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「こんなに空が青いと、試したくなるよね」

 何を?と尋ねる間もなかった。
 トン、という軽い音を耳にして文庫本から顔を上げたらもう、空を背景に仁王立ちを決めていた。

 高さ1メートルぐらいしかないコンクリート塀なんて無駄だと思う。
 ていうか、むしろ邪魔だ。
 しかも幅が30センチぐらいしかとられていないなんて、余計にリスクを増すだけだ。
 少しでも高いところがあれば登りたくなるのが人間の性質なんだから。
 それが、明美の性質なんだから。

 律はため息をついた。
 読みかけの文庫本の、しおり代わりにできるものを探す。
 昼休みに強制的に屋上まで連れ出された。
 身体一つだったと気付いて、仕方なくメガネを挟む。

 不自由になった視界で、自由になった両手で、掴みたいものに手を伸ばした。

「えっち」

 暴言が降って来たけれど、無視する。

 控えめに上履きのかかとを掴んでるだけなのに、そんなこと言ってたら、この先どうするんだよ。
 実際はどうにもならない気もしたけど、律はそれも無視した。

 この手は命綱だった。唯一、明美をこの世に引きとめておくことができる。

 ひとしきりの文句を誰よりも高いところで吐き出したあと、明美はふと静かになった。
「まぁ鍛えてるし、いっか」
 なんて何か悟った呟きを残して。
 うん、立派な太ももだから大丈夫だよ。
 と、目上にあるものの感想を言おうとして、やめた。

 

「ね、屋上から飛び降りる人って、死にたくて飛び降りるの、それとも、飛びたくて飛び降りるの。どっち?」

 明美は、自分を、歩く万能の辞書だと決め付けているようなところがある、と律は思う。
 問い掛ければ答えが返ってくることを信じて疑わないところがある。

 それが自分の存在価値であるならそうする以外、律に選択肢はないのだけど。
 両手は明美の命綱に。頭と口は明美の辞書に。

「飛べるかもしれないから、じゃない」
「人生の最後の最後で、その可能性にかけてみたい、ってこと?なるほど」 

 明美の足が小刻みにむずむずし始めたので、手に、命綱に力を込める。

「どんなに飛べそうでも飛べないよ。いくら明美でも、飛べないからな」

 辞書もフル活用して、分かりやすい単語で律は説得する。
 きっと睨みも添えたけど、明美は小首をかしげるだけであっさりかわして、空を指差した。

「こんなに青くてもだめ?」
「うん」
「どうしてもだめ?」
「うん」
「……ちぇ」

 一番高いところで舌打ちする。そして、まぁいっか。と、また謎を呟いて静かになった。

 明美の足の間から、山々が描く青い稜線が見えた。
 律の目には、近いところよりも、遠いところのほうがはっきりと映った。

 今日の空は、雲の白にも邪魔されずに青一色で統一されている。

 明美が飽きるまで暇だったので、頭の中で、町並みを地図に変換していくことにした。
 電車の線路をたどり、最寄の駅から、商店街のあるあたりを。
 交通量の多い大通りから、一本脇に入った道沿いに並ぶ住宅の屋根を。
 最近できた大きなマンションと、そばにある児童公園の緑を。
 ひらひらと風になびくスカートを。

「……」

 メガネ、と思ってしまったのは、遠いところよりも近いところのほうがぼんやりと映るからで。
 それでも頭の辞書は、荒い画質を上手く加工して、きっちりと家まで持ち帰る準備を完了させた。
 結構万能なのかもしれなかった。

「こら見るなー」

 青い空に思いを馳せていたはずの明美の目と、ばっちり直線で繋がった。
 ぱっと律は慌てて顔を下に向けた。
 ごめん、と俯いたままいちおう謝ったけど、届いたかどうかは微妙だった。
 それきり明美は黙ってしまったので、怒ったのかもしれなかった。

 暇つぶしもできなくなって、足元のコンクリートとにらめっこ、なんてすぐに飽きた。
 ふーと息を吐き出したら、少しだけ右手が力んだ。
 気持ちの緩みは、綱の緩みへ。
 すすす、と何の抵抗もなく、手が上履きのかかとを前へ前へと押し出した。
 そしてついには空へと。

 カターン、と甲高い音が響いたのは数秒あとのことだった。
 それは、屋上を飛び出してから地面に落ちるまでのタイムラグで。

 律は顔を上げ、まじまじと、左手に残された上履きを見つめた。

 屋上の塀から身を乗り出すようにして、確認する。
 真下にある運動場脇の小道に、逆さまになって落ちている白い上履き。
 はっきりと、見えた。

「……明美?」

 ずるずると崩れるようにして、律はその場に座り込んだ。
 いくら明美でも。どんなに空が青くても。
 人間が飛べるはずはなくて。
 つまり。
 律は、手の中にある片方だけになった上履きをぎゅっと握り締めた。
 辞書は正しい答えを導き出すのを全力で嫌がった。肝心なときには役立たず、だった。

 ひらひら、と目の前がちらつく。
 太陽光線を遮って、律の目に影を落とす。
 うっとおしいな、と律は思った。それどころじゃないよ、と。
 ぼんやりしてるし、それがなんなのかとか考える余裕、ないよ。
 どんなに空が青くたって全然、そんなの関係ないよ。

「……りっちゃん?」

 名前を呼ばれた。

「ごめんね、ごめんなさい」

 謝られた。

 足元を見たら、靴下だけになっていた。
 足の裏を想像して、ああそれ、誰が洗うと思ってんだよ。と律はぼんやり思った。

「……明美、ほんとに飛び降りたのかと思った」
「うわっ飛ばないよ。飛べないし。ごめんだから、泣かないで」

 もう目はぼんやりしすぎて、使いものにならなくて。
 だから、がむしゃらに、一番近くにあったものに手を伸ばした。
 腕に当たった感触はどうやら髪で。
 命綱、首のあたりに巻きつけることに成功したらしかった。

 ぎゅっと明美を確認した。まだこの世にある身体はあったかくて気持ちがいい。
 珍しく大人しく、抱きしめられていた。
 明美も反省することなんてあるんだと、頭のすみで思う。 

「死ぬんでも飛ぶんでも、なんでもいいからさ」

 と、明美の肩にあごを乗っけて、律は切実な願い事をする。

「そういうときは命綱ごとつれてってよ」

 ええっどこに? と耳元で、明美が見当違いの声を上げる。
 問い掛けに答えを返さずに、辞書は沈黙を守る。

「わ、分かった。任せとけ」

 しばらくして。
 いまいち分かってない声音で、明美がはっきりと約束した。
 とんとん、と背中を叩く手は、泣いている子をなだめるにしては少し強めで。
 律は顔をしかめて、それでもとりあえず、信じて疑わないことにした。

 

 

 

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