+救いの人+ ++TOP

  + 2 + 

 

 2

 ひや。

 突然の刺激に、いつもより高さ割増の声が出た。
 冬柴さんがびくりとして、一歩、二歩、と遠のいていくのが見えた。
 手に、白と水色でできた、カルピスウォーターの缶がぶら下がっている。

 まだ衝撃の残るおでこをなでながら、放り投げられたそれをナイスキャッチした。

「おでこ、赤くなってるから、飲む前に冷やしたほうがいいと思いますよ」

 ちい子は、はーい、と手をあげて、言われたとおり、おでこに当てた。ひりひりとした。

 

 次の電車が来るまでどうぞ、と招かれた駅員室には冬柴さんと、ちい子しかいなかった。
 おでこに当てた缶の向こう側で、冬柴さんが行ったり来たりしている。
 こんな、めったに利用者のない駅でも、やっぱり仕事はあるんだな、と失礼なことを考える。
 ちい子は、窓際の、最近すっかり私物化してきたソファーに腰掛けて、1時間後に思いを飛ばした。

 冬柴さんが石油ストーブをつけてくれたおかげで、部屋の中は外よりもあったかい。
 温度差で窓に浮かんできた結露を、ひとさし指ですくい上げる。
 びーと横棒を引っ張って、なんとなくそのまま文字にした。

「……恋わずらいでも?」

 気がつくと、冬柴さんがすぐ後ろに立っていた。
 手が伸びてきて、ちい子の書いた文字の後ろに、はてなを付け足す。

 すき?

 室内だから、冬柴さんは帽子を脱いでいて。
 やわらかそうな茶色の髪が、駅員さんぽくなかった。
 こんな田舎の駅に派遣されるっていうのは、サラリーマンでいう左遷、とか言うのじゃないのかな。……偏見だろうか。
 そんな冬柴さんは、鼻歌を交えて、自分の分のコーヒーをついでいる。
 ちい子も、おでこの熱でぬるくなったカルピスウォーターの缶を開けた。

「冬柴さんは、好きな人いますか?」

 きっかり3秒くらい、冬柴さんは固まっていた。

 駅員さんを冬柴さん、と意識したのは、生徒手帳を拾ってもらったときから。
 いつも寸前で電車に置いて行かれる乗客のことを、いつからか、ちい子さん、と冬柴さんは呼ぶようになった。
 このときだけは、ちい子、なんて変てこな名前を付けた両親を呪った。

「そうですねえ……」

 ずずず、とコーヒーが変わりに返事をする。
 なんだか一気にじじくさくなった冬柴さんが、ふふふと笑った。

「本当に好きなら、私のために電車を止めてみせてよ」

 どっかで聞いたことのある台詞だな。
 ちい子は顔を真っ赤にして、すき? を、上から拳でぐりぐりと塗りつぶした。

「……それ、誰に聞いたんですか?」
「えーと、ちい子さんと同じ制服着てた子たちから。いつもちい子がお世話になってます、って菓子折りを持ってきてくれて。ついでに雑談したからそのときに」

 と説明しながら、冬柴さんがかぶりついているのは、わが高校の前にある和菓子屋のどら焼きに違いない。
 犯人の目星がついて、抹殺リストに名前を書き込んでおいた。

「残念ながら、ちい子さんの条件をクリアできるくらい好き、な人となると厳しいですねぇ」
「ああもう、違いますよ! その、告白してもらったんですけど、タイミングが微妙で。そのせいで電車、乗り遅れちゃったから! ちくしょう、それなら電車くらい止めてみせろーってイジワル言っただけで! 私も本気で思ったわけじゃ……」

 そうですかー、と冬柴さんはすでに興味が失せたように呟いた。

 一週間ほど前に、初めて告白というものをされた。
 同じ小学校だった、元クラスメイトの男の子から。
 結構嬉しかったんだけれど、もう少しタイミングは考えてほしかった。
 そのおかげで見事、ちい子は電車に乗り遅れ、またもや冬柴さんに救われるという失態を犯してしまったのだ。

 いつのまにか冬柴さんは、通常業務に戻っていた。
 一乗客の、女子高校生の話を聞くのも仕事のうちなのだろうか。大変だな、と思う。
 窓ガラスにはぼんやりと、行ったり来たりする影が映っている。
 気付かれないように、ちい子はひとさし指で影に触れた。

 窓ガラスの塗りつぶしたすき?から、つーと一筋の雫が垂れた。
 ぼんやりと映った顔にかかって、まるで涙みたいだ。
 そんな表現をしたのは、どんな詩人さんだったっけ、思い出せなかった。

 石油ストーブのおかげでほてった身体に、眠気がとろとろとやってきた。
 小さめのソファーに足を抱え込むように座って、ちい子は目を閉じる。

 次の電車は1時間後。

 決定的になった遅刻のこととか、少し忘れたフリをした。

 

 

 軽い質感が皮膚をなでている。
 うっすらとした思考の中でもはっきりわかるのは、冬柴さんの気配だけだった。

 いつ、掛けてくれたんだろう。
 胸のあたりまで下がってしまった上着を、あごのあたりまで引き上げてくれる。
 手が、少しだけ皮膚をかすめすようにしていって、当たり前だけれど、手袋をしていないのがわかった。
 いつも、絶望の淵から私を救いあげてくれる手。
 反応するのが億劫で、ちい子は寝たフリを続けた。まだ、目を覚ましたくなくて。
 夢を、みていたくて。

 ふと、今までよりもずっと近いところに気配を感じた。
 温かい空気がまぶたに触れて、すぐ、遠ざかっていった。

 

 

 はりつめたような空気から、急速に熱が引いていく。
 石油ストーブのスイッチが切られたのだと、ちい子は遅れて気がついた。
 狭い部屋の中、必死に冬柴さんの気配を探した。
 突然、掛けられていた上着が顔の前を覆った。開いた目が、紺色の布を通過した青い光でいっぱいになる。

「……もうすぐ、電車がきますよ」

 冬柴さんの、駅員さんの声が降ってきた。

 プルルルルという独特の、心に迫る音階で目が覚める。
 起き上がると、冬柴さんが帽子をかぶり直して、外に出て行くのが見えた。
 慌てて、冬柴さんの上着を返そうとして。
 息を吸い込んだら、ず、と途中で鼻がつまった。

「?」

 自分に自分で疑問符を飛ばす。
 顔に触れると、指先がしめるのがわかった。

 わかりやすい音を立てながら、電車がホームに滑り込んでくる。
 ソファーに上着を置いて、ちい子は急いで駅員室を出た。

 

 

 

 3 へすすむ++ 1 へもどる++登下校シリーズTOPへかえる+