夜明け前より瑠璃色な a Lovers of SKY

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第十五話「リースの記憶喪失体験!?(1)」


「うきょわぁーーー!」
清浄かつ、清廉なまどろみの中を彷徨っていた達哉の朝の日常を破ったのは、ミアの叫び声。以前、ががんぼに遭遇したのとは似て非なる、衝撃度の高い悲鳴だった。
「ミア!?」
長年と絶え間なく鍛錬を積み重ねた結果、不意な状況にも常に反応できるように鍛錬された達哉が、何事かと颯爽とベッドから降り立ち、玄関へと向かう。
「ミア、無事!?」
ミアの異変を聞きつけたフィーナも、常の優雅さを忘れ、不安の色を顔に出しながら、リビングから顔を覗かせた。
彼らの眼前、ホウキを玄関に落とし、家先の掃除をしようとしていたミアが、口元をわなわなさせつつ、振り返る。別段、身体に異常が無いのを見て、フィーナと達哉は安堵した。
「もう驚かさないでミア。何事か心配したでしょう」
「フィーナの言うとおりだよ、ミア。それで何があったんだい?」
「あ、あ、あの……人が、人が」
一向に要領を得ない言葉に、実際に見たほうがいいと直感し、肩越しに覗き見る。
――途端、脳内の血の気が引く音が聞こえた。
黒猫の耳を意匠した帽子、フリルを過多と言いたいほど装飾した運動率が低そうなゴシック服、白磁のように一切の汚れが付着していない肌、流れるような金の髪の毛、自分の半身に届くか届かないかの背の低い少女。それは間違いなく、
「リース!」
声帯を破壊するほどの絶叫をあげ、達哉は弾けるように彼女の元へ駆け寄る。
子供らしい華奢な身体を抱き上げ、仄かな体温を服越しに感じ取り、胸が上下に動作するのを見て安堵した。
「ミアちゃん、なにがあったの!」
「達哉君、一体なにが起きたの!?」
遅れて麻衣とさやかが、地響きを伴って階段から降りてくるが聞こえた。
「リ、リースちゃん!?」
「どうしてリースちゃんが家の前で!?」
驚愕に打ち震える麻衣とさやかを一瞥しつつも、毅然と達哉は言う。
「その話は後、今はリースの看護を優先的に。それとフィーナ」
「なにかしら、達哉」
達哉の言葉に反応して、顔を振り向くフィーナ。
「フィーナはリースの看病を頼む。後、ベッドはフィーナの部屋のを使わせてもらうよ、いい?」
「ええ、もちろんよ。先に行って用意するわ」
先行するようにフィーナが、自分の部屋へ戻っていく。
「ミア、姉さんの部屋に子供のころ使っていた服の場所分かるよね。そこからリースに体型に見合った服を取ってきて。それから麻衣はモーリッツさんに連絡、姉さんは医者に電話して」
「承知しました」
「モーリッツさんに連絡だね、分かったよ」
「すぐに連絡するから待っていて」
自分の伝令に阿吽の呼吸で皆が頷いて、各自が動き始める。
見届け終えると達哉はリースを抱き上げる。思った以上に体が軽い。
だが、それにしても気絶する以前に過剰な運動をしたのか、服全体に湿気が籠もっていて、身体は熱を帯びていた。
なぜこのような事がと疑念が浮かび上がる中、慎重かつ迅速に移動しつつ、達哉は胸の前で眠るリースの容態を懸念し、同様に彼女のために祈っていた。


「どうミア、エステルさん、リースの様子は」
先に麻衣が作った朝食を食べ終え、未だ昏睡の中にいるリースの看護の交代をするためにフィーナの部屋に入ってきた達哉。だが、二人の顔が芳しくないのと、リースが目覚めていないのが窺えて内心、落胆する。
「申し訳ありません、達哉。リースのために手厚く看護してもらえて」
感謝しきれない様子で、つい十数分前に朝霧家にやって来たエステルは言う。
心底、リースの身を案じていたのだろう。麻衣の連絡を受けて、身支度も適当に整えて来宅したらしく、常に丁寧に梳かされている髪は少し乱れており、タイツを履いていないのを初め、ソックスの色が対になっていなかった。
「フィーナ様のみならず、穂積さんや達哉にまでご迷惑をおかけして、本当にもうしわけありません」
「別に構いませんよ。リースは私達にとっては、妹のようなものですし」
丁重に謝罪するエステルを宥め、達哉は不意にぐぐもった声を枕元から聞いた。
「う、ううん……」
この場にいる一同が一瞬目を合わせ、リースへと視線を注視する。
閉じた瞼を小刻みに痙攣しながら、彼女はゆっくりとだが深緑の色の瞳を開いていった。無事に起き、意識したことに達哉たちは安堵した。
「リース、気が付いたのか」
「良かったです。あ、私、姫様たちを呼んできますね」
安堵の笑みを浮かびつつ、ミアは一同を呼びに部屋から辞した。
彼女の後姿を見つつ、リースがエステルを経由し、達哉へと顔を移動させた。
「……ここはどこ?」
周囲を警戒しながら、だが微妙に不安を吐露するようにリースが呟く。
明らかに日頃から、淡々とした言動をする彼女の仕草ではない。
落ち着きが無いように視線を周囲に這わせる挙動は、無理やり連れて来た挙句に一人残された子供のように、全身から不安と恐怖の気配が露に出していた。
不可解な挙動に達哉は眉を潜めながらも、順序良く尋ねていく。
「ここは俺の家。それでリース、身体のほうは大丈夫か?」
だが達哉の質問にリースは一向に答えず、むしろ路傍の石を蔑視するような、乾いた目線を向けてきた。
「……リース、それがワタシの名前?」
彼女の口から出た言葉に、一瞬で場の空気が停滞した。
「リ、リースリット、何の冗談を言っていますか」
頬を引きつらせてエステルの表情が、急激に青ざめていく。
「…………」
何があっても落ち着こうとしていた達哉も、半ば呆けてしまう。
