夜明け前より瑠璃色な a Lovers of SKY

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十四話へ。


第十三話「エステルと三人の地球人達(2)

「はぁ……」
茫然自失とばかりに、礼拝堂の柱に力なく背を預けるエステル。
こうしていると広大な世界に、一人放り投げられた気がして恐ろしくなる。
「私はどうして司祭になったのでしょうか」
自分で自分を問うような曖昧な言葉を呟き、ため息を溢しながら考え、先ほど和から問われた言葉を反芻しては云々と黙考していた。
いくら過去の扉を解き放っても、常に付き纏うのは周囲からの蔑みと、それらを跳ね返さんとばかりにがむしゃらに反発する自分の姿ばかり。学院に入って以降、あの頃からまったく成長していない。むしろあの頃から時間が停滞している。地球人を蔑視する気持ちが増大するのと、幼い頃の記憶が磨耗するのと反比例するように。
「私はカレン様のようになりたかった。カレン様は王宮で、私は教団で……の筈なのに」
どれだけ根源を掘り起こそうとしても、自分は同じ孤児でも今では駐在武官として立派な職務に就くカレン様のように、生い立ちなど関係が無くとも一流になれるのだと、身を持って証明したい以外には思い当たらない。だが、口にするたびに自分の中身が徐々に零れ始めている感覚はなんなのだろうか?
だがエステルはいくら胸の内で彷徨い、探求しても、答えが見つからない。
「あら?」
その時だった、礼拝堂の周囲に植えられた木々の墨から新緑のポニーテールがひょこっと零れていたのは。
「あの、どなたかいらっしゃいますか?」
エステルが問いかけるとポニーテールは一瞬硬直し、
「あ、えと、その……」
戸惑うように顔を強張らせ、一人の少女が姿を現した。
同い年の少女だろうか、全身の隅々から溌剌とした印象を抱かせる。
ついでに見慣れない服装を纏っている。月でもまず目に掛からない衣装だと、エステルは思った。
「は、始めまして。私は遠山翠って言います。みどりんって呼んでね」
「トオヤマ……もしやあなたも地球人?」
「はい、一応そうなるのかな。って、お願いだから突っ込んで」
「すいません。あまりそう言う話に疎いので、では無く」
話が車道から脱線して、歩道に乗り上がる感覚を覚えつつ、順序良く問いかけた。
同時に地球人だと知って、冷淡にならない自分に半ば違和感を覚えていた。
恐らく、先ほどの和の発言の影響によるものだろう。
「所で何か悩み事でもあるのでしょう? もし宜しければ聞きますが」
「え、あー、別にいいですって、人に話すほどのことじゃないですし」
大げさだなと言わんばかりに、翠と名乗った少女が手を振る。
「安心してください、私は聖職者です。悩める人がいれば共に分かち合うのが役目ですから」
ふと、頭の奥で錆の掛かった鎖にヒビが入る音が聞こえ、脳裏には優しい風貌のモーリッツの笑みがなぜか浮かび上がった気がした。
そんなエステルの心情を露知らず、翠は足を踏み込むことを躊躇うように、指の先を突っつきながら、彼女と礼拝堂を落ち着きが無い所作で交互に見続けている。
「でも本当にいいの? 普通、地球人は入っちゃ駄目のような気がしちゃうけど」
「安心してください。本当に救いを求める人がいれば、私達はいつでも受け入れます。例えそれが月人でも、地球人でも」
自然に、労わるように優しく紡がれた言葉に、自身でも驚愕した。
今まで地球人に対して卑下していたのに、今では普通に接していることを。
急激な心境の変化に、エステルは半ば戸惑いながらも、翠を礼拝堂に入れる。
「綺麗……本当に礼拝堂って感じがするね」
始めてみる静謐な礼拝堂の空気に触れて、翠が感嘆な感想を述べる。
純粋な意味で目を輝かしている彼女に、エステルは和らげに微笑み、椅子に座るようにそちらに手を向けた。
「確かにここの礼拝堂も地球に建設されるために、月の礼拝堂と同様に荘厳な造りになっていますから」
「それって、もしかして……ええと」
なんて呼べば分からない、と翠の目が物語っていた。
「私はエステル・フリージアと申します」
「そうそう、エステルさんはもしかしてここに寝泊りしているの?」
「はい。高司祭と、とある場所から預かっている子供の三人で暮らしています。それよりも悩み事の相談を忘れているのでは」
「あ、ごめん。忘れてた」
苦笑いして心底、忘却していた翠に少々呆れつつ、エステルは本題に取り組む。
「それでお悩みはどのような事でしょう」
「ああ、それなんだけどね……」
よほど言い辛いのか、翠は口の中で何事かもごもごと呟き、視線を床に落としたり、色艶やかなステンドグラスに魅入る素振りをして、ようやく意を決したように告白する。
「実は進路希望についてですけど、少し戸惑ってて」
「進路希望? 申し訳ありませんが、それは一体」
「あれ? 月では学校ってなかったっけ?」
微妙に食い違う説明に、エステルは思案のために少々間を置いて、問い返す。
「私の場合は学院という、『静寂の月光』が経営している場所で学んでいますので、よく分からないのです」
そうなんだと、翠は頷いて話を戻す。
「で、ですけど、そろそろ進路希望……どこの分野を選択するかという紙に、どう記入したいか迷っているんですよ、これが」
「それは行きたい場所が無い、と言うことなのですか?」
「ぶっちゃけ言えば、そうなるかな」
たははと翠が自虐的に笑い、ふと動きが止まる。
「決して音楽の道には進まないって、いつも決めていたのに、いざというとなると妙に鈍るなんて可笑しいよね」
奇妙にちぐはぐな動作で髪を撫でていき、翠はさり気なくため息を溢す。
「実は私の両親って、自分でもなんだけど有名な奏者なの。とは言っても小学生のころは無名だったから、その日暮らしが大変だったんだ。でも苦しくなんて無かった、だっていつも私と一緒にお父さんとお母さんが傍にいてくれたから」
その独白にエステルは無言で、話の先を促がした。
「まあもちろん娘である私も、お父さんとお母さんの指導をびしばし受けてたけど、むしろそっちのほうが楽しかった」
そこで突然、翠の瞳の奥で何かが揺らめいた。
塞き止めていた何かが決壊して、膨大な感情の波が押し寄せるように。
恐らく彼女自身も把握していないのだろうか、徐々に声色に震えが滲み始めたのにも関わらず話を続ける。
「だけどある日から活動が認められから以来、日に日に家を空ける間隔が長くなって、音楽の家庭教師や家政婦さんが来て、ようやく分かったんだ。私にとっての音楽は、家族を結び付けるためのものだったんだって。一緒に居たいから苦しい練習を耐え抜いていたんだって」
そこまで告げられて、エステルは表に出さなかったものの、衝撃を受けた。
孤児院育ちの彼女とは違う、そういった『普通』に育った家族でも、様々な難題が圧し掛かっているなどとは、予想だにしなかった。いや、想像すらしていなかった。
「それから少しずつ音楽に力が入らなくなって、そうしていたらお父さんが課題曲を出したの。全国ツアーからかえって来るまでに演奏できるようにしなさいって。……でも出来なかった」
「なぜなのです?」
「分からない、本当に自分でもなぜか分からなかったの。そして私はずっとお父さんの前で茫然と立ちすくむだけ。そんな私をお父さんは失望した目で見ていた」
当時の記憶を思い出してか、組んだ手に額を当てて翠は昏れた。
「それからなんだかさ、音楽も楽しいことも、嬉しいことも、全部どーでもよくなっちゃって、音楽を止めたり親ともうまく話し合わなくなったり、そうしていたらもう何もなくなったの。ゼロになっちゃったの、私。って、なんでこんな事をばらしちゃうんだろ。本当は進路のことだけ言うはずだったのに」
一気呵成とばかりに過去を暴露した翠は、顔を上げる様子を見せなかった。
それにエステルはどう接するか困惑して、すぐには返答しかねた。
だが一つだけ納得しかねる部分に、引っ掛かりを感じる。
なぜだろうと考え、答えに至った。もし、『自己の中で捻じ曲がった妄想や、一方的な観点しか見ていない他人の意見で、一概に全てを決め付けるのは愚者のすることだ』という和の言葉を聞かなければ、聞き抜かっていただろう。
だから想像した。もし『自分の見方と、他人の見方』が食い違っていたら?
「これは私の意見ですが、一度ご両親ときちんとお話したほうがよろしいと思います。もしかすればお父様はあなたに失望をしたのではなく、困惑していただけかもしれません」
エステルの意外な言葉に、翠が弾かれた飛沫のように顔を上げた。
どこか虚ろに、だが僅かに灯った光の眼差しを向けてくるのを感じながら、自分の考えを述べる。
「話を窺った中では、お父様は直接『お前に失望した』などとは仰っていないでしょう?」
「だけどあの時の眼はそう言って……」
混迷し始める記憶に戸惑う翠に、エステルはかぶりを振って否定する。
「でも、きちんと本人の口から聞いていない、そうですね」
「…………うん」
「でしたら聞くべきです。あなたの思い出の中のお父様はそのような人物でしたか」
しばし逡巡するように翠が悩み、やがて否定するように左右に首を振った。
「確かに言葉にしなくても、伝わるものもあると思います。ですが、中には言葉にしなければ、伝わらないものも確かにあると、私は考えます。だから、自分自身の過去に負けないでください」
聖職者らしく翠を悟らせながら、エステルは胸の内で自傷していた。
かくゆう自身が、一番過去に捕らわれて、もがき苦しんでいるではないか?
「……よしっ!!」
何に答えが至ったのか、翠が突如として椅子から飛び上がるように立ち上がり、両手で思いっきり頬が赤くなるほどの威力で叩き始めた。
あまりの出来事に呆気に取られるエステル。何が何だか分からない。
「確かに過去に縛ら続けて、こんな暗い表情になるなんて、翠さんには似合わないもんね。こうなったら当たって砕けろ!」
炸裂花火に火が吹いた勢いで、捲くし立てる翠にエステルは茫然と見やった。
「えっと、どうかしましたかエステルさん」
「い、いえ、いきなりの変わりように少し戸惑っただけです」
「ごめんなさいねー、私って元々こういう性格だから」
「は、はぁ……」
もう理解できないとばかりに、エステルはひとまず追従しておく。
そこで思い出した。こんな風に日頃から常に嵐を巻き起こす子たちがいたことに。
お陰で沈静化させようとして、散々な目に遭ったのは一体いつ頃だっただろうか。
「あれどうかしたのエステルさん、笑ってるけど」
「いえ、少し昔のことを思い出していました。私が孤児であっても、優しい育ての親と妹達との懐かしい記憶を」
「もしかしてエステルさんって孤児、なんですか?」
口にしてから両手で口を噤む翠。触れてはいけないことを悟ったようだ。
だがエステルは気にしない所作で、淡々と答える。
「ええ、たくさんの妹達に囲まれて、笑みを浮かべるモーリッツ様を見て私も……」
そこまで言葉を紡いだ途端、エステル忘れて久しい記憶の本流が駆け抜けた。
懐かしい思い出を再び胸に抱きつつ、彼女は全て思い出せれた。
「なぜ忘れていたのでしょう、私はモーリッツ様と同じように、身分の分け隔たりを持たずに人と触れ合い、喜びや悲しみを分かち合う存在になりたかったことを」
穏やかにエステルは笑い、やがて翠に向き直った。
「ありがとうございます遠山さん。あなたのおかげで、私は本当の思い出を呼び戻すことができました」
感謝の意を込めて、エステルは翠に深々と頭を下げた。
そう、自分は一人ではなかった。モーリッツを初めとする沢山の人の笑顔と優しさに包まれ続けた結果、こうして自分は生きていることに改めて自覚した。もう二度と忘れたりはしない、絶対に。
「べ、別にいいんですよ。むしろ私の方が感謝したいくらいなんですから」
褒められるのが苦手なのか、照れくさそうに笑う翠。
そんな彼女の眼前に、エステルは手を差し伸べる。
「もしよければ私と、友達に、なってもらえますか?」
正直なところ、まだ地球人に対して偏見を捨てたわけではない。
だが達哉や翠のように、良識と誠意のある人や、悩む人も確かにいる。
そう、だから半歩前ほど踏み込むほんの少しの勇気があれば、少しずつ好きになれるのかもしれない……きっとそうに違いない。今、自分がこうしているように。
「こ、こっちこそよろしくお願いします!」
翠も隠された意図を捉えたように、エステルの手を握り締めた。
そうして二人の目線は重なり合い、やがて笑った。


