夜明け前より瑠璃色な a Lovers of SKY

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十話へ。


第九話「談笑と努力と悲しみと」

「いやー、達哉君も悲惨な目にあったね」
悲観な台詞の割には、妙に楽しげな弾みな感想。
にやけた笑みを貼り付けながら、仁が達哉の肩に乗せていた。
「お願いですから、その話はやめてくださいよ。大変だったんですから」
一方の達哉は苦虫を噛んだような、痛々しい沈痛な面持ちでうな垂れる。
だが誰も会話を断ち切ったり、慰めようともしない。逆に面白がっていた。
理由は今日の夕飯の話題は、彼の裁判(敗訴確定)で一面を飾っていたために。
「まったく思い知ったよ。視線で人を殺せるなんて事が」
数時間前の暗澹な出来事の記憶をぶり返しながら、達哉はため息を溢した。
瞼を閉じれば思い出す。野郎どもが放つ、不快感を露な視線の粘着感、嫉妬と怨嗟との数々を。あれが現世の魑魅魍魎たる修羅の世界だと実感した。
今ならば登校拒否をすることが可能ではないかと、達哉は思っていた。
「でも良かったじゃない。お陰でフィーナがクラスの中に溶け込めたんだから」
そこへ全ての元凶の根源である菜月が、笑いながら言う。
すかさず達哉はじろりと、菜月を咎めるように視線を向けた。
「誰のせいで、悲惨な目にあったんだよ?」
「え、えっと、私、食器を片づけてくるわね」
気まずげに目線を逸らしながら、菜月は思い立ったごとく遁走する。
くっ、逃げたな。と達哉は胸の内で舌打ちをした。
「まあまあ朝霧君。妻イジメもほどほどにね」
すかさず翠が冗談どころか、しかる所であれば誤解を招く台詞を口にした。
「元凶の一人は遠山だったと、記憶に残っているんだが。というか、あれが直接の原因じゃないか」
「ええと、そうだっけ?」
達哉の責めの注視を、巧みにドリブルで回避し、煙に巻かせる翠。
こうなっては拉致があかないと、経験上知っている達哉は追撃を止めた。
「でも良かったですね、フィーナ様が学校に溶け込めることができまして」
今朝の時点では表面には出さなかったものの、心配だったらしいさやか。
「一時は心配していましたけど、無事に過ごせて何よりです」
「いいえ、さやかがそう思ってくれただけでも嬉しいわ。でも確かに言われてみても達哉や菜月や翠のお陰ね。ありがとう」
頭を垂れるフィーナ。気品溢れる丁寧な仕草、流れるような白金の髪。
それらを半ば見惚れていた翠は、頬を赤く染めながら手を左右に振るう。
「いいえー、別にそれに売り上げも伸びそうだから、褒めなくてもいいですよ」
「売り上げ?」
意味不明とばかりに、小首を傾げるフィーナ。
すぐさま、あからさまに翠は首が取れるほどに否定しまくる。
「な、なんでもないでーす」
「「?」」
怪訝に感じ取っていた達哉とフィーナだが、彼らはまったく知らない。この学校には裏写真部という秘密結社が存在しており、そこでは達哉の構成写真を集めたフルカラー版写真集が出版され、多大な売り上げを成したということを。(それが麻衣や菜月、翠の部屋の隅に隠されているのは、ここだけの秘密)そして、現在ではフィーナの写真集を出版しようと、虎視眈々と暗躍していることも。
「ところでフィーナさん。どうでしたお兄ちゃんと一緒に勉強してみて」
別な点に興味津々といった感じで、麻衣がフィーナに尋ねていく。
「とても楽しかったわ。体育の授業の内容は体験したことがなかったし、他の教科も進み方や複雑さもあるけれど……」
滑らかに語っていたフィーナの表情に、始めて杞憂する暗い翳がにじみ出た。
彼女は丁寧に文書を作成するように構築しかけ、口にしかけた所で、
「一番難しかったのが、食事だったけどね」
横槍を入れるように達哉が、有耶無耶に話を捻じ曲げる。
「食事? お兄ちゃん、それってどういうこと?」
昼食時に別行動していた麻衣が、心底不思議そうに眺めた。
「どうやら月には、麺類を音を立てて食べる習慣がなくてね。俺達がうどんを食べるのを“そ、そんなはしたない食べ方できません”って、豪語したんだ」
さも当時の再現をするように、達哉が大仰しく振り手振り解説する。
「た、達哉、そんなこと言ってないわ。マナーが悪いとは言いましたけど」
声が裏返るのを防ぎながら、即座にフィーナが否定しだす。
だが非難する彼女の瞳には、感謝の感情が込められていた。
「あ、料理といえば。月人が書いた地球の料理の本とこちらでの本では大きく食い違いましたね」
うどんで思い出したように、ミアが手を叩いて口を開く。
それに麻衣も納得して微笑を浮かべた。
「最初ミアちゃん驚いてたよね。酢飯を作る時には砂糖と塩と酢を配合しないといけないって、知った時には」
「はい。あちらでは熱いご飯に冷やした酢をかけると書いてましたから。びっくりしちゃいました」
今ではいい思い出とばかりに、麻衣とミアは会話に弾みをつける。
