなんて言えば、必ずや周囲に迷惑をかけることになります。
誰だって、できないことはたくさんあります。素直に「あっ、それはできません」と言えるようになったほうがいいですよね。
合掌。


第207回
なぜ怒鳴るのか?。なぜ、怒りを顕わにするのか。
怒鳴っても何も解決できないのだ。。
冷静になって話し合うのが大人であろう。
その日、サンジャは仕事も終わり、気分良くいつもの食堂に入った。彼は、気分がいい時はいつもその店に寄って酒を飲み、食事をするのだった。
その日は、サンジャのお気に入りの店に新しい店員が入っていた。
「ほう、新人さんか。ま、頑張れよ」
と気さくにサンジャは声をかけた。その新人の様子を見て、
「ふん、まだまだだな。危なっかしいところもあるが、そのうち使えるようになりそうだな」
と酒を飲みながら独り言を言っていた。
結構、酒を飲んだがサンジャはまだそれほど酔ってはいなかった。歩いて帰らなければいけないので、自分で酒の量を調整していたのだ。
「もう一杯で最後にするか」
と言ってサンジャは、その日の最後の酒を頼んだ。それを持ってきたのは新入りの店員だった。その新入りの店員は、初めての仕事に結構疲れていた。うまく切り回しもできないし、あちこちから声がかかるので焦りもあったのだろう。そのせいか、サンジャのもとに酒を持って行ったとき、つまづいてちょっと転びかけてしまったのだ。そのため、お酒がサンジャにかかってしまった。
「おい、お前、何やっているんだ。なんでそんなとこでつまづくんだ!。見てみろ、俺は酒でびっしょりだ。どうしてくれるんだ」
サンジャはその店では珍しく大声で怒鳴ってしまったのだ。
「てめぇ、何やってるんだ。足でも悪いのか!。どうしてくれるんだ。あぁ、何とか言えよ!」
大声で怒鳴るサンジャに、新入りの店員はびっくりして何と言っていいかわからず、ただただオロオロするばかりだった。その時、
「わざとやったわけじゃないだから、許してやれよサンジャ」
と、サンジャの知り合いの男がなだめに入った。
「なんど、お前、俺がどうなっているのかわかって言っているのか?。俺は酒でびしょぬれだぞ。身体の中までしみ込んできているんだぞ。冷たくってしょうがない。これで風邪でもひいて、明日の仕事ができなくなったらどうするんだ。おい、お前、そうなったら明日の日当分、俺に払えよ!」
サンジャは、顔を真っ赤にして怒鳴りまくったのだ。店員をかばった男も黙り込んでしまった。
「だいたい、こんな新人に店を任す店主が悪い。おい、店主、出て来い!。いるんだろ、こら!」
そう怒鳴ると、サンジャは店の奥へと入ろうとした。そこに店主が
「申し訳ございません。何か問題でも?」
と言ったもんだから、サンジャの怒りは頂点に達してしまった。
「お前、知っててそう言ってるんだろう。おい、表に出ろ、コイツ」
サンジャは、店主の腕を引っ張り、外に連れ出そうとした。もう誰も、手や口を出そうという者はいなかった。

サンジャは、普段はおとなしいのだが、何かのきっかけで怒鳴ることが度々あった。たいていは、長く待たされたとか、相手が何か粗相したとか、そう言う場合が多かった。しかし、一度怒鳴り始めると、相手が頭を地につけて謝っても許すことはなく、罵声を浴びせ続けるのだ。それは、短時間ではなく、終わりがないと思うほど怒鳴り続けるのだった。たいていは、ある程度時間がたったときに、周囲の誰かが仲裁に入り、サンジャの納得のいくようにしてやるのだった。こうしたことがちょくちょくあったので、街の人々は「怒鳴りのサンジャ」と陰で言っていたのだった。

サンジャは、店主を外に連れ出した。
「おい、どういうことなんだ。俺はな、酒を浴びせかけられたんだぞ。それなのに、あの若造は、謝りもしない。おい、どうなっているんだ。どうしてくれるんだ」
その怒鳴り声は、町中に響くほどの大声だった。
「何とか言えよ、このヤロウ」
店主は、頭を地につけ「申し訳ございません。申し訳ございません。今日のお代は結構です。どうかそれでご勘弁を」と泣きながら言っていた。しかし、サンジャの耳には届いていないようだった。なので、サンジャは怒鳴り続けていたのだ。その時だった。
「あぁ、うるさいな。うるさくて眠ることができない。このうるささのもとは、汝かサンジャ」
と厳しく聞こえる声がしたのだった。
「何だてめぇは。俺の声に文句があるのか!」
「何かあると、すぐに怒鳴る者、相手が謝っているのにいつまでも怒鳴り続けている者、それは愚かものであろう。いい加減にせぬか、サンジャ。少しは落ち着かないか。怒鳴っているばかりでは、何も解決せぬぞ。少しは冷静になるがいい」
そう言うと、その声の主はサンジャの頭から水をかけたのだった。それはとても冷たい水だった。
「どうじゃ、落ち着いたか。少しは頭が冷えたか?。どうだ、サンジャ」
そう問われたサンジャは、「あ、あ、うぅぅ・・・。はぁ・・・・」と唸るだけであった。

「サンジャ、よく聞け。汝は日ごろからよく怒鳴るであろう?。どれ、返事をしてみぬか」
その厳しい声に、さすがのサンジャも怒鳴れなかったのか、
「は、はい、ついつい怒鳴ってしまうことがよくあります」
「そうだな。で、怒鳴ってよかったことはあるのか?」
「いや、まあ、怒鳴り終わると、すっきりした気分にはなるのですが・・・。あぁ、でも疲れます。それに何だか・・・・」
「虚しいか?」
「は、はい。虚しいと思うこともあります。陰でみんなが『怒鳴りのサンジャ』と言って、俺を避けていることも知っています。なので・・・」
「寂しいか」
「はい。寂しいです。俺は一人ですから」
「いいか、サンジャ。怒鳴っても何も解決はしないだろう。なのに、なぜ怒鳴るのか?。なぜ、怒りを顕わにするのか。そんなことで、その怒りが鎮まるのか?。怒りのもとである出来事が解決するのか?。いいか、サンジャ。怒鳴った時点で、相手は汝の話を聞いていない。相手は、恐怖でこの場立ち去りたい、と思うだけだ。そんなことでは、何も解決されないだろう。ただ、汝が怒鳴り続けるだけで終わってしまうのだ。それをされた相手も、『早く終わってくれ、あぁ終わった、助かった』としか思わないであろう。それは解決ではない。よいか、解決をするためには、怒鳴るのではなく、冷静になって話し合うのだ。それが、大人であろう。怒鳴って怒るのは、子供なのだ。サンジャ、大人になりなさい。いい年なのだから、大人になって、怒鳴るのを止めなさい。そうすれば、町の人を汝を受け入れてくれる。寂しさもなくなるであろう。わかったかね?」
「は、はい、わかりました。今後、怒鳴らないように気を付けます。もし怒鳴りたくなったら・・・」
「頭でも、身体でも、足でもいい、自分で叩くことだ。『怒鳴るな怒鳴るな』と唱えながら」
「はい、わかりました。えっと・・・・お釈迦様ですよね?」
「そうだ。汝の怒鳴り声がうるさく眠れなかったので、収めに来たのだ。もう夜も遅い。汝の怒鳴り声は、近所の迷惑だったからな。祇園精舎まで汝の声が聞こえたのだ。以後、気を付けるようにしなさい」
厳しい声でそういうと、お釈迦様はさっさとその場を立ち去った。その後姿を見て、サンジャや店主、お客の男たち、新入りの店員は、皆手を合わせたのだった。

その後、サンジャは、ほとんど怒鳴らくなった。いつも、「怒鳴るな怒鳴るな」とつぶやている姿が見られた。もう怒鳴りのサンジャではなくなっていたのだった。


よくお店・・・ハンバーガ屋さんとかファミレスとか・・・で、怒鳴っている人がいるという話を耳にします。そういえば、郵便局で、大声で怒鳴っているご老人を見たことがあります。たいてい、大声で怒鳴るのは男性で、しかも高齢の方が多いようですな。ま、たまに、若者のオラオラ(ちょっとツッパッている感じの人をオラオラの人とか、オラついたヤツとかいうそうです)の人が、店員などに怒鳴っていることもありますな。まあ、みっともないですよね。たいていは、些細なことで怒鳴っているのでしょうからね。

ああいう人たちは、大声で怒鳴ればなんとかなると思っているのでしょうな。何か、自分だけのものがもらえるとか、優遇されるとか、そうしたものが欲しいのでしょう。まあそうなると、餓鬼と言えば餓鬼ですな。子供のように怒鳴って怒って、駄々をこねて、何かいいものをもらおう・・・・ホント子供ですね。

店の店員さんへの怒鳴り声は、聞いているほうは嫌なものです。、怒っているわけではなく、上から目線で命令口調で怒鳴るという場合もありますな。これも「何を威張っているんだろう」と嫌な気分になりますね。神田だったと思いますが、ある居酒屋では命令口調で怒鳴ってビールを注文すると、そのビール代は高くなるそうですな。優しい口調で注文をすれば、通常の価格となるそうです。その店には、張り紙がしてあって「お客様は神様ではありません。お客様はお客様です」と書いてあるそうです。
そう、あの時代がいけないんです。「お客様は神様です」なんてことを言ったから、その世代に育った人たちは、「お客様は神様なんだぞ」と威張りだしたのでしょう。自分はお客だから神と同じだ、ということですな。バカバカしいにもほどがありますな。人間のくせに神様だぞ、と思う方がおかしいのです。自分は人間、しかもそうたいして立派なものではない、と思っていれば、怒鳴ることなんてないのですけどね。

どうも、人は威張りたがるものですね。相手が弱い立場だと、思いきり怒鳴りますな。単なる弱い者いじめなんですけどね。それで、徳をしようとする。その根性がせこいですな。もし、相手に粗相をされ、相手が謝っているのなら、「以後、気を付けようね。失敗は誰にでもあるから」と言ってあげれば、「あぁ、この人はなんて優しい、立派な人なんだろう」と思われますよね。
怒鳴って嫌われるか、許して尊敬されるか。あなたは、どちらを選びますか?。
合掌。


第208回
一年の区切りだ。
一年を振り返って反省するは当然であろう。
そして新たな目標を立てるのである。
仏教教団では、年が替わろうが、年の瀬だろうが、いつもと変わらず修行に励むのが常だった。日ごろ、お釈迦様も、
「月が替わろうと、年が替わろうと、日は続いている。どこで区切ろうが同じだ。一年の終わりだ、一年の始まりだと言って、人々は様々な行事を行うが、それは愚かなことであろう。一年の終わりだろうが、一年の始まりだろうが、日は続いているのだから、毎日の日常と変わらなく過ごすほうがよいのだ」
と年の瀬になると、浮足立つ弟子たちを戒めたのだった。なので、修行者にとっては、年の瀬も、年の始まりも無関係だったのである。