「……意外だな、あの二人が友達になるなどとは」
心底意外な風に、眼鏡越しに虫型の情報収集機械を通じて送られるエステルと翠の会話を見続ける和。いわゆる監視と言う名の覗きをしていた。
だがその表情にはどこか心の底から安堵したように、落ち着いている。
彼はこれほど早く、エステルに地球の友人が出来るとは思っていなかった。
長年、彼女が猛烈なほど勤勉に勤しみ、絶えず襲い掛かってくる周囲からの奇異の視線に一人で耐えたのに、孤児だという理由だけで地球に左官されたために、怒りの矛を地球人に捻じ曲げた彼女の心情を思えると、彼らを理解するのに数年を費やすと想像していた矢先だったのだから。
「それにしても外務局の連中、昔から体質が変わっていないな」
達哉たちの前では絶対に口にしない悪態を述べ、吐き捨てるように目を細める。
エステルがとある事情のために、地球へ左遷された情報を昨晩の内に月にいる同胞から情報を収集した途端、和は受話器を地面に叩きつける衝動を必死に堪え続けていた。正直、月へと乗り込んで連中をぶん殴りたい敵愾心で一杯だった。
学院時代ではどれだけ理不尽で、不条理な扱いと境遇を受けつつも、主席で卒業したエステルが持つたった一つの夢と理想をたかだか『気高い血筋』ではないという事情だけで切り捨てることに和は腹を立てていた。
そもそも、生まれる場所は自分では決定できないというのに、一部の権力者だけが運命を決定するのはおこがまし過ぎる。
宗教書で一文でも分からない事があれば理解しようと読み続け、どれだけ睡眠時間を削ってまでも勤勉に努めつつ、未だ外務局への道を捨てきれずにいるエステルが不憫すぎてならない。
「和、人の話を盗み聞きするのは、いけないことだぞ」
感慨げに思う和を咎めるように、モーリッツは目を細める。
とはいえエステルのことではなく、監視している事だが。
「すまないモーリッツ高司祭。だが聞きたくなくても、聞こえてしまう事もあるのだ。私のような他人事ではないことには、な」
少々自身の嘲りを含ませて、和はモーリッツに向き直る。
「で、どこまで話は進んだのだろうか」
「カレンにそろそろ君の正体を明かした方がいいという辺りだ」
「そうだったな。私達の行動を理解してもらうためには、女王の側近でもある彼女にも話を付けるべきだったか」
途切れた話の箇所まで戻り、ふと感傷に触れたように目線を落とす。
「もし事実を聞けばカレンは確実に怒るか、悲しむかだな。だがそれだけ罪を背負ったのは私達自身だが」
誰に問うとも無く和は呟き、胸が締め付けられる気持ちで悶絶しそうだった。
瞼を閉じても浮かび上がる、己の全てを犠牲にしても、守りたい愛しい女性。
例え何度生まれ変わろうとも、彼女以外を伴侶する気なども毛頭ない。
だからこそ分かっている。もし全ての真実を知れば、彼女は自分を信用してなかったのかと無言で睨みつけ、流れそうな涙を堪えつつ自分を攻め立てる光景を。
……遠くない未来のことを考えると、発狂して自害してしまいそうだった。
そんな彼に全てを承知しているモーリッツは、和の肩に手を当てた。
「だがあなたは、例え大切な方を騙してまでも、彼女達を影から守り続けていのだから、悔やんではならない。責任は少なからず私達にもあるのだから」
和はモーリッツの言葉に耳を傾けながら、言い返す。
「それは語弊ではないか? そもそも私達という言葉には私も入るが」
「……それもそうでしたな」
ふとモーリッツは区切り、窓ガラス越しに見える地球の景色を眺めた。
倣うように和も静かに、同じ方向へ目線を向けた。
地平線の隅々まで行き渡る雲海は夕闇の色に染まり始め、なんとも形容しがたい高揚感が体の芯から沸きあがってくる。もし月で暮らしていたのならば、絶対に巡り合えない光景だろう。月の人たちにこれを見せてあげたいフィーナ姫の気持ちが、よく分かった。
「やはり月と地球、双方が互いに手を携えるのは、まだ時間が掛かりますかな?」
ふいにモーリッツが、分かりきっていることを何気に尋ねた。
「予想ではまだ一世紀以上も掛かる見通しだ。無論、何事もなければの話だが」
「そうですか」
落胆するでもなく、悲観するでもなく、単に事実として受け入れるモーリッツ。
そんな彼に、和は「しかしだな」と話の穂を繋ぐ。
「だがもしやすれば、大幅に両国の関係を改善できる人物を知っているがな」
「……あの者ですか」
「ああ、次の地球の時代の扉を解き放つ鍵だ」
同時に思い至った人物の虚像を思い描きながら、和は力強く頷いた。
「全てはあの者が握っている。あの方が成し遂げられなかった偉業を、あの子ならばと私は思っている。地球と月の共存共栄を果たす、そのために幾世代も経てもなお、我らは存在するのだから」
絶対なる自信を瞳の奥に宿し、『清浄たる蒼穹・白金の調停者』宮川和は、僅かに戸惑うことなく断言した。