「確かに月では地球のことを、あれこれ話を付け足す事がよくありましたね」
「語尾蛇足ですね、さやか」
「ええ、その通りですフィーナ様」
意外とこの地域のことわざを熟知しているフィーナが問い、さやかが頷いた。


「ところで達哉、一つお願いをしてもいいかしら?」
夕飯が終了し、一息ついていた後にお風呂場へと向かっていた達哉を、フィーナが声をかけられて止める。
「俺に出来ることなら、なんでも」
気軽に返事する達哉。だが、フィーナの身体から、シャンプーや石鹸のいい匂いが漂ってきて、急激に心拍数が上昇してきた。
なんとか平静を保ちつつ、拝聴の姿勢を取る。
「実は今度の休日に街の中を案内して欲しいの」
「街っていうと、商店街じゃない方?」
満弦ヶ崎駅を中心に建設された、ビルが林立する区域の所を尋ね返す。
フィーナはええと肯定し、次に簡潔に理由を述べる。
「先週は商店街を見て回っていたから、今度はあちらをよく見ておきたくて」
「そういえば、フィーナ達って行ったことないよね」
「そうなの。だから案内お願いできるかしら?」
フィーナの頼みごとに、達哉は脳内で立案、逡巡、予測させる。
数ヶ月とはいえ、この地に留まるので細部の地理を把握したいのは無理もない。
それにここ最近は向こうにも足を運んでいないので、丁度いい機会だ。
「いいけれど、だけどな……」
「何かいけないことでもあるのかしら」
珍しく言い澱む自分に訝しげな視線を、フィーナから向けられる。
「ほらフィーナって月の王女様だから、もしばれたりしたら……」
最悪な事態を想定してしまい、語る声色が消え失せていく。
祝日で真昼の繁華街、大勢の人通りの多い通路、月人に無邪気すぎる好奇心をもつ人々、もしそんな場所でフィーナの素性が知られてはどうなるか?
……下手をすれば野次馬の他に、厄介な連中を引き寄せる危険性が高い。
カレンから護衛の人が付いているとは聞かされているが、全て対処できるとか考えにくい。もしくはその裏を斯く人間も出てこないとは限らない。
「もちろん分かっているわ。でも、連れていって」
達哉の逡巡を考慮しているばかりと、フィーナは真摯に答えた。
ここまで強情に来られたら、押しも引きも持ち上げるのも不可能だ。
たった二日間であるものの、実感している達哉は、頷くことしかできない。
「ふふふっ、フィーナ様。話は聞きましたよ」
噂すれば何とやらの速度で、さやかが軟体動物よろしく、二人の間に割り込む。
「では当日がお姉ちゃんの腕によりをかけて、特殊メイクしちゃいまーす」
何がよほど嬉しいのか、手順を間違えて一斉発火させた花火のように、喜々満悦と顔を形どるさやか。
……沸々と嫌な予感が、達哉の中に渦巻き始めた。
「これで良かったのかな?」
「どうかしました達哉さん。なにか不安そうだけれど」
ちょこんと顔を出してみて、会話の輪に入ってくるミア。
報告すべきか、有耶無耶にすべきか考え、報告の選択肢を決める。
「いやね、姉さんのあの笑みは獲物を弄ぶ猛獣の目をしているから」
「……ねえ達哉、私はどうやって食べられるのかしら」
「食べられる? どういうことでしょうか?」
「いや、真面目に言われても困るんだけど」
フィーナとミアに苦笑しつつ、背後にある光景を眺めた。
「ひょっとしてフィーナ、お箸の練習をしていたのか?」
見やった先、リビングのテーブルの上に二つの皿が乗せられており、その片方に小豆の小山が形勢されていた。きっと食事でお箸を使いこなすための練習をしていたのだと、彼女の負けず嫌いな性格からして把握する。
「それじゃあフィーナ、みんなに負けないようにね」
頑張れなどと陳腐な言葉を選択せず、彼女に相応しい祝福を言う。
「ええもちろんよ。明日には成果を見せられると思うから、待っていて」
そうフィーナは自信に満ちた瞳を達哉に注ぐ。
間違いなくそれは、本物の王族と呼称するに相応しい姿だった。


夜も遅く、もはや深夜に突入して来た頃、フィーナがお花を摘みに、もしくはお化粧を直しにある場所に向かっていた時、それは響いてきた。
何か無性に不安を掻き立てるような、本能的に危機感を植え付けるような音。
発生源を聞き尖らすと、地下に下りる階段の先にある部屋から聞こえてきた。
「……何者かしら」
見知りの者が聞けば、僅かに身を捩じらせただけでも、深々と突き刺さるような威圧の言葉を言いながら、接近する。
僅かに開かれた扉の中から、微かにだが光が零れ出ていた。
時折、紙を捲る音と動き回る足音が聞こえてくる。
「…………」
何者かと、フィーナは慎重に足を運び、気配と息を押し殺して扉の前まで近寄る。
どうやら侵入者は彼女の気配に察知した様子もなく、黙々と作業を続けていた。
「……」
物取りなのだろうかと、彼女は推測する。
静かにフィーナはドアノブに手をかけ、息を呑む。
「名者!?」
そして誰何の声を出し、ドアを蹴飛ばす勢いで開いてフィーナは賊と対峙する。