とある年の瀬のこと、二人の弟子が口論していた。
「なぜ、一年の終わりに、この年の反省をしてはいけないのだ?」
そう問うたのは、プーマサリタという中年の修行者であった。
「世尊もこの間の布薩のときにおっしゃったじゃないか。一年が終わろうが始まろうが、それは我々には関係ないことだ。世間に托鉢に出て、年の瀬のあわただしさに迷わされてはならぬ、また、世間の祭事に参加してはならぬ、と言っていたじゃないか」
そう答えたのは、マンダという男だった。マンダは、プーマサリタよりやや年上だった。
「いや、私が言っているのはそう言うことではない。当然、世尊のおっしゃったことはわかっているさ。私は、世間の浮足立った慌ただしさには関心は無いし、世間の人々が行う、新年の行事にも興味はない。私が言っているのは、この年も終わるのだから、一年の総反省をして、新たに目標を立てようと、そう言っているだけだ」
「はん、くだらん。そう言うこだわりがいけないのだと思うぞ。一年の終わりだろうが、何だろうが、反省はいつでもすべきことだ。改めてすべきことでもあるまい」
「マンダ、そう言うお前は反省したことなどないではないか」
「反省をしたことがない?、そりゃそうだ。。俺は反省するようなことは何一つしていないからな」
「ウソをつくなよ。前回の布薩の時もそうだったが、お前は何一つ悪いことをしていないし、戒律違反はしていません、なんてしれっとした顔をして言っていたが、私は知っているぞ」
「な、何を知っているのだ」
「お前は、若い修行僧を脅して便所の掃除をやらせていただろ。お前の当番なのに、お前はあの若い修行僧に便所の掃除を押し付けて、どこかへフラフラと出かけたじゃないか」
「違う、違う、それは誤解だ。あれは、あの若い修行僧が便所掃除をさせて欲しい、これも修行だから、と言ったから代わってやったんだ」
「ほらまたウソだ。私はその若い僧に泣きつかれたのだよ。マンダさんの組から外れるのにはどうすればいいでしょうか?とな。それで詳しく事情を聞いたところ、日ごろからマンダに掃除や片付けなどを押し付けられる、逆らうと殴られる、と言っていたのだよ。それは、前回の布薩の前日だった。なのにお前は、何一つ反省すべきことはない、と言ったんだよ。私はそのことで腹が立って仕方がないのだ。だから、あえて、一年の終わりだから、この一年の反省をするのもいいのではないか、と言ったのだよ」
「ふん、そんなことは大きなお世話だ。もし、それが本当なら、なぜお前は世尊に報告しないのだ?」
「マンダ、そんなこともわからないのか。私は、お前に反省する機会を与えたのだ。でも、それも虚しいことだった。仕方がないから、これから世尊のところへ行って報告するよ」
「おい、ちょっと待てよ。そんなこと報告することはないだろ。そもそもあの若い修行僧がいけないんだ」
そう言ってプーマサリタがお釈迦様のもとに行こうとするのをマンダは執拗に止めた。挙句の果てマンダは、
「行くなって言っているだろうが!」
と怒鳴り、プーマサリタを突き飛ばしたのだった。

「何をやっているのですか?」
そこに現れたのは、お釈迦様だった。
「たまたま通りかかったのだが、汝ら、何を揉めているのだ。さぁ、言いなさい」
お釈迦様にそう言われたのだが、マンダは立ったまま下を向いて黙り込んだ。プーマサリタは、すぐにお釈迦様を礼拝し、片膝をついて座り、お釈迦様に訴えた。
「マンダは、戒律違反を犯しながら、反省をしません。そこで私は、一年の終わりだし、この一年を振り返って反省をするのもいい、と言ったんです。そしたら、マンダは、一年の区切りなんて意味がない、世尊もそう言っていたと誤魔化すんです」
「マンダよ、汝は本当に反省すべきことはないのか?。戒律違反はしていないのか?」
お釈迦様にそう問われても、マンダは立ったまま下を向いて黙っていた。
「マンダよ、何か答えたらどうだ?。答えられないということは、戒律違反をしていたのだな?」
お釈迦様の言葉に、マンダはこっくりとうなずいた。
「精舎の修行僧を集めよ」
お釈迦様がそう言うと、プーマサリタが「はい」と答え、精舎の奥へと走っていった。

「修行僧よ、よく自己を振りかえっているだろうか?。もう間もなく今年も終わろうとしている。私は、日に区切りはないといった。一年が終わろうと始まろうと、日常は続いている、日は変わらず続いている。そのような区切りにこだわってはならぬ、と言った。それは、修行者よ、一年の終わりに世間が浮足立つように、汝らも浮足立ってはいけないと思ったから言ったことだ。一年の始まりの世間の行事にも関わらないのが修行者である。それを忘れないように注意をしたのだ。一年の区切りなどないから、この年の自分を振りかえるな、と言ったのではない。一年の区切りに、その年の自分を振り返るのもいいことではないか。いや、むしろ、一つの区切りとして、この一年自分はどうであったかと振り返り、反省するのもいいことであろう。そして、新たな目標を作り、そこに向かって修行をする誓いを立てるのもいいことであろう。それを否定するのは、自己批判をしない、反省をしない、愚か者である。今日はこの一年の最後の日だ。明日は布薩で戒律違反をしたかどうかを問う日だ。一年分の反省を今日行い、明日はそれを皆に報告をし、懺悔するのがいいのではないか。そう思わぬか、マンダよ」
お釈迦様に名指しされたマンダは
「私が間違っておりました。この一年、ウソばかり言って、下座行をおろそかにしておりました。今日、深く反省をし、明日の布薩で懺悔します」
と涙ながらに答えたのであった。
「ふむ、それでよろしい。皆の者も、この一年を振り返り、しっかりと自己批判をしてみるがよい。そして、明日から新たな自分に生まれ変わるがよい。そうした意味でなら、日の区切りも大事であろう」
お釈迦様はそう説き、にっこりと微笑んだのであった。


大みそかであろうが、お正月であろうが、本来、日は同じです。何の変りもないですな。ただ、日本ではお正月には新たな年神様を迎える、ということになっております。大みそかに、一年の汚れを捨て、新しい年に新しい年神様を迎えるのが、大みそかとお正月の意味ですな。それが日本の文化です。なので、日本人は、大みそかやお正月に忙しくするのですな。

大みそかまでに、大掃除を終わり、元旦に年神様を迎える・・・ということを知っている人は、どれくらいいるのでしょうか?。最近は、親族が集まり楽しく休みを過ごす、という風習に変わってきていますな。まあ、長く休みが取れるので、地方出身の都会の方は帰省して、親族の集まりを楽しむ、というのもいいのではないかと思います。今では、お正月も親族の集まり、あるいは家族で日頃できないようなお遊びをする日、そういうことをする期間、となっておりますな。

本来、日に区切りはありません。一年の替わりめだと言っても、昨日と今日、明日となんら変わることはいのです。しかし、人には区切りというものがあってもいいでしょう。区切りがないと、なんだかダラダラと過ごしてしまいそうにも思います。よし、今年ももうわずかだ、頑張って残りをすませてしまおう、とか、一年の区切りだから、普段掃除ができないところも掃除しよう、と思うのはいいことでしょう。区切りも悪いことでは無いと思います。まあ、仏教的には区切りなんて・・・ということですけどね。でも、日本人には区切りが必要なんですよ。
その区切りで、休みを取って楽しむ、というのもいいことですが、たまには、
「あぁ、去年はここがダメだったなぁ。ここは良かったなぁ」
と一年を振り返るのもいいと思います。そして、「今年こそは」という目標を作るのもいいことでしょう。

さて、あなたの去年はどうでしたでしょう?。そして、今年の目標は何でしょうか?
何もない、というのはちょっと寂しいですよね。どんな些細なことでも、「今年こそは」という目標を持つのはいいことですね。
私は「今年は、寺の門を造る」ことが目標です。うちの寺、門がないんですよ。なので、今年こそは門を造りたいんですよね。
果たしてできるかどうか・・・。目標に向かって頑張りましょう。
合掌。


第209回
正しく生きることは難しい。
なぜなら、多くの者が正当ではないからだ。
それでも正しく生きることを心掛けるべきである。
フリダヤは真面目な青年だった。彼は、身分はそれほど高くはなかったが、いつも正しくあるように心掛けていた。身分の低い青年の中では珍しいことだった。当時のインドでは、身分が低くなるほど教育ができてなく、暴力的だったのだ。だが、フリダヤは、仕事はもちろん真面目にこなし、普段でも穏やかで決して怒ることなどなく、周囲からも好青年と言われていた。
彼が働いていたのは、食堂である。その食堂は、早朝から始まり、夜は居酒屋となる店だった。フリダヤは、何一つ文句を言わず、朝から夜遅くまで働いた。そのため、給金もよかったが、何よりもわずかな休憩時間が彼の憩いの時間だった。休憩時間にゆっくりと横になるのが彼の楽しみだったのだ。
店でもフリダヤは評判がよかった。しかし、フリダヤ自身は、疑問に思うことがよくあった。それは、客の態度である。客の中には、態度が悪い者もいたのだ。
「なぜ、あんなふうにふるまうのだろうか。いくら威張って見せても、ここでは通用しないのに。食事に来たのに、あんなに威張って文句を言っていては、せっかくの食事も不味くなってしまうのではないだろうか」
「あぁ、どうしてあんなに暴れるのか。客同士のケンカは本当に困る。せっかく楽しんでいるのに、なぜケンカをするのか。あぁ、全くわからない」
彼は、いつもその事で悩んでいた。しかし、いくら悩んでも何の解決にもならないことだった。仕方がないので、彼は、ただ黙々と働くだけだったのだ。

ある日のこと、フリダヤが働く店に若者が雇われることとなった。身分は、フリダヤと同じ程度だった。その若者はヤクシャと言い、年齢的にもフリダヤと変わりはなかったが、あまり愛想がいい方ではなかった。フリダヤは、まだ慣れていないから愛想が悪いのだろう、と思っていた。無愛想だが仕事はできるのだろう、これで少しは自分も楽になるかな、と思っていたのである。
ところがヤクシャは、あまり仕事ができなかった。数日たってもなかなか慣れず、よく失敗をした。それでも、まだ働き始めてから日も浅いので、フリダヤは親切にヤクシャに仕事を教えていた。しかし、問題が起きたのは、働き始めて2週間ほどたってのことである。
ヤクシャは、夜遅くに友人を店に招いていた。初めのうちは楽しく酒を飲んでいたのだが、そのうちに悪ふざけをし始めたのだった。ヤクシャの友人の一人が、テーブルの上に乗って大きな声で歌い始めたのだ。他の客がそれを見て、怒り始めた。とたんに、他の客とヤクシャの友人たちは揉めだしたのだ。ヤクシャの友人たちは、歓声を上げ怒った客を煽り始めた。客は、益々怒り出し、つかみ合いの状態になってしまった。
あわててフリダヤが間に入ったが、あっという間に殴られ弾き飛ばされてしまった。フリダヤはヤクシャに
「何とかしてくれよ。君の友人だろ。止めてくれないか」
と頼んだのだが、
「はっ、無理だね。それにさ、あの客が悪いんだろ。いきなり言いがかりつけて来たんだから」
「それは君の友人が大声で歌い始めたから・・・」
「それの何がいけないって言うんだ?。ここは酒場だろ?。そんなことはよくあることじゃないか。それいけ、やっちまえ!」
ヤクシャは、友人に声援を送る始末だった。

結局、ヤクシャとその友人たちは、店をめちゃくちゃにし、さらには客の何人かに怪我を負わせてしまった。そのため、ヤクシャは、すぐにクビとなり、さらに町の保安の兵士たちに連れていかれた。店の後始末をしたのはフリダヤだった。店主は、
「お前さんにも迷惑をかけたな。あんな奴を雇うんじゃなかった。まったく、今の若い者は・・・」
とフリダヤに声を掛けてくれたが、フリダヤの気持ちは晴れなかった。
「なんであんことをするんですかねぇ。ヤクシャは、ちょっと度が過ぎましたけど、他の客だって時にはバカなことをしますよ。酔っぱらってからんでみたり、他の客に迷惑をかけたり、唾を吐いたり、寝転がったり・・・。なぜ、正しく振舞えないのかと思いますよ」
「そうだなぁ・・・。おとなしく小声でしゃべって酒を飲んでうまいものを食っていれば、結構楽しいのになぁ。なんで、あんな馬鹿なことをするんだろうか。俺にもわからんよ」
店主は、しみじみとそう言った。