十三話へ

第十四話「お家においでよ

「エステルを呼んできますので、お待ちください」
顔を見せた途端、開口一番にモーリッツはそう言い残し、踵を返した。
そのことに達哉は反応するのに遅れ、茫然と立ち尽くす。
礼拝堂に来た理由はただ一つ、昨夜にエステルから達哉向けに連絡が入り、一度礼拝堂へ足を運んで欲しいという要望を聞き入れたためだった。
「一体、なにがどうなっているんだ?」
正直なところ、何もかもが奇妙すぎた。昨日の今日で突如としてモーリッツから自宅に連絡を受けた時には、狐に摘まれた錯覚がした。
「奇妙っていえば、兄さんは一体どうしたんだろう?」
そう言えばと達哉は今朝方、カレンと一緒に出掛けようとしていた際に力任せに殴っても逆に骨の隅々まで亀裂が入りそうな、常の鋼鉄の不動さが失せ消え、何事か懸念をする顔立ちをしていた和を思い出す。正直なところ、気にならないはずが無い。
「お待たせしました」
涼やかな声色に反応して、思考を消して振り向くと昨日と同じように司祭服を着たエステルが落ち着き払った所作で、歩き寄ってきた。
だから達哉の目には奇怪に見えた。昨日と打って変わって、彼女の瞳の中には地球人への蔑みに似た感情が消失していたことに。むしろ今は青天の霹靂のように透明になっている。
「ところで私に何かようでしょうか、司祭様」
内心、微妙に戸惑いながらも達哉は丁重に会話をし始める。
「エステルで構いません」
「え?」
「ですから司祭様ではなくて、エステルとだけ呼んでも結構です」
にべもなくエステルは突然、呼称について言及しだす。
「ええっと、それってどう言うことなのでしょう」
「ですから私のことをエステルと呼んで欲しいのです。もしかして頭は悪いのですか?」
「一応こう見ても、学校の成績は十位以内なんですけど」
「それでしたらなおの更、理解するべきでしょう」
「いやいや、頭の良さと頭の柔軟さは別次元の問題ですよ。そもそも話の脈絡が把握できませんが」
額に冷や汗を浮かびながら、微妙に達哉は彼女の中にS毛の気配を感じ取った。
「それはともかく、私に何か用件があるとのことですが、何でしょうか」
「はい。本日あなたに来ていただいたのは他でもありません、借りを返すためです」
「借りを返すために?」
思わず問い返した達哉の言葉に、エステルは頷いた。
「昨日、本を礼拝堂に持ってきてくれたお礼をするためです」
ああと達哉は軽く頷き、すぐさま首を左右に振った。
「別に要らないですよ。そもそも恩を押し付けるために、したわけではないので」
「ですが、もしいつか月へ帰る際に、地球人に借りを残したままはいけないと、私は思います」
「?」
その台詞に達哉は、ふと違和感が頭を過ぎり、理解した。
何となくだが、彼女は地球に留まるのを了承している旨があった気がした。
「ちなみに十秒ほど待ちます。それでも何も発言がなければ、この貸しは無効ということにします」
「あ、あの、私に発言権などはないのですか?」
「十、九、八……」
確実に達哉に拒否権が無いとばかりに、エステルは聞く耳が無いようだ。
それどころか、端整な唇からはカウントダウンを切り始めていた。
内心どうして自分の知り合いの女性は、一向に人の話を聞かないのかと悪態を付きながら、エステルが三秒前を切る前に思い切って提案をあげた。
「では一緒に家に来ませんか?」
「なぜあなたの家に向かわないといけないのでしょうか?」
自分の言葉に、至極当然とばかりとエステルは疑惑の双眸が注がれる。
だがここで引いては、朝霧達哉の名が廃る。だから必殺の一言を突きつけた。
「では尋ね返しますが、ここに柴犬というのはいませんよね?」
確認ではなく、断定の言葉を決然と言い放つと、エステルが一瞬硬直する。
「家には犬が四匹いる内の一体に柴犬……雑種ですが、柴犬がいます。もちろん他の三体も。一日中だって遊べられますよ、むしろその方があっちも喜びますし」
「遊べる……柴犬たちと一緒に、遊べる……」
イタリアンズの輪の中で遊戯する自分を想像したのだろう。
常に端整な彼女の顔が、融解しかけているチョコレートのように崩れていた。
「……こほん、まあ、借りを返すと言ったのですから、仕方がありませんね」
咳払いし、平時の姿勢を取り繕うエステルだが、未だ微妙に頬の筋肉が歓喜に象っていた。
「話は決まりましたね。では私服に着替えてくれますか?」
してやったりと万歳しながらも、エステルが一瞬で表情が硬直するのを見る。
無理も無い、月人が唯一の滞在できる居住区は、無粋な地球人から逃れられるある一種のシェルターとも言える。
わざわざそこから足を踏み出すというのは、彼女にとっては何の道具も持たずに偏狭の砂漠を彷徨うのと同意義だろう。
「……という事は、居住区の外に行くということでしょうか?」
「安心してください、地元の者でも滅多に知る人が少ない隠れ道を案内しますから」
「別に今は知る必要などありませんから、知る必要などありません」
言葉の裏に現状での心情を滲ませつつ、否定するエステル。
それを見て、達哉は彼女の急激な地球人の風当たりの緩和に、興味が沸いてきたが無粋に、尋ねるような無神経さは持ち合わせていなかった。
「あ、そうそう。私の家には、同姓の妹がいるのでできれば下の名で呼んでくれますか?」
朝霧と呼ばれれば、麻衣と一緒に反応されそうな気がしたので、達哉は事前に予防策を張らせておく。
「下の名は、確か達哉と言いましたね。では着替えてきますので、少々待ってください達哉」
達哉の名を呼び、踵を返そうとするエステル。そんな時だった。
「ん?」
ふと視界の脇に、白いスカートの裾が礼拝堂の隅で靡いていた。
顔見知りの着ていた衣装だと思い出し、何気に達哉はそちらに近づく。
「達哉、どこに行くのですか」
「いや、ちょっと知り合いが居た気がするので」
非礼を詫びつつ、礼拝堂の脇へと向かう達哉。するとそこには白いネコの背を撫でる一人の少女が映った。間違うことなく、リースである。
「……タツヤ?」
足音に反応して、リースが静かに視線を達哉に向ける。
「やっぱりリースか、どうしたんだこんな所で」
「その質問に答える義務は無い」
「いや、答えてもらわないと、こっちが困るんだが」
少し困惑気味に首を曲げると、背後からエステルが近づく気配があった。
「リース、またあなた猫を礼拝堂にまで連れてきて、高司祭様に叱られてもしりませんよ」
「モーリッツからは別に構わないと言われた」
「モーリッツ様ったら、まったく!」
予想外の言葉にエステルは、頭の中のモーリッツを叱責するように、唇を歯で食いしばりぶつぶつと悪態を呟き始める。時折『お好きな好物を三日間抜きにして差し上げましょうか』などと、耳ざとく聞こえてくる。
と、一通り観察し終えた達哉は、ようやく自分の質問を切り出す。
「ところでリース、どうして君が居住区にいるんだ?」
「私も一応、月人だから」
「そう言われてみれば……リースだもんな」
遅かれ納得した説明に、達哉はああと頷いて頭を掻いた。
フィーナやリースなどの名は、この地方では滅多に聞かない人名であり、まず想像するべきは月関係者……すなわち月人居住区の人間だった。完全にその想定すら考えていなかった。
「これは達哉さん、リースとはお知り合いなので?」
背後からの声に振り返ると、モーリッツが眉間に怪訝のしわを寄せていた。
「はい。たまにですけれど、私が働いている店で夕食を食べています」
「リース、あなた時折夕飯を抜いて帰ってくる時があったけれど、それはこういうことだったのね」
「別に話す理由も無い」
「そういう意味ではないでしょう? ねえリース」
名を関する花のように、純潔で清らかな心を持つ聖女を思わせるような笑み。だが瞳の奥からは貫かれた挙句、その場で硬直する威力を保った、視線という名の槍が向けられた。ついでに額に青筋が立て始めている。
が、リースは我知らずとばかりに、足元のネコをもう一度撫でると、踵を返す。
「リース、もうどこかへ行くのか?」
モーリッツが今後の予定も兼ねてか、彼女の背に問いかける。
「……タツヤ、いずれ分かる」
意味深な台詞が背後越しに、モーリッツではなく達哉に向けられていた。


一路、月居住区からぶつくさ文句を垂れ続けるエステルを連れ出してから、一歩一歩と足取りが鉛のように重くなっていき、鉄面皮になりつつ、言葉数が少なくなる彼女を隠れ道に案内し、達哉は商店街へとやって来ていた。
「ここが地球の商店街ですか」
初めて目の当たりにする地球の街を、周囲に神経を尖らせつつ、エステルは感情を少々閉ざしながら無味な感想を述べた。彼女一人だけがその場に浮いていると、表情が語っている。まるで他所から借りてきた猫のようだ。
その横顔を一瞬、盗み見しつつ達哉は内心冷や汗をかいていた。
やはり突然彼女を未訪の地に連れ出すのは、時期尚早だっただろうか。
だが、彼女が借りを返すと言ったあの時、思いついたのはこれだけだった。
これは常に達哉自身、大勢は無理だが少なくても目の前にいる人にだけは、地球の良さを理解して欲しいし、また全てが悪い物だと誤解してほしくない、自身の気持ちからきていた。
とはいえ金属が擦りあう不協和音に、半ば背筋が凍えていると、
「よおタっちゃん、また新妻を連れてきたんかい?」
タイミングを見計らったように、誤解極まりない発言をするんだ、この人は!
声が振ったほうへ首をめげると、麻衣がいつもご贔屓にする八百屋の主人が、さっぱりとしたニヤケ笑いを浮かべていた。
ちなみに新妻というのは、確実にエステルの事だろう。
当の本人は状況について凝れず、くるりと目を丸くしていた。
「こらアンタ、それはセクハラ発言だって、まだ分かんないのかい」
隣にいる奥さんが、彼の頭部を強烈な張り手を叩きつけて、沈黙させた。
よほどの威力なのだろう、地面に伏せたっきり、微動だしない。
「済まないねえ、この人はいつも馬鹿なこと言うんだよ」
「えと、その、いえ、そのお気になさらず」
「あ、そうそうもし良かったら、これを持っていきな」
「はぁ……」
差し出された大きく膨れた袋を手に取り、エステルは曖昧に頷く。
次いで、徐に中身を覗くと、アスパラガスやトマトなど圧倒的な野菜の量に驚いた。
「こんなに沢山、とてもではないですが頂けません」
「いいんだよ、迷惑をかけたついでだし、月人さんにも地球の味を知ってもらいたいからねえ」
途端、感情の温もりが氷結したように、よく注意しないと確認できないほど、冷淡で端整な顔立ちになる。
が、八百屋の女性は目にも止まらないとばかりに、言葉を重ねる。
「まあ向こうの人もいろいろとあるだろうけど、地球だろうが月だろうが考えていちゃあ、おいしくないからねえ」
「美味しくない?」
唐突に理解の範疇に無い例えを言われて、幾分かエステルは表情を崩す。
「だってそうじゃないか。大体、食べ物っていうのは食べてもらう人のことを第一に考えて、作っているんだよ。だからいちいち月人だとか、地球人だとか、区分けするのは面倒くさいだもの」
「……なるほど、神の教えにも通じるものがありますね」
「おや、あんた聖職者さんなのかい、ありがたや、ありがたや」
何か間違った知識を保有しているのか、徐に手を拝み始めた八百屋の奥さんに、エステルがどう突っ込めばいいか困惑げに達哉に視線で助けを求めていた。
仕方がないとばかりに、達哉は行為を中断させようと、口を開いた。