「どわぁっ!!」
文字通り、身体を飛び上がらせて驚愕する男性。だがそれは、
「タ、タツヤ?」
予想しない相手を目の当たりにし、声色を固く叫ぶフィーナ。
どういう理由か、達哉は両手に本を大きく掲げた姿勢で硬直していた。
「驚かすなよフィーナ。思わず寿命が縮まったじゃないか」
「ご、ごめんなさい。帰ってきていない和の部屋に誰かがいたから」
「賊が入ってきたと、勘違いしたんだ」
「ええ……」
身を縮めては木製の小箱に引き籠りたくなる感じで、フィーナは肯定する。
「でもどうしてこんな時間まで勉強をしていたの?」
「こんな時間……ってもうこんな時間か!」
達哉が参考資料を読み漁るのに没頭していたのか、現時刻を知って驚愕する。
それを眺めながら、和の部屋を観察しておいた。
一言で言うならば、書庫の林と呼称するべきだろうか。
壁という壁には、月に関する参考書や資料の書籍がカテゴリー事に詰め込まれた本棚が設置され、床には読み漁った本の山が形勢されており、唯一僅かなスペースには、ベッドと机と椅子にデスクトップ型のパソコンが設置されているだけ。いかにも本人の思考を把握できる簡素な部屋だった。
「それはそうと、どうしてこんな夜更けまで籠もっていたのかしら」
「フィーナが必死に練習をしていたらさ、なんだか釣られてやる気が出てきちゃってさ、だからだよ」
自分の頑張りように、対抗意識のような物に火が点火したのだろう。
本人にばれた事を苦笑しつつ、照れ恥じ入るように達哉は頬を掻いた。
その仕草の中、フィーナがある部分にとある違和感を覚え、すぐに把握した。
「ねえ達哉あなた、近眼だったの?」
「別に近眼じゃないけれど……ああ」
問われた達哉は、そこでようやく自体に気づいたように目を丸くした。
「違う違う、これは勉強を引き締めるためにかけていたんだ。別に度は入って無いよ」
そう言って、気兼ねなく達哉はメガネを取り外し、フィーナに持たせた。
真偽を確かめるべく、彼女は恐る恐るレンズを眺めた。確かにぼやけない。
「……本当だわ、でもどうしてこんな事を?」
「あー、やっぱり兄さんの影響かな」
「和さんの影響? そうね、確かにそれは言えているわね」
どうやらフィーナの含みのある言葉に、達哉の顔は疑問の色を宿す。
「どういう意味なんだ、それって」
「今日、あなたが皆さんに言ったことば覚えている?」
問われて達哉は少しの間、思考を巡らせ眉を上げさせた。
「覚えているよ『だから彼女のささやかな願いを貶し、揶揄するヤツは誰であっても俺が許さない』だったよね」
「あれと似た台詞を昔、彼の口から聞いたことがあるの」
「兄さんから? それってどういう?」
兄と慕っている人物の違う一面を垣間聞かされ、達哉は驚きを隠さない。
しかも今朝、自分が断言した同様の台詞を彼も言ってなら、なお更。
「達哉は和が留学生として月に来たのは、知っているわよね?」
もちろんだと、達哉は肯定する。
「ある日、長年の往還船の修理を祝すパーティーの途中で、侵入していたテロリストの手に捕まってしまったの」
えっ、と言葉を切り、達哉は息を呑む。
テロリストとは無縁の生活を過ごしていたのだから、無理もない。
それにその事件は、月でも一般的に知られていないのだから。
「でも幸いにその場に居合わせた、さやかと和と……あと誰かが助けてくれたわ」
あの頃の記憶を引っ張り出し、柔らかな頬に指を這わせた。
ちょうどその部分は、テロリストの無粋な刃を当てられた場所だった。
「その際に和はテロリストに……いいえ、その場にいた月人全員に宣言したの、『地球人だろうが、月人だろうが関係ない。必死にもがき、足掻き、傷つきながらも進んでいる俺達の未来を殺そうとする者は全て相手になってやる!』って」
涼やかな余韻と静かな熱気を残しつつ、フィーナは口を噤んだ。
「そっか、兄さんがそんなことを……」
感慨深げに達哉は、本来のこの部屋の主に思いを馳せた。
ふいに訪れた沈黙の時間。なんとも心地よかった。
だがそれも束の間、達哉が緊迫感を詰めた口調で尋ねてきた。
「ところでフィーナ、あの時なにを言おうとしていたんだい?」
あの時、目敏く感知した達哉が咄嗟に話をずらした会話の続き。
やはり彼は先のことを全て把握しているようだ。
「月学論だけれど、私が学んでいたのとは多少違うの」
「地球側で書いた内容と、月側で書いた内容が食い違うこと?」
達哉は言葉の裏に秘めた意味を捉えながら、聞き返す。
「ええ、私が学んだ話では全ての元凶が地球にあると記述されていたわ」
フィーナの答えに、達哉はああと同意するように頷いた。
「言われてみてもこちらでは、戦争を仕掛けたのは月側になっているし、講和を提案したのも月になっているだよな。後、火種を付けたというのも」

―――歴史は人が作り出すもの、そして捏造や捻じ曲げるのもまた人間なのだ。

ふと昔、さやか達と語っていた時の和の記憶の泡が弾け、思い出す。
