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第221回
現実を見ないで、勝手な夢ばかり追い、
先のことを考えず、想像もせず、適切な行動ができない者は、
苦しみが増大する。
ある村に仲良しの三人の女の子がいた。彼女たちは、大人の手伝いの合間におしゃべりを楽しんだ。話すことはいつも同じようなことで、将来どんな相手を選び、結婚をするか、ということだった。
「私は、お金持ちの人がいいな」
と一人が言うと、
「そんなの無理でしょ。私たちの身分を考えなさいよ」
と一人が答え、残りの一人がうなずく、というのが彼女たちの会話だった。

その日もいつもと同じ話で盛り上がった。
「あぁあ、お金持ちと結婚して楽がしたいわぁ」
「無理だって。私たちの身分を考えなよ。3人とも大農園の雇われ人の娘だよ。雇われ人の娘は、雇われ人の息子と結婚することに決まっているのよ、ねぇ」
「あ、うん・・・うん」
「あんたはいつも『うん』しか言わないけどさ、お金持ちと結婚したいと思わない?」
「あ、うん・・・思うけど、無理だと思う」
「そうよねぇ、無理だよねぇ。現実は厳しいのよ」
「でもさ、夢見るくらいいいじゃないの。そう、夢よ。いつか素敵なお金持ちの若者が私を好きになってくれるの・・・あこがれるわぁ」
「はいはい、夢ね、夢。それよりもさ、いつ頃結婚するんだろうね、私たち」
「そうねぇ、いつなんだろうね・・・」
当時の結婚は、女性は十代半ば、16歳くらいから結婚し始めるのが通常であった。遅くとも20歳くらいまでには結婚をし終えていた。もちろん、結婚をしないで過ごす者もいた。そういう女性は一生を雇われ人やお手伝いで過ごしたり、雇い主の第2夫人・第3夫人になったり、愛人になったり、遊女になったりした。当時のインドでは、王族や大金持ちは、一夫多妻制が当たり前であったので、雇われ人の身分でも、王族や大金持ちの第3夫人程度になれるチャンスはあったのだ。

時は流れ、3人の仲良し女子も、そろそろ結婚の時期がやってきた。一番最初に結婚をしたのは、いつも肯いている娘であった。相手は、同じ農園で働いている若者だった。
「ねぇねぇ、なんで同じ農園で働いている彼と結婚したの?。金持ちじゃないじゃない」
「え?、うん。今の生活とあまり変わらないから・・・かな。今の生活は、贅沢はできないけど、安定しているし。二人で農園で働けば蓄えもできるし、実家もすぐ近くだし・・・。安定が一番大事かなと思っていたんで」
「あんた、いつも何も言わないけど、秘かにそんなことを考えていたの?」
「うん。一応、結婚後のことを考えて、こうだったら楽かな、こうだったら安定しているかな、って想像していた。だからそれに見合った人が現れれば、いいかなって・・・」
「ふ〜ん、現実的だよねぇ。はぁ・・・、私は、そこまで考えられないわ」
「あんたは、夢ばかり追いかけているからね。現実は違うのよ」
「夢ばかり追いかけていないよ。これでも考えているわよ。バカにしないでよ!もう帰る!」
そう言って、金持ちとの結婚を望んでいる娘・・・ベルナ・・・は、怒りながら家に帰ってしまったのだった。
「もっと現実を見ないとね。私たちの身分や器量もね、考えないと・・・」
「うん。安定するのが一番よ。将来、ず〜っと働いてくれる男性、それが大事。地味にコツコツと働いててくれて、家庭を大事にする男性が一番いい」
「そうよねぇ。そう思うわ、私も。だから、私ももうすぐそういう男性と結婚することになってる。高望みしても仕方がないし・・・」
「それはよかった。おめでとう」
こうして、仲良し3人組の二人までが、同じ農園で働いている男性と結婚をしたのだった。

その1年後、結婚をした女性たちには、子供が生まれていた。二人は、子育てをしながら同じ農園で働いてもいたので、仲良く過ごしていた。しかし、もう一人の金持ちとの結婚を望んでいた娘ベルナは、農園の仕事に現れなくなっていた。彼女は、町に出て行ったのだった。
そんなベルナがある日のこと、一人の男性を連れて村に戻ってきた。彼女の身なりは田舎の村では見ないような派手になっていた。彼女は、男性を連れ、実家に戻ると
「この人と結婚するから。もう、子供もできたみたいだし」
と親に告げたのだった。親は驚いたが、まず男性に職業を尋ねた。
「はぁ、とりあえず、日雇いで石を積んでます」
「どういうことなんだ?」
「はい、大きな家の塀を造っているんです」
「その仕事が終わったら?」
「まあ、何とかなると思います」
ベルナが連れてきた男性は定職がなく、その日その日で雇われる身分だったのだ。親は呆れかえったが、とりあえず怒らずに娘に「どこがよかったのか?」と尋ねた。
「だってぇ、この人は、いろいろな面白いことを知っているの。町のいろんなところに連れて行ってくれるし、楽しいのよ。毎日が楽しいの。農園で働いていた日がバカみたいに思えてくるのよ。あはははは」
ベルナのその答えに、親はなすすべもなく、ただただあきれるばかりだった。
彼女は、彼を連れ農園へ向かった。そして、仲良しだった二人に彼を紹介し、
「あんたたちみたいに一生農園で暮らす、真っ暗な人生じゃないの、私は。町で彼と楽しく過ごすのよ。あんたたち、知ってる?。町じゃねぇ・・・」
彼女は、二人に町での楽しい日々を自慢したのだった。それを聞かされ二人は、彼女が帰って行く後姿を見て
「あんな生活、いつまでも続かないわよね」
「後悔しなきゃいいけど・・・」
と心配したのだった。

それから3年がたった。仲良しだった二人は、子供がさらに増えていた。暮らしは豊かとはいえないが、貧しいわけでもなく、不自由もなく、楽しい日々を過ごしていた。農園の収穫の時期が終われば、しばらく休みももらえた。特に不満もない生活だった。そんなところに、ベルナが子供を連れて帰ってきた。その姿は、荒み切っていた。
「あれ?、旦那はどうしたの?。その子、ベルナの子?」
「あぁ、そうよ。産んじゃったのよ。男はね・・・あんな男、捨てたわ。ちっとも働かないし、金はないし。バカみたい」
「えっ?、じゃあ、今は?」
「今?・・・とりあえず、そうねぇ、お休み中かな?・・・ねぇ、悪いんだけどさ、お金貸してくれない?」
彼女の言葉に、二人はびっくりして顔を見合わせた。
「あの・・・あんたも知っていると思うけど、私たちの身分は・・・」
「あぁ、悪かったねぇ。雇われ人だもんねぇ。貧乏な雇われ人。忘れてたわ。悪い悪い。あんたら金はないよね。忘れてた私がバカだったわ」
そういうと、ベルナは子供を連れて姿を消したのだった。

それから1年が過ぎた。農園には何の変化もなく、気候も悪くなく、収穫も多くあった。おかげで雇われている者たちは、安定した生活を過ごしていた。そこへ、またベルナが戻ってきた。今度は、子供を二人連れていた。
「暇でさぁ。雇われ人さんは、どんな生活をしているかと思ってさ、見に来てやったんだよね」
そういうベルナは、どう見ても裕福そうではなく、やつれていた。
「ベルナ、あまり意地を張らないほうがいいんじゃない?。現実を見てさ・・・生活、大変なんじゃないの?。子連れでもいいっていう男性は、この村にもいるよ」
昔の友達だからと思って、そう声をかけたが、ベルナは
「大きなお世話だよ!。私はこの村が嫌なの。現実を見ろ?。バカにするんじゃない。ふん、こんな村、もう二度と帰ってくるもんか!」
と叫んだ。そのベルナに声をかけた者がいた。
「バカな者は、汝だよ、ベルナ。この者たちは、汝を心配しているのだ。もっと素直になったらどうだね?」
それは、お釈迦様だった。お釈迦様は、たまたまその村に滞在していたのだ。
「な、何だっていうのさ、うるさいんだよ。あんた誰さ。偉そうなことを言いやがって!」
「おいおい、お釈迦様に向かって、何という口の利き方をするのだ! 謝りなさい!」
農園主が慌てて飛んできてそう言ったが、お釈迦様は優しく微笑み、「いいのですよ」と言った。
「それよりもベルナ、汝も気付いているのであろう?、自分の過ちに。気付いているけど、意地を張っている、そうだね?」
お釈迦様は、優しくベルナに話しかけた。そのお釈迦様の目は、慈愛に満ちていた。
「だ、だって・・・だって・・・私だって・・・あいつらより・・・いい結婚がしたかったんだ・・・ただ、それだけだったのに・・・」
ベルナは、泣き崩れてしまったのだった。いつの間にか、村中の者が、農園での異変を知って駆け付けていた。

「よいかベルナ。いや、ここに集う者たちよ。現実を見ないで、自分勝手な夢ばかりを追い、先のことを考えず、想像もせず、適切な行動ができない者は、苦しみが増大するのは当然であろう。
よいか、この世はただでさえ、苦しみの世界なのだ。その世界で生きていくには、現実をよく見て、自分をよく知り、自分に見合ったことだけを望み、そのために適切な行動をするのが最も幸福となる道なのだよ。
ベルナよ、かつての友を見るがよい。彼女たちは、自分がどんな立場であるか、現実をよく知っていた。その現実を素直に受け入れ、分不相応な夢を追わず、望まず、現実的な生活を選んだのだ。先を考えれば、後々のことを想像すれば、それが一番安定していると知ったのだよ。だからこそ、この村で生きることを決めたのだ。
ベルナよ、汝のように現実を無視し、ただただ自分の夢や欲望だけを追い、何も先のことを考えず、想像もできない、どう行動していいか考えることもできない・・・それでは苦しくて当然であろう。ベルナよ、もっと自分を知り、現実を見て、それを受け入れるがよい」
お釈迦様の言葉に、周りにいたみんながうなずいた。
「そうだ、ベルナ、お釈迦様のおっしゃる通りだ」
「ベルナよ、村に帰っておいで。そして、村で過ごしなさい。お前には、それが似合っているよ」
「また、三人で仲良くしようよ、ね、ベルナ」
村の人々やかつての仲良しの彼女たちも優しくベルナに声をかけたのだった。
「ありがとう、ありがとう・・・。私が間違っていた。ごめんなさい・・・」
ベルナは素直にそう言って、皆に頭を下げたのだった。

しばらくして、ベルナは、子連れでもいいと言ってくれた男性と結婚をした。その男性は、見栄えは地味でよくはなかったが、働き者で子煩悩だった。おかげでベルナは、何不自由なく暮らしたのだった。
「現実を見ていなかった昔の私は、本当に愚か者だった。バカみたいに夢ばかり追っかけて・・・。もっと早くから先のことを考えられる人間だったら、こんな回り道しなくてもよかったのに・・・」
「何言ってるのベルナ。今は幸せなんだからいいじゃない。これからは、この幸せが長く続くに考え、想像して、それにあった行動をすればいいのよ」
「そう、そうすれば苦しみは無いと思う」
「そうね、そうだよね。ありがとう、これからは私もよく考えるようにする」
彼女たちは、昔のように農園の隅で座って、仲良く笑いながら話をしたのだった。


「シングルマザーになりました」
こういう方が最近は多くなりました。もちろん、シングルマザーになった事情は、それぞれいろいろあることでしょう。御主人さんが亡くなった、旦那のDVや浮気などが原因で離婚した・・・。シングルマザーになった事情は、それぞれですね。そんな中でも、結婚もしていないシングルマザーの方もいらっしゃいます。そういう方にもいろいろ事情はありますが、どうして?と首をかしげたくなる事情もあるのが現実ですよね。わざわざ苦労しなくてもいいのに、という場合ですな。

