+体温+

  16 盗み撮り。  

 好きな人の寝顔なんて、独占したいに決まってるじゃないっ!

 恐ろしいくらいの正論を吐かれて、理実は図書室を追い出された。
 行き先はいちおう、決まっていた。
 新校舎に入ると、生徒会役員の女の子たち数人と出くわした。
 理実の顔を見た途端、みんな揃って、灰谷の居所を教えてくれた。
 生徒会の応接室とは、この間入った作業室の隣の部屋のことで。
 たぶんここだろう。と、思われる立派なドアの前に理実は立った。
 青いペンキをこぼしたような本以来話していないのが、少し不安にさせる。
 一週間と少し、同じクラスだから、顔を合わせない日はないわけで。
 でも二人きりになる、となると、また別問題だった。
(でも、赤井くんも大丈夫だったし)
 根拠のない大丈夫を唱えながら、理実はドアノブを回した。
 灰谷は、机の上に散らかったプリントを集めているところだった。
 開いたドアの向こうに理実がいるのを見つけて、ああ、と笑った。
「なんか、久しぶり」

 灰谷が片付けをしている間。
 理実はソファーのすみに、おとなしく腰を下ろしていた。
 何度か、手伝おうか、という言葉がノドまで出かかって、でも、かえって足手まといになる気がして言えなかった。
「赤井、今日もそっちに行った?」
「うん。来て、すぐに寝ちゃってた。すごく忙しそうだね」
「片付けても片付けてもちっとも仕事が減らないからな。あいつ、家でもろくに寝てないんじゃないかな」
 灰谷は、集めたプリントをいくつかの山に分け、てっぺんに教科書やホッチキスを重石としてのせた。
 忙しいのは、赤井だけじゃない。
 理実は、柔らかいソファーに座っているだけの自分を恥ずかしく思った。

 スプリングがきしんで、重みでソファーが沈んだ。
 唐突に近づいた距離に、どうしていいか分からずに。
 理実は黙って、ソファーの隣を開け渡した。
 ぐんっと勢いをつけて、灰谷が背もたれにのけぞる。
 髪が流れて、彼の顎から首にかけてのラインを目立たせた。
「つ、かれたー……」
 肺から吐き出された本音。
 片手を額について、しばしの沈黙。
 することもなく見つめていた理実は、ちょうどこっちを見た、灰谷と目が合った。
 灰谷の目は、髪と同じように、黒くて深い色をしている。
 夜の闇と似た色なのに、どこか優しくてあったかそう。
 その目が穏やかな色を増して、自分が目をそらすのも忘れていたことに気づいた。
「……あ、ごめん」
 理実は、頬を染めて、正面に向き直る。
 灰谷のほうは相変わらず、隣から動く気配はなくて。
 最終下校時間は、とっくに過ぎているはずだった。早く帰らなければいけない。
 なのに、なかなか動き出すきっかけがつかめなかった。
 例えば、帰ろう。という一言が。

 とん。
 肩に重みを感じて、理実はノドまで出て来ていた言葉を飲み込んだ。
 柔らかな髪が、頬に当たる。
 こんなに近いと、呼吸する音まで耳にくすぐったい。
 理実は、震えてしまいそうになる全身を必死に押さえ込んだ。
 呼吸は、浅いまま、吸って吐いてを繰り返している。
 それに合わせて、静かに。と心の中で唱えてみる。
(なんにもできないんだったら、せめて、マクラぐらいは立派につとめてあげたい)
 変な使命感に燃えながら、少しずつ、肩の力を抜いていく。
 すうっと深い眠りの世界に吸い込まれるように、肩への重みが増した。
 安らかな心地に、理実は微笑んだ。
 身体の触れ合った部分から、あったかい温度が伝わってくる。
 体温って、こんなふうに触れるたびに、変わったりするものなんだ。
 ひんやりしたり、熱かったり、あったかかったり。
 なんていうか、何度触っても、慣れたりしなくて。生き物みたいで。
 一緒に、いっぱい、色んな気持ちをくれる。
 どきどきしたり、ほっとしたり、それに……
(私、ずっと、灰谷くんに優しくしたかった)
 いつも、優しくて優しくて泣きたくなるような気持ちをもらっているから。
 いっぱい、優しくしたかったんだ。
 きっと、このままここにいたら、もう二度と戻ってくることはできない。
 理実にはそれがよく分かってしまって、少しだけ淋しくなった。
 もう、この居心地のいい場所とは、さよならしなければいけないんだ。
 でも、と理実は思う。
(好きな人の寝顔なんて独占したいに決まってるじゃないっ!)
 そう言ってのけた友人は、すごく正しい。
 理実は、まどろむような心地に寄り添って、そっと目を閉じた。

 

 * * *

 キィ、と小さな音をたてて、ドアを開く。
 廊下の明かりが室内に差し込み、うっすらと闇を照らし出した。
 いつまで経っても校舎から出てこない二人を思い、さっきから何度も鳴らしていた携帯電話は、まだ手の中で。
 思わず構図を決めて、カシャ、と音を鳴らしてしまったとしても、ほぼ不可抗力、ではないだろうか。
 けれど、そんな小さな音だけで、すべてを壊してしまう可能性もあったと言うのに。
 まったくもって、浅はかな行為だったと、少々反省する。
「理実、いました?」
 背後からの問いかけに、人差し指を一本、唇の上にのせて答える。
 後ろ手で静かに、応接室のドアを閉じた。

「依子ちゃん、二人で一緒に帰ろうか」
「ええっ! ほんとですかー?」
 続けて、歓喜の声を上げそうになった彼女に笑顔を向けて、少々黙ってもらう。
 手から、ポケットに居場所を変えた携帯電話は、まだ沈黙したまま。
 どういうタイミングで使うのが効果的か、赤井はあらゆる思案をめぐらせる。
 文化祭なんかすぐにでも放り出してしまいたいほど、楽しかった。


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