夜明け前より瑠璃色な a Lovers of SKY

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第十一話「新任司祭様と新月の元で」

「これでと状況終了っと」
肉体的疲労ではなく、精神的疲労から開放されて、肩を回して解し始める達哉。
途端に腹の虫が予告もなく盛大に鳴り響き、彼は顔を赤く染め、慌てて見渡す。
が、商店街の中を通りぬく道路の脇に設置された、華麗な花を模倣して造りで作られた街頭が辺りを照らし出される限り、誰の影も滲み出さなかった。
同時に両脇に並ぶ店もバーなどの場所を除いては、だいぶ前から閉店かその準備を整え始めていた。
「よ、良かった……」
そのことに達哉は、ほっと安堵のため息を溢し、そもそもの発端を思い返す。
こうなった事態は、突如として想定外の夜間勤務になっていしまったさやかに、夜食の出前を出張しなければならない役割を背負ってしまったからだ。
なおその内の一つは、麻衣からは『開ければそなたは大いなる災厄に襲われる』などと、三文役者並みの下手くそな恐怖感を煽る口調で釘を刺された。
もっとも中身が女性にとっての必需品の花だとは、すでに知っていたが。
「とは言うものの、次の任務は少しきついよな。和兄さんを回収してきてなんて」
自分たちの兄をぞんざいに物扱いする、麻衣の言葉に内心冷や汗を噴出す。
聞いたら、限りなく彼は反論するだろう。俺は主夫マシン一号なのかと。
「ふぅ」
何気なく達哉は空を見上げた。新月のようで、月は細くしか輝いていない。
だが、これはこれで風情があるな、と感じた。季節外れの月見も悪くない。
「…………」
ふいに誰かの目線に感付き、達哉は目を細めて探る。
……見つけた。道路脇に等間隔と植えられた街路樹の下、誰かの影を。
「あのすいません、よろしいでしょうか」
幾ばくか躊躇し、やがて決意したように彼女が近づき問うた。
すぐに達哉は首を縦に振り、全体の容貌を鑑みた。
夜明け前の紺と、深々と降り積もった雪の白を着飾った慎ましい衣装を見て、『静寂の月光』の司祭だと直感した。同時に彼女がその団体から、不遇を押し付けられたのも。
だがそれを抜きにしても、彼女はとても綺麗だと感じた。
太陽の日を浴びれば、柔らかくそれでいて艶やそうな桜色の髪。
自分を戒め、何事にも生真面目に取り組むような、だが笑みを溢せば年相当の雰囲気を醸し出す、愛嬌さがある顔立ち。フィーナなら月の女神ならば、この人は月の妖精だろうか。なんとなく可愛い、こういう人が彼女なら……。
“って、なに考えているんだ俺!? 初対面の人を可愛いだなんて! しかも彼女だなんて、仁さんじゃあるまいし!”
などと普段の顔の軽薄で飄々とした彼と同類かと、一瞬思った自分が恥かしい。
「お伺いしたいのですが、礼拝堂の道のりをご存知でしょうか?」
達哉の沈黙に少々、訝しく感じたらしく小首を傾げながら訊ねる少女。
だがその仕草を見ずに、彼は激しく高鳴る心臓の鼓動に耳を傾けていた。
あまりにも理由が無い不可解な動悸に、困惑し続ける達哉。
「あ、あのどうかしましたか?」
彼の異様な空気に訝しげに感じたらしく、少女がふと覗き込んできた。
そこでようやく達哉は、自分が悶々と思考に浸っていたことに自覚する。
「あ、いえ、なんでもありません。それでは一緒に行きましょうか、俺……いや、私も同じところに行くので」
「そうだったのですか。良かった、もし帰るところを呼び止めるなら、気が咎めるところでしたから」
「別に気にしないでください。困っている人を助けるのは、当たり前のことですから」
「ありがとうございます」
心底信頼している笑顔を向けられ、一際高鳴る高揚感だったが、思考は冷徹なほどに彼女の対応に注意せよと勧告していた。
「ところで司祭様、最近こちらに上がってきたばかりなんですか?」
「はい、ほんのほど到着したばかりです」
「そうだったんですか、通りで」
ほんの十数分前に降り立った船のことを思い出す達哉。
「では教会まで案内しますので、付いてきてください」
「はい」
達哉の言葉どおりに、少女が肩を並べるように付き従う。