「子供ができた、と言ったとたん、アイツは逃げた」
なんていう話を時々耳にします。母親一人で、ひっそりと子供産んだ、という話も耳にします。最悪の場合、産んだ子の命を奪ったり放置したりという事件もあります。そんな状態になるまで、何で放っておいた?、なぜ誰かに相談しなかった?、と思いますよね。周りの大人も気付かなかったの?と思う方もいるでしょう。同時に、いつまでたっても、苦労を背負うのは女性なのか、と悲しくも思いますな。

「なぜ先を考えなかったの?」
と問いかけることがあります。どうしようもない男と関係を持って、子供ができたとたん逃げてしまった男。そんな男とどうして関係を持ったのか、先のことを考えなかったのか、そんな男と気が付かなかったのか・・・。
「だって、その時は楽しかったから・・・」
自分勝手な欲望の果て、ですね。現実から逃げ、快楽だけを追い、一時の欲望を満たした結果が妊娠です。
「勝手なことをしたから仕方がない、受け入れて一人で育てなさい」
という大人もいるでしょう。苦労しろ、と叱咤する大人の方が多いでしょうな。でもね、苦労するのは、親だけじゃなく、生まれてくるお子さんも苦労するのですよ。子供を抱えたら、自分だけの人生ではなくなるんですよね。子を持つ、ということはそういうことなんですけどね。現実逃避して、快楽に溺れる者には、そこまでは想像できないのでしょうな。

「今、どういう行動をすべきか?」
現実をよく観察し、勝手なことばかり主張せず、先を考え、先を想像し、どんな行動をすればよいのか、それができないと苦労は増えるのです。シングルマザーになる、ということだけではありません。これは、どんな場合にも通用することです。今、コロナウィルスが流行っています。この感染が爆発的に増えないようにするには、我々はどうすべきか、ということをよく考えられないと苦しみは増大しますな。
現実を受け入れ、勝手な行動をせず、先を考え、先を想像し、適切な行動をとる・・・。それが、自分自身の、社会全体の幸福につながるのです。
合掌。


第222回
今できることをやり、最善を尽くしたのなら
あとは待つだけである。
信じて待つことができる者は、強い。
今回から、スタイルを変更いたします。これまでは、仏典などの物語からアレンジを加えてお話を書いていましたが、今回からフリースタイルで「とびらの言葉」のお話をいたします。まあ、ネタ切れなんですよね。ご了承ください。

待つことが苦手な方は、とても多いと思います。私もせっかちな方ですが、実は待てと言われれば結構待てます。本があればきっと何時間でも待っていられるでしょう。まあ、それもどうかと思うのですが、待たなきゃ仕方がない時は、待つことができる人は有利ですよね。

でも、ただ単に何もせず待つ、というのはいかがなものかと思います。待つならば、待つだけの気持ちができていないといけないのではないでしょうか?。ちょっと変な言い方になってしまいましたが、待つのなら、ちゃんと待つだけの準備をしておくべきでしょう。やるべきことをやって、そして待つ、でないと、ただ単にボーっと待っているだけではダメですよね。棚ボタはありません、普通はね。
ちなみに、棚ボタはあまりお勧めできません。というか、危険ですな。棚から牡丹餅は喉が詰まるだけです。突然降ってわいたようなうまい話には、注意が必要ですな。世の中そんなに甘くないですからね。余談でした・・・。
話を戻します。昔から言うではありませんか、「人事を尽くして天命を待つ」と。やるべきことをやって、今できることのすべてをやりつくして、その上で待つ・・・。やるべきことはやったんだ、あとは待つだけだ、と覚悟を決めて待つ。それが大事だと思います。

弘法大師様は、唐から帰国した時、2年ほど都へは戻っていません。20年の留学僧の約束で唐へ行ったのに、わずか2年で帰ってきてしまったから、大宰府で謹慎します、と言って都へは帰らなかったんですね。同じ条件の橘逸勢は都へ帰っているのですが、お大師さんは帰りませんでした。まあ、橘逸勢は貴族の子息なのでお咎めはないでしょうから帰れた、という話もありますが、その時のお大師さんの立場や環境を考えれば、直接に都に帰ってもせいぜいしばらく謹慎程度のお咎めで済んだのではないかと思われますな。橘逸勢の擁護もあったでしょうし。でも、都へは帰っていません。大宰府で自ら謹慎をしています。
で、唐から持ち帰った仏具や仏画、経典などの目録を都へ送っておりますな。その目録の中身は、ほぼすべて日本の誰も目にしたことがないものばかりのものだったのです。珍しいものばかりですね。
それを目にした天皇は、さぞ本物が見たい、と思ったでしょうな。

「本物が見たいから、空海を都に呼び戻せ」
そんな言葉がお大師さんに届いたのは、目録を提出して2年もたっていたのです。ひょっとしたら、お大師さんは、もっと早くにお声がかかると思っていたかもしれません。
「長いのう、まだかのう・・・。あの目録、内容はすごくいいのに、価値がわからないのかのう・・・」
と言って首を長くして待っていたかもしれません。確かに、内容からすれば、すぐに天皇が飛びついてもおかしくないものばかりなのですから。

天皇の周りには、新参者の登場を喜ばない者もいたことでしょう。そういう者が天皇に目録を見せなかったかもしれません。あるいは、愚鈍な者ばかりで、目録の価値がわからず放置していたのかもしれません。そうこうしているうちに、「これは天皇に見せなければ」と気付いた者がいたのか、あるいは、橘逸勢あたりが「空海からの書状があるはずですが」と進言したのか、そのあたりのことははっきりしませんが、約2年たって天皇はお大師さんの目録を目にするのですな。で
「空海を都に呼び戻せ。謹慎している必要はない」
となるのです。
ですが、「はい、ガッテン承知」と言ってお大師さんは、都にすぐに戻ったわけではありません。じらしてじらして、それから戻っていますな。2年も放置されたのですから、そこですぐに戻ったんじゃあ、2年待ったかいがないですよね。待ってました〜って慌てて行ったら足元を見られますからね。ここは駆け引きですな。せっかく高めた価値を落としちゃいけません。
待つことは大事です。

お大師さんの若いころを振り返ってみれば、待つことの連続だったかもしれません。都の大学も2年遅れて入学しています。入学の許可を2年待っていたのですな。その大学を辞め、野山を放浪するうちに唐へ渡る必要があることに気付いたのだろうと思いますが、その唐へ渡るまで7年かかっています。
当時は、唐へ渡ろうと思えば勝手にわたることができたそうです。密入国ですね。唐からも来ていたし、日本からも渡っていたでしょう。もっとも、それは命がけのことですが。しかし、考えてみれば、正式に唐に渡るのも、当時は命がけですな。違いは、堂々としていられるか、コソコソしないといけないか、だけです。
人々を救う、そのために日本を変える、日本の宗教を変える・・・そういう決意があるのなら、当然、コソコソはダメですな。堂々と唐に渡らねばなりません。
そのために7年かかっています。正式に唐に渡るには資格がいります。国の命令や推薦で唐に行く場合は、国費でいけますが、個人で行こうと思うなら費用がいります。自費なんですよ。そのために、お大師さんは、唐の言葉をマスターし、資金を貯めます。

すべて準備が整った・・・。そこまでに至るまでに、7年必要だったのでしょうね。そして、遣唐使船に乗せてもらえるよう、手を尽くしたのですな。正式な僧侶ではなかったので、慌てて得度した、なんてこともありました。
実は、お大師さんが乗った遣唐使船、出航が延期になっていた船だったんです。本当は、お大師さんが遣唐使船に乗せて欲しいと言い出す前に唐へ向かって出航するはずの船だったのです。実際には一度は出航したのです。が、嵐に遭って出航が遅れたんです。船も損傷したので、修理も必要でした。で、出航が遅れたんですね。たまたま、それに間に合った、のですな。まあ、何という幸運・・・なんです。もし、その船に間に合わなかったら、次の船はいつか分かりませんからね。本当にラッキーだったのですな。
ともかく、遣唐使船に乗ってもよいという許可を得ることができたのですな。まさに人事を尽くして天命を待つ、ですね。

さらに、お大師さんは待たされますな。まずは船が遭難します。船は漂流してしまいます。船の中では、もう待つしかないですよね。いつ難破するかわからないようなボロ船で漂流したのです。その時の心境は
「御仏を信じて待つだけだ」
だったことでしょう。それ以外に何もできませんしね・・・。
ようやく流れ着いたのですが、そこは唐の都からはるか遠くの赤岸鎮。そこで足止めを食らいますな。海賊と間違われたのです。ここでも待たされることになりますね。
幸いなことに遣唐使の代表者がお大師さんと同じ船に乗っていました。が、幸いではありませんでした。この役人、ま〜ったく役に立たなかったんです。どう相手の役人に説明したのか、誤解が説けませんな。で、挙句の果てに
「そういえば留学僧の空海は唐の言葉が堪能だと聞いている。アイツに交渉させよう」
ということで、役人、お大師さんに通訳を頼みますな。お大師さん、すんごい文章を書き、現状を訴えます。これが功を奏して海賊の誤解が説け、唐の都に行ってもよいという許可が出ます(随分、端折ってます。詳しく知りたい方は、ご自分で本を読んでください)。
まあ、待たされたのですよ、ここでもね。

待っていたのは、お大師さんだけではありません。お大師さんの師となる恵果阿闍梨も待っていました。長いこと、長いこと、待っていたのです。自分が体得した密教の奥義総てを受け継ぐ者をね。
自分の弟子にはいなかったのです、そこまでの器の者は。誰も恵果阿闍梨の境地を理解できなかったのでしょう。ですが、日本から現れた空海という僧侶は別格だったのです。恵果阿闍梨は
「あなたを待っていた。あなたが来ることをず〜っと待っていた。さぁ、さっそく伝えよう」
と言って、お大師さんに密教の総てを伝授しますな。恵果阿闍梨も長く待っていたのですよ。

偉大なる人は、待つことができるのです。お大師さんは、その著書である「般若心経秘鍵」の中でも
「賢者の説黙(せつもく)は時を待ち人を待つ」
と説いています。これを話していいのか、いけないのか、その判断は、その受け取る側の人にもよりますし、タイミングもあります。賢者は、説いていいタイミング、人を待っているのですな。むやみやたらと語らないのです。理解できる人を待ち、話していいタイミングを待つのです。

待つ・・・。これは大変難しいことです。これができるのは、賢者である証拠でしょう。今やるべきことをやって、今できることすべてやって、そして次の行動に出る時を待つ。あるいは、自分を支援してくれる人を待つ。あるいは、よい結果を待つ。
待っているときは、そりゃもう苦しいことでしょう。しかし、いずれは「待ったかいがあった」という時が来るのです。そうなるためにも、今やるべきこと、今できることをやってくのです。
そうでないと、「待ったかいがあった。待っててよかった」という結果は得られないのです。

最後に、お釈迦様が修行をされていたとき、バラモンから「おまえは何ができる?」と問われた時の答えを紹介いたしましょう。お釈迦様はこう答えました。
「私は断食ができる。私は瞑想ができる。そして私は待つことができる」
合掌。


第223回
清でもなく濁でもない。また、清でもあり濁でもある。
どちらにも偏らない、極端にならない。
それが中道である。汝ら、中道を歩め。

仏教は戒律が厳しい、と皆さん思っていらっしゃるようです。まあ、確かに「やってはいけないこと」はたくさんあります。得度をし、受戒を受けると、男性は約250、女性は約350の戒律を受けることになります。しかし、その戒律の多くは、仏教教団を維持するうえでできたルールです。なので、現代の仏教には合わない戒律もたくさん存在しています。
たとえば、女性と一室で話をしてはいけない、、という戒律があります。これを守っていたら、女性の相談者の話は聞くことができません。あけっぴろげではプライバシーが守れませんから。この戒律は、一室で女性と対面していると、修行僧が妙な誘惑にかられてしまった・・・という事件から成立しました。まあ、当時のインドですし、そういうこともあったのでしょう。もし、今、こうした間違った行為があったら、訴えられてしまいますからね。本当の事件になってしまいます。
このように、時代にそぐわない戒律が実はたくさんあるのですよ。