「ねえ達哉、この世界のことをどう思う?」
ふいにフィーナの口から、期待を含めた質問が飛び出した。
「……危ういと思う。誰かが故意に火を放てば、一瞬で燃え広がりそうな気がする」
自分と同様の答えに至ったことにフィーナは満足し、話を続ける。
「その考えは私も同じよ。だけど、それは月人のみに限ったことじゃないでしょう?」
「うん、確かに地球人の中でも人種や肌や目の色、果ては言葉遣いや趣味の違いで差別する人間もいるからね。地球人も一枚岩じゃないから」
「それは月も同様よ。こちらでも裏では何が行われているか、分からないもの」
それを皮切りに遠くの時計の針の音が聞こえそうなくらい、静まり返った。
幾ばくかの間を置き、やがて達哉が静かに口を開く。
「……どうして俺達の世界は、こんな迷い迷った場所に来たんだろうな」
震える声色と瞳をフィーナに向けて、達哉は呟く。
「ほんの少しだけ居場所が違っただけで、人を人として認めず、暴力に訴えるのは絶対におかしいよ。それにその挙句に後世にまで永遠と繋がる鎖まで残すなんて、しかも意見が違う同胞にまで牙を向けるなんて正直、異常だと思う」
目に見えない何かに憤りを覚えるように、裾の握り締める手に力を込めた。
それは月を理解してもらうために日夜、働き続ける和とさやかを貶し、嘲笑う様に脅迫電話や電話などを時折、受けながらも決して信念を捻じ曲げない二人を眺めてきた、達哉の本心から来るものだった。
「結局、重要なことはどこまで相手を赦しあえるか、なのよね」
同じ想いを抱いているフィーナは、静かに息を吐く。
「そして私達にできることは、少しでも多くの人たちに分かり合ってもらうこと、ただそれだけ」
「俺とフィーナのように、か」
「それならいっそう、付き合ってみましょうか? 達哉」
互いに顔を見合わせ、やがて耐え切れないとばかりに噴出した。
お陰で陰鬱な空気が一瞬にして、拡散され消え失せた。
「も、もう達哉、人の顔を見て笑わないで」
「それはフィーナだって、お、同じじゃないか。しかも冗談まで言うし」
「別にいいじゃないの。私だって、冗談の一つや二つ口にしたいもの」
「カ、カレンさんが聞いたら、失神しちゃうんじゃないか、それ」
「それは、い、言えているわね」
ひとしきり笑いあった後、真新しい本がふと視野に入った。
「ところで達哉、その本は?」
笑いすぎで少々、横隔膜に痛みを感じつつ、フィーナはある本を訊ねる。
彼女の指先に釣られて達哉はそちらを見やり、ああと頷いた。
「『空の恋人』だよ、兄さんがここに置いてあるんだ」
フィーナに見せるように掲げてみせて、達哉は説明する。
よくよく観察すれば、他の本は使い古されて表紙に傷や歪み、破けている部分もあるのだが、これだけは手を付かず先ほど作成された新品同様の光を放っている。
だから不思議に感じた。どうして童話をあの和が所有しているのか。
「ねえ達哉、和がそれを持っている理由を知っているかしら」
「あー、それが俺にもよく分からないんだ。聞いてもはぐらかされるだけだし」
かくして二人は、どの文明にも類似しない文字を解読しようとする考古学者のように首をかしげた。










九話へ

第十話「謎の少女との出会い」

「なんだか久しぶりだな、一人で帰るのって」
一人黄昏ながら、達哉はゆっくりと商店街の通りを歩いていた。
本来ならば、菜月と共にトラットリア左門へ向かうのだが、今日は奇妙な事にフィーナを連れて先に下校をしていた。しかも入念に事前準備をしていたらしく、終礼した直後、達哉が声をかけるよりも早く、教室を後にしていた。
お陰で、何事か聞きそびれた達哉が悄然と取り残された。
「菜月といい、フィーナといい、何をしようとしているんだ?」
予測しようにも、情報が手元にない状態では組み立てが出来ない。
「ま、帰ってみれば分かるか」
一旦、問題を棚卸にし、鞄を背負いなおして意気鷹揚と踏み出したその時、
「どひゃーーーっ!」
平和な商店街の空気を切り裂く、メイドの悲鳴が流れてきた。
脳裏に一人の小さな女の子の容姿を思い出し、何事かと逸る気持ちを抑えつつ、群れる群衆を掻き分けるように騒動の中央を目指す。
「なんだよ、この群れようは……」
呆然と立ちすくみ、思わず呆然と木の棒のごとく直立する。
騒動の根源である場所を拠点に、何事かと観察する人々が構成する輪が形成されており、否応なく達哉は強引にでも突入せねばらならない羽目に陥った。
未だに聞こえるくぐもった悲鳴、だが誰も止めようとはしない。
踏み入れる勇気がないのか、もしくは楽しみがっているか、または別の理由か。
考えている暇などないように、達哉は呼吸を整えて突貫する。
「すいません、どいてください!」
丁寧に断りを入れつつ、不快な思いをさせないように、慎重に足を運ばせる。
立ち並ぶ障害物のような人の渦をすり抜けていくと、少しずつ視界が開けてきて、顔なじみのメイドの後姿が見えてきた。
