+体温+

  17 名誉の勲章。  

 差し出した手のひらの上で、はじけて消えた。
 冷たい感触に一瞬、全身がぴりりと緊張する。
「ほんとに降ってきた……」
 理実は昇降口の屋根の下から、どんよりとした雲を見つめた。
 ぽつり、ぽつりと控えめだった雨は一気にその量を増して。
 コンクリートの地面が見る見ると濃い色に変わっていった。
 校庭で文化祭の準備をしていた生徒たちの悲鳴が上がった。
「こら逃げるなー! 例えこの雨からは逃げきれたとしても、それは一時しのぎにしかならない。明日の文化祭はけしてお前らを逃がしてはくれないぞー!」
 よくわからない説得の仕方をしている声にはとても聞き覚えがあった。
 生徒会長は、一段高いステージに立って、雨には一切構わず、てきぱきと指示を出している。
 従う生徒たちも半ばやけぐそ気味に、校庭を走り回っている。
 今はいいとしても、後から大変だろうなぁと考えて、理実は顔をしかめた。
 ぱんっと音がはじけて、空に透明の花が咲いた。
「濡れるよ」
 気がつかないうちに、みんなの熱気に引き寄せられていたらしい。
 昇降口の屋根から半分以上はみ出していた理実は、慌てて一歩二歩と後退した。
 灰谷は開いたビニル傘を自分のほうへ引き戻して、一旦、閉じた。

 生徒会室に忘れものを取りに行って、いつのまにか戻って来ていた。
 灰谷は校庭の惨状を眺めて、しょうがないなぁという感じのため息をついた。
「楽しそうだな、あいつら」
(楽しそう?)
 意外なことを聞いた気がして、理実はもう一度校庭に視線を戻した。
 雨音に混じって、相変わらず、悲鳴や非難や生徒会長の的確な指示が。
 それに気合を入れる雄たけびらしきもの、張り裂けそうな笑い声も聞こえてくる。
 楽しそう、だった。灰谷の言うとおりだった。
 文化祭を明日に控えて、校庭では最後の追い込み作業が行われていた。
 看板を立てたり、垂れ幕を下ろしたり、校庭がメイン会場になる後夜祭の準備など色々。
 生徒会長の言うとおり、例え雨でも明日の文化祭は逃げていってはくれない。

 ぴかっと空が光って、数秒もしないうちにゴロゴロと胃に響き渡る音をたてた。
 今度こそ最上級の悲鳴が上がって、生徒会長もしぶしぶと拡声器で一時撤退を告げた。
 それを合図に、よーいどんでみんなが一斉に昇降口に向けて走り出した。
 一番最初に昇降口にたどり着いたのは、当然、一番近くにいた人で。
「あれれ。柳原さんに、灰谷くんじゃーん」
 ひやかすような言い方で、赤井が話し掛けてきた。
 そんな余裕はあるんだろうか、心配になるほど、身体中から水を滴らしている。
 依子がこの場にいたら、卒倒するかもしれない。幸い、彼女は今日は早めに帰宅していたけれど。
 ふー、と赤井が吐き出した息は白くて、眼鏡のレンズを曇らせた。
 理実は慌ててカバンからハンカチを取り出して、渡した。
「わ、柳原さん優しいなぁ。ありがと」
 赤井が眼鏡を拭く間に、続々と校庭から生徒たちが生還を果たしてきた。
 見知った顔が多かった。ていうか。
「赤井、なんでお前と同じクラスってだけでこんなことやらされなきゃならんのだっ?!」
 と、叫んだのは同じクラスの、バスケ部の瀬名くん、だった。
 周りで頷いた顔もほとんど、毎日クラスで見ているような。
「広い世界の、たくさんの国の中から、日本に生まれて育って、同じ学校に通って、同じクラスになったっつたらもう、同士でしょ。仲間でしょ。運命共同体でしょ。手の一本や二本、貸してくれたっていいじゃない?」
 どうやら赤井は、クラスの男子たちに協力を求めたらしい。
 それにしたって、こんな雨の中。
 不満いっぱいのクラスメイトたちは、矛先を隣の灰谷にも向けた。
「ていうかなぜに灰谷だけ、無事なわけ?」
「……悪い。オレ今日デスクワークだったもんだから」
 苦笑いを浮かべる灰谷に、じり、とクラスメイトたちが近づく。不穏な空気が動いた。
「まあまあ。人には適材適所というものがあるからね。相応しい場所で頑張ればいいわけなのさ」
 赤井がフォローを入れる。じゃあ俺たちは肉体労働が適してんのかよ、との突っ込みは完璧に無視されてしまった。
 にっこり。磨いた眼鏡のむこうで赤井が心から楽しげに笑った。
「とは言え、戦地は違えど共に戦った仲間として、名誉の勲章を授与し忘れちゃいけないよな」
 うんうんと自分の言葉に頷く赤井。
 じり、じり、と灰谷が足が数歩、後退しようとしたのが見えた。
 次に理実が見たのは、かしゃん、とコンクリの地面に落っこちたビニル傘だった。
「うわっ馬鹿やめろ!」