お釈迦様は、極端を嫌いました。何にも偏らない、何にも執着しない、どちらにも偏らない、真ん中を行け、と説きました。それが中道ですね。
お釈迦様自身、悟りを得るまでは極端な道に走りました。王子時代に抱えた悩み・・・人はなぜ生まれ、老い、死んでいくのか・・・を解決するために、いろいろ試してみたのです。王子時代には、快楽に溺れてもみました。快楽によって悩みを忘れてしまえ、ということだったのでしょう。周囲からそう言われたのかもしれません。楽しいことをしていれば、悩みなんて忘れるさ・・・と。それで、快楽に走ったのですね。これは、極端な行為でした。快楽に偏ったのです。
王位を捨て、城を出たあとは様々な苦行を試みました。最終的には断食までしています。これも極端ですね。苦行に徹するという、偏った修行をしたのです。

しかし、快楽でも悩みは解決せず、苦行でも悩みは解決せず、結局、快楽の道も苦行も道もお釈迦様は捨てました。そして瞑想に入り、悟ったのですね。その覚った際にわかった事の一つが、どちらにも偏ってはいけない、中道を歩むべきだ、ということです。それは、快楽に偏っても覚りは得られないし、苦行に偏っても覚りは得られない、という経験に基づいたうえでの結論だったのです。
お釈迦様は、自分の教団を創った後も、中道を守るように指導しています。快楽もしない、苦行もしない、そう弟子たちに説いたのです。戒律ができたのは、その教団を維持するための法律、ルールにすぎないのです。けっして、教えではないのですよ。

お釈迦様がいらした当時の修行者たちは、極端に走る修行者が多かったようです。ジャイナ教では衣装を何も着けない、という極端な指導をしていました。またある宗派では、乳製品を一切口にしない、という指導をしていた教団もあったようです。あるいは、一切歩かないとか、手を上げっぱなしにしているとか、絶対に寝ないとか・・・まあ、様々な極端な修行者がいたのです。
お釈迦様は、清潔な衣をつけよ、と説き、食事は托鉢によって得るため、あれはダメこれはダメという差をつけるな、と説きました。清潔に注意し、教えを聞いたら、瞑想をして教えを理解するようにし、穏やかな時間を過ごす・・・それが、本来の仏教教団の過ごし方なのです。そういう生活をしていれば、戒律というルールは無用だったでしょう。ですが、修行者の中には、そんな生活ができない者もいたのですね。だから、ルールができるのです。しかし、そのルールにこだわり過ぎるのも本当はいけないのです。ルールはあくまでもルールであり、教えではないからです。

お釈迦様が涅槃に入ってこの世から姿を消されたあと、教団を引き継いだのはマハーカッサパでした。実はこの方、ちょっと極端な方でした。詳しく書くと長くなるので、かなり省略します。
出身は裕福なバラモンの家だったと思います。上品に育ちますな。成人して結婚を進められますが、本人は出家するつもりでした。ですが、周囲のために、結婚を好まない、自分と同じ考えの女性と偶然、結婚をします(非常に作為的ですが・・・)。で、二人は夫婦の営みも全くなく、それどころか手を触れることも無く、二人して出家してしまいますな。マハーカッサパは奥さんに「素晴らしい師に出会ったら連絡しよう」と約束もします。
しばらくしてマハーカッサパはお釈迦様に出会い、弟子となりますな。そして、すぐに悟りを得ます。しかし、奥さんのことは忘れていますな。それどころか、アーナンダが尼僧を認めてくれとお釈迦様に懇願したとき、大反対をします。あれ?、奥さんとの約束は?と思いますが、そんなことはなかったことのように反対したのですよ。ですが、お釈迦様が尼僧を認めると、しばらくしてから元奥さんを呼び、出家させます。
それだけではありません。マハーカッサパは、托鉢する際、貧乏な家にしか行きません。貧しい家にあえて托鉢に行きます。お釈迦様は、どの家も平等に・・・と諭すのですが、拒みますな。「貧しい家の人に徳を積ませ、来世は裕福になるように願っている」という理由なんだそうです。このことは、維摩経でも揶揄されてますな。維摩居士に「中道ではない」と突っ込まれています。ですが、貧しい家限定の托鉢はやめません。頑固で極端な所があったのですな。

お釈迦様が涅槃に入った際、「これでとやかくうるさいことを言われなくてよかった」と言った弟子がいました。まあ、最低ですけどね、その弟子は。その話を聞いたマハーカッサパ、長老たちを集めてお釈迦様の教えを確認し合うことを提案しますな。第一回結集です。しかし、この時もアーナンダが責められます。まだ悟っていない、尼僧教団を無理やり認めさせた、お釈迦様の「寿命は自由になる」という言葉を無視した、まずは悟れ、そして過ちを認め懺悔しろ、と言われるのです。あれ?、奥さんを出家させたんじゃなかったっけ?、それはいいの?、と思いますが、それには触れてませんな。
アーナンダは、必死に修行し悟ることができ、しぶしぶ懺悔しますな。でも、このことで二人は相容れないのだ、分かります。

マハーカッサパは、どちらかというと戒律重視ですね。良い言い方をすれば厳格、自分に厳しく他人にも厳しい、というタイプです。しかし、ちょっと極端ですな。「出家者は清でなくてはならない」を貫いた人ですね。でも、これ、お釈迦様の教えに反してますな。ここから、仏教はお釈迦様の仏教ではなく、マハーカッサパの仏教になっていくのですよ。清でなければならい、厳格でなければならない、戒律重視、出家至上主義・・・という極端な仏教になるのです。

「人間は本来清浄であるが、この世界に生きることにより濁となる。つまり、人間は清でもあり濁でもある。そして、清でもなく濁でもない」
これが、本来の仏教の姿です。清でもなく濁でもない、清であり濁である・・・どちらにも偏らない、中道を歩む・・・。清も濁も認める、それが本当の仏教ですな。
大乗仏教が起こり、マハーカッサパの仏教は次第に少数派になります。そりゃそうでしょう。お釈迦様自体、民衆を相手にしていたのです。そこが欠け、出家者のみのための仏教になれば、廃れて当然ですな。中道を行け、と言った教えを守らなったが故の衰退ですね。

極端な行為は衰退を招きます。破滅を招きます。極端は避け、バランスをとった行動をしないと、心に余裕がなくなります。心に余裕がなくなると益々極端に走ります。
清らかばかり、正義ばかりが正しいのではありません。それだけでは生きてはいけないのです。濁もあり、ちょっとだけズルもあっていい、そうした緩やかさがないと、人は生きてはいけません。グレーゾーンがなければ、社会は成り立たないのです。清水の中で魚が生きられないように、極端な社会では人は生きてはいけないのです。
「清濁併せのむ(清濁を認める)」その度量が必要なのですよ。
合掌。


第224回
他人のことなどどうでもよいであろう。
ただ、自分が為したこと為さなかったこと、自分が話したこと話さなかったこと、
自分が思ったこと思わなかったこと。
それだけを意識し、気にするべきである。

ようやくいろいろな規制が解除され、普通を取り戻しつつありますね。ですが、やはり3密になることは避けなければいけません。コロナが流行る以前と同じ状態には戻れませんな。
今、世の中で言われる3密は「密閉・密集・密接」ですね。この三つの密を避けるようにしてください、とのことですな。3密を避けたほうが、コロナに感染するリスクは低くなりますからね。ぜひ、皆さんも3密を避けてください。

ところで、3密と言えば、我々真言宗の僧侶にとっては重要なことですな。
「三密加持すれば即疾に顕る」
という言葉があるくらいですな。お大師様がいらした頃から、我々真言宗にとっては「三密」は重要なのですよ。
密教で言う三密とは、「身密(しんみつ)、口密(くみつ)、意密(いみつ)」のことです。「身口意」は、「身体と口と心」ですね。つまりは、「行いと言葉と思い」です。それがそれぞれ「密」なのです。この場合の密は「秘密」の「密」です。
行動や言葉、思いが秘密とはどういうことかといいますと、簡単に言えば、行動・言葉・思いが如来と同じになる、ということです。
仏様と同じ行動、仏様と同じ言葉、仏様と同じ心、そうなれば覚りですね。その覚りを得るために、三密加持するのですよ。つまり、
「印を結び(=仏様と同じ行動)、真言を唱え(仏様と同じ言葉)、慈悲心に心が満たされる(仏様と同じ思い)」
この状態になることが、三密加持なのです。三密加持すれば、すぐさまに御仏が現れる=即身成仏できる、のです。これが真言宗の究極の教えですね。ですから、三密はとてもとても大事なのですよ。避けるものではないのです。

最近、というか以前からですが、ネット上の誹謗中傷がひどいですね。先日も、ドラマに出ていた女性の方が、そのドラマ上のことで誹謗中傷され、死に追い込まれました。
「そんなことで。ネット上の誹謗中傷なんて無視すればいいのに」
と思う方もいらっしゃるでしょう。しかし、案外、それは応えるものだと思いますよ。ましてや、いわれなきことならば、余計ですよね。そのドラマ、リアリティードラマとかいうらしく、演出はほとんどない、リアルな内容、というのが売りだったらしいですな。だから、そのドラマの中での振る舞いがリアルだと取られ、批判されたのです。その批判は、だんだん強くなっていき、やがて悪口・誹謗中傷となっていったのですな。
しかし、TVでのことで、リアルはありません。あるわけがないでしょう。たとえニュースだって、どこまでがリアルかわかりません。先だっても、一般人へのアンケートが実は人数分行われていなかった、ということがありました。たくさんの人からアンケートを取るのが面倒で、「まあ、こんな程度でいいだろう、あとは造っちゃえ」ということだったようですね。
どんなことにしろ、人間の手が加わったら、それはもうリアルではありませんな。例えばドキュメンタリーだって、編集が行われれば、もう真実とは違います。編集は、編集者の意図が含まれますからね。意図的にカットされる、意図的につなぎ合わせられる・・・ということが起こります。その時点で真実とは異なりますな。TV番組は、人が介入する以上、真実はないのです。それを忘れてはいけませんな。TV番組は、どんなものでも作りものなのですよ。真実ではないのです。だから、TV番組の内容を真に受けてはいけませんな。
むかし、「おしん」というドラマで、おしんをイジメる役の人が、街中で「もうイジメないでくれ、お前は何てひどい奴だ」などと言われて困った、という話をしていましたが、それと同じですな。今はネット上で誹謗中傷するのです。TVドラマを真に受けるなんてバカだな・・・、と笑ってはいられません。いつの間にか、同じことをやってしまうかもしれませんからね。

「他人のことなんて、どうでもいいじゃないですか」
と私はよく言います。
人のことなんてどうでもいいでしょ、何で気にするの?、何でイチイチ話題にするの?、何で世話やくの?、頼まれたの?・・・
私はよくそのように言います。実際、どうでもいいと思いませんか?。特に芸能人のことなんてどうでもいいでしょ。誰が不倫しようが、誰が離婚しようが、誰が遊びに行こうが、どうでもいいじゃないですか。そもそも実際に関係がある人ではないでしょ。他人が離婚しようが不倫しようが関係ない話でしょう。どうでもいいですよね。それをイチイチネット上に書き込むのって、暇なんだなぁ、と思いますな。隣の人が転んだって聞いても「あぁ、そうですか」で済みますし、「誰それが、〇〇したんだって〜」と聞いても「ふ〜ん」で済むでしょう。当事者や関係者でないならば、どうでもいいことですよね。
ドラマの中で若い女の子が、ギャーギャー怒って、いつまでもしつこく怒って・・・という姿を見せても、ドラマですからね。どうでもいいでしょう。不快ならば見なければいいんです。それを鬼の首を取ったように誹謗中傷って、バカバカしいと思ないのかな、と思いますな。
何人か人が集まると、誰かの悪口が始まることがありますが、それもどうでもいいことですよね。特に関係のない、他人事ならば本当にどうでもいいことです。
相談されているわけでもないのに、イチイチ口出しするのもよくありませんな。お子さんが何か新しいことを始めようとすると、「それはやめたほうがいいんじゃないか、そんなことしていいのか・・・」なんて口を挿む親がいますが、そんなの大きなお世話ですよね。本人がやろうとしていることを邪魔してどうするのですか?。もちろん、犯罪に関わることをしようとしているなら止めるべきですが、そうでないなら自由にさせてあげればいいじゃないですか。そうやって口を挿むことで、お子さんの自立心が育たなくなるんですな。こういうことは、よくある話です。親子間だけじゃなく、友人同士でもありますな。余計な口出し、大きなお世話・・・。相談されたならまだしも、そうでないなら黙っているべきでしょう。