「ミアどうし……うわっ!」
駆けつけた達哉の眼前に、在られない光景が展開していた。
「わふ、わふっ!」
「おんおん!」
「わん、うわんっ!」
「きゃん、きゃん!」
四者四様ならぬ、四犬四様の異常な興奮ぶりに、思わず思考が凍結する。
よほど気に入ったのか、尻尾が引きちぎれんばかりに回っているどころか、飛んでいた後は独立して稼動しそうなくらいに暴れまわっている。
「こ、こらカルボナーラ、ぺペロンチーノ、アラビアータ、ナポリタン、止めてくださーい!」
そしてその四匹を、両足で踏ん張りながら、必死の形相で押し留めているミア。
だが彼女の体格と力では、力量不足らしく引き剥がすことができない。
一方、四匹に寄ってたかって遊ばれている先には、金色の髪の毛が覗け、『は、離せ〜』と弱々しく、くぐもった悲鳴が聞こえいた。
それに達哉の身体は膠着状態が解け、ミアの元に駆け寄る。
「ミアこれは一体どうしたんだ?」
「た、達哉さんいい所に来てくれました」
声を掛けられ、振り向くミアの瞳にはまさに可愛らしい子犬のような、くるりっとした愛玩を注ぐ色が入っていた。あまりの威力に注視ができず、微かに視線をずらしながらも、彼女から二本リードを受け持ち、引っ張る。
「実はお散歩に出ていた途中で、いきなりナポリタンズが勢いを付けて走り出してしまって……」
「ついリードを離してしまった途端、こんな有様になってしまったって、わけか」
「はい、申し訳ありません」
しゅんとうな垂れながらも、ぺペロンチーノを引き剥がそうとするミア。
ここはやはり頭を撫でるべきか? いや、今そんなことをしている暇はない。
「こらお前達、いい子だから退くんだ!」
「ほらぺペロンチーノ、お願いですから下がってくださいーっ!」
必死に頼み込むのが功を奏したのか、もしくは楽しみ終えたのか、ようやく四匹が引き手たちの言うことを聞き、下がり始めた。
そして後に残されたのは、
「…………」
いかにも不満そうな表情で、座り続けている一人の女の子だった。
年は中学に行くか行かないかの微妙な年齢であり、精巧に仕上げられた西洋の人形のように肌は白く、流れるような金の髪、深緑色の宝石のような瞳、感情が乏しい顔立ちと相まって不思議な印象を植え付ける。
だから不安に感じた。彼女からは生きている者独特の活力というか、命の煌きというのがまったく見受けられなくて、まるで一つの部品のように淡々と稼動しているような、無機質な感覚を覚えた。
「君、大丈夫?」
恐る恐る達哉は少女を立たせるべく、手を差し出した。
だが少女は、自分の好意を無視するかのように立ち上がった。
「……問題ない」
淡々と言葉を切り捨て、颯爽と去っていこうとする彼女の後ろ姿。
「もし良かったら、俺達と一緒にこないか?」
なぜか堪え切れない衝動的に身を委ね、声を掛けた。
だが彼女はこちらに振り向くことなく、言い返す。
「別にいい。このまま帰れるから」
「駄目だ。元々の原因は俺達が飼っている犬に責任がある。せめて償いだけはさせてくれ」
「達哉さんの言うとおり、駄目です。それにお洋服に毛が沢山付いているんですよ」
すかさずミアが達哉を追従するように、言葉を紡ぐ。
ミアの言うとおり、よくよく見れば少女の衣類は白いレース状の意匠が施されているものの、黒で統一された服にはイタリアンズの毛がびっしりとこびり付いていた。
「…………」
彼らの要望に、背を向けたまま沈黙を保ち続ける少女。
なんとなく『これ以上は構うな』と無言の反論をしている気がした。
「言い方を変えないと駄目かな」
誰にも聞こえない小声で呟き、作戦を練ろうとするが、あることに思い出す。
「…………」
「あの達哉さん、どうかしましたか? 顔が青ざめていますけど」
「あー、いやー、俺達って今、観衆の真っ只中にいること忘れていた」
「へっ? うっひゃあ!!」
言われたミアもようやく気づいたように、周囲を見渡して飛び上がった。
壁を形成している『まああの子、あの二人の子供? 若いのにハッスルするわね』やら『まさか正妻と愛人のもつれ合いか?』などと、確実に人の会話を聞いていない野次馬連中の話し声が聞こえた。気恥ずかしいにもほどがある。
「し、失礼しますーーっ!」
言い終えないうちに達哉が、少女を片腕で抱きしめ、もう片方でリードを引っ張る。
「わわわっ、達哉さん置いていかないでくださーーーい!」
遅れんばかりとミアも、大慌てで彼の後を追いかけていく。
「こ、こら離せーーー!」
ついでにドップラー効果をなびかせながら、少女の声も付いていった。


「た、ただいま」
「た、ただいま戻りました」
体力も精神も相当に消耗し、朝霧家に駆け込むなり庭に真イタリアンズを置いて聞き、トラットリア左門に来たなり力尽きたと座り込む三人。
特にミアは慣れない運動で、全力疾走したせいか肩で息をしていた。