ここが私の家ですと告げようとした声が、真イタリアンズの百花繚乱の雄叫びによって遮られた。近づいてみるとエステルを歓迎するとばかりに全力全快ではしゃぎ回り、尾を振らせている。まるでリースと姉さん並だなと達哉は思った。
「ああっ、神よ私はあなたに感謝します……」
うっとりと陶酔したエステルの視線が犬達に固定され、居ても立ってもいられように、速攻で飛び掛ろうとして達哉の存在を忘れていた事に硬直し、咳をしながら少々恥じ入って赤くなった頬と目を達哉に向けた。
「少し席を外しますので、待っていてください」
何をしたいのか理解していた達哉は断りを入れ、トラットリア左門へ足を運ぶ。
「ああ、すいません今日は開いて……なんだ達哉か」
顔を見合わせたなり、ぞんざいに扱う私服姿の菜月に、憮然となる達哉。
「悪かったな、なんだでさ。せっかく客を連れてきたのに」
「ちょっと待って、今日は水曜日だから空かないわよ」
「まあいろいろとあってさ、ある人に地球の味を知ってもらいたいんだ。だからおやっさんに訊ねたいことがあるけど、いいか?」
「別に構わないけど、相手はひょっとして月人?」
会話の中にある単語に気づいたらしく、興味心丸見えで聞く菜月。
「なるほどねえ、達哉君はゴスロリだけじゃなくて、ツンデレ属性にまで、守備範囲が広いねー」
「別に広げようとして……って何気に仁さん、情報を仕入れているんですか」
いつ頃から存在したか知らない仁に、呆れつつ達哉は尋ねる。
「知らなかったのかい? すでにご近所では達哉君がすっごく美人な司祭様を自宅にまで連れ込んでいるという情報が全店舗に伝わっているんだってこと」
恐るべきは町内会のネットワーク、正確さも情報伝達の速度も桁外れだ。
そもそもこちらに来て、僅か半刻にも満たないのが更に恐怖に拍車をかけた。
「で、三つのうち、どこまで行ったんだい?」
飄々と仁が達哉の肩に乗っかっては、耳元に破廉恥極まりないことを聞いてくる。
「べ、別に俺はエステルさんとは何もないですってば」
耳朶が急激に熱くなるのを感じながら、達哉は手をばたつかせて否定した。
途端にニヤケ顔になる仁。つーと達哉の胸の内で冷や汗が流れた。
「ほほー、エステルさんねえ。きっと我が妹とは正反対……」
地雷を踏んだ途端、しゃもじによって鎮静化され、地面へ顔面強打する仁。
「全く、兄さんったらそんな所で寝ていたら、邪魔でしょ」
それどころか足首を掴んでは、引きずっていく始末。いと哀れな。
「これはなかなか悪くない……」
「ってリース、いつの間にいたんだ」
視線を降ろすと、虚無の空気を纏いながらリースが椅子に座って、ディナー一式んの食事を黙々と口に運ばせていた。恐らくは感想を聞きたいがために、仁が作った料理を試食中のようだ。
「その質問には答えない」
「いや、だからこっちが困ってるんだってば。というか今から食べて、夕食はどうするんだ。それだけの量、すぐには消化できないだろう」
「……間食と夕食は別腹」
暢気に戦場へと遊びに行くように、さらりと豪語するリース。
本気で思う。君の腹は、宇宙か銀河で形成しているのか?
さすがのこれに達哉は呆れ返って、首を突っ伏してうな垂れた。