なぜ正しく生きられないのか。仕事に真面目に取り組んで、威張らず、文句を言わず、他人になるべく迷惑をかけず、周囲のことにも気を配って、コツコツ生きていく・・・。フリダヤはそれが正しい生き方だと信じてきた。真面目にコツコツと働き、賭け事などせず、酒に溺れることも無く、暴力も振るわず、静かに生きていれば、自然にお金はたまるし、生活は楽になるのに・・・。彼は、そうして生きてきたのだ。
「なのに、世の中にはそんな生活ができず、酒に溺れたり、賭け事に溺れたり、異性で苦労したり、他人対し威張って見せたり、言いがかりをつけたり・・・そんなことをする人々がいる。なぜ、そんな生き方をするのだろうか?。自分が間違っているのだろうか?。そういえば、俺はいつも損をしているように思う。他人の後始末ばかり、尻拭いばかりをさせられてきた。嫌な仕事を押し付けられたりもした。そうしたことを引き受けるのも正しいことだと思ってきたけど・・・振り返ってみれば損ばかりしてきたように思う。あぁ、この世の中は生きにくいなぁ。真面目にやっているのがバカみたいに思える。どういうことなんだろうな・・・」
彼は、悩みこんでしまったのだった。

それからしばらくしてのこと、悶々としながらも、フリダヤは真面目に働いていた。ふと外を見ると、修行者が立っていた。托鉢に来たのだ。彼は、托鉢の食事を用意しながら
「そうだ、修行者なら俺の悩みに答えてくれるかもしれない」
そう思って、その修行者に心の内を話してみた。すると、その修行者は
「あとで祇園精舎にいらっしゃい。大丈夫だ。店主に祇園精舎に行くと言えば、外出を許してくれる」
と答えたのだった。フリダヤは、わけが分からなかったが「そうします」と答えた。
店主にそのことを伝えると「おぉ、祇園精舎に行くのか。それはいい。是非、行ってこい」
と言われた。なので、彼は昼過ぎ、店が暇な時間に祇園精舎に行くことにしたのだった。

精舎に行くと、すぐに奥に案内された。
「待っていましたよ、フリダヤ」
そう言ってくれたのは、なんとお釈迦様だった。
「あ、あの・・・えっと・・・」
「大丈夫です。フリダヤ、汝の悩みはわかっている。汝はよくやっている。汝は正しい」
「わ、私は正しいのですか?」
「そうだ、汝は正しい。間違っているのは、愚かなことをする者たちだ」
「なぜ、人は、そんな愚かなことをするのでしょうか?」
「それは、愚かだから・・・としか言いようがない。愚か者は愚かな行動をして、不幸になるのだ。愚かな行為によって、身を滅ぼしていく。なぜそうなるのか。それは正しい行いをしないからだ。正しい行いを学ばないからだ。愚か者は、自分の行為は正しいと信じ、本当の正しい行為を学ばないのだ。汝のように、正しいことは何か、と考えないのが愚か者なのだよ」
「正しく生きるものは、それで損をしているように思うのです。それでも、正しく生きるべきなのでしょうか?。自分勝手に生きてはいけないのでしょうか?」
「よいかフリダヤ。正しく生きることは難しいし、苦しくつらいことだ。なぜなら、多くの者が正当ではないからだ。多くの者が愚かで正しくないからだ。だからと言って、正しく生きることを捨ててはならぬ。正しく生きることを心掛けるべきなのだ。愚かな者は、その愚かさによって身を滅ぼすであろう。しかし、正しく生きるものは、その正しさゆえ、名誉や信頼、生活の余裕を得られるのだ。今は、辛いかもしれないが、その辛さを乗り越え、正しく生きることを心掛ければ、やがて汝は幸運に恵まれるであろう。愚か者は、それを知らないのである」
「はい、わかりました。私は正しかったんですね。自信がつきました。これからも、今まで通り、真面目に正しく生きるように心掛けます」
フリダヤは、そう言って祇園精舎をあとにした。
その後、彼はまじめに働き、そのおかげで自分の店を持つことができた。働き者の愛想のいい奥さんを得て、店はますます繁盛した。子供にも恵まれ、彼はいい家庭も手に入れた。
「真面目にコツコツ働いてきたかいがあった。正しく生きてきてよかった。これからも正しく生きていこう」
そう新たに決意をしたフリダヤであった。


世の中には、何でこんなことをするのかねぇ・・・と思われる人が結構いますよね。なんで、煽り運転などするかねぇとか、なんでつまらないことでケンカするかねぇ、なんで万引きなんてするのかねぇ、なんで働きもせずコンビニ強盗するかねぇ・・・などなど。バカげているな、愚かだな、と思われるような行動をするものが後を絶たないですね。

何で働かないのかな、とよく思います。たいていの犯罪者・・・コンビニ強盗とか、人を殴ったとか、ひったくりをしたとか・・・は、無職の人が多いですね。コンビニ強盗するより、働いたほうが収入が得られるのに、何で働かないのでしょうか?。そんなことは、ちょっと考えればわかることですな。
これだけ煽り運転がダメだと騒がれているのに、未だに煽る者がいるのも信じられませんな。ドライブレコーダーで撮影されているにもかかわらず、車から降りて「なんじゃ、こらぁ」とすごむ者がいるんですよね。そんなことをしたら、捕まるのは自分なんですけどね。損をするのは自分なのに、それがわからないんですかねぇ。

毎日ニュースを見ていると、こんな愚かな者が、毎日登場しますな。なんで、正しく生きられない?、なんでこんな愚かなことをする?、と思いますが、愚か者は、愚かな故に、愚かな行動をするのですな。少しは学べばいいのにと思います。
ニュースでこれだけ愚かな者たちが報道されているのです。そうした愚か者を見て、自分は愚かな行動はしないよう、正しく生きていこう、と学習するべきでしょう。他人のふり見て我がふり直せ・・・です。人の愚かな行為を見て、みっともないなぁ自分はああならないようにしよう、正しく生きよう、と知るべきですよね。そういうことを教えられてきていないんですかねぇ。いや、教えられたと思うのですが、他人の正しい忠告は聞かないのですかね。金言耳に痛し、といいますからね。

正しく生きることは難しいかもしれません。辛いかもしれません。しかし、愚かな生き方をしていると結局は損をするのです。つまらない人生を送ることになるのです。悪いことをすれば、その報いは必ず来ますね。同様に、正しく生きていれば、その恩恵は必ずやってくるものです。やはり、ウサギより亀ですね。コツコツ真面目に生きてきた者が、最後は勝つのですよ。
合掌。


第209回
自分のことですら自分の思う通りにはならない。
ましてや、他人が思う通りにならないのは当然である。
尊敬されなければ、誰もあなたのいうことは聞かないだろう。

サンババは、バラモンの聖典を作る作業場の責任者であった。聖典は、古い聖典を書き写し、それを板に裏返しに張り付け、版木を作り、それを刷って作っていた。聖典はよく使われるので、傷みやすい。そのため、何度も作り直さなければならなかったのだ。また、古い聖典が見つかった場合、それを修復して新たな聖典に作り替えるという仕事も請け負っていた。なかなか根気のいる仕事であるため、作業をする職人は、いつも神経がピリピリしていた。特に、責任者のサンババは、毎日イライラしてるようだった。
「あー、何度言ったらわかるんだ。丁寧に丁寧に書き写しなさい。ほら、そこ字が汚い。正しい文字で書き写すのだ。頼むよ」
「そこ、それはもっと深く彫らないといかんだろ。文字がちゃんと浮かんでいるように・・・。そうそう、角をきっちりとな」
作業場をウロウロ歩き回りながら、職人一人一人に注意をするのだった。
これが嫌で辞めてしまう職人も多くあった。また、病気になってしまう者もいた。なかには、辞める時
「いちいちうるさいんだよ。仕事ができないだろ。こんな職場、やってられない!」
と怒鳴って去っていくものもいた。そのたびにサンババは、
「ロクに仕事もできないくせに、偉そうなことを言うな。みんなは、ああいう人間なっちゃダメだぞ」
と残った職人に言っていたのだった。

ある日のこと、腕のいい職人がやってきた。彼は、版木を彫る職人だった。
「ほう、ここの聖典はきれいに印刷されますね。版木がいいんですね。元の文字もきれいだ。優れた職人さんが多いんですね」
「おぉ、わかるかね。日ごろ私が厳しく言っているからね。出来がいいんだよ」
「はぁ、そうですか(いや、あんたの功績じゃないだろ。職人の腕だろ。そんなこともわからないのかこの人は)。さて、では、私なんぞは不要ですよね。皆さんいい腕を持っていらっしゃるようですから」
「いやいや、君の腕にはかなわないだろう。早速、彫りにはいってくれ(お前の実力を見たいからな)」
そう言われた新しい職人・・・名をパドマといった・・・は、「では早速」と言いながら版木を彫る場所へと座ったのだった。
確かに彼の腕は良かった。今までいた職人より、彫りが数段きれいなのだ。
「ほう、さすがにいい腕をしている。おい、お前ら、これくらいの職人になってもらわないとな。いいか、丁寧にそして早く仕事をこなすのだ。わかったな」
パドマの腕を見たサンババは、皆にゲキを飛ばしたのだった。

パドマが来てからも、サンババの文句は変わらずだった。字が汚い正しく写せ、修復の糊付けが汚い丁寧にやれ、刷りが甘いもっとこすらないと・・・などなど、一日中、文句を飛ばしていたのだった。
「どうしてお前らは・・・。もっと仕事に責任をもってやったらどうだ?。こんな程度の出来栄えじゃ、仕事を断られてしまうぞ。しっかり働け」
「そんなに怒ることないじゃないですか。彼らは十分やっていますよ。出来栄えはいいじゃないですか。これ以上は無理でしょう。ほら、いい仕上がりですよ」
サンババの文句に対し、パドマは反論した。皆を誉めたのだ。
「そんな甘いことを言ってどうする。いいか、こいつらは甘いことを言うと、すぐに怠けるのだ。だから、厳しく俺が注意しないといけないのだ」
その言葉に、職人全員が
「もういいです。こんな職場、辞めてやる」
と叫んで立ちあがったのだった。
「それはいい。そのほうがいいと思いますよ。聖典作りの職場は、他にもありますし。皆さんの腕ならば、どこでも大歓迎ですよ」
「パ、パドマ、余計なこと言うな。ふん、お前ら程度の職人なんてどこも雇ってはくれまい。うちしか働けないんだよ。いいかお前ら、お前らは、俺のいうことをだけを聞いて働いていれば、腕も上達するんだ。だから、俺の言う通りにすればいいのだ」
サンババは、そう怒鳴ったが。誰も聞く耳を持たず、その場を去って行ったのだった。最後に残ったパドマは
「みんな行っちゃいましたね。さて、私一人残ったところで仕事にはなりません。なので、私も辞めます。短い間でしたが、お世話になりました」
と冷たくいって去って行ったのだった。残されたサンババは、
「俺はどうすればいいんだ・・・そうだ、こういう時はお釈迦様に相談すればいい。お釈迦様ならいい案を教えてくださるだろう」
と言うなり、祇園精舎へと駆けだしていったのだった。