よく小説やドラマで身内が突然、記憶喪失になってしまい周囲を騒然とさせる描写を目にするが、この時ばかりは理解してしまう。そもそも記憶を消失するということは、その人間の中には他人が存在していないということに、成りかねないのだから。例えそれが親類や親友、恋人同士であっても。
「話を戻すけれど君の名前はリースリット、俺達の家族だ。そして俺は朝霧達哉、リースからはいつもタツヤって呼ばれてる」
いつものように人懐っこい笑みを浮かべ、達哉はリースに事実を告げた。
「リースリット、タツヤ……家族、私の家族」
自分の過去に問いかけるように反芻しながら、思考の中を捻るリース。
「すぐに思い出さなくてもいいんだぞリース。ゆっくり記憶を取り戻していけばいいんだから」
彼女にとって利子滅裂な話をしてしまった失念に苦笑しながら、頭に手を置く。
数瞬、身を硬直するリース。だが危険が無いと察知したらしく、それからは成すがままに頭を撫でられ続けるのに、達哉は満足した。
「ところでリース。無理をしない程度でいいけれど、何か覚えていることはないか? どんな事でもいい、思い出してくれないか?」
「ワタシが覚えている事……」
達哉の疑問に懸命に記憶を辿ろうと、視線を宙へと踊らせ、
「……あっ」
やがてトンボの羽根音のような呟きが、小さな唇から漏れた。
「何か思い出したのかリース」
「うん。ええっと『ごめんリースリット。大切な君を傷つけるこんな愚かなオレを赦してくれ』って今にも鳴きそうな男の人の言葉を覚えてる」
「赦してくれ? なんだそれ」
リースの記憶喪失の原因と直結しずらい台詞に、疑惑的に達哉は首を傾げる。
ふとそこで、エステルが悄然とした面持ちで硬直していたのを思い出した。
「エステルさん」
「あ、はい、なんでしょうか」
声をかけられ、意識を取り戻すエステル。だが微妙に瞳の焦点が合わない。
「取り合えず、この話は皆の前で言うことにしましょう。全部はそこからと言うことで」
「そ、そうですね」
未だ動揺の激しさが抜け切れない様子で、鈍く追従するエステル。
その様子を見かねて、達哉は反射的に彼女の手を握り締めた。
「エステルさん。しっかりして下さい、例え記憶は失ってもリースはリースなんですから」
いきなり突拍子の無い言動に達哉は驚いていたが、エステルも驚愕の感情をラベンダー色の瞳に秘めつつ、自分と絡み合う視線が鎖で固定されたように外れない。奇怪な空間が誕生し、
「二人とも、なにをしているの?」
かけた所を平静なリースの突っ込みによって、破綻された。


昼食がてら、内々で今朝の緊急を要する出来事の件の情報交換をするために達哉、フィーナ、菜月、翠の四名は熱気を帯びる夏季でも、適度に温度と湿度が低く、なおかつ風当たりが良い屋上付近の付近にいた。
「えーーっ! リースちゃんが記憶喪失!?」
だというのに翠は長年、窃盗ですら起こらない平和だった街に凶悪事件の一方を聞きつけた警官のごとき、絶叫を迸った。あまりの衝撃らしく、好物であるはずの焼きそばパンでさえ、手元から零れ落ちそうになっていた。
「もう翠、そんな大声で叫ばないでってば!」
あまりの超絶反応に、隣にいた菜月が慌てて翠の口を塞ぐ。
かくゆう自分も聞いた直後は、同反応を示したはずであったのに関わらず。
「だ、だって遠山さんは普通、記憶喪失なんてお話にしか聞いたことがないんだから、仕方ないじゃない」
「まあその点は私も同意かな。それで達哉、リースちゃんは今どうしてる?」
「とりあえず今日は、エステルさんとミアが見てくれてる」
「ちょっと待って、病院には連れて行かなかったの」
至極当然の菜月の反論だが、フィーナはそこでかぶりを振った。
「ごめんなさい菜月。今回の件は少し特殊だから、病院には連れて行けれないのよ」
「あっちゃー、リースちゃんが月人だってこと忘れてた」
フィーナの説明に、菜月が額に手を当てて失念の言葉を漏らす。
月人が地球の病院に通うのは憲法上、倫理上、人道上は何ら支障無いものの、今回のリースが記憶を失った原因が究明できない現状では、下手に動くのは危険ともいえる。もしやすれば、双国の関係を悪化する懸念すら生まれかねない。
「ごめんなさい。居住区にその道の権威する医者がいれば話が別だけれど」
「いいの、いいの、フィーナが悪いわけじゃないから」
自分の責任のように謝罪するフィーナを、菜月は気負い過ぎないようにと気遣う。
「でもこのままの状態のままで、いるわけにはいかないよね?」
「だからこそ今、カレンに連絡を入れて、この件について協議してもらっているわ」
民の一人の安否を心底に憂う、月の王女として毅然とフィーナは語った。
「ねえ朝霧君。エステルさんって、最近月から来た司祭さんのこと?」
脇を突付かれて翠へ向き直ると、あり得ない名が彼女の口から零れた。
それに達哉は、一切共通点がない人物が知り合っていたことに、少し驚いていた。
「遠山、エステルさんを知っていたのか」
「ちょっといろいろとあってから、お知りおきになっちゃいまして」
「うーん……それって、もしかして悩み事とか?」
「ぎくっ」
図星だったらしい。上半身を捩った翠が頬をかき始める。
普段は明朗爽快で名と一緒に知られている彼女にしては、珍しい反応。
よほど込み入った事情があるのだと達哉は悟り、有耶無耶のうちに話を切った。
「でだ、そろそろ話を元に戻していいか?」
こほんと咳払いをして、場の空気を引き締めた達哉。
周囲が自分の元に意識が注がれるのを見計らって、用件を切り出す。
「そこで菜月と遠山に頼みがあるんだが、聞いてくれ」
