+体温+
*読まれる前に。
10万打で人気投票だ、の一位記念短編です。
今回は特にネタバレなしですが、本編16話以降に読むのがおすすめです。
番外編 新着メールあり
どこか遠い所で、じー、じー、という音が規則的な周期で鳴っている。
うつろな気分で目を開けた。
電球の、眩しいイメージとまともに目が合ってしまって、少しくらくらとした。
あったまいてー、と小さく声に出してみる。
感覚は一瞬遅れで、こめかみのあたりのずきずきとした痛みがはっきりとしてきた。
額に手を当てて、灰谷はのろのろと身体を起こした。
よく見てみると、あのカーテンにもこの机にも見覚えがあって。
どうやら天国でも地獄でもなくて、自分の部屋の中にいるらしい。
明日提出の数学の課題が、机の上に広げたままになっていた。
その横には真っ白なノート。どうせならこれも夢だったらよかったのにと思う。
「あー頭いて……」
ノートの端をつまみ上げながら、もう一度短く、呟いてみる。
この時期は、文化祭のせいで上の空になっている生徒多数なので、どの先生たちも適度に手を抜いた授業をしてくれるものだ。
ただやっぱり、どこにも例外はいて。
数学Uの教諭だけはここぞ、とばかりにどさりと課題を出してくれた。
早めに片付けようと手を出してはみたものの、提出期限はいつのまにか明日だ。
問い7の(3)だけが、どうしても解けないまま。
(……でも、解けなくてふて寝するなんて小学生みたいだな)
少し自分に呆れてから、がさがさと机の上をあさった。
目当ての、近所のパチンコ屋のチラシを探し出す。
途中式から新品のルーズリーフを使うのは気が引けて、新台入荷しましたという派手な文字が踊っている、その裏の白紙を利用していた。
もうすでに半分くらいが数式で埋まっている。
何時間か前に自分で解いたはず、なのだけど、すっかり頭の中から抜け落ちていた。
これは、おとなしくもう一度始めからやり直したほうがいい、かもしれない。
こつこつ、とシャーペンの先を押し付けても、チラシに黒い点が増えるだけで。
机の上で中途半端に寝たんじゃ、リフレッシュにはならなかったみたいだ。
そういえば何時間ぐらい寝てたんだろう。
同時にタイムリミットも知りたくて、灰谷は机の上にあった携帯電話に手を伸ばした。
まだ日付けを回ったばかりの時刻だった。そして、
新着メールあり。
そう、表示されているのを見て、さっきの、じーという音が遅れて耳の奥に届いた。
かすかな記憶を思い出しながら、灰谷はメールを開いた。
『もう寝てたかな?夜遅くにごめんね』
という一文から、メールは始まっていた。
『明日の数Uの課題でどうしても解けないのがあって、相談したいなぁと思ったんだけど…』
1通目のメールは、そこで終わっている。
そして2通目は約15分後に送信されてきていた。さっき、じーと音を鳴らしたのはたぶんこっちのほうだろう。
『…寝てる、みたいだね。うるさくしてごめんね、おやすみなさい』
文字の向こう側で、申し訳なさそうに両手を合わせている姿が浮かぶ。
もう一度2通のメールを見直して、灰谷は頬がゆるむのを自覚した。
仮の、だけれど、付き合い始めてから結構長い時間が経っているのに、全然慣れたりしなくて。きちんと、律儀に真面目なのがおかしかった。
しばし返信する文面を思案して、面倒くさくなってやめた。
アドレス帳のや行を検索して、目当ての番号が現れたところで通話ボタンを押す。
4回ほどコール音が鳴って、ぷつりと途切れた。
「……はぁい?」
どこか寝ぼけた声が、回線を通って聞こえてくる。
しまった、と思った。
もう時間が、日付けを回っていて。
おやすみなさい。
ちゃんとそう、言われたのに。
(なんで電話なんかしてんだろう)
灰谷は少し焦って、また少し、自分に呆れた。
「……もしもし?」
「あ、ごめん、灰谷です」
灰谷くん? と、呟いた声がまだどこか遠いところにあるみたいで。
ますます罪悪感がつのる。本当になんで、電話なんか。
「えっ、灰谷くんなんだ?ほんもの?」
(にせもののオレってなんだろう)
心の中で冷静に考えてから、肯定した。
「わ。わざわざ電話してくれたんだ。ごめんね、変なメールして」
「ううん。オレもすぐに返事できなくて悪い。今、柳原寝てたの?」
「あー、うん。問題わかんなくてウトウトしてた。起こしてもらって、助かっちゃった」
仲間を一人発見、というわけで。
オレもウトウトしてた、と正直に告白すると、耳にくすくすという笑い声が届いた。
目の前にいない人の声は妙に存在感があって、くすぐったい感じがする。
「柳原がつまずいてるのってどの問題?」
「ええとね……、問い7番の(3)。(2)まではなんとかできたんだけど」
今夜は、どこまでも気が合うらしい。
