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第233回
不安は尽きないものである。
しかし、不安があるからこそ、人は成長するのだ。
不安を感じない者に成長は無い。


人が生きていく上で、不安はつきものです。不安が無い人生は、まあ、無いでしょう。仕事の不安、学業の不安、受検の不安、生活自体の不安、子育ての不安、老後の不安、人間関係の不安、病気や健康上の不安・・・・。数え上げれば切りがありません。そうした不安の中を我々は生きているのです。

若い方で、
「自信が無いんです」
「もう毎日が不安で・・・。何がというか、漠然とした不安があって・・・」
と相談に来られる方がいます。
気持ちはわかります。若いときは、特にこうした不安を抱える方は多いのではないでしょうか? ましてや今はコロナ禍です。先行きの不安は強いのではないかと思います。
しかし、若い方は「自信が無くて当たり前」だと私は思います。妙に自信満々な人を見ると
「その自信はどこから来るの?」
と問いたくなります。根拠の無い自信ほど怖いものはありません。その自信が崩れたとき、その人はどうやって立ち直るのでしょうか? 

自信がない人や不安を抱えている人は、心配だから準備しようとします。まあ、普通は不安に備えて準備するでしょう。不安を抱えながらも何もしない、と言うことはないのではないかと思います。
例えば、地震に備えて非常食などを備えておくでしょう。懐中電灯やラジオなどを避難袋に詰めておくのではないでしょうか? 水だってある程度は準備しておく家庭が多いと思います。何も準備していない家庭は、まずないと思います。
例えば、新入社員の方たちだって、何の準備もせずに会社へ行くということは無いでしょう。不安を抱えながらも、上司にはどういう対応をしたらいいだろうか、同僚への挨拶はどうしようかとか、どこへ配属されるだろうかとか、いろいろ考えていることでしょう。中には、「新入社員の心得」的な本を読む人もいるかも知れませんし、ネットで事前に調べている方もいるでしょう。ただ、のほほんと何も考えず出社する人は少ないのではないかと思います。

新しいことをやろうとするとき、自信が無いというのは当たり前のことです。経験していないことをやろうとしているのですから、自信が無くて当然なのです。やったことも無いことをするのに、自信満々というのはおかしいでしょう。
人は自信が無いからこそ、準備をします。自信が無いからこそ覚えようとします。自信が無いからこそ学ぼうとします。自信が無いから追いつこうとします。だから、成長するのです。しかし、はじめから自信があるという人やなぜか自信満々の人は、学ぼうとしません。もちろん、事前の準備なんてしません。話もちゃんと聞いていない場合もあります。なぜか自信があって、不安がないから、油断しまくりなんですね。で、失敗をするのです。普通は、失敗をすると「なぜ失敗をしたか」を考えるのでしょうが、自信がある人や不安のない人は考えません。だから、成長しないのです。同じ過ちを繰り返すのですね。
不安がある、自信が無い。だからこそ、成長できるのです。不安がなければ成長はないのです。

受験勉強だって、合格できるかどうか不安だからするのでしょう。就職活動だって、ちゃんと就職できるかどうか不安だから多くの企業を廻るのでしょう。仕事だってうまく運べるように事前準備をするのでしょう。身体だってそうです。病気になる不安があるから、健康に備えて食事に注意をしたり運動したりサプリメントを取ったりするのでしょう。病気の不安があるから健康診断にも行くのです。よく「俺は風邪を引いたことも無い。健康そのものだ」と自慢をする方がいますが、そういう方に限って、いきなり大きな病気になり手遅れになってしまう・・・・と言うことがあるのです。最近では、無病息災と言わずに「一病息災」なんていったりもするそうです。病気を一つ持っていれば定期的に病院に行くからかえって健康だ、ということですね。
いずれにせよ、不安があるからこそ、頑張るのだし、行動を起こすのだし、備えるのだし、努力するのです。そうした行為の積み重ねが人生の経験となり、人を成長させていくのです。つまり、人の成長は日々の不安にあるのですよ。だから、不安があっていいのです。むしろ不安がない方がよろしくないのです。
ただし、不安に取り憑かれてしまうのはいけません。

不安に取り憑かれる・・・。そうなると大変ですね。
不安に取り憑かれるというのは、不安で不安でどうしようもなくなってしまう、という状態のことです。一体何が不安なのか、それもわからなくなって、ただただ不安、という状態ですね。そうなると、日々の生活自体が怖くて、いつもビクビクしているようになり、日常生活に支障を来すようになります。こうなってしまった場合は、自分の努力でなんとかなる、というものではなくなりますね。不安という憑きものを落とさなければなりません。
とりあえず、自分でできることは、「この不安は一体何から始まったのだろうか?」と考察することです。いつから不安になったのか、何があって不安になったのか、ゆっくり過去をたどってみることです。焦らずに、冷静に過去を振り返るのです。
すると、「あっ、これかも」という不安に行き当たることでしょう。それがわかれば、その不安に対する処方を施せば、なんとか不安から脱出することができるでしょう。それでもダメな場合は・・・。
不安症のようになってしまった場合は、早めに専門家に相談することですね。
ちなみに、誰でも、どんな人でもある程度の不安症は持っているそうです。特にどこかに出かけたとき、
「あっ、ちゃんと鍵閉めたかな。窓開いてないよね」
「火の元は大丈夫だったかな。電気は消したよな」
などと不安になる人は、意外に多いのだそうです。私もたまにそういうことがあります。特にあわてて外出しなければいけなかったときなどはそういうことがありますよね。人間、焦るとロクなことがありません。
こういう不安症を抱えている方は、チェック表を持っているといいそうです。窓を閉めた、鍵を閉めた、火の元はOK、電気は消した・・・・などというチェック表を自分で作って、外出の際にチェックするといいのですよ。そうすれば、不安になったとき、そのチェック表を見返せばいいのですから。まあ、ちょっと重度の方は、そのチェック自体があやふやになって不安になる場合もあるようですが・・・・。そういう人は、やはり専門家にかかった方がいいですね。

いずれにせよ、不安を抱えることは悪いことではないのです。むしろ、不安を感じない方がいけないのです。否、不安を感じない人は、おそらくいないと私は思います。不安を感じない人は、不安を見ていない人なのだと思うのです。無意識的なのか、意識してなのか分かりませんが、不安を見ないようにしているのだと思うのです。初めは意識的に不安を見ないように、避けるようにしていたのが、そのうちに無意識に不安を見ないようになったのかも知れません。どちらにせよ、不安を感じない、不安なんてない、という人は、不安を直視していないのだと思うのです。
「そんなに不安がってもさ、どうしようもないじゃん。とりあえずやってみればいいじゃないの」
と軽く考えている人もいるでしょう。若者にありがちですよね。大丈夫だって、なんとかなるって・・・・というパターンです。現実は、なんともならないのですが、これがたまたまなんとかなってしまう場合もあるのです。そうすると、「ほらね」と言うことになり、そういう人は、その後も「なんとかなるって」という生き方になっていくのでしょう。まあ、それでうまくやっているように見える人もいるから困るんですけどね。
「何とかなるって」は、そうそう通じません。いずれ行き詰まります。行き詰まったとき、どうするのでしょうか? 逃げるのか、適当にごまかすのか・・・。いずれにせよ、周囲に迷惑をかけることにもなるでしょうし、人生の転落にあう場合もあるでしょう。不安を感じない、直視しない、重要視しない、という人は、一時的にうまくいくことがあったとしても、結局は、行き詰まるのです。

不安は実はいいことなのです。不安は抱えてもいいのです。ただし、その不安に対処しなければいけません。ただ、不安だ不安だと騒ぐのはダメなのです。何が不安で、どうすればいいのかをよく考え、それを実行していく、それが大事なのです。そうすることによって、人は成長をしていくのです。
不安は、あって大丈夫です。ただ、それに振り回されないようにしてください。どうしても不安が解消できない場合は、どうぞご相談ください。
合掌。


第234回
善いこと正しいことは、行いがたい。
悪いこと間違ったことは、行いやすい。
これを理解してるかどうかは、とても重要だ。


皆さんは、達磨大師をご存じだと思います。禅宗の開祖ですね。あの選挙の時に使うダルマさんのモデルです。あれは、達磨大師が面壁九年の座禅を行っている姿です。なので、手も足も造られていないのです。座禅中の姿ですね。あのダルマのおかげで達磨大師は、庶民にも知られるようになったのでしょう。まあ、達磨大師の威厳は、少々無くなったかもしれませんが・・・。だるまさんは、実はとても立派な僧侶だったと知っている方は少ないかも知れません。

その達磨大師、当時の中国の皇帝に招かれます。有名な達磨大師とは、どんな僧侶か見てみたかったのでしょう。ちょっと試してみたかった、のかも知れません。
皇帝は、達磨大師に質問します。
「仏教とはなんじゃ?」
まあ単純な質問ですな。しかし、これに小難しいことでも言えば、「そんなことはわからん」と一蹴されてしまうでしょう。それでは話にならないのです。単純な質問は、答えが難しいのですよ。しかし、達磨大師もそこの所は心得ております。
「仏教とは、善いことをして悪いことをしないこと」
そう答えますな。超簡単な答えです。これには皇帝も驚きますし、ムカついたようです。
「そんなことくらい、3才の子供でも知っておるわ!」
と怒鳴ります。達磨大師、落ち着いてお答えします。
「知っていても実行は難しい」
皇帝、ぐうの音も出ませんでした。

仏教は、基本的に難しい教えではありません。もちろん、悟りに向かうという本格的修行に入れば、いろいろと難しいことも出てくるでしょう。特に仏教的な思考の説明とかになると、用語もたくさんあるし、理屈も出てきます。しかし、その実践となると、まずやるべきことは
「善いことをして悪いことをしない」
だけなのです。たったそれだけなんですよ。簡単で単純なのです。が、しかし、実はこれって実践はとても難しいことなのです。

まず、善い事ってなかなか率先してできないことが多いですよね。道に落ちているゴミを拾い集めるって、日頃してますか? してないですよね。その町のボランティア団体でも加入していれば、そういうこともすると思いますが、自ら進んで積極的には行わないですよね。
普通に生活はしていても、なるべく他人に迷惑をかけないようにしていても、積極的に善行をしようとは思わないでしょう。あえて、そんな行動はしないですよね。善行は、なかなかしにくいものです。
ですが、悪いことは、しやすいのです。まあ、ここで問題になるのが、何が悪いことになるのか、なんですけどね。

当然、法律に触れることはダメですよね。してしまう人はいますが、やってはいけません。あぁ、なぜ法律で取り締まるかというと、人間はそういう悪いことをしてしまいがちだからです。法律で「やってはいけません」と禁止しておかないと、何でもやってしまうのです。悪いことだと知っていても。それだけでも、「悪いことはしやすい」と言うことがわかります。つまり、基本的に人間は、悪いことをしてしまう生き物なのですよ。ということは、性善説なんて、全く以てバカバカしいということもわかるでしょう。性善説が正しいなら、法律はいりませんね。
例えば、法律が無ければ、きっと泥棒は一杯いるでしょう。盗んではいけない、ということを知っていても、「捕まらないならいいじゃないか」となってしまいます。殺人もし放題です。人間は、欲望に従って生きる生き物ですから、法律が無ければ、とんでもないことになってしまうのです。

