JH2CLV's Topics & Memorandam
August 2011

Aug 29. 2011  引越しで行方不明のグッズ発見
何時も手元にあったモノが見当たらなくなると何か寂しく落ち着かない。 実は6月の引越しかそれ以前の輸送で行方不明になっていたモノがある。てっきり他の荷物に紛れ込んでいるのではと思っていたが、探しても中々見つからずやや諦めの境地だった。余程気に入っていたのだろう。それはYAESUのダイナミック・ハンドマイクMH-25A8J。昨日の夜中、そのマイクを使用していたKWM-2Aに目をやるとケースの上蓋に気付いた。これって蓋を開けると中にスペースがあるよなぁと思った瞬間、何ヶ月か前そこにこのマイクを押し込んだ事を思い出した。何んてこったぁ!だった。そう記憶は間違いなかった。ここ2ヶ月間探し続けたマイクは、エアキャップに丸め込まれ、主が気付くのを待ち焦がれていた様に見える。 これに気を良くしてこの夜はANT系の配線や電源ケーブルの確認を行った。ところが背面の電源コネクタを挿入する際漏電が発生し配電盤のNFBがトリップ。家中全てが真っ暗になった。これも何んてこったぁ!だったが、マイク発見の朗報が嬉しく暗闇の漏電NFB復旧など何のそのだった。
写真はKWM-2Aの上に乗せてポーズ。 オンマウスは翌朝の散歩で親父の背中(テーブルじゃないよ!)にくっ付いてきた雌カブトムシ。

Aug 27-28. 2011  ハムフェア今年も断念・・・猛暑復活の週末
今週末はハムフェアがあり久し振りに上京…と思っていた。ところが急逝した友人を偲ぶ会や、ミカン畑の農薬散布などがあったりとタイミングが合わず断念。 バンドSW頒布の窪寺氏からも準備完了の連絡を26日晩に頂戴していたが残念。 ところで農薬散布、雨を嫌うため未明まで雨だった27日は露が多く取りやめ、天候が回復した28日一気に行った。 ただ天気は良いけど午前中から34℃を超える猛暑が復活。 裸足の長靴の中は汗が流れ池になる程だった。 体力の衰えもあるが暑いと力が出ず仕事が雑になるのが分かり苦笑。 カミサンと2人きりの作業も、午後は客人があり任せてしまったからカミサンにはまた頭が上がらない。 お詫びの印に農機具撤収や洗浄を率先して行いお茶を濁す。客人は同軸ケーブルのお裾分けを届けてくれた元同業他社のS氏。 シャックで歓談し将来の夢であるリモートシャック候補地をご案内する等であっという間の3時間。 随分と田舎だぁと言われるに違いないと思っていたら、S氏もミカン畑と田圃を耕すファーマーと聞きビックリ。 27日は学区の運動会があったのだが全く蚊帳の外…昔はその中心に居たのだけどと時代の流れを感じてしまう。写真は27日夕、カミサンの依頼で尋ねた大平ログハウス村手前の沢。

Aug 20〜. 2011  急激に気温下がる・・・思い切って不用品整理
夏休みも終盤の8月20日。カミサンの呼び掛けで姉二人が集まり母や祖母の残した衣類や所持品の整理を始めた(オンマウス)。家には母・祖母・祖祖母の箪笥がまだ残っていて、亡くなってから一度も手を付けていないモノも結構ある。そのまま所持するのも良いが、世代が変わるとただのゴミになってしまう。それで不要な物と流用できそうな物の整理を始めた。箪笥を引き出し畳に並べる。姉たちがそれを物色する訳だが、やりだすと色々と思いが巡って面白い。一度も袖を通していない衣類があったり…故人の思いを垣間見る瞬間だ。それでもエイヤッと処分しなければ新しい生活が始まらないジレンマ。欲張りな一面を必死に押し殺す。数えると5つの箪笥が残っているが、明治を思わせる祖祖母の箪笥以外は処分する方向だ。物の形や収納方法が変わってしまった現在、寂しいが一定の割り切りをすることにした。写真は夏休み最終日の8月21日、カミサンと車で買い物に出たとき、面白半分にHananの頭に農耕用グラスを掛けてみた様子。ダテメガネだが中々似合っている。実はJA9TTT加藤氏のBlogで見たワンちゃん&グラスを真似てみたもの。Hanaは迷惑かもしれないが、嫌がらずにポーズを取ってくれた。カミサンも私も大笑いだった。