「ん?」
込み入った用件を左門に提案してみたところ案の定、彼は快く了承したことに満足しつつ、自宅の門へ戻ってみると無邪気に笑う声たちが聞こえてきた。
心の底から弾んだ歓喜のそれに釣られて、彼はそちらを覗く。
「も、もうあなたたちったら、順番ずつだと言ったでしょう。こらそんなに頬を舐めないでっ」
イタリアンズのが構成している輪の中で、エステルが常の堅苦しい司祭の仮面をはずし、童心に返ったように微笑み、甘い言葉を口ずさむ。一瞬、あまりのギャップに言語中枢すら麻痺してしまう。
……ふと、エステルと目の視線が重なった。
「あっ……」
あられない姿を晒した自身を恥じ入るように、見繕いをしだすエステル。
「こ、こほん、帰ってきたのなら、帰ってきたと仰ってください」
「え、ああ、すいません。正直に言って司祭様が、そこまで犬好きだと知らなかったもので」
どう切り返せば分からず、達哉は茫然した面持ちで後頭部を掻く。
「くぅん……」
と、まるでこの時を狙い澄ましたばかりに、足元にいるアラビアータが潤んだ瞳を差し向け、まるでエステル自身を構成する謹直さを溶かすように心の舌を舐めている感覚がした。
「うっ、くっ」
無邪気だからこそ厄介な攻撃に、エステルは深々と顔を俯き、低く唸る。
彼女は己の魂と必死に葛藤している。などと達哉が考え込むと、凛とした声が聞こえてきた。
「あら達哉、今帰ってきたのかしら?」
「お兄ちゃん、ただいま」
「おかえりフィーナ、麻衣。ついさっき帰ってきたばかりだ」
振り返りながら言葉を返すと、同じ制服姿の麻衣と闊歩していた足を止めていた。
その手には、牛肉、ネギ、玉ねぎに春菊やすき焼きのタレなどが、近所のスーパのビニール袋から頭を覗かせている。どう観察しても夕飯はすき焼きでしかない。
それを見て達哉は内心、間の悪すぎる自分に憤然の勢いを持って殴り貶したいくらいの、自己嫌悪に駆られた。馬鹿ばっかだ。
「ところで麻衣、もしかして今日はすき焼きなのか?」
「うん。そろそろ夏も本番だから、今からスタミナつけようと思って」
「……やっぱり、おやっさんに断りを入れてこよう」
「? どうかしたのお兄ちゃん。それにその人、誰?」
事情を知らない麻衣が隣の女性に目線を向ける。
ああと達哉は頷いて、未だ硬直中のエステルへ向き直る。
「司祭様、司祭様、気をしっかりしてください」
不快にならない程度に音量を上げて、彼女の意識を取り戻そうとする。
「す、すいません。私としたことがつい……」
「始めまして、司祭様」
「フィ、フィーナ様!?」
素っ頓狂に絶叫しながら、大気圏外にまで吹き飛びそうなほど、エステルは飛び上がる。
「こ、このたびはお日柄がよく、ご健勝で……」
「悪いのだけれど今はもう夜よ。それに今日は曇りなのだから」
「あぅ……」
全身硬直して、二の次の言葉の穂を紡ぐのに難儀するエステルと、悠然な面持ちで待ち続けるフィーナを見やりながら、達哉は麻衣の元にまで近寄って、説明をし始めた。
「あの人はエステル・フリージアさん。最近、居住区の礼拝堂に派遣された人なんだ。で、今日は地球の文化を知ってもらうために、無理にでも家に来てもらったんだよ」
「それじゃあ、エステルさんはモーリッツさんの後任になっちゃうの?」
「さあ、どうだろう」
「はい?」
正直な事情を説明すべきか考え、少し事実を曲解して言うことにした。
「実は彼女、地球のことが少し苦手でさ、今後はどうなるか分からないんだ」
遠い言い回しに麻衣は気づかずに、そっかと呟いた。
「ということは今日の夕飯、左門で食事だね」
「いや、すき焼きだって十二分に地球文化だから、いいんじゃないか。おやっさんには俺から伝えておくよ」
「じゃあ早く夕飯を作らないと、フィーナさんがお腹空かしちゃって、成敗されちゃうから」
「麻衣、私はそのようなことはしないわ」
少々、憮然の面持ちで否定するフィーナ。
あははと麻衣は笑いながら、遁走するように家に駆ける。
「ったく麻衣は、すまないフィーナ」
「別にいいのよ達哉。もう慣れたもの」
「達哉」
突如として硬化したエステルの声が、割り込んできた。
達哉はその理由に思い当たりがありすぎて、頭痛に悩んだ。
「いくらホームステイ先の方でも、フィーナ様に不躾な言動を控えたほうがよろしいと思いますが」
想像していた通りの決まり文句に、やっぱりかと達哉は頭を抱えた。
だがその直後、フィーナが自分を加護するように口を開く。
「司祭様、このように接するのは家族として取り扱うように願ったのは、私なのです。ですから達哉を責めるのは止めていただけますか」
「ですがフィーナ様……」
なおも食い留まろうとするエステル。だが不意にかぶりを振った。
「分かりました。モーリッツ様やフィーナ様が、そこまで仰るのならば達哉、彼方を今回から特別扱いをさせてもらいます」
「はぁ……」
「なんですか、その気の抜けた返事は」
「すいません……」
正直、唐突な心境の変化に対応できないと思ったが、口にはできなかった。
心底ペースが乱されるのかエステルの視線が少々、鋭利に尖らされる。
「それよりも二人とも、まずは靴を脱いで上がりましょう。話はそれからに」
「悪いけど二人は先に行ってて。俺、おやっさんに話があるから」
「分かったわ。先に上がっているわね」
振り返った背後からエステルが、地球のこの地方の仕来りに質問する声を聞きながら、地球に来訪した直後のフィーナとミアの思い出を達哉は回想していた。