菜月と翠の両名を名指しして、拝聴するように声色を硬化させた。
「二人には町内会や、クラスメイトからリースの情報を聞き出してほしいんだ。記憶を取り戻すには、多分そういった所を重点的に目にしたら何か思い出すかもしれないし」
「確かに理屈じゃあ、筋の通った話だよね」
「遠山さん的には、悪くない提案だと思うよ。それに大抵はそれで少し思い出すっていろんな件でも載ってたし」
易々と了承した二人に感謝しつつも、達哉はまだ安堵しきれずにいた。
「本当に頼む。リースが普段どこで何をしているかなんて、知らないから二人が頼りなんだ」
頼み込むように、申し訳ないばかりと達哉は手を合わせて懇願する。
だが遠山は腑に落ちないように、徐に挙手をしてきた。
「でも朝霧君、そういうことならエステルさんが知ってそうな気がするけど」
「それがエステルさんもリースが普段、どこで何をしているか知らないんだ」
「はえ? リースちゃんって小学校に行ってないの」
横目でフィーナを伺い、率直な質問を口にする。
「遠山さん、地球で編入したのは、実は私が始めてなのよ」
「そうだったんだ。私てっきり、さやかさんが月に留学したことがあるって聞いたから、こっちでもって思っていたのに」
意外とばかりに遠山は小首を傾げて、感嘆と唸った。
「母様もそうしたいというのだけれど、他の貴族が反対されて、今はしていないの」
さもならん。一国の王女が地球にホームステイ兼、留学に来ただけでも大騒動が勃発したのに、普通に月人が留学するのにも、意見や反論が巻き起こらないはずがない。
「というわけでだ。遠山、菜月、頼んだぞ」
「了解、任されたよ」
「この遠山さんに任せておきなさーい」
意気鷹揚と二人は頷き合って、次の時間からさっそく情報の収集を頼むことになった。


「こんばん……わ?」
夕方を過ぎ夜になった頃、リビングに集っていた朝霧家の面々を睥睨しつつ、彼女らへ直に報告するために大使館服のまま挨拶をしていたカレンがフィーナの現在の身なりを見た直後、瞬間冷凍して一切の動きを停止した。
「どうしましたカレ……フィ、フィーナ様なんていう格好を!?」
直後、カレンの後に続くように、今晩から朝霧家へ寝泊りすることになったエステルが、今のフィーナの姿格好を見て、素っ頓狂な悲鳴をあげた。
エステルが外泊する事の始まりはリースの身を朝霧家か、礼拝堂のどちらに置くか協議しかけた所で彼女の保護者であるモーリッツが、達哉を名指しして預かって欲しいとの旨を電話から受け取っていたことからだった。同時に介護役としてエステルも二日に一度の割合で、滞在することにもなっていた。
ちなみにエステルは和の部屋で寝泊りになり、連絡を受けた和自身も了承したために、全てが順調に運んでいた。むしろうまい事行き過ぎてフィーナ自身、得体の知れない不安に駆られる。
「ところでどうですか司祭様、今の私のこの姿は似合いますか」
「はい、常のドレス姿とは違った趣が……ではなく!」
釣られて微笑んでいたエステルの顔が、きりっと真剣みを帯びた。
「なぜフィーナ様が、ウエイトレス姿で、キッチンで、料理を、していらっしゃるのですか!?」
捲くし立てるように、だが区切りながらも、エステルは現実を否定したいような顔立ちで傍観していた。
そう、今のフィーナはトラットリア左門のウエイトレス姿で麻衣の指導の下、初めての中華料理を実践していたのだ。月の姫がコスプレをしながら料理をするのは、地球上のどの政治家や、月の貴族や王族でも卒倒したくなる状況であった。
彼女の言い分は理解できる。だが、こればかりは根源から修正できなかった。
以前、駅前に男装して遊びに行って以来、時折と無性に様々な衣服を着飾ってみたくなる衝動に駆られ、行動にでてしまっていた。だからこそ厄介だった、自分の普通からすれば『異端』であり、また自身にその趣味が『異常』だという常識を持っているがために。
「さやか、あなた一体なにをしたのかしら?」
「ちょ、ちょっといろいろとあって……ごめんなさい」
「別に責めているわけじゃ」
何かに気づいたらしく、カレンの目が冷淡に窄められた。
「そういえばフィーナ様に変装させたと報告があったのだけれど、もしかしてあなたまた何かしでかしたわね」
「ご、ごめんなさい。まさかこうなるなんて思わなかったの、信じて?」
策士、策の溺れるというのはこう言う事か。
カレンから放たれる異様な圧力の気配に、さやかが身を竦めて言い訳しだす。
「あのすいません司祭様。何度も止めようとしたのですが、聞いていただけなくて」
その隣では、己の罪業を白状するように、ミアが全身を縮めながら謝罪してきた。
彼女らの身も蓋も無い言動を、余さず観察していたフィーナは少し表情を硬化した。
「もう皆は、きちんと自分でも分かっているというのに」
「まあまあフィーナさん。あっ、そんなにしていたら焦げちゃうよ」
「いけない、忘れるところだったわ」
本日のメインディッシュの一品である、チャーハンを炒めている幾つもバンソウコが張られた手を動かしながら、本題へと切り出す。
「ところでカレン。リースの件なのだけれど、どうなったの?」
「その事ですが……ちなみに達哉君は今どちらに? それとリースの姿が見えませんが」
周囲を見渡すものの、達哉とリースが居ないことに気づくカレン。
いつも毅然としている彼女の風采だが、今はどこか居ないで欲しいような、雰囲気が漂っていた。
「達哉ならリースと一緒に散歩しているわ」
「そうですか」
なぜか彼らが滞在していない事に、カレンは胸を撫で下ろす。
そのことにフィーナは内心、不安が的中したことに暗い感慨を抱く。