サンババから話を聞いたお釈迦様は
「サンババ、汝は自分の身体を思うようにできるか?」
とサンババに尋ねた。
「えっ?、そりゃ、思うようにできますよ。自分の身体ですからね」
「では問う。汝は病気になったことはあるか?」
「はあ、あります。風邪をひくこともありますし、そう、最近は腰痛が・・・結構キツイですね」
「それは、汝が望んでなったことか?」
「ま、まさか。病気を望むものなどいないでしょう」
「では、汝はその病気を自分の思うように治せたか?。腰痛はどうだ?」
「あっ・・・。あぁ、すみません。私は私の身体を自分の思うようにできていません」
「先ほどはできると言ったが?」
「いや、あれは私の間違いです。私は私の身体を自分が思うようにはできません」
「自分のことすら自分で思うようにできないのに、なぜ他人が思うようになるか?」
「あっ・・・。はぁ・・・、それはその・・・そうですね。他人も思うようにはできないですよねぇ」
「なのになぜ、他人を思うようにしようとするのか?」
「それは・・・その・・・仕事上ですねぇ、私の思うように動いてくれないと困りますから・・・・」
「果たしてそうだろうか?。汝の言う通りにしないと仕事で困ることがあるだろうか?。ちょっとついてきなさい」
お釈迦様はそういうと、立って歩き始めた。どこへ行くのかと疑問に思いながらもサンババは、お釈迦様の後に続いた。

「あれを見よ」
お釈迦様が指さした場所は、先ほどまでサンババがいた場所だった。つまり、仕事場だった。そこには、辞めると言って飛び出していった職人がみないた。そして、その中心にいたのはパドマだった。サンババは、耳を澄ました。
「あぁ、いいですね。そうですそうです。きれいに仕上がっていますよ」
それはパドマが職人を誉める声だった。
「パドマさん、これはどうすればいいでしょうか?」
「あぁ、これはね、こうすればいいんだよ。これできれいに仕上がるでしょ」
「すごいですねパドマさん。さすがです。こうして見本を見せてもらえたり、ちゃんと教えていただけるのはありがたいです。私もパドマさんのような職人なりたいです」
「大丈夫ですよ。このままいけばなれますよ。私なんぞ、追い抜かれるかもしれません」
職人たちは、パドマを尊敬と憧れの目で見ていた。そして、どの職人も笑顔で働いていたのだった。
「よいかサンババ。あのように人々から尊敬を得られなければ、人々は思うように動いてくれない。まずは、尊敬を得られる人間にならないといけないのだ。サンババ、汝はどうであったろうか?。尊敬を得られるような接し方をしただろうか?。職人たちに厳しく怒鳴っていただけではないか?。上を望むのならば、まずは自分が手本を見せて、教えていくことが大事ではないか?。そこに尊敬が生まれてくるのではないか?。力で抑えつけようとしても、それはいずれ破たんする。自分のいうことに従ってもらいたいのなら、そのような人物になることが先決であろう。わかったかね、サンババよ」
お釈迦様の言葉に、サンババは膝を落とし、顔を覆って泣き出したのだった。
「すべては、私が悪いのですね。あぁ、私は何と愚か者だったのか・・・。怒って厳しくして力で抑えつければ言うことを聞くと思い込んでいた。パドマのようにすれば・・・・仕事もうまく回っていったんだ。しまった・・・私が愚かだった・・・」
「わかればそれでよろしい。だが、汝はこれからどうする?」
「はい、あそこに行って、皆に謝ります。申し訳なかったと・・・。そして、一職人としてやり直したいと思います。実際、パドマの技術には到底追いつけません。それを習いたいと思います」
「そうか、そう思うのなら、今すぐ行くがよい」
お釈迦様がそういうと、サンババは駆けだしていったのだった。その場を立ち去るお釈迦様の背中に、サンババの謝罪の声が聞こえていたのだった。


やたら威張って、大声を出して
「俺のいうことが聞けんのか!」
「何でできないんだ、それぐらいのことできて当然だろ!」
「あぁ、もう。なんで思うように動かないんだ!」
と怒鳴ったり嘆いたりする方、いますよね。自分の思う通りにならないと、いきなり怒り出してしまう方、世の中にはよくいると思います。最近のクレーマーに、その傾向が多くみられるそうですな。まるで、子供みたいに我がままを通そうとする大人が増えているのだそうですよ。

確かに、自分の思う通りに事が進んでいけば、それは気持ちいことですよね。周りのみんなが、自分のいうことを聞いてくれて、自分の思うようにしてくれる・・・そりゃ最高の気分でしょう。王様ですよね、それはね。でも、現実はそうではありません。周囲の人たちも思うようには動いてくれませんな。それでイライラして、爆発・・・なんてことになるのでしょう。しかし、思うようにはいかないのがこの世の中なのですよ。頭のどこかでわかってはいるものの、我がままが顔を出してしまうんですよね。

自分のことですら自分の思う通りにはいきません。なりたくない病気に罹ったりもします。なんでこんな所で転ぶかな、なんてこともあります。とかくこの世は不自由ですな、自分のことですら。それなのに人は他人を自分の思うように動かしたくなりますな。自分のいうことを聞かせようとします。自分の支配下のもとに置こうとしますな。で、うまくいかないと、いうことを聞いてくれないと、逆らってきたりするとイライラし始め、爆発するのです。無理やり言うことを聞かせようとしてもね、そりゃ無理な話ですな。
いうことを聞いて欲しいのなら、自分の指示に従ってほしいのなら、相手にそう思わせないといけませんよね。
「あの人のいうことなら信用できる。だから、あの人に従おう」
そう相手が思ってくれないと、相手は自分が思っているように動いてはくれませんな。それには、まずは尊敬されることが大事です。尊敬されれば、皆があなたのいうことを聞くでしょう。

尊敬されるには、尊敬されるような行動、言葉が大事ですね。正しい行動、勇気ある行動、公明正大である行動、力強い言葉、皆に喜びを与える言葉、皆を守る言動、慎み深い態度や言葉・・・。そうしたことができないと、尊敬されることはありません。いつも威張り散らして、怒鳴り散らしているだけでは、誰も尊敬はしませんな。お気を付けください。怒ってばかりでは、ことは進みませんよ。上に立つものは、まずは、周囲の人たちから尊敬される存在を目指してくださいね。
合掌。


第210回
批判や蔑みばかりして、他人を見下し自分を高めようとしても
誰もあなたの事を褒め称えない。
己の心の醜さを知るがよい。
ラーバッタがお釈迦様の弟子になったのは、まだシャーリープトラやモッガラーナが弟子になる前であった。つまり、佛教教団ができて間もないころのことだ。ラーバッタは、早くからの弟子だったにもかかわらず、まだ悟りを得てはいなかった。しかし、古参であることには変わりはなく、そのため、態度は大きかった。また、よく周囲の者を見下してもいた。
「ふん、そんな瞑想じゃ、深く入り込めないぞ。まだまだダメだな。お前、瞑想の才能がないんじゃないか? あはははは」
などと言っては、新しい弟子をからかい、
「シャーリープトラがどれだけのものかは知らんが、媚を売るのが上手だということだけはわかる。媚を売って、取り繕って世尊に近付いた男さ、シャーリープトラはな。モッガラーナ? あぁ、あれはさ、何かと便利な男だろ。神通力がうまいから。だから、世尊はそばに置いておくのさ。要は便利屋だね」
とシャーリープトラやモッガラーナの批判を繰り返していた。そのため、真面目は修行僧は、どんどんラーバッタから離れ、修行をさぼる、いわゆる不良の修行者たちがラーバッタの周りに集まった。しかし、ラーバッタは、それも面白くなかった。
「いいか、俺はな、お前たちとは違うんだ。俺は真面目な修行僧だ。お前たち、不良の修行僧と一緒にされたくない」
ラーバッタがそういうと、不良の修行僧たちは
「何をバカなことを言ってるんだ。お前は、俺たちと変わらないじゃないか。毎日、托鉢から帰ってくるとブラブラしているだけじゃないか。俺たちとどこが違うんだ?」
などとラーバッタを笑ったのだった。それも、ラーバッタにとっては腹立たしいことだった。
「お前たちは、ブラブラしているだけだろう。だが、俺は違うのだ。歩き回りながら瞑想をしているのだ。お前らのような不良とは違うんだよ。俺はな、ちゃんと修行しているんだ。さぁ、修行の邪魔だ。あっちへ行け」
「ちっ、悟ってもいないくせに威張りやがって。エラそうな態度するんじゃねぇぞ。何が歩き回って修行してるだ。いい加減なことを言うな」
不良の修行僧もラーバッタに呆れて、さっさとその場を去って行くのであった。ラーバッタは、
「あんな低級な連中と一緒にされたくないからな。ふん、俺はな、アイツらとは出来が違うんだよ、出来がな」
と、一人でつぶやきニヤニヤしているのだった。

そんなラーバッタだったので、いつも彼は一人きりだった。しかし、そんなことは彼は全く気にせず、修行僧たちが輪になって瞑想をしているとそこに割り込み
「そんな瞑想じゃダメだ。所詮は、ダメ修行僧だな」
などと批判し、蔑んで歩き回るのである。あるいは、教えについて議論をしている修行僧たちを見つけると
「おいおい、議論し合うのは禁止だろ。はぁ、何をそんなに熱くなっているんだ。修行僧は、いつも冷静でいなければいけないんだぞ。そんなだから、修行が進まないんだ。クズどもめ!」
と悪態をついて回った。そして、
「いいか、俺くらいにならないといけないんだ。誰とも議論せず、歩きながらでも瞑想ができ、一人孤独でいられる・・・。それが真の修行僧なのだよ。わかるかな、君たち? ふん、わからないだろうな、ダメ修行僧じゃな。お前ら、さっさと教団を去ったほうがいいんじゃないか? わはははは」
と威張り散らしていたのである。彼は、孤独であることすら自慢したのだ。

こうしたラーバッタの行動が、修行僧たちの間で問題になっていた。修行しようとするとラーバッタが邪魔をするのである。修行に身が入らないと、若い修行僧たちは長老に訴えた。長老たちは、そのたびにラーバッタに注意するのだが、彼は
「ふん、何をエラそうに。俺は彼らを教えただけだ。指導したんだよ。それのどこが悪いんだ?」
と言い返すのだった。
「ラーバッタよ、君のは指導ではない。単なる批判だ。いや、邪魔ですらある」
ついに温厚なシャーリープトラも、ラーバッタに強く注意したのだが、ラーバッタは
「はいはいそうですか、シャーリープトラ様。以後、気をつけますね。では、私は修行がありますので」
と、全く意に介さない状態だった。
その後も、ラーバッタの態度は変わらず、長老の批判、修行僧たちへの蔑みは、続いたのだった。それは、ますます大きな問題となり、ついにはお釈迦様の耳にも入るようになったのだった。