では、法律で取り締まれない悪いこととは、どんなことでしょうか? それは一般生活の中に潜んでいるのですよ。
ちょっとした言葉の暴力、まあ、ハラスメントですね。最近は、法律もできてきて、罰を受けるようにはなりましたが、家庭内でのハラスメントは表面に出てこない場合が多いですね。中には、言葉だけじゃなく暴力行為をしてしまう場合もあります。
盗み見ることだってそうでしょう。最近は、盗撮も捕まるようになってきましたが、まだまだネット上ではあふれているようです。悪いこと、と知っていてもつい盗撮してしまうのでしょうねぇ。
浮気も悪いことですね。不倫は、もはや普通に耳にします。バレたら大変なのに、かえってそのスリルがいい、なんて思っている方もいるようで。しかし、不倫で逮捕はされません。不倫は、悪い行為ではありますが、法律では取り締まれませんね。なので、野放し状態です。
ウソだってダメでしょう。特に他者を陥れるようなウソはいけません。でも、「悪気はないんだけど」なんて言いながら、ウソを広める人もいますから。怖いですね。同じく、悪口もいけません。ネット上での誹謗中傷は、しばしば問題になっております。他人を平気で傷つけるような行為は、許されることではありません。誹謗中傷をしている本人は、正義のつもり善行のつもりで行っているのかも知れませんが、そもそも誹謗中傷する人は、善行とは正義とは、と言うことを理解していない人でしょう。善意、の意味がわかっていないのです。善意という名の悪意に満ちた人なのですよ。
ほかにもタバコのポイ捨てをする人もいますし、ゴミを巻き散らかす人もいます。ちょっとした悪い行いは、
「まあ、これくらないなら平気だろう」
という感覚で、簡単に行われています。

考え方の悪意だってあります。自分勝手な行動は、そのいい例でしょう。これだけコロナで騒がれ、感染者数を減らすために飲食業方たちには我慢を強いているのに、
「そんなの関係ないもん。だって、酒が飲みたいもん。みんなとつるんで騒ぎたいもん」
などと路上で酒を飲んでいる行為は、果たして正しいのでしょうか? 考え方の悪意ですね。今の時期、それが正しい行動なのかどうか、よく考えることができないのです。

善いことや正しいことは、実行しがたいのですよ。善いことをすると、周囲から揶揄される、と言うこともあるのかも知れません。「いい格好しやがって」といわれたり、「いい子ちゃんぶって」と言われたりすることもあるでしょう。でも、本音を言うと、そういうことを言うヤツに限って、本心は善いことをしたいのでしょうけどね。それが人間の心理ですね。
悪いことをする姿は、なぜか格好良く見えてしまう場合があるのですよ。人と違ったことを平気ですると、周りがヤンヤヤンヤと喝采をあびせたりするのです。ハロウィーンのときに酔っ払いが車をひっくり返したりしましたが、そういうことをすると周囲が持ち上げるのです。やっている方も、気持ちよくなってしまうのですね。で、エスカレートしていくのです。
人間は、やってはいけないことをやってしまうと、興奮するのです。そういう生き物なのでしょう。だから、悪いことをしてしまうのでしょうね。

人間は、悪いことをしやすい、善いことはしにくい、正しいこともしにくい、間違ったことをしてしまうものだ。
このことを知っているのと知ってないとでは、大きな違いがあります。これを知っていれば、どこかでブレーキが掛かり、
「ちょっとまてよ、これは善いことか悪いことか」
と考えるようになるのです。
「そんなことくらい知っているさ」
と言われるかも知れません。でも、日頃、それを意識していますか? 忘れているでしょ・・・・。
忘れてはいけません。人間は、悪いことをしやすい生き物なのです。だからこそ、やって善いことなのか、善くないことなのか、を考えることが大事なのです。
人間は危うい生き物だ、それを忘れないで欲しいですね。
合掌。



第235回
奇跡を安易に求めるな。
奇跡は絶え間ない努力の結果、訪れるものである。
ごくごく稀なのですが、私のような祈願や相談事をメインにしているお寺には、奇跡的なことを求めて来る方いらっしゃいます。ひどい場合は、
「ちゃちゃっと祈願して、この病気を治してもらえませんか?」
なんて場合もあります。まあ、ひどい話ですよね。私は魔法使いでも魔法のランプから出てくる魔神でもありません。勘違いも甚だしいですよね。しかし、ここまでひどくはないのですが、似たような依頼は、あるのですよ。

「妻と縁切りしたいのです。縁切り祈願をしてください」
そう言って訪れた男性の方がいました。縁切り祈願してくれ、と言われ「はい、やりましょう」などとは、私は言いません。確かに縁切り祈願はありますし、事情によっては可能です。そう、事情によっては、です。身勝手な事情で縁切り祈願を依頼されても、それはちょっと無理ですよね。そういう場合は、「できません」と言います。どうしてもやって欲しいと言われれば、「効果が無くてもいいのなら」とはじめに言っておきます。まあ、気休めになるなら、ということですね。
ですので、その男性の方にも事情を聞きました。
「もう数年前からなのですが、妻がヒステリックに暴れるようになったのです」
「その原因は?」
横を向いて
「わかりません」
ということは、わかっているんだこの人、と思いますよね。まあ、答えたくないのだろうな、ということで、一応スルーしておきます。
「警察にも来てもらうことがありました。警察は、これまで数回来てもらっています。仕事にならないので、今は別居しています。離婚を切り出しているのですが、そのたびに暴れるので、ここ2〜3年、放置しています。しかし、いつまでもこのままでは、と思い、縁切り祈願を頼みたいのです」
まあ、あきれて物が言えません。突っ込んで質問する気にもなりません。なので、
「あなた、来るところ間違っていますよ」
と言いました。まず行くべき所は、弁護士のところでしょ、とね。
「自分では、手を汚さずに、全部お任せですか?。少しは、自分で努力しようとは思わないのですか?」
「努力しました。何度も話し合おうとしました。ですが、そのたびに暴れるので、話にならないのです」
「弁護士さんは、頼んでないのでしょ?」
「はい、まあ・・・」
あぁ、お金をかけたくないんだ、と思いましたね。私のところなら費用はそんなにかかりませんから。弁護士を依頼すれば、大金がかかりますからね。ケチなんですね。
「まずは、弁護士に相談することでしょ。話し合いの場に、弁護士さんに同席してもらえばいいじゃないですか。まずは、そういう努力をするべきでしょ。物理的な努力です。そういうやるべきことをやってからでないと、私は祈願はいたしません。これだけの努力をした、弁護士も入れて何度も話し合いをした、しかし、話が進まない、暴れる、精神科にも連れて行った、でもダメ、できる限りのことはした・・・・でもうまくいかない、そういう状態でしたら、祈願をいたします」
と言って、帰ってもらいました。不服そうな顔をしていましたが、当たり前ですよね。自分は何の努力もしないで、祈願をして、奇跡的に収まってくれないか、なんてのは、恐ろしく身勝手ですし、佛様を冒涜していますよね。

奇跡というのは、何も無い状態からは生まれません。神仏による奇跡的なことは、その人がどこまで努力したかに依ると思います。いや、神仏に祈願だけじゃなく、奇跡的だ!と言われる出来事の多くは、それまで積み重ねた努力の結果によるものでしょう。
例えば、バスケットの試合で、試合終了の間際に、
「逆転のスリーポイントシュートが決まった、しかもコートの半分くらいの位置から投げたシュートだった!」
なんてことがありますよね。試合終了のカウントダウンが始まって、1点ビハインドの状態。残りあと3秒。2秒、1秒・・・と言うところで投げたシュートがゴールへ。奇跡的なシュートですよね。ブザービーターとかいうのですか? あまり詳しいことは知りませんが、たまに聞く話ですよね。奇跡が起きた!なんて報道されます。
しかし、シュートを放った選手は、素人ではありません。それまで、血のにじむような練習をしてきたことでしょう。シュートも何本も打ってきているはずです。そうした選手が、時間が無いからといって、コートの半分くらいの所からボール投げても、いい加減な投げ方にはなっていないでしょう。体が自然にシュートを打つ体性になっているはずです。当然、瞬時にゴールまでの距離も感覚的に分かっているはずです。ならば、シュートを打つタイミング、力加減、そうしたことも瞬時に計算できているでしょう。本人は意識していなくても、です。それは、今までやってきた練習の賜物ですよね。
奇跡は、そうした努力の積み重ねで、起きることなのです。それもたまたまですよね。毎回起きるとは限りませんし、その選手が出来たからと言って、他の選手が出来ることでもありません。奇跡は、あくまでも個人的なことですから。

なん努力もしないで、奇跡なんてのは起きないのです。
昔話です。ある旅人が、大事な宝物が入った箱をもって旅をしていました。その宝物、少々重いものでした。歩き疲れた旅人は、泉を見つけます。
「あぁ、ちょうどいい、あそこで休んでいこう」
そう思った旅人、泉に近付いた途端、よろめいて宝物を泉に落としていまいます。
「あぁ、なってこった、どうしよう、どうすればいいんだ」
周囲を見回しますと、小さなお堂があって、そこから読経の声が聞こえてきます。
「そうだ、あそこに行って助けてもらおう」
旅人は、そのお堂に行って事情を話します。すると、お経を読んできた拝み屋っぽい(正式な僧侶ではない、ちょっと怪しい坊さん風の男)人が、
「よし、わしに任せておきなさい」
そう言って、泉のほとりに座り、合掌してお経を読み始めます。なにやら、怪しい呪文まで唱えます。旅人も、その後ろ座って合掌して祈ります。
さて、果たして宝物は浮いてくるでしょか?

愚かな話ですよね。宝物が浮いてくるような奇跡は起きません。全く馬鹿げた話です。と、誰もが思い、そんなバカなことはしない、と誰もが胸を張っていうでしょう。でもね、よ〜っく考えてください。似たようなこと、やってませんか?
自分は、なんの努力もしないで、神仏に祈願をする・・・・。そうしたこと、していませんか?
奇跡を願って、一生懸命お祈りをする、自分は何もしないで・・・・。そういうこと、したことありませんか?
縁切り祈願に、怨みを晴らす祈願、呪い、恋愛成就・・・・などなど。
怨みを晴らしたい、呪いたいというのなら、怨みを晴らす相手に直接何か言えばいいじゃないですか。お前を怨んでいる、といえばいいでしょう。あるいは、法的手段をまず考えるべきでしょう。怨みを晴らす方法をいろいろ試して、どれもうまくいかない何とかなりませんか? と相談に来るなら分かります。何もせずに怨みを晴らしてください、呪ってください、はないですよね。もっとも、そうした依頼は、すべてお断りしますけどね。人を呪わば穴二つですしね。最大の復讐は、その怨んでいる相手より、幸せになることですしね。という話をして、引き取ってもらいます。
恋愛成就に至っては、まずは、知り合う場所へいかなければダメでしょう。恋愛祈願をしたら、いきなりいい相手が降ってくるわけじゃありません。マッチングアプリをするとか、サークル活動をするとか、趣味のスポーツをするとか、人と出会う場所に行かなければ、出会いはありませんよね。恋愛成就の恋願をしたから、家で待ってればいい、なんてことはありません。行動を起こさなければ、何も始まらないのです。行動を起こして、あらゆる手段を考え、実行し、努力を積み重ねた上で、奇跡は起こるのですよ。何もないところからは、奇跡は起きないのです。
それを、多くの人は勘違いしているのではないでしょうか?

