もしこの目を閉じてしまったら。 外に降る淡い雪のように、朝には消えてなくなってしまうかもしれない。
そんなことを思って、まぶたを落とす勇気を持てずにいる。
弱虫め。
シーツの下に、小さな自分をののしった。
携帯電話の液晶からわずかな光が漏れている。
数字を読み取る気力は、疲れた網膜には残されていない。
ただ朝までは、まだ長いだろう。
残酷な一秒の長さに、胃の底が冷えるだけで。
どうしよう。泣きそうだ。
鼻がうずく感触をぐっと堪え、のどを通過させてやる。
身体の器官、一つ一つ意識して動かすみたいに。
息をする過程さえ、思い浮かべて。
すべて、シーツの下に隠す。
隣の人が寝返りを打った。
その刹那さえ、見逃したくないと思うのだ。
写真をとるのに夢中になって、自分の目で見るのを忘れるときの気持ちがよくわかる。
覚えることに夢中になって、ついうっかり、胸に刻むのを忘れてしまう。
「寝ろ」
鼓膜が震えた。
「子どもはなんにも考えずに寝てしまえ」
魔法の言葉じゃなくて、低くてしわがれた、お坊さんの説法のような声で。
耳元で。
命令する。繰り返す。これは夢だと。
寝て起きたら消え失せている、淡雪のようなものだと。
声にならない声で答えた。うー、とか、あー、とか。
「……俺は、どこぞの赤ん坊に手を出したんだったか」
呆れたような声音に、涙があふれた。
悔しい。唇を噛む。
こんな人を好きになってしまって悔しい。
負けた。現実に負けた。年齢に負けた。声に負けた。剃り残したひげに負けた。
完敗で、悔しい。
「ねむい」
うん、と少し笑って頷く気配がした。
だんだんと薄れていく視界の中で、大きくて無骨な手がおでこをなでている。
前髪を掻き分けて、生温かい感触が当たった。
目を閉じたくないと思った。
この夜が終わってほしくない。何度も繰り返される夜だとしても。
思うのだ。
人間は生涯の半分近くを寝て過ごすのだ。だから眠らなければ二倍の長さになるんじゃないか。
もったいない。きっと、このままではもったいないおばけに食べられてしまう。
自分よりもかなり高い倍率で早く消えてなくなってしまう人を、刻み込んでおかないと。
身体にも、心にも。目にも。
時間は全然足りていなくて、目を閉じるのをためらう。
でも簡単に負けてしまうのだ、自分にも。
「―― よく、おやすみ」
声は、まぶたの上にふわりと溶けて消えた。
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