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 ふわりと浮かんできた眠気を吸い込んで、ちい子は改札をくぐろうとした。
 いつもより少しだけ早起きをした朝。
 幸いなことに、今日は遅刻しなくてすみそうだった。

「え?」

 思わず、ちい子は差し出した定期券をひっこめるのタイミングを忘れてしまった。
 見たことのない駅員さんが、目を丸くしてびっくりしていた。

 いってらっしゃい、と送り出してくれた笑顔は、冬柴さんのものではなくなっていた。

 こんな、1時間に一本しか電車のない田舎駅から、たぶんどこか遠い、もっと忙しい駅に。
 昇進、とかしたのかもしれない。そんな想像ぐらいしか、できなかった。
 冬柴さんのこと、なんにも知らないんだ。
 その事実は、思ったよりもずっと深く、ちい子の胸をえぐっていった。

 

 

 ぱたり、と遅刻癖は治った。

 身体は、正直にゲンキンで。
 人生17年目にして初めての眠れない夜が続いていても、いつもより早く目が覚めてしまう。そんな仕様に変わった。
 学校の先生たちは、そんなちい子の変化を喜んだ。

 そんなちい子の色々なつけのピークは、一時間目に数学の小テストがある朝にやってきた。
 よりにもよって、と舌打ちをしながらちい子は走った。

 久しぶりの朝は、いつもの風景から始まった。
 階段を一段数え忘れて、危うくずっこけかける。
 コンクリの地面とおでこが正面衝突。
 なんとかその事態だけは左手を先に付いて回避して、でも、ポケットからはみ出していた携帯電話が身代わりに、ずずず、と地面をすべっていった。
 救い上げ、画面の傷の心配をしている隙を狙って、がたん、と電車が動き出す気配がした。

 電車はゆるやかに加速を始めて、手の届かないところへ。
 一度走り始めてしまったらもう、誰にも止めることはできない。

 そんな電車を止めてしまうくらいの好きって。
 思いつき提示の基準にしてはずいぶん厳しくて。
 そんなの誰も、自分だって、クリアできそうになくて、ちょっと、今さらだけど反省した。
 断るにしても、もっときちんとすればよかった。 

(私、なにやってんだろう……)

 一人で、こんな田舎駅のホームに残されても、もう誰も手を、差しのべてはくれないのに。

 流れていく車両の後ろのほうに、同じ制服を着た学校の友達を見つけた。
 手を振ろうとすると、がたん、と電車が不自然な揺れ方をした。
 遠のいていくはずだった学校の友達と、しばしの別れを悲しむ暇もなく。
 電車は見る見ると減速して、そして、止まった。
 ちい子は、ぽかん、として電車を見つめた。

 電車はホームの端っこに、最後尾の車両を引っ掛かっけるような状態で止まっている。
 一番後ろのドアが開いた。

 そこから紺色の制服から伸びた白い手が伸びて、ひょいひょい、と空気を漕いだ。
 考える前に、走り出した。

 息を弾ませてやって来たちい子を見て、紺色の帽子が少し、宙に浮かぶ。
 そのままにっこりと笑顔になって、おはよう、と口が動かされた。
 ちい子は挨拶を返す暇もなく、開いたドアに飛び込んだ。

 途端に転んで、床に強かにおでこをぶつけ、車内を静まり返らせたちい子に、白い手袋をした手が差し出された。

 冬柴さん。

 ぎゅうっと腕にしがみつきながら、ちい子は立ち上がる。

「……車掌さんに、なったんですか?」
「はい。それから、希望を出して、この路線の担当にしてもらったんです」

 どうして、と思ったちい子を見て、冬柴さんは帽子を深くかぶり直した。
 ちい子の位置からしか見えない角度で、弱ったな、という形に眉が下がった。

「ちい子さんのことが心配だったので」

 プルルルルという独特の、心に迫る音階が、もう一度発車の合図をした。
 もう一度、目を覚ました。
 電車はゆるやかに加速を始めて、ちい子の手の届かないところへ。
 一度走り始めてしまったらもう、誰にも止めることはできない。
 そう、思っていた。
 じゃあ、今つかまえているこの手はなんだろう。
 どんなにがんばっても、こんなふうには届かない人だと思っていたのに。

 切符を拝見します、というフリをして、冬柴さんが身を屈めた。耳元に囁きが落ちてくる。

「……思わず、電車まで止めてしまいました」

 職権濫用。内緒ですよ。

 緊急の事態に、学校の友人たちが驚いた顔をして集まってきた。それとすれ違うようにして、通常業務に戻っていく。
 友人たちが、あ、駅員さんだ、と呼んだ。帽子のつばを軽く上げて、答えて。
 車掌さんになったんだって、とちい子は赤くなったおでこをさすりながら訂正する。
 友人たちは一様に、おでこより赤くなっている顔を見つめて、きょとんとした。

 駅員さん、車掌さん、冬柴さん。

 たった一言で、おでこの痛みを吹き飛ばしてくれる、私の救いの人。

 

 

 

 

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