泉に落とした宝物が、浮いてくるようにいくら祈願してもダメなのです。それと同じく、何の努力も無しで、奇跡を望んでも、それは無理というものでしょう。旅人は、泉から宝物をとる方法を教えてもらうことが大事なのです。そうした智慧を与えてくれる人に相談すべきだったのですね。
さて、もし、あなたが旅人ならば、まず、どんな努力をしますか?
合掌。



第236回
自分のことを優秀だ、できる人間だ、と思い込んでいる者は、
実は愚か者である。
自分の愚かさを知らない者は成長がない。

その自信はどこから来るの? という方が時々います。どうみても根拠のない自信だと思うのですが、あたかも何でも知っているような顔をして、堂々としているんですよね。おまけに何でも自分の思うようになる、周りも自分の思うように動いてくれると信じている節があります。でも、現実はそう甘くはありませんよね。実際は、自分の思うようになることなんてほんの少ししかありません。自分の思うとおりに行く方がラッキーなくらいなのです。まあ、それが分からない自信満々の人は、自分の思うように行かないと、周囲に八つ当たりをします。端から見れば、単なる我が儘な人間で、とても愚かしいと思うのですが、本人は気付いていないんです。まあ、見ようによっては、何だか哀れですね。

先月のこと、経産省のエリート官僚が、給付金の不正受給詐欺という犯罪を犯しました。犯人は、キャリア組の二人です。高学歴の大学を出て、キャリア官僚になり、出世も将来も約束されたような者が、なんでそんなセコイ事件を犯すかな、と思った方は多いのではないでしょうか?
きっと事件を起こした二人は、「バレる」なんてことは考えもしなかったのでしょう。なぜなら
「俺たちは頭がいいから、完璧だ。絶対バレるわけはない」
と思い込んでいたのでしょうね。そう、自分たちは賢い、何でもできると勘違いしたのです。それは、思い上がりであり、驕りであり、うぬぼれであり、傲慢なのでしょう。エリートで歩んできて、優秀で、何かに蹴躓いたことなど無いような、否、蹴躓いてもうまくこなしてきた人なのでしょう。だから、自信たっぷりだったのでしょうね。
ニュースによると、給料よりも高い家賃の超高級マンションに住んでいたとか・・・・。一体何を勘違いしたのでしょうね。そんなにも自分を高く評価していたのでしょうか? 同じようなレベルの人間は沢山いるというのに。

自分のことを賢い人間だ、できる人間だ、と思い込んでいる人ほど、愚か者はいません。なぜなら、そういう人は、自分のことを少しも分かっていない人だからです。冷静に自分を評価できていない、ということですね。自分のことを冷静に、客観的に評価できる人は、自分のことを賢い人間だ、できる人間だ、などとは思わないでしょう。
自分を過大評価している人は、まあ、うぬぼれの強い、高慢ちきな人間でしょう。そういう人は、周囲から嫌われます。でも、本人はきっと
「私の能力に嫉妬しているんだな」
くらいにしか思ってないのでしょう。でなければ、少しは謙虚になるはずですよね。でも、そうはならないのは、自分のことを正しく判断できない愚か者だからなのです。
お釈迦様は、
「自分が愚か者だと知っている者は、自分を愚か者ではなく賢く優秀な人間だと思い込んでいる者よりも、愚か者ではない」
と説いています。つまり、自分のことを知っている者は、自分のことを知らない者よりも、賢い、ということですね。

自分は何でも知っている、自分は賢い、自分はできる人間だ、自分は優秀だ、自分は特別だ、と思い込んでいる者は、それ以上の成長がありません。そういう人は、周囲を見下しているので、周囲の意見を聞こうとしません。きっと、周りの人たちがバカに見えているのでしょう。だから、周囲の意見なんぞ耳に入らないのですね。ということは、そういう人たちは、学ぼうとしないのです。だから、成長がないのです。成長がない、ということは、当然ながら精神も育ってはいないのです。
だから、自分よりも賢い人間に出会うと、心が折れてしまうのです。あるいは、強い嫉妬のため、自分より賢い人間の足を引っ張るようなことをしたり、悪い噂を流したりして、妨害するのです。まるで子供ですよね。うぬぼれが強すぎる者は、何の成長もないのです。こういう人をお釈迦様は、「増上慢」と呼び、決して増上慢になってはいけない、と説きました。増上慢になれば、悟りはほど遠くなりますからね。

ところが、自分はまだまだ足りない、とてもじゃないが、まだまだだ、とわきまえている人は、成長の余地があるのです。なぜなら、他者の意見にも耳を傾けるでしょうし、学ぼうとするからです。自分は愚か者だ、とわかっている人は、自分に注意をするでしょう。間違った行動をしてはいけない、道をそれてはいけない、真面目に生きよう、しっかり働こう、勉強しよう・・・などと、向上心や社会性を身につけていくでしょう。まあ、多くの人たちが、自分は愚か者だ、と自覚していなくても、そのようにしていますけどね。

あのエリート官僚の二人も、もう少し自分のことを冷静に見つめる目があれば、あんな事件は起こさなかったのでしょう。うぬぼれがなければ、こんなことはバレる、バレたらすべてはパーだ、くらいのことには気付いたと思います。先のことが読めない、それに気付かない時点で、うぬぼれの頂点・・・愚か者・・・になっていたのでしょうね。

知らず知らずのうちに、うぬぼれてしまうことはよくあります。こんなことくらい平気だろう、まあバレないだろう、俺様は特別だし・・・などと、うぬぼれ、犯罪を犯したり、事件事故を起こしたりするのです。こういうことは、よく聞く話ですね。
自分はまだまだだ、愚かな者なのだ、と自覚をした方が安全だと思います。そして、その方が成長するというものです。もう自分は十分だ、完璧だ、自分はすごいんだ、などと自惚れてはいけませんね。まだまだだ、まだ成長過程なんだ、と思えば、世の中には沢山楽しいことがあると気付くと思います。
死ぬまで、完成はありません。死ぬまでの時間、大いに学び、大いに成長し続けることが、生きることなのだと思います。それには、自分は愚か者だ、という自覚を持つことが大切なのでしょう。
合掌。



第237回
本当の答え、本当の自分、本当の真理は、外にはない。
それらはすべて自分の中にあるものだ。
よそに求めても得られないのである。


オリンピックが始まっております。アスリートの方たちの、あの姿は感動を呼びますね。例えメダルが取れなくても、精一杯頑張る姿は美しいものがあります。あの場に立つまで、どれほど努力してきたか・・・。数多くいる選手の中で、あの場に立てるのは何パーセントなのでしょうか? そう思うと、アスリートの方たちは、いやはやすごいとしか言い様がありません。
もちろん、独りでそこまで上り詰めたわけではないでしょう。周囲には、支えてくれる人たち、サポーター、コーチ、そしてライバルの存在があると思います。そうした方たちに支えられ、励まされて頑張れたのだと思います。しかし、でも、最終的には、自分でしょう。自分自身がくじけてしまえば、あの場に立つことはないのだと思います。最も大事なのは、自分なのではないでしょうか。

一頃、随分前でしょうか、サッカー選手で有名な方が、引退される際に、「自分探しの旅に出る」などと言って、世界を巡るんだということがありました。それに影響されてか、その頃は、自分探しという言葉が流行ったと思います。まあ、今から思えば、何だったんだろうか、という気もしますが、未だに「自分探しをするんだ」という方はいらっしゃるようで。自分探しって、自分はそこにいるじゃん、と私は、昔から思っていますけどね。あのサッカー選手が言ってたときも、そう思っていました。
自分探しって、どういうこと? とね。

禅の教えを図にしたものがあります。図というか、十幅の掛け軸なのですが、「十牛図」と呼ばれています。これは、十幅の連続した掛け軸で、悟りに至る過程や、その後のことが描かれているものです。悟りを牛に例えております。ちょっとご紹介いたしましょう。
@尋牛・・・牛を探している図です。牛、つまり悟りですね。悟りはどこにあるのだろう、とさまよっている姿が描かれております。
A見跡・・・経典や修行で、悟りがありそうだぞ、と見つける姿です。あれかな、これかな、とまだ迷ってはおります。
B見牛・・・牛を見つけます。ここで初めて牛の後ろ姿を見つけますな。あ、あれだ、あれこそ悟りだ、と追いかけます。
C得牛・・・ついに牛を得ます。悟ったと実感します。が、まだまだ、落ち着いてはいません。悟りに振り回されているような感覚です。
D牧牛・・・牛を飼い慣らすように、悟りを反芻します。本来の深い真理は、まだ身についていない状態です。悟りにこだわるからダメなので、悟りを解き放つ、と言うことですね。
E騎牛帰家・・・ついに牛を飼い慣らし、家に戻るという図です。つまり、安定した悟りの状態です。やれやれ落ち着いた、という気持ちでしょうか。
F忘牛存人・・・牛を忘れて人だけ残り、ボーッとした図です。そこには、牛はいません。悟りとは、飼い慣らすものではなく、悟りを得た、という状態でもない。悟りそのものを忘れてしまった、気にならなくなった、その時こそが大事ではないか、こだわりが無い状態が大事、ということでしょう。
G人牛倶忘・・・何も書かれていない図です。まん丸の図ですね。そう、何もないのです。無なのです。一切は無です。
H返本還源・・・気に咲き乱れる花と川の図です。そう自然ですね。すべては清らかな自然のまま、自然に流れるように生きればいい、あるがまま、ということです。
I入てん(漢字が出ませんでした)垂手・・・「にってんすいしゅ」と読みます。自然のまま、あるがまま、という境地に入れたので、あるがままに外に出て布教をしよう、という姿です。どんな姿でもいい、あるがまま、自然に生きていけば、人にも心が伝わる、それが真の布教であろう、という姿ですね。
ざっと紹介いたしましたが、詳しく知りたい方は検索すれば出てきます。とはいえ、これは、言いたいことは一つです。
「悟りをよそで探しても意味はない。すべて己の中にあるではないか。悟り悟りとこだわっては見つからない。一切は、無なのだから。自然に、あるがままに、それが真の姿なのだ」
ということでしょう。外に求めているうちは、真実は手に入らないのだよ、ということですね。

弘法大師は、般若心経秘鍵の中で、
「真如ほかに非ず、身を捨てていずくんか求めん」
と説いています。
「真如はほかにはない、自分の身を捨ててどこに求めるのだ」
という意味ですね。そう、真如、真理、真実・・・・答えは、すべて自分自身の中にあるのですよ。外に求めても得られるものではないのです。

人はいろいろ悩み苦しみます。辛いこと苦しいことに出会います。その際に、その苦しみや辛さ、悩み、などを他者のせいにしていては、何も解決しないでしょう。他人が悪い、あいつのせいだ、社会が悪い、会社が悪い、上司が悪い・・・などと、今自分が苦しんでいる原因を他人のせいにしているうちは、真理には至らないのですよ。本当の答えは出てこないのです。だから、他人のせいにしているうちは、伸びないのです。成長しないのですね。

一流の選手。オリンピックのような舞台に立てる選手は、自分との戦いに勝った選手なのでしょう。答えを外に求めず、自分自身に求めて、そこで頑張ってきたからこそ、一流のアスリートになれたのだと思います。
「答えは自分の中にある」
このことに気がつくか、気がつかないかは、大きな差になるのだと思います。それはなにも、スポーツに限ったことではないですね。どんな場合も同じでしょう。

今、とても辛い、苦しい、悩ましいという立場にある人。その原因は、果たしてどこにあるのでしょうか? 他者のせい、会社のせい、世の中の仕組みが悪い・・・・。確かに、コロナの給付金が遅くなり、苦しんでいる方たちもいますから、他者のせいとなる事もあるかも知れません。しかし、その遅れていることをどう捉えるか、が問題なのです。
「遅れているものはどうしようもない、考えるだけ無駄じゃないか、その間にやれることはないだろうか」
と考え、行動することもできるわけです。大事なことは牛・・・外からの要因・・・ではなく、自らの心の状態なのですよ。見た目の原因は、外からかも知れませんが、その原因をどう捕らえ、どう対処するのかは、自分自身なのです。自分の身を捨てて物事を考えていては、真の答えには到達しないのです。