なぜ、人は他人のことに口を出したがるのか?
わかりません。他人のことをとやかく言う前に、自分はどうなのかを考えたほうがいいと思います。他人がどんな行動をしようが、それが法律に触れない限り、それが他者を不幸にしない限り、自由にやらせてあげればいいでしょう。なのに人は
「えっ?、そんなことするの?」、「そんなことしていいの?」、「止めたほうがいいんじゃない?」
などと口出しするのですな。訳が分かりません。
「自分の子供が失敗するのがかわいそうだから」
という理由で口出しする親は多いと思います。いやいや失敗するかどうかなんてやる前から分からないでしょう。たとえもし失敗したとしても、それはいい経験になるじゃないですか。もし失敗したのなら、なぜ失敗したかを考え次に生かすようにしたほうが成長するでしょう。いろいろなことを経験させてやらないほうがかわいそうだと私は思いますな。失敗から学ぶことは多いんですけどね。
他人の場合は、きっとやっかみなんでしょうね。妬みが根底にあって、口出ししてしまうのでしょうな。芸能人の場合は、攻撃性ですかねぇ。攻撃することでストレスの発散を行っているかもしれませんね。
いずれにせよ、どうでもいいことですな。他人のことなんてイチイチ気にしないほうがいいですな。それよりもまずは自分でしょう。

お釈迦様は、
「他人の行動を見ることなく、ただ己の行動を省みろ」
と説いていますな。他人のことをイチイチチェックして、あーでもないこーでもないというのではなく、自分の行動・言葉・思いをよく見てみなさい、と説いているのです。他人を批判する前に自分を批判してみろ、ということですな。
自分の行動は正しいのか?、自分がやってきたことは間違っていないか?、これからやろうとしていることは正しいのか?
自分の言葉は正しいのか?、今まで話してきたことは間違っていなかったか?、これから話すことは正しいか?
自分の心は正しいのか?、過去の自分の思いは正しかったのか?、これからも心を正しく保てるのか?
自分の身と口と心は、正しいのか?。清らかなのか?。
他人のことよりもそのほうが大事でしょう。と私は思います。たとえ家族であっても、たとえ親しい友人であっても、自分以外の人の行動や言葉や思いに関してとやかく言う前に、自分の行動や言葉や思いを省みるべきではないかと思いますな。
と説教臭く書いておりますが、これはそのまま自分にも返ってくることでもあります。ブーメランですな。

他人のことは言いやすいし、批判しやすいものです。しかし、自分のこととなると、なかなか省みることは難しいですね。自己批判はなかなかできることではありません。しかし、あえてそれをするべきでしょうね。でないと、いつまでたってもネット上の誹謗中傷は無くならないでしょうな。他人よりも自分を見る、それをしっかり教育するべきなのでしょうね。

せっかく世の中が3密をアピールしてくれているので、我々としては是非、三密を説きたいですね。行動を仏様に近付けましょう、言葉を仏様に近付けましょう、心を仏様に近付けましょう・・・と。
仏様はそんなことをしますか?、仏様はそんなことを言いますか?、仏様はそんなことを思いますか?
ということを考えたら、きっと誹謗中傷なんてなくなるでしょうね。
他人のことなどどうでもいい。ただ、己の行動と言葉と心を見つめ、それが正しいか、仏様に近いかどうか、それを気にするべきなのでしょう。それができれば、世の中平和だと思うんですけどねぇ。
合掌。


第225回
ただ思いのままに行動したり、言葉を発したりする。
それは愚かなことだ。
後悔しないよう、よく考えてから言葉を発し、行動せよ。


新型コロナも落ち着いてきたのかと思ったら、またまた復活ですね。復活と言っていいのか・・・。なかなかしぶといウィルスですな。まあ、ウィルスですから、無くなることは期待できないのですが・・・。
TVでは、また感染者数が増えてきたことに対し、またそんな中「Go Toキャンペーン」なんぞをやってよいのか、総理の顔が見えないぞなどなど、あーでもないこーでもないとやってますね。相も変わらず、中身なんて薄っぺらなことばかりで、本当にうんざりしてしまいます。天気も雨ばかりだし、憂鬱な7月でしたね。
こういうときって、人々の気持ちもスッキリしないせいか、イライラする人が増えてきます。ちょっとしたことで言い争いになったり、ケンカになったり・・・。楽しいことが少ないと、気分がすぐれずイライラが増大しますな。

先月のこと、SNSで「ポテトサラダくらい自分で作れ!」と言われた若いお母様がいたことが話題になりました。言ったのはオジサン(オジイサン?)だったそうです。この話をネットで見た私は、「また余計なことを」と思いました。他人の食卓のことなって、どうだっていいじゃないですか。放っとけばいいことでしょ。それなのに、なにが気に入らなくてそんなことを言うのか、私は理解できません。いい年をした人が、言っていいことかどうかわからないのかな、と思ってしまいますね。あぁ、その人にしてみれば言っていいことだと思ったのでしょうな。ということは、単なる世話焼きジイサンだったのかもしれません。でも、うっとうしいですよね。関係ない人に言われるのって。
たとえば、これ、旦那さんに言われたらどうなんでしょうねぇ?。まあ、私がその主婦の立場だったら、
「文句言うなら自分で作れ」
と言いそうですな。あるいは、「気に入らないなら食べるな」かもしれません。もちろん、旦那さんの言い方によることもあるでしょう。不貞腐れた口調や上から目線、命令口調ならキレますな。
「できればさぁ、手作りがいいんだよね。君の作ったポテサラおいしいからさぁ」
と言われれば、「しょうがないなぁ、今度ね」となるでしょう。言い方ひとつで物事は変わりますな。
まあ、しかし、言葉を口にするときは、
「今、言っていい言葉なのか」
「言い方は大丈夫だろうか」
ということを考慮して言葉を発したいですね。思い付きでの発言は、誤解を招いたり、最悪はケンカになったりしますからね。発言する前によく考えたほうがいいですな。私なんぞ、若いころには
「何かしゃべる前に、言っていいことかどうか百回考えろ」
なんてよく注意されたもんです。それだけ、発言が軽かったのでしょうな。何気ない一言が、大きな波紋をもたらすこともあります。百回は無理でも、数回は考えたほうがいいですよね。ひょっとしたら、「ポテサラくらい自分で作れ」と言ったオジサンも、今頃は後悔しているかもしれません。できれば、後悔し反省しているいいかなと思います。

言葉だけではなく、行動も思い付きだけで行ってはいけませんね。これも先月だったと思います。子供をおいて母親が鹿児島に旅行へ行ってしまった、という事件がありました。1週間?もっとでしたっけ?、それくらいなら放置しても大丈夫だと思った、と御本人は言ったそうですが、何て言うんですかねぇ、この人は自分が1週間放置されても平気な人なんですかねぇ、と思いました。
「まあ、平気だろう、それくらい」
ときっと思ったのでしょうが、いやはや恐ろしいことで・・・。
そもそも、よくある話ですが、生活もできないのになぜ子供を設けるのか私にはわかりません。子供ができたなら、生活をしていくことを考えるべきではないかと思います。子供を育てなきゃいけない、ということを考えるべきでしょう。
欲望の果てに、遊びの果てにできてしまった子供。どうしても育てられないのなら、堕胎という選択もあったはずですよね。まあ、よくはありませんが、それでもそういう選択もあるのです。
確かに、彼氏彼女とイチャイチャしてるのは楽しいでしょう。その先の快楽も、そりゃ楽しいでしょう。もし、単にその快楽が楽しみたいだけなら、避妊はすべきですよね。それが遊ぶ側のルール、責任、というものです。そんなことすら考えずに、
「やっちゃったらできちゃった、うける〜、産んじゃおっか」
と言うようなノリだったかは知りませんが・・・まあ当たらずとも遠からずかな・・・、恐ろしいことだと思いますな。
こういう事件に遭遇しますと、この人たちはいったいどういう教育を受けてきたのだろうか、どういう家庭環境にあったのだろうか、と考えさせられます。
しかし、いくら家庭環境が悪くても、まっとうに育つ人もたくさんいますよね。ならば、やはり教育なんでしょうね。ちゃんと教育してくれる人が周りにいなかったのでしょう。学校の先生も見放していたのかな、と想像してしまいますな。
いずれにせよ、行動する前に、やっていいことかどうか考えろ、ということを教えてもらったほうがいいでしょうね。

不用意な発言、不用意な行動、気をつけてはいるのですが、案外やってしまうことはあると思います。それで大失敗、となるケースもあることでしょう。フォローできることならいいですが、できないとなると大問題になってしまうかもしれません。政治家のように
「あぁ、その発言は撤回します」
で済めばいいのですが、一般の人はそれで済まないのが現実ですよね。政治家は、本当に優遇されていますな。もっとも、それで許されてしまうというのは、国民があきらめている、またか、という気持ちがあるからなのですけどね。

2500年前にお釈迦様は言ってますな。
「思慮深き人は尊敬される」
思慮深い人は、それだけでも尊敬されるでしょう。その言葉を言っていいのかどうかをよく考える人、よく考えてから行動する人、そうした人は、まあ失言もしないし、不用意な行動もしません。
お釈迦様がいらした頃から、何の考えもなしに愚かな行動をしてしまう人はたくさんいたのです。何の考えも無しにしゃべってもめ事を起こす人がいたのですな。そう思うと、人間って成長しないんだなぁ、とつくづく思います。

話す前に考えよう、行動する前に考えよう・・・。
その時に相応しい言葉なのか、相応しい行動なのか、立場は?、状況は?、周囲への影響は?・・・などなど、よくよく考えて、話をしたり、行動したりしないといけませんね。
今の時代、不用意なことじゃなくても、すぐに炎上してしまいますからね。ちょっとした冗談でも、本気で取られて誹謗中傷の嵐になることだってありますから。
どうかお気を付けください。しゃべる前にはよく考えて、行動する前にはよく考えて、これをお忘れなく・・・。
合掌。


第226回
なぜ、他人を誹謗中傷するのか?。
なぜ、他人の悪口を語って笑っていられるのか?。
その姿は、おぞましいものと思わないのか?。
人は、なぜ他人のことを悪く言うのでしょうか?。ネット上では、何かあると誹謗中傷するのが日常茶飯事なっています。ちょっとしたことで炎上し、それが拡散され、誹謗中傷の嵐になっていきます。そうした書き込みの中には、事実と異なることも多く含まれています。そのため、訴訟にまで発展しているケースもあります。このようなことが何度も何度も繰り返され、その度にマスコミは「誹謗中傷はいけませんよ、止めましょう」と訴えるのですが、一向になくなることはありません。今日もどこかで、誰かの悪口や誹謗中傷が書き込まれていることでしょう。

こうした悪口は、今始まったことではありません。昔からあったことです。ただ、その方法が今はネットになっただけですね。ネットになったため、誰が悪口を言っているのかわからなくなってきたのです。匿名性が高いですから、誹謗中傷をしているのが誰かわからないのです。見ず知らずのどこかの誰かが、自分の悪口を書き込んでいるのです。会ったことも無い、しゃべったことも無い、いやいやすれ違ったことすらない人が、いつの間にか何かのきっかけでネット上に誹謗中傷を書き込んでいるのです。
書き込む方は書き込む方で、どこの誰かを特定できないと思っているので・・・特定しようとすればできないことも無いそうです・・・書き込む内容に限度がありません。恐ろしいことを平気で書き込みます。
「死ね、消えろ、いなくなれ・・・」
そこには、なかなか口では言えないことが、あふれかえっています。いったいいつからこんな状態になってしまったのでしょうか?

