蛍の灯る花  + 2 +  +  +  +  +  + 

 

 

  2

 模試の結果が返ってきた。
 いいとも悪いとも形容詞をつけがたい、という顔をする母親が思い浮かんだ。
 まあこんなものだろう。自分に過剰な期待をするのも悲観をするのもよくないことだと思う。
 集団より個への意識が強い、学校に比べて塾は、ほたるにとってそれほど居心地の悪い場所ではなかった。
 少なくとも、本を読みながら罪悪感にさいなまれることがないのがいい。休み時間になっても一人で過ごす人が多いので楽ちんだった。
 ほたるは本を開く。
 図書館のように静寂が望めない分、没頭する危険性がなくて安心する。
 ほたるはのめりこみやすいタイプという自覚があるので、きちんと整理されているよりも、雑然として適当な雰囲気のほうがバランスが取りやすかった。
 新しくめくったページの上に、影が差した。

「結果、どうだった?」
 のぞきこんできたのは、淡いピンク色のカーディガンを羽織った、学校でも同じクラスの須加さんだった。
 教室内で孤立しがちなほたるを気遣ってくれる、面倒見のいい女の子だ。ほたるは頷く。
「可もなく不可もなくという感じ」
「ほんと? いいなー、私、落としちゃったよ」
 と言って、がくりと肩を落とす。
 そもそも須加さんは普段の成績がいいのでそんなに気にやむ必要はないように思うけれど、目指しているところが違うのなら、そんなふうに慰める意味はあまりないのかもしれない。
 ほたるの乏しい知識と経験をフル動員して、落ちこむ彼女を励ます言葉を考えていたら、いつのまにか須加さんはにっこりと笑みを浮かべていた。
 きちんと自分の中で気持ちの整理がつけられるなんてすごいなと感心すると、頭をなでられた。
 ……なんとなく、須加さんに対してほたるが思うことは、ほんの少しずれがあるような気がする。
 須加さんはそのまま、ほたるの毛先を指に巻きつけるようにして、遊び始めた。
 ろくに手入れをしていないほたるの髪は伸び放題で、きっと枝毛の宝庫に違いないけれど、それを探すのがまた楽しかったりするのかもしれない。
 ほたるはほたるで本の続きを楽しむことにした。
 次のページをめくると、ふわりと、空気を含んだ本の隙間から白いものが舞い出た。
 それは、ちょうど机の横を通りすぎようとした人の足元まで落ちていった。
 手首を返して拾い上げられる。はい、と机の上に置き直されるまでの動きが一連だったので、頭を下げる隙を見つけるのを忘れていた。
 机に置かれたのは一枚のティッシュだった。昨日もらったちょうちん花を押し花にするために挟んでおいたものだ。ほたるは慌てて本の間へとそれを戻した。
「真崎くん、一位おめでとう」
 ほたるのありがとうよりも先に、須加さんの声が響いた。
 ほたるの後方に目をやってから、男子生徒はゆっくりと微笑む。
「ありがとう」
 一瞬、爽やかな香りが舞ったような気がした。
 教室内締め切り冷房稼動中のはずなので、ほたるの気のせいかもしれない。
「今の人が一位?」
「そう。ちなみに校内じゃないよ、県で一位」
 それはすごい。
 声にしなくても伝わったのだろう。須加さんが誇らしげに胸を張った。
 その後も、県一くんはあちこちに爽やかな風を送りながら、教室の一番奥、窓際で休み時間になっても眠りの世界から帰ってこない人物のほうへと近づいて行った。
「あ、エジソンくんがいる。珍しい」
 エジソンくん。
 また変わった名前だなと思ったのが顔に出たのだろう。発明が趣味で、学校ではたった一人きりの科学部部員という肩書きから着想を得たあだ名らしい。なるほど。
 ほたるが素直に感心すると、須加さんは奇妙な顔をした。
「真崎くんもエジソンくんも隣のクラスなんだけど……ほんとに知らない?」
 ほたるは頷く。
 そもそも自分と同じクラスであっても全員知っているという自信が持てなかった。もう一学期も終わりに近づいているのに大変申し訳ないことだけれど。
「そうか。沢木さんは、あんまり関心があちこちに行かない人なんだね」
 そんなことはないと思うけど、須加さんが言うのならそうなのかもしれない。
 なぜなら、ほたるの指は、さっきから次のページをめくりたくてうずくのを必死に堪えていたから。
 ほたるの関心は本に、エジソンくんの関心は発明に。きっとそういうことなのだと思う。
 まだまだほたるの世界は須加さんや県一くんに比べれば狭くて、見えるものも聞こえるものも絶対的に量が足りていないのだろう。それがこの先もっと勉強したりすれば変わっていくものなのかどうかは、わからないけれど。
 休み時間中、県一くんは机に張りついた背中に何か話し続けていたようだけれど、結局エジソンくんが起き上がることは一度もなかった。