苦しいこと、辛いこと、落ち込むこと、そうしたことはあるでしょう。大事なのは、その原因であり、その原因を自分の心に求めることです。そして、自分の中にそれを見つけられたら、あなたもアスリートのように頑張れるのです。
他に求めてはいけません。自分に求め、自分に打ち勝つ事こそが、大事なのです。
合掌。



第238回
学ぶことを止めてはいけない。
人は、いつも学び、考え、成長していくものだ。
学ぶことを止めれば、そこで成長も止まる。
「いったい、あなたは、今まで何を学んできたのか?」
私が、そう問いかけた相手は、70代の男性です。続けて
「その年まで、何を学び、何を考えて生きてきたのか?」
と問いかけました。その男性、何も答えられず、ただ、下を向くばかりです。まあ、恥ずかしいのでしょうね、自分の行為が。ということは、少しは気がついているのですから、まだマシな方です。同じような問いかけに、「はぁ?」という顔をするご老人も多々おります。困ったものですね。

多くの人は、年を取ると学ぶ機会を失います。というか、学ぼうしなくなります。今更、何を学ぶのか、という気になってくるんですね。学ぶことなどない、と。意識しなくても、自然に、そういう気持ちになってしまうのです。難しいことは、だんだん耳に入らなくなりますし、いろいろ面倒くさくなってきますから、学ぶという態度はなくなってしまうのです。しかし、これは本当はよくないことですね。いくら年を取っても、何かを学び、吸収することは大切でしょう。
いや、あらたまって学習せよ、と言うことではありません。学校へ行け、などと言っているわけではありません。そうではく、世間にあったことを見聞きし、「学べ」と言っているのです。

たいていの人は、大学や高校を卒業すると、学習からは解放されます。イヤイヤ通った学校から解放され、イヤイヤ出席していた授業から解放され、はぁ、やれやれこれで勉強なんてしなくていいんだ、と喜ぶ方も多いでしょう。教科書なんて捨ててやる!と叫んだ方もいるでしょう。まあ、学校の授業は、面白くないですからね。もっと、面白い内容に工夫すれば、ちゃんとした学習ができるとは思うのですが、融通が利かないですからね、お役所は。
ま、それはともかく。
大学や高校を卒業して、学ぶことを止めてしまった人と、学び続ける人では、大きな差が生じますね。
学校を出ても何もせず、働きもしないで、親のすねをかじるか、犯罪に走る。犯罪に走り、捕まって刑務所に入り、出所した後、また犯罪をして捕まり、再び刑務所へ・・・。そのくりかえしを行う者もいます。学習能力が無いのか、何も学んでいません。いや、きっと、学ぼうという意識がないのでしょう。刑務所で更生のためのプログラム受けても、きっと耳に入らないのでしょう。だから、身につかないのでしょうね。学ぶことは、その人に大きな影響を与えるのです。

学校を出て、働きに出た人は、職場でいろいろなことを学びます。当然、仕事も学ばねばなりませんし、対人関係や世の中の仕組み、なども学習します。「へぇ〜、こんなんだったんだ」と思うことは、多くあるのではないかと思います。学生時代には知りようもなかったことを学ぶのですね。そこで、ショックを受ける人もいれば、苦労を重ねる人もいるし、悩み苦しむ人も出てきます。いろいろ知ることができて楽しい、という人もいるでしょう。知らないことが知れて面白い、と思う人もいます。
悩み苦しむ人は、それはそれでいいと思います。悩むことによって、考えるからです。どうしたらいいのだろうか、と。ただ、ここで、落とし穴に嵌まってしまい、悩むことにとらわれ、抜け出せなくなってしまうと、ちょっと大変ですね。鬱状態になってしまえば、それは早めに病院に行った方がいいでしょう。
できれば、悩み苦しんでいるときに、これも学習なのだ、と気付いて欲しいです。今、自分は、世の中のことの一端を学んでいるのだ、と。世の中には、こうした理不尽なこともあるし、汚い世界もあるし、嫌な人間もいるのだ、と言うことを学習しているのだ、と気付いて欲しいですね。そう思うことができれば、客観的に捉えることができ、鬱にはなりにくくなるのではないかと思うのです。人生は学びなのだ、と言うことを気付くことが大切なんだと思います。

意欲的な人は、学校を卒業しても、いろいろな資格を取るために、更に学校に通う人もいます。会社で役に立つため、出世のため、学習を止めない人もいます。いろいろなスキルを身につけ、社会で成功を手に入れようと思えば、学習することは必要になってきます。意欲的な人とそうではない人で、また差がついてしまうのです。学習意欲というのは、怖いものです。学ぶ、ということは、人を大きく変えるものなのですよ。学ぶことに積極的な人、そうでない人の差は、大きくはっきりと分かれてしまうのですね。

なにも、技術的なこと、資格のことだけではありません。出世に役立つことだけを学べばいいのか、と言われると、そうでもありません。いくらいい技術、スキル、資格を手に入れても、人間としての学習をしていなければ、どんな優秀な資格も意味を成さないこともあります。宝の持ち腐れ、になることもあるのです。
世の中には、学んでおくべき事が沢山あります。まずは、一般常識ですね。いくら優秀な人間でも、いくら素晴らしいスキルを持った者でも、一般常識から外れてしまっていては、誰も相手にしてくれません。常識外のことをすれば、途端に孤立してしまいます。人間関係をうまくこなしていくことも学ぶべきでしょう。会話の仕方とか、人との接し方とか、そうしたことを学ぶことは有利だと思いますね。人間関係に悩む方は多いですから、それを教えてくれるところがあるのなら、学んでおくといいと思います。
ほかにも、欺されない人間になる、情報の真偽を見極めることができる、情報に基づいて思考できるようにするなど、学ぶべき事は沢山あるでしょう。世の中には、本当のこともウソもたくさん流れていますから、それを見極めることができるように、学習することは大切ですね。そして、何よりも、学び続ける、その意識が大切だと思います。学ぶことを決して忘れないこと、それが大事なのです。

いったい、いつ頃から学ぶことを意識しなくなったのでしょうか? 気がついたら、学ぶことなど何もしなくなってしまった・・・。そういう方は、多いのではないでしょうか? 別に、何かを勉強しなさい、と言っているのではありません。私が言っている学習とは、生きる意味での学習のことです。
新聞を見て、あぁ、こういうことは気をつけなきゃ、とか。
TVニュースを見て、自分はあぁはならないようにしよう、とか。
外に出て、他人のイヤな振る舞いを見て、自分はあんなことはしないようにしよう、とか。
いい情報を得て、自分もまねをしてみよう、とか。
そういう考え方を忘れないようにすることが学習なのですよ。ただ、ボーッとしてやり過ごしていてはいけないのです。他からの情報を得て、それを自分に置き換え、考え、自分はそう言うことはしないぞ、あるいは、自分も頑張ってみるか、と意識することが大切なのですよ。それが学習なのです。だから、一生、学習し続けることが必要なのです。

年を取って、10才も下の者に、
「何を今まで学んできたのか? この年になるまで、あなたは何を学んだのか? なにも考えずに生きてきたのか? ただ、威張るだけで、ただ、自分の思うままに、身勝手に生きてきたのか? あなたが学んだことは、一体何なのか?」
と問われないようにして欲しいですね。恥ずかしい生き様をさらさないように生きたいものです。
それには、いくつになっても、学ぶ意欲を失わないことです。どんなことからも学習はできます。学び続けることによって、人間の厚みが出てくるのです。
薄っぺらな人間にならないよう、学ぶことを忘れないでください。
合掌。


第239回
相手の立場に立って考えよ。
相手と自分を入れ替えて考えて見よ。
そうすれば、相手の気持ちが分かるであろう。

相変わらず、ネットでは誹謗中傷が続いているようですね。どういう気持ちで誹謗中傷しているのか、よくわかりません。誹謗中傷される人の身になって考えることはないのでしょうか? まあ、ないのでしょう。あれば、そんなことはしませんよね。
誹謗中傷される側の立場になって考えれば、誹謗中傷がいかにひどいことか、ということに気付くと思うのです。もし、自分が誹謗中傷されたらどうなのだろうか、そう考えたら、誹謗中傷などなくなるのでしょう。ネット上で、誹謗中傷がなくならない、と言うことは、誹謗中傷を書き込む人は、相手のことなど何も考えていない、と言うことです。ただ、自らの喜びだけを感じているのでしょう。他人を誹謗中傷することで、満足を得ているわけです。なんともまあ、浅ましい、下劣な行為だと思います。ふと、我に返ったとき、自分を惨めだと思わないのかな、とも思いますが、そんなことを思うのなら、誹謗中傷はしないですね。

「相手の立場になって考えろ」
と、言われたことはないでしょうか? 私たちが若い頃は、よく言われたのですが、最近ではそういうことは言われないのですかねぇ。そういえば、昔の格言なんて、今は通用しないことが多いようです。石の上に三年、なんて言っていたのは、いつの時代でしょうか? 今、そんなことを言っても通用しませんね。
「我慢に何の意味があるの。辞めたいから辞めるんですけど。ここにいても何のメリットもないし」
と言って、辛抱我慢をせず、さっさと転職する時代ですからね。働かざる者食うべからずも、「働いたら負け」に押される時代ですし、まあ、昔の格言も、差別的な要素もありますから、一概にすべて正しいわけではありませんが、そうした格言が通用しなくなる時代なんだな、とよく思います。大事なことも多く含まれているんですけどね。昔の格言を、素直に理解しないで、あえて悪意に解釈する方もいますし、まあ、世の中こうしてどんどん変わっていくのですね。諸行無常ですな。
まあ、しかし、それはいいにしても、「相手の立場になって考えよ」と言うことは、今でも十分通用すると思うのですが、いかがなものでしょうか?

若い方からお年寄りまで、「相手の立場になって考えよ」と言うことをどうも皆さんお忘れでないかと思うのですよ。個人の主張ばかりが大声で闊歩し、相手の立場や事情を無視しているように思うのです。人には、それぞれ立場や事情がある、と言うことをどうも置き去りにされているように思うのですよ。だから、人と人のつながりが、摩擦を起し、ギクシャクしてしまうのではないかと思うのです。相手を慮る、なんてことが少なくなっているように思うのです。

「こんなことを言われたら嫌だろう」
「こんなことをされたら嫌だろう」
と考えないから、誹謗中傷も無くならないわけです。あるいは、誹謗中傷に至らないまでも、口げんかや言い争いが始まることもあります。こんなことを言われたら嫌だろう、と言うことをあえて口に出し、怒りを買っているということはよく聞く話ですよね。
「なんでそんなことを言うの? そんなこと言ったら相手が怒るのは当然だよね」
なんてことは、よくある話ですよね。ついつい、言ってはいけないことを言い、問題を大きくしてしまう、そういうことはよくある話です。やってはいけないことやって、問題や事件になることもあります。こうしたことは、やる前に考えれば防げることです。それをしない、しなくなった、そういうことが増えているのではないかと、思うのですよ。

相手の立場、相手の事情、そうしたことを考慮すれば、無理なことも言えないでしょうし、ましてや誹謗中傷などやらないでしょう。もめ事も絶対少なくなるはずです。ですが、世の中は違います。逆に相手の立場や事情を考慮せず、自分の意見を押し通すのです。
だいたい、マスコミ自体がそうですから、一般人だって真似したくなりますよね。相手の立場も考えず、慮ることもなく、大きなお節介をするのがマスコミですからね。あれを絶えず見ているような人は、それが正しいと思うかも知れません。他人の裏の事情や立場なんて気にせず、傍若無人に振る舞うようになっても仕方が無いのかな、と思います。
しかし、そういう態度に傷つく人が沢山いることも事実なのですよ。少しは、相手の立場に気を遣ってもいいんじゃないかと思います。