Aug 18〜. 2011  Over 39℃・・・どうにもならないこの暑さと思えば・・・
写真は8月17日13時頃の自宅温度計。どう見ても39℃を越えている。8月18日は11時半には既にこの温度に達していた。とにかく暑く、力が出ずヤル気も起こらない。
暑さのせいで夏休み期間中に何をやったのか記憶も曖昧になってくる。毎日メモを残しているのだが、昼何を食べたかを晩に思い出せなかったり、昨日書いたことも翌朝には曖昧になっている・・・だからメモなのだが。やったことは覚えていても、その前後関係が随分曖昧になったりと・・・年のせいか困ったものだ。そりゃ情報量が多すぎるのだ・・・などと今は笑って済ませているが気楽なもんだ。写真も併用しながらメモ残したりしているが、多くの人はそんな事気にもしないだろう。どうも最近の自分は、やった事がそのまま記憶の彼方へ消え去ってしまうのが怖いのか寂しいのか、記録を残すようになってしまった。このサイトもその類で、タイトルの如くMemoRandamとして生活の一部を留めるページになっている。
そんな事を考えていたら19日から天候急変。一気に10℃も気温が下がる状況にビックリ。オンマウスは同日清水区の高山往復の帰路、吉原地区から清水港を見下ろす眺望。実はこの奥では小熊も出現。

Aug 13〜. 2011  夏休みの諸々
いよいよ夏休み。これ幸いと家業支援やその他家周りの作業に勤しむ。13日は朝からミカン畑に除草剤散布。山間で陽が昇る前はまぁまぁの気温だが、昇るととんでもない酷暑。10時過ぎには36℃を越え暑くてやってられない。何とか午前中に作業を切り上げる。こんなに暑いのに大井川中流部は激しい雷雨。おかげ様で休日にも関わらず仕事が飛び込み晩から深夜の出向。6.6KVラインに障害があり電力会社の皆さんが暗闇の中復旧作業を始めた(写真)。電気など来て当たり前と思われる向きも多いと想像するが、その安定はこうした皆さんの活躍に支えられている。仕事振りを傍観すると随所に判断や現場力を感じ素晴らしい。お金を払っているから当然と思う前に、自然が起こした障害に果敢に立ち向かう人々の心意気を感じて欲しい。帰宅は27時、昼夜反転の勢いだったが、彼らの仕事振りに出会え元気を貰った。そんな折同窓生急逝の報せがあり15日通夜。未だ56歳だ。実家の4560に彼が融通してくれたRoland&PioneerのSPユニットC-2038が実装されている。清水港祭りで10年以上も活躍してくれた。楽器演奏に長け、主旋律にコードを付けてくれた事も懐かしい。ご冥福を祈る。通夜の直後再び障害の報せ・・・貧乏暇なしだ。