長老や若い修行僧たちの話を聞いたお釈迦様は、
「以前から気が付いていた。ラーバッタ自身が、自分の間違いに気付いて自ら反省するのを待っていたのだが、どうやら限界が来たようだな。よろしい、私が話をしよう」
と穏やかに言うと、ラーバッタがいる修行林の中へと入って行ったのだった。
ラーバッタを見つけたお釈迦様は、すぐに声をかけた。
「ラーバッタよ、修行は進んでいますか?」
「これは世尊。はい、修行は・・・なかなか進まないですね」
「それはなぜですか?」
「はぁ、こういうと告げ口になってしまうのですが、私が深い瞑想に入ろうとすると、他の修行僧が邪魔をしてくるんです。どうやら、私を妬んでいるようなのです。彼らは、自分に瞑想の才能がないことを知って、私を妬むんですよ。なので、私は修行に身が入らないのです。なるべく、このように一人でいるようにしているのですが、どうも私は妬まれやすいようで・・・。まあ、彼らの気持ちもわからないではありませんが、でもねぇ・・・。ダメな修行僧は所詮ダメですからね。そうそう、長老も注意してくださらないんですよ。出来の悪い修行僧が私の修行の邪魔をしているのに、長老の皆様は、見てみぬふりをする。あれでは、長老の立場がね・・・問題だと思います。長老も私を妬んでいるのかもしれません。とても残念ですね」
「そうですか。それは困ったことですね。ところでラーバッタ、そんことを言って、汝は気分がいいですか?」
「ど、どういうことですか?」
「そのようにウソを並べ立て、長老を批判し、他の修行僧をバカにし、蔑み、それで汝は気分がいいですか?」
お釈迦様の問いかけにラーバッタは、答えられなかった。
「どうなんですか、ラーバッタ。他人を批判し、蔑むことは、楽しいですか? そんなことをして、自分が高い地位になったとでも思っているのですか? 自分は偉くなった、と思っているのですか? 周囲から避けられているのに・・・。ラーバッタよ、虚しくないのですか?」
胸を張って立っていたラーバッタは、次第に肩が下がり、ついには膝が折れ、その場で四つん這いになっていた。そして、地面をこぶしで叩きながら
「だってだって・・・、誰も私を尊敬しないんですよ。誰もが、私を蔑んでみている。古くからの弟子でありながら、未だに悟りを得ていない落ちこぼれだという目で私を見ているんですよ。だから、だから、やり返しただけです」
と大声で言ったのだった。
「ラーバッタよ、誰も汝をそのような目では見ていない。それは、汝がひがんでいるだけである。単なる思い込みにすぎないのだよ。もっとも、だからと言ってやり返すのは良くないことだ。よいか、ラーバッタよ。周囲の者を批判し、蔑み、バカにし、見下して、己を高めようとしても、誰も汝のことを褒め称える者はいない。そんなことをしてもただただ、虚しいだけだ。誰もが、汝の愚かさを見抜いている。気付いていないのは、汝だけだ。よいか、他人を批判し、蔑み、バカにし、見下す、その己の心の醜さを知るがいい。他人を見下す己が愚かだと知るがよい。現実から目をそむけず、まっすぐに自分の愚かさ、醜さを見つめるがいい」
いつになく、厳しい声でお釈迦様はラーバッタを叱責したのだった。ラーバッタは、地面に頭をこすりつけ、大声で泣いていたのだった。

それ以来、ラーバッタは批判することはしなくなった。若い修行僧たちも蔑みの言葉を聞くことはなかった。いつもラーバッタは、一人で静かに瞑想をしていた。時々、修行僧の輪に近付いて、何か言いたそうな顔をするのだが、ぐっとこらえてその場を離れていくのだった。そんな日が続いたある日こと、ラーバッタは、お釈迦様の前に現れた。
「世尊、己の醜さがわかりました。私は愚かでした。他人を見下せば、自分が上がると思い込んでいました。他人を批判すれば、自分が尊敬されると思っていました。しかし、それは間違いだったのです。他人を蔑み、見下し、批判していれば、周囲は私を愚か者だと判断するのです。人を見下せば、それは己に返ってくる・・・。私は、ようやくそれがわかりました」
「よくぞ理解した。これからは、自分の真の修行に励むとよい」
ラーバッタの言葉を聞いて、お釈迦様は優しく微笑んだのであった。


何かというとすぐに批判をする人がいます。あれは良くない、アイツはああだ、あれはダメだ・・・。聞いているのが嫌になりますな。そういえば、野球が始まりました。野球中継をしている居酒屋さんなどに行くと、選手への批判から、監督への批判がよく聞かれるようですね。そういう場所は、どの客も監督になっていますからね。「俺だったらああするのに、あの監督はあんなんだから万年Bクラスなんだ」なんて言う声も耳にしますな。まあ、まだシーズンが始まったばかりですから、それほどひどい批判にはなりませんけどね。

会社で上司が、批判や人を小バカにするタイプだったりすると、部下はやってられませんな。そういう方は、結構威張っているし、いつも自分が正しいオーラを出しております。しかも、自分は部下に嫌われていない、尊敬されている、なんて思っていますからね。はたから見ると滑稽ですな。というか惨めですね。とても残念な上司といえます。

他人を蔑んで、あるいは見下したり、批判したり、小バカにして、自分はさも偉いんだぞ、すごいんだぞ的な態度をとる人って、周囲から見れば、ものすごく惨めに見えます。本人は全く気付いていないところが、さらに惨めですな。そうまでして自分を高めたいか、そんなことしないと自分が保てないのか・・・と思うと、なんだかかわいそうでもありますな。
人を見下せば、自分も見下されます。人をバカにすれば、自分もバカにされますな。なぜなら、「あぁ、この人は人をバカにする人なんだ、見下す人なんだ」と思われるからですね。人は、そういう人を嫌いますな。そういう人は、尊敬に値する人ではありませんからね。ですが、それに気が付かずに、人を見下す人がいるんですね。それどころか、そういう人って
「人を見下すようなヤツは、自分も見下されるんだ」
なんて平気で言いますからね。「おいおい、それはあんたのことだろ」と突っ込みたいですな。

自分はどうなのだろうか・・・。と考えないのでしょうか? 他人を見下していないか、他人をバカにしていないか、それで自分をよく見せようとしていないか・・・。たまには振り返ったほうがいいですね。他人を見下したりバカにしたりしても、自分は偉くはならない、ということを知ったほうがいいですな。他人をバカにしたり見下したりして偉そうにしていることが、どんなに醜くて愚かで惨めかを知ったほうがいいですね。そのためには、自分はどうなのか、と省みることも必要でしょうな。
さて、自分はどうなのでしょうか???
合掌。


第211回
なぜ、子供を支配しようとするのか。
子供は親の所有物ではない。
子供には子供の生き方があるのが、なぜ理解できないのか。

「いつまでかかってやっているんだい? 次の仕事があるんだから、さっさとやりな! 全くこのノロマめ。いったい誰に似たんだか。いいから早くしろ!」
今日もランドーナの家から怒鳴り声が聞こえてきた。その怒鳴り声は、マンナの母親ランドーナがマンナを怒っている声だった。
「お前は、私の言う通りにしていればいいんだよ。はい次。次は、便所の掃除だ! まったく、ノロマだね、お前は」
ランドーナは、葉っぱで巻いたタバコを吸いながら、マンナに命令をしていたのだった。
マンナは、物心ついてからいつも怒鳴られていた。他の子供が、親と一緒に遊んでいるころから、家事をさせられていた。部屋の掃除に便所掃除、洗濯や皿洗い、食料品などの買い物など、毎日こき使われていたのだった。母親の言い分は
「いいかい、私はお前を育ててやっているんだ。その恩返しに、掃除をするくらいは当たり前だ。お遣いだって当然だ。それが嫌なら、さっさとこの家から出ていけばいい」
と言うものだった。母親は、事あるごとに
「子供はよく食べるからねぇ、おまけにすぐにでかくなって、着るものも次から次へと必要だ。ホントに金食い虫だよ、子供は。あぁあ、家計も大変だ。亭主がもっと稼いでくればいいのに、あのダメ男じゃねぇ」
とマンナに向けて愚痴っていたのだった。
幼いころから、そう聞かされていたマンナだったので、彼女は何も文句を言わず、掃除や皿洗い、お遣いなどせっせと働いた。そんな姿をランドーナは、いつもタバコを咥えて見張っていたのだった。そう、何もせず、ただ見ているだけだったのだ。時折、文句を言ったり、愚痴を言ったりするだけで、自ら掃除をしようなどとはしなかったのである。彼女がしたのは、食事の用意だけだった。彼女が言うには
「食事の用意だけでもしてもらえるのだから、ありがたいと思え。感謝しろ」
だった。

他の子供が遊んでいる姿を見て、マンナも遊びたくなることはあった。ある日、どうしても遊びに行きたくなって、掃除の途中で家を抜け出し、子供たちが集まる広場に走っていった。マンナは、その時初めて広場でかけっこをするという体験をした。しかし、それもほんの束の間のことだった。ランドーナが鬼のような形相で、広場にやってきたのだ。そして、マンナを捕まえると
「誰だ、うちの子をそそのかして、こんなくだらない遊びに誘ったのは!」
と大声で怒鳴ったのである。広場にいた子供たちは、あまりの恐ろしさに固まってしまった。中には泣き出す子もいた。
「さぁ、白状しな。誰だ、うちの子を誘ったのは」
ランドーナに睨まれた子供たちは、何も答えられなかった。
「私が勝手に家を抜け出して、ここに来たんです。誰にも誘われていません」
マンナは、か細い声でそう言った。
「何だと、お前が勝手にここに来ただと。このバカモノが!」
ランドーナは、マンナを叩いた。
「今日は、夕飯抜きだからね」
そう言って、マンナを引きずって帰って行ったのだった。
その日、マンナは夕食を与えられず、小さな小屋に閉じ込められたのだった。
父親は、マンナの姿が見えないことにいぶかしんだが、ランドーナに
「あの子は、今日とんでもない悪さをしたから、お仕置き部屋に入れてある」
と言われ、何も言い返すことはなかった。父親は、ランドーナがマンナをいたぶっているのではないか、と薄々感じてはいたのだったが、ランドーナの態度に恐れをなし、何も強く言えなかったのだ。また、もし自分が何か言えば、マンナがますますイジメられるかもしれないと思い、黙ってもいたのだった。そんな父親の姿をマンナは、悲しく思っていたのだった。

ある日のこと、ランドーナの家の前に修行僧が立った。托鉢に来たのである。ランドーナは、外にいて托鉢僧が来たことに気が付かなかった。部屋の掃除をしていたマンナがそれに気が付いた。彼女は、すぐに台所に行き、少しばかり残った朝ご飯をその托鉢僧に渡した。托鉢僧はかすかに微笑むと、他の家へと向かった。
ランドーナが台所にやってきた。
「おい、マンナ、朝の残りのご飯はどこへやった?」
「さっき、托鉢の修行僧が来たので、差し上げました」
「何だと、なんてことをしたんだ、このバカ娘!。今から、その托鉢僧のところへ行って、返してもらって来い!。じゃなきゃ、お前の昼ご飯はナシだ!。ほら、さっさと行け」
ランドーナは、マンナを蹴飛ばしたのだった。
マンナが外に出ると、その托鉢僧は、まだ近所にいたのだった。
「すみません、先ほどの・・・」
「どうしたのかね? おや?、ケガをしているようだが・・・。それは・・・殴られたあとかな?」
「い、いえ、これは・・・ちょっと転んで・・・」
「ふ〜ん、で、何か用かな?」
「あ、あの・・・、先ほど渡したご飯・・・その・・・返してもらうことはできないでしょうか?」
托鉢僧は、マンナの顔をじっと見つめた。
「これは何か事情があるようだね。私があなたの家に行きましょう。確か・・・あの家だったね」
そういうと、托鉢僧はさっさとい歩き始めた。マンナの「それは困ります」という声を無視して・・・。