向かい風に煽られて、彼女の清々しい匂いが鼻に届き、心地よく感じられた。
「それにしても地球は本当に暑いところですね」
月では体験出来ない気温の高さに、ハンカチで首筋の汗を拭う少女。
極力、目線をそちらへ傾けないように注意し、言葉を繋げる。
「ここは川の中州なので、他の所よりもまだ涼しいほうですよ。居住区の外だなんて夜なのに、そろそろ扇風機をかけないと駄目な時期ですからね」
「そ、そんなに熱いのですか、地球の気温は? よく地球人は耐えていけますね」
至極驚き、珍獣を見たかのように少女が目を張る。
その所作に達哉の直感がやはりと的中し、言葉に張りが萎む。
「とはいっても、中にも暑さに苦手な人はいますけどね」
「…………」
達哉の言葉を吟味するように、少女が顎を引いては考え込む。
内心達哉は、彼女に頭を下げながら重荷を背負いながら訊く。
「やはり地球人が嫌いなんですね」
「そんなことは当たり前です。なぜ仲良くしないといけないのでしょうか」
途端に彼女の雰囲気が変貌した。表情は先ほどの温和な気温から、極寒の凍てついた気温にまで低下している。更に声色が硬化して、隠しきれないほどの棘が含まれ
ていた。
明らかに心底から地球人を蔑視して、だがそれを理由に何者かを罵倒している違和感を、達哉は微細に感じ取った。
すぐに彼は心のページに書き込む。何かの手掛かりの可能性がある気がした。
「……確かに地球人でもそんな輩はいます。正直、私も嫌いです。時に殴りたいくらいに憎む時だってあります」
はき捨てるように達哉も同意すると、ますます少女は不可解に首を曲げる。
「ではなぜあなたは地球人が住む場所に向かうのですか、ここならば彼らと顔を合わせなくても済むでしょうに」
「彼らの中にもいい人がいるからです。ここでは一緒に歓喜を分かち合う人もいれば、寂寥を共に背負う人もいます。それは月でも同じでしょう、違いますか?」
「…………」
どうやら心当たりがあるらしく、ふいに少女は口を噤んだ。
「司祭様がどうしてこちらに赴任したのかは分かりません。ですが、その腹いせに彼らを攻めないでください。この通り、お願いします」
急遽立ち止まり、彼女に向かい丁重に、粛々と頭を垂れる達哉。
その最中にほんの数日前、ミアを襲った不愉快な出来事を思い返す。
月人が堂々と商店街に出没するという噂を嗅ぎ付けたのか、数名の若者が不躾なことにメイド服を着たミアを写真付きカメラで、何の予告も許可も得ずに次々と連写し続けたのだ。
無論、その場にいた達哉、フィーナ、菜月たち一同は駆けつけようとしたが、それよりも前にミアを実の家族のように慕っていた――老若男女問わず――商店街の人々が周囲の景色を捻じ曲げるほどの憤怒の陽炎を背に、鬼気迫る表情で彼らを包囲、拿捕、一網打尽してのけた。後で彼らがどうなったかは、達哉たちは知らない。聞かないのが身のためのこともあるのだから。
「あ、あのもういいですから、頭をあげてください!」
達哉の突拍子の無い謝罪に、居た堪れずに声を荒上げる少女。
夜間とて人の往来は少なからずあり、現在の彼らを観察すれば、間違いなく男と女の事情だと事実が紆余曲折して下手な噂になりかねないからだろう。
もちろん達哉も重々承知しているために、すぐに頭を上げた。
「分かりました。あなたがそこまで言うのなら、私も少しは努力をしておきます。ほんの少しですけど」
咳払いして、闇夜の中でもほんのりと見えるほど彼女の頬は桃色に染まる。
「ありがとうございます、司祭様。ところでもうそろそろ到着ですよ」
堂々とした宣言通りに、堀が煉瓦に変わり始め、向かう先には陽の光があればさぞ瀟洒な造りが見えるであろう鐘楼が聳え立っていた。
それを見て安堵の息を溢す少女。
「ここが居住区の礼拝堂です。では入りましょうか」
「はい、お願いしますね」
重厚な扉を開け、内から零れ出す灯の中に飛び込むように達哉は踏み出す。
祭壇の前、何事か相談しあっていた二組の男性……和とモーリッツが同時に達哉のほうへと首を向けた。意外とばかりにふむと呟き、和は腰に手を当てる。
「達哉、一体どうしたんだこの時間に」