ネットが一般にも盛んになったのは、今から20年くらい前でしょうか?。ウィンドウズ98が一般に広がり、さらに2000年には、パソコンも何とか手が出るくらいの価格になっていました。あの頃は、ネットの速度もものすごく遅く、ネット上に流れている情報も今ほど大量でもなく、高品質でもありませんでした。写真なんて画像がめちゃくちゃ荒かったですね。
私も2000年からHPを始めましたが・・・もう20年続いているんですね・・・、批判とか悪口が全くなったかというと、そんなことはありません。あの頃だって、悪口くらいは書き込みがあったように思います。しかし、掲示板もまだまだ盛んではなく、書き込む人は限られていたのでしょう。ましてや、ツイッターやFacebookもありませんでしたし、ブログもありませんでした。
そういえば、ブログが現れ始めたころは、そのブログに対して悪口や誹謗中傷をする書き込みは、たいへん少なったように思います。もちろん、全くなかったということはありません。一部の者は、批判や悪口、誹謗中傷を書き込んでいたようです。ただ、今ほどひどくなかっただけですね。

他人のことを悪くいう人は、いつの時代だっています。他人のことが面白くない、他人のやることが気に入らない、ただただムカつく、気に入らない・・・・。そう思ってしまう人は、いつの時代だって存在しています。だから、悪口は無くなりません。遥か何千年も昔から、人は他人の悪口を言っていたのです。もちろん、批判もありますし、批評もあります。誹謗中傷もあったかもしれません。
ですが、昔の・・・ネットのない時代の悪口は、範囲が狭かったのです。知り合いや仲間内だけだったのですな。全く見ず知らずの人の悪口は言わないですね。言う意味がないからです。ただ、為政者とかお偉い様の悪口は言ったかもしれません。言ったことでしょう。そういう公の人物は、悪口や批判を言われても仕方がないな、ということはありますね。ただ、何の根拠もない、いい加減なこと、デマはいけないですけどね。

今は、ネットがあります。だから、見ず知らずの人の悪口が平気で書き込めます。全く知らなくても、噂話が流れてきて、その噂話がデマであっても、自分が気に入らなければ、悪口や誹謗中傷を書き込みます。その結果、誹謗中傷された人が自殺をしても、そんなことが繰り返されても、誹謗中傷は終わらないですね。
煽り運転をした男の横にいた女性に間違えられてネットで誹謗中傷を受けた人もいますし、芸能人で何が気に入らないのかデマを書かれたり、誹謗中傷をされた人もいました。今では、コロナのクラスターなんぞを出したところは、ネット上で叩かれまくっています。島根県の高校がいい例ですね。

私には、誹謗中傷を書き込む人の気持ちがわかりません。あの煽り運転の男の横にいた女性・・・通称ガラケー女・・・に間違われて、あらぬ誹謗中傷受けた人は、書き込んだ人を訴えるまでに至りました。書き込みをした人たちは、一様に「正義感から」と言っています。あんな悪い女を許せなくて・・・ということなのでしょう。ですが、元情報を確認したわけではありません。流れてきた情報を鵜呑みにして、「クソ、許せねぇなー、書き込んでやる」と言って誹謗中傷を書きこんだけ、ということなのだそうです。
ですが、私にはわかりません。理解できません。正義感?、それのどこが正義感なのでしょうか?。正義感の意味を間違えていませんか?。と思います。というか、関係者じゃない人が口を出す必要はないでしょう、と思います。関係のない人が、正義だ、悪は許さん!と叫べる立場でしょうか?。いったい、正義感で書き込みをした人は、自分が何者かわかっているのでしょうか?。何様のつもりなのでしょうか?。本当に正義感で、というのなら、その正義感を使う方向が間違っているのではないでしょうか?。世の中には悪者がいっぱいいるでしょう。そっちには向かないのでしょうか?。自分は攻撃されない安全な場所にいて、他人を攻撃する。そこに正義はあるのでしょうか?。
それは正義ではなく、単なるストレス解消のための悪口を言いたかっただけでしょう。

他人のちょっとした失策をやり玉に挙げ、しつこく誹謗中傷し、ストレスを解消しているのです。いや、失策すらない場合もあります。全く関係のない人を見下し、悪口を言うことにより、自分が偉くなったかのような勘違いをしているのでしょう。
確かに、他人の悪口を言うと、スッキリします。気持ちいい、という感覚があります。脳がそのようにできているのだそうです。だから、悪口はなくならないのです。他人への批判や誹謗中傷、悪口は一種の快感なのですね。だから、ついついやってしまうのでしょう。しかし、別の方法で快感を得ている人は、そんな悪口や誹謗中傷で快感を得るようなことはしていませんな。もっと健全です。他人を悪く言うことでしか快感を得られないんて、なんと寂しいことでしょう。そんなことしか楽しみがないなんて、なんてつまらない人生なんでしょう。そう思わないのでしょうかねぇ。私のところに、そうしたネット上に他人の誹謗中傷や悪口を書き込む人が来たら、ぜひ尋ねたいですね。
「ほかに楽しみはなないのですか?」
と。

「他人の過失を探し出し、苦情を言う者に、かれの汚れは増し加わる。かれは汚れの消滅からほど遠い」
お釈迦様は、こう説いています。誹謗中傷や悪口を言う者、そう言う者は汚れが増えていくばかりです。そして、その汚れは自分自身を蝕んでいくのです。行きつく果ては、取り返しのつかないところなのです。それを知るべきなのでしょう。

もし、他人の悪口や誹謗中傷をしてしまうという人がいたら、他人の悪口を言って笑っている自分の姿を想像してみてください。会社のみんなと、あるいは学校の仲間と他人の悪口を言いあって笑っている姿を想像してみてください。あるいは、その仲間たちの姿をよく見てください。
悪口を言って笑っている人の姿は醜くありませんか?。美しい人に見えますか?。角や牙は生えていませんか?。人間らしい姿をしているでしょうか?。まだ、取り返しのつく姿でしょうか?。
妖怪のようになっていたら、戻ってこれませんよ。
合掌。



第227回
一体今まで何を学んできたのか?。
年を取ったから偉い・立派というわけではない。
高齢者だからと言って、尊敬されるわけではない。
老害という言葉が世に出てきたのはいつの頃からでしょうか?。今では、知らない人はいない言葉となっています。ということは、実際に老害があると、多くの人は認識しているのです。また、老害を受けた、老害にあったと言う経験を持つ人も多々いるのでしょう。老害は、普通に存在しているのです。
それにしても、老害という言葉は、まあ、ひどい表現かなとも思います。老人による被害・老人による障害・老人から受けた被害・・・と言うような意味になるのでしょう。略して老害。老害だ、と言われる老人にしてみれば、腹の立つ言葉ではないかと思います。が、しかし、老害と言いたくなるような行為を老人がするからいけないのですけどね。

この老害をしてしまう老人は、団塊の世代と言われる人たちでしょう。正確に言えば、その世代だけでなく、団塊の世代以上のお年寄りの方たち、となりますね。この世代の人たちは、おしなべて大きなプライドがあります。特に男性・・・おじいさまに、その傾向は強いですね。それは、
「この国を発展させたのは我々だ」
「我々の働きのおかげで、今の日本はある」
というものです。
団塊の世代以上の人たちは、ちょうど日本が高度成長期を迎えたとき、バリバリに働いていた人たちです。朝早く満員電車に乗り、会社に出てしゃにむに働き、会社帰りには麻雀や飲み会で接待に励み、午前様(この言葉はもう通じないですかねぇ。午前0時以降に酔って帰宅することです)はもちろん、女房が文句を言ったならほっぺたの一つや二つ張り倒し、「誰のおかげ飯が食えるんだ」と叫び、「さっさとお茶漬けを用意しろ」と命じ、爪楊枝でシーハーしながらタバコをスパスパやり、「さぁ、寝るぞ」という一日を過ごしてきた人たちです。その当時は、働き手の父親は、一家の長であり、絶対的存在だったのですな。誰も逆らわない、逆らうことなどできない存在だったのです。その長に命令する、大きな態度を取ることができたのは、、その長の親と上司だけですね。
この人たちは、家では大威張りですが、会社ではペコペコですな。部下や後輩には強いですが、上司にはからっきし弱いのです。ですが、働くことは働きます。働きますが、まあ出世はあまり望めませんな。この世代は、とにかく人数が多いですからね。大学でのエリートしか出世は無理です。その他大勢は、ほとんどヒラで終わりますな。なので、会社では、部下や後輩には大きな顔をしますが、上役には頭が上がらないのです。腹の中では「俺だって大学さえ行っていれば、こんなヤツより仕事ができたのに」と上司に文句を言っていたのでしょう。まあ、そんな時代だったのですよ。

こうした団塊の世代の男たちを支えた奥様方も、まあしっかりしていますな。今だったら、即離婚となっているようなことでも当時は堪えていました。女は堪えるもの、と言うのが社会通念でしたからね。女房は夫に従う、っていうことですな。夫に逆らわない、それが女房、と言うのが当時の習慣だったのです。どの家庭も、お父さんが一番偉い、お父さんには逆らわない、お父さんが怒ったら大変だ、殴られても仕方がない・・・という感じでしたね。何も悪いことなんてしていないのに、お父さんの機嫌が悪いがために、ビンタされた、殴られた、なんてことが普通にあった時代ですからね。今思うと、まあなんて恐ろしい時代だったことか。そんなことが、許された時代が高度成長期の時代なのです。で、それを支えた(と思い込んでいる)団塊の世代は、そんな時代を生きてきたのですな。だから、威張っている人が多いのですよ。

都会では、核家族化が進んでおじいちゃんおばあちゃんと同居、という家庭は少なくなりました。だから、家庭内での老害は、あまり経験がないかと思います。老害と言えば、会社に残っている年寄りや町中で問題を起こす年寄りのことになるでしょう。スーパーで若いお母さんに文句をたれるような老人、バスや電車内で座らせろとわめく老人、順番が待てないで文句を言う老人、とにかく年寄りを大事にしろと騒ぐ老人・・・このような老人の行為を老害、と言いますよね。まあ、一般的にはそうですな。しかし、田舎に行くと家庭内老害があるんですよ。これがまた大変なのです。

親世代と同居するのが、ちょっと前の田舎での習慣でした。田舎の親世代(団塊の世代)は、なんと言ってもお金を持っています。土地も持っています。退職金もよかったのです。サラリーマンは、平社員であっても大きな金額の退職金を手にできたのですな。また、サラリーマンでなくても、農家は土地を持っています。兼業でもある程度の土地があります。金や土地があるものは強いです。子供たちが結婚するのなら、長男は当然同居、だったのですよ。今では、それは少なくなりましたが、今でも跡取りは同居が当然と言う地域がありますよね。そういう家庭では、未だに年寄りがうるさいのですな。これが、家庭内老害なのです。