リビングに通されたエステルは、憧れのフィーナ姫に勧められるまま、ソファーの上に緊張しながら座り込む。その際に、月や礼拝堂の建物の趣が違う、気分を程よく落ち着かせるような造りに関心がいっていた。
「始めまして私、朝霧麻衣と言って達哉の妹をしていています、麻衣って呼んでください」
床のクッションに座りながら、麻衣が笑みで挨拶し、こちらも笑みで返す。
「私はフィーナ・ファム・アーシュライト」
「それはご存知です」
「でもきちんと挨拶するのは、当然のことではなくて?」
理事騒然の返しを受けて、返す言葉も無いエステル。
微妙にだが、想像していたフィーナの理想像にヒビが入る音が、聞こえてきた。
エステルは、彼女に対して日ごろから高貴という名の空気を常に纏い、淑女としてもはや他の追随を許さないほどに貫禄が入っている王女として、一月人として夢想していた。だが、こうして観察してみると、本当に一人の人間のように振舞っていることに、驚愕を貫いて困惑してしまう。
「どうかしましたか司祭様、何か言いたいことがあるのでしょう?」
「あ、いえ、その、なんと申しましょうか」
対応しかねている最中、緩和するようにミアがお盆の上に紅茶と、月人にとっては身近な食材で調理した、ポピュラーなクッキーを乗せてやって来た。
「お初にお目にかかります。わたしはフィーナ様のお付のメイドをしています、ミア・クレメンティスと申します。もしよろしければ、どうぞ」
そう言って、一同に提供されたお菓子に、麻衣が率直に疑問を口にする。
「ねえこれって一体、なんなの? クッキーみたいだけど、コーンフレークみたいなんだけど」
「これは月麦のクッキーと言いまして、月でだけで育つことができる穀物から作ったものです。麻衣さんたちには素朴な味で、なかなか口に合わないと思いますが、食べられますか?」
言葉を区切り、少し不安げに眉根を寄せるミア。
確かに始めて地球のクッキーを食した際に、妙に味気足りないような、口当たりがもの悲しいと、エステルも思い出していた。
「でも栄養価が非常に高いから、朝食の定番でよくジャムを添えたり、スープやホットミルクに浸したりして食べる工夫がされているから、やってみてはどうかしら」
「それじゃあ、やっぱりコーンフレークだ」
「それもそうね」
故郷の食べ物に郷愁を抱いたのか、フィーナの目が軽く閉じられる。
「それじゃあ私、ホットミルクを入れてこようかな。ねえ、ミアちゃん牛乳ってあるかな」
麻衣の言葉に数瞬、逡巡してから徐にミアは答えを出す。
「ええっと、和さんが飲んでいらっしゃる牛乳なら、残っていますが」
「じゃあ借りちゃおうっと」
「い、いいんですか? 無断で飲んだりしたら、どんな天罰が下ることか」
「大丈夫、大丈夫、今日はどうせ外泊するんだから」
「だといいのですけど……」
内心、疑念が払拭できないとばかりに、睫毛を曲げて沈黙するミア。
そんな彼女の懸念を知らないまま、冷蔵庫へ手をかける麻衣だった。
「あのフィーナ様、和というのは朝霧さんの兄の方でしょうか」
「まあ、司祭様は彼のことをご存知なのね」
「はい。先日教会のへと足を運ばれましたので、一通り挨拶をしました」
が、まさか地球に対する本心と、己の根源についての詰問をされた件については口を噤んでいた。だが同時に彼には感謝していた。本当の自分の思い出を思い出すきっかけを与えてくれたのだから。
「それにしても達哉は遅いわね。なにをしているのかしら」
達哉が帰宅するまで月麦クッキーを口にするのを躊躇うように、フィーナが壁越しの建物へと目線を向けたのと同時に、縁側の窓ガラスが開く音がした。
「お嬢さん始めまし、ぷぎゃ!」
颯爽とした一陣が室内に侵入して、何者かがエステルの手を掴もうとした矢先、赤い光線が後頭部へ必中。あえなく侵入者は悶絶する羽目になった。
「まったくもう兄さんったら、すいませんお邪魔しちゃって」
「仁さん、あれだけ言ったのにまた性懲りも無く」
言葉も無くあきれ返る菜月と達哉の声に、一同の視線が彼らに注がれた。
それに気づいた菜月が取り繕うように、こほんと咳払いする。
「あ、紹介が遅れました。私は隣のイタリア料理店のウエイトレスをしている、達哉の幼馴染の鷹見沢菜月です。で、」
一旦、説明を区切り、菜月はエステルの眼下で伸びている兄を睥睨する。
「生物とよんで、ナマモノと呼ぶコレの、かなーーり不祥ですが兄の仁です」
「は、はぁ……」
状況の理解に反応できず、有耶無耶のうちにエステルは頷く。
だが少なくとも、激しい突っ込み満載の兄妹だとは察知できた。
「少し混乱させてごめんなさいね、司祭様。でも、これがこの家では当たり前の景色なのよ」
微妙に受け入れていない声色の限り、彼女もまた納得していないのだろうか。
「じゃあ菜月、すまないが後をよろしくな」
「任せておいて。ほら兄さん、とっとと歩く」
「わ、我が妹よ、そう言いながらアイアンロックするのは、どうかと思うのだが」
などと奇怪なやり取りをした後、菜月が仁を引き取り、達哉が玄関を経由して、リビングに入ってきた。
「もうお兄ちゃん、少し遅すぎるよ」
「ごめん、仁さんがリースにお酒を入れすぎたケーキを食べさせたら彼女、返ろうとしてドアに頭をぶつけたから、遅れたんだ」
「ぶつけたって、リースは大丈夫なのですか?」
テーブル越しに身を乗り出すように、エステルは問う。
預かってそう日は経たないためか、未だに自分達には無愛想で、打ち解けていないものの共に寝泊りしている彼女を心配しているのが、エステルの声色から漏れていた。
「別に本人も大丈夫と言ってましたが……ところでエステルさん、不躾な質問ですがリースについて聞いてもいいですか?」
素直に納得がいかないように不審げな、それでいて不安を煽り立てるように、茫然と立ち尽くす達哉。そのことにエステルは言いようの無い不安感を覚える。
「リースなんですけど、実は二重人格だったりなど……」
「そんなことはありえません」
速攻と、達哉の質問を一丁両断に切り捨てるエステル。
何かと思えば、馬鹿馬鹿しいと視線を尖らせて、詰問する。