Aug 12. 2011  あの「岩崎ラジオ」ゆかりのお店を訪ねる
昨年の5月だったか、清水パーツセンターがSPCと名を変え清水区袖師の民家に店を構えている話をHPで紹介した。すると6月24日、静岡のN氏から静岡伝馬町にサウンドウェーブなる電気店があり、あの岩崎ラジオに関係の方が経営していると情報を寄せてくれた。地図で住所を確認、そのイメージを頼りに車で2・3度訪ねてみたが発見できずにいた。それでは歩いてみようとなったのが静岡に戻り凡そ1ヶ月後の7月22日。新静岡センターから伸びる伝馬町通りを往来したがどうしても分からない。諦めの境地で静鉄との間の小路に立ったら遂にそれらしき店を発見。しかし覗いてみたが誰もいない。それで今日、昼食に出たついでに伝馬町まで足を伸ばし遂にリベンジ。タイミングよくご主人が現れ世間話。「こちらはあの岩崎ラジオの…」と始めると顔がほころぶ。店のファンだった事や、社長や専務の話をすると、雪崩の様に昔話が…。ご主人はあの専務のご子息だったのだ。そして安東に2005年9月まであったパーツショップ・イワサキは社長のご令嬢が営まれていた事も分かった。パーツはやりたいが客が限定され商売としては難しい・・・もっぱら電気屋稼業との事だった。モノづくり日本のDNAは何処へ行ってしまうのか…でも楽しい昼休みだった。

Aug 9. 2011  久し振りに上るR362・・・タイヤバースト
9日、所用でR362を市境の峠付近(黒俣)まで上った。R362は静岡から浜松を結ぶ山岳国道。国道と言っても一部には車のすれ違いが難しい狭い所もある。峠を越えると川根(大井川水系)に出る。安倍川の安西橋を越えたのは30年振り位いだろうか。最近は近くを走るR1バイパスのお世話になる事が多い。羽鳥とか千代とか懐かしい地名がナビに表示される。昔と違い市街地のR362は拡幅され、またトンネルの併用で格段に走り易い。道中富沢の永野自動車の御曹子を思い出した。第8回静岡県青年の船で一緒だった。一度HONDA1300のマフラー修理で尋ねたことがあったがビックリ。ガラス張りショップと立派な工場に変身していた。余りにも懐かしいため帰路に尋ねたが残念ながら不在。事情を説明し挨拶代わりに名刺を置いてきた。
閑話休題・・・この日最大話題はタイヤのバースト。R362から入った小道でコンクリから出ていた鉄片にタイヤを引っ掛け一瞬にしてエア抜け。全く冴えないトホホ状態だった。 写真は9日14時半、黒俣地区峰山小学校付近からの眺望。オンマウスはスペアタイヤの愛車。狭いR362の路肩でジャッキアップし何とか交換し引き返してきた。1年前に全数交換したタイヤ・・・思いがけない出費に苦笑いだ。

Aug 7. 2011  清水港祭り・・・花火を求めて
この週末は第64回清水港祭り。30年ほど前になるが、この祭りに裏方としてボランティア参加していた(コンサートMix&PA)事もあり「港祭り」と聞くと血が騒ぐ。しかし今は時が過ぎ遠方から傍観する身になっている。
この日の晩19時過ぎ、カミサンが港祭りの花火が始まると言い出した。その一声でHanaを連れ車で近くの山に上った。
最初は清水区原の三池平古墳。しかし同じ穴のムジナがそこかしこに・・・車を置くスペースが全く無い。諦めて庵原球場の裏、すなわち清水区庵原町の一乗寺の裏山へ移動(動画)。そこには誰の仕業か分らないが、私設のさじきが作られていて、発電機が回りバーベキューを楽しみながら花火見物をする一陣。アルコールが入っていてとてもじゃないがレベルが合わないと、早々に最終地点となったカミサンの実家へ下りる。
ところがこれ、ただの玄関先の路地だが格好のビュー・ポイント。しゃがみ込んで、集まってきたご近所の家族連れと歓談しながら秋葉山の右手方向に上がる花火を眺める。大人も子供も犬も居る。色々な情報交換が出来て中々楽しい。花火が上がっても音は10数秒も遅れてくるから迫力は無いが、そのゆっくりと流れる時間もいい。
ところがHanaは花火の音がダメでずっとカミサンの腕の中に隠れていた・・・羨ましい。真夏の穏やかな夜の一コマ・・・この空気感がたまらなく日本を感じさせる。