「わしの言うことを聞け。この家も土地もわしのものだ。お前らはわしに逆らうな」
こんなことがまかり通っているんですよ、今でも。で、この老害、当然ながら時代遅れも甚だしいですな。なので、子世代・孫世代とうまくいきません。しかし、伝家の宝刀「この家と土地はわしのものだ。ここに住む以上文句は言うな。文句が言いたければ出て行け」という台詞を吐くのです。日頃住まわさせてもらっている子世代は文句が言えません。家を出るとなるとどこか住まいを用意しなければなりません。田舎とは言え、そう簡単には土地も手に入りませんし、家は高いですし、すぐにどうにかなるものじゃありません。ましてや、家を出るとなると「世間体が!」という問題が生じます。田舎ならではの問題ですな。なので、子世代は折れるしかないのですよ。老害の勝ちですな。で、そんな情けない子世代の姿を孫世代は見てがっかりするのです。
「お父さんたち、なんでおじいちゃんに逆らわないの?。おじいちゃんの言っていることおかしいでしょ?」
と言われても、仕方がありませんな。そのうちに孫世代も「下手なこと言うと爺さまがうるさいから」といって逆らうことなく、戦うことなく、だらだらと無難な生活をするようになりますな。こうして、無気力な子供たちが誕生していくのです。これが田舎の老害ですな。

こういう問題を抱えた家庭の人たちが、私のところに相談に来た場合、私はすぐに別居を勧めます。世間体なんて気にしているよりも、子供たちの行く末のほうが大事ですからね。
「老人を捨てろ」
まあ、これで問題解決ですな。年寄りには反省してもらわないといけないのですよ。時代に合わない意見を言って、それを通そうとする、その威張った態度を改めてもらわないといけないのです。そのためには、老人を孤独にするのが一番いいですな。少しは、家族がいることの大切さを分かれ、と言うものです。で、反省したら、また迎え入れてあげればいいのですよ。反省しなければ、そのままですな。
こうした老害のお年寄りが私のところに来た場合、私は、
「一体今まで何を学んできたんですか?。あなたはいくつなんですか?。いつまでも威張っていろ、と学んできたんですか?。あなたは、自分が間違っていないというのですか?。あなたは神ですか?。一体、今まで人としてどういう生き方をしてきたのですか?」
と責め立てますな。私は、威張り腐った年寄りが大嫌いなのですよ。

「白髪を抱くから、尊敬されるわけではない。その人の行い言葉遣い、それによって尊敬されるかどうかが決まるのだ」
お釈迦様がいらした頃から、威張った年寄りはいたのです。で、老害があったのですな。だからこそ、お釈迦様も、年を取っているからと言って威張るな、と忠告をしているのです。尊敬されるかどうかは、年齢じゃありません。その人の行動と言葉ですね。ここを勘違いしてはいけませんな。
いくら「日本を支えて来たんだ」という事実があったとしても、それは過去のことです。本当に日本を支えてきたというならば、きっと威張ったりはしないでしょう。もっと紳士だと思いますな。誰も相手にしてくれない、誰も認めてくれないから威張るのでしょう。周囲の人たちに認めてもらいたいならば、謙虚であるべきでしょう。謙虚である方が、人々は尊敬してくれるのです。そこを老人の方たちは勘違いしてはいけませんな。
威張ってないで、頑固にならないで、謙虚で明るい、楽しい老人でありたいですね。
合掌。


第228回
善いことは断固として続けるがいい。
悪いことは決して続けてはいけない。
それが安楽な生き方である。

先月のことですが、埼玉で車道に自転車でひょっこり飛び出して交通妨害をしていた男が逮捕されましたよね。煽り運転防止の罰則が適用されたそうです。かの男性、ひょっこり車道に飛び出すところから「桶川のひょっこりはん」と言われ、知られていました。しょっちゅう道路へ飛び出しをして、車の通行を妨害していたようです。一度捕まったのだそうですが、保釈されて、その後またやっていたそうです。いい年をして、何でそんなことをやり続けるかな、と思います。そんなことをして何が楽しいかな、と正常な方は思うことでしょう。あんなことで快感や満足感を得られるのは、どこかちょっと歪んでいるのでしょう。まあ、歪んだ生き方をしてきた結果なのでしょうかねぇ。ちょっと依存症になっていたのかも知れませんね。
よくある話で、万引きをし続けるお年寄りもいます。何回捕まってもやめられないのだそうです。まあ、そこまでくると一種の病気なのかも知れません。依存症ですね。万引きも依存症になってしまうのですな。怖い話です。

依存症というと、薬物中毒やギャンブル、アルコールなどを思い浮かべるのではないでしょうか?。やめたくてもやめられない、ついつい手が出てしまう、そこへ行ってしまう・・・・。依存症になるとなかなか脱出するのが難しいようです。一人で立ち直るのは非常に難しいし、一度やらないと決心しても誘惑に負けてしまうことがよくあるのだそうです。そのたびに罪の意識や後悔の意識に押しつぶされそうにもなるのだそうです。まあ、本人にしてみれば、「手を出さなきゃよかった」、「一度でやめておけばよかった」と後悔の嵐なのでしょう。依存症からの脱出は容易ではありません。

悪いことや善くないことは、なぜか快感に感じるのが人間なのだそうです。やってはいけないことをやると、なぜか喜びや満足感が得られるのだそうです。背徳感というのが、快感になるのかも知れません。そういう話を聞くと、「あぁ、なるほど浮気とか不倫がなくならないのは、そういうことね」と納得できてしまいますね。不倫や浮気は、肉体的快感もあれば、恋愛をしていると言う快感もあるし、さらにやってはいけないことをしている背徳感による快感もプラスされますからね。快感の三乗です。無くならないはずですね。自分をしっかり保っていないと、いろいろな欲に負けてしまい、いずれは依存症になってしまうということもあります。欲は怖いものです。

やってはいけないことは快感かも知れませんが、それを続けていると、最終的にやってくるのは不幸でしょう。初めは楽しいかも知れません。やってはいけないことをやり始めた頃、またそれを続け始めた頃は、楽しく快感なのでしょう。だからやめられなくなるのでしょう。楽しいからやめる理由が見つからない、いや、やめなきゃいけないことだと、どこかでわかっていても欲望に負けてやめられなくなるのです。で、その先にあるのは不幸ですね。地獄かも知れません。
依存症の場合は、行き着く先は苦しみしかありません。何度もやめる決意をして、いったんはやめたとしても、再び、三度・・・・またやってはいけないことに嵌まってしまう・・・・。無限の苦しみに嵌まってしまうのです。
もちろん、周囲の協力や医療、自分自身の固い決意があれば脱出することは可能です。やってはいけないことから脱出して、平和に暮らしている人も多くいると思います。
不倫も続けて行くには、それ相応の覚悟や代償が必要になるでしょう。その代償を受け入れる覚悟がなければ不倫は不幸しか残らないですね。たとえバレなかったとしても、後悔や後ろめたさなどが心の重荷となっていくのです。隠し事を抱えるというのは、なかなかに辛いものだと思います。

お釈迦様は
「善いことは断固して、それをやれ。悪いことは断固してやってはいけない。それが幸の元である」
と説いています。また、
「今は不幸かも知れないが、善いことをし続けていれば、やがて徳の瓶がいっぱいになり、幸運が訪れるであろう。逆に悪をし続けていれば、いずれその報いが訪れるであろう」
とも説いています。
「善いことしたってちっとも幸運はやってこない」
と腐るのでは無く、継続することが大事なのです。少しずつの善いことの積み重ねが、やがて大きな幸運となってやってくるのです。逆に、
「これくらい大丈夫だろう、バチは当たらないさ」
と高をくくって悪をし続ければ、その悪の不徳がどんどん貯まって、大きな代償を払うこととなるのです。

善いことをし続けるのは、大変なことかも知れません。善いことの継続は、結構面倒なことが多いですね。また、やり難いことでもありますし、苦が伴うこともあります。逆に悪いことはたやすくできるし、快感です。大変、安易ですね。だからといって善いこともせず、悪いことを継続していれば、それはやがて苦を生んでしまうのです。
辛いことは避け、一時の快感や安易なことばかりを求め、将来の苦を得るのか・・・・。
今は苦痛かも知れないが、耐えて善いことをし続け、将来の幸福を得るのか・・・・。
よく考えて行動した方がいいですね。
もし、あなたが幸福になりたいのなら、決して悪の道や安易な道を選ばないことです。安易な道、悪の道は、快感を先取りしているだけです。その代償は、必ずいつかやってくるのですから。
合掌。



第229回
現実に起きていることを認め、受け入れること。
そうでなければ、前には進めない。

アメリカも大変ですね。大統領選挙って、あんなにひどいものなのか、と思った方は多いのではないでしょうか。それにしてもトランプさん、ちょっとみっともないですよね。日本だったら「往生際が悪い」、「潔くない」と言われるでしょう。あちらの国には、そういう言葉はないでしょうかねぇ。
日本は、江戸時代から続く「武士道」がありますからね。武士道は、一般の人には関係ないように思いますが、案外影響を受けているものです。もっとも、江戸時代にできた風習は、未だに続いていることが結構あります。まあ、いいことも悪いこともありますが、潔さ、と言うことはいいことなのかも知れません。粘りがない、と言う批判もありますけどね。しかし、日本でトランプさんのようなことをすれば、非難囂々でしょう。支持者はあまりいないと思います。ああいうのは、アメリカならでは、なのでしょうかねぇ。

と思っていましたが、日本でも潔くないことはありました。GoToキャンペーンの新型コロナウィルスへの影響に関してです。政府は、頑なに認めません。因果関係はエビデンスがない、などと主張していますな。というか、話がそれますが、横文字をやたらに使うのはやめて欲しいですね。きれいな日本語があるのですから、ちゃんと日本語で言ってほしいものです。何でわざわざ横文字言葉にするかな、と思いますね。「根拠がない」って言えばいいのに、と思います。片方で「日本語の乱れ、ら抜き言葉が云々」とか言っているのに、片方ではちゃんとした日本語があるにもかかわらず横文字言葉を使おうとする。ふにゃふにゃですね。信念がありません。こういうことの積み重ねが、信用を失う元になるのでしょう。うさんくさい言い方はやめて欲しいと思います。すみません、半分愚痴になってしまいました。話を戻します。
おそらく、一般の人たち、多くの人たちが、
「GoToキャンペーンを行えば、コロナは広がる」
と思っていたのではないでしょうか?。「そりゃ、あんなことすれば広まるよね」という言葉はよく耳にしますよね。きっと誰もが、今の状況を予測していたと思います。科学的根拠は今のところ不明かも知れませんが、感覚的にGoToキャンペーンの影響だな、と言うことくらいはわかりますよね。現実を受け入れることは大事だと思います。

トランプさんにしても日本の政府にしても現実に起きていることを無視してはいけませんね。負けは負け、トランプさんはそれを受け入れるべきでしょう。日本の政府だって、
「科学的根拠は今の段階でわからないですが、コロナが広がっていることにGoToキャンペーンが影響したと考えられる」
くらいは言えるのではないかと思いますよ。そのほうが潔いですよね。まあ、認めてしまえば、GoToキャンペーンをやめなくてはいけなくなるから、認められない事情もわかりますけど。わかりますけど、国民の大半は、もう知っているのですから、認めたほうが信頼を得ると思うんですけどね。頑なに拒否したり、濁してごまかしていると、返って信用を失うというものです。アベさんの時だって、いろいろあったけど、なかなか自分の非は認めませんよね。そういう所が、「政治はうさんくさい」というイメージを植え付けるのです。「政治家は、どうせ嘘ばっかり」ということになるのでしょう。ある程度の正直さは必要だと思います。

などと、トランプさんや政治家が現実を受け入れないことを責めていますが、一般の人たちだってなかなか現実を受け入れ無い事ってありますよね。まあ、多いのは年齢による衰えでしょうか?。もう若くない、ってわかっているのに頑なに
「年寄り扱いするな!」
と言うことはよくある話です。で、無理して身体を壊すのです。自分が衰えていくことを認めるのは辛いこととは思いますが、しっかり現実を受け止めて、それに対処していくほうが周囲に迷惑もかけないし、自分のためにもなります。が、人は逆のことをしがちなのです。
恋愛で失敗したときや受験での失敗、就職での失敗など、世の中には失敗がたくさんありますが、そうしたときに現実を受け入れず、いつまでも打ちひしがれていることもよくある話です。現実逃避に走る場合もありますよね。ひたすら自分の好きなことばかりやったりして逃げまくる・・・・なんてこともあります。
自分は太っている、ダイエットしないとやばい・・・・という現実を見ないで、ひたすら食べまくっている方もいます。心のどこかでは「痩せないとまずいよね〜」とわかっているのですが、「私はデブじゃない、ぽっちゃりだ」などと現実逃避をするということも、まあよく耳にします。
こうして世の中よくよく観察してみると、結構どなたも現実を認めない、現実逃避をする、ってことやっているようですね。今やっていないにしても、経験はある、と言う方は多いのではないでしょうか?。そういう私も例外ではないですね。じじいじゃない、と言い張ってますからね。

