+クスリ+

 

 誰もいなくなった教室にいた。
 窓からオレンジ色の光が差し込んで、机でできた影があちこちで交差している。
 窓際の、一番後ろの席を選ぶ。

 ほっとした途端、じわり、と目から水分が溢れ出てきた。
 ついでに鼻からも余分で、少し出てきた。
 こういうとき、身体ってあちこちで繋がっているんだなぁって思う。
 頭のどっかが悲しくて、目から涙が出て、鼻から鼻水が出て。
 心臓がぎゅうっと痛んで。

「うーううー」

 ノドから、いつもより何段か低い、お世辞でも可愛くない声が出てきた。
 悲しくてさみしくてどうしようもない気持ち、言葉にしたらきっとこんな感じで。
 明日の予習も、受験も、就職も、結婚も、今の自分からは遠くて、すごく関係なくて。
 過去も未来も現実も全部無視して、ただ悲しいのに任せて、少し泣いた。

 泣きすぎて、こめかみのあたりがズキズキしてきた。
 とうとう太陽にまで愛想を尽かされてしまった。
 薄暗くなった教室で、ジャケットを脱いだままでいるのは、肌寒かった。
 いいかげん帰らなくちゃ。
 どっかまだ冷静な部分があって、手に鞄を掴ませたけれど、肝心の足のほうが動いてくれなかった。
 ここから帰りたがらなかった。

  

「だい、じょうぶ?」

 ぱちぱちと、涙で重たくなったまつげを二回、動かした。
 はい? と、すっかり枯れてしまった声で聞いた。
 ひとりごとになる予定だった。

 下校時刻はとっくの昔に過ぎていた。
 クラスのみんなに笑顔でバイバイ作戦は無事に成功、したはずで。
 文化祭実行委員の仕事がまだ残っているから先に帰って。とちゃんと、笑えたはずだった。
 がらんとした教室に一人ぼっちになってはじめて、涙さんにもご登場を願って。

「大丈夫?」

 今度はちゃんと、漢字に変換されて返ってきた。
 なんか、色々なもの軽々と飛び越えて、目の前の席に座っている。
 肩をすくめて申しわけなさそうにしながら。 

「んま!」

 そのまま、あんぐりと口を開けて、朝子は固まった。

「ま、ま、ままま町田くん?!」

 大声で叫んで、無礼そっちのけで指まで差した。
 された本人は気にするふうもなく、ちょっと困ったように下げた眉と、ぴんと伸びた背筋が、相変わらず頭よさげで。
 町田くんはいつもの町田くんのまま。

「うっええっ?!どうして?!なんで?!」

 朝子は思ったままを考えなしに口にする。
 町田くんは後ろ髪を掻きながら、少し言いづらそうにした。
「えーと、オレもいちおう文化祭実行委員だから、かな。ほら、各クラスから男女一名ずつ選出だったろ?」

 そもそも、使った言い訳がまずかった、ということで。
 俯いて、朝子は自分の考えの足りなさを反省した。
 そうだ、町田くんもあみだくじで決まった文化祭実行委員仲間なんだった。
 つまり今日、実行委員の仕事がある、なんて嘘っぱちだってこと、町田くんにはずばり分かってしまって。
 でも、委員会ないんだったら特別用もないはずなのに、なんでここにいるんだろう?

「それは……ここで勝手に、八木沢さんの心配をしてました」
 ごめん、と、町田くんは両膝に手をついて、ぺこりと頭を下げた。
 嘘っぱちが嘘っぱちだってわかっちゃった瞬間に、余計な心配をいっぱいかけてしまったようだった。
 大馬鹿を自覚したらまた、止まりかけた涙が、ゆるゆるとまぶたをノックしてきた。

 

 

「ううう、ごめんねー」

 朝子は鼻をすすりながら謝った。
 もうとっくに壊れてしまった涙腺は、休むことなく次々と涙を作り出す。
 ぼろぼろとこぼれて、このまま順調にいけば、体中の水分を出し切れそうだった。

「人間って、泣くなんて特別なことしなくても、一年でジュース一缶分ぐらい涙を流してるんだって」

 眼球を乾かさないようにするために。ってまめ知識を、町田くんが雑談ついでに教えてくれた。
 じゃあ今は、涙の無駄遣いをしているんだなって思った。

(たいした理由もなしに泣いてるのって、かっこ悪い)

 でも、町田くんはそこに座っているだけで、何も聞かないで、ただ心配してくれてた。

 

 突然、ぽん、と目の前の手が鳴った。
 それからがさごそと鞄の底をあさって、なんだか、透明の、小さな袋みたいなものを取り出した。

「八木沢さん、手ぇ出して」

 町田くんが魔法の呪文を唱える。
 言われるままに差し出した手のひら、その少し上で、予告なしで透明の袋がひっくり返された。
 七色の雨が降ってきた。

「わ、わ、わ」
 コツコツコツ、とつかみ損ねた分が机を飛び跳ねて。
 床のほうにまで楽しげなリズムを刻んで飛んでいった。
 朝子はその一粒をつまんで、まだ重たいまんまのまつげを持ち上げて、見つめた。

「……コンペイトウ、ですか?」
「うん。うちに代々伝わってる、一粒で百倍元気になるクスリ」

 ふーん、と朝子は呟いて、一粒、口に放り込んだ。
 クスリが身体の芯に染み込んで、元気のもとに変わる。
 町田くんが言うと、本当にそんな気がしてくるから不思議だった。 

 クスリのとんがったところを舌で感じて、少し落ち着いてきた。
 こんなに泣いたの、どれくらいぶりだろう。とりあえずジュース一缶分、一年分は余裕で泣いてしまっただろうけど。

 とりあえず、見るに耐えないひどい顔になっているのを、朝子は真っ先に謝っておいた。
 ふるふると、首が横に振られる。

「なんか、八木沢さんの泣き顔は結構、クセになるかもしれない」

 にっこりと笑った町田くんはやっぱり、いつもの町田くんのまま。

 朝子は、ばっと左耳に手をやった。
 身体中の熱が、一気に、左耳の穴に集中する。
 高速巻き戻しで思い出して、ああなんで都合よく忘れてたんだろうって、今さら気づいてももう遅くて。
 乾いた唇を舐めたら甘くて、すっかり涙の味を忘れてしまった。

 

 

 効用は、たった一粒で百倍元気。
 町田家に代々伝わっている、魔法のクスリです。

 

 

 

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