灰谷は椅子の背もたれに背をあずけて、ぐんと一度背伸びをした。
「それ、オレもわかんない。お手上げー」
「え、灰谷くんも?」
「うん。だから残念ながら役立たずだわ、オレ」
「そんなことないよ。灰谷くんもおんなじのわかんないって聞いてほっとしたもん、私」
ああなるほど、そういう考え方もできるか。
確かに少し救われた気持ちで、もう一度向き合ってみる。
問い7の(3)
「……」
こういうとき、電話っていうのは結構不便なものだと思う。
例えば、問題を解いている間っていうものは、どうやって埋めたらいいんだろう。
ぶつぶつ話し続けても、邪魔になるだろうし。
かと言って黙っていても、沈黙は何よりも雄弁に語る、と言うから、すべてを見透かされそうで、なんとなく落ち着かないし。
灰谷はそそくさと次の案を探した。
「あのさ、赤井に聞いてみようか?」
「赤井くんに?」
「うん。あいつならたぶんまだ起きてるし。三人揃ってわかんないってことは確率的に低いと思うから」
というか、たぶん赤井なら解けているだろうな、と思った。
うーん、と電話の向こう側で、柳原が悩んだのが分かった。
「やめておかない? なんとなく、赤井くんだけわかってたら悔しいし……」
そういえば、柳原は見た目よりずっと負けず嫌いなんだった。
弱音なんて滅多に吐かないし、ぎりぎりまで自分の中でなんとかしようと努力する人だった。
たとえ相手が、両手を広げて受け止める準備をしていたとしても。
簡単に、誰かの迷惑や負担になったりするのをよしとしない。
(……じゃあ)
わからない問題についてメールで聞かれる程度には信用してもらえてるってことなんだろうか。
うぬぼれた考え方だと思って、灰谷は少し嬉しくなった。
「灰谷くんと電話で話すの、はじめてだね」
何かの拍子で、そう言われて。
そうだっけ? と応じた。今年に入ってクラスメイトになって付き合い始めて。
思い返してみて、そう言われてみればそうだったかもしれない、と思った。
「なんで、電話してくれたの?」
「え?」
「あの、メールとかでもよかったのにと思って」
「あー……」
メールの文面考えるのが面倒くさかったから、と言おうとして、違うなと思った。
電話するのだって同じくらい面倒くさい。
真夜中に、しかも女子に、電話をかけている自分なんて、ちょっと前なら想像つかなかった。
じゃあ、なんで?
「なんとなく」
柳原の声が聞きたくなって。
唇を動かすだけで、声にはしない。
電波は沈黙を運んで、律儀に、言わなくていいことまで伝えてしまいそうで。
せっかく繋がっている電話が、切れてしまうことが怖かった。
偽りで結ばれた関係が切れてしまうこと。
それはいつか絶対に、訪れることだから。
「ありがと、灰谷くんの声聞けて嬉しかった。なんか、ひらめきそうだよ」
さらりと言われてしまった。
灰谷は携帯を持ったまま、しばらく固まっていた。
沈黙は何よりも雄弁に語る、というから。
動揺したの、ばれてなければいいんだけど。
「……明日、朝さ」
「うん?」
「早めに教室行って、一緒に課題やらない?」
「え、ほんとに?私はすごく助かるけど……」
「電話だと余計に時間かかるし、もう時間遅いし、柳原の声が眠そうだし」
え、と焦って口を手で押さえたのか、ざっという雑音が混じる。
今柳原がどんな顔をしているのか、急に気になった。
「わかった。また明日の朝、よろしくお願いします」
「こちらこそ、お願いします」
「じゃあ、おやすみなさい」
「うん、おやすみ」
耳から携帯を離して、ボタン押せば、通話は切れる。
親指でそれを実行しようとして、灰谷はもう一度、耳に携帯を当て直した。
わずかなノイズの向こう側に向けて、名前を呼んでみる。
「柳原?」
どこにも届かない言葉になるはずだった。
「……灰谷、くん?」
思わず、机の上に脱力する。
それからくくく、と腹の底から笑いを漏らした。
「切ろうよ、頼むから」
「灰谷くんが切ってくれるの待ってたんだけど……ごめん、タイミング難しくて」
「わかった、じゃあオレが先に切るから」
本当は、もっとずっと繋がっていたいけれど。
そんなことを望む資格、自分にはないから。
親指でボタンを押して、切った。
傷をつけたりしないように、慎重に。
幸せな余韻だけが残るように。
切ることができたらいいなと思う。いつか、もう少ししたら。
「おやすみ」
柳原の声が聞けて嬉しかった。
おかげですっかり目が覚めた。なんか、ひらめきそう。
灰谷は手の中でくるりとシャーペンを回して、もう一度、問題に向き合う。問い7の(3)。
とりあえず、明日の朝まで。近づいてくるタイムリミットに向けて。
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