「お願い、嘘でいいから、今だけでもいいから」 あいにくとそこは、閉ざされた狭い空間で。
一歩たりとも、足を動かすことも叶わず。
逃げ出せない、そして抗えない。耳元に囁かれた声に、支配される。
「ぎゅってして?」
暗闇に浮かび上がった白い指が、肩から首へとのぼってくる。
指の先がのどぼとけをかすめて、さらに上へと、あごの尖り具合を確かめる。
今朝、ひげを剃り忘れたことを思い出した。
案の定、指は敏感に少しだけ伸びたひげを見つけ出す。
引っ張られ、わずかな痛みが足の先まで駆け抜けた。
反射を促された右足が、急ブレーキを踏みそうになる。
落ち着け。
跳ね上がる心拍数に言い聞かせる。
これは作りもので、まがいもので、作為的に作られたもので。
一つの目的のためだけに生み出された、美しい人形のようなもので。
台本できっちりと決められている台詞が、舞台から車へと場所を移しただけで。
「・・・やめてください」
「あれ、おかしいなー。せっかく教えてもらったのに。気持ちよくならない?」
真後ろから響く声に軽いめまいが。
誰だ、未成年にそんな知識を吹き込んだのは。
すぐ前を行く車のナンバープレートが揺らぐ。追突事故を避けるために、車間距離をとるように専念する。
おそらくめまいの原因は、仕事過からくる睡眠不足のためだけではないだろう。
しかし、条件を言うなら確かこの白い手の持ち主も同様で。これから3日ぶりに自宅へ帰るような、そんな激務ぶりをスケジュール帳で確認したばかりなのだが。
なめらかな動きを続けるそれをちらりと見て、若さとはすべての物事への免罪符なのだなと、老けこむ。
「・・・だから、気が散ります。運転の邪魔です」
「はーい」
意外なくらい素直な返事とともに、白い手はシートの向こう側へと消えた。
ほっとして、シートに軽くもたれ直す。先ほどから緊張しっぱなしだった背骨を休めた。
「ていうか、杉野さん」
「はい」
「何度も言ってるけど、敬語、いらないんで」
「はい」
背後から無言のプレッシャーを感じたが、杉野はまんまと無視した。運転に集中した。
「うぇーん、杉野さんがイジメるよぅ!」
声高に台詞が吐き出され、口をとがらせて、足をばたつかせる。
こんな唐突な仕草でも、ただの車のミラーの枠がカメラのフレームへと、
ただの車の後部座席が、たちまち、舞台へと変化してしまう。
子役時代から華やかな場所で活躍していた経験が、そのまま彼女の細胞から形成しているのかもしれない。
こんな、マネージャー兼運転手という平凡な肩書きの人間にも、才能とか、わかりづらいものを実感させるぐらいに。
自分が社会に出た頃にはまだ、赤いランドセルを背負っていたはずなのだが。
そんなただの事実は、自分の年収を、月収として懐に収めるような、そんな立場にある少女の前では掻き消える。
厳密には上司、部下という関係にはなくても、けじめというものを無視できるほどの度量は、杉野にあるはずもなく。
車内には沈黙が降りてきた。
今日は、久しぶりの半日オフで。
まだ昼間に近い、こんな時間に自宅に帰ることができるのは、この仕事についてから初めてのことで、つまり、約一ヵ月ぶりくらいのことだった。
世間は祝日初日なことだけはあって、こじゃれたショップが乱立する通りに隙間は見つけられない。車と人で埋めつくされている。
(・・・あ)
手前に見えてきたビルの巨大電光スクリーンの中に、見つけた。
発売したばかりの新曲のリズムに乗せて、飲料水をぐいっと一口含んで、手本通りのキレイな笑顔を見せる。
今まさに、それと同じ顔が、そこに。
地下鉄の出口から泉のように溢れ出してくる人々をカウントするかのように、じいっと窓に貼り付いている。
ガラス一枚隔てたあちら側には、別世界が広がっていて。
こちらとあちらは、けして重なることがない。