この「相手の立場になって考える」と言うことは、案外使えるのですよ。相談事や、交渉事には優位に働きますよね。普段から、相手の立場になって考える癖があれば、交渉時には、役に立つものです。
「自分があの立場なら、きっとこうするな。いやいや、こういう作戦もあるぞ」
と言う、相手の行動や考えを推測することもできるようになります。そうすれば、こちらも作戦を立てやすくなりますよね。
あるいは、
「相手の弱点は、どういうものがあるか」
と言うことも考えることができます。相手の立場、事情がわかれば、交渉事は運び安いですね。
相手の立場になって考える、と言うことは、何も気持ちの問題だけではないのです。ビジネスにも大いに役に立つのです。

相談事でもそうですね。自分の意見を無根拠に言うのでは無く、相手の立場や事情が分かれば、しっかりと分析することができます。ならば、適格なアドバイスもできるようになるでしょう。
「この場合、自分ならどうするか? この人ならどうするだろうか?」
と相手の立場になって深く考えれば、いいアドバスができるのですよ。
相手の立場になって考える、相手と自分を入れ替えて考えてみる。そうすれば、視点が変わりますから、今まで自分が見えていなかったことが見えてくるようになるのです。そこに、気付きが生じるのです。

この気付きが大事なのです。相手の立場になって考えたことにより、相手の心が分かるようになるのですね。そすれば、少しは周囲に優しくもできるようになるでしょう。傍若無人に勝手なことや我が儘を言うご老人も、相手の立場や家族の立場、そうしたことを考えれば、円滑にことは進むと思いますよ。ましてやご老人、あなたたちが言ってきたことでしょう。
「相手の立場になって考えてみよ」
口酸っぱく言っていたのは、どこの誰ですか? 歳とともに忘れ去ったようですね。

相手の立場になって考える、相手と自分を入れ替えてみる。
これは、常に心がけたいことですよね。そうすれば、相手への理解も深まるでしょう。理解が深まれば、許すことも増えてくるでしょう。自分の考えだけを押しつけずに、まずは、相手の立場や事情を知って、相手と自分を入れ替えて考えることも大事だと思います。そうすれば、人間関係も、より円滑に廻って行くのだと思います。今一度、思い出してください。そして身につけてください。
「相手の立場になって考えよ」
この言葉の意味を。
合掌。


第240回
健康は最上の利益である。
身体だけでなく、心の健康も大切だ。
心身の健康は、大いなる利益の元である。
お釈迦様は、身体があまり丈夫な方ではなかったそうです。子供の頃は、よく下痢や嘔吐をしたそうです。胃腸が弱かったのでしょう。それは、大人になってからも改善されてはいなかったようです。苦行中の頃は、体調不良の話は出てきません。まあ、苦行中は、断食とかしますし、胃腸の調子が・・・どころじゃないですよね。そんなこと言ってたら苦行はできません。その苦行もお釈迦様は捨て・・・苦行では悟れないと悟ったから・・・、深い瞑想に入ります。その瞑想中も、胃腸の調子が悪かった、などという話はありません。その頃は、お釈迦様の体調は、非常によかった時期なのでしょう。その後も、仏教教団をつくり、多くの信者や弟子を抱えるようになりましたが、体調が勝れない話は出てこないです。ですが、壮年期でしょうか、そんな頃から、よく下痢をしたり、背が痛むようになります。
ひどいときは、一日中下痢が続き、寝たきりのようになったこともあります。一種の食中毒のようなものになったのかもしれません。また、背が痛むと言って、シャーリープトラに説教を代ってもらうことも、ありました。
そんなことが、よくあったのでしょう。お釈迦様には、主治医がいました。ジーヴァカという医者です。当時、右に出る者はいないと言うくらいの名医だったそうです。そんな主治医がいるくらいですから、お釈迦様は丈夫じゃなかった、ということがわかります。お釈迦様でも、肉体は人間ですから、病気をしたり、疲れたりするのは当然です。よく超人的な伝説が語られますが、それはあくまでも伝説です。人間である以上、仏陀であっても、病気はするのですな。

先月の後半、入院しました。腎盂炎でした。腎臓に雑菌が入り、腎臓が炎症をおこす病気です。高熱と腹痛、背中の痛み、が症状ですね。で、ある朝方のことです。急激な腹痛を起こし、熱を測ると39度台。背中も痛いし、これはヤバい、ということで、病院に行きますと、即入院と言うことになりました。で、総合病院に回されたのですよ。
通常の人は、3日ほど点滴を受け、雑菌を殺して、2日ほど様子を見て退院となるのだそうです。で、私も同様に、抗生物質と体液(点滴の袋にそう書いてありました)の点滴が始まりました。体液のほうは、24時間点滴でした。抗生物質で菌を殺し、体液で外へ出す、と言うことですね。
で、予定通り3日間の点滴で4日目の朝には、熱は下がりました。抗生物質の点滴は減ったのですが、体液点滴は続いてました。4日目の朝、主治医が来まして、熱が下がっても油断しないように、夕方にはまた熱が出るから、夕方の熱が収まるまで退院はできません、言われました。普通は、四日目の夕方には収まるのですが、年齢的にその翌日になるかも知れません、とのことでした。やはり、年齢が行くと快復力も弱るのですね。
と言うことで、通常は、4泊5日の入院なんだそうですが、私は、一日余分に入院していたのです。

なお、原因は、ストレスによる免疫力低下、だそうです。普通、尿道を通じ、腎臓に雑菌が入っても、白血球たちが頑張って、雑菌を退治するそうです。しかし、極度のストレスやストレスの蓄積、肉体的疲労があると、白血球たちの働きが弱まり、雑菌に負けてしまうのだそうです。ストレスって怖いですよね。そういえば、9月10月は、やたら忙しく、確かに疲労気味でした。そういう時は、休息が必要ですね。ま、今回は、無理矢理休息させられたわけです。

それにしても、病院はいっぱいでした。入院している患者さんがこんなにも多いのかと、実感しましたね。で、その多くは、手術をした、もしくは手術前の患者さんです。私なんぞ、肩身の狭い感じがする患者ですね。重症じゃないですからね。で、皆さんは、どんな病気かといいますと、「癌」ですな。癌患者がほとんどです。癌は、本当に多いのですよ。二人に一人は癌になると言いますが、その通りなんでしょうね。あの光景を見たら、納得できます。
しかも、癌は、手術をしてもその後が、まだ続くのです。抗癌剤ですね。大半の方は、術後、退院をしても、しばらくは抗癌剤治療を行うのだそうです。しかし、今は、抗癌剤治療も通いなんだそうです。2週間に一回、通いで抗癌剤治療を行うのだそうです。で、普通に働けるのだそうです。もっとも、入院して抗癌剤治療を受けなければいけない場合もありますが。
抗癌剤といえば、入院して行うものだと思っていましたが、今ではそうではないのですね。通常の仕事をしながら、抗癌剤治療が受けられるようになったのです。そうでないと、生活ができなくなるから、ということなのです。働きながら、治療を行えば、生活にも困らない、と言うことですね。

確かに、健康は利益につながるものでしょう。健康であれば、働くことができますから、利を生むわけです。ただし、この場合、健康であるのは、肉体だけではダメですね。精神的にも健康である必要があります。心身ともに健康でないといけないわけです。身体は健康だが、心が病んでいれば、働くことはできません。健康は、心身ともにそろっていないと、利を生まないのです。身体の健康、心の健康、ともに大切なことでなのです。

身体の健康は、普段からの管理が大切ですね。暴飲暴食はもちろんダメだし、深酒もよろしくないですね。適度な食事、栄養バランスのよい食事、そして適度な運動が必要ですな。その上で、定期検診を行えば、まあ、安心でしょう。とはいえ、そんな健康的生活をしていても、病気になるときはなります。これは仕方が無いですね。肉体がある以上、病気とは縁が切れません。まあ、病気になったときは、それはそれで治療に専念することです。余分なことは考えずにね。
治りにくいのは、精神的病いでしょう。こちらは、こじれると大変ですな。できれば、最近ちょっとおかしいな、悩み気味だな、と言う程度のときに、ウチのような寺に来るか、メンタルクリニックに行くかした方がいいですな。特に心の病の場合は、早めに対処しないと、こじらせると簡単には治りにくくなりますので、注意が必要です。まあ、身体の場合も手遅れ、ということがありますけどね。いずれにせよ、早めの対処が必要ですな。

入院してみて、病院の中で過ごすと、本当に健康が大事だな、と思います、まさしく、健康は最上の利益でしょう。健康でないと、何もできませんからね。若い頃は、免疫力も高いですから、気にしなくてもいいのでしょうけど、多くの場合、50才過ぎると、免疫力が半分以下になるそうです。また、50代になると、やる気や気力もどんどん低下していくそうです。そういえば、私も還暦を迎えましたが、この気力とやる気が本当に低下していると実感しております。ただでさえ、怠け者で面倒くさがりなのが、更にアップしていますな。これではいけないのでしょうが、そういう風にできているのだから、しかたがありません。できることは、好きなこと・・・趣味ですね・・・で、やる気を引き出させることですな。そうやって健康に注意していくのが、50代以降の生き方になるのでしょう。そうでないと、いずれ家族や周囲の人に迷惑をかけることにもなりますしね。健康には、気をつけたいものですな。

なお、昔は、「無病息災」と言いましたが、今では「一病息災」と言います。病気も一つくらい持っていたほうが、むしろ安全、と言うことですね。なぜなら、持病があれば病院に通いますから、いつも健康に気を遣うことになりますからね。アブナイ病気も早期発見できますしね。なので、案外、一つくらい病気があった方が、安全と言えば安全なのですよ。一番危険なのは、
「私は病気なんかしたことがない、だから平気さ」
と言う油断ですな。そういう方に限って、いざ病気なったとき、大事になったりするのです。あるいは、突然に死がっやてくる、と言うこともあります。そういえば、案外、
「病気がちで大変なの、もう病院通いがね・・・」
と言っている人のほうが長生きだったりしますからね。

心身の健康は、大切ですな。病気をしてみて、大いに実感できました。その間は、何もしてませんでしたからね。3日間寝たまま、熱が下がって動けるようになってからは、読書三昧でしたな。まあ、ある意味、いい休暇にはなりましたが。でもね、折角休暇が取れるなら、温泉にでも行きたかったですけどね。
そうそう、入院して気がついたことですが、最近は、男性看護師さんが増えたそうです。私を担当した看護師さん、最初の2日間は、男性の看護師さんでした。若いおにーちゃんですな。残りは、女性の看護師さんでしたが、男性看護師さんもよく見かけましたね。男女平等が、こういう所にも浸透してきてますな。いいことです。
しかし、看護師さんも、こちらがヒーヒー言っているときは、頻繁に顔を出して心配してくれるのですが、ある程度安定してくると、放置状態が多いですな。まあ、重症者が多いですから、症状が改善された患者は、そうそう手をかけられませんよね。つまり、看護師さんが、頻繁に顔を見せなくなったら、大丈夫だ、と言うことですな。

皆さん、身体にはお気をつけください。いや、心の健康にもお気をつけください。特に50台を過ぎたあなた、少しは心身の健康に気をつけた方がいいですよ。手遅れにならないよう、普段から心がけた方がいいですね。健康は、最大の利益です。その利益を失わないよう、損なわないよう、気を遣ってください。
合掌。


第241回
満足は最上の財産である。
足るを知る者は、常に富むことを知ると善い。
満足を知らない者は、貧者である。

満足が最上の財産である、と言われてもピンとこないかも知れません。財産と言えば、まあ、お金や土地になるでしょう。満足が財産って?ですよね。でも、お釈迦様の話をよく聞き、よく考えれば、なるほど満足は財産だな、と分かると思います。

