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 01. 踏切の前で 

 

 フェンスの向こう側の線路は、しん、と沈んだまま、まだ朝を告げない。
 そもそもまだ太陽だって、東のほうから、と身体の正面をそちらに向ける。
 いびつな住宅の描いた線の向こう側に隠れているのだから、当たり前だった。

 この時間帯の空が、一番きれいだと思う。

 朝のニュースで、今日が晴れでも雨でもくもりになったとしても、一番汚れていない空気を集めた空。

 ひとりじめ。

 むふふ、と思わずゆるんでしまった口元から、笑みが漏れる。
 幸い、聞きとがめるのは、常に三歩先をゆくイチロだけだった。

 ぴん、と空にまっすぐ伸ばした二つの耳を動かしたイチロは、首を器用に動かして、繋がったヒモを引っ張った。
 ぐん、とニ、三歩先を急かされて。
 しゃあないな、と思って、小走りになって追いつくと、くるっと向きを変えて、今度はこちらに向かって、飛び掛ってきた。
 ちょうど、胸のあたりに前足が達する。
 それぐらいのサイズのイチロは、色々な種類の毛が混じった、真性の雑種で、世界に一匹しかないそれはそれは貴重な犬だった。5年くらい前に、親戚のおばちゃんの家からもらわれてきた。
 なんでも母親もまた雑種で、父親はかの有名な101匹ワンちゃんの1匹だったらしく、イチロの身体は70%ぐらいの毛は白だが、ところどころに、こげ茶色に染まった部分がある。
 そのまだら模様が絶妙なバランスだったりするから、愛らしさとバカっぽさを余計に際立たせているのだ。

「ぎゃ」

 愛犬の突然の行動に、虚をつかれたイノは、思わず握っていたヒモを手離した。
 ヒモの先に、学校で下から1、2番を争う足が繋がらなくなったのをいいことに、
 イチロは、ここぞとばかりに全力疾走を始めた。

 幸い、線路に沿うようにはられたフェンスと、立ち並ぶ住宅の壁に挟まれた、一本道ではある。
 あとは、新聞配達のバイクだけ、気をつけてくれればなんとか。
 生きて、再会できるはず。

 イノはことさらに騒がず、ゆっくりとイチロの後を追いかけ始めた。

 

 太陽はちょうど、線路の向こう側、住宅街の屋根の上からぼってくるはずなので、この道は南に向かって伸びているはずだ。
 じりじりと、イノの左半身に忍び寄ってくる熱の気配。
 明るくなってきた空の下、焦りで濡れ始めた手のひらを握り締め、イノは小走りになった。

(おかしい。いない)

「イチロー?」

 伸ばして呼んでみると改めて分かるのだが、イチロの名前はイノの父親の趣味によって付けられた。
 足の速さなんて、似てくれなくてもいいのだが。 

 カンカンカン、という甲高い音が、小さく風に乗ってやってくる。
 生温かい温度が、もうすぐ春がやって来ることと、もうすぐ朝一番の電車がやって来ることを知らせてくれた。
 イノは素早く、この先の地図を思い浮かべた。
 このまま南に向かって行ったら確か、大きな踏切があったはず。

 

 カンカンカンカン、、、、

 音がだんだん大きくなるにつれて、イノの目にも黄と黒のしましまの遮断機が見えてきた。きちんと下りて、役目を果たしている。
 しかしあれがはたして、あの犬に対してはどれほどの効果があるものか。

 ほ、とイノは胸をなでおろした。
 踏切の前でちょこんと座っている、白地に茶色のまだら模様には見覚えがあった。
 首からだらんとぶら下げたヒモが、何よりの証拠だった。

「イ」

 チロ、と呼びかけようとして、イノは異変に口を閉じた。

 白地に茶色のまだらの模様の隣に、もう一つ、見慣れない模様があった。

 真っ黒な背中。
 イチロが小さく見えるくらい大きい背中。
 見覚えのある肩のとがり具合で、学生服だと気がついた。

(高校生?こんな早くに?)

 自分のことを思い切り棚に上げて、イノは眉をひそめた。
 もうすぐ朝一番の電車がやって来る。
 よく考えてみたら、別に、そんなにおかしいことじゃないのかもしれない。
 すごく、遠くの高校に通っている人だったら、この時間帯ぐらいに登校することだってあるかも。

 それでもイノの胸には、高らかな警鐘が鳴り響いた。

 カンカンカンカン・・・・!!!!