あの、楽しそうに肩を抱き合う同い年ぐらいの若者たちと、同じ時を過ごすことはできないのだな、とそんなことを思う。
テレビを通してしか見ることがなかった、こちら側から。
「・・・くるみさん」
「はーい」
「そんなに身を乗り出してると、バレますよ」
園塚くるみ。
彼女は、連日のようにワイドショーを騒がす、国民的アイドルだった。
くるみは、おとなしく窓から離れ、帽子を深くかぶり直した。
すっと空気に溶け込むように気配が消える。こういう使い分けもさすがだった。
車の移動というわずかな時間でも、最大級の休息をとる。一ヵ月の運転手兼マネージャー業の中で学んだことの一つだ。
「どうして?あたしにはあなたしかいないのにっ」
「え?」
普通に反応してしまった、との反省は遅すぎて。
ただ今、園塚くるみはお昼の連続ドラマに出演中だ。
主人公の父親に好意を寄せる女子高校生、というなんとも妙な役回りを演じており、泥沼の愛憎劇の展開に陥り始めたドラマの中で唯一、真実の愛を貫くキャラクター性が、今まであまりターゲットとしていなかった、同性の、女子学生やOLなどからも支持されている。
アイドル脱皮作、になるかもしれないとして周囲からの期待は高い。
彼女自身もやる気を見せており、こんな車の移動中の時間も最大級の有効利用をする。
例えば、台本読みをして台詞を暗記するとか。
一ヵ月の運転手兼マネージャー業の中で学んだことの一つだ。
(・・・学んだ、はずなのに)
落胆をなんとか悟らせないようにするマネージャーの努力を無視して、くるみは、ふふふと空気を揺らしながら笑った。演出で決められているような自然な仕草で、再び首に白い手を巻きつけてくる。
「ほんとだよ?くるみには、杉野さんしかいないよ?」
「・・・からかわないでください」
「からかってなんかないよ。あたしはいつだって真剣な、ほんとの恋愛がしたいんです。だから杉野さん、ね?」
「・・・だから、からかわないでください、って」
ただの運転手兼マネージャーという今の立場でさえ、危ういのに。
これ以上なんて想像の世界でも、一コマも展開しない。
気持ちと身体は北極と南極ほどにかけ離れていて、心拍数は余裕で跳ね上がる。
白い手に触れられた場所は妙な熱を持ち、鳥肌のように泡立つ。顎から、ハンドルを握る腕へ、そして、たどりついた場所で、
がちゃ、と奇妙な音が車内に鳴り響いた。
祝日の道路はさすがの混み具合で、すぐに前の車との車間距離が詰まってしまう。
ブレーキを踏み込み、ゆるやかに減速し、という一連の動作を日々の習慣でこなした。
マネージャー業一ヶ月目、今さらながら、離れていく白い手を引き止める手段を自分が持っていないことに気がついた。
「まあ、杉野さんがダメだって言うんだから、しょうがないか」
台本にはない台詞。
作りものではない彼女の本音は、ドラマの世界よりもよほどシリアスで。
くるみ、という不信を込めた呼びかけが、命令に従う形になったのは、途中で不自然に会話が強制終了されたからで。
「くるみさん!」
彼女を逃さないための鍵は、すで解除されている。
歩道側のドアを開け、すいすいと身体を車外に放り出して。
さすがの祝日で、今にも車道にはみ出しそうなほど溢れる人通りの中に、ガラス一枚隔てたあちら側に、とん、とミュールのかかとを落とした。
バイバイ、と二回、絶妙な角度で手が振られる。
それからアイドルにはあるまじき、いーと、白い歯を剥き出しにする姿を、ミラーの内で確認した。
杉野は慌てて車を止め、プー、と盛んなクラクションを全身で受け止めながら振り返った。
けれど、国民的アイドルの姿は雑踏に紛れ、すぐに見えなくなった。
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