「どうしたじゃないって、もう夕飯の時間だって」
「あーしまった。私としたことがつい……はな……なぜに?」
「どうしたんだ兄さん、何かあったの?」
自分を注視……否、肩越しに佇む少女を茫然と眺め続ける。
滅多に動揺していない和が、驚愕の面を露に突っ立つ姿。
フィーナが自宅にホームステイする件でさえ、微動だにしなかった彼がこのような態度に出るのは、想像だにできなかった。それは隣にいる高齢の司祭も同様だった。
「もしや、エステルなのか?」
「はいお久しぶりです、モーリッツ様。エステル・フリージアただ今、満弦ヶ崎礼拝堂に着任しました」
「どうしてお前が地球に?」
両者の組み合わない会話の合間、和がちらりと達哉を一瞥。
「い、行くぞ」
なんとか平常心を取り持ちつつ、和が達哉の腕を引いて退室し始める。
「モーリッツ高司祭殿、例の打ち合わせが後日ということで、では」
その去り際、和はモーリッツに意味深な台詞を残しつつ、席をはずした。
だが達哉はさり気なく彼の言葉を耳に拾って、頭の中で反芻する。
――ありえない……どうして彼女が地球に上がっている?
「あの、ところでお礼をさせていただきますか?」
その声で、ふと達哉と和の足が止まった。
「お礼……ですか?」
ええと少女が頷き、バックに手を入れて何か探り始めた。
彼女が聖職者なので、少なくても金銭的だとは想像していた。
とはいえ、道案内しただけでお返しをされるほど彼はぞんざいではなく、謝辞しようとしたが彼女が顔を俯いている以上、抵抗は無意味だった。
「どうぞこれを」
清楚な手袋を填めた掌の上には、草で編んだ輪が乗せられていた。
「これって大切な人の健康や安全を祈願するお守り……でも、貴重なものを貰ってもいいんですか?」
「無論です。それでは何かお困りのことがありましたら、いつでも礼拝堂へどうぞ」
にこやかに会釈して、桃色の髪の毛が肩に滑り落ちる。
と、そこでようやく何事かに気づいて、彼女が名乗りを挙げる。
「ここまで案内して名乗っていませんでしたね。私の名前はエステル・フリージアと申します」
「こちらこそ、私の名前は「いくぞ」わっ、兄さん痛いって、ちょっとツボに食い込んでいる!」
達哉の腕から強烈な電流の激痛と、万力をかけられた圧迫感がのたうつ。
悲鳴を挙げながらも、和に強引に礼拝堂から引き剥がされるように退室させられる。見やれば彼は珍しく険呑な雰囲気と、何事かの憤りをありありと発散していた。
「…………」
和の理解不能な感情に、達哉は後ろ髪を引かれながらも、礼拝堂にいるエステルの姿を追うように、言葉や文字では淡々と表記したとしても、感情では表現しようのない何かが自身の内で芽生え始めていた。










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第十ニ話「エステルと三人の地球人達(1)」

「ありがとうござ」
従業員の挨拶が途切れるよりも直前に、エステルは勢い良く扉を閉めた。
ふぅ、と一息入れた彼女の耳朶では、胸の動悸が響く音を拾い取っていた。
次いで手早く周囲を確認し、知り合いが……特に黒い子猫が存在しないか確かめ、本当の意味で安心した。同時にこの場で、胸の内にある紙袋が子犬を抱きしめるように愛しげに持ち上げ、軽やかなステップを踏みたくなる衝動を堪える。
「良かった、誰もいませんね」
心なしか、赤熱した鉄板のように熱い顔を紙袋で隠した。
礼拝堂の仕事が一段落つき、エステルは休み時間の間の内に、とある目的の物を入手したのはいい。だが、問題はこれからだ。もし、中に入っているブツを見つけられたりしたら……。
「どうしたんですか、司祭様?」
「うひゃい!」
文字通り、悲鳴と共に飛び上がってエステルは驚く。
見やればいつの間にか、真正面に昨日案内してくれた少年がいた。
「す、すいません。驚かせてしまって」
「い、いえ、気づかなかった私が悪いのですから、謝らないでください」
喉元から込み上げてくる心臓を押し止め、咳をついて平然を装う。
「ところで司祭様、さっきからなにをそんなに喜んでいるんですか?」