「足るを知る者は常に富む」と言う言葉があります。足るとは、満足のことですね。満足を知っている者、満足できる者は、常に裕福な気持ちでいられるとお釈迦様は説きます。しかし、人はなかなか満足できないものです。常に何かを欲しているところがあり、その欲望には、際限がありません。お釈迦様は「いくら黄金の雨が降っても人間は満足できない」とも説いています。それだけ人間の欲望は深いのです。だからこそ、満足を知らないと、苦しみに陥るのです。

こんな話があります。
ITバブルの頃の話です。当時、アメリカでは、画期的なIT技術を開発した小さな会社を買収することが流行っていました。これが、ITバブルですね。中には、数百億ドルの値がついた会社もあったそうです。そうした会社のオーナーは、軒並み莫大なお金を手にしました。欲しいものは何でも買える、使っても使っても減らないほどの金額です。高級住宅地に大邸宅を建て、自家用ジェットを持ち、世界各国に別荘を持ち、毎日たくさんの人を招いてパーティーを開き、VIP専用の女性たちを呼んで酒池肉林に耽り・・・。この世でできることはすべてをやり尽くしたそうです。で、その先はどうなったか・・・。
どれだけお金を使っても、減らないのです。それは、実につまらないのだそうです。そんなお金を持ったことがない者からすれば、想像がつかないかも知れませんが、でも、よくよく考えてみてください。何でも買える、何でも手に入る、となると、きっと面白くないのではないでしょうか? なかなか手に入らない、買おうと思っても手が出ない、そうしたものを一生懸命働いて、お金を貯め、やっと手に入れた時の喜びがないのですよ、彼らには。いくら使っても減らないお金、それはつまらないでしょう。ちっとも満たされないのではないかと思うのです。頑張って手に入れたからこそ、喜びがあり、嬉しいものです。それがないのですよ。それじゃあ、なにも満たされないのです。満足できないのです。

そんな彼らが行き着いた先は・・・ドラッグだったそうです。結局、麻薬で満足感を味わったのだそうです。そうしないと、気が狂いそうだったのだそうです。満足感も達成感も得られなくなった者は、生きること自体が面白くなくなってしまったのです。そうなれば、楽しみを得るためには、ドラッグしかなかったのです。そして、やがて廃人となったのです。満足を知らない者が行き着く先は、苦しみの世界なのですよ。

お金は、確かに沢山あったら嬉しいです。しかし、ありすぎても困るものです。よく、宝くじで高額当選した人は不幸になっている、などという話を聞きます。大きな金額を手にして、自分を見失ってしまうのでしょう。
お金は、いくらあっても邪魔にはなりません。しかし、どこかで「これくらいでいいや」という気持ちがないと、身を持ち崩すのかも知れません。つまり、満足をしらなければ、苦しむことになる、ということですね。

たとえば、いくら貧しくとも、「これで十分なのだ」と思い、納得できれば、人は十分に満たされるのではないでしょうか。贅沢を言わなければ、まあ何とか生活できるし、これでいいんじゃない、と思えば、案外楽になるものです。
アレが欲しい、これが欲しい、と欲張れば、その欲を満たすため、お金が必要となります。そのためにせっせと働かなければなりません。そうして、やっと手に入れて喜ぶのはいいのですが、きっと、すぐに欲しいものが出てきて、またせっせと働くのです。人間の欲望には際限が無いですから、そういうことはよくあることでしょう。これでいい、これで十分だ、とどこかでブレーキをかけなければ、欲望は膨らむばかりなのです。それは、いくら財産があっても同じ事です。

たとえば、財産がいくらあっても、「もっとだ、もっと増やすのだ」と欲を出せば、それはどんどん膨らんでいくことでしょう。まだ足りない、もっと欲しい、もっと増やせ、と欲にとらわれれば、行き着く先はITバブルの人たちと同じなのです。
満たされない欲望は、常に心の安定を欠き、安楽から遠ざかっていくのです。それは、餓鬼と同じ状態なのですよ。悪趣に生きたまま転落しているのです。

満足を知れば、それは心を満たすこととなり、心の大きな財産となるのです。満足を知ることは、心の安定になるのです。満足を知っていれば、少しも貧しくないのです。貪欲になることもなく、欲にとらわれることも無く、欲を追求することもありません。ちょっとした事で喜びも感じられます。お金持ちには分からないような、喜びが得られるのです。満足を知ることは、大きな財産を手に入れたことと同じ意味を持つのです。だからこそ、
少欲知足・・・欲を少なく、足るを知る」
「足るを知る者は常に富む」
とお釈迦様は、説くのです。

年末ジャンボ宝くじの季節です。高額当選しないかな、と夢を抱くのはいいことでしょう。ただし、どんな金額が当たったにせよ、あるいは何も当たらなかったにせよ、これでいいのだ、という満足を持ってください。
「くっそ〜、今年も外れかぁ、バッカやろ〜」
などとならないように、何事も笑って済ませるようにしたいですね。
「これでいい、これで十分だ、今年もよく頑張った、満足できた年だ」
と言う思いで、今年を締めくくっていただきたいと思います。それが、自分にとっての大きな財産なのですから。
合掌。


第242回
信頼は最上の縁者である。
信頼できる人と出会うのは、よい縁を結ぶことである。
信頼ができる人間になることは、よい縁を与えることである

あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。

いい人と出会い、お付き合いが続いたり、いい影響を受けたりすると、「いい縁があってね……」と人はよく言います。また、いい結婚相手に出会うと、人は「いい縁をいただいてね」と言います。そういう「いい縁」と言われる人は、信頼のおける人でしょう。信頼がおけるからこそ、いい縁をいただいて・・・などと言われるのです。
信頼ができる人が、周りにいると言うことは、大いにありがたいことだと思います。本当に信頼ができる人に出会うことは、私は難しいと思っています。なぜなら、人は、簡単に人を裏切ることをするからです。

人は人を裏切る……そんなことはないよ、そんなめにあったことなんてない、と言う方は、幸せな方なのでしょう。そういう経験が無いというのは、大変ありがたいことだと思います。しかし、そうした方は、少数派なのではないでしょうか?
裏切る……まではいかなくても、嘘をつかれたとか、欺された、嫌なことをされた、ということは、結構あると思います。友達だと思っていたのに秘密をばらされた、会う約束をしていたのにドタキャンされた、後日、違う人と遊びに行っていたと知った、なんていう話はよく聞きますよね。まあ、これも一種の裏切りです。人によっては、大きな心の傷になることもあります。
いずれにせよ、人は人を裏切ることをする、ということは、否定できないと思います。

そんな中で、本当に信頼できる人に出会うというのは、ひょっとしたら希有なことなのかも知れません。私は、いろいろな人の悩みを聞いております関係上、信頼ができる人に出会った、と言う話はほとんど聞かないです。裏切られた、欺された、というはなしはよく聞きますけどね。まあ、いい話を持ってくる方は少ないですからね、仕方が無いのかも知れません。
信頼ができる人がいる、と言うことは、本当にありがたい……有ることが難しい……ことなのだと思います。信頼ができる人と出会えた、と言うことは、実にいい縁をいただいた、と言うことなのでしょう。

人には、いろいろな縁があります。良縁もあれば悪縁もあります。腐れ縁なんていう縁もあります。無縁という縁もあります。長続きする縁もあれば、短く終わる縁もあります。時々しか会わないけど、会えば楽しいという、付かず離れず的な縁もあります。袖すり合うも多生の縁、とも言います。どこかで、前世で、すれ違ったのかも知れないような縁もあります。まあ、縁も様々ですよね。縁は異なもの味なもの、とも言いますが、まさにそうでしょう。ちょっと自分の縁を思い出してみてください。本当に縁は不思議なものだな、と思いませんか?

そんないろいろある縁の中で、信頼できる人の縁というのは、良縁ですね。お釈迦様は、この縁を「最上の縁」と説いています。本当に信頼できる人は、なかなか出会えない縁者です。多くの場合、信頼できると思っていた人に裏切られた、と言うのが、よくある話です。最後まで、裏切ることなく、信頼をし続けることができる人と縁がある、それはやはりごく僅かな縁なのでしょう。だからこそ、信頼は最上の縁、とも言えるのです。あなたには、最上の縁である、信頼できる人はいるでしょうか? もし、いるのなら、自分は恵まれているのだ、と思ってください。ありがたいことだと……。

また、自分自身が、信頼できる人になることも、大事なことでしょう。他人に対して、「嘘をつかない、裏切らない、妬まない、羨まない、蔑まない、怨まない、無闇に怒らない……」そういうことができ、さらに、「優しい言葉を遣い、いつも平等で、思いやりがあり、気遣いができ、親切である」ということができれば、お釈迦様が言う「信頼できる人」になれます。
まあ、そこまではいかなくても、周囲から「あの人は信頼できるね」という存在でいたいと思いますよね。そして、そういう信頼できる人は、周囲にいい縁をもたらす人なのだと思います。

類は友を呼ぶ、の言葉のように、自分自身が、信頼できる人になれば、自然に信頼できる人と縁ができてくるのではないかと思います。たとえば、悪い者は、自然に悪い仲間が増えていきます。いい人の周りには、自然といい人が集まります。あなたがいい人……信頼のおける人……であれば、周囲の人は、信頼に足る人でしょう。信頼できる人というのは、いい縁をばらまいているのかも知れません。だから、信頼のできる人の周りには、信頼のできる人が集まるのでしょうね。つまり、信頼できる人になれば、周囲に最上の縁をもたらす人になれるのです。

新しい年が始まります。去年、信頼できる人に出会えた方は、そのいい縁を続けていけるといいですね。信頼できる人に出会えなかった人は、今年こそ、いい縁を求めてください。そのいい縁を手に入れるためには、自分が信頼できる人になることが大切です。信頼できる人になれば、きっと素晴らしい縁に出会うことができると思います。
信頼できる人になって、いい縁をゲットしてください。

合掌。


第243回
心の安らぎこそ最上の幸福である。
どんな状況にあっても、心が安らいでいれば、
それは幸福であるのだ。

幸せはお金では買えない、と言います。ですが、幸せな気分は、きっとお金で買うこともできるのでしょう。ただし、それは本当の幸せではないのです。
確かに、お金を使うと、気分がいいですね。何だか、満たされた気持ちになります。欲しかった物がやっと手に入った、という喜びもあります。一種の幸福感に包まれます。が、しかし、それは一時的なものでしょう。しばらくすれば、また欲しいものが出てきて、手に入れたくなります。人間の欲望は際限が無いですから、欲しいものは次から次へと出てくるものです。そういう時に、お金が無かったならば、きっとイライラしてしまうでしょう。
「あーもう、アレが欲しいのに、お金が無くて買えないじゃないか。他の誰かにとられたらどうしよう」
などと、苦悩します。で、そこで登場するのがカードでしょう。そう、クレジットカードですね。これなら、今、お金が無くても買うことができます。カード支払いで手に入れたら、その時は、また幸福感を味わえます。幸せな気分ですね。しかし、結局それも長続きはしません。また同じ事のくりかえしになります。欲しいものが出てきて、カードで買う・・・、ということが続く可能性もあるのです。そしてやってくるのが、支払いです。買った以上、支払いはしなくてはなりません。それで苦労する方も、いると思います。
購入する、カードで払う、支払期限が来る、購入する、カードで払う、支払期限が来る・・・その繰り返しになってしまう場合もあります。支払いがいずれオーバーしてしまえば、支払い不能、破産となってしまいます。買い物依存症になる場合もあります。一時の幸福感、満足感を得るために、苦しみを抱える、と言うこともあるのです。だから、結局のところ、お金で幸せは買えない、と言う結論が出るのですよ。

