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01. 踏切の前で |
フェンスの向こう側の線路は、しん、と沈んだまま、まだ朝を告げない。 そもそもまだ太陽だって、東のほうから、と身体の正面をそちらに向ける。 いびつな住宅の描いた線の向こう側に隠れているのだから、当たり前だった。 この時間帯の空が、一番きれいだと思う。 朝のニュースで、今日が晴れでも雨でもくもりになったとしても、一番汚れていない空気を集めた空。 ひとりじめ。 むふふ、と思わずゆるんでしまった口元から、笑みが漏れる。 ぴん、と空にまっすぐ伸ばした二つの耳を動かしたイチロは、首を器用に動かして、繋がったヒモを引っ張った。 「ぎゃ」 愛犬の突然の行動に、虚をつかれたイノは、思わず握っていたヒモを手離した。 幸い、線路に沿うようにはられたフェンスと、立ち並ぶ住宅の壁に挟まれた、一本道ではある。 イノはことさらに騒がず、ゆっくりとイチロの後を追いかけ始めた。 |
太陽はちょうど、線路の向こう側、住宅街の屋根の上からぼってくるはずなので、この道は南に向かって伸びているはずだ。 じりじりと、イノの左半身に忍び寄ってくる熱の気配。 明るくなってきた空の下、焦りで濡れ始めた手のひらを握り締め、イノは小走りになった。 (おかしい。いない) 「イチロー?」 伸ばして呼んでみると改めて分かるのだが、イチロの名前はイノの父親の趣味によって付けられた。 カンカンカン、という甲高い音が、小さく風に乗ってやってくる。 |
カンカンカンカン、、、、 音がだんだん大きくなるにつれて、イノの目にも黄と黒のしましまの遮断機が見えてきた。きちんと下りて、役目を果たしている。 ほ、とイノは胸をなでおろした。 「イ」 チロ、と呼びかけようとして、イノは異変に口を閉じた。 白地に茶色のまだらの模様の隣に、もう一つ、見慣れない模様があった。 真っ黒な背中。 (高校生?こんな早くに?) 自分のことを思い切り棚に上げて、イノは眉をひそめた。 それでもイノの胸には、高らかな警鐘が鳴り響いた。 カンカンカンカン・・・・!!!! もうすぐ朝一番の電車がやって来る。 踏切の前で座っているイチロが、ぶわっと大口を開けてあくびした。 小さく、電車の先頭が、目の端っこに姿を現した。 「イ、・・・イチロー!!!」 イノは、この世に一匹しかいない愛犬の名前を叫んだ。父親は息子につけたかったらしい、某野球選手から取って付けられた名前。 接近する電車の騒音によってかき消された声を、ぴん、と空に伸ばした耳がキャッチしたのか、ただ単に発情しただけなのか(こんなでもイチロは女の子なのだ)。 |
ゴォーーッ!!!! |
イノのスカートのすそをばたばたとめくりながら、踏切の上を朝一番の電車が通過していく。 窓を通して、確認できた乗客の影はちらほら。 もしかしたら、一人ぐらい、こんな朝早くから踏切の前で、犬に押し倒されている高校生を見つけて、びっくりしたかもしれない。 いつのまにやら東のほう、住宅の屋根から、太陽は顔の半分くらい出し始めていて、今朝は、おはようを言い逃したなと。 遮断機が上がり、警戒音が鳴るのを確かめてから、イノは踏切まで歩き始めた。 「・・・あの」 おはようございます。 言い逃した代わりに、というわけではないけれど、とりあえず朝の基本から始めてみた。 高校生の顔の上を、イチロの赤い舌がべろべろと這い回っている。 高校生は腹筋を使って、背を起こした。 イノはまじまじと、やっぱり、さっきの奇跡は女の本能から呼び起こされたものだったと悟った。 イチロの舌に丁寧にメイクされたおかげで、てかてかになった顔は、朝一番の太陽を浴びてもなお白く透き通っていて。 真っ黒な学生服の上に、点々とイチロの足跡らしきマークがたくさんついている。 少し前に抱いた感情をすべて壊して、というかイノの勘違いでなければ、この人は朝一番の電車の前に飛び出そうとしていなかったか? 「なんていう、名前だっけ?イ、なんとかって」 と、きれいな高校生が呼んだのは、イノの、いのりのことではなくて。 ぴん、と空にまっすぐ伸ばした耳で敏感に反応して、一歩ニ歩、とまたイチロが近づいていった。 「さんきゅう、イノリ」 ちゅ、と音をたてて、高校生がイチロの鼻のあたりにキスをした。 |
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