「別に私は喜んでいません。それは貴方の気のせいではないでしょうか」
「でも紙袋を大切そうに抱きしめて、笑いを押し殺していましたが」
「……本当ですか?」
「はい。それはもう背から翼が生えて、飛翔するくらいに」
「そ、そんな……」
少年の言葉に、愕然となってその場に膝付くエステル。
常の平常心を忘れ、ただ打ちのめされたように茫然と座り込む。
「す、すいません! 私は別に苛めるつもりでは」
「いいえ、あなたが悪いわけではありません。全て自分の心を律していない私のせいなのですから」
聖職者として至極当然の理論を唱えるが、自分自身でも情けない体裁を無様に晒しているこの時ばかりは、説得力など皆無のように聞こえてしまう。
さすがに居た堪れなくなったらしく、少年が説得し始める。
「でも別にいいんじゃないですか? 司祭様だって人間ですから、たまには力を抜いたって罰は当たらないと思いますが」
「しかし常に最低限の緊張感を張らせないと、いざという時に意味がありません」
「確かに分かりますその考え方」
うんうんと少年は自分の意見と共鳴したらしく頷いた。
「私も兄から日頃から『油断というのは己の未熟さから来る怠慢であり、驕りからくるものだ』と煩く言われていて、意味もよく身に染み付いています」
彼の口から兄と聞いて思い出したのが、昨夜の礼拝堂に着任した自分を、闇夜の幽霊を見ているような、凝固した表情の男性の姿。だからこそ気になる、どうして無闇に自分を不安に煽るような注視していたのかを。
「ところで話は戻りますが司祭様、その中に何が入っているのですか?」
好奇心をそそったのか、少年は紙袋の中身を透視するように目を細める。
言われてようやくエステルは、危険物が入った中身を思い出す。
「これは経済学概論などの参考書が入っているだけです。他には何も入っていませんから、何もありませんから」
努めて冷静に反論し、紙袋を背後に回し込む。
だが、不意に乾いた切り裂き音が周囲に響いた。
「「あっ」」
見やると微妙に力の加減を間違えた挙句、変な部分に力の行き先が掛かり、盛大に紙袋の破れた場所から二冊の本が地面に転げ落ちた。
見下ろせば、一つは確かにエステル自身が言っていた『経済学概論』と書かれた参考書があり、その上に重なり合うようにもう一冊置かれていた。
慌ててエステルはしゃがみ込み、ふと腰を宙に止めた状態で彼を眺める。
「見ましたか?」
「いいえ見ませんでしたよ」
ほっ、とエステルは胸の内で安堵の息を溢す。
「わんわんワールドなんて」
「っ!!」
不意打ちの言葉にエステルの体感温度は急上昇し、唇をわなわな振るわせた。
反論の言葉を捜すように視線を宙に彷徨わせ、「えと、あうの、ういき」と奇怪な言葉を連ね続ける。
それをつい知らず、彼はぱらぱらをページを捲りながら一言。
「司祭様って、もしかして無類の犬好きですか?」
これまで浸隠していた趣味を知らされ、どかんと自分の中で何かが弾け飛んだ。
「し、失礼しますーーーっ!!」
自分事を他人に暴露された恥辱が、平常心を凌駕してそれ以上追撃しようとする彼の口撃をさけるがごとく、エステルは無自覚に颯爽と礼拝堂に逃げ去っていた。


「はぁ、はぁ、はぁ」
荒く息をあげ、玉粒の汗が端整な顎を伝って、床に垂れ落ちていく。
肺が新鮮な空気を取り込もうと躍起になり、心臓は急速に沈静化させようと鼓動している。唯一の慰みといえば、時折と奇妙だが不愉快ではない匂いを孕ませた風が、自身の髪を靡かせつつ、熱せられた肌を冷却させてくれることだった。
運動神経は自分でもなんだがいい部門に入るものの、久方ぶりの全力疾走に付け加え、体力面では半ば事務職な所に就いてために激減していた。
そのためにエステルは久方ぶりの肉体疲労に、半ば憔悴した。
「まさか地球に来てまで、走る羽目になろうとは思いませんでした」
これもかれも全て、などと責任を押し付けようとした時、
「どうしたんですか、司祭様」
平然とした声を掛けられて振り返ると、ほんの三分前に同じ台詞を告げられたような既視感に苛まされ、先程のやり取りと同一だということに気づくエステル。
