+体温+

  10 昨日とは違う答え。  

 チャイムが鳴り響いて、理実は自分のしたことに気がついた。
 朝のホームルームが始まってしまった。
 ごめんなさい、と慌てて理実が謝ると、瀬名は苦笑いをした。
「ほんとに、昨日も今日も、ごめんなさい」
 深々と頭を下げると、瀬名が一緒になって、こちらこそ。と頭を下げた。
 教室から連れ出しまではよかったものの、どこに、とか肝心の計画を立てていなかった。
 瀬名の提案で、部室が建ち並ぶ体育館裏に行くことになった。
 ここはバスケ部専用の憩いの場らしい。
 裏口に続く、コンクリートでできた階段を促されて、瀬名と並んで腰を下ろした。
「灰谷と、上手くいったみたいだね」
 淋しげに呟かれた言葉に、今度は迷わず、理実は首を横に振った。
 瀬名が意外そうに目を大きく開けた。
「え、だってさっき……」
「付き合うことになったのは本当、なんだけど。ちょっと事情があって」
「事情?」
 覗き込んでくる目からそらさないで。
 真剣な気持ちに見合うものを、返したいと思った。自分のできる範囲で。
「私、瀬名くんには本当のことを話しておきたくて、それで」
 こんなところに連れ出してしまった。
 瀬名がそれ以上追及しなくなったので、一つ一つ順序よく説明し始めた。
 昨日のことを、誤解のないように。
 伝わればいいな、と思っていた。色々なこと。

 一通り聞き終えた瀬名は、両手を階段について、はぁ、とため息をついた。
 どうやら一時間目の授業が始まってしまったらしい。
 ときどき一番近くの教室から漏れてくる先生の声と、風の音だけが聞こえた。
 今日も昨日に負けない快晴で、風が心地よく感じられた。
「……つまり、カムフラージュで付き合うってこと? 男除けのために?」
「すごく灰谷くんに甘えてて。瀬名くんには失礼だと思ったんだけど……」
「今は男と距離を置いておきたいから?」
 思わず頷いてから、慌てて理実が謝ると、ひらひらと手を振って、違う違うと二回繰り返した。
「俺って、そんなに柳原さんを追い詰めちゃったんだな」
「別に瀬名くんのせいってわけじゃなくて」
「でもできればそのカムフラージュ役、俺がやりたかったな、なんてね」
 漏れた本音に、理実は驚いた。
 その様子に瀬名はまたため息をついた。
「ま、灰谷ならしょうがないか。自分でそう仕向けたところもあるし」
 瀬名は立ち上がってズボンの砂ぼこりを払った。
「なんかみんなから言われてたみたいだけど、俺のことは気にしないでいいよ。ちゃんと返事はもらえたし。灰谷は、同性から見てもいい奴だしね。
……たぶん、そういうことになら一番適役だと思うよ」
 一緒に教室に戻ることはできない。理実はそう思って、座ったままでいた。
 それでも、去っていく背中を惜しく思ってしまうのは、きっと優柔不断な性格のせいで。
「瀬名くん、あの、ありがとう。嬉しかったの。昨日は上手く言えなかったけど」
 心からそう思っていることが、瀬名に伝わればいいな、と思う。
 瀬名は校舎に入る前にもう一度だけ、振り返った。
「嘘でも、仮の彼氏だとしても。 灰谷じゃなきゃ、ダメだったんだよね?」

 昨日とは違う答えを。
 瀬名には本当のことを知っていてほしい、と思った。
 真剣な気持ちに見合う、真剣な気持ちで。



「帰り? いいよ、じゃあ昇降口で待ち合わせで」
 誘ってみれば簡単に、一緒に帰れることになった。
 それが付き合えば当たり前のことになるなんて、今にも破裂しそうな心臓を思うと、信じられない。
 今日の授業の内容とか、当り障りのない会話をする。
 灰谷が帰宅部だということを初めて知った。
 成績も運動神経も悪いとは聞いたことがなかったので、意外に思う。
「柳原は? なんか入ってたっけ?」
「ううん、私も何も。放課後は図書委員があるぐらいかな」
「じゃあ、結構一緒に帰れるかもな」
 こんな、なんでもない言葉にも慣れるときがくるんだろうか。
 理実にはやっぱり信じられない。
「……もしかして一緒に帰るの嫌だ?付き合ってるのが周りに認知されるまでの辛抱だとは思うけど」
 とんでもない、と理実はふるふると首を左右に振った。
「そういえばさ、昨日図書室に行ったの、すごく久しぶりだった」
「あー……へんぴな場所にあるもんね、調べものがあってもなかなか行けないよね」
 苦笑しながら、図書室までの道のりを想像でたどる。
 図書室は、三階の一番奥にあり、二階のとある階段からしか来られないようになっている。
 まるで人を遠ざけるような構造だと、理実は常々思う。
「おかげで図書委員の仕事なんて、ぼーっとしてることだけだよ」
「それ、柳原の得意分野っぽい」
 からかわれたのだと気がつくまで、理実はぱちぱちと瞬きを繰り返した。
 駅の改札を通って、ホームに立つ。
 そこには同じ制服が溢れていて、心なしか、視線が痛いような。
 灰谷に、気にするそぶりは見えなかった。
「でも、静かで。オレ、ああいう雰囲気は好きだな」
 電車が入ってくる騒音に、消されなかった言葉が頭に焼きついた。
 心地よいものと一緒に、重たいものが胸に広がっていった。
「灰谷くんは、本当によかった?」
「なにが?」
「私は、その、付き合ってもらえて、助かるよ。正直まだ、誰とも恋愛する自信が持てないし。でも、灰谷くんは? なんのメリットもないじゃない?」
 一瞬、灰谷の目に暗い、底のないものが映ったような気がした。
 たぶん、ホームの屋根でできた影のせいだろう。
「あのだから、私ができることならなんでもするから、言ってね」
 信じられないものを見たような顔を、灰谷がした。
 二人して、危うく電車に乗り遅れそうになり、閉まりかかる扉の隙間に慌てて飛び込んだ。
 がたん、一つ揺れてゆっくりと電車が動き始める。
 西に沈んでいく太陽が赤く、灰谷の顔を照らし出した。
「……そういうすごいこと、簡単に言っちゃダメだよ」
 それからも、明日の授業の内容とか、当り障りのない会話をした。
 理実が降りる、一つ前の駅を通過したときに灰谷が言った。

「柳原って映画、好き?」
「あ、うん。好き」
「今週の日曜ってひま?」
「うん。ひまだよ」
「じゃあ、付き合ってもらおうかな」

 簡単に、初デートすることとなった。


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