+体温+

  15 けんたいきってやつ?  

 青いペンキをこぼしたような表紙の本が、一週間以内に返却されることはなかった。
 文化祭の準備が、始まったのだ。

 学校、という大きな集団が、文化祭、という一つの目標のために動き出す。
 それは結構、すごいことで。
 各クラスの出しもの、各部活の出しもの、個人参加の出しもの。
 そして、生徒会主催の学校全体の出しもの。
 全部に参加する人、該当のものにだけ参加する人、できるだけ全部から逃げる人。
 一つの目標に向かって、たくさんの思惑が絡み合い、激突し、最終的にはみな同じ場所にたどり着く。
 生徒は学業、先生は職業にプラスされて、日々の忙しさが増す。
 授業時間も休み時間も関係なく、どの教室も落ち着きがない。
 学校の隅の、ここを除けば。

 はー。
 ため息でさえ、一番大きく響く。
 依子はカウンターの席を陣取っていた。
 さっきから、左手はオートで、机の隅に置いてある缶から飴を取り出し、口へと運ぶ。
 今日、5個目だ。
 暇つぶしに膝の上にのっけてある本が、健康と美の生活がなんとか、という題名だったけど、理実は口出ししなかった。
 先週までは山のようにあった飴も残りわずか。
 ため息の原因は、たぶん、これ。
「……ダーリン、こないねえ」
 ダーリン、を翻訳してみたら、すごく似合わない感じで。理実は苦笑する。
 それが依子のイライラを増幅させてしまうみたいで。
 理実はのん気ねぇ、との嫌味までいただいてしまった。
「もしかして、けんたいきってやつかしらねえ?」
 倦怠期。
 確か、どの恋人同士にもやがて訪れる試練だ、と理実は想像する。他人事のように。
 はー。また、ため息がつもる。自分の外で。
 今日みたいな、雨の降りそうな曇り空の下では、恋しい誰かのことを思い悩まなければいけない。
 遠まわしにそう、非難されたような気がした。 
 理実も、缶から飴を一つもらう。
 図書室は飲食禁止だったけれど、このままでは依子のお腹に全部おさめられてしまいそうなので。
 この飴とともに、図書室にも、文化祭の余波が届いたのは、一週間ほど前のことだった。
 突然、カウンターを叩いた飴の雨に、理実は目を真ん丸にした。
「ごめんね、この間」
 そう言って、たぶん今、学校で一番忙しいはずの人は笑った。
 この間、というのは、やっぱり生徒会室でのことだろうか。
 いいえ、と理実は答える。
「ちなみにこれは、灰谷くんからの懺悔の印と、伝言です」
 120%みかん。
 机にばらまかれたそれは、とある和菓子屋さんでしか買えない、普通のよりも濃厚な味がする飴だった。
「これからどんどん帰るの遅くなりそうだから、しばらく一緒に帰れない。ごめんな」
 赤井がそのままを口にした。灰谷の口調をまねて。
 そっけないくらい優しい言い方で。

 赤井とはそれほどぎくしゃくすることもなく、普通に接することができた。
 大丈夫だ、と思った。心配するほどのことじゃなくて、よかった。
 実は、もう一週間以上、灰谷とはあんまり話していない。
 けれどもその代わりというか、赤井とはちょくちょく話す機会があったりして。
 どうやら依子は、そちらがお目当てらしく。
 当番でもないのに、放課後欠かさずに来る熱の入れようを、理実は羨ましく思う。
 似せ物じゃない、本物だから。

 ばたん、と派手な音を立ててドアが開いた。
 依子の目がぱっと輝き、勢いでごくんと飴を飲み込んでしまったのが分かった。
 いつもどおり、ばっちり規定の服装を固めていて。
 寝癖一つない髪に、指紋一つない眼鏡に。
 いらっしゃいませー、と言う依子に、最後にちらりと笑いかけて。
 そのまま机に身体を沈めた。眼鏡を外すことだけは忘れずに。
 器用な寝方ができる人だった。
 きゃー。
 声にならない声で依子が叫ぶ。
 これが、図書室では、一週間ぐらい前からの恒例行事になっていた。
 本人いわく、ここは学校のどこよりも落ち着く、らしく。
 最終下校時刻が迫る頃。
 生徒会長は、日々の忙しさにささくれた心を癒しにやって来る。
 眠ったと思った頭が動いた。薄目でカウンターの二人を見て、またわずかに笑う。
「今日は早めで生徒会解散にしといたから。灰谷くんのお持ち帰りオッケー、ですよ」
 え。と思い、理実は思わず飴を奥歯で噛んでしまった。
 砕けたところから、120%みかんの甘い味が広がる。
「せっかく恋人同士なんだから、一週間に一度くらいはいちゃいちゃしておかないとね」
「ですよねー。理実たちって全然っそういうのなさそうですもんねー」
 意気投合する二人を見て、理実は少し、申し訳ない気持ちになった。
 本物じゃない、似せ物だから。


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