+体温+

  18 うさぎとメイド。  

 文化祭は、3日間。
 すべての日が一般公開されるので、生徒の友人や保護者、それに地元の人まで入り乱れて、校内はいつもの何倍もにぎやかになる。
 理実は一般クラスの前の廊下を通り抜けようとして、ぱたりと足を止めた。
 廊下の端から端までが、人で埋まっていた。

「あ、すみません」
 どん、と肩がぶつかるたびに小声で謝る、をくり返している。
 理実の手の中には、よく酒屋さんが持っている、瓶ジュースの詰まったケースがあった。
 これを、2年3組の、甘味どころまで運んでいかなければいけない。
 改めて確認すると、なんだか気持ちまで重たくなってきた。
「すみませーん、体育館ってどっちですか?」
 声に振り返ってみると、他校の制服を着た女の子が三人いた。
 理実は、体育館の方向を示そうとして、両手が塞がっていることに気がついた。
 一端、足元にケースを避難させて、しどろもどろに最短ルートを伝える。
 ありがとうございまーす、と女の子たちがぺこんと頭を下げてくれた。
 どういたしまして、と理実も同じようにしながら、そっか、今日は他の学校は休みなんだ、とこっそり合点した。
「わお、でっかいうさぎー」
 女の子たちの言葉が、不思議に響いた。
 見ると、すれ違う人たちがみんなして、同じところを見上げている。
 ぴんく色の、でっかいうさぎ、だった。本当、だった。
 たくさんの人が行き来する廊下の、その真ん中に。
 女の子たちがふざけて、すれ違いざまに、だらんと下向きに伸びた耳を引っ張った。
 数歩後ろによろめいたうさぎは、ぐっと足の裏で踏ん張った。
 なんとか体勢を立て直すと、まっすぐに、口をぽかんと開けた理実に向かって歩いてきた。
「……あの、なにか?」
 ご用ですか、と声を掛けても長い耳には届かないようで。
 困ってしまった理実の手前で、ぴんく色の、でっかいうさぎは立ち止まった。

 どん。
 大きな背中に通りすがりの人がぶつかる。
 その弾みで、うさぎが手にしていた白い大量のチラシが宙に舞った。
「あ」
 窓の向こう側、この間の雨が嘘みたいな、水色の空と重なる。
 我々の日頃の善行が報われましたね。と、今朝、生徒会長がにこりと笑って開会宣言をしたとおりで。
 一瞬、理実は全部忘れて、きれいだなと場違いなことを思った。
(……なんて、ぼーっとしてる場合じゃなかった)
 理実はすぐにしゃがみこんで、散らばったチラシを拾い始めた。
 チラシには、色々な催しの宣伝と、一番下に黒く太い文字で、『後夜祭について』とあった。
 特別な夜だから、あなたと一緒に。というコピーが添えられている。
 そういえば、後夜祭を好きな人と一緒に過ごすという伝説がなんとかって、依子が騒いでいた気がする。
 一通り拾い集めて、立ち上がる。
 やっぱりそこには、でっかいぴんく色のうさぎがいた。
 正確には、でっかいぴんく色のうさぎの着ぐるみを着た人、がいた。
 うさぎは、頭のかぶり物が重たすぎるのか。
 自分でも散らばったチラシを拾おうと手を伸ばしてみては、頭が取れそうになって慌てて押さえる、をくり返している。
 理実は、ふっと吹きだした。可愛い。
 今日、校舎の中には、お年寄りから、子供まで。私服や他の学校の制服を着ている人がたくさんいて。
 うちの学校の生徒も、それぞれの出し物に合わせて、かなり変わった格好をしている人がたくさんいる。
 むしろ理実のように、いつもどおりの制服姿のほうが珍しいくらいで。
 だからここに、うさぎがいても別に不思議ではないのだけど。
 改めて、チラシを返そうとして、あれ? と理実は呟いた。
 足元に、さっきまであったはずのものがなくなっていて。
 うさぎのふかふかの手の中に、瞬間移動していた。
 さっき、あんなに苦労して運んだ瓶ジュース入りのケースが、今はひょいと効果音を鳴らしそうに見える。
 またもや困ってしまった理実に、うさぎは一段ほど高く、ケースを持ち上げて見せた。
「あ、2年3組に……」
 なんとかうさぎ語を理解して会話を繋ぐと、正しい方角に向けて、一歩、うさぎの足が踏み出された。
 廊下を行く人がみんなして、口をぽかんと開けて見送っていた。
 久しぶりに会った無口な背中を、理実も同じようにして見送っていた。

 

「理実ー」
 2年3組の教室の前に来ると、聞き慣れた声に呼ばれた。
 制服の前に白いフリルのエプロンをつけている、可愛らしいメイドさん。
 廊下の窓から身を乗り出すようにして、手招きをしている。
「生徒会の手伝い、お疲れさまー」
 労いの言葉を掛けて、隣に並んだ巨大うさぎを眺めた途端、やっぱりぽかんとなった。
 うさぎもやっぱり無反応で、2年3組の前の廊下に、ごとんと無造作にケースを置いた。
 それから理実の手にあったチラシの残りを奪い取るようにして、数秒見つめてから、理実と、窓から身を乗り出している依子に一枚ずつ手渡した。
「なに? 後夜祭のお知らせ? へー、ありがと。うさぎさん」
 依子が自然に漏らした言葉に、理実はぴんと反応した。
 でもそのときにはもう、ぴんく色の背中は遠ざかっていて。
 廊下は、相変わらず人がいっぱいで、いつもの何倍もにぎやがで。
 でも。
「ありがとう!」
 それでも