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 逃げちゃダメですか。

 社会科資料室と書かれたプレートは微妙な角度に曲がっていて。
 ノートで両手が塞がっていてドアノブが回せないからとか、やっぱりダメですか。

 そんなことを廊下のど真ん中で考えてたら、通りすがりの頭のてっぺんが淋しいベテラン数学教師が長年の勘を働かせて、ドアを開けてくれた。ナオの代わりに。
 背中を、押されて。
 例えば、サッカー部の河合くんとか委員長の市川さんとかベテラン数学教師とか。
「ありがとうございます」
 ナオはできるかぎりの丁寧なお辞儀をして、社会科資料室に入った。

 

 全体的にホコリっぽい。
 ナオはその有様に思わず顔をしかめた。
 古びた装丁の本が棚を埋め尽くしている。
 その本に囲まれるようにして、奥まったところに机とイスが一つずつ。
 そこに、いた。

 失礼しますって、敷居をまたぐ時に、ちゃんと声を掛けた。
 よね?と、ナオは自分自身に確認をとる。

「先生、あの、これどこに置けばいいですか?」

 しーん。

 反応なし、だった。
 背伸びして覗いてみると、何か、机の上で必死に戦ってる最中、みたいだった。

「あの……」 
「あ、ごめん。そこらへんに適当に置いといてくれればいいから」

 無視されてたわけではないみたい。振り返らないままの背中が答えた。

 そこらへんに適当に。
 ナオは部屋をぐるりと見回して、目ぼしい場所が先生の、作業している机のすぐ左隣。
 もうたくさん、他のクラスのノートが高い山を作っている、そのてっぺんぐらいにしかないことを確認した。
 かなりダメなほうの予感がしたけど、しょうがなかった。
 一歩、二歩、と部屋の奥に向かって足を踏み出した。

 だんだん先生の背中が近づいてくる。
 シュッシュッと、紙の上を赤ペンが走っていた。
 ときどき手を止めて、うーんって唸り声、眉間の少し上あたりにペン先を押し当てる。その繰り返し。
 ナオはできるだけ採点の邪魔にならないように、足音を忍ばせた。
 そっと、ノートの山のてっぺんに、クラスの提出用ノートを積み上げる。
 慎重に手を離したら、見事な一山が完成して、心の中だけで拍手した。

「町田、体調でも悪かったのかな……」
「はい?」

 突然名前を呼ばれて、ナオは反射で返事をした。
 先生は、目の前の答案から視線を動かさないまま、またぎゅうっと眉間の少し上あたりにペン先を押し当ててる。

(あ。先生、左利きだ)

 なんて、また心の中でだけ発見して、ナオはじいっと先生の背中を観察した。

 社会科教師。専門は世界史。ユリウス・カエサルが好きだとか何とか、この間の授業で言ってた。
 確か、今のところ担任しているクラスはなし。
 27歳。独身。血液型は知らない。でもたぶんB型。
 安藤春日で、あんどうかすが。
 女の子みたいな名前の先生は、赤ペンを持ってないほうの手を、机のすみのカップへと伸ばした。
 コーヒー、飲んだか飲んでないかで、口から離した。
 首を30度くらい左に傾けて、うーんって、小さく唸り声。
 利き手じゃないほうの手、つまり右手で、今、ちょうど完成させたノートの山の、そのてっぺんにカップを置いた。

 え。

 ナオは目をぱちくりとさせた。
 焦るとか呆れるとか、一気に通り越してしまった気持ち。
 ていうか先生。それってば無茶です。
 と、反応まったくなしの背中に向けて言った。
 ついでだったからちょっと前の疑問にも答えておいた。

「あと別に、どこも悪くなかったですよ」

 シュッシュッと軽快に紙の上を走っていた音が、突然コロコロと机の上を転がる音に変わった。
 まるで、スローモーションみたいに。
 背中が、ゆっくり、振り返った。

 先生の顔の、眉間の少し上あたりに、赤い小さな二重円があった。
 あ、赤ペンだ。よっぽど強めで押さえつけてたんだな。
 ってそれに気付いたらもう、我慢できなくて。ナオは小さく吹き出した。

「あ」

 どっちの呟きだったのか。警告にしては遅かった。もうぜんぜん遅かった。
 一瞬ぐらっと妖しげな動きをして。
 バランスを完全に失った、提出用ノートの山が、ナオに襲い掛かった。
 ナオはぎゅっと目をつむった。
 学校中に響き渡りそうな音をたてて、山が崩壊した。

 

 

(あ、れ?)

 いつまでたっても、来るはずの感覚は来なかった。

 ナオはずいぶん経ってから、恐る恐る目を開けた。
 すぐ隣にノートの土石流のあとが見えた。どうやら直撃はまぬがれたみたい。
 ほっ。として、顔を上げたら。
 そこに。
 まるで世界の終わりを見たような顔をして。
 立ってる人が。

 

「……・・町田?」

(はい、そうです) 

 答える間もなく、ぐいっとものすごく強い力で、利き手のほうで、手首をつかまれて。
 床に散乱した本やらプリントやらに二人分の足跡をつけて。踏み分ける余裕も与えられずに。
 一枚ドアを隔てた給湯室にひっぱって連れて行かれた。
 思い切り蛇口をひねって流れ出した水の中へ、強制的に右手を突っ込まれる。
 制服の袖口あたりが茶色に変色してるのに、そこで気が付いた。
 自分の身に何が起こったのか。

「先生、熱くなかったから!」

 ナオは慌てて、フォローを入れる。
 コーヒー、ほとんど冷めてて、この水の温度と大差なかったから。
 て言うか、びっくりしすぎて何も分からなかったから。
 全然平気ですから。元気ですから。

「ごめん、町田」

(だから、そんな泣きそうな顔しないでください)

 ナオの思いとは裏腹に、何度もごめんと先生は呟いた。
 垂れた髪の向こう側、痛いくらいの表情が見えて、ナオもつられて痛い表情になる。
 こういうの、熱いコーヒーをかぶるよりよっぽど痛いって身に染みて分かった。
 いつまでも解放されない手首の、冷たい水が増幅させる温度にほとんどの意識を奪われてた。
 だからちょっと油断してた。

 ぴこん!ぴこん!!ぴこん!!!

 直感レーダーが最大級のけたたましさで鳴り響いた。
 切羽詰った感じで、緊急事態を警告した。
 何事かと思って顔を上げたら、すごく近くで目が合った。

「ごめん」

 何度目かのごめんに、はい、とナオは答える。平気です元気です。

「ごめんオレ、町田のこと好きだ」

 はい、と答えそうになった。
 ナオは目をぱちくりとさせて、すぐ横で耳まで真っ赤にしてる人を見た。

 

 

 

「…………先生?」

 ごめんの意味、よく分かんないですよ。

 

 

 

 

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