指 輪

 

「腹減った。なんか食うもんある?」

 他所のお宅にお邪魔するときの礼儀を小学校で習わなかったの?
 非難の視線もまんまと無視して、狭い玄関にスニーカーを脱ぎ捨てる。
 ごん、と一つはドアにくっきりと足型をつけた。しょうがなく、あるべき場所に揃えて、置き直す。

「あー、これ土産ね」
 と差し出されたのは、近くにあるコンビニ店の袋で、ウーロン茶のパックとグレープフルーツジュースのパックが一本ずつ入っていた。

 今日は、春の陽気だったらしい。
 突然の訪問者の薄着でそういう、判断をする。
 あいにく、この部屋にはまだ春の風は吹き込んでいなかったけれど。

 部屋の中央にでんと置かれたままのコタツに、和倉はさっそく足をしまい込んだ。続けて、テレビのリモコンを操作し始める。
 お笑い番組にチャンネルが合わされた。

(さっきのドラマの続き、ちょっと気になってたのにな)

 不満は飲み込んで、ノドを通過させて胃の中に隠した。
 ひきつった顔を見られないように、彼のほうに背を向けて、台所に立った。
 勘、なんてかっこいいものではなく、慣れ、で多めに作ってしまった夕食のカルボナーラを、ガスコンロの上にのせた。
 なんか、他にも作ったほうがいいだろうか。
 自分一人だとつい、手抜きが増えてしまって、メインしか作らなかったりするのだけれど。
 頭の中で、冷蔵庫のドアを開けて、すぐに、閉めた。
 温め直したカルボナーラを適当な皿にもって、フォークをつけて、これ土産ね、と渡されたウーロン茶のパックを脇に抱えて、コタツの上まで運んだ。

 和倉は、無言で受け取ると、無言で食べ始めた。
 他所の自宅でご馳走になるときの礼儀をうんぬん、と思ったけれど、口には出さない。

 テレビでは、見たことのない、若そうな、同世代くらいのお笑いコンビが漫才をしている。
 ときどき、観客の笑い声の演出に合わせて、肩が小刻みに揺れる。
 手のほうは、機械みたいに、お腹が膨らめばなんでもいいみたいに、自動でフォークを動かしていた。
 そういえばこのあと、バイトがあるとか、そんなことを言っていたような気もする。

 和倉は、これ土産ね、と買ってきたウーロン茶のパックを手にとって、口を開けて、そのままストップした。
 軽く手を持ち上げて、手のひらを向けて、ストロー、とだけ言う。
 人にものを頼むときの態度はうんぬん、と思ったけれど、コンビニ袋の底から探し出したストローを渡した。

 こんな関係が続いて、きっかり、3年目。
 今日が記念日だということを知っているのだろうか、この男は。

 大学のサークルの、何度目かの飲み会で、たまたま偶然隣に並んで座った日。
 適当に、その場の社交辞令を交えて、口説かれて。
 慣れていなかったせいで、適当に、上手に、断ることができずに、そのままお持ち帰りされて。
 気がついたら、和倉の彼女になっていた。そんなきっかけを作った、記念日。

 ……あのとき、ぽい、とストローのごみ袋のように捨てられなかった分だけ、よかったのかもしれないし、悪かったのかもしれない。

 真佐は、ひらひらと床に舞い降りた白くて細長い紙を拾い上げた。
 ごみはごみ箱に、うんぬん。
 ベッドにごろんと横になって、手の中で弄ぶ。くしゃくしゃにしてみたり、伸ばしてみたり。

 和倉は、ずずずーっと音を立てて、ウーロン茶のパックを空にした。
 そして、空腹を救ってくれたカルボナーラにろくな感謝もせずに、よいしょ、と掛け声一つ、ベッドに這い上がってきた。
 ごろん、と二人並んで横になる。
 平均的な女の一人暮らし用のベッドだから、そんなに大きいサイズではなくて。
 だから、平均的な男、和倉の身体はもう半分くらいはみ出していた。
 よいしょ、と掛け声もう一つ、真佐の身体に乗っかるようにして、身を寄せてきた。
 重い、と反論する気も起きずに、真佐は、壁に背をひっつけるようにして、なるべく小さくなるように努めた。

 つけっぱなしのテレビから流れてくる笑い声と、耳のそばで繰り返される呼吸音。
 奇妙に穏やかな空気に包まれる。
 少し顔を上に向けると、今にも落っこちてきそうなまぶたが見えた。

(ねむたい、のかな……?)

