水銀効能



 体温計が壊れた。
 百八つの鐘の音が鳴り始めた、ちょうどその瞬間に。
 私は高熱に縛られ、蕎麦の甘ったるいにおいを遠目に布団にくるまれていた。
 わずかに開いたカーテンの隙間からは、漆黒の空が見える。
 今見ているのは空なのか雲なのか、一瞬判断に迷うような、どんよりと沈みこんだ空だった。
 やがて、母が持ってきた新しい体温計は懐かしい手触りを持っていた。
 ガラスの体温計を振ると、先っぽの銀色がきらきらと反射する。脇に挟むとひんやりと溶け出した。
 この不思議な銀色の棒は熱を吸いとってくれるのだ!
 と、昔、頑なに信じていた頃があった。
 小学校や中学校に通っていた頃だったと思う。
 三分をすぎて生温くなってもけっして放そうとしなかったのよ。とは、母親の談。
 ただの水銀にそんな力はない。悟りを開いた三分後、力なく体温計を振り続けてみたものの、銀色の棒が降りていく気配はない。
 ずきん。と、耳元で破裂音がした。
 熱のある頭で難しいことを考えるのはよくない。おとなしく氷枕に頭をつけると、さーっと一斉に氷が脇に寄ったのを感じた。
 そんな、ささいな拒絶が弱気を刺激する。
 せっかくのお正月なのに。
 一年間、十二カ月を頑張ってきたごほうびに訪れる十三番目の月なのに。
 働きすぎの世間が奨励する、数少ない国民的お休みなのに。
 とは言え、熱がある、というのは身体が今頑張って菌と戦っているという証拠には違いなかった。
 銀色の棒の助力は期待できない。
 となると、私に残されているのはせいぜい応援することくらいだった。
 頑張れ私。もう一度しっかりと布団にくるまれて目を閉じる。
 百八つの鐘の音はいつのまにか鳴り止んでいた。

 どこかで電話が鳴っている。
 誰もいないのだろうか、不安になるくらい長いコール音が途切れると、天から声が降ってきた。
 ついにお迎えが来たのだろうか。
 うっすらと目を開けるとそこに、ドーナツ型の光を頭に宿した初老の女性が立っていた。頭の光は部屋の蛍光灯で、初老の女性は、ピンク色のパジャマを着た天使などではなく母に違いなかった。
 母は受話器を片手に、こちらを覗きこんでいた。
「鈴木さんって知っとる?」
 どの鈴木さんだろう。首をかしげると頭の後ろで枕が揺れた。氷はすっかり溶けて水枕になっている。
「鈴木豊さん」
 付け加えられて、今度はまばたきで答えた。
 鈴木豊。覚えのある名前だ。思い出のアルバムをめくったらたぶんどこかのページにはいるはず。
 ああ、鈴木くんね。鈴木くんがどうしたって? かすれ声で私は尋ねた。
「亡くなったって」
 母の深刻ぶった顔が、熱ぼけの頭に焼きついて、私のアルバムの新しい一ページを飾った。



 * * *

 ああやっぱり降ってきた。
 私の声ではない。
 周囲から漏れた言葉を拾い空を仰ぐと、頬の上に落ちてきて消えた。外と内、温度差はどれくらいあるだろう。その差があればあるほど、自分の輪郭がはっきりとするような気がする。世界と薄膜を隔てて向かい合っているような感覚だった。
 会場内に入りきらない弔問客で黒い列ができている。降り始めた雪をふせぐために傘の花が開き始めた。
 私は友人とともにその列の最後尾に並んだ。
 正月三箇日のど真ん中、ちょうど里帰りしていた同窓生が多かったのだろう。
 見知った顔が溢れて、あちこちで即席同窓会が開かれていた。
 後ろめたい笑顔は成人らしくTPOをわきまえたものだったけれど、見え隠れするのは小学生や中学生の頃の思い出ばかりだった。
 主催者であるはずの鈴木くんがこの場にいないのは、とても残念なことだった。

