2 べたべた、と貼り付ける。
我が子との再会の余韻に浸る間もなく。
スミレは黙々と、他のノートに済ませておいた予習を、はさみとのりで切り貼りした。
そもそも、あとで他人のノートを見て写すよりも。
授業中にノートをとってしまったほうが、はるかに効率がよく、理解も深まるのではと思うのだが。
けれど、それを分かってはいてもあの声には抗えないのだと、みんなが口を揃えた。
ひよじいが原文を、あの、お経で練り上げたような声で、読み上げ始めてはや3分。
クラスの半分以上が机につっ伏していた。
貼り付け作業が終わったスミレは、机の上に色取り取りのペンを転がした。
こうして、静かな戦いは始まる。
隣で、大野のシャープペンシルがくるりと回った。
そういえば。
頭が持ち上がっている少数の中に、実は大野が含まれていること、知っている人はどれだけいるだろうか。
一番後ろの一番窓際の特等席にいる大野が。
一番前でタオルを枕にして眠っている佳代子はたぶん知らないだろう。
席が隣じゃなかったら、たぶん、スミレも気付かずにいたと思う。
また、昼休みも惜しまずに、部活のトレーニングしていることも。
消えてしまった、幻のロゴ入りパーカーのことも。
横目で見つめながら、スミレはまた首をかしげた。
削られていくシャー芯の代わりに、大野のノートに浮かび上がったのは黒いかたまり。
なんだろうと思っていたら、黒いかたまりは縦方向に伸びて、くびれができて、三角が二つ、頂上から飛び出して。
黒くて長いしっぽが付いた。
スマートな美人猫がノートの端っこに現れた。
(……たぶん、これは私しか知らない)
ドキドキしながら、スミレは思った。
実は、大野は落書きがすごく上手いってこと。
大野の手は迷いなく、黒猫の毛を一本一本とかすように描き入れていく。
どうして黒一色なのに、あんなに表情豊かで。
まるで息をしているように描けるんだろう。
スミレは自分の手元に目を落として、過剰にカラフルなノートを引きちぎりたくなった。
色取り取りのペンを床に投げ出してやりたくなった。
けど、我慢した。これがないと、困る人がたくさんいる。
そうこうしている間に、ひよじいの手が日本語にしては達筆すぎる文字を黒板に並べ始めていた。
慌てて、青いペンのふたをはずして、ノートに向かう。
しばらく快調にあとを追いかけていたのに、途中でつまずいた。
急に、ペンの先がインクを出さなくなった。
つまったのかなとノートの端で試し書きをしてみれば、とてもなめらかで。
首をかしげる前に、スミレははたと気が付いた。
ああここは、雨のあとなんだ。
教室に降った雨。大野が降らした雨。
一ページ前をめくれば、ちょうど七色の波紋の上で。
触ってみると、他の所よりザラついて、ノートの役目を果たす気がないようだった。
大野の手はまだ快調に動き続けていた。
一匹目を完成させて、二匹目に取り掛かっていた。
今度のは、両手を前について、耳の三角が下向きで。
同じく、しっぽも下向きで体を半周しそうな勢いで伸びていた。
黒猫が土下座してるんだ、と気付いて、なんでそんな難しそうなお題に挑戦するのだろうか、とスミレは不思議に思った。
黒猫の横に、さっきはすみませんでした。と、右上がりの癖のある文字が添えられた。
ノート、と最後に付け足しで書かれても、しばらく何とも思わなかった。
びっくりした。
ばっと顔ごと大野に向けたから、てっきり目が合うんだと思ったら、外れた。
大野の視線は窓の向こう、雨の中をさまよっていた。
口を開けたまま、出そうとした声を辛うじて飲み込んで。
スミレは手に持っていたペンを、ノートの端に走らせた。
(いいえ、お気になさらず)
このメッセージが大野の目に止まることはあるんだろうか。
期待半分不安半分。
それならもう少し、冒険してみてもいいんじゃないか。
唐突にそう思ったのは、たぶんドキドキを通り越して、少しハイになっていたからで。
下に付け足した。
(大野って、何部だっけ?)
期待半分不安半分。
大野の手がもう一度動きだしたときには、夢見心地だった。
迷いのない線を一息で結ぶ。
3秒ぐらいでできた、その輪郭だけで何なのかがスミレには分かった。
でも、大野の手は満足しなかった。
すっと目に止まらない速さで、たぶん日頃のトレーニングの賜物なのだと後で納得する速さで。
スミレの机の上からペンを一本、さらっていった。
ふたをはずして、色をつける。
真っ赤なグローブがノートの端っこに現れた。
ボクシング部で、落書きが上手くて、って、そんなのってありだろうか。
なんだか妬ましくて、悔しくなった。
ノートの上で、つん、とすます美人猫を見たら、余計に負けたくなくなった。
すぽん、と気持ちのいい音をさせて。
スミレはとっておきの、ここぞ、というポイントで使う、ペンのふたをはずした。
(大野ってめちゃくちゃ絵が上手いね)
ノートのど真ん中に七色で書かれている文字を見て、大野がぎょっとした。
そして手を止めて、ペンに赤いふたをかぶせた。
スミレはそれを横目で見ながら、ちょっとがっかりした。
また何か描いてくれるのだろうかと夢見てしまったから。
ことん、とスミレの机の上に赤ペンが返ってきた。
どーも。と、大野のぶっきらぼうな声を添えて。
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