無尽蔵にお金があれば、使えきれないほどお金があれば、幸せは金で買えるじゃないか、と言う意見もあると思います。
こんな話があります。かつて、ITバブルの時代がありました。IT産業が盛んになり、小さな企業は大きな企業に高額で買収されたのです。アメリカなどは、買収額がとんでもなかったそうです。数百億なんて当たり前だったとか・・・。そんなとても使えきれないほどのお金を手に入れた人は、いったいどうなったでしょうか?
まずは、豪邸を手に入れます。毎晩、ゲストを呼びパーティーですね。もちろん、自家用ジェットも持っていて、各国に別荘も持っています。自家用ジェットで移動し、毎晩パーティーです。ゲストも半端ないです。超大物俳優とか有名人が招待されます。それだけではないですね。ありとあらゆる遊びもします。ギャンブルもします。お金があり過ぎるため、負けても平気です。すぐに取り戻せますから。で・・・そのうちにやることが無くなります。そうなると、何をしても面白く無くなるのだそうです。いくらお金があっても、満足が得られなくなるのです。最終的には、多くのITバブル長者が、ドラッグに嵌まって廃人になっていったそうです。イカゲームの最終回を見た方なら、知っていると思いますが、使い切れないほどのお金を持っていても、幸せにはなれないのですよ。
結局、幸せはお金では買えないのです。

じゃあ、健康ならば、幸せでしょうか? いやいや、健康であっても、不平不満を言う人はいくらでもいますし、健康であっても、ぐーたら生活をしている人もいます。健康であっても、とても幸せそうに見えない人は、たくさんいますよね。
また、病気をしているからと言って、不幸であるとは限りません。病気をしながらも、生き生きと生活をしている人もいます。病気と闘いながら、生きる喜びを感じている人もいるでしょう。それは、身体に障害がある人も同じですよね。障害があると言っても、生き生きと活動されている人も多くいます。働いている人もたくさんいます。病気や障害を抱えていても、不幸ではないのです。病気であっても、障害があっても幸せと感じることはできるのです。

では、本当の幸せとは、いったいどう言う状態のことをいうのでしょうか? それは、心が安らいだ状態のことをいうのです。
貧しくても、不平不満もなく、満足した生活を送っていれば、心は満たされるのではないでしょうか。ならば、それは、心が安らいだ状態とも言えるでしょう。つまり、貧しくても幸せを得ることはできるのです。
病気や障害がある場合については、先にも言いましたように、その人が病気や障害を受け入れ、不平不満を言わず、できる範囲で活動をすれば、喜びも得られるでしょうし、安定した精神状態にもなれると思います。そして、それは、心が安らいだ状態と言えるでしょう。
お金があろうがなかろうが病気や障害があろうがなかろうが、孤独であろうが友人が多くあろうが、肝心なのは「心の状態」なのですよ。心さえ、精神さえ安定していれば、不幸とは思わないでしょう。どんな状況であっても、精神状態が良ければ、人間は幸せと感じるのです。
と言うことは、本当の幸せとは、心が安らいだ状態の時のこと、と言えるでしょう。

物質でも無い、健康でも無い、友人や周囲からの尊敬でも無い、ただただ、心が安定した状態・・・それが幸せなのです。何の憂いも感じず、心配も気にせず、あるがまま、なすがまま、流れる雲や水のように自然に生きる、そうした心の状態が、本当の幸福なのです。
それは、願い、そのように心がければ、誰でも得られるものです。ぜひ、みなさんも、本当の幸せを手に入れてください。

合掌。



第243回
なぜ、他人の主義主張を否定し、支配しようとするのか?
人それぞれの考えは自由である。
自分の考えに合わないからと言って、従わせるのは愚か者である。
やってしまいましたね。ついに、やってはいけないことをやってしまいました。そう、プーチン大統領です。いったい、彼の頭の中はどうなっているのでしょうか? 何がそんなに怖いのでしょうか? 誰も、彼を襲うことなどないのに、誰も彼の国を侵攻する気など無かったのに……。いったい彼は、何がそんなに怖いのでしょうか?

人が、他者に暴力を振るときは、こちらが攻撃されるという恐怖によるものでしょう。自己防衛ですね。攻撃されるぞ、危ないぞ、だから先に攻撃してやれ、というのが、暴力の基本です。
もっとも、初めから、支配するつもり、相手の何か奪うつもりで行う暴力もあります。この場合は、もう常軌を逸しております。また、それを生業というか、それで生きていく連中でしょう。そういう者は、社会不適合者であって、社会から更生施設等へ送られる人々ですね。まあ、更生する可能性は低いですが。そういう人々を除外して、人が暴力を振うときは、主に自己防衛が働いているときだと思います。しかし、今回のプーチンは、異常な自己防衛、としか言い様がありません。被害妄想に取り憑かれたとしか言いようがないですね。

どんな妄想に取り憑かれたのか……。
ウクライナが西寄りの政府になったぞ、NATOに入りたがっているぞ、このままだと、NATOが進出してきて、俺らがヤバいぞ、あいつら何をしでかすか分からん。いきなりベルリンの壁も壊してしまったし、その調子で攻めてきたらまずいぞ、ヤバいぞ、クソクソクソ……。いいや、いいチャンスだ。来るなら来い。いやいや、こうなったら、先にやってやる。専守防衛だ。やられる前に、ウクライナを潰してやる。NATOが来る前に、ウクライナを俺のものにしてやる。じゃないと、俺の国が危ないからな。ウクライナを俺の国にして、NATOに対抗してやる。そう、ウクライナは、NATOへの盾だ。もし何かあったときは、まずはウクライナを盾にして戦えばいい。使い捨てればいい。おぉ、そのためには、ウクライナはどうしても必要だな。よし、ウクライナを奪いに行くぞ! 戦いだ!征服だ!気に入らない国はぶっ潰せ!
と言うようなものなのでしょうか? きっと、こんな単純な発想なのだと思います。じっくり考えられた上での行動とは思えないですからね。単なる欧米やNATOへの恐怖心だけなのでしょう。プーチンって、案外、気が小さかったのですね。それも極小の肝っ玉、です。なんとまあ、そんな気の小さい人間が、大統領だったなんて、ロシア国民は、不幸ですね。

そもそも、戦争なんて大損なんですよ。国にとってはね。戦争はお金がかかります。こじれれば、時間がかかるので、費用が益々かさみます。国は、貧乏へと移行します。さらに、欧米系の考えをもった国のほうが多いので、経済封鎖などの処置を執られた日には、国は更に貧困に向かいます。物資が入ってこないし、貿易もできなくなるからです。経済的に廻らなくなります。戦争は、経済的に大きな打撃となるのですよ。経済的な考えを持っていたら、戦争なんてしません。損しかないからです。

他の国が、どう言う思想を持ち、どういう主義であっても、そんなことは、どうでもいいことですよね。所詮、よその国です。もっとも、ロシアのように、戦争を仕掛けてくる国は、ダメですよ。こういう国は、世界から排除されるべきでしょう。他の国が気に入らない、自分に従わない、だから攻撃する、などというのは、理屈が通りません。なぜ、気に入らない、従わない、と言うだけで、攻撃し、自分の意見に従わせようとするのか、本当に理解に苦しみます。嫌がっているのを、無理矢理に支配しようとしているのです。こんな非道な暴力はありませんよね。
でも、みなさん、よくよく考えてください。日常にも、我々が暮らしている日常にも、こうした暴力はあるのですよ。お気づきの方もいると思います。あぁ、あの人のやっていることは、プーチンと同じだ、とね。

最も多いのが、老害でしょうか? 「わしの意見を聞け! わしの言うとおりにしていればいいんじゃあ!」と叫ぶお年寄りですね。田舎に行くとよく聞く話です。「おじいちゃんが頑固で、みんなを振り回して困っています」などという話は、よくあることです。まあ、こんな老人、捨てておけばいいのですけどね。無視すればいいだけの話ですが……。中には、暴力を振う老人もいるから困るのです。そういう場合は、行政に相談するのもいいですね。いっそのこと、施設へ放り込んでしまえばいいとは思いますが。
いけないのは、そうした傍若無人の老人に逆らわない息子、です。情けなくて、話になりません。「もう、あんたの時代じゃ無い、いつまで威張っているんだ、早くあの世に行け」くらい、なぜ言い返せないのか? 甚だ疑問です。なので、代わりに私が言う羽目になるのですが、本来は自分で言うべきことでしょう。当主というのなら、責任を取るべきですよね。

続いて、多いのが会社の上司でしょうか? パワハラ上司ですね。大きな会社は別として、小さな会社、中小や零細などは、まだまだパワハラ上司がうごめいています。そのうちに、影でプーチン上司とか言われるのではないか、と思われるようなパワハラ上司がまだいるのですよ。昭和を背負い、昭和を自慢している時代遅れのポンコツ上司がね、いるのです。そういう上司は
「俺の言うことを聞け!、俺に従え、逆らうな! だけど、失敗したら責任はお前だ!」
という身勝手上司ですね。ダメ上司の典型です。まさに、プーチンです。まあ、自分の立場を優位にしたい、実力が無いのを見抜かれたくない、という恐怖心が深層心理で働いているのでしょう。無能なのは、バレバレなのにね。

同居家庭などは、うるさい姑や小姑なんてのが存在してます。そうした存在も、支配欲にとらわれているダメな連中です。イチイチ嫌みを言う、イチイチ意地悪をする、イチイチ口出しをする……。まあ、うるさいですね。他人のことをかまうヒマがあるなら、自分の事をしっかりしろよ、などと思いますが、同居の場合、なかなか言い出せませんよね。都会では、同居なんてなかなか考えられませんが、地方や田舎に行くと、まだまだこうした風習が残っているのですよ。昭和のカスですね。まあ、私は、同居は絶対に勧めませんが。息苦しいに決まっていますから。生きてきた時代が違いすぎますからね。お子さんたちにも、悪影響しか与えません。自分たちの世代なのですから、自分たちでなんとかするようにして欲しいですね。

それにしても、なぜ、人はそんなに他人を自分に従わせたいのでしょうか? 相手がどんな生き方をしても、どんな考えをもっていても、自分に影響を及ぼさない限り、どうでもいいことでしょう。自分にとって悪影響であるならば、排除するなり、対抗手段を行使するなり、対処はしないといけないと思います。しかし、自分に何の影響も与えないのなら、放っておけばいいことです。しかし、人は、なぜか自分の意見に従わせようとします。支配欲が顔を出すのですよ。
例えば、相談を受けて、その人のためを思ってアドバイスをするのなら、それはいいと思います。ただし、最終決定は自分でするのですよ、と終わるべきですが。アドバイスも、ああしなさい、こうしなさい、そうしないと苦しむよ、なんて言うのは、恐怖で縛ることになりますから、やってはいけない行為ですね。よく胡散臭い占い師が、こういう言い方をしますけどね。そういう占い師は、二流です。

人の生き方、考え方、それは自由です。それをあえて、否定し、己の範疇に配属し、支配しようとするのは、愚か者の行為です。他人をそこまで束縛する権利は誰にもありません。他人への支配は、これは暴力なのですよ。誰が、どんな主義主張をもっていても、それは自由なのです。他者の考え、生き方、主義主張を認められない、容認できないのは、ものすごく小さい視野の狭い、愚か者に他なりません。まさに、プーチンのように。
皆さんは、あんな人間になってはいけません。しかし、知らず知らずのうちに、他人を支配しようとしていることがあります。余計な口出しをして、従わせようとします。意識していなくても、自然にやってしまうこともあります。
ぜひぜひ、お気をつけください。決して、横暴なプーチンにならないよう、ご注意ください。