マンナの家に行くと、玄関にランドーナがタバコを咥え仁王立ちしていた。
「何なんだ、あんたは? マンナ、私はご飯を返してもらって来い、って言ったんだ。こいつを連れて来いとは言ってないよ。どういうことなんだ?」
ランドーナは、マンナと托鉢僧を交互に睨んだ。托鉢僧は、食べ物が入った鉢をランドーナに見せ
「さぁ、どれがあなたの家の食事なのかはわかりませんが、好きなだけ持っていくがいいでしょう」
と言った。鉢の中は、いろいろな家でもらった食事がごちゃ混ぜに入っていて、何が何だかわからないような状態であった。その鉢の中身を見て
「こんなゴミみたいなもの見さられたって、何が何だかわかるわけがないだろ。うちの食事が返せないなら、その代わりに何か手伝いでもして行け。どうせ、お前らは何もしないんだからな!」
と怒鳴った。
「我々は修行をするものです。おして、皆さまの家の残り物を少しずついただいて、生きております。他のことは致しません。ですので、手伝いはできません」
「くっそ、何をエラそうに・・・。だいたいマンナ、お前がこんなヤツにうちの大事なメシをやるからいけないんだ。このバカ娘が!」
ランドーナは、そこに修行僧がいるにもかかわらず、マンナを思い切り蹴飛ばしたのだった。マンナは、ギャー、と言って転がってしまった。
「暴力はいけない、なんてことをするのだ、あなたは」
「うるさいね、私が私の子供に何をしても勝手だろ。お前に口を出されるいわれはない」
「何を言っているのだ。子供とはいえ、あなたのものではないであろう?」
「何を寝ぼけたことを言っているんだろうねぇ。いいかい、この子は、私の子だ。ということは、この子は私のものだ。お前のものじゃないだろ? 私が私のものをどうしようが、私の勝手だろ。私のものが、私のいうことを聞かないのなら、こうしたってかまわないだろう」
ランドーナはそう言って、さらにマンナを蹴飛ばそうとした。
「止めるがよい、汝、止めよ」
先ほどとは打って変わって、厳しい声が托鉢僧からしたのだった。その声に、すべてが止まったかのようになった。ランドーナすら驚いたのだった。
「寝ぼけたことを言っているのは汝だ、ランドーナよ」
名指しされたランドーナは、さらに驚いたのだった。
「よいか、ランドーナ。確かにこの子は、汝の子であろう。しかし、汝の物ではない。子供は、物ではないのだ。よいか、マンナは、汝の所有物ではないのだよ。マンナはマンナという存在である。この子にはこの子の人生があるのだ。よいか、この子は、人なのだ。物ではない。ましてや、汝の物ではないのだよ。だから、汝の自由にしていいわけではない。いや、誰のものでもない以上、誰かが自由にしていいことはないのだ。少しは、それを心得よ!」
そう言われたランドーナは、
「そうかも知れないが、この子は私が産んだ子だ。だから・・・」
と言い返した。
「この愚か者が!。目を覚ますがいい。確かに、この子は汝が産んだ子だが、汝の所有物ではない、と言っているのだ。汝は産んだだけだ。子を産んだ以上、育てなければいけない。しかし、それは子を自由にしていい、ということではない。なぜなら、子は、汝の物ではないからだ。それがわからぬか! なぜ、子供を支配しようとするのだ。汝の物ではないのだ。この子には子のこの生があるのだ。いい加減に理解するがよい」
「ど、どうして・・・どうして・・・私が産んだのに、私の物じゃないの?・・・あぁ、わからない、わからない・・・」
ランドーナは、頭を抱えてうずくまってしまった。

マンナは、托鉢僧に連れられ、尼僧に預けられた。その時、初めてその托鉢僧がお釈迦様だと知ったのだった。マンナは、その日から、尼僧に従って尼僧教団で生活することになった。母親と引き離したほうがいい、とお釈迦様は判断したのだ。
一方、ランドーナは、夫と田舎に行くこととなった。お釈迦様は、夫に事情を話した。夫も気が付いていたが、ランドーナが恐ろしくて何も言えなかったこと、マンナにはかわいそうなことをしたということを告白したのだった。
「娘にとって母親と一緒に暮らせないのは、辛いかもしれませんが、うちの場合は・・・離れて暮らしたほうが幸せでしょう」
と夫はお釈迦様に言い、そして、もう二度を子供はもうけないと決め、ランドーナとともに、田舎の村へと旅立ったのだった。
そして時は過ぎ、マンナは過去に縛られることなく、明るい元気な尼僧になったのだった。


最近、「毒親」という言葉を目にします。意味は、そのままですね。「毒のような親」のことです。我が子を支配し、自分の思い通りにしようとする母親のことですね。もちろん、父親の場合もあります。あるいは、両親ともに「毒親」という場合もあります。しかし、特に「毒親」は母親に多いのだそうです。子供と接する時間が多いのは母親ですからね。

毒親である母親は、とにかく子供を支配したがるのだそうです。子供が自分から何かをしたいと言おうものなら、
「それは○○だから、止めた方がいい、いや、止めるべきだ。それよりもこれをしなさい」
と子供の意見を否定し、自分の意見を押し付けるのです。それは、習い事だけでなく、着る服も食べ物も、さらには友達までも、子供の意見や考えを否定し、自分の意見や考えを押し付けるのです。もし、それに逆らったら・・・。親は、泣きわめいたり、暴れたり、家事を放棄したり、最悪は殴る蹴るの暴力をふるうのです。そういう親に育てられた子供は、何も自分で決められない、何をしても自信がない、いつもオドオドした子供なってしまうのだそうです。

「自分には子供がいる、と親は自慢をし支配しようとするが、子供は親の所有物ではない。自分ですら自分の自由にできない。ましてや他人である自分の子供が自分の自由になるわけがない」
お釈迦様は、そう説いています。ということは、お釈迦様がいらした時代から、子供を支配し、自分の自由にしようとした親がいたということですね。「毒親」は、今に始まったことではない、ということです。
お釈迦様の言うとおり、たとえ自分の子供であっても、自分が自由にできるものではありません。子供は、たとえそれが自分の子供であっても、自分の所有物・・・自分の物・・・ではないのです。たとえ我が子と言えども、他人なのです。自分以外は、皆他人ですからね。なので、子供には子供の考えや意見、趣味趣向、生き方があるのです。それは、時に親の思いとは真逆のこともあるでしょう。親の意向とは全く違うこともあるでしょう。
しかし、それはそれでいいのです。なぜなら、たとえ子供と言えども、一人の人間だからです。親の意見なんぞ、関係ないのですな。

自分で自分の生き方を決めることができる人間に育てる、それが親の使命でしょう。つまり、自立です。自分の意見を持ち、自分で考え、自分で行動できるように、独り立ちできるようにするのが、親の勤めですな。たとえ、それが親の思いと違っていても、自立できたことを親は喜ばなければいけないのです。
子供は親の所有物ではありません。「我が子」とは言うけれど、「我が物」ではないのです。そこをはき違えると「毒親」になってしまいますな。子供が自分の意見を持ち、自分で考え、自分で行動することを喜びましょう。
合掌。


第212回
いくら肩書が優れていようと、その言動によっては尊敬されない。
けっして肩書に酔しれてはならない。
酔えばつぶれるだけである。


その日のお釈迦様の法話会には、いつものように多くの人々が集っていた。その日は特に、近隣の小国の王族の者や大商人が話を聞きに来ていた。彼らは、一様に横柄な態度をとっていた。お釈迦様の声が最もよく聞こえる場所を、もうすでに座っていた人々がいたにもかかわらず、彼らを押しのけ座り込んだのだった。周囲からは、
「ふん、偉そうにしやがって。ここはな、身分は関係ないんだ。金持ちも貧乏人も関係ないんだぞ」
という声が聞こえたが、それは虚しく消えていった。小国の王族の者も、大商人も全く気にもしないで堂々と座り込んでいたのだった。少しでも邪魔をするようなものがいたら、王族を守っている兵隊につまみ出されていた。それを見て、誰も文句を言わなくなったのだった。

お釈迦様が現れた。いつもの場所に座ると、厳かに話を始めた。
「今日は、近隣の王族の方や大商人の方もいらしているようだ。しかし、ここでは、身分も貧富の差もない。皆平等である。よろしいかな」
お釈迦様は、そう言ったが、威張り散らしていた小国の王族も大商人も素知らぬ顔で聞き流した。お釈迦様は、「では、今日は、少し前にあった出来事を話そう」と言って、本当にあった出来事を話し始めたのだった。

・・・ここコーサラ国では、身分制度は意外と緩やかであった。なぜなら、国王のプラセーナジット王自身が、王族の出ではなく、反乱軍の兵隊長の身分だったからだ。だから、国王は、優秀な人材を手に入れるためならば、身分を問わなかった。従って、身分の低い者であっても、得意なことがあり、国王に認められれば、大きな役職に就くことも可能だったのだ。特に兵隊は、腕に自信があり、統率力があれば、誰でも出世できた。毎年、兵隊募集の時期になると、身分の関係なく多くの若者が集った。
サーバッタは、小さいころからすばしこく、身が軽く、ケンカが得意だった。身分は低く、使用人の子供だった。つまり、奴隷階級だったのだ。彼は、仕事もせずにいつもケンカに明け暮れていた。そのため、早いうちに親から家を追い出され、あちこちを彷徨いながら暮らしていた。生活の糧は、盗むかケンカをして奪うかである。そうした生活をしているうちに、彼を慕うものが現れ、一つの盗賊集団ができてしまった。サーバッタは、その集団の頭目となっていた。しかし、彼は、それで満足していなかったのだった。
「こんな生活とは、早くおさらばしたい。いつ、捕まるかわからないしな。それも不安だ」
と時々周りの者にこぼしていた。周りの者は、
「いいじゃねぇか、盗賊生活もさ。何も不自由はしていないんだぜ」
とサーバッタのことを笑い飛ばした。気の小さいヤツとサーバッタについている連中は、ひそかに彼をバカにしていたが、戦えば負けるので、誰も表立っては何も言わなかった。たとえ集団で襲い掛かっても、サーバッタに勝てる可能性はなかったのだ。それほど彼は、戦いが強かったのである。
「俺はこんなところで終わりたくない。もっと大きなものを掴みたいんだ」
そういうサーバッタの気持ちを理解できる者は、彼の周りには一人もいなかった。

ある日のこと、サーバッタは、一人で街に出た。昼時に街をぶらつくのは久しぶりだった。何となく歩いていると、兵隊募集の立て札が目に入った。
「腕に自信がある者は、試験を受けよ。合格者は、身分を問わず兵隊に起用する」
とあり、試験の日付が記してあった。彼は、「これだ!」と、その時思ったのだった。彼は、試験を受けることを決めたのだった。
サーバッタは、試験当日まで、姿をくらましていた。仲間に見つからると面倒だったので、ひっそりと隠れていたのだ。
そして、試験の日が来た。試験の内容は、重い荷物を背負って様々な障害を乗り越え走り抜けるもの、武器を使わず一対一で戦うもの、剣技と弓、それと驚くことに読み書きと計算の試験もあった。しかし、どれもサーバッタの得意とするものだった。彼は、家から追い出されたころから、生きていくために読み書きを覚え、計算能力も身に付けていたのだ。そこが、彼のもとに集まった盗賊仲間との大きな違いであった。
試験は順調に進み、終わってみれば、すべての項目においてサーバッタが一位だった。観戦していた国王もこれには驚いた。すぐに彼は兵隊として起用された。彼は、その日から一兵隊となったのだ。

最初の仕事は、街の治安を守ることだった。以前から出没している盗賊を捕まえることが主な目的だった。その盗賊とは、彼が率いていた盗賊だった。彼は、すぐに部隊の隊長に進言した。
「私が思うに、今街を騒がしている盗賊は、おそらくこのあたりを狙うのではないかと・・・」
彼の進言通り盗賊は現れ、彼が以前率いていた盗賊たちは、すべて捕縛されたのだった。盗賊たちは、サーバッタの姿を見つけると「汚い奴だ!」と口々に罵ったが、彼は知らない顔をしてやり過ごしたのだった。
この時の働きにより、彼は最下級の兵隊から、小隊の長を任ぜられた。大きな出世である。しかし、彼は満足しなかった。目指すは、第一分隊の隊長である。その上は、副司令官であり、さらに上は司令官となる。司令官の上は、軍の大臣だ。さすがに、副司令官以上は、彼の身分では望めなかった。いくら身分は問わないと言っても、副司令官以上は、そうはいかなかったのである。
しかし、第一分隊と言えば、軍隊の中でも選りすぐりの者が集まった隊であり、いわば、軍隊の中心的な隊であった。その隊長となれば、誰もが平伏するような身分である。サーバッタは、それを目指していたのだ。彼は、そのために大いに働いた。第一分隊長になるためなら、どんな仕事もした。そのため、彼が率いていた小隊は、目覚ましい成果を上げたのだった。
「サーバッタの働きにより、街が平和になった。彼の小隊が街を通るだけで、悪者は逃げ出していく」
とまで言われるようになり、彼に従っている者たちも鼻高々だった。彼は、部下たちに言った。
「いいか、このまま我々全員で第一分隊に所属できるようになろう」
部下たちは、大いに盛り上がったのだった。

