蛍の灯る花  +  + 3 +  +  +  +  + 

 

 

  3

 理由というか言い訳というか、そういったものが、何かをするためには必要なんだと思っていた。
 ほたるが何かをするたびにどうしてと尋ねられることが多かったし、だからそのときのためにも明確な答えが必要なんだろうって。

 ほたるは門の影からそおっと庭をのぞいた。
 迷いこんだ手紙も、雨に降られたシーツも今日は持っていない。でも、いつものようにつつじの生垣の前を通りすぎることができなくて。
 理由は、なんとなく。今日の天気のように薄い雲がかかっていて、なんだかはっきりとしない感じ。
 高義さんはこの日も庭で何か作業をしていたようだった。
 この庭を造るためには相応の努力が必要で、注がれている愛情分だけ、ここの花はきれいに咲くのだろう。
 門のところで立ち止まっていたほたるを見つけると、高義さんは大げさなくらいにっこりと笑んだ。
「どこのお嬢さんかと思ったらほたるさんか。ちょっと休憩でもしていくかい」
 ほたるのささいな迷いごとはあっけなく晴れた。


 梅雨のじめじめとした空気がこの家の中には入りこんでこないようだった。
 この時期決まってほたるを悩ます原因不明の頭痛も、この家の古い木のにおいをかぐと不思議と落ち着くような気がする。
 ほたるが過剰に深呼吸をしていると、高義さんもくんくんと鼻をきかせた。
「もしかして、汗くさかったか?」
 焦ったように言って、今度は自分の腕のあたりをかぎ始める。
 ほたるもこっそりと鼻をきかせた。
 高義さんからは高義さんのにおいがする。雨と土と生活が混ざったようなにおい。
 それはこの家と同じで、ほたるにとって嫌なものではなかった。

 居間のこたつ机の上に、小さな本の山ができていた。
 上のほうには何やら難しそうな実用書、料理の本、庭の仕事を始める前に、というタイトルが並んでいて、下のほうにはほたるがよく読むような、図書館の棚で見かけるタイトルの本も何冊かあった。
 お茶を入れてもらっている間、ほたるはこっそり一番下にあった本を引き抜いてみた。
 海外の作品らしい、きれいな装丁だった。古いものなのか、ページのふちが日に焼けて変色している。
 そして、悪いクセが顔を出した。
 すっかり本の世界に入りこんでしまったほたるは、目の前に湯のみを置かれてもしばらく現実に戻ってくることができなかった。
 机の向こう側に呆れたように開かれている目を見つけて、慌ててほたるは本を閉じた。
「ほたるさんは本が好きか」
 高義さんの問いかけに、少し考えてから、はい、とほたるは小さく頷いた。
「それはいい、春乃も本が好きでね」
 特にそういうロマンチックなやつが、俺にはよくわからんが。と言いながら高義さんは苦笑した。口に含んだお茶の味と同じくらいのほろ苦さで。

 ぴぴぴっという電子音がした。
 高義さんがポケットから何かを取り出すのが見えた。
 タイマーだろうか、ボタンを押すと音は止まった。それから困ったように眉が寄った。
「ほたるさん、大変申し訳ない。お茶に誘ったのはこちらなのに、きちんとしたお構いができなくなったようだ」
「どうか、したんですか」
「いや、ちょっとした約束をな、すっかり忘れとった」
 よくわからなかったが、忙しいときにお邪魔してしまったらしい。
 ほたるが謝ろうとすると、いやこちらこそと高義さんは手を振った。

 ほたるの二度目のこんにちは、に、この前はほとんど動かなかった春乃さんがベッドの上で大きく身じろぎをした。
「うん、今日は風呂に入る約束だったな」
 そう言って、高義さんは春乃さんが座ることができるように、ベッドの背もたれの高さを調節した。
 ベットに付けられた机をスライドさせて春乃さんの足元のほうへと移動させる。ベッド脇の手すりも外した。
 おいで、という声とともに、春乃さんの身体が宙に浮いた。
 後ろではらはらしながら成り行きを見守っていたほたるのほうを向いて、春乃さんを両手に抱えたままの高義さんが肩をすくめた。
「ほたるさん、何度もすまないんだが、そこの箪笥の一番下を開けて、タオルと寝巻きのセットを取ってもらえるか」
 ほたるは言われるままに引出しを開けた。タオルは何枚必要なのかわからなかったので、大量に。
 片手で受け取ろうとした高義さんに首を振って、自分が運んでいく意志を伝えた。

 お風呂場の脱衣室にはあらかじめ椅子が用意されていて、春乃さんはそこに下ろされた。
 春乃さんの寝巻きのボタンが順番に高義さんの手で外されていく。
 横目で追いかけながら、ほたるは衣服を入れるカゴのそばにタオルを重ねて置くと、大急ぎでそこを出た。
 背後で、浴室の戸が開いて閉まる音がした。