「良かった、さきほどから走りながらも呼びかけていたのに、反応してくれなかったので心配していました」
「それはすいません。ここまで運動したのは久方ぶりですから」
一息つき、エステルはふと違和感に気づいて、彼に問う。
「ところで貴方も走っていたと仰っていましたが、まったく汗ひとつ掻いていないようですが」
「これでも毎朝一キロ以上、走って稽古しているので苦ではないですよ」
「そ、そうなのですか。それはともかく、何か御用でしょうか」
途轍もない苦行を耳にし、動揺を隠しつつ尋ねると、少し怪訝そうに眺める少年。
「あの司祭様、これを忘れていませんか?」
そう言って彼が手渡してきたのは、丁重に包装された紙袋だった。
「す、すいません。私としたことが」
恥かしい部分を何度も見られて、照れ笑うエステル。
「ところで中に入りませんか。お礼と言ってはなんですが粗茶を入れますので」
「あっ…………」
「なにかありましたか?」
あれほど人懐っこい子犬のような表情に翳が刺しこみ、月人ならば気軽に入れる場所を踏み込めないような忌避感を、彼の体からひしひしと感じ取った。まるで少年が地球人だと言わんばかりに。
「……実は私、地球人なんです」
悲しくもエステルの予測は正しく、少年は自己の身分を暴露する。
途端に彼女は素肌の上からセメントの塊を塗られたごとく、身を膠着した。
今、自分がどんな表情をしているか分からない。もしやすれば、精巧に緻密に仕上げられた人形のごとく何の感情の色彩を塗られていないだろうか。
「まさか私を騙していたとは、思いませんでした」
ふと唇から、本心ではない言葉が零れ出てしまった。
自分でも驚くほど感情の籠もらない、淡々として冷淡な声色。
それが落胆と失意と言う概念だというものに、遅く彼女は把握した。
「すいません、隠し事をしていたのは謝ります。でも」
「帰ってください」
にべもなくエステルは非情に言葉を切り捨てた。
「これ以上、地球人に土足で神聖な場所に踏み込まれたくありません」
月人ならば当然な台詞を言い捨て、礼拝堂の扉を軋ませながら入っていく。
急ぎ扉を固く閉ざしエステルは沈滞した世界に戻った。もはや雑音も何も遮断されているはずなのに、どうしてか想像してしまう。閉じた向こうで地球人の彼がずっと、扉の先にいる自分に対して深々と頭を垂れていることに。
「まさかあの人も地球人だったなんて」
憮然と視線を床に落としながら、エステルは呟いた。
「まさかとは何かね、エステル」
訝しげに問われて、モーリッツが奥の廊下から姿を現す。
「モ、モーリッツ様。いつからいらしていたのですか」
今日は何時にも増して注意散漫な気がして、胸の内で頭を抱えた。
「つい先ほどだ、それにしてもどうしたエステル。浮かない顔をして、何かあったのか」
「いいえ、なんでもありません」
無意識のうちに頬に手を当てて、何事もないように装う。
「もしや達哉さん、昨夜案内してくれた方と何かあったのかね」
「っ!」
一瞬だがエステルの頬の筋肉が痙攣してしまう。
その僅かな異変にモーリッツは見逃さなかった。
表情と声色を幾分か硬く締め付け、初老になってもなお衰えない、鋭利な眼光を向ける。エステルはそれが聖職者でもなく、月人でもなく、『父親の顔』だと子供の頃から知っていた。
「エステル、一体彼になにをしたのだ」
「別に月人として当然の態度をとったまでのことですが」
「……まさか理由にならない疎みが、相手を不快にさせることは聡明なお前とて理解しているはずだろう。ましてや達哉君はこの礼拝堂の様々な部分に至るまでご助力を貰い、フィーナ様の良き理解者でもあるのだぞ」
「フィーナ様がこちらにいらっしゃるのですか?」
生真面目な表情を崩し、エステルは驚愕する。
一目だけとはいえ長年の間、畏敬と尊敬を募っていた方の名が出たことに。
「正確に言えば、彼の家にてホームステイをなさっている」
更なる言葉に、エステルは今度こそ根底を打ちのめされた。
「確かに月では留学の話は聞いていましたが、まさかあの高貴なお方が地球のたかだか一般人の家に泊まって、しかも共に生活しているなど知りませんでした。フィーナ様はそのような事までして、取るに足らない文明を学ばなくても宜しいでしょうに。そんなものは本で調べれば済むはずです」