 もうすぐ朝一番の電車がやって来る。
 きちんと、遮断機は下りている。

 踏切の前で座っているイチロが、ぶわっと大口を開けてあくびした。
 バカ丸出しっぽい。
 イノの緊張感が薄まった瞬間を狙って、隣に立っていたはずの高校生が、ひょい、と身を屈めて、黄と黒のしましまの棒をくぐった。

 小さく、電車の先頭が、目の端っこに姿を現した。
 朝一番の電車は、今朝も定刻どおりに、一分の遅れもなく。
 この踏切の上を通過する。
 間に合わない、絶望的にそう悟った。

「イ、・・・イチロー!!!」

 イノは、この世に一匹しかいない愛犬の名前を叫んだ。父親は息子につけたかったらしい、某野球選手から取って付けられた名前。

 接近する電車の騒音によってかき消された声を、ぴん、と空に伸ばした耳がキャッチしたのか、ただ単に発情しただけなのか(こんなでもイチロは女の子なのだ)。
 真実をまるっと闇にくるんだまま、イチロは、真っ黒な背中をめがけて飛び掛かっていった。
 バランスを崩して、高校生が倒れるのが見えた。

 

 

 ゴォーーッ!!!!

 

 

 イノのスカートのすそをばたばたとめくりながら、踏切の上を朝一番の電車が通過していく。
 窓を通して、確認できた乗客の影はちらほら。
 もしかしたら、一人ぐらい、こんな朝早くから踏切の前で、犬に押し倒されている高校生を見つけて、びっくりしたかもしれない。
 いつのまにやら東のほう、住宅の屋根から、太陽は顔の半分くらい出し始めていて、今朝は、おはようを言い逃したなと。

 遮断機が上がり、警戒音が鳴るのを確かめてから、イノは踏切まで歩き始めた。
 ちょうど、黄と黒のしましま棒の垂直線上に、高校生が仰向けに倒れていた。

「・・・あの」

 おはようございます。

 言い逃した代わりに、というわけではないけれど、とりあえず朝の基本から始めてみた。

 高校生の顔の上を、イチロの赤い舌がべろべろと這い回っている。
 なんにせよ、結果よければすべてまるっとよしだ。
 イノは今朝のご飯は奮発することを約束して、イチロのヒモの先を掴まえ直した。
 少しだけ力を入れてひっぱって、イチロを、高校生の上からどかした。

 高校生は腹筋を使って、背を起こした。

 イノはまじまじと、やっぱり、さっきの奇跡は女の本能から呼び起こされたものだったと悟った。

 イチロの舌に丁寧にメイクされたおかげで、てかてかになった顔は、朝一番の太陽を浴びてもなお白く透き通っていて。
 女の子のような長いまつげが落とした影が、うつろな目の色を隠していた。
 見ているだけでイノの体温が一度くらい上がるほどの、きれいな顔をした、男子高校生だった。

 真っ黒な学生服の上に、点々とイチロの足跡らしきマークがたくさんついている。
 一瞬ですみませんマークを顔に貼り付けたイノを、笑い声が吹き飛ばした。
 高校生は身体をつの字に折り曲げて、近所迷惑も顧みず、朝一番の空に向かって、大声で笑い出した。

 少し前に抱いた感情をすべて壊して、というかイノの勘違いでなければ、この人は朝一番の電車の前に飛び出そうとしていなかったか?
 深まる混乱などそっちのけで、高校生はおよそ一分ぐらいは、笑い続けていた。

「なんていう、名前だっけ?イ、なんとかって」
「・・・はあ?」
「な、ま、え。 なに?」
「・・・ああ、いのりです」
「イノリ?」

 と、きれいな高校生が呼んだのは、イノの、いのりのことではなくて。
 盛んにしっぽを振って、砂埃を量産し続けているイチロのことで。

 ぴん、と空にまっすぐ伸ばした耳で敏感に反応して、一歩ニ歩、とまたイチロが近づいていった。
 ちょうど、目と目の高さをつり合わせて、高校生とイチロが至近距離で向かい合う。

「さんきゅう、イノリ」

 ちゅ、と音をたてて、高校生がイチロの鼻のあたりにキスをした。
 イチロは盛んに振っていたしっぽを一瞬止めて。
 イノはなんとなく、真実を伝え逃したまま、踏切の前で。

 

 

 

 

 

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