 帰ったほうがいいんだろうな、ということはわかっていた。
 それでもなんとなくずるずると、居間でさっきの本を読むふりをしていたら、三十分くらい経ったあとだろうか、頭からふわふわと湯気を立ちのぼらせる二人が出てきた。
 ほたるがいることに気づいても特別に驚いたりはせずに、二人はそのまま春乃さんの部屋へと向かう。ほたるもそのあとについていった。

 高義さんはそっと春乃さんをベッドへと下ろした。
 春乃さんの白い肌はほんのりと赤く染まっていて、心なしか表情もやわらかくなっているように見える。
 高義さんは戸棚からドライヤーを取り出して、春乃さんの髪に当てた。
 高義さんの指が春乃さんの濡れた髪を梳いていく。
 ほたるは戸口のあたりに立ったまま、二人の様子を眺めていた。
 ドライヤーの強い風の間から、する、する、目を閉じると髪の毛が一本一本ほどけていく音が聞こえてきそうだ。
 家にも学校にも塾にも、こんなに静かな場所はない。
 降り出した雨を気配で感じるなんて、ほたるの人生の中ではじめての経験だった。

 帰り際に、よかったら、と差し出されたのは、ほたるがさっきまで読んでいた本だった。
「ほたるさんに読んでもらったほうが、本も春乃も喜ぶだろう」
 高義さんはそう言ってくれたけれど、春乃さんがどう思うのか本当のところはわからない。
 ほたるは少しためらって、でも結局は本を貸してもらうことにした。
 続きが気になって、という純粋な気持ちのほかにもう一つ、違う種類の気持ちがあることに気づいていた。
 自分は沢木さんの家にいる間ずっと、理由とか言い訳とかそういったものを探していたんだ。
 高義さんにはそれを見抜かれたのかもしれなかった。




 ほたるが小雨に降られながら家に帰ると、廊下で掃除機をかけていた節子に出くわした。
 節子は、昼間はパートの仕事に出かけているが、夜は基本的に家にいることが多い。
「今日は塾のない日でしょ? それにしては、遅かったわね」
 ほたるは手芸部で事実上の帰宅部扱いなので、放課後の時間は自由に使うことができた。
 ただほたるの場合、その使い道は一つ、塾に行く、だ。それ以外の、例えば友達と寄り道をしたりという可能性はほぼない。
 そういう節子の解釈は少なくとも、今日まで一度も外れたことがないくらいに正しかった。
「本、借りてきたから」
 あらそう、とほたるの足りない言葉に、図書館で、という意味を付け足して、節子は納得したようだった。
 夕ご飯の席には父親の姿がなかった。
 いつもの光景だったけれど、よく考えてみるとそのいつもが全部仕事のせいなのかどうかほたるは知らない。
 節子に聞いてみようかと思って、やめた。代わりに別のことを聞いた。
「あの、沢木さんてさ」
「沢木さん? て、どの沢木さん?」
 珍しくほたるから会話を切り出したので、驚いたように節子は聞き返した。
「三軒お隣の、庭がきれいな沢木さん」
「ああ、あの沢木さんね」
 節子は、奥歯で今夜の主役の唐揚げを噛みしめながら頷く。
「おじいさんとおばあさんの二人暮らし?」
「そうよ。あ、でも娘さんがいらしたんだっけな。一緒には暮らしてないみたいだけど」
 娘さん、とほたるは口の中で呟く。
 孫の話をしていた高義さんを思い出していた。それきり黙った娘に構わず、節子の話は先へと進む。
「大変よね。五、六年くらい前に奥さんが倒れられてからはご主人がずっと面倒をみていらっしゃるみたいだけど。最近は、ほとんど姿もお見かけしないし、寝たきりだって聞いてるわ」
「春乃さん?」
「そう、春乃さん。きれいな人だったのよ。ご主人のほうは仕事のできる方でね、もともとよく家を空けてらしたから、あんまりお会いしたことはないんだけど」
 たった三軒お隣の家の出来事が、節子が好んで見るテレビドラマのことのように遠く感じられた。
 節子の話す沢木さんと、自分の見た沢木さんをうまく重ねられない。
 娘の反応の薄さに節子はため息をもらした。
「ほたるは薄情ね、沢木さんの奥さんには小さい頃にはよく構ってもらったのに。庭からお花のおすそ分けもらったりして」
 かすかな記憶が、つつじの甘い味とともに浮かび上がってすぐに消えていった。
「でも、どうしてそんなこと聞くの?」
 もっともな疑問に、ほたるは言葉をつまらせた。
 一から順番に説明すればいいような気もしたし、言わないでおいたほうがいいような気もした。
「なんとなく」
 結局は理由になっていない答えになった。
 ふーん、とたぶんまた自分なりにほたるに意味を付け足して、節子はごちそうさまでした、と手を合わせた。
 空いた食器を流し台まで運んでいく母の後ろ姿を見送りながら、ほたるはなかなか減らない自分の皿の唐揚げに箸を伸ばした。










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