 今夜が通夜で、明日が告別式。受話器の向こうからは事務的な声が聞こえてきた。
 バイクの事故だったらしい。
 夜、アルバイトから家に帰る途中に、信号無視をした乗用車と正面衝突をした。意識不明の重体で病院に運び込まれて、一週間の入院の後、今朝、亡くなった。色々な人から聞きかじったことを総合するとそういうことだった。
 なぜか私は、鈴木くんは病気が原因で亡くなったのだと思いこんでいて、バイクの事故だと聞いて意外に感じた。
 祭壇の中央、菊花に囲まれた写真の中で鈴木くんは朗らかに笑んでいる。
 ああそうだ、彼が鈴木くんだった。
 小学生から中学生、少し飛んで今に至った鈴木くんは、成人式のときの写真だろうか、ぴしっとしたスーツを着こんでいた。
 小学生の頃の、ひょろりと背の高い痩せた男の子の姿は見つからなかった。
 弔問の列は会場内にまで続いていた。
 私の体調を気遣った友人が、椅子は全部ふさがっていたので、壁際へと移動させてくれた。冷たい壁に寄りかかって、お坊さんの読経に耳を澄ませる。
 あちらこちらから、すすり泣きが聞こえてくる。
 それは小学生のときから鈴木くんと仲のよかった男の子のものだったり、見知らぬ女の人のものだったりした。
 私は、頭の中で思い出のアルバムをめくってみた。けれど、適当なものは見つけられない。
 これまでの人生で、鈴木くんと縁があった機会なんて皆無と言っていいのではないだろうか。小・中とともに同じ学び舎で過ごしただけの関係だ。
 ふと、あたりを見回した。
 相変わらず薄膜を一枚隔てたような世界は、蛍光灯の輝く、天井のあたりから白いもやがかかったように見える。
 幽霊になった鈴木くんはこの会場のどこかにいたりするんだろうか。
 自分の死を悼む人々を見下ろしたりしているんだろうか。
 突然身に及んだ不幸を恨んだり、通夜なのに笑顔でいるような同窓生を恨んで、道連れにできそうな魂を探していたりしないだろうか。
 自分が絶好の標的に思われて、思わず身を正した。
 けれど、でも、よく考えてみると鈴木くんの幽霊はあまり怖くなさそうだ。
 言葉を交わした記憶はなくても私は鈴木くんを知っている。たとえ幽霊に姿を変えた彼と会っても、愛想笑いぐらいはできそうだった。
 隣に控えていた友人に袖を引かれた。
 お焼香の順番が回ってきたらしい。
 一緒に中央の祭壇へと向かう。足取りが不安定な私に、友人が、大丈夫? と聞いてきた。
「大丈夫」
 服用した風邪薬の効果が出ているのだろう。
 副作用なのか身体中にぼんやりとした倦怠感があるけれどつらくはない。
 ただ会場内には人の熱気がこもっていて少し暑い。通気性の薄い黒い服の中で身体が汗ばんでいた。
 列の後ろに着く。前に立った白髪の女性の肩がかすかに震え、ハンカチで目頭を押さえるのが見えた。
 私はもう一度、思い出のアルバムをめくってみた。
 このどこか一ページぐらいは鈴木くん専用のページがあってもおかしくはないのだが。
 探し当てる前に焼香台にたどり着いた。香炉から立ち上るお香のにおいに包まれる。
 誰かの通夜に出るのなんて初めてのことだった。
 作法を知らないので、周囲の見様見真似を実行する。
 手を合わせた。恐らく形どおりに済ませて、顔を上げた。
 横を見ると、先ほどの白髪の女性がまだ深く頭を下げていた。
 ほんの少し先に、四角く白い箱が置かれていた。
 今、あの中で鈴木くんは眠っているはずだった。
 箱の扉は堅く閉ざされている。
 ぷつりと、私と鈴木くんとの縁はそこで途絶えていた。


 いつのまにか、友人とはぐれてしまっていた。
 まだお焼香が終わっていないのかもしれない。私は会場のエントランス付近の壁際に寄りかかって連れを待った。
 帰路に着く懐かしい顔ぶれは、来たときよりも若干やわらいで見えた。またな、またね、と口から漏れる声は明るい。
 ゆるゆると薬の効果が薄まっていく感覚を味わう。
 外から入ってくる空気が冷たい。頭と身体に、忘れかけていた鈍痛を呼び起こす。
「あら」
 声の方向を振り仰ぐと、先ほどの白髪の女性が立っていた。
 一瞬聞き違いかと思いあたりを見回したが、女性はまっすぐ私を目指してきた。
「こんばんは」
 挨拶をされて、反射でお辞儀を返した私は、続けて名前を呼ばれて、その言い方で気がついた。
「こんばんは、先生」
 小学校の、保健室の先生だった。
 先生は、はい、こんばんは。と繰り返した。
 髪には白いものが増え、私が成長した分だけ小さくなったように見えるけれど、言い方と声の張り具合は記憶の中のままだった。
 小学生のとき、私は熱をよく出す女の子で、たびたび保健室のお世話になっていたのだ。
 あの頃にはなかった細かいしわの入った目じりには、かすかに赤味が残っている。
 それを恥じるように先生は微笑んだ。
 それから、私の顔色の悪さを勘違いしてか、こんなことを言った。
「あなた、鈴木くんと仲がよかったものね」
 衝撃の事実を知った。
 気持ちがそのまま顔に現れたのだろう。私を見た先生の小さな目が真ん丸になった。

