マスコミの批評

(9/18)
9/16付けSunday Timesの記事から抜粋。



(9/20)
ロンドン The Times 紙'01、9/19の批評から抜粋>by Benedict Nightingale

テネシー・ウィリアムズは回想録の中で、自作の中では「熱いトタン屋根の猫」が一番のお気に入りだと認めている。

私自身は、「欲望という名の電車」の方を高く評価してきたが、今回、アンソニー・ペイジ演出のウエストエンドでのリバイバル上演を観てからは、ウィリアムズの意見に従う気持ちになってきた。
特に第三幕、ネッド・ビーティが、映画化された時のBig Daddy役バール・アイヴス以上に巧妙で、よりシリアスである。
また、ブレンダン・フレイザーのブリックは、父親の悲惨な告白と不思議に胸を打つ非難のことばを無視しようとして、失敗する。
このエピソード全体が、ロンドン(で上演中の芝居の中)でも非常に緊張感があり、強く心を捕らえる。

フレイザーのブリックは、挫折したハンサムな大男。かなりニヒルになっているので、自分がアルコール中毒だということを、まるでバスの中の見知らぬ人に天気のことを話すように、そっけなく父親に言うことが出来る。
だが、彼は扱いにくく、怒りっぽい男でもあり、第二幕が終わる頃には、ぼんやりとした笑いの陰のどこかで、ひどく取り乱してさえいる。

父親と息子だけの長いシーン、ウィリアムズは、ト書きで、<共通の危機に陥って暗雲の中にいる生身の人間たちの間に、感情的な交錯が起きること>を要求している。・・かすんでいるようで、ちらちらと燃え、次第に消えて行くようで、また激しく燃え上がる・・・そういった<相互作用>を2人の俳優は、共に、整然と激しく演じている。

だが、私は、特にビーティの演ずるBig Daddyの方に引きつけられる。

ペイジには、ウィリアムズによるオリジナルの第三幕を上演してもらいたかった。
好色な象についての難解なジョークを教えるためにステージに出てくるBig Daddyを観るよりも、ガンにかかっているという現実をついに実感してしまい、舞台裏で怒りと苦痛に吠える彼の声を聴く方がいいに違いない。

さらに悪いことには、感傷的な味付けをして書き直されたエンディングが、常に辛辣だったウィリアムズの作風から全くかけ離れているのだ。
とはいえ、Lyricでこんなにも良い公演が行われているときに、声を大にして抗議していいものだろうか?まさか・・・(そういうわけにはいくまい)。



(9/23)
bffcのBBSにて、今までで一番嬉しい内容のreviewが載りました!
その一部をご紹介。。。

The Sunday Timesのreviewから、抜粋>
Magnificent: Fraser and Beatty

ホンモノの登場だ。アンソニー・ペイジ演出による「熱いトタン屋根の猫」(Lyricで上演)は、ここ何年間かウエストエンドで上演された中で最もスリリングで優れた現代劇のひとつである。
鋼のように堅く、溶岩のように熱い。
劇の核となっているのは、ブレンダン・フレイザーとフランセス・オコナーのすばらしい演技だ。

マリア・ビョルンセン(?)によるセットには、狡猾なあいまいさがある。細長い板で作られた白い壁は、監獄の縦棒にもなり得る。閉所恐怖症になる場所・・・だが、透き通っていて、立ち聞きをする者にとっては天国でもある。

フレイザーはブリックを、大柄で美しい、傷ついた<オトナ子供>として演じている。口の周りの筋肉をほんの少しゆるませているように見せることで、ブリックを短気で傷つきやすい、痛みを持っている男として表現しており、同時に、彼が人生にかなり疲れていて、かつ無関心であることも表している。
彼の目はどんよりとうつろに見えるが、観客には、彼が何も見逃していないことがわかる。

これは、深い感受性と巨大な権威を演ずる劇である。フレイザーとオコナーは<信頼するに足る者達>の中に入るのかも知れない。
そのうえ、彼らは、迫力と最後まで演じ抜く力を持ち、人の目を絶えず引きつけている一級の舞台俳優でもある。

今回の公演は見事な出来である。これを観に来る人の列はハイド・パークにまで及ぶだろう。



(10/10)
The Toronto Star Online(10/9)より抜粋

<Cat on a Hot London Roof>
ブレンダン・フレイザー、主役で大活躍!
(Richard Ouzounian・・・ロンドンから)

"Hot"・・・これこそが最適なことばだ。
現在ウエストエンドで公演中のテネシー・ウィリアムズ作「熱いトタン屋根の猫」は、確かに、水準以上の劇的興奮を与えてくれているが、それはとても新鮮で思いも寄らないほどである。

ブリックとBig Daddyの焼け付くように激しい演技によって、いやが上にも<熱>は上がる。ブレンダン・フレイザーとネッド・ビーティは、どちらも、堂々たる威厳を持って演じている。

第二幕で、ついに二人が、互いに隠していた真実に立ち向かう時、場内に衝撃が走る。ビーティは、傷ついた動物のように舞台上を大股で歩き回り、恐れることなく勝利に吠え、痛みにわめく。彼は素晴らしい。

だが、ホントの<意外な驚き>というのはブレンダン・フレイザーである。
「ジャングル・ジョージ」の時のステキな彼を観たくて来た人達は、オープニングの、タオル一枚だけで腰掛けるシーンで「おお!」とか「ああ!」とか言うチャンスがある。
しかし、そういう人達も、結局は(自分達が期待していた以上の)思いがけない目に遭うはめになるのだ。
長い第一幕を通して、彼は、マギーが言うところの<敗北者の魅力>のおかげでのんびりと動いているが、その心の底では、危険な感情が今にも爆発しそうである。

劇の残りの部分で、それが現れる。
ブリックが酒を飲み、Big Daddyが彼を刺激すると、真実の積み重ねが浮かび上がってくる。
ブレンダン(=ブリック)は、<時間切れにならない限りインターセプトされるはずのない、高いロングパスを投げる>瞬間を思い出すとき、幸福に輝いた顔になる。だが、自分がなぜ酒を飲むのか告白するときに彼の口から吐き出される<うんざりだ!>というひとことは、劇場の屋根をはぎ取ってしまいそうなほどの勢いである。
彼はまた、問題の第三幕を演じるに当たって、<感傷に溺れることのない一種の希望を考慮に入れる>という方法を見つけている。
劇全体を通して、彼は、人を惹きつける存在感で舞台をささえている。
そして、私が今まで観てきた中で、観客に<ブリックはマギーとスキッパーを同じように愛していて、その愛こそが彼自身を引き裂いているのだ>と信じさせるのは、<ブレンダンのブリック>だけなのだ。

三人の主要人物の演技とは別に、アンソニー・ペイジの演出に難癖を付けたい点がいくつかある。他の女性キャラクターが信じられないほど誇張して描かれていること、イギリス人の助演俳優のほとんどがアメリカ南部訛りをしゃべり続けていることができないこと。
また、舞台裏での<記憶の中の花火>にほとんど説得力が無いことも挙げられる。

だが、(そんなことは)かまわない。<舞台上での花火>だけで充分だ。



(11/11)
<トロけそうな絶賛!>を書いてくださったRichardさんのインタビュー
The Star com.インタビューアップしました。




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