「それは檻の外から観察するのと、中で体験することは別物だからだ」
突如として割り込まれた、若い男性の声。
見ればモーリッツの影から浮き出たように昨夜、達哉という地球人の兄らしき人間が姿を現していた。
「人の話に横槍を入れるのは、行儀悪いのではないでしょうか」
「無論それは重々承知の上だ。だが先程の件について聞き捨てにならないために、それをしたのでね」
「…………」
エステルが唇を固く閉ざすのを、肯定だと錯覚した彼は言い続ける。
「司祭殿、己の意見を他人に押し付けるのは良くは無いな。また、自己の中で捻じ曲がった妄想や、一方的な観点しか見ていない他人の意見で、一概に全てを決め付けるのは愚者のすることだ。無論、地球人にも当てはまるがな」
「…………」
「ああ、そういえば」
説教の途中で、いきなり何事か思い出したように、彼は器用に片眉を上げる。
「自己紹介がまだだったな、私は宮川和と言う。君がさっき出会った朝霧達哉の兄であり、もちろん地球人だ」
「別にあなたの名前など覚える必要がないのですから、意味がありませんよ」
なぜこうも懇切丁寧に名乗りを挙げるか馬鹿らしく、エステルは拒否した。
「よさないかエステル、この方は!」
日頃から温厚なはずのモーリッツが、この時は張り裂けんばかりに荒上げる。
が、それより早くも和は手を挙げて彼を制した。
「?」
不可解なやり取りにエステルは、訝しげに二人を見た。
「それはさておき、一つ失礼する」
先ほどの事情をほうり捨てたように、エステルの断りなど聞かず、和は水面を靡く木の葉のように自然な動作でホーリーシンボルの前に移動しては、いかなる理由か膝をつく。もしやと彼女は直感した。
「まさかお祈りを捧げるつもりではないでしょうね」
「別に教義には掲載されていないのだから、別にかまわないであろう?」
エステルの疑問にあっさりと和は答え、ますます彼女は当惑する。
「しかし地球人が礼拝するなど、聞いたことが」
「…………」
追及するエステルだったが、当の彼が祈りを捧げていたために、一瞬口ごもった。
同時に、無色透明な羽衣に当たったような感覚に、本能的に彼女は後退りした。
――今日の糧を与え給うことを、神に感謝します。
――今日も月と地球が平和であることを、神に感謝します。
――願わくば、皆の笑顔と平穏が永遠に続きますように。
幾分か日ごろの祈りの言葉が違うが、紡がれる言葉の意図、慈しむように込められた声色は紛れも無く、聖職者そのものの説法のように感じ取れ、表情で窺う限り彼は、常人では理解しきれない、天命を帯びた顔立ちは聖者のようにこの世の無情さを知ってもなお、純粋だった。
そして頭上のステンドグラスが繊細で機微に至るまで、緻密に配置された千々の色彩から差し込まれる、艶やかな色彩に変化した日差しに包まれ、まるで聖書に記述されているように、神から使わされた天使が彼に助言を与えているかのようだった。
「時にエステル司祭殿、いくつか質問をしてもよいか?」
半ば見惚れていると、儀式が終了したのか、徐に立ち上がって和が尋ねてきた。
「と、問われても、返す義理はありませんよ」
先ほどの見惚れていた衝撃から必死に立ち直りつつ、問い返す。
「安心したまえ、それほど多くない。たった三問だけだ、別に端的に切っても構わないし、答えなく無ければ無言でいても良い。それ以上答えてくれれば、こちらとして今後は何も干渉しないことを約束しよう」
僅かの間、エステルは不可解な事だと腑に落ちなかった。
何か値踏みするように、心理の底まで見通す彼の言動が。
だが、まあいい。乗せられるのならば、乗せられてやろう。それにたったそれだけで、向こうが何も手を出さないのならば、安いものだ。
そうエステルは深く追求せずに、提案をすんなりと受け入れた。
「よろしいでしょう。なんなりとどうぞ」
腕組みをしてエステルは、平然と直立不動の体勢で佇む。
「まず一つ目に、地球についてどうだ?」
「別になんの感嘆もつきませんね」