「大体なんの根拠もなしに、あの子を悪く言うのは止めていただけませんか」
「それは自分でも分かっています。ですが」
「ですがなんなのです?」
「あの時のリースはまるで『中身』というか、表と裏がひっくり返ったと言うべきか」
本人自身、どう説明すれば判別できず、思考の無限ループに陥ったらしく、腕を組ませて実物大の石像と化した。
沈滞するリビングの空間。誰も彼もが一言を口にするのに戸惑う。
「たらりたったらーん♪」
そんな最中、愉快に心を弾ませたハミングが台所から吹かれてきた。
一同が音の発生源を特定すると、現在調理中のものがよほどの出来なのか、麻衣が華奢な身体を左右に揺らしていた。
「まあ麻衣ったら、よほどおいしくできたのね」
「そうですね。あれほど楽しそうに歌っているのは、初めて聞きました」
が、ここに事実を把握する人物が、唯一一人だけ存在していた。
「デ、デスマーチ!?」
信管を抜いたはずの爆弾が、突如爆発する寸前の爆発処理班の壮絶な表情を浮かべるような達哉に、一同が怪訝そうに視線を注ぐ。何の変哲も無い、鼻歌のどこに危険が潜んでいるか理解できない。
「デスマーチ?」
聞きなれない言葉に、造語の一種かと思うエステル。
だが達哉は彼女の言葉が届いていない様子で、麻衣へ駆け寄った。
「麻衣、一体今回は何入れたんだ!? 酢か? 塩か?」
「酢、塩?」
牛乳にそんなものを混入できたのかと、ミアが小首を傾げる。
「……あ、片栗粉入れちゃった」
「「「片栗粉!?」」」


「ところでエステルさん、本当に大丈夫ですか、表情が幾分か悪いですけど」
毅然としつつもどこか疲れたように、濃紺の空の下で居住区への帰路についているエステルの顔を覗き見ながら達哉は問いかけた。
「あ・た・り・ま・え・で・す」
そんな達哉の言葉に一字一区、言葉を切らせつつ、向けられる剃刀のごとき視線に達哉はたじろぐ。
無理も無い。ほんの数日前まで平穏な月で過ごしていた生活が一変し、顔見知りがいるとはいえ、慣れない地球での暮らしは彼女に肉体的や精神的に疲労が蓄積し続けた上、侮蔑に似た感情を抱いていた地球人と言葉を交わしているのだから。
「フィーナ様もいらっしゃるし、地球人にあれほどもてなされるとは思いませんでしたし、地球人がたくさんいるし、もうなにがなんだか訳が分かりません」
「まあまあエステルさん、そんな可愛い反論したって駄目ですよ」
「そういう達哉の方が、一番の苦痛の種だと理解してますか?」
「ああ……はい」
自分でも理解しているとばかりに、苦笑しつつ達哉は頬を掻く。
「ですが、地球人が作った料理は悪いものではないでしょう?」
エステルの持っている、リースとモーリッツのために夕食を敷き詰められたタッパーの上に、持ち帰り用の袋に包まれたそれに視線を配らせ、達哉は微笑む。
途端に彼女はそれを後ろ手に回すが、昂揚する頬までは隠しきれない。
「味付けが濃かったとはいえ、確かに悪くはありませんでした。それにこのようなお土産をもらって、むしろ悪い気持ちでいっぱいです。本当になんと感謝すればいいのか、分かりません」
「大丈夫ですって。皆、お礼を言われたくてしていたわけではないので」
そんなことは分かっています。とエステルは釘を刺し、ふと疑念が過ぎったらしい。
「ところで食事中でもう一人、姉がいると仰っていましたがその方は今、どちらにいらっしゃるのでしょう」
対面したかったのか、彼女の瞳がもの残念そうに語っている。
「きっと今ならば、博物館で作業をしていると思います」
「博物館というと、礼拝堂に隣接している建物ですか?」
「はい。実は姉さんは、そこの館長をしているんです」
そこまで説明した後、達哉は今度催される出来事を思い出す。
「そういえば夏に『静寂の月光』の展覧会があるって、姉さん言っていたっけ」
「『静寂の月光』の展覧会? 私、そのような話を聞いたことがありません」
まぁ、居住区内に建設されている以外、あまり接点は無いからなと達哉は思い、ふと悪戯の意識が頭を過ぎった。同様にあそこの存在理由を知識などではなく、かの月の王女と女王の想いを知って欲しいという、気持ちがあった。
「ところでエステルさんはどうして、月人居住区が満弦ヶ崎にあると思いますか?」
「居住区がこの街に存在する理由、ですか?」
「はい、そうです」
達哉の言葉を受け、エステルは逡巡しながら考え出すこと数秒か、
「いいえ……分かりません」
眉を潜めても理由が思い至らず、彼女は断絶の思いとばかりに断念する。
それを達哉は冷笑でもなく、傲然とするでもなく、淡々と事実を述べ始めた。
「もしかしてと、フィーナ姫自身に聞いてみたところ、このように返してくれました。“あそこは母様が地球の方々が月人の文化を見て、月人への理解を深めてもらいたい”と。そして礼拝堂を博物館に隣接したのもまた、セフィリア様の指示だったようです」
「セフィリア様が!?」
心底、驚愕したのだろう。エステルが普段ならば慎ましく閉ざされている唇を、仰々しく開閉しては次に紡ぐ言葉を必死に探している。
親地球派であり、穏健派の筆頭としている彼女の一面を垣間見、文献などで載っていない歴史を目の当たりにして、様々な感情が彼女の身の内で駆け巡っている気がした。
「だって居住区を建設したいならば、こんな地球人が大勢住む場所を選ばないでしょうし、礼拝堂だって頑固な塀に守られた大使館の中に、存在すれば言いだけの話でしょう?」
言われてみればと、納得がいくようにエステルも重々しく頷く。
「だからこそ私達は文章だけでは語られない、想いの歴史を皆に伝えるために頑張りましょう。出来ることなら、私も一緒に手伝いますから」
そう言葉を区切り、達哉は手を差し出した。
「…………くすっ」
差し伸べられた手を見つめながら、なぜかエステルは笑い、やがて、
「はい、こちらこそよろしくお願いします」
そう言って、彼女は自分の手を握り締めた。
しっくりするほど柔らかくて、ほんのりと温かい感触。身と心が解けそうなくらいに甘美な匂い。半ば達哉は見惚れていた。