  * * *

 縁というものは案外雨雲あたりに乗って運ばれてくるようなものなのかもしれない。
 頬にぽたんと落ちてきては、ほたるの足の回転を速める。
 今朝は雲のない青空だったので、梅雨の中休みと勝手に決めつけていた。家まであと五分。なんとか持ちこたえてくれそうだ。
 ほたるはいつものように沢木さん家の生垣の前を通りかかった。
 この生垣はつつじでできていて、少し前には大ぶりのピンク色の花が咲きほこっていていた。
 小さい頃、そのうちの何個かを拝借して後ろから吸ってみたことがある。飴玉やチョコレートには負けるけれど、自分だけが知っている秘密の味はやけに甘かった。
 目の端を横切った庭の中に、この間はなかった物干し台が立っていて、大量のシーツが干されているのが見えた。
 ぽたんと頬にしずくが落ちてくる。
 これも何かの縁だろうか。ほたるは少しの間灰色の空を仰いでから、またその門をくぐった。

 呼び鈴を鳴らしても、この間と同じ反応が返ってきた。
 もしかしてという思いから、庭のほうにも声をかけてみたけれど庭から立ち上がる人影は見つけられなかった。
 ただ、縁側の窓が一つ、無用心にも半開きになっていて、ほたるの迷いを後押しするように、ゴロゴロと天が鳴り響いた。

 シーツの重量感は薄っぺらいくせにたいしたものだった。
 本より重いものを持つようにできていないほたるの腕は三回に分けてそれを運ばなければいけなかった。
 最後の一回、しずくを何度かまともに受けながらも軒下にセーフと滑りこんだそのとき。
 いつのまにか、縁側から地続きで繋がる畳の部屋に男の人が立っていた。
 Tシャツにスウェットパンツという今日も実にラフな格好だった。
 シーツの山の頂に乗っかるようにしたほたるの目線に合わせて、男の人はしゃがみこむ。
「この間の郵便屋さんか。今日は何を届けてくださったかな」
「ええと、……」
 ほたるは言い訳を考えた。
 雨が、シーツが、雷が。けれどもはや何を言っても無駄なような気がして。
「シーツをお届けに」
 そのままを言ったら、男の人はおなかを抱えて笑い始めた。
 ぽかんとして、ほたるはそれを見つめる。
 快活な笑い、と言ったらいいんだろうか。腹筋の限界に挑むような笑い方だった。
 この前も今日もとにかくよく笑う人だ。大人の男の人がここまで豪快に笑うところをほたるはちょっと見たことがなかった。
 ほたるの下に敷かれたシーツには深いしわが刻まれていった。滝のように降り注ぎ始めた雨が、無情な音を立てながらほたるの退路を絶っている。
 ひとしきり笑い終えた男の人は、薄く涙を浮かべながら言った。
「郵便屋さんには助けてもらってばかりいるな。今日のお駄賃はなんとしよう」
 とても嬉しそうに言われたので、いりませんという言葉がのどのあたりでつっかえる。
「そうさな、熱いお茶を一杯、で手を打たないか」
 そう言って、両手が差し出された。
 ずいぶんと大きな手だ。手のひらに年輪のように細かいしわが刻まれている。
 ほたるは恐る恐る、けれど、ぽんと手を打ち返した。
 瞬間、ぐっとつかまれ引っぱり上げられた。
 ほたるは、わっという悲鳴とともに思わずシーツの上に片膝をつく。
 びっくりしていると、してやったり顔が向けられた。
「靴をぬいで、上がっておいで」



