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 06. 花弁が落ちて 

 

 たぶん、偶然は雨雲に乗ってやってくる。
 そしてたぶん、最初は音も立てずに落ちてくる。

 予告なしに降り出した透明なしずくに、女の子は右手に犬のヒモを握り締めた。
 そして空いた左手で、

「おにいさん」

 と、こちらの首からも下がっていたらしいヒモを引っ張った。
 透明な、強くて正しい力で。こっち、と最初の一歩の方向が示された。
 まだ散歩が足りないのか、小さく名残を惜しむイチロと一緒に、女の子のあとをついて行った。

 

 玄関から続く居間に見つけたアマリリス。
 毒々しい赤色は、あまり家の雰囲気に合っていないように思えた。

「ああそれ、近所のおばさんがくれたんだ」

 女の子は、視線の先の疑問をそう説明してから、家の中へと入っていった。
 パタパタ、と足音を響かせて、奥のほうへと消えていく。

 玄関先に残された一人と一匹は、お互いに肩をすくめ合った。
 まあゆっくりしていけよ、と相棒に言われたような気がした。
 特別何があるわけでもないけれど、ここはいいところだよ。

 言われなくても、なんとなくわかった。
 鼻をくんくんと利かせると、生活のにおいがした。誰かが住んでいる家のにおい。
 そこへ、まだ開きっぱなしになっているドアから、雨のにおいが忍び込んでくる。
 まだ首からぶら下げたままでいる透明のヒモの先を掴んで、戻ろうと促してくる。
 どこにもない家を、本能だけがいつまでも懐かしがっていた。

 音で雨足が強まったのがわかったので、とりあえずドアを閉めようと動く。
 庭先で、三角形の赤い屋根をかぶった家が濡れているのが見えた。
 イチロの家、という表札が掲げられている。

「お前の家はあっちじゃねえの?」

 当然のように、一緒に玄関を通り抜けた相棒に話し掛ける。
 犬は自分の住処を主張するように、堂々と背を伸ばしていた。

 苦笑しながら、頭のてっぺんに手を伸ばす。
 少し湿った感触、わさわさと強めになでてやると、ぴんと伸びていた耳が垂れて、くーんと甘ったるい声を鼻で鳴らした。

「ああイチロ! 足拭く前に家に上がってくんな!」

 バスタオルを持って戻ってきた女の子が、すでに床に一歩を踏み出した愛犬を見て頭を抱えた。
 不穏を察して逃げようとしたイチロを、女の子は頭に手刀を一発、黙らせて掴まえた。
 女の子はごしごしと念入りに、イチロの毛を拭き始める。

「・・・いさん、おにいさん!」

 かわいい女の子が、何やら一生懸命叫んでいた。
 他人事にしていると、頭に手刀を一発で、現実に引き戻された。

「もしかして、おにいさんってオレのこと?」
「そうだよ。あいにくここにはおにいさん以外に、おにいさんと呼ばれる人はいないんだよ」
「あー、そー、なんだ」

 そんなふうに呼ばれるのは初めてで。
 差し出されたバスタオル、首に巻きつけて、畳ばりの床に寝転がる。
 頬に当たるい草の感触が心地よかった。一度も味わったことのない感覚のはずなのに、なんだか懐かしい心地。
 もしかすると、遠いご先祖さまの記憶でも思い出しているのかもしれない。

「・・・おにいさんのお家って、どこ?」

 足を拭き終わったイチロを抱え込むようにしながら、遠慮がちに女の子が聞いてきた。
 膝立ちになった女の子とおすわりをしているイチロは、ちょうど同じくらいの背丈になっていた。
 畳の上を一回転して、うつ伏せになってから、窓の向こう、三角形の赤い屋根をかぶった家を指差した。

「・・・あそこはイチロの家だよ」
「うん、というかお婿さん希望で、将来一緒に住む予定の家」
「・・・おにいさんとイチロの問題にあたしは口挟めないけど、あの家に二人はきついよ、小さいもん。無理だよ」

 女の子は現実を見ていた。
 いのり、という響きを持った女の子のおかっぱ、よりもやや長い髪の先が、顎のあたりでくるんとカールしている。困ったときにはそれを指で弄ぶ癖があるようだった。
 今朝から困らされてばかりいるから。

「ねえ」
「はい?」
「イチロ、オレにちょーだい?」
「だめ」

 女の子は髪をいじるのをやめて、イチロの首をぎゅうっと抱え込んだ。
 それから小さなため息を残して、お茶入れてくる、と部屋を出て行った。
 厄介なものを拾ってしまった、そんな自覚があるのだろう。
 朝日がのぼる前に踏切に飛び出して命に決着をつけようとした男だから、それぐらいの自覚はあった。

 いざ部屋に一人残されると、健全な、生活の空気にやられそうになる。
 部屋の真ん中に置かれた机に、人数分の座布団とクッションに、角度を調節されたテレビに、そして畳の感触に。
 急速に思い出が早送りされて、遠いご先祖さまから今の自分へと到着してしまう。
 自分が自分になる、この瞬間は苦手だ。

 カッツ、という爪がい草をひっかける独特な足音に、かろうじて意識が引っ掛かた。
 そういえば、一人じゃないんだっけ。
 イチロは部屋の隅を目指し歩き、大きな座布団の上にぺたんと座り込んだ。
 おそらくあそこが定位置なのだろう。
 大きなあくびを一つして、気持ちよさそうに寝始めた。

 そして、調和された部屋の中に異質なものを見つけた。

 部屋の隅、イチロの後方にぽつんと置かれた赤い花。
 置き場がなくてあんなところにおさまっているような。
 赤くて大きな4枚もの花弁をつけ、重たげにかしいで。
 手を伸ばして触れると、はらり、なんて可愛らしいものではなく、ぼたり、と花弁は落ちた。

「あ・・・」

 遠のいたはずの雨音がいっそう耳に迫り、心臓の底蓋を叩く。
 背後では、呆然とした表情で、お盆にお茶をのせた女の子が固まっていた。
 しっかり閉じていたはずの扉の隙間から忍び込んでくる。
 濃い、雨のにおい。

 とんとん、と小さな手が肩を叩いた。雨のリズムよりもゆっくり。

「おにいさん、平気だよ。イチロのせいにしてもらおう」
「え・・・?」
「大丈夫、イチロは強いから。だから」

 首に巻きついていたバスタオルを抜き取って、濡れたままの頭にかぶせられる。
 ごしごし、とタオルの乾いた感触が雨音を遠ざける。

「泣かないで?」

 落ちたのは、アマリリスの赤くて大きな花弁。
 けれど、頬をなでてくれた手のひらに音も立てずに落ちたのは、透明なしずく。
 家の外で降り続く、あれと同じ。

 

 

 

 

 

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