  * * *

 死んでしまいそう。
 玄関に倒れこむような勢いで帰ってきた私の行く手を母がふさいだ。
 ぱらぱらと天から白いものが降ってくる。
 まるで外で降り続けている雪のようだった。
 額についたそれを舐めて私は顔をしかめた。塩だった。はたして食卓の塩にも穢れを祓う効果があるんだろうか。
 鈴木くんは私を連れていくのを諦めてくれるだろうか。
 喪服を脱ぎ捨て、浴室に向かう。
 置いてあった水銀体温計を脇に挟んだ。ひんやりとした感触に少し身体が震えた。
 鏡の中で対面した私はひどい顔をしていた。
 化粧は汗と熱で盛大に崩れているし、何より生気が薄い。先生に勘違いされるのも仕方がないことだったかもしれない。
 ちらりと時計を見た。三分。記憶にとどめて、クレンジングオイルに手を伸ばす。
 一通りの作業を終え、手を水洗いしながらもう一度時計を確認した。三分。脇から体温計を取り出した。
 銀色の棒が、見たこともない数字まで達していた。
 思わず体温計を勢いよく振ると、濡れた手の隙間からつるりと飛び出した。
 次の瞬間、パリーンっと、甲高い音が耳を打った。
 体温計が壊れた。
 騒ぎを聞きつけてやってきた母親は、私の足元の惨状を見てため息をついた。
 床の上では、ガラスが粉々に砕け、銀色のかけらがキラキラと輝いていた。きれいだな、と場違いなことを思う。
 床にしゃがみこみ、伸ばしかけた手を、母が止めた。
「だめよ、触っちゃ。水銀には毒があるんだから」
 それ、私、知ってる。
 同じようなことを昔、言われた記憶があった。
 思い出のアルバムをめくる。
 覚えているのは、保健室特有の、消毒液のにおいとシーツの白い色だった。
 あのときも、パリーンっと耳に痛い音を立てて、水銀体温計は壊れたのだ。
 先生に叱られるのを恐れた私は、急いで破片に手を伸ばした。
「触っちゃダメだっ。水銀には毒があるんだぞ」
 そう叫んだのは、ひょろりと背の高い痩せた男の子だった。男の子は体操服を着ていた。ちょうど、秋の運動会のリハーサルが繰り返されていた時期だったからだと思う。
 保健室にやって来た男の子は、真っ赤な顔をして若干呼吸が乱れていた。
 わかりやすい症状だったので、不在の先生に代わり、保健室常連の私が体温計を貸し出そうとして、そして、起こった事故だった。
 怒鳴られ、少し冷静さを取り戻した私は、ふふんと自慢げに笑ってみせた。
 違うよ、と諭すように話す。
「銀色の棒は、熱を吸いとってくれるんだよ」
 続けて、私は懇々と水銀の効能についての講釈を垂れたような気がする。詳しいことまでは思い出せない。
 気がつくと、男の子は私の隣にしゃがみこんでいたのだ。
「ほんとうに?」
 と、尋ねた彼の目は、期待と不安の輝きに満ちていた。
 それからしばらく、私たちは、床に散らばった銀色のかけらを見つめていた。
 たぶん、先に手を伸ばしたのは彼だった。
 と、私は記憶しているのだが、確信はない。
 そっと、私たちは指先で銀色に輝くかけらに、触れた。
 ひんやりとした温度に触れたような気がした。
 実際には、すぐに先生がやってきて、二人とも体温計の残骸から引き離されたから確かではない。
 確か、右手の人差し指だ。
 私は指先をじいっと見つめた。指紋の一本一本まで食い入るように見つめた。
 水銀に触れた。
 幸いなのか、水銀の毒はいまだ私の身体を蝕んではいない。
 身体は盛んに熱を発して菌との戦いを続けていた。苦しいしんどい助けてくれと、自己主張は激しい。
 体温計の残骸を掃除するため、と母が掃除機を取りに行った。
 その隙に、私は一番大きい銀色のかけらを盗み取った。早めに寝る旨を告げ、自分の部屋へと戻る。
 パジャマに着替え、布団にもぐりこんだ。握ったままの手のひらが熱を発している。
 どくんどくんと波を打つようで、まるでそこに心臓が移動したようだった。
 ぎゅっと手のひらを強く握りしめた。ガラスの尖った部分がやんわりと肉を突き刺す。
 直接、水銀に触れたわけではない。だから毒が入り込むことはない。
 真実を知った今でも、心臓はどくんどくんと騒がしく動く。
 あのとき、鈴木くんの指は水銀に触れたのだろうか。
 もし触れたのだとしたら。
 私は、入り込んだ毒の効果が気になって仕方がなかった。

 



 

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