 今にも寝息に変わりそうな気配。
 しかしそんな真佐の予想に反して、こそこそと腰のあたりをあやしげに動き始める手を見つけた。

「え、するの?」

 和倉はベッドに両手をついて、身を起こした。
 なんでそんなこと聞くんだ、というように、中央に眉が寄る。
 怒らせたような。そんな気配に、真佐は焦って、言い訳を探した。

「シャ、シャワー浴びたいかも。今日まだ、お風呂入ってないから」
「無理。あんま時間もねーし」

 そういえば、このあとバイトがあるとか言っていたような。

 でもそんな、無理するくらいなら、やめてもいいのに。
 別に、彼女の部屋で、同じベッドに入ったからって、義務感でする必要なんてないのに。
 淋しいのなんて、あのまま、まぶたを落っことして、無視してくれればよかったのに。

 流れ流されてたどり着いた、3年目の岸辺。
 今日が記念日だということを知っているのだろうか、この男は。

 答えを、知りたいような、知りたくないような。
 もう、とっくの昔に知ってしまっているような。
 奇妙な空気に包まれて、バイトまでのほんのわずかな時間だけ、真佐を離してくれなかった。 

 

 

 

 左手の薬指に、ちょうちょがとまっていた。

 ただのイタズラにしては、心臓の負ったダメージが大きい。
 でも、和倉にしてはシャレていたので、少しだけ笑ってあげた。力の足りない笑い方になった。
 ちょうちょの素材は、見覚えのある、白くて細長い紙だった。

 試しに、隣に手を伸ばしてみたけれど、やっぱり、何にも触れずに。
 シーツの冷たい感触だけが、真佐の手に貼り付いた。

 そのまま、しわの入ったシーツを伸ばすようになでると、薬指に結ばれたストローの袋がころころと指の周りを回転し始めた。
 そして、結び目がぶつかると、止まって。
 今度は反対側に動かしてみると逆回転し始めて、シーツと結び目がぶつかると、やっぱり止まった。

(ああもう、邪魔くさいな)

 この、ぴょん、と飛び出しているところを引っ張ったら、簡単にほどける。
 ちょうちょの構造を確認してから、まるで、今の自分たちの関係みたいだな、と真佐は思った。
 まさか、あの男にそんな詩心があるとはとても、思えなかったけれど。
 きっと、欲ばって引っ張ったりしたら、するり、って簡単にほどけて、消えてしまうんだろうな。
 こんな、ストローの袋に繋ぎとめられているような、もろくて、安っぽい関係。
 捨ててしまえ、と思う。 

 そもそも最初から、一番大事な何か、が欠けてしまっている関係。
 相手の態度に一喜一憂、どきどきしていた恋愛特有の病気も、ずいぶん前に完治して、すでに対和倉用の抗体までできてしまった。
 だからこんなふうに、流れ流されながら3年間も見続けているわけで。きっとこれからも、もうしばらくはそうなわけで。
 ときどき、ふと思いついたように、こんなくだらないイタズラをされて。
 たったこれだけのこと。
 わかっているのに、薬指と直結した心臓に、あったかいものが流れ込んできているのを感じた。
 普段、どれだけ報われていない心臓なのかが分かって、申し訳ないのと同時に、とてもいとおしく感じた。
 大事にしてあげなくちゃ、と思った。

 立ち直れば早くて、真佐は、少しの未練も振り切って、薬指に巻きついたストローの袋、ぴょん、と飛び出しているところをひっぱった。
 するり、と簡単にほどけて、下から新しく銀色の光を生んだ。

 光った、と思ったのは、どうやら都合のいい錯覚だったらしい。
 部屋の中は薄暗くて、静かで。電気とテレビの電源切ってくれたんだな、と遅れて気がついたり。
 真佐はベッドの端に腰掛けて、電気のヒモをひっぱった。

 ぱかぱか、と短く点滅して、部屋の中が明るくなる。

 左手の薬指に、鈍い銀色に輝く指輪があった。
 目を閉じて、3秒後に開けても、まだそこにあった。
 薄情な彼氏のように、彼女を一人残して、消えて、なくなったりしなかった。

 部屋のどこかで、携帯電話が震えている。
 真佐は、ずいぶん経ってから、それに気づいた。
 静かな中で響く音、手を伸ばして、通話ボタンを押す。

「……もしもし、真佐? オレなんだけど」

 オレって誰だよ。最近流行の詐欺かもしれないから、切ったほうがいいかも。
 そのほうがずっと、心臓に優しいかもしれない。
 あーとかえーとか、いつもより無駄に電波チャックをしているその声を前に、迷う。
 いつもちっとも報われていない心臓。大事に、大事にしてあげなくちゃって思うから。
 もしもし? と、電波が怪訝そうな声を届ける。

 真佐は、指輪と薬指と心臓と耳を、一直線に繋げて。
 すう、と向こう側と一緒の気持ちになって、深く深く息を吸い込んだ。
 はい、と答えて、準備をした。背筋を伸ばして、ベッドの上に座り直す。 

「……別に今じゃなくても全然いい。だけど、いつかお前が、真佐が、オレで妥協してもいいかなって思ったときには」

 合コンでたまたま隣に並んで座った日から、流れ流されてたどり着いた3年目の岸辺で。
 一匹のちょうちょと、薬指で鈍い銀色に輝く指輪を見つけた。

「……結婚して?」

 ストローの袋よりは、ごみじゃない分だけ、少しマシなだけで、安っぽいのは違いないのに。
 こんな言葉がくっつくだけで、大事に、大事にしてあげなくちゃって。
 してあげたいって、そう、思うなんて。

(……そもそもこの男は、今日が記念日だということを知っているのだろうか?)

「和倉、あのさ」
「ん?」
「まずは、電話を掛けるときには、相手にちゃんと、自分の名前を伝えること」
「…………はい?」

 3年目の岸辺から、
 まずはこんなふうに、流れ流され始めてみたりして。

 

 

 

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