「ならば彼には説明しなくてもよさそうですね」
「それってどういうことですか、カレンさん」
言葉の中に不穏な気配を察した麻衣が思わず尋ねだした。
ミアも同意見なのか、不安な様子で事の成り行きを見届けている。
静寂が支配しかけ焦れに転換する頃、カレンは冷淡に告げた。
「実はリースを月へ送還するべきではないかと、話が上がっているのです」
その一言に動いていた手を止め、麻衣が話を受け入れずに茫然と立ち竦む。
「そんな……リースちゃんを一人、月に帰らせるなんて酷いよ」
「あのカレン様、どうにかできないのですか?」
必死にリースを地球に留まらせようと、麻衣とミアが嘆願する。
彼女らも現実問題として、あの小さな少女の違和感に何か察していたらしい。
「…………」
言葉にはしないものの、エステルもまたカレンを注視していた。
だからこそ彼女らは気づいていない。メガネの奥の瞳に隠された懊悩の感情を。
「麻衣、ミア、司祭様、話は最後まで聞きましょう。カレン続けて」
気の早い全員にフィーナが押し留めるのを見て、カレンは一つ首を頷かせた。
「実のところ今回の件に関しまして、私は当分の間リースの身をこちらにおいておこうと思っています」
「期限はどれほどかしら」
「およそ一週間、それまでに記憶が戻らなければ月へと送還します」
一週間……その間にリースが記憶を取り戻すには、あまりにも短かった。
確かに状況が状況なだけに、致し方がないだろう。
「リースが一生、記憶を取り戻さないと言うのは、あってはならない事態です」
月の王女としてフィーナは、その意見を静かに首肯する。
「ですがだからといって、無理やり帰らすのもまた朝霧家や鷹見沢家、そしてモーリッツ様やエステルを悲しませるでしょう」
フィーナがちらりと全員を見ると、幾分か安堵の気配が濃くなっていた。
そうカレンは双方にとって、道理の通った提案を立てたのだ。
「ですので期日が過ぎてからは、私はあちらにこの件の解決するよう依頼しました」
「?」
フィーナはカレンの説明の中に含まれる、引っかかる部分に首をかしげた。
いつも来ている衣装の肌触りが微細に違うような、ささいな違和感。
だが聡明な彼女はすぐにそれを把握した、カレンは『本国』ではなく、『あちら』と言っていた。ならば一体どこへ?
「それでは私もそろそろ、お暇させていただきます」
通達を終えたとばかりにカレンが慇懃に一礼し、部屋を辞する。
「待ってカレン、今日は一緒に家で食べていかない? それにフィーナ様が作られる料理を食べたことがないでしょ」
「そうですよカレン様。フィーナ様の腕前をぜひ、味わってください」
フィーナ直々の手料理の単語に、ノブにかけた手が一瞬硬直する。
「……申し訳ありませんが先約があるので、これで失礼します」
まさに断腸の、それまた断腸の思いなのです。申し訳ありません。
と、全身から発散される雰囲気が包み隠さず物語っていた。
「と言っても、料理オンチのカレンには手伝えないけどね」
「……サヤカ?」
和の前以外では、滅多に表に出さないカレンの名の通りの笑みを浮かべる。
なのだが瞳の奥に憤然と燃え盛った激情は、ありありと窺えた。
事実を物語るように、ドアノブが指の形に食い込むほど、へこみ始めていた。
墓穴を掘ったなとフィーナは内心、苦笑した。まあ、人にも得意不得意があるもの……だとしたらほぼ完璧超人の和には、何か苦手な事があるのだろうか?
「サヤカ、あなたは本当に良き友人でした」
「カ、カレン、目がものすごくマジよ?」
深い谷底から響いてくるカレンの言葉に、壁際に身を引き始めるさやか。
「うわっ、カレンさんの言葉が過去形になっているよ。あれエステルさんどうしたの」
「いいえ昔、モーリッツ様の言っていたことを思い出したのです。子供の頃、カレン様が料理を作ろうとした矢先、紫色の煙が発生して礼拝堂の姉妹達を一瞬にして気絶した伝説を」
「だ、だから母様もカレン様が厨房に行こうとした時に、必死に押し留めていたのですね。理由がようやく分かりました」
「麻衣さん、エステル、ミア、何かいいました?」
強烈な眼光を今度は三人に向け、脅迫するような圧迫感を放つ。
それを眺めながら、フィーナは言わないほうが身のためだと、口を貝のように口を詰むんでいた。


一通り用事を済ませ……ついでにさやかへの報復を果せ、カレンは月人居住区へと至る河川敷の堤防を目に見える限り、光悦の表情で一人闊歩していた。遥か天上から差し込む淡い月の光が差し込み、カレンの影が道路へと長く伸びていく。
「ところで覗き見はそろそろ止めてくれませんか、和」
ふいにカレン虚空に忠告する声。傍からすれば奇矯な行動だと揶揄される行動。
「仕方が無いだろう、今のオレは出張中なんだからさ」
どこからか彼女に答える男性の声。道路の脇に植林された木々の闇から抜け落ちる様に、肩を竦めながらこの街に存在するはずがない和が姿を現す。
「ごめんなカレン。オレの顔に泥を塗らないようにいろいろと便宜してくれて」
心底謝罪する和の言葉に、唐突とカレンは不機嫌そうに眉を潜めた。
月に照らされる艶やかな黒髪を靡かせ、いささか冷徹な声色で抗議する。
「まったくその通りです。まさかリースが不法侵入したでさえ許せないのに、あなた方が事実を揉み消していたのですから」
ただでさえリースの密入国でさえ憤然やるかたないのに、証拠隠滅を事もあろうか和が成していたのだから。ましてや自分よりもあの少女を優先的に……などと空しい思案をカレンは打ち切った。
「すまん、ごめん、謝る。今度、翡翠屋の抹茶パフェとか何でも奢るから」