合掌。


第244回
悪に満ちた者を魔物といい、善に満ちた者を聖者という。
人には悪意もあり善意もある。
魔物になるか、善人なるかは、自分次第である。

日本のお役所や裁判所の方針、法律などは、性善説に基づいているそうです。それは、今でも変わっていないそうです。
性善説……皆さんよくご存じだと思います。儒教ですね。孟子の説いた教えです。「人の本性は善であり、不善となるのは欲におおわれるため」と言う説ですね。そこから、「人は元々善だ」という思想が強くなっていきます。その結果、
「人は善だから、こんなことはしないだろう」
と言う考えが生まれます。そのため、法律は抜け穴ができてしまうのです。お役所の手続き等もそうですね。「こんな悪いことはしないだろう」、「ごまかすことはしないだろう」という考えがあるので、甘くなってしまい問題を起こすことになるのです。裁判も同じです。「善人なのだから、更生できるだろう」という判断が基準となっています。
まあ、バカげていますね。と、私は思います。全く甘い考えだと思います。人は、そんなに甘くはありません。ましてや、「人の本性は善である」というのは、どうかと思います。

もっとも、佛教でも「人は本来、清浄である」と説きます。また、「誰でも悟ることができる」とも説きます。その点では、性善説と似てはいます。が、少し違います。
佛教の場合、本性と行動を分けて考えます。確かに、人の本性は清浄であり、悟る要素を持っています。しかし、人の行動は別物です。なぜなら、人の行動は、本性に従っているのではなく、「欲」に従っているからです。

佛教では、人の行動を「善・悪・無記」の三種に分けます。善は善行ですね。悪は悪行。無記は、そのどちらでもない行動です。善にも悪にもはいらない行動のことですね。
善にも、自然に行っている善もあれば、よく見られたいからとか、自己満足のためとかの、欲に基づいた善もあります。まあ、それでも善行なのですからいいことなのですが、それも元は「欲」である、ということもあるのです。つまり、欲に従って善行をしている、わけですね。
悪は、もう欲そのものに基づいている行動でしょう。欲以外何もありません。で、多くの人の行動が、善でもなく悪でもない、無記になります。

人間は、生まれたときは、全くの無記です。善でも悪でもありません。ただ、生きるために母乳を求め、栄養を取り、便を排出するだけです。そこには、生きるという自然な欲望しか在りません。それが成長するにつれ、家庭環境や社会環境、教育、あるいは貧困などによって、善の気持ちが強くなるのか、悪の気持ちが強くなるのか、バランスが変わってくるのでしょう。あるいは、脳の発達に寄ることもあるかも知れません。また、精神の不安定さから善悪のバランスが狂うこともあるでしょう。
そうした善と悪のバランスが崩れたとき、人は正常な判断をすることができなくなるのです。

金がないから働こう、ではなく、金がないから奪おう、と言う発想は、どこから来るのでしょうか? とても安易な考えですよね。それは、多くは家庭環境だったり、教育の問題だと思います。発達障害による学習障害もあるかも知れません。特に家庭環境は大きいのではないかと思います。幼い頃から、働く姿を子供見せているかどうか。幼い頃から、働くことの大事さを教えているかどうか。そうした家庭教育は、大きく影響すると思います。人間を善が多いものにするか、悪に弱いものにするかは、家庭環境に大きく左右されると思います。
善と悪のバランスは、幼い頃からの教育や家庭環境に影響を受けているのです。

さて、その善と悪のバランスが狂い、悪だけの人間になってしまったらどうなるのでしょうか。
悪に満ちた者は、愚か者の極みであり、魔物となる、そう説くのが佛教ですね。悪で満たされてしまったら、もう魔物としか言いようがないのです。逆に、一切の悪を心の中から排除し、善の塊になった場合は、聖者と呼ばれます。
ご存じの方もいると思いますが、あの漫画ドラゴンボールにもこのシーンは出てきます。あの作品は、仏教思想を取り入れているので、そうした視点で見ると更に興味深いですね。で、そのシーンというのは、神が魔物のピッコロを分離すると言う話の所です。簡単にその話を紹介しましょう。
ナメック星人だった名もなき異星人は、神のもとに行き着いたのですが、神に認めてもらえませんでした。なぜなら、彼の異星人には、悪の心があったからです。それを修行で排除して身体から分離します。それが、悪の塊で魔物であるピッコロとなってしまうんです。そうして、名もなきナメック星人は神となるのです。分離されたピッコロのほうは、魔物ですから世界を力で支配するという暴挙に出ます。知ってる方は、あぁそのシーンね、と分かると思います。知らない方は、ぜひ読んでみてください。
そう、魔の塊となった者は魔物ですから、世界を支配したくなるのですね。まさに、今のプーチンですね。そう、彼は、もう魔物になってしまっているのでしょう。

善悪があるのは、人の性です。これは仕方がないことです。誰にも善意はあるし、悪意もあります。その悪意が、膨らまないように、バランスを取ることが大事なのですよ。それが、人を分けるポイントになるのです。
その悪の元とは、なんでしょうか?
悪の心、それは……怠惰、嫉妬、妬み、怨み、不当な怒り、羨み、ひがみ、嫌み、批判、逃げ、そして自らを省みない態度や愚かさ、です。こうした心は、誰にでもあることです。しかし、それが、膨らみ始めると悪意が生まれてくるのです。
「うまくいかないのはアイツのせい」から怨みが生まれ、
「あいつだけなんで調子よくやっているんだ」から嫉妬が生まれ、
「あぁ、辛い働きたくない、楽に暮らしたい」から怠惰が生まれ、
「いいな、いいな、あいつらだけあんな贅沢しやがって」から羨みが生まれ
「どうせ自分なんか」からひがみが生まれ
「何やってもダメだ。もうダメだ」から逃げが生まれ……。
こうして、心のバランスが崩れていくのでしょう。それが膨らみ、大きくなっていくと、悪意に満たされるようになるのです。

お気をつけください。悪意に満たされないようにしてください。その悪意を防ぐ方法は、ただ一つ、己を省みることです。自分が悪いのではないか、自分に原因があるのではないか、自分はどうなのだ、と自らの行動や考え方を観察することです。よくよく自らを見てみることです。
善と悪のバランス、それを決めるのは自分次第なのですよ。

合掌。



第244回
すべての事柄・事象などは、恒に変化している。諸行無常である。
しかし、それに甘んじている必要も無い。
自ら変化を求め、苦しみから抜けることもできるのだ。
苦しいことや嫌な状況が続くと、「一体いつまでこんな目に遭わなければいけないんだ」と思うことでしょう。きっと、ウクライナの人々が、そう思っているに違いありません。
不幸な目に遭っていない時は、何も意識しないのが人間です。「いつまでもこの平和が続きますように」と願う人は、あまりいないのではないでしょうか。幸せなとき、平穏なとき、そんな時は、あえてその状態が長く続くようにとは、意識はしないですよね。例えば、何か困難なことや不幸なことがあったと、それが解決して平穏になったならば、この平穏がいつまでも続きますように、と思うことでしょう。しかし、いつの間にか、そうした意識は薄れ、平凡や平穏な日々が当たり前になってしまえば、平穏が続くことを願うことは、少なくなっていくのだと思います。
しかし、その平穏もいつまでも続くものとは限りません。また、同様に、苦しい状態や困難な状態も、いつまでも続くことはないのです。世の中は恒に流れ、変化していっているのです。そう、諸行無常なのですよ。

例えば、大きな病気……ガンや難病……の治療を行っている方などは、
「一体いつまで治療を続ければいいのか、先が見えないから不安だ」
と多くの方が訴えるそうです。確かに、長い治療生活は不安でしょう。その病気が本当に治るのか、それとも、長く付き合っていかねばならないのか、この先はどうなるのか……。先がはっきり分からない状態だと、不安になるのは当然と言えます。特に、治療法などが分からない病気の場合は、なおさらでしょう。
そうした、大変な病気でなくても、人は先が見えないような状態になると、大きな不安を抱えます。この先はどうなるのだろうか、このまま救いがなく、終わってしまうのではないだろうか……。そうした不安にさいなまれるものです。
先が見えない、先が闇の世界だ、未来が見いだせない、明るさが期待できない、こうした不安は、それがいつまでも続くのではないかと、私たちに思い込ませてしまう効果があります。闇からの出口はないのではないか、と思い込んでしまうのですね。そして、益々不安に陥るのです。

しかし、どんなことであれ、同じ状態はあり得ないのが真理です。ほんの少しの変化かも知れませんが、昨日の状態と今日の状態は、決して一緒ではありません。何かは変化しているのです。もちろん、その変化は、良くなっているのか、悪くなっているのか、それはわかりません。しかし、同じ状態ではないことは確かです。必ず変化しています。そして、その変化が次の変化を招いているのです。
たとえば、悪い方へと変化している場合もあるでしょう。しかし、その悪い方への変化が、次には好転している場合だって有ります。病気が急に悪化したが、処置によって急に好転し始めた、と言うこともあるのです。何がどう作用して、どう変わっていくかは、誰にも分からないのです。予測はできるかも知れませんが、それはあくまでも予測であって、決定ではありません。世の中、どのように流れ、どう変化していくかは、決定はしていないのです。

ならば、何もしなくてもいいじゃないか、自然の変化に任せればいい。
そういう生き方もあるでしょう。雲が行くが如く、水が流れるが如く……行雲流水ですね。しかし、それは一般人の生き方ではありません。修行僧の生き方でしょう。一般の方で、それができるようになれば怖い物なしですが、そんな心境に至ることは稀ですよね。そうした心境に至るには、長年の経験や悟りが必要になってきます。
多くの人は、苦の状況から逃れようと、もがくものなのです。放っておけばいいか、と思える方は少数派でしょう。

放っておいても変化はします。しかし、だからといって何もしないのも、どうかとは思います。できる限りのことはすべきなのだと思います。あらゆる手を打つ、できることはする、その上で、神仏にも祈る……。そうして変化を待つ、それが大事なのではないかとは思います。
「諸行無常なのだから、いつかは明るくなりますよ」
という僧侶の方がいますが、それは一種の逃げの言葉なのではないかと思うときがあります。ちょっと無責任だよね、と思うのですよ。確かに、諸行無常です。いつかは出口が見えるでしょう。しかし、そのいつかが、問題なのでしょう。人はその「いつか」を求めているのだと思います。だからこそ、私は問いかけるのです。
「やるべきことは、すべてやりましたか? ほかに手はありませんか?」
と。いつか……が待てないなら、そのいつかを引き寄せればいいじゃないか、と私は思うのですよ。
「いつかうまくいく」
「いつか分かってくれる」
「いつかなんとかなる」
それで放っておけるものならいいでしょう。しかし、その「いつか」が不安で、「いつかじゃ困る」というのなら、自然の変化を待たずに、変化を起こせばいいと思うのです。刺激を与えて化学反応を起こすように。

世の中は恒に変化しています。その変化を自分に有利にする、自分のためになるような変化にしたいのなら、何らかの働きかけ、努力や工夫は必要でしょう。
仏教が説く、諸行無常は確かに真理です。しかし、待てない場合だってあるのが人生です。ならば、自ら変化を起こして、自らその変化を利用できるようになった方が、早く苦しみから抜け出せますよね。
苦しい、辛い、大変だ……と悩んでいるよりは、変化を待つ。変化を待つよりは、変化を起こす。そのために、考える・行動をする。それが大事なのでしょう。変化を待つことも大事ですが、自ら変化を起こすことも、また大事なことなのですよ。

合掌。



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