 通されたのは居間だった。想像したとおりの畳張りだ。
 物が少ないせいか、部屋は広く天井は高く感じられる。
 よく見ると、目の前の丸いこたつ机にはたくさんの細かい傷がついていた。でもぴかぴかに磨かれていて、とても大事にされているのが伝わってくる。一目で年代物とわかる柱時計は、重たげな振り子を懸命に動かしていた。たったの一秒がやけに長く感じられる。
 きょろきょろとしていたほたるの手前に、ことんと湯のみが置かれた。
「粗茶ですが」
 湯気が立ちのぼる、なんともいいにおいがした。
 男の人はほたるの向かい側に腰を下ろした。男の人が口をつけるのを確認してから、ほたるも一口含んでみる。
「おいしい」
 思わず声にした。
 冷えていた身体に熱が染みこんでいく。
 外観に惑わされたけれど、中身はハーブティだった。のどから鼻にかけて、レモンのような甘酸っぱいにおいが抜ける。
「孫に秘伝の入れ方を教わってね」
 孫、という言い方がどこか誇らしげで胸に残った。
 目の前の人がおじいちゃんと呼ばれる姿はなんとなくしっくり来なくて不思議な感じがする。
 ほたるはこくこくと湯のみを傾ける。その様子を感慨深げに男の人が眺めていた。
「しかし、年頃のお嬢さんが簡単に男の家に上がるのを承諾するのは少し、感心しない」
 顔をしかめ、いきなり厳しい口調で責められたので、ほたるは思わず姿勢を正した。
「冗談だよ。怖い妻がいるから、ほたるさんがこの家に上がる分にはなんの不都合もないな」
 怒ったと思ったらもう笑っている。
 ほたるが不思議そうにしたのが顔に出たのだろう。男の人は話を続けた。
「ここらへんを担当する郵便屋さんは決まって優秀なのが伝統でね。ほたるさんのお母さんにはよくお世話になっているんだよ」
 まあうちの表札が見にくいのが一番の問題だが、と言いながらお茶をすする。どうやらあちらの中身は見た目どおりの日本茶らしい。
 大きくなったねぇと呟かれて、なんだか恥ずかしくなった。自分を一方的に知られているというのは、居心地が悪いものだ。
「ああそうか、自己紹介もまだだった。私は、沢木高義といいます」
「たかよし、さん?」
「そう。どうぞ末永くよろしく」
「奥さんは、沢木春乃さん?」
 とりあえず、ずっと気になっていたことを聞いてみた。
 高義さんは一瞬、とても優しそうな顔つきになった。
「そう、春乃さんだね。あちらの部屋にいるが、会ってみたいかい?」
 沢木春乃さん。きれいな字でつづられた、この高義さんの奥さん。いったいどんな人だろう。
 ほたるは頷いた。



 縁側を伝って角部屋へ。
 庭に接する一番奥の部屋が春乃さんの部屋のようだった。
「春乃、入るよ」
 障子越しにそう声をかけて、高義さんはゆっくりと戸を引いた。
 外の光を眩しそうに受け入れた。
 時間が止まってしまったように部屋の中は静かで、雨の音がやけに遠くのほうで鳴っている。
 部屋の半分を埋めてしまうほど大きなベッドが目に飛びこんできた。
 その上に横たわる小さな身体に、ほたるの足は自然と止まった。

 高義さんはベッドのそばまで寄っていって、春乃さんの肩に手をかけた。
 あんな大きな手で扱ったら壊れてしまうのではないだろうか。
 心配になってしまうほど細くて小さな肩だった。
 高義さんにうながされて春乃さんの顔がこちらに向く。
「沢木さんとこのほたるさんだ。大きくなったろう?」
 ほたるはその視線を気をつけの姿勢で受け止めた。
 ほたるにはどうしても、昔の春乃さんの姿を思い出すことができなかった。それをとても申し訳なく思う。
 痩せこけた頬はへこんで、雪のように真っ白な髪は房状に固まり、水分のつややかさを失っている。
 白い肌の上には所々に茶色の点が散っていた。これはなんだろう。ほたるの記憶の中にいる生き物のどれとも違っていた。
 目だけが黒く澄んでいて、ほたるの思ったことがすべて伝わってしまうような気がして、どきどきとした。けれど、春乃さんの口は動くことなく、開いたままで沈黙する。
 ほたるは少しずつベッドに近づいていった。その間にも、高義さんの手は忙しく動いて、春乃さんの寝巻きの前を整え、ウェットティッシュで口の周りをきれいにぬぐう。
 かすかに微笑みのようなものを浮かべた春乃さんを見て、とてもきれいな人だったんだろうなと思った。
 ベッドの柵に手をかけると、その冷たさに少し心が震えた。
 脇の戸棚の上、花瓶代わりにされたペットボトルの中に、白いちょうちん花が咲いている。
「あの」
 と、ほたるは声をかけた。
 反応したのは高義さんだけだったけれど、いちおうほたるは二人に向けたつもりで。
「しばらく、ここにいてもいいですか?」
 高義さんは驚いたように目を見張った。春乃さんに反応はない。
 雨の音が近づいてくる。少しずつ実感とともに、ほたるの背中をそっと押してくる。
「できれば、雨がやむまで」
 高義さんは開いたままの障子の向こう、庭先に目をやっていた。
 どうぞ、と、やがて穏やかな声が頭に落ちてきた。
 ほたるはほっとして、軽く頭を下げた。










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