+pool+

 

 ええいっって、思ったな。
 一緒に、ピシャンってフェンスが嫌な音を立てて、きしんで。
 その反動、利用して、飛んでやった。宙を。
 着地のことなんて頭になかった。

 飛び込め!

 頭の中で、それだけが弾けてた。
 だからバランス崩して、コンクリの地面にひざこぞ、思い切りぶつけたって構いやしなかった。
 たとえ、それで傷、赤いものが滴っても、気にならなかった。痛みなんてすぐ遠くに行った。
 だから、起き上がって、そのまま。

 飛び込め、と心が悲鳴を上げてる。
 分かってるよって、あたし、それに答える。
 だから、ええいっって。
 魔法を。強くなれる魔法をかけて。今。

 けたたましい音が弾けた。バシャーン!とかパシャーン!とかじゃぶーん!とか。
 耳に、ドゴオオォって轟音が迫ってきて、それが体の先まで駆け抜けて行って、それで。

 静かに、なった。

 空にはまあるい月が一つ。
 プールのまんなかに一人。

  + + +

「……呆れた」

 プールサイドで、呟いた人影が一つ。
 プールの中央、月のスポットライトを浴びながら、優雅に往復しているものがいる。
 魚で言う、ひれにあたる部分から、白いものをひらひらと出しながら。

「……本当に、やるなんて……」
 しばらく見事な泳ぎを観察をしてから、ストンとその場に腰を下ろした。
 抱えていたカバンを開けて、明日提出の英語のプリントを取り出した。
 月が明るくて、発音記号まで鮮明に見える夜だった。
 勉強するには絶好の日和だ。
 眼鏡を外して、コンクリの地面に置く。
 手のひらで、じかに触れたら昼間の熱気が伝わってきた。
 レンズ越しでない世界はより鮮やかで美しいけれど。
 軽く頭を振って、英文に目を走らせた。

  + + +

「あけみ」
 と、律は呼んでみた。が、返事はない。
「明美」
 もう一度、呼んだ。
 プールの中央、ぴくりと反応してまっすぐこちらに向かってきた。
「塾だ。って、誤魔化せるタイムリミットが近いんだけど」
 律は短い針が10を指す時計を示して見せた。
 肩から上の部分だけ水面から出して、明美は笑って言った。
「帰ろっか」

 明美がプールサイドに上がると、ポタポタと雫が滴る有様だった。学校指定の制服ももちろん、短い髪の先からも。
「……定刻どおりに帰っても、確実にバレルな」
 スカートの裾をしぼっていた明美に、タオルを一枚差し出しながら、律は顔をしかめた。
「大丈夫よ。通り雨にでもあったことにすれば」
「無理だよ。だって……」
 びしょぬれの明美に鼻を近づけて、律は更に盛大に顔をしかめた。

「――相変わらず、塩素の匂いダメなの?」
「うん。絶対信じられない。なんであんな中に入れるのか。しかも制服着たまま」
「そんなこと言ってるから、いつまでたっても泳げないんだよ」
「いいよ。問題ないから」
 泳げなくても。塩素が嫌いでも。受験には関係ないから。と、律はぶつぶつと続けた。
 明美はその呟きをろくに聞き終えずに、濡れた髪をタオルで無造作にかきあげた。
 そのまま、タオルを首に巻いた。

「足、痛くない?」
 明美のひざこそから、色のついた液体が流れ出していた。
「痛いに決まってるでしょ。どうにかしてよ、医者志望」
「やだよ、そんな塩素まみれの傷に触るの」
 役立たず。と明美が低くののしった。
「やっぱ、そんなんじゃ人一人助けられないわよ。塩素が嫌い、プールが怖いなんて」
「そんなの関係ないよ。っと」
 ひょいっと、律はフェンスの向こう側へとカバンを放り投げた。
 続けて自分も乗り越えようとして手をかけたら、フェンスはピシャンと律儀にきしんだ。
「ねえ」
 同時に明美が聞いてきた。なに、と律は振り返る。
「あたしのこと、好き?」

「好きだよ。それが、なに」
 律は少し怒り気味に答えた。
「なに?」
「一番好きだと思う?世界中の何よりも」
 律は訝しく思いながら、明美と向き直った。

「そんなの、分かんないよ」

 そっか。と、意外にも少し淋しそうに(あくまでも律視点の中で)、明美は一つ頷いた。
 律はすぐ後悔した。もっと気の利いた言葉にすればよかったんだろうか。
 そんな律の思いも他所に、にいっと明美は笑った。
「よし、試してみよう。ね?」

(――なにを?)

 そう、律が問い返す前に、唇にひんやりとしたものが触れて、すぐ離れた。
 律はただ呆然と、遠ざかる顔を見つめた。
 ぶわっと口に広がるその味と匂いを感じた瞬間、律は壮絶に嫌な顔をした。
 吐き出しそうになって、辛うじて止めた。もったいなくて、止めた。
「どんな感じ?」
 しゃがみこんでしまった律の顔を明美が覗き込んできた。
 半泣き顔で律はじろっと睨みつけた。なんのつもりだよ、とくぐもった声で反論する。

「りっちゃんが、どれくらいあたしのこと好きなのか、確認したくなちゃって」
「……、なにそれ」
「大嫌いなプール味でも、キスのおまけ付きなら頑張れるかな、と思って」
「……、なにそれ」
「でも結局、あたしはりっちゃんのプール嫌いには勝てなかった、みたいだね」
 しゅんと残念そうに明美はうなだれた。
 律はまた慌てた。
「それはないと思うけど。明美の勝ちだと思うけど」
「……ほんと?」
「うん、……たぶん」
「じゃあ、これからのキスはプール入ったあとだけにしようね」
 訓練しないとね。泳げないと、立派なお医者にはなれないからね。 と明美は言って。
 眼鏡のレンズ越しに、明美がにいっと不敵な笑みを浮かべるのを見た。はっきりと見た。

「ええっ。そんなっ……」
 あんまりだ、と訴える律を遮って、ピシャンっとフェンスが一度きしんで、次の瞬間、明美は向こう側へと飛んでいた。
 塩素をたっぷり染み込ませた水滴がぱらぱらと降り注いできても、今は構っていられなかった。
 それどころではなかった。これからの律の人生の意義に、大きく関わることだった。

 あんまりだ、と、走っていく明美の背中をフェンス越しに見ながら、律はもう一度思った。
 さっきのキスを思い出すだけで、背中を嫌なものが走り抜けるのに。
 でも、と律は思った。ぎゅっとフェンスを握る手に力を入れて。

 そこを、振り返って、睨みつけて、大きく息を吸い込んで。ええいっっと、思った。

 頭の中で、それが弾けた。

 飛び込め!

 バシャーン!と、けたたましい音が夜のプールで弾けた。
 水面で、まあるい月がゆらゆらと揺れていた。

 

 

 

poolTOPへかえる++うらばなしへいく+