「まさか餌に釣られて、私が懐柔されるような女だと思いましたか?」
「……思わない」
「でしょう?」
断言の名の下に断罪される咎人である和を睥睨しつつ、カレンはふと悪戯の怪しい光をメガネ越しの双眸に宿し、口元に人差し指を当てて提案しだす。
「では今度のオフの時に私と一緒にデートでもしてもらいましょうか。もちろんそちら持ちで」
「了解した。全力を持って接待させてもらおう、覚悟しろよな」
「ええ、覚悟されるわ和」
厳かに肯定する和に、カレンは恋する少女と変わりない笑みを浮かべた。
達哉達がこの場に居合わせれば、氷雪のように硬直すること間違いない場面。
常に冷静沈着、私生活でも突付かれない限り四角四面な性格の彼女が、ここまで純情な乙女のように表情を和らげているのだから。
だが、さやかだけは知っているだろう。これこそがカレンの素顔であることを。
「こうして素で語るのは久しぶりだ。まったく演技していると肩が凝る、はぁーっ」
「そうでしょうか? あなたを見れば満更でもないですが」
くすくすと笑いを堪えきれずにいると、不服そうに和が目を細める。
「仕方が無いだろ、本当のオレは聖人君子じゃなく、こんなだらしが無い人間なんだぜ? ああやって格好付けなければ、兄としての威厳が立たないだろうに」
「別に威厳がなくとも、達哉君たちはあなたを兄だと認めるでしょうけど」
「まあ、それはそうなんだがな。まあ、何と言うべきか、まあ一人の大人な男として見栄を張りたいんだよ、オレは」
ふてくされるように膨れっ面を覗けさせる和に、柔らかく目を細めるカレン。
ひとしきり和やかな雰囲気な空気を愉しんだ後、自分から発散させる。
「さて、ところで本題に戻りましょうか和。リースの件ですが、本当に当人に会わなくてもいいのですか?」
途端に和らげな笑みを浮かべていた和の表情が、氷点下へと落ちていく。
全身に悄然とした翳りを漂わせ、彼は否定的にかぶりを振った。
「……今更顔を合わせてどうする。事情があったとはいえ、オレは彼女を傷つけた。こんなこと絶対に許されてはいけない」
「でも私がリースならば許します、絶対に。だってあの子はこの地にいる唯一のいも……」
「ああ、分かっている、分かっているさ本当は! その程度のことは!」
断言を引き金に癇癪を引き起こした和は、カレンの身体をきつく抱きしめる。
「本当は分かっているんだよ、リースは別に構わないって答えるのは。でも聞くのが怖いんだよオレは、もし予想が外れてあの子に許さないって思ったら、何にも考えられないんだよ!」
和は隠せない嗚咽をカレンの胸元で溢しながら、駄々っ子のように言い始める。
そこにいるのは屹然とした態度を取る達哉たちの兄でもなければ、幾数多の戦場を駆け巡り常勝を誇る白金の騎士でなく、一人の弱虫な子供が母親に我侭を言うように惨めな男だった。
今の彼は状況に苦悩し、四面楚歌の状態に煩悶する愚者でしかない。
だがカレンは判っていた。なぜここまで彼が追い詰められている理由が。
未来を創りだし、全てを守るために、十年前から前の過去を切り捨て、様々な人に裏切られ続けながらも、理想のために純粋な刃ごとき確固たる存在として居ようとしていた和が、ここまで魂まで軋みを上げさせているのは、他ならぬリースリットなのだから。
自ら離別した過去からの追っ手が無ければ、彼は遠くない未来に来るであろう限界まで純粋無垢たる戦士として健在し、あらゆる状況を的確に判断し、考案し、処理しているだろう。同時に達哉たちにとって、地球人としての兄として立派な責務を果していた。
全てを余さず汲み取っていたカレンは、言い聞かせるように言葉を綴る。
「でも和は理解しているでしょう。こうして抱き合っていられるのは、過去の事件から引き起こされたのは。でなければ私達は出逢う事は無かった。いいえ、例え会っていたとしても、すれ違うだけでしょう。いえ、むしろ敵対していたかもしれない」
抱擁しつつ和らげにカレンは語り、次に拒絶する。残酷にも。
「だからそれを否定するつもりですか? さやかや達哉君たちの出会いを、清浄たる蒼穹に入ったことを、私との付き合い全てを無にできますか」
一際大きくぴくんと脈動する和を抱きつつ、余さずカレンは心境を吐露する。
そして彼を許し、励まし、認めていた事柄を馴染ませるように言い聞かせてつつも、両手を和の胸元へ移動させては、辛辣に突き放すという拒絶の意を示す。
怜悧な目を尖らし、彼女は周囲の温度を低下させて彼女は告げる。
「だから、あなたは歩き続けなさい、己が出来うる職務を果すために。それが出来なければ私はあなたを忌み嫌います」
停滞する闇夜の空間、ふいにぷっと空気が抜ける音がした。
「……まったく、君らしいなカレン。お陰で吹き飛んだじゃないか」
懊悩していた表情が解れ、カレンの言葉に和は恭順の意思を示す。
「なら初めに出逢った時のお返しと思ってください。あの時は本当に赤面ものだったのだから」
「あー、それは自省してる。我ながらなんていう恥かしい台詞を吐いたかって」
「お陰さまで私はその日、深夜になっても寝付けられませんでしたし」
「うげっ。じゃあ余計に反省だな、そりゃ。つーか根に持つタイプなのかお前」
くすりと苦笑して、カレンはやはり彼には自傷や沈鬱といった翳のある表情は似合わないと改めて認識する。名が体を示すように彼の真名は元々、光が多くあることを示す名のだから。
「ですが、その際には私や達哉君たちも忘れないでくださいね。貴方は決して独りぼっちではないのだから」
「ああそうだな。オレには君や達哉たち、そしてフィーナ様たちがいる。だからこそ存分に役割に徹する事ができるしな」