「現実を現実として受け止め、そこから逃げないこと。現実を受け入れ、よく考え対処していく。そうで無ければ前には進めない」
お釈迦様は、そう説きます。というか、そもそも仏教は、見たまま、ありのまま、そのままを受け入れなさい、と言うのが教えの基本です。現実世界を受け入れる、今自分の身に起きていることをそのまま受け入れる、そしてそれに対してどうすればいいかをよく考える、それが仏教です。まずは、現実を受け入れなければ何も始まりません。
「自分は愚かである」
仏教はここからスタートします。まずは、自分の愚かさを受け入れなくてはスタートすらできないのです。「自分は賢い」「自分は偉い」、「自分はできる」などという気持ちがあっては、本当の仏教は学べません。一度、自分自身を全否定しないと何も始まらないのです。そういう意味では、仏教は厳しいのかも知れません。
しかし、自惚れていては、何も変わることはないでしょう。現実を変えたいのなら、自分を変えたいのなら、自分をよりよくしたいと思うのなら、一度は自分を否定しないといけませんよね。そうでなければ、いくらいい教えを聞いても身につかないでしょう。

いつまでも大統領という立場にしがみついて、不正があった不正があったと騒ぎ立てる姿を見て、誰もが「恥ずかしい・みっともない」と思うことでしょう。トランプさんがすべきは、潔く敗北を認め
「さぁ、バイデンさん、あなたのお手並み拝見いたしましょうか。私を支持してくれた人々もそうしてくれ」
と相手に立場を譲ることです。でないと、ますます惨めになると思います。
現実逃避は、何も生みません。むしろ、信頼を失ったり、希望を失ったり、立ち直るきっかけやチャンスを失ったりします。あのとき、現実を受け入れていれば・・・・と後悔しないよう、現実から目をそらさず、しっかり受け入れて次へ進む、それが最善の生き方でしょう。
「自らが愚かであることを知るものは強い」
現実を素直に受け入れた者は、強いのですよ。
合掌。



第230回
目標や目的がない者は生きにくい。
小さなことからでいいから、目標や目的をつくることだ。
それに向かって地道に進むことが最も早道である。

明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。
去年は、本当に大変なでした。コロナコロナで世の中ボロボロでしたね。これが日本だけじゃなく、世界中なのですから困ったものです。まだ、日本はマシなほうですね。ヨーロッパやアメリカは、この先一体どうなることやら・・・・。ワクチンの効果が絶大であることを祈るばかりですね。

日本はまだマシ、と言いましたが、飲食店の方々や小売業の方、観光業関連の方々は、本当に大変な1年だったと思います。観光業などは、その前まではインバウンド効果で好景気だったのですから、いわば「天国から地獄へ」状態と言っていいでしょう。否、飲食店や小売業の方だって、天国から地獄だったのではないかと思います。国からの支援も、ないよりはいいのですが、足りない・・・・というのは否定できないでしょうね。特に都心や都会では、家賃や従業員の給料が高いですからね。
そうした業種だけでなく、実はお寺も大変なのですよ。神社仏閣だって、コロナ不景気の影響は出ています。一般の業種の皆さんは、給付金という救いがありますが、お寺はありませんからね。宗教法人は、対象外ですから。多くの人たちの収入が減っているので、檀家さんからの寄付金だって当てになりませんしね。お寺も神社も困っているのは事実なのです。
お寺に関して言えば、まず法事が減りました。葬式の費用も格段に下がりました。葬式への参列者が少なくなったので、香典が減り、遺族の方がお葬式に費用がかけられなくなったのですよ。香典でまかなっていた葬式費用がまかなえなくなったのです。で、そのしわ寄せが僧侶への布施に回っているのです。それだけではありません。地方は今でも月に一回の檀家廻りの習慣があります。そうした地域では、檀家廻りが拒否されている地域もあるのだそうです。コロナ感染が怖い、ということですね。まあ、檀家さんで昼間に在宅なのは、ご老人が多いですから仕方がないのでしょう。こうして、お寺も収入の機会が減っているのですよ。
神社も同じですね。参拝者が減りました。観光地の神社・・・京都など・・・は、GoToキャンペーンで盛り返したと思いますが、それも中止になっては、また収入が減ります。初詣も期待できません。正月三が日のお賽銭で数億円あるような神社では、今年は痛い三が日になるでしょう。去年は、いろいろな神事もできませんでしたね。お祭りもほとんどが中止になっています。神社や寺も、イベントが中止で、これも減収になっているのです。お寺も神社も維持費が結構かかりますから、今年は大変な年になりそうです。

先行きが不安な年明けです。令和3年は一体どうなるのか、皆さん不安を抱えていることでしょう。しかし、その不安に飲み込まれて、ただ怖い怖いと過ごしていてはいけませんよね。コロナの恐怖に打ち勝たないといけません。闇雲に怖がるのは愚かなことでしょう。
また、事業継続が困難になり、この先どうしていいかわからない・・・と嘆いている方も多いかと思います。そうした方たちも、生きることを捨ててしまってはいけないと思います。確かにこの先不安でしょう。しかし、その不安もいつまでも続くものではありません。不景気だっていつまでも続くものではないのです。諸行無常です。すべては変わっていくのです。先は決まっていません。今が悪いなら、いずれいいときだってくるのです。それを信じて生きていくことが大切でしょう。

生きることを止めてはいけないのですよ。なにもこの先ない、希望もない、どうしていいかもわからない、何のために生きていいかわからない・・・・。たとえ、現実がそうであっても、生きることを自らの手で止めてはいけないのです。
「生きるために生きる」
でもいいじゃないですか。当面の目標がなくても、この先どうしていいかわからなくても、とりあえず「生きるために生きても」いいじゃないですか。生きること自体が目標であってもいいじゃないですか。這いつくばってでも生きてみよう、それでもいいと思うのです。

辛く苦しい日々だって、いつかは明るく楽しい日に変わる事もあるのです。途中であきらめないで、何か一つ目標や目的をもって生活していけば、生きやすくなると思うのです。何も目標がない、目的がない、というのは生きにくいでしょう。どんなことでもいいと思います。大きくなくていい、目の前の小さなことからでいいから、何か一つ目標をつくって、一歩一歩進んでいくことが大事だと思います。
決して投げやりならず、諦めず、必ず明るい日がやってくると信じて、歩み続けることなのです。
「決して放逸になってはいけない。放逸からは何もうまれない」
お釈迦様も、どんな事があっても・・・いわれなき誹謗中傷があり仏教教団存続の危機もありました・・・それに耐え、諦めることなく修行し続けました。その結果、2500年経た今でも仏教は続いているのですよ。

先が不安でも、何か一つ目標を持って、その目標に向かって少しずつでも進んでいくようにしましょう。年の初めに、今年の目標を作ることが大事ですね。
合掌。



第231回
友は選ぶべきだ。
為にならない友であるなら、付き合う必要はない。
くだらないと友といるより、孤独のほうが勝れている。

なかなか収まりませんね、コロナウィルス。1月はついに緊急事態宣言も出てしまいました。まあ、一部の都府県ですが。一部に出ただけとは言え、全国的にも感染者数は増えていましたよね。それだけ、人と人の接触が多かった、ということですね。
新型コロナウィルスは、人と接触しなければ感染しません。しかし、だからといって人との接触を皆無にできるかと言ったらそれは無理でしょう。一人で家の中でひっそりと暮らしていくか、山の中の一軒家で一人で自給自足で暮らしていくか、です。家の中で暮らして行くにしても食料は必要ですから、完全に他人と接触しないで生きようと思えば、自給自足しかありません。しかも、肥料も自分で作らねばならないし、野生動物も自分で捕らねばなりません。まあ、肉を食べなければなんとかなりそうかも知れませんが。ですが、人は一人では生きてはいけないです。誰とも話しもせずに生きるというのは、とても辛いでしょう。よほどの変人ですね、それができるのは。まあ、絶対に無理、とは言いませんが、難しいことでしょう。
だからこそ、コロナウィルスが広まっているのです。誰とも話さずに生きていける人が多いのなら、感染者数も増えませんよね。誰とも話さずに生きていける人がほとんどいないから、感染者数は増えるのですよ。

しかし、減らすことは可能ですよね。例えば、友人から会食の誘いがあったとしたら、それを断ればコロナウィルスに感染する危険は減りますよね。また、誘いを断れなかった場合でも、換気が行き届いた店を選ぶとか、なるべく話を小声でするとか、話すときはマスクをつけるとか、そういった気遣いをすれば感染の危険度は下がります。
が、しかし。こういうことに気を遣っていると
「そこまでしなくていいじゃん。それじゃあ、まるで私がバイキンみたいじゃん。嫌な感じ!」
という人もいるんですよ、世の中には。本当は、気を遣った方がいいのにね。

都会の飲食店は、午後8時に閉まってしまいます。お酒は、午後7時まで。仕事帰りの一杯がストレス解消だったのに、とお嘆きのサラリーマンは多いことでしょう。早くに仕事を終えて、お店に駆け込む、なんてこともあると思います。とりあえず6時までに店に入って、ビールを一杯、なんてこともあるでしょう。でも、間に合わないケースがほとんどなのでしょう。ならば、大人しく家に帰って、暖かい部屋でゆっくり飲めばいいのですが、それはそれで味気ない、と思う方もいるのでしょう。
「なあなあ、今夜一杯行かないか?」
そう同僚が誘いますな。同僚というか、会社内の友人ですな。
「一杯行くかって、どこもやってないじゃないか」
まともな人ならば、そう答えます。実際、どこもやっていません。闇営業をしているような、ちょっといかがわしい店を探すなら別ですが、普通は午後7時でお酒は終わりですな。なのにその友人、ニヤニヤして言います。
「店じゃないよ。公園だよ。あのな、あそこのコンビニでつまみを買うだろ。で、あそこの酒屋で酒を買うんだ。酒は売っているんだから、買うのは悪くない。で、公園で飲むんだよ」
「公園で?。寒いじゃないか。それに・・・いいのか、それって?」
「まあ、寒いけどさ。飲んでりゃあ、暖まるし。それに公園は外だから、話をしていても安全だろ?」
「あぁ、なるほど。広いから密にならないし。いいね、それ。よし、行こう」
まあ、こんな会話があちこちのサラリーマンの間であったのでしょう。都会の公園は、会社帰りのおじさんたちやOLさんの飲み会の場所に変貌しているようですな。

まあ、いいんじゃないかと思います。その人たちがいいのならね。でもね、見ている方は、とても残念な気分になるんですよ。まるで、戦後か?と思ってしまいますな。というか、下品じゃないか、とも思います。いやいや、そこまでして飲みたいのか酒、とも思いますな。もっとも、お酒も飲みたいのでしょうけど、メインは会話なんでしょう。お酒を飲みながら会話がしたい、と言うことなのでしょう。でも、そこまでして、話をしたいのかい?、と思います。そこまでして話さなきゃいけない重要なことって何?とも思います。そんな重要なことなら、酒抜きで昼間に話すべきでしょ、と思いますな。まあ、愚痴りたいだけなんでしょうね。ただ、他愛のない会話がしたいのでしょう。
いや、もちろん、何の意味もない、他愛のない会話は大事ですよ。おおいにストレス解消になると思います。それ自体は、否定はしません。むしろ、いいんじゃないですか、と思いますな。問題は、時機だけです。
それって、今じゃなきゃダメ?ですか?