Aug 6. 2011  アナログ系をスルーして安定なデジタル受信
甲子園高校野球が始まった。親父がTVを見ながら何かブツブツ言っている。12時前にGTVからETVへ放送が変わったら映像が止まったり音無になったりするらしい。見通し外受信だから受信電界は当初より低いが、設置後5年経つが今までその様な事は無かった。アンテナが動いたのかもと竹竿で突いてみたが様子は変わらない。アンテナレベル表示は低いながらピークにはある。ただレベル表示に変動・・・可笑しい?。それではと、アナログ系につながる部分を全てスルーにした。一つは受像機のアナログアンテナ端子への分配を止めデジタルアンテナ端子へ直結。この時点でアンテナレベルが上がり問題は無くなった。しかし未だ解せない・・・ひょっとしたらアナログ停波で、共聴アンプが利得上昇しノイズフロアが持ち上っているのではと、アンテナと共聴の混合器を撤去しアンテナ直結とした。これで更にアンテナレベルが改善し変動も減った。7月24日でアナログ波は停波したが、受信側のアナログ設備が未だ生きている可能性がある。入力の無くなったアンプは、AGCで利得が相当持ち上げられノイズ発生器と化している可能性がある。帯域外だからと安心していると墓穴を掘る。写真はスルーした受像機分配器と屋外混合器(左)。

Aug 5. 2011  岳南鉄道に乗ってTHAMWAY社の夏祭りを訪ねる
THAMWAYさんから毎年「夏祭り」の案内を頂くのだが中々赴けなかった。静岡へ戻った事もあり、また持ち前の好奇心も手伝い、訪ねてみようとなったのが6月終り。知らぬ間に時間が経ちその日を迎えた。一体どんな感じでどんな人が集まるのかと興味津々だった。
JR吉原駅から初めて岳南鉄道に乗り3駅目の本吉原駅で下車。10分程北へ歩くと建物にTHAMWAYのロゴ。社長のクランクアップタワーが上がっているとそれが目印になるのだが今回は下りていた。
夏祭りは社内行事として始まったそうだが訪ねるとビックリ。今は町内の皆さんにも開放され地域交流の場になっていた。社員の皆さんが設営や模擬店運営を務め、終始にこやかに対応されている。そこに会社のスタンスや風土を見る思いだったがどうだろう。来年も来たくなる雰囲気なのだ。 4CXソケット問題や6mANTのスタック方法で激変する雨ノイズを熱弁する社長。川崎のLDMOS-PAの仕掛け人O氏はIMD=0補償やMOTOROLAとM/A-COMの品質管理の違いを力説。はたまたGaNの話も飛び出した。多くのアイボールや情報交換が実現。写真は吉原駅始発の岳南鉄道。オンマウスは駐車場に展開する夏祭り・・・のんべぇの集りにも見えるが、家族連れも多かった。

Aug 1. 2011  残暑お見舞い申し上げます
もう今年も8月・・・皆様に「残暑お見舞い」申し上げます。
写真は所用で訪れた静岡市清水区大平の出羽地区を流れる興津側本流。出羽地区に入る橋から上流を見た様子。ここまで入ると川の水は信じられないほどに透明で驚く。
出羽は、デワとかデバ、或いはイヅワかイヅハとか読めそうだが、地元では「ユズッパ」と呼んでいる。ところが国土地理院の地図では「イズッパ」と記していて面白い。いずれにしても殆どの人は読めないに違いない。
川の左側には道路があり林道につながっている。道は以前は行き止まりまで上れたが、現在は途中にゲート(オンマウス)があり関係の車以外は入られない。登山道は山梨県境にある田代峠や樽峠に至る。そういえば1978年夏、自転車でここを上り、途中から担いで登山道にを登り田代峠を山梨県富沢町へ越え、R52で清水まで帰ってきた事がある。大変懐かしい地区だ。
時間があったら再び田代峠を越えてみたいが、誰か一緒に登りたい人はいないだろうか。33年前は空腹と苦しさだけが記憶に残っているが、今度はゆっくり登山を楽しみたい。