「ええ」
元の活力に満ち溢れた双眸を眺め、カレンは常に純粋無垢たる……だが内部から徐々に崩壊し始める一本の剣と対なす鞘のように、彼と共に月と地球の繁栄のために働こうと改めて決意した。










十五話へ

第十六話「リースの記憶喪失体験!?(2)」

「リース、体調は大丈夫か?」
公園では無粋な明かりも無く、清浄な空気が漂っているためか、眼前に広がる星々と月が明瞭に見渡せる中、達哉は隣のリースの身を窺うように問いかける。
「うん。リースならぜんぜん大丈夫だよ。でもお兄ちゃんだって人の事、言えないんじゃない?」
「大丈夫だって。こう見ても俺は毎朝、この公園で練習しているんだから」
不調など知らないと言いたげに、達哉はその場で屈伸し始めた。
しかしリースはその仕草を見て、ぷーと不満そうに唇を尖らせた。
「ワタシが言いたいのは体の方じゃなくて心の方。無理におどけなくたっていいのに」
「……分かってたんだ」
「なんとなくだけれどね。でもフィーナお姉ちゃん達にはバレバレだと思うよ」
「まったく嘘は苦手だな、俺って」
そう言って達哉は無理やり浮かべていた笑みを止め、諦観してため息を溢した。
正直な感想、フィーナや麻衣達の前では気丈さを振舞っていたが、本心では記憶を失ったリースを常のように接するか不安だった。
それに達哉自身、彼女に対して微妙な違和感を抱いていた。なぜならば目の前の少女が、白い衣装を着ているのだから。しかも口調も明るく、朗らかになっている。
トドメに自分を「リース」と呼称し、フィーナたちの名前の語尾に「お姉ちゃん」と読んでいる。だからこそ性格の良く似通った、双子の妹ではないかと錯覚していた。
だからこそそれを払拭したいがため、こうして一緒に公園へ散歩に出掛けていた。
「ねえ、お兄ちゃんの知っている『ワタシ』って、どんな子だった?」
「ええと……」
眼下から覗き込む形で見つめるリースに、戸惑いつつ答え始める。
初めに出会った第一印象として、何かの機能を特化するために無駄な他を切り捨てたような子供で、今では自分達にとって大切な家族であり、日頃から武道家の無愛想な猫と一緒に遊んでいる、などとありのままの事実を。
「そっか。ワタシってそんなに気恥ずかしかったんだ」
開口一番、リースは傍から聞いても奇怪な感想を述べた。
説明の中に、類推できる点が皆無なために、思わず達哉は問い返す。
「なあリース、どうしてそんな風に思ったんだ? 俺にはまったく分からないんだが」
「もうお兄ちゃんったら、発想が貧弱だよね」
顔の前で指を振るリースの挙措に、達哉はやはり目の前のリースが実は双子の妹ではないかと訝しく思いながらも、話に耳を傾ける姿勢を取る。
「だってさやかお姉ちゃん達のことが嫌いだったら、これまで何度も顔合わせなんかしてないじゃない。それでも何かの理由に付け込んで遊びに行くって事は、ワタシも多少なりとも家族として扱われたかったってこと。でも口に出す事は自尊心で阻まれたから、わざと距離を離していたって考えたら、辻褄が合うでしょ?」
「……確かに」
非の打ち所が無い理論に納得する達哉。
でしょ? と満足げにリースは朗らかに笑い、ふと寂しげな微笑に移る。
手を背中越しに組み合わせては、自分の前を先導するように三歩先に進み、今宵の夜空を見上げる。どこか儚い幻想の世界の住人のように、今のリースの背中は寂しさに満ちていた。
「ねえお兄ちゃん。もしワタシの記憶が戻ったりしたら、ここにいるリースの思い出ってどうなるのかな? 全部、泡沫の夢のように消えちゃうのかな」
「リース……」
「ワタシ、今凄く怖いよ。こうして真近でお兄ちゃんと話している記憶が、全部無くなるのが。嫌だよ、こんなのって」
内心の不安を吐露しながら、リースの言葉の内には潤みが篭もっている。
そして自分の身体を両手で抱きしめて、この瞬間に自分が存在している感覚を必死に掴もうとしていた。握れば折れそうな華奢な手は、押さえ切れない恐怖で震えていた。
「…………」
懸念する理由が思い当たる達哉は、直立の姿勢を取りつつも戸惑う。
だがすぐに頭を振って、その意見を真っ直ぐに却下する。
「でもさリース、全部が全部失われるって誰が決めたんだ」
「え?」
虚を突かれた様にリースは唖然とした面持ちで達哉を注視する。
「もしかしたら今のリースの記憶が、元のリースにも引き継がれるかもしれないし、もしかしたら元のリースが今のリースのことを覚えているかもしれないんだ。だからそんなに悲観的な発想はどうかと思うぞ。それに今のリースのことは俺が覚えているから、そんなに悲しむな」
未来が予想できない以上、確固たる断言は出来ないし、したくなかった。
希望やら元気などと曖昧で、他人事のような言葉の投げかけは寧ろ、反故された瞬間に心の中に暗い空洞を作るだけなのだから。だからこそせめて、可能性の一つを示唆させることしか達哉には出来ない。
「お兄ちゃん……ぐすっ」
「な、なんか俺、何か仕出かしたか!?」
予備気配すらなく嗚咽を漏らし始めたリースに、達哉は半狂乱しかけながら宥めようと詰め寄る。同時に腹部に柔らか過ぎる衝撃が走った。
「ううん、嬉しかったんだ。お兄ちゃんがリースを覚えてくれるって言ったから。本当、大好きだよ達哉お兄ちゃん♪」
子犬のようにくるりと丸まった深緑の瞳には潤った水の塊を湛えつつ、少女の微笑みの中にそこはかとない扇情的な女性の笑みを浮かべつつ、破壊力抜群のバンカーバスターと言う名の言葉を炸裂させる。貴方はワタシを萌え死なせるつもりなのですか、リースリットさんや?
