ぴんぽーん。 ぴんぽん、ぴんぽん、ぴんぽーん。
うざい客、と律は思った。
こんな日になんの用だ、とも思った。
窓もドアも締め切った状態でも、ゴオォォという大量の水が流れる音が聞こえる。
チェーンははずさず、ドアだけわずかに開ける。
ゴオォォとすさまじい轟音が、耳の機能を一瞬おかしくした。
そしてメガネを掛け忘れたのに、遅れて気付いた。
「こんちゃ」
ぼやけた輪郭の中で片手を挙げて。
「……なにしに来てんの」
「へ。遊びに来たんだけど。せっかく学校休みだし。退屈だったから」
なんで、こんな鮮明な話し方を、するんだろう。と律は思った。
こんなに周り、うっとおしい音で支配されてるのに、なんでこんな。
見えなくても、髪から雫を滴らせながら濡れ鼠になっている姿が想像できた。
「あ、ごめん。勉強の邪魔しちゃった?」
「それはいつもだから……いいけど。じゃなくて。台風だろ?暴風警報でてるだろ?だから学校休みなんだろ?」
雨に負けないように声を張り上げて、根本を説き聞かせても、無駄だ。と分かってるけど。
十分分かってるんだけど。
律は深い脱力感に襲われながらも、チェーンをはずして、客を部屋の中に招き入れた。
「シャワー使ったりする?着替え、ジャージでよければ貸す」
「うん」
「お腹すいてる?」
「うん」
「じゃあ何か作っとく」
うん。と言って、明美は笑った。
+ + +
どのチャンネルに回しても、テレビは台風情報で溢れてた。超大型台風と連呼してた。
キッチンのテーブルで、明美が、ふーふーと息を吹きかけながら、つるつると焼きうどんを食べている。
体から湯気を立ち上らせながら。
「おいしぃー」
メガネを掛けたら世界は鮮やかで。でも少しだけ今は曖昧に律は思う。
(なんでこんななんだろ……)
その湯気で、レンズがくもってしまったみたいに。
時計の針はきっかり午後2時を示していた。
明美は箸を置いた。合掌して、ごちそうさまでした。
きれいに食べ終わった皿を流しまで運んで、水につけて。
ぱたぱたとスリッパを鳴らしながらリビングまでやってきて、律の隣のソファーに座った。
クッションを一つ、抱え込んで。
しばし一緒に台風情報を見る。
「……」
沈黙に耐え得る相手って貴重な存在だと律は思う。
でも今日はほんの少しだけ、違うと気付いてしまっていて。
それが分かるのも、なんだかな。と思う。
隣で台風情報をじぃーっと見てる明美は、学習とかしない人物で。
常識を気にしないで、メリットとデメリットを計算しない人物だった。
律は一つ深くため息をついて。
明美の肩に掛かっているだけになっていたタオルを抜き取って、まだ雫が滴る髪をごしごしと拭き始めた。
「ちゃんと拭けるようになってよ、髪ぐらい」
「私ねえ、りっちゃんにごしごししてもらえるの、かなり好き」
そんなことすごい嬉しそうに言う。何よりもずるい手だと、律は思った。
「……あのね。今日おかあさん帰ってきたよ」
唐突に、雨の轟音が近づいて。この場面を演出するみたいに。
「おばさん?」
「うん。なんか元気、みたいだったよ。カッコイー人連れてた」
「……それで?」
「えっと、当分の生活費とたこやき置いて、また出てった」
タオルで隠れてはいたけれど、明美は話す間、一度も台風情報から目を逸らさなかったと思う。
明美との関係は、世間で言うと幼なじみというやつで。
だからと言って、家が近いわけではなくて。
証拠として、律はそのおかあさんに会ったことも2回しかなかった。
どういう仕事をしてる人、とか聞いてないから知らない。
だから、そんなに親しいわけでもないのかもしれないし。
実はあんまり、よく知らないのかもしれない。
でも、分かることもあって。なんだかな。と律は思う。
ぎゅっ、とタオルごと頭を抱え込んだ。
「りっちゃん?」
テレビが見えないんだけど。と後に続きそうな調子で明美は言う。
(でも、分かることあって)
この幼なじみ、人の目を見て話さないのはよくない兆候の現れだった。
そして、たいてい本人は無自覚だ。
「……よかった」
なにが?と、怪訝そうに明美。
「プールに飛び込まなくて」
その発言に明美はびっくりしたみたいだった。
なんとか律の腕を振り解こうとして少しジタバタとしたり。
なんで?なんで?と繰り返しながら。
「こんな日にプールに飛び込んだら、水中から顔を出しても溺れるからね。覚えといて」
何か言いたげな上目遣いを明美はして。
しかし、律は律でなんでか、この頭が無償に愛しくて離したくなかった。
例え不満を言われても今は離すつもり、あんまりなかった。
「りっちゃんってエスパーかも。それ、私の今日の究極の二択の一つ目」
随分経って、ポツリと明美は呟く。
「一つ目?」
「ええっとね。プールか、りっちゃんのご飯かって二択の」
「……それで?」
「だから今こうしてるんだってば。りっちゃんの焼きうどんに勝てるものって、あんまりない」
それから、律はゆっくり明美の頭を解放した。
タオルがソファーの上に無造作に落ちた。
明美はまた変わり映えのしない台風情報を、じぃーっと見始めた。
(なんで、こんな……こんななんだろう)
明美に勝てるものって、あんまりない。
「……よかった。オレ、料理得意で」
律は心の底から呟いた。
うん。と言って、明美は笑った。
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