ついにサーバッタの小隊は、そのまま第一分隊に所属するようになった。第一分隊の中でもサーバッタが率いてきた兵隊たちは、よく働き活躍した。それまでてこずっていた南部の反乱軍を彼らは簡単に抑え込んだ。サーバッタの作戦はいつも的中し、どんな戦いも勝利したのだ。第一分隊の兵隊たちは、サーバッタを英雄に祭り上げたのだった。
その活躍は国王の耳にも入り、彼は国王直々に表彰されることとなった。彼は、第一分隊長となった。さらには、第一分隊の兵隊たちも、表彰され賞金が与えられた。こんなことは、前代未聞であり、兵隊たちもサーバッタのおかげだと大いに喜んだのだった。
さらに、サーバッタは、国王から
「このままいけば司令官も夢ではないな」
と直接言われたのだった。しかし、その日から、彼の態度は変わったのである。

「誰のおかげでお前たちは表彰されたのだ?。そうだ、俺のおかげだ。いいか、すべて俺のいうことを聞いていればいいのだ。わかったな」
サーバッタは、急に威張りはじめたのである。元々兵隊たちには厳しかったが、その厳しさが一段と強くなった。休息は減らされ、手柄を上げることが重視された。必要以上に南部に進軍していった。
「いいか、俺に従え!。逆らう者は許さん。俺に従えば、もっと報奨金が出るぞ!」
彼はそう叫び、南へ南へと攻め入った。しかし、それは、上からの指令でもなんでもなかった。南への侵攻の命令など出ていないのである。司令官からは、侵攻をやめるように伝令がきた。
「ふん、何をバカなことを言っているんだ。今、攻めないでいつ攻めるんだ。これは国の領土を拡大する絶好の機会だ。攻めて攻めて攻めまくるのだ。いいか、俺に逆らう者は、最前線に立たせてやる。そいつらは、矢の的になればいいのだ。あはははは」
その言葉の通り、少しでも「こうしたほうがいいのではないか」と言った者は、隊の先頭に立たされ、弓矢も持たされず、囮に使われたのだった。
「俺を誰だと思っているんだ。第一分隊長だぞ。いずれは司令官になる男だ!。お前らとは出来が違うんだよ出来がな!」
いつの間にか、彼の口からはその言葉しか出てこなくなった。やがて、彼の周りからは人が少しずついなくなっていった。選りすぐりの兵隊たちは、いつの間にか統率が乱れ、真剣に戦うものが少なくなってきた。そして、ある日のこと、南部の反乱軍が反攻に出た時、サーバッタが率いていた第一分隊は、そのほとんどがいなくなっていたのだ。兵隊たちは、サーバッタの態度に嫌気がさして逃げてしまったのである。残っていたのは、サーバッタと数名の者だけだった。
「あ、あいつら・・・いったいいつの間に・・・。くそ、こうなったら、俺たちだけでも戦うぞ。いいか、活路はある。お前たち、何があっても俺を守れ。いいな!」
「隊長、申し訳ないけど、俺たちは隊長の盾になる気はない。そういうことで」
と言ってさっさと逃げだしたのだった。たった一人残ったサーバッタは、あっという間に敵に囲まれ、殺されてしまったのだ・・・。

「この話は、ほんの少し前にあったことである。さて、サーバッタの何がいけなかったのだろうか?」
お釈迦様の問いかけに、聴衆から声があがった。
「そりゃ、いくら出世しても威張っちゃいけませんよ。いくら肩書がよくなったっていっても、威張って周りを見下したら、ついてくるものはいないでしょう。サーバッタは愚か者だ」
「あぁ、そうだ。サーバッタは自分の肩書に酔っちまったんだ。だから、何も見えなくなった。たかが分隊長じゃねぇか、と思えばよかったんだ」
「そうだ、その通りだ。サーバッタは、己の肩書や立場に酔ってしまった。酔ったがゆえに、何も見えなくなり、威張り始めた。そうなれば、周囲の者もついてこなくなる。尊敬は、あっという間に失望に変わり、蔑みへと変化していく。よいか皆の者、いくら肩書が優れていようとも、その言動によっては尊敬されないのだ。けっして肩書に酔いしれてはならない。どんな場合でも酔えばつぶれるだけである。自分の肩書や立場を維持したいのであれば、いつも謙虚であるべきなのだ。わかったかね?」
お釈迦様の視線は、中央に陣取っていた近隣の小国の王族や大商人に注がれていた。彼らは、恥ずかしそうにお釈迦様の視線を外し、下を向いたのだった。そして、
「よい話を聞かせてもらった。我らも以後気を付けるようにしたい。皆さん、すまなかった」
と頭を下げたのだった。


随分前のことです。私は、名古屋から東京へ向かう新幹線に乗りました。指定席で、私は通路側でした。私は、指定席を取る場合、いつも通路側を選びます。なぜなら、何かあった時すぐに逃げられるからです。と言うのは冗談で、トイレに行くとき便利だからです。
窓側には、恰幅のいい、いかにもエリートサラリーマン、と言う方が座っていました。年齢的には50代半ばくらい。当時の私の15歳くらい上、と言う感じでした。肩書は、部長以上、と言う感じでしたね。
新幹線が発車します。私は、本を読んでおりました。すると、いきなり目の前に手がにょきっと出てきたのです。隣のサラリーマンが新聞を広げたのです。大きく両手を広げ、新聞を読んでいるのですな。

私は、身体を通路の方に傾け、目の間にチラつくサラリーマンの右手を視線から外そうとしました。しかし、どうしてもチラつくんですね。で、これがうっとうしいんです。私の身体は、ほとんど通路にはみ出し、くの字状態。苦しい体勢ですな。そういう状態で、しばらくは辛抱していました。いい加減気がつけよ、と心の中で思いながら。しかし、一向に気が付かないのですね。その人の目には、私の存在など入っていないのですな。目の前の新聞の活字しか見えていないのです。
いい加減、腹が立ってきて、「あの、手がうっとうしいんですけど」と言ってしまいました。すると、初めてそこに人がいたのかというような顔をして・・・つまりびっくりした様子で・・・こちらを見たのですな。で、口をへの字に曲げ、大きく鼻息を出すと、ムッとした顔をして新聞をたたみ、寝てしまったのですな。まあ、寝たふりなんでしょうけど。

まさか、隣の若造が苦情を言うなんて夢にも思っていなかったのでしょうな。きっと、その人はどこでも威張った態度で、それがどこでも通用していたのでしょう。誰も逆らわない、誰も苦情を言わない、そんな立場の人だったのでしょうね。それが、どこの誰だかわからない、坊主頭の若造が、「すみません」でもなく「あの、申し訳ないですが」でもなく、いきなり「うっとうしい」なんていうものだから、さぞかし驚いたのでしょうね。それでも、言い返さなかったのは、立派だったと思いますな。普通なら、「何だとこのヤロウ」となってもおかしくないことです。もしかしたら、あまりのことで、何も言い返せなかったのかもしれません。びっくりしすぎて・・・。バツが悪かったのでしょうな。ここで言い返したら、恥ずかしいと思ったのかもしれません。まあ、言い返してきたら、こっちも言い返しますが・・・。

人は、肩書がつくと、妙な自信を持ってしまうものです。で、妙に威張りだすのですな。まるで天下を取ったような気分にもなるのでしょうかねぇ。まあ、嬉しいのでしょうな、その肩書が、その立場が。特に異例の出世なんてなると、その傾向が激しいようですね。気持ちはわかりますが、その程度で喜んでもらっては、器の小ささが知れてしまいますな。肩書がつけばつくほど、謙虚であるべきなのに、と思いますな。

仏様の視線から見れば、肩書なんぞ何もならないですな。皆平等です。芸能界の大御所であろうと、大会社の社長であろうと、一国の首相であろうと大統領であろうと、皆同じ人間ですね。肩書や立場なんてどうでもいいことですな。大事なのは、その人の言動です。謙虚な態度であるか、言葉遣いは正しいか、心根はどうか・・・。身と口と心の働きが、尊敬に値するかどうか、そこが問題になるだけです。
肩書で尊敬されても意味がありません。なぜなら、その肩書を失ったら、尊敬も失うのですから。しかし、人物そのもので尊敬されていれば、肩書を失っても尊敬は失いませんな。大事なのは、身と口と心の働きです。重要な肩書や立場になった人ほど、それを心得て欲しいですね。間違っても
「わしに逆らった者、お前らのことは生涯忘れんからな」
などとハラスメントまがいの言葉を発しないようにして欲しいですね。それこそ、肩書が泣きますよ。
合掌。


第213回
今の立場、現状に絶望してはいけない。
その立場、状況にもやりがいを見出すことはできるはずである。
大事なことは、それに気が付くかつかないかだ。
腐っていては見えるものも見えなくなるであろう。


コーサラ国の王宮では、多くの者が働いていた。そうした人々に指図をしているのは、多くは大臣の息子たちであった。彼らは、それぞれの担当に分かれていた。国王の予定を管理するもの、国王の動向にあわせて警備の指示を出すもの、食事の指示を出すもの、行事の準備のために指示を出すもの、王宮の管理のために指示を出すもの、国王の家族を守るために指示を出すもの、王宮の庭を管理するため指示を出すもの、便所の清掃を管理するために指示を出すものなどがあった。その中でも、国王の予定を管理するものが最上級とされ、便所の管理者は最低と位置付けられていた。ただし、その階級は、国王が決めたのではなく、大臣の間で自然に決まってきたものであった。また、こうした仕事は、一つの担当を長年にわたって担うことはなく、何年かごとに異動があった。それを命じるのは、国王であり、異動の理由はその時の気分で行うことが多かった。つまり、人事異動に理由はなく、国王の気まぐれだったのである。

サンジャッタは、国王の家族に関して指示を出す役を担っていた。国王の第一夫人から第三夫人の動向と警備、ジェータ太子の教育やヴィドーダバ王子の子守などをすべてに引き受けていた。最も忙しい仕事であり、将来重職を担う有望な者が着く仕事であった。なので、サンジャッタは、この仕事に誇りを持っていた。
その日の仕事を終え、サンジャッタは友人たち・・・いずれも大臣の息子たち・・・と話をしていた。
「どうやら、そろそろ異動があるらしいぞ」
「ここ4年ほど、異同はなかったからな」
「はぁ、俺はもう便所掃除は嫌だ。宮中内に入りたいよ。もう毎日クソまみれで死にたくなる」
「お前がクソまみれになるわけじゃないだろ。そうなるのは奴隷たちだろ。お前は指図するだけだから、構わないだろう」
「そう思うなら、お前がやれよ」
「俺は死んでも嫌だね。オヤジに頼んで、クソの仕事だけは当たらないようにしてもらおうかな」
「でもな、誰かはやらなきゃいけないんだぜ。じゃなきゃ、王宮はクソであふれる」
「違いない。あはははは」
そんな他愛もない話だったのだが、本音を言えば、誰もがきれいな将来性のある仕事に就きたかった。とはいえ、決めるのは国王である。しかも気まぐれだ。大臣の意見や推薦などは、一切受け付けないのだ。平等でなくなるから、と言うのが理由らしい。
大臣の息子たちは、仕事の異動がはっきりするまで、不安な日を過ごすのだった。