「ところでリース、あそこの自販機で何か飲まないか?」
だからなのか、達哉は半ば話を切るように、傍に設置してある自販機を指差した。
「じゃあリースは……あれにしようかな」
丁度喉が渇いていたらしく、何の疑問も持たずに「おしるこ」と明記された缶のボタンを押そうとするものの、僅かに背が足り無すぎず伸ばす手が虚無の空を撫でる。
「ほらリース、こうすれば届くだろ?」
少し苦笑しつつ達哉はリースの脇に手をやり、抱き上げた。
「ありがとうお兄ちゃん。えい」
軽やかな掛け声と共に、かこんと小気味良い音を立てて落ちてくる缶をリースが拾い、続けて達哉もカフェオレの缶を購入する。それから二人はベンチに座り、一時の休息を堪能することになった。
「うっ、くっ」
プルタブを開けて中身を飲むと、苦味に刺したではなく、甘さに刺されたように顔を顰めるリース。どうやら自分と同類で、甘い物は苦手のようだ。
仕方なく達哉は自分の飲み物と交換し、口につける……やはり甘いのは苦手だ。
だがそのような自分を他所に、リースはお花畑を無邪気に飛び回る妖精のような顔をいかなる理由をもってか、紅潮させる。
「ねえお兄ちゃん……」
「どうしたんだリース、顔が真っ赤だ。熱でも引いたのか?」
「そ、そうじゃないけど……」
告白すべきか、否か問答しながら、やがて意を決してリースは言う。
「それって間接キス、だよね?」
「ぶっ!!」
突飛な事実の突きつけに、達哉は口にしていた液体を盛大に拭かせた。
霧状となっては綺麗な放射線を描いて地面に吹き落ちる黒い液体。異様な光景を眺めながら身を横に逸らしては顰めるリース。
「わぁ、タツヤお兄ちゃん! ばばっちいよ!」
「げほげほ、何を言わせておくんだリース。元はと言えば、お前が悪いじゃないか」
諸悪の元凶であるリースの頭部を手とうで軽く叩く達哉。
「うみゅ」
可愛らしげな悲鳴を上げ、リースは叩かれた部分を手で覆い隠す。
「あーお兄ちゃんが暴力振った。もうリースお嫁にいけない〜」
「まだお嫁にいける年頃じゃないんだからさ、別にいいじゃないか」
「じゃあさやかお姉ちゃんたちに、リースが公園でお兄ちゃんにいろいろと誑かされたって言っちゃおう♪」
反論する達哉に追い討ちをかけるごとく、リースは最後通告を突きつける。
「……ご勘弁してください」
ベンチに額が衝突するほど平伏する達哉。同時に思い知った、自分は一生涯リースを始めてとした女性陣には敵わないのだと、特にさやかとエステルとこのリースには。多分、自分は女性に尻を敷かれるタイプなのかもしれない。
ふいに沈黙の霧が辺りに籠もる中、虫の鈴音と風の音だけが世界を包み込む。
やがてよく神経を尖らせないと聞こえない寝息が、頭上から降ってきた。
「リース?」
問いかけながら顔を上げると、リースは瞼を閉じて健やかな寝息を立てていた。
あまりのあどけなさに面食らい、突如の状態の変化に半ば追いついていけない。
「…………」
が、それも数瞬。突然リースの体が立ち上がり、達哉から離れるように一歩、二歩ほど進んでいく。まるで知らない人に触れるのが嫌で、遠ざかるように。
同時に彼女の気配があの時と同様に、入れ替わっていたことも感じ取っていた。
「やはり地球の風は、良いものだ」
知的で穏やかな風貌を思わせるように呟き、彼女が振り返る。
「!?」
あまりの豹変に達哉は言葉を喪失した。なぜならばリースの目が深緑のようなエメラルドではなく、ルビーのように燦然と輝く赤い色に染めあがっていたから。
「この場合は久しぶりと言うべきだろうな。タツヤ」
同一人物の喉から発せられたとは思えないほど、大人びた口調。だが、どこか空虚めいた雰囲気を纏いながら彼女は佇んでいた。
「君は……誰だ?」
確実に目の前の少女がリースではないと知りつつ、達哉は問う。
「私はフィアッカ、フィアッカ・マルグリッドだ」
「ちょ、ちょっと待ってくれ、フィアッカってあのフィアッカか? 『空の恋人』に出てくる月人の少女と、月の歴史に出てくるロストテクノロジーの乱用を止める伝説の人、なのか?」
「ふふふっ、知られすぎているのも少し考え物だな」
自分の逸話や伝承を言われ、苦笑するフィアッカ。少し困り果てている。
様々な文献を見たのと同様、地球の男の子と恋した少女と同じ風采だと知って、達哉は半ば感心する。がそれも束の間、疑問を一つ一つ氷解する必要があった。
「ところでいろいろと聞いてもいいですか、フィアッカさん?」
「フィアッカで構わない、私としてはそちらが好ましい。それと敬語は止めてくれ」
「分かったよフィアッカ。で、話だけれどリースはどうして記憶喪失になったんだ? あなたはその直前の記憶を持っていると思うけど」
自分の質問に予想しなかったのか、フィアッカが少々驚いたとばかり、瞳を見開かせる。だがすぐに平然さを取り戻す。
「直球だな、また。まず私のことを尋ねるのかと思ったのだが」
「じゃあ言ったら、答えてくれるか」
「……なるほど、確かに目をつけるだけはある」
知ったかの風に、フィアッカが達哉の背後にいる人物を眺めるように呟いた。
「すまない話を戻そう。なぜリースリットが記憶を失ったのだな」
「ああ、ってリースリットというのはリースの名前なのか?」
「そうだ、リースリット・ノエル。それがリースの本名だ。だが別に知らなくても構わないだろう? 家族なのだからな」
それについて達哉は首肯して認めた。
「そもそも長すぎる名前は呼びづらい。それは私も嫌だ」
「でもフィアッカはきちんと呼んでいるじゃないか」
「単なる私の趣味だ。本名を尊重するというな」