「それにしてもわんわんワールドを買っていたではないか」
「あ、貴方、見ていたのですか!?」
途端に顔全体が熱くのを押し殺せずに、エステルは詰め寄る。
「見ていたわけではない。君達が私の前でやり取りをしていただけだ」
言葉が事実なのか彼女は追想するが、即座にかぶりを振って掻き消す。
取るに足らない出来事に思案するよりも、彼女は早く質問を終了させたかった。
「それはともかく、質問を続けてください」
「……了解した。二つ目、地球人についてどう考えている?」
「私達、月人を好奇の不躾な視線を向けてきては、無遠慮な行動を取る不埒者です。まあ朝霧さんはその類に入りませんが、それでも地球人の一味ですね。内心、なにを考えているか分かりません」
毅然と否定的な言葉を述べ、微細に胸の中で僅かな痛みが走る。
それは先ほど分かれた地球人の悲痛の顔であり、謝罪の言葉だった。
「では最後に三つ目、そう言うのであれば地球人のような不埒者の雑種たちなど、一匹足らず絶滅すればいいと思っているのかね?」
「っ!?」
想像外の質問を突きつけられ、目を張って和を直視するエステル。
彼は謹直姿勢を保ったままだが、表情は言葉の割に憎悪、悲哀、酷薄ではなく、実に穏やかな風貌で自分の返答を静かに待ち続けていた。二つ目の答えの時に彼女が内で唐突に湧き上がった、微細な変動を察知したかのように。
「わ、私は……」
だから恐ろしかった。今、自分が運命の帰路に立たされている錯覚を感じて。
……正直なところ、返答には迷いがあった。
自分自身でも理解している。地球と地球人を憎み、蔑むのは的外れだと。
全ては高貴な貴族の血族でもなければ、特別なコネクションの糸を保有していないと本来、希望していた外務局の面接員に言われた嘲りにも似た悟りと、そればかりか育ての親でもあるモーリッツをあのような言葉で、侮辱した後の険呑な出来事のためだ。
そして今の自分は孤児であるという理由で、見下した彼らを見返すためだけに、その怨嗟の気持ちを燃料にして、地球人という架空の上の相手を蔑まし続けている。
しかしそれも急速に萎えていき始めていた。彼、朝霧達哉と出会って。
嘘をついた(地球人だと名乗っていないので、厳密には嘘ではない)のはいささか咎めるが、現に彼の言動は一人の人間として端然であり、彼女の中に理想の地球人像と重なっていた。
だからここで、彼の言葉に首肯したら、きっと自分は人間ではなくなる気がする。
絶滅する……すなわちこの地に住んできた人々の価値観、生活、生き方を根本から否定し、弾劾し、何も無かったような虚無にせしめることになる。
だが素直に否定も出来ない。長年蓄積した、地球人への気持ちは薄らいでいないのだから。
「すまない。別に困らせるつもりはなかった」
エステルの葛藤を見抜かしたのか、和がふいに表情を崩す。
「だが、さっきので全て分かったよ。君は地球とこの地に住む人を、嫌いにならない、なれない、なるはずがないと」
言い淀みなく断言し、和が礼拝堂に案内した達哉と同じような穏やかに笑う。
それにただエステルは対応すれば分からず、そうですかと素っ気無く答えた。
「では私はこれからモーリッツ高司祭殿と相談があるので、お借りする。よろしいか?」
「は、はい。どうぞ」
半ば身体の芯を排除されて、エステルははぁと気の抜けた返事をする。
それを見てか、見ずか和はモーリッツを連れて、住居区へと足を踏み込め、
「……エステル・フリージア」
まるで不可視の剣の切り先を、喉元に突きつけるような切迫感を発散した。
見やると和が背後越しに、エステルに問いかけるような、だが彼女を失神させるに容易い空気を纏い、問いかける。
「お前はあんな下賎な連中を見下すために、司祭になったのか?」
その一言にエステルは茫然となった。何も、考えられない。
同時に思い知らされた、自分が聖職者になった理由をすでに忘れていることに。







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9〜10話へ。

SSぺーじ入り口へ。

さやかFCへ。

とっぷぺーじへ。