一年中、季節も無く安定した気温と湿度が保たれた月から、一度も離れたことが無いのと、日ごろから運動していない無理がたたってか、全身の皮膚から汗が噴出していたのが見えた。
その逆に達哉は平然としているが、心労で表情の色は芳しくない。
謎の少女は憮然と、急転直下な状況に追いついていなかった。
「あら達哉、ミア、どうしたの。それにその子は?」
ふとそこへウエイトレス姿のフィーナがやって来て、尋ねてくる。
「ちょっといろいろあってね。水、頼める?」
「三人前でいいかしら」
「そうしてくれると助かる」
感謝を述べると、今度は視野に入った仁と菜月に目がいった。
「「…………」」
「あ、あれ? 二人ともどうしたんだ?」
床清掃用のモップを手にしたまま凝固した菜月、花瓶に水を注し続けて零れ出しているのにも関わらず、酸素を求める金魚のように口をパクパクする仁。
最悪という名の悪夢は、予告も無しに到来することをこの時、思い知らされた。
「も、もしもし警察ですか!? 小さな子供が誘拐されています!」
ふいに受話器を持ち上げ、必死の形相で通報し始めた仁。
「君、離れて!」
赤い残像を残し、少女を庇うように前へ躍り出る菜月。
「どうぞ達哉。これで喉を潤して」
一向にマイペースなフィーナが、冷や水を差し出してくれた。
「え、あ、う」
どう切り返せば分からず、煩悶し続ける達哉。
「ところで達哉、思ったのだけれど一つ尋ねてもいいかしら?」
「な、なんでしょうかフィーナさん」
何か類推していたフィーナの言葉に、達哉がなぜかさん付けしてしまう。
そんな彼の憂慮を感じずに、フィーナはこう喋った。
「……この子、達哉とミアの子供?」
あなたも彼らと同類ですか、フィーナ様!!
「わ、私と達哉さんの子供……ひゃうぅっ……ぱたっ」
あまりの気の動転さに、ミアが目を渦巻かせて気絶する。
よほど不可視の激しい衝撃だったらしく、それから反応を示さない。
「って、頼むから俺の話を聞いてくれ!」
もはや説得する理性を失った達哉が天井を仰ぎ見て、人の不幸にほくそ笑む悪徳神を撲殺したい殺意を覚えた。とはいえ、それは一瞬のことだけで、すぐ冷静に体裁を整えると、事の真実を全て告白した。
「なんだそういうことだったんだ。ボクはちゃんと信じていたよ」
騒動をかき回し、喜悦そうな挙措をしていた仁には、達哉は聞く耳を持たない。
「ねえ大丈夫なのミア。ごめんね、迷惑かけちゃって」
「いえ、こちらこそ申し訳ありません。本当は私が説明しなければいけなかったのに」
心底反省している菜月を宥めるミア。珍しい光景だった。
「ところでフィーナ、その格好は?」
先ほどから、違和感が微塵も見受けられないために反応が遅れたが、ようやくフィーナの容姿に気づいて彼女の頭上からつま先まで一通り観察して、疑問を口にした。
どういう理由か、フィーナは常のドレス姿ではなく、トラットリア左門のウエイトレス服を着用していた。
「皆が仕事や、部活に身の回りの世話をしているのに、私だけ一人だけ手持ち無沙汰する訳にはいかないもの。駄目だったかしら」
「いや、ぜんぜん迷惑じゃない。むしろ大歓迎だ」
首をぷるぷる振りながら、達哉が歓迎の言葉をかける。
だが褒められたにも関わらず、フィーナは口調を落とす。
「でも少し遠山さんに悪かったかもしれないわ。あの人、ここで働きたかったもの」
「どうしてだ? だって遠山は部活があるから毎日来れないだろ?」
「それは、その…………」
どういう理由か、フィーナは意味ありげに達哉を注視する。
内心、居心地の悪くなるような間を置いて後、彼女は辛辣に語った。
「……もう少し達哉は、女心を理解する必要性があるわね」
「それってどういうことだよ」
「それはそうとこの子、これからどうするの?」
半ば人の追究を無視するように、フィーナが今度は少女に目を配らす。
「一応先に服を洗濯しないと思ったから、誰かに手伝って欲しいんだが」
内心、人の話を聞かないところは誰に似たのかと感じつつ、今後の予定を告げかけたその時、無表情だった少女の表情に初めて異変が起きた。
「っ!」
天敵の接近に全身総毛だった草食動物のごとく、少女が緊張感を露にする。
すばやく周囲を入念に観察し、脱走経路である裏口を探り当て、一目散に駆け抜けようと腰を上げたところで、
「リースちゃーん、私に会いに来てくれたのねーーーっ!」
喜悦そのものの、無邪気かつ一オクターブ跳ね上げる声が聞こえた。
一瞬のことで誰の目にも映らない。まるで彼女だけが周囲の時間と別に稼動していたように、一同の眼前を横切っていつの間にか目的の人物に抱きついていた。
「……サヤカか」
今までの無愛想な挙措が一転、声色に困惑を滲ませる少女。
唐突な感情の発露に驚きながらも、彼女を抱擁している人物が目に映った。
「ね、姉さん?」
気が抜けた声色で、丸くなった目で達哉はさやかを正視する。
「むにむに〜」
「頬を擦り付けるな〜」
「ぷよぷよ〜」
「頬を摘むな〜」