 ぐちゃ。

 嫌な音を立てて、赤井が灰谷にぴたりとひっつく。
 それからさらに密着して、ぎゅうっと熱い抱擁を交わした。
 灰谷はしばらくじたばたしていたものの、途中で諦めたのか、おとなしくなった。
 理実は、ビニル傘を拾いかけて、他のクラスメイトも赤井と同じように笑っているのに気がついた。
 それからしばらく、灰谷は次々とクラスメイトから熱い洗礼を受けることになった。
 ぎゃはは、と雨の音を切り裂いて、低音の笑い声が複数形で響き渡った。
 楽しくってしょうがない、という感じの。

「彼女さん、順調に妬いてますかな?」
 赤井が意地悪そうに聞いてきた。
 少し笑って、理実はゆっくりと首を振る。
 なんというか、こういうことを聞くときの赤井はすごく楽しそうに見えるような。
「でも、羨ましいとか、いいなぁとかは思う、かな」
 形のいい眉を持ち上げて、赤井が興味深そうな顔つきをする。
 理実は曖昧に、けれど正直な気持ちを口にした。
「私も男の子だったらよかったのに」
 そうしたら、理数系の選抜クラスでも、男子が何人で女子が何人だって構わないのに。
 悩んだり、心配をかけたりしなくてすむのに。
 今だって、一緒になって馬鹿やったりして楽しめるのに。
「そりゃダメだ。柳原さんが男だったら泣く奴がいるもの」
 両手を広げて赤井はおどけて見せると、ぐっしょり、という形容詞がぴったりの格好で灰谷が帰ってきた。
 呆れ果てた表情をしていても、心から嫌がってはいないように思った。
 ハンカチは赤井に提供してしまったので、理実は灰谷のビニル傘を差し出した。
 もうあんまり意味ないかもしれないけれど、いちおう。
 傘、に行くと思った手は、通り越して理実の手首を掴んだ。
 え、と理実は目の前の灰谷をまじまじと見つめる。
「灰谷く……?」
 呟きごと、引き寄せられた。

 ぐちゃ。

 ぎゅうっと抱きしめられて、灰谷から理実へと水分が貼りつく、気持ちの悪い感じが伝わる。
 しばらく雨の音しか聞こえなかったのはたぶん、理実の耳がおかしくなったせいではなかった。
 一瞬、騒いでいたどの口も全部、息をのんで。
「……柳原にもおすそわけ。なんか、仲間には名誉の勲章を。らしいから」
 しばらくして理実を解放すると、悪戯っぽく目を光らせて灰谷が言った。
 理実は自分を見下ろして、制服が酷い有様になっているのに気がついた。
 びしょびしょで、どろどろで。とんでもない格好。
 灰谷も、赤井も、クラスメイトたちも、みんな。
「あー……」
 絶対にこのままじゃ風邪をひくし、文化祭どころじゃなくなってしまう。
 しかも、絶対お母さんに怒られる。と、いちおうの心配はして。
 でも底から溢れてくる気持ちをおさえきれずに、理実は笑った。
「あはは」
 嬉しくて。楽しくて。
 こんな気持ちどうしたらいいんだろう。
 灰谷と目が合って、理実はさらに声を上げて笑った。
 呆然としていたクラスメイトたちの中で、一番最初に立ち直ったのはさすがの赤井だった。
「そうだよねぇ。柳原さんも仲間だもんねぇ」
 ニコニコときれいな顔で微笑んで、ではさっそくと両手を広げて理実に近づこうとしたのを灰谷が制した。
 同じように、俺も俺も、と続こうとするクラスメイトから逃げ出すように、帰ろう、と灰谷が言った。
 いつのまにか、雨は小降りになっていた。
 この隙をさすがの生徒会長が見逃すはずがなくて、一番に校庭に駆け出して、集合ー! と号令を掛けた。
 クラスメイトたちは、えーっ! と低音で大合唱をしたあと、しぶしぶ校庭に戻っていった。
 理実と灰谷は全員を見送ったあと、家に向かって歩き出した。
 傘はささずに、小雨に濡れながら。


Copyright (c) 2001-2006 kanada All rights reserved.