「そのことはもう存じていました」
全てを告白したカレンの返事は、予想以上に端的だった。
「はい?」
あれほど風邪に侵されたように脳髄に鈍痛が走るのと、胃潰瘍の激痛を必死に堪え、付け加えて昨晩は嫌な妄想ばかり思い描いて寝付けずにいたのに、この反応には言葉を失った。……ついでに眼鏡もずれ落ちる。
「どうしてさ、オレについての裏の行動をカレンはまったく知らないはずだろう」
「これを見て、多少なりとも想像がつきますから」
そう言ってカレンが鞄の中から取り出したのは、『宮川和の調査報告書』と記述され、数十枚も重ねられた紙束だった。だが、それだからこそ和にとっては不可解だった。自分の経歴などは子供の頃からは全て嘘偽りの無いものであり、不可解な点などないはずだから
和の疑問を氷解するように、カレンは丁寧に謎解きを解説しだす。
「この調査書によると、あなたは学校を数日間欠席していたことがあると書かれています。酷い時では一週間以上も、休学していたとか」
確かに紙を捲った記述場所に綿密に書かれた出席関連の情報にはそう書かれてある。致し方が無い事が起きていたとはいえ、学生の身分としては恥かしかった。
「だがそれだけでは、オレの正体を知ったとは言えないだろうに」
「無論証拠はありますよ。なぜならばあなたが学校を欠席した全ての同時期に地球上で勃発していた内戦や、紛争が急激に鎮圧化された時期でもありましたし、何よりも帰国した直後には骨折などをしていたとか。しかも理由が階段から転げ落ちたなど、ありきたりな説明でしたし」
「うっ……」
カレンの言うとおり、戦場へ行く際には必ずロストテクノロジーの結晶でもある強化防御装甲服を身に纏う和だが、さすがに戦車の大砲などを直撃されれば大怪我だってする。己の未熟からくる失態とはいえ、さすがにこればかりは隠しようが無い。
しかも一度や二度ならともかく、かなりの回数を繰り返しているのだから、ネタが尽きるのは必然だ。
「そして何よりも決定的なのが、月への留学の際に起きたテロリストの件です。事件が起きたのと鎮圧されたタイムラグがあまりにも早すぎました。しかもあの時、全ての爆弾の信管が全て抜き取られていましたし、それにあの時の和の態度にはあまりにも腑に落ちていませんでした」
「いや、もう良いよカレン」
それ以上は追求しないでと、和は目線を配らせ暗澹とため息を溢す。
もはや隠しようもなく、カレンは自分の行動を把握しているのだから。
「やっぱりやり過ぎにもほどがあったか。いくら安全の方が最優先でも、あれではな」
苦笑しつつ追想しても、あの時の自分は次の予想ができない極限の状況下の元でも、平静すぎるほど事態の収拾に努めて、しかもテロリストを捕縛していた。こんな事、たかが一介の、しかも地球人の学生では出来ない芸当だ。
その事に和は内心、鬱憤が溜まる。あの時奴が彼らを侮辱しなければ、もう少し穏便に済ませていたのに。お陰で当分の間、他の勢力の監視の目が厳しくて身動きが取れない状況下に置かれていたのだから。
「ですがお陰でこちらは助かりました。下手をすれば犯人もろとも私達も爆死していたのですから」
安堵するカレンの声色からしても、嘘偽りはないと和は確信する。
「しかしそれでも一つだけ解けない疑問があります」
だが穏やかな雰囲気を自ら粉砕するように、カレンは徐に言葉を紡いだ。
「……なぜ生人が死者の名を語っているかです」
唐突に詰問口調に変わり、カレンが纏う空気が険呑な物へ変貌する。
目は敵意に染まり、魂でさえも切り裂くような鋭利なナイフのように細まった。
「これは私だけが知っている情報ですが、十年ほど前にある学者の夫婦と一緒に発掘事故で死亡してしまった少年の名前が、宮川和だったそうです」
「…………」
「あなたは一体、なんなのですか?」
突きつけられた問いかけに和は内心、感嘆と苦笑がこみ上げてきた。
感嘆は、消失された情報を手に入れたカレンの驚異的な幸運。
苦笑は、どれだけ情報操作を行っても消去できない事実。
もはやカレンに対して隠し事は通用しない。逆に不審感を煽るだけだ。
いや、そんな理屈以前にパートナーに隠し事をしたくない。一人の人間として。
「これは明らかにオレの失態だな。すまないカレン」
カレンに向けて、深々と頭を垂れながら和は謝罪する。
そして己の出生について告白しなければと思い至った。
告げなければならない、自分の真名と果すべきだった責務を。
語らなければならない、なぜ生人が死人の名をしているか。
全ての発端、全ての元凶、全ての起源を今ここで晒そう。
「ならば言おう、さやかや達哉にさえ言わなかった我の全てを……」
そうして語り始めた内容は、カレンにとって驚愕の領域を超越する話だった。







15〜16話へ(まだ)

11〜12話へ。

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