愛玩道具のごとく弄ばれているリースと呼ばれた少女。さすがに朝霧家最強無敵の生物と呼称されたさやかには、腕の中でもがいて逃れようとするが、太刀打ちができずに成すがままにされていた。
「と、ところでさやちゃん? そろそろ止めないとまずいんじゃないかな?」
さすがに状況が状況だけに、珍しくも仁は正論を唱えた。
こればかりは同意するように皆も縦に首を振る。
「……さやかがこんなに喜ぶなんて、始めてみたわ」
さやかの斜め下の実態を眼前に突きつけられ、呆然と呟くフィーナ。
「まあ姉さんは昔っから、可愛いもの好きだからね……」
頬の筋肉を小刻みに引きつらせつつ、達哉はリースに同情の念を抱いた。
とはいえ、彼女にとって芳しくない状況なので、食い止めようと声をかける。
「ところで姉さん、その子を知っているの?」
そこでようやく、さやかが達哉たちの存在を知ったよう顔を向けた。
「あら達哉君、おかえりなさい」
「いや、姉さんの方がただいまっていう方が正解だと思うけど」
「別にいいじゃない。家族なんだから」
「それとこれとは話が違う……それよりも姉さん。リースってその子の?」
マナー違反だとは知りつつも、少女を人差し指で指しながら、尋ねる。
「そう。以前、居住区でネコと遊んでいた時に偶然見かけて、仲良くなったの」
「別に仲良くなっていない」
語尾になるほど上擦りながら、熱が篭っていくさやか。
対して否定するように、冷や水を浴びせるリース。
あまりにも対極すぎるが達哉自身、理由なくも気が合うような気がした。
「あーもう、可愛いわね、お持ち帰りして」
あーあと、達哉はテイクアウトフォームに変形したさやかから目を逸らし、天井越しに見える夕焼けに仰ぎ見てため息をついた。
子供の頃から何か与えられなかった鬱憤の反動のせいなのか、時折に無性なほど可愛い物や人に対して抱きついてしまう習性を彼女は持ち合わせていた。だから達哉たちの中ではこう呼称されていた、『大王イカさやか』と。
「ところで達哉君、この子はどうしたの?」
瞳前面に、幾千も散りばめられた輝く光を発しながら、さやかが尋ねる。
「イタリアンズがその子にじゃれ付いたせいで、服を汚してしまったんだ。それで何とかしようと思ったんだけど、」
「それじゃあ、私がお風呂に入れもいいわけね!」
言い終わらないうちに提案したさやかの言葉に、達哉の顔から一気に血の気を引く空耳が聞こえた。このままでは、いろんな意味で危ない。
「じゃあ達哉君、少しの間だけ待っていてね」
喜色満面にリースを連れ出し始め、達哉が反論を起こす前にドアを閉めた。
唖然と取り残される一同。厨房でディナーの支度をする音だけが支配をしていた。
「あー、ところでミア、悪いが後でリースの服を洗濯してくれるか?」
「は、はい。分かりました」
こんな所だけは義姉のさやかと似た、マイペースぶりを発揮しながらも、達哉はすぐすごと仕事の準備をし始める。


「お待ちどうさまでした」
他からすれば味気なく、だが本人の視界では丁重かつ控えめに言葉をかけ、慣れた所作で菜月がパスタをメインにパンとサラダにスープのセットをリースとさやかの前に置いていく。そして慇懃に一礼をすると、次の客の注文を受け付けに去って行った。
さやかがリースを洗いに朝霧邸に戻って半刻がすぎた頃には席が半数なりに埋まっていて、比例するように達哉たちの仕事の度合いも増えていた。
特にフィーナは顕著なもので、新しいウエイトレスの投入に若い男性客から注文を受け付けている。
当初は馴染めない作業に半ば不安があったが、杞憂でしかなかった。
予想以上に柔軟かつ適切な応対ができ、一度の失敗は二度もせず、必要とあらば他のフォローにも入る、本場の格式高い高級料理店でも採用したいほどのきびきびした行動をしていた。
それらを一通り観察して、自分のお下がりの白い服を着た少女を見やる。
「…………」
憮然とした面持ちのまま、判断できずに硬直しているリース。
幾ばくか考え込んだのか、ようやく彼女はさやかに振り向いた。
「……これ、どうやって食べる?」
「私がやってみるから、よく見ててね」
待っていましたとばかりに、さやかがフォークを手に実践してみせた。
「こうやって食べるの、分かった?」
リースが首を縦に振って肯定。倣うように慣れない手つきでし始めた。
フォークをパスタの真ん中に突き刺して、円を描くように一塊にし、一纏まったところでそれを口へと運びかけて、ぴたっと止まった。
「サヤカ、どうして私を見る?」
「ううん、ちょっと嬉しいだけよ。リースちゃんが素直にいてくれたから」
「……別に好きでいるわけじゃない」
内心、動物園の豹のように困り果てていると思いながらも、言葉を続ける。
「でもね、これだけは本当のことだから信じて欲しいの。今、この瞬間だけでもあなたは私達の家族ということをね」
「?」
心底から理解できない風にリースが怪訝な目をする。
だがそれも束の間、すぐに視線を元の位置に戻して、食べ始めた。