達哉はそれまた奇妙な趣味だなと、言葉に出さずに思った。
「それからリースリットを家族に加えた件だが、彼女に代わって感謝する。無論、以前のリースリットの事だがな」
言葉に嘘偽りが無いのだろう。フィアッカはリースの顔で微笑む。
その事に違和感を覚えつつ、達哉は謙遜するように頭を振った。
「感謝するなら姉さん達に言ってくれ。そもそもリースはあまり乗り気じゃなかったように見えたんだが」
「リースリットは喜びなどの感情の表し方を忘れているだけだ。あれでも結構喜んでいたよ。久しぶりの温かみの輪の中に入れてな」
その感想は、たまにだがリースの所作を見続けていた達哉にとって、意外でしかなかった。
「ところでフィアッカ、どうしてリースの心が分かるんだ」
「ある意味、私はリースリットと意識と心を同居しているようなものだからだ」
「同居……やっぱりロストテクノロジーを使ってなのか」
達哉の質問にフィアッカは包み隠さずに肯定した。
「こうなった理由は省くとして、話を戻そう。私がリースリットの記憶喪失になる直前の記憶を覚えているかどうかだが、確かに全て覚えている。いや、むしろあちらがそう処理をしたのだな」
「あちら……って?」
「聞いたことがあるだろう、『清浄たる蒼穹』だ」
『清浄たる蒼穹』と言われて思いつくのは、地球連邦政府が樹立するよりも、遥か以前から存在を漂わせていた謎の組織という噂だった。
現在では失われたロストテクノロジーを保有し、管理、生産しているほどの技術力を保有するとか。さらに一部では、その技術を様々な会社に提供しているらしい。
同時にその権力は絶大なもので、時の大統領ならず、全世界の軍隊の指令権を持ち、僅かでも金融系を弄ろうとすれば世界恐慌をもたらすほどの資金力も保有しているというらしい。
達哉が秘密結社らしきものの存在に驚愕するのと同時に、こんな小さな女の子に対して記憶を消すなどと、無差別な行動を取っていたことに憤りを覚えていた。
「そんな組織がどうしてリースを襲ったんだ?!」
思わずベンチから立ち上がると、達哉は憤怒を露にして叫ぶ。
そのような様子にフィアッカは冷静すぎるほど、次の言葉を発した。
「それは、リースリットのためだ」
「リースの……ため?」
彼女の言葉が理解できず、達哉は『清浄たる蒼穹』がリースを助けるために、リースを襲うなどと矛盾と破綻した行動に理解を難色していた。渦巻いていた激情が急に萎えていきだす。
「今回こちらに通達が行っていないのを見ると、完全にあちらの独断だろう」
「どうしてそれが分かるんだ」
「ある意味、私達と向こうは同盟を結んでいるからだよ」
それからフィアッカは様々な情報を達哉に伝える。『清浄たる蒼穹』は『静寂の月光』とは水面下で協定を結び合い、互いにロストテクノロジーの技術の提供をし合い、危険物であるものに関しては破壊したり、発掘途中で襲撃する敵などを防衛したりすることを。同時に『清浄たる蒼穹』を運営するのは地球でも有名な企業や派閥ばかりであり、地球連邦政府の多数の官僚たちが組織のメンバーでもあるともいう。
「なんなんだよそれ」
過度な知識を吸収できず、達哉は情報の整理しようとため息を溢す。
彼の行動に見咎めることもなくフィアッカは、一旦話を打ち切った。
「無理も無い、あちら側の人間の事情を知らない者にとっては、大きすぎる情報だからな」
「だとしたらリースも、そっち側の人間ってことか」
「無論そうなるな」
至極当然に返された際、達哉は虫の羽の音のような言葉を聞き取っていた。
『とはいえ、自覚していないがお前もこちら側の人間なのだが』と。
聞こえない振りをするには、どこか尾を引かれるが今回は見逃すことにしようと達哉は思った。そもそも今回はそんなことを聞くためではない。
「だが安心しろ、リースリットの記憶は恐らく一週間で取り戻すはずだ」
「本当なのか、それ」
「悪いがその手について右に出るものはいないぞ、私は」
達哉の疑問を含んだ視線に、フィアッカは答えるとふいに片眉を潜めた。
「もう少し話したかったが、時間だな。リースリットが目覚めようとしている」
実際、そうなのだろう。フィアッカの赤い双眸が緑へと変色し始めていた。
あまりのことに感銘を覚えつつ、気になる事を見逃すほどに一瞬、見惚れていた。
「あ、最後に聞きたいことが一つ。これまでの事をリースは覚えているのか?」
「多分お前と私が交わした会話は覚えていないだろう。どうやらそれも処理の内に入っているらしい。不本意だが、いつか近いうちにまた会おう」
「分かったよ。それじゃあ今度、機会があれば散歩してもいいかな」
「おいおい、この私にデートの誘いか? 一応、恋人がいた身分なのだが」
「だけど時には外の空気を吸うのも悪くないと思うけど」
「……気が向いたらな」
アヤツに似ているなとフィアッカは言い残し、ベンチに座りなおすと瞼を閉じる。
アヤツとはきっと、遥か昔に亡くなった青年のことなのだろう。
苦笑しているうちに徐々にリースの意識が戻ったのか緑の瞳が開いていく。……その時だった、彼女から腹から虫の声が響いてきたのが。
「えへへ、お腹空いちゃった」
ぺろりと可愛らしげな舌を出しつつ、紅潮の朱に顔を染めたリース。
そんな光景を見やりながら、達哉は微妙に安堵感を覚えていたのと、そろそろ戻らないと麻衣たちに怒られてしまう、危機感を抱いていた。まあ、どの道に帰るしかないのだが。







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