まず、誘う方の人の気持ちがわかりません。もし、私が誘われたら
「この時機に?。しかも外で?。ダメでしょ」
と思います。誘う人に対して「大丈夫?」と聞き返すかも知れません。ちゃんと考えているのか、とね。「あかんやろ、それ」というかもしれません。
で、この友人、まずいな、と思いますな。このタイミングで、その場所で、お酒を飲むことを誘う、そういう神経の持主と付き合うのはどうかと思いますな。学生じゃあるまいし。そんな友人ならば、必要ないんじゃないかと思います。友は選ばないとね。

友人は大事です。友達がいない、と言う人は少ないでしょう。そういう私は友達がいません。いないというか、作りません。友達、友人という関係が煩わしいからです。まあ、それは私が変人だからでしょう。なので、例外とします。一般的には、誰もが友人は欲しいと思うだろうし、友人は必要でしょう。それが普通ですな。
しかし、その友人も悪い友人では、ダメですな。悪い友人ならば、いない方がマシです。悪の道に引っ張るような友人ならば、そんな友人とは縁を切った方が断然いいですね。
仏教では、友人のことを「善知識」といいます。そのまま意味を取れば「よい知識を与えてくれる人」のことですね。そういう人を友人と呼ぶのです。単なる遊び相手は友人ではないのですよ。

自分を高めてくれる人、自分を向上させるような仲間、社会に対しても貢献できるような仲間、そうした仲間のことが本当の友人なのでしょう。そうでなく、同じように悪いことをする仲間とか、TPOも考えずに行動する仲間とか、社会的に「えっ」と思われるような行動をする仲間とか、そんな仲間は友人としてはダメですね。もし、あなたの友人がそういう人ならば、あなたはその友人と縁を切った方がいいでしょう。その友人は、「善知識」ではありませんから。

飲むところがないから公園で飲もうと誘う友人。で、飲んだ後の空き缶やゴミは「いいじゃん、ここに置いておけば」という友人。そんなちょっとしたマナーを守れないような人間と付き合ってはダメです。そんな人間と付き合っても、己が下品になっていくだけですな。人間としての評価が下がります。
お釈迦様は、
「くだらない友といるよりは、孤独でいる方が数段勝っている」
と説いていますな。
今何をすべきか、何をしてはいけないか、そうした判断ができないような人間を友としてはいけませんね。また、それを注意すると
「そう固いこと言うなよ。いいじゃん、これくらい」
と言い返してくる者、そうした者も友人には相応しくないですね。友は選ぶべきです。

公園飲みを誘われたら、断る勇気、それが大事ですな。そんなことをしたら、友人を失ってしまう、と怖れることはありません。会社内で浮いてしまう、嫌われてしまう、と不安になる必要もありません。浮いたっていいのです。嫌われたっていいのです。そんなくだらない人間と付き合うよりは、孤独のほうが価値があるのです。
「いや、あれは止めた方がいいと思うよ」
という意見の人も少なからずいるはずです。そういう人を友人として選ぶべきでしょう。

今、自分が何をすべきか、何をしていけないか、そういうことを判断できないような者は友人にしてはいけません。そんな友人しかいないというのなら、さっさと縁を切って孤独を選びましょう。
合掌。


第232回
人々は生まれながらにして平等である。
差別するのは、差別する人の心が汚れているのが原因だ。
人に差があるわけではない


先月のこと、オリンピックの組織委員会会長の森喜朗が辞任しました。皆さんよくご存じだと思います。原因は、女性蔑視発言ですね。当の御本人、謝罪会見を行いましたが、まあ、その態度がよろしくなかったのです。とても反省しているとは思えない態度でした。案の定、あちこちから批判を受け、辞任に追い込まれた次第です。そう、追い込まれたのですよ。おそらく本人は、「何が悪いんだ」という気分でしょう。「あれのどこが悪いんだ、俺のどこがいけないんだ」という心情ではないかと思います。まあ、勝手な想像ですが・・・。
あの年代の方にとってみれば、森さんの発言のどこが悪いのか、きっと理解できないのではないかと思います。あの年代じゃなくても、日本人の男性の中には、女性を低く見る人が結構多いと思うのです。未だに「女は男に従うべき」的な考えを持った人が多いと思うのです。日頃、いろいろな人の悩みや家庭問題を聞いている私は、そうした場面・・・家庭内の女性を家庭内の男たちが見下す・・・によく出くわします。そのたびに
「あぁ、未だに男どもは女性を低く見ている、平等には見ていないのだな」
と痛感させられます。特に田舎に行けば行くほど、です。特に年を取れば取るほど、です。
ですから、田舎出身の高齢者である森さんにとって見れば、あんな発言は当たり前のことであり、どこがいけないのか理解はできないのだと思うのです。日頃から思っていることを言ったまで、なのでしょう。まあ、それが日本の現状なのです。

世界的に見て、日本は女性に対して差別的な国なんだそうです。男女平等の比較からすると、世界でも下の方、下から数えた方が早い位置に日本はいるのです。それだけ、男女平等が進んでいない国なのです。
思えば、今でも「主婦は家にいるべきだ」という考えを持っている人は少なくないようです。結婚したら、専業主婦でいて欲しいと思っている男性は多いと思います。表面上では、「働いてもいいよ」という顔をしていますが、できれば「働いて欲しくない。家にいて欲しい」と望んでいるのが本音ではないでしょうか。本音を言えば、時代遅れの人間と思われるから言えないだけなのではないかと思うのです。
女性の社会進出に対して、風当たりが強い時代が長かったのが日本です。というか、日本は女性は下という思想が長く続いた国なのです。それは、長きにわたる儒教を元にした教育方針によるものだと私は思っています。この国の悪しき風習は、大概が儒教を元にした教育によるものでしょう。特に明治時代以降の教育に強く表れていますね。
家長制度により、その家の一番年上の男性が一番偉い、という家庭内身分制度。
男女七歳にして席を同じゅうせず。
男子、厨房に入らず。
女性に教育は不必要。
数え上げれば切りが無いでしょう。男女平等が本格的に叫ばれたのは、戦後になってからです。それまでは、女性は内に入って表に出るな、と言うのが主流だったのですよ。そんな歴史があるのですから、あの森さんの年代の人に男女平等を求めるのは、そりゃ無理って言うものだと思いますね。男女平等なんて理解は無理でしょう。そんな国なのですよ、この国は。

宗教もそうです。女性は男に生まれ変わってからでないと悟れない、なんて仏教でも説いてきました。「女は三界に家無し」などと説いても来ました。まあ、とんでもない間違いなんですけどね。本来の仏教ではそんなことは説いていないのですけどね。どこでどう間違ったのか、いつの間にか、仏教でも男女の差別を説いていると言うことになってしまいました。
私はよく知らなかったのですが、キリスト教でも男女の差別が問題になった時代があったそうです。キリスト教でも女性は劣るもの、悪魔の使い、魔性の生き物、とされた時代があったのだそうです。今ではそれは訂正されていると思いますが、
古くは女性は蔑視されていたのだそうです。イスラム教に至っては、今でも女性は蔑視されていますな。やはり、女性は男たぶらかす悪い生き物、とされているようですね。だから、女性は、顔を隠し、身体を隠しているのだそうです。イスラム教の国によその国の女性が行くときは、肌をなるべく露出しないよう注意されるそうですね。下手をすると、殺されていますかも、と言うことだそうです。

こうした宗教の女性蔑視は、男が女性に誘惑されて骨抜きにされてしまうから、というところから生まれてきたことなのでしょう。例えば、仏教の女人禁制だって、女性が同じ場所で修行をすると男性僧侶が修行に身が入らない、ということから、女人禁制になっているのです。お釈迦様時代、お釈迦様が尼僧をなかなか認めなかった理由の一つにも、これがあげられます。修行者(僧侶)が尼僧がいると修行に身が入らないから、つまり、僧侶が尼僧に誘惑され道をはずと行けないから、という理由ですね。他の宗教も同じです。女性は、男の妨げになる、ということです。
宗教がそう説くから、一般人も「あぁ、女性は悪い生き物なのだ。男をたぶらかす生き物なのだ」と広まってしまいます。女性蔑視の起源は、男性社会を中心とした宗教ともいえるのです。そうして男性中心社会が成立して以来、女性は低く見られるようになってしまったのです。

しかし、よくよく考えてみると、「女性は男性を誘惑する悪い生き物」という思想は、全く以て大きく間違っていますよね。そもそも、誘惑されなきゃいいじゃないか、ということですよね。誘惑に負ける男性が悪いのだ、ということです。いや、そもそも女性だって誘惑していないかも知れないじゃないですか。誘惑されていると思っているのは、男性だけであって、女性はそんなこと思ってもいないんじゃないですか。男側の勘違い、っていう話もよくありますよね。
たとえば、ミニスカートをはいた女性がいるとします。下着が見えそうなミニスカートです。そういう女性を見て、男性は
「男を誘惑しているのだ。あの女は見せたいのだ。誘って欲しいのだ。Hがしたいのだ。触って欲しいのだ」
などと想像を膨らましていまいます。ですが、女性の方は
「いや、そのミニスカートがはきたかっただけだから。男のことなんて考えていないから。はきたいからはいただけだから」
というでしょう。そう、バカな男の勝手な想像だけなんですよ。結局、男が勝手に作り上げた想像に男が誘惑されているだけなんです。つまり、女性は悪くなくて、男が悪いんですな。
だから、お釈迦様は、最終的に尼僧を認めました。アーナンダに
「女性は劣っているのか?、女性は悟れないのか?、女性では修行は無理なのか?」
などと迫られて、
「いやそんなことはない、女性は劣っていない。男女平等だし、女性でも悟れるし、修行も無理じゃない」
となり、尼僧を認めることになったのです。お釈迦様が渋っていたのは、男性の修行者の未熟さ故、なのですよ。つまり、男が悪いんですね。

本来、男女平等どころか、一切の人間は平等である、と説いているのが仏教です。人間だけじゃない、生きとし生けるものに仏性・・・悟ることができる可能性・・・を認めているのが仏教です。すべての生き物は、その魂において平等なのです。ただ姿形が変わるだけで差別することはいけない、と説くのが仏教です。仏教には差別はありません。
「生まれの違い、男女の違いによって差別があるのではない。差別は、その人の心の愚かさによって生じるものだ」
お釈迦様は、そう説いているのです。それが、いつの間にか、仏教が中国を経て日本に入ってくる内に女性蔑視の思想が含まれてしまったのです。日本が儒教をもとにした教育を採用すると、仏教もそれに従い
「女は三界に家無し」
といったり、女性は男に生まれ変わってからでないと悟れない、などということを説くようになってしまったのです。愚かなことだと思います。世の流れに負けて本来の教えをねじ曲げてしまうなんて・・・。そんな間違ったことを説いた坊主は、仏教の坊主じゃないですね。

未だに家長制度や男は偉いのだ、と主張する人が寺に来ると、私は手ひどく説教します。相手が誰であろうが、どんな身分であろうが、年上であろうが、なんだろうが、ぐうの音も出ないほどに叩きのめします。そこまで言わなくても、と思われるほど、徹底的に平等を説きます。また、家長制度を容認している家族、旦那が一番上と思っている家族にも注意をします。そんなことでは、これからの時代、生きていけませんよ、と。
仏様の前では、すべてが平等です。身分もなければ、職業の差も無い。生まれの善し悪しもないし、当然ながら男女の別もない。一切の差別はありません。人間であるだけのことです。
森さんの会長辞任劇がきっかけで、本当に差別のない社会が実現できればいいな、と思っていますが、まだまだ家長制度で育った老人たちがいる間は、難しいのかも知れませんね。その老人たちに洗脳された次の世代の人たちも、早くその洗脳から解放され、男女平等の社会が実現できるといいと思います。
合掌。


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