しばらくして、国王から大臣の息子たちへ仕事の指示があった。なんとサンジャッタは、便所の担当になってしまった。
「おめでとうサンジャッタ。大事な仕事だから、頑張れよ」
「よかったなサンジャッタ。やりがいがあるじゃないか」
などと友人たちは、笑いながらサンジャッタに声をかけた。サンジャッタ以外は、誰もがホッとしているのだ。サンジャッタ自身は、「なんで俺が?」と悔し泣きをしていたのだった。そして、その夜、父親に当たり散らした。が、父親も「国王が決めたことだから」と打ちひしがれるだけだったのだ。父親も落胆していたのである。しかし、国王の命令は絶対である。嫌な仕事でもしなければならない。サンジャッタは、覚悟を決めたのだった。

翌朝、サンジャッタは仕事場に向かった。すでに便所を清掃する奴隷たちが集まっていた。
「サンジャッタ様、遅いです。もっと早くに来ていただかないと、クソ壺が溜まってしまいます」
「そ、そうか・・・。じゃあ、明日はもっと早くに来る。では、さっそく仕事にとりかかってくれ。今までやっていた通りでいいから」
「へい、わかっています。日が昇ると同時に糞尿溜まりから糞尿を取り出す。日が沈む前に糞尿溜まりから糞尿を取り出す。取り出した糞尿は、畑へ運ぶ。毎日同じです」
奴隷たちはそう言った。サンジャッタも、前の担当者から
「奴隷たちが勝手にやってくれるから、お前は仕事を見ているだけでいいぞ。ま、臭いけど楽な仕事だ」
と聞いていたので、その通りにした。確かに、奴隷たちはみな勝手に動く。サンジャッタは、怠けて仕事をしない者が出ないように、それを眺めているだけだった。
「はぁ、つまらない仕事だ。俺は見ているだけの仕事なんて嫌なんだ。あぁ、耐えられるかな。こんなのが一体何年続くのだ。あぁ、やってられない。俺は来年には結婚をする予定なのに。父親がこんな仕事をしていては、我が子も嫌だろう。ということは、子供も持てないのか? いや、そもそも、彼女も嫌がるのではないか。あぁ、まいったなぁ・・・」
そんな愚痴が、毎日のようにサンジャッタの口から洩れていた。それは自室へ戻ってからも続いた。
そんな愚痴ばかりの日々が続いたころ、さすがにサンジャッタの父親が怒った。
「いいか、サンジャッタ。お前の仕事は大事な仕事なんだぞ。お前が管理者としてあの場にいなかったならば、奴隷たちはすぐに仕事を怠ける。そうなるとどうなるか、お前にもわかるであろう。それにな、いつまでも同じ仕事が続くわけじゃない。国王のことだ。また気まぐれで異動を命じるかもしれない。それまでの辛抱だ。わかるな」
「わかってますよ、そんなことは。でもねぇ。毎日毎日、あの鼻が曲がるような匂いをかがされていたら、嫌になりますよ。前のヤツは、4年やっていた。4年ですよ、4年。よく耐えたと思います。まあ、アイツはぼんくらだから耐えられただけでしょう。でも俺には無理ですよ。ついつい考えてしまうんですよ。このまま、一生を終えることはないよなとか、結婚が遠のいたらどうしようとか、ある日クソ壺に落ちてしまうんじゃないかとか、匂いが身体について取れなくなってしまうんじゃないかとか、いろいろ考えてしまうんですよ。やってられないんですよ」
サンジャッタは、心底悩んでいたのである。
それでも、毎日朝はやってくる。サンジャッタも、しぶしぶ日が昇る前に起きて、糞尿溜まりの場所に行くのだった。逃げることはできないのだ。

ある日のこと、サンジャッタが起きてこなかった。母親が様子を見に行くと、サンジャッタはベッドの中で丸くなって泣いていた。
「もう嫌です。ただ見ているだけの仕事なんて、もう嫌です。匂いも嫌です。もう耐えられません。あのままクソにまみれて俺は死んでしまうんだ。もう、俺には将来はないんだ。このまま終わってしまうんだ。あぁぁぁぁぁ」
サンジャッタは、そう叫ぶと気絶してしまった。仕方がないので、父親がサンジャッタの代わりに職場に向かった。それは、次の日もその次の日も続いたのだ。サンジャッタは、職場に向かわなくなったのだ。
彼は、毎日昼頃起きてきて、ボーっとして過ごしていた。
「どうせボーっとしているのなら、職場でやれ。ここでボーっとするのも、職場でボーっとするのも同じだろう」
サンジャッタの代わりに毎日、彼の職場には父親が出向いていた。その父親に怒られても、サンジャッタは「嫌なものは嫌なんだ」と言って、不貞腐れる始末だった。父親は、
「こうなったら、お釈迦様に頼るしかない。明日、お釈迦様のもとに連れていこう」
と決めたのだった。

翌日、父親は、渋るサンジャッタをお釈迦様のもとへと引きずっていった。お釈迦様に事情を話し、サンジャッタをお釈迦様の前に座らせた。
「そうかサンジャッタ、それは辛かろう。しかし、汝のことだ。当然、今の仕事の重要性は理解しているね?」
そう、優しく問われたサンジャッタは、お釈迦様の意外な態度に驚いた。ひどく怒られると思っておいたのだ。だから、彼は素直に話すことができた。
「もちろん、大事な仕事だということはわかっています。ですが・・・」
サンジャッタは、自分が抱えている不安をお釈迦様に打ち明けた。何もしないで見ているだけが苦しいこと、匂いが嫌なこと、このままこの仕事が続くのではないかと言う不安、将来の展望がないのではないかと言う不安、結婚もダメになるのではないかと言う不安などを語った。
その中で、結婚については、相手方もサンジャッタの仕事について承知していることが父親から告げられた。
「これで一つ不安が減ったね。さて、匂いだが、これは慣れるしかないな。もしくは、鼻と口に布でも巻いておくか、だな。暑苦しいかもしれないが、しばらくはそれで過ごすことだ。将来への不安だが、プラセーナジット王は、確かに気まぐれだ。しかし、一つの仕事を一人に長く続かせることはない。長くても4年までだ。なぜなら、指図するものとされるものの間に特別な関係が生じるのを防ぐためだ」
お釈迦様は、過去に大臣の息子が労働者と癒着して問題を起こしたことがあることを話した。それを防ぐため、長く同じ仕事を続けさせないようになったのだ。
「通常は、3年で異動だ。それも知っているね?」
お釈迦様の問いにサンジャッタはうなずいた。
「諸行無常だ。すべては移り変わる。同じことが続くことは絶対にない。だから、異動は必ずある。安心せよ」
お釈迦様の言葉は、サンジャッタの心を癒したのだった。
「さて、汝は、ただ見ているだけの仕事が辛いという。そりゃ、ただボーっと見ているだけでは辛いであろう。ボーっとしていればな。ならば、ボーっとせず、考えたらどうだ。今、できることは何か、ということを考えてはどうかね?」
「といわれましても・・・。糞尿の仕組みは出来上がっていますし・・・」
「それは効率はいいのかね?。よく流れていくかね?、溜まり具合はどうかね?、もっと効率のいい方法はないのかい?」
お釈迦様は、次から次へとサンジャッタに尋ねた。初めうちは、首を横に振りながら聞いていたサンジャッタだったが、そのうちに
「あぁ、そうか・・・。そうだよな。あそこを工夫すれば、流れは良くなるかも・・・。そういえば、第一夫人がよく言っていた。便所が臭いと、何とかならないのかと。あれは、流れが悪かったせいかもしれないな・・・」
「そうだ、サンジャッタ。よく観察すれば、改善しなければならないことも出てくるであろう。完全ということはないのである。どんな仕事であれ、どんな立場であれ、どんな状況であれ、絶望してはいけない。そこで、やるべきことがあるはずだ。何ができるか、何をすればいいか、何が必要か・・・などと気が付くことが大事なのである。立場や状況に腐っていては、見えるものも見えなくなるし、気付くべきことに気付かなくなる。決して腐ることなく、何ができるか、何をすべきか、それをよく考えることだ。わかったね、サンジャッタ」
お釈迦様にそう諭され、サンジャッタの顔色は明るくなった。
「気付いたことがあります。明日、さっそく調べてみます」
サンジャッタは、そう言ってお釈迦様のもとを去ったのであった。

しばらくして、王宮の便所の流れを改善する工事が始まった。その工事が完成すれば、宮中内での糞尿の匂いは、随分改善されることになる。また、外にある糞尿溜まりの周囲には、囲いが設けられ、日が当たらなくなったことにより、臭気がだいぶ軽減された。さらに、よい香りのする花や木を糞尿溜まり周辺に植えた。このことにより、サンジャッタは匂いを気にすることはなくなった。
サンジャッタの功績は大きかった。大臣の息子たちからも、サンジャッタは一目置かれるようになった。当然のことながら、国王も目にかけるようになった。そうして、彼は最重要職に就くことになったのである。


世の中には、プラス思考とマイナス思考と言うものがありますよね。何でも前向きに考えることをプラス思考、何でも不安や後退的に考えるのをマイナス思考と言いますな。多くの人は、プラス・マイナスが混ざっているでしょう。時にプラス思考、時にマイナス思考ですね。で、だいたいは、プラス思考に沿っていきますな。そういう人は、あまり悩みませんね。

しかし、中には、どうしてもマイナス思考になってしまう人がいます。
「あぁ、もうダメだ、こんなんじゃ生きていけない」
「この状況は、ずーっと続くんだろうな。なんて不幸なんだ」
などと言って、自分には絶望しかない、不幸しかない、不運しかないと思い込んでしまうんですね。で、口から出るのは、クラ〜イ愚痴ばかり。これでは、楽しくありませんな。つまらない人生となってしまいます。

確かに、不運が続くと、自分はダメ人間なんじゃないか、世間から見放されているんじゃないか、と嘆きたくもなります。そう言う気持ちもわかります。私も若いころは、将来に不安を抱いたものです。しかし、世の中は変わるものです。諸行無常ですな。状況は変わるんですよ。永遠に不幸が続くことはないですな。
しかも、それだけではありません。どんな状況、どんな立場に置かれても、それが自分の思いや理想、希望とかけ離れていても、やるべきことはあるんですよ。腐っていてはいけませんな。マイナスになってはいけませんな。こんな立場だけど、こんな状況だけど、自分に何かできることはないのかな?、と考えるだけで、見えている世界が変わるんですよね。大事なことは、気付きです。やることがあるか、そこに気付くかどうかなのです。やることがない、なんてことはないでしょう。やる気が出ない、ということはあるでしょうけどね。
しかし、やる気が出ないと言ってグータラ過ごしていては、腐っていくばかりです。こんな仕事だけど、こんな環境だけど、こんな状況だけど、何かやるべきこと、やれることはないかな、と探すことが大事なのです。そこに気付くことが大事なのですね。

マイナス思考で、グチグチ言っていても何も変わりません。いや、グチグチ言いつつ自然の変化を待つのもいいでしょう。しかし、そこを切り替えて、自分にやれることはないかな、とプラス思考するだけで、世の中は変わるのですよ。不幸は続くと嘆いていると、本当に不幸になってしまいますな。
早くいい環境に変えたいのなら、不幸から脱出したいのなら、マイナス思考を捨ててプラス思考をすることですね。
合掌。


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