その姿にさやかは微笑ましく見守りながらも、彼女の身に憂いを感じた。
同時に放っておけない気持ちが、胸の中で燻っていた。
彼女は独りぼっちだった昔の自分自身と似ていた。生まれや人種に、育って環境や人格を別にしても、それを否応に感じられた。
同時に彼女の瞳の奥、幾重に編み張られた、何かが封印されているのも。
だからこそさっき言った言葉も、今すぐ頷く必要性はない。
少しずつ自分の経験として蓄積し、やがて納得すればいいだけの話だから。
「ところでこのお店の味はどうしら? 相当いけていると思うけど?」
黙々と食事しているリースに、味の感想を尋ねてみた。
百人中、百二十人が『おいしい』と述べるのだが、
「……分からない」
「え?」
リースの意外な言葉にさやかが言葉を詰まらせた。
「……今まで、こういう料理を食べたことがないから」
常の悄然と、だがどこか体裁が悪い風にリースが言う。
少しさやかは唸りながら、幾つもの理由を考え出し、提案を上げる。
「それじゃあもし暇だったら、いつでもこのお店に来てみて。お姉ちゃんがご馳走しちゃうから」
「別にいい。そこまでしてもらう義理はないから」
「俺はさやちゃんが良かったら、構わないぞ」
ふと頭上から声がかかったと思えば、左門が二人の背後に回るように立っていた。
「左門さん、厨房の方はよろしいんですか?」
「普段ならしないさ。だが、今日は和がいるからな」
その言葉だけでいかに左門が、和を信頼しているか感じ取れた。
彼は噂の人物であるリースに柔らかな目線を向けつつ、穏やかに話す。
「お嬢ちゃん。もしまたこの店の食事をしたかったら、いつでも来てもいいんだよ。そのときは仁の給料を差し引いてもご馳走するからな」
どこからともなく「それ、ひどいっす親父殿!」と仁の悲鳴が聞こえてきた。
それを無視しながら、左門はリースの答えを焦れもせずに、待ち続けた。
「私がここに来れるという確証はない」
やがてリースの蕾のような唇から発せられた言葉は、否定だった。
だがそれも一瞬のことで、そっぽ向いて食事を再開しながら彼女は言う。
「……でも、気が向いたら行く」


一同に見送られながらもリースこと、『静寂の月光・技術局所属』リースリット・ノエルは、トラットリア左門に出る際に皆が一緒に同行しようかという提案を、辞してただ一人……否、二人で夜の繁華街を闊歩していた。
『リースリット』
「フィアッカ様」
唐突に頭の芯から聞こえてくる声にリースはふと足を止めた。
素早く周囲に何者かがいないことを確認し、『彼ら』から提供されて以降、嵌めてある赤い宝石が入った一輪の指輪の玩具を経由し、自分の内に存在する彼女に答える。
『どうだった、久しぶりの人の輪の中に入っての食事は』
フィアッカと呼ばれた女性は、どこか愉悦そうに笑いながら感想を尋ねてききた。
「……別に」
『ふふふっ、別にか』
ぶっきらぼうを装ってみるものの、彼女は全てを見透かしたように笑う。
その様子に微かだが、リースの顔に不満の形が浮き出ていた。
正直、自分という器の中に入って以来、礼節を払い敬う気持ちがこれまであったが、こうして反論したいという気持ちを抱いたのは、これが初めてだった。
『正直言って、驚いたぞ。お前が流されるままに、彼らと共にいるなんてな』
「別に私の意志じゃない。タツヤたちが勝手にそうしただけ」
『一応、そうしておくことにしよう』
確実に納得していない風に彼女は言葉を返す。
正直、自分でもどうしてあの場に留まっていたか不思議だった。
通常ならば適当か、つっけんどんに答えて、相手が驚く間に逃げていた。
なのだがあの時は、その方法が妙にあの場にそぐわない気がした。
沢山の笑み、つんざくようなはしゃぎ声、馬鹿馬鹿しくも可笑しいやり取り。
だが必要な時には傍にいて、何もされたくない時には構うことがない、微妙だがそれでいて安心できるくらいの程よい距離感をもたらす空間に、僅かな時間の合間にリース自身に微細に変化をもたらせていた。
『それより気づいたか、あの店にいた者の雰囲気を』
雰囲気を楽しみつつも、状況を把握していたフィアッカが問いかけ、リースは頷く。
「あれは訓練された者の動作だった」
『そうだ、特にアヤツはな。もしやすれば監視する必要があるが、少し場所が悪かったな、あそこは見張られている。やはり連中が第一優先事項として注目するだけはあるな』
「やはりあの中に?」
『ああ、そうだな……』
「?」
珍しく言い淀むフィアッカに、意外だと感じ取った。
平常ならば迷いもなく発言する彼女が、どこか引っかかる点があるようだ。
『それにしてもあの男、生きていたのか? だが、あいつは十年も前に……』
「?」
ますます理解不明な言葉になっていく様に、リースはただ首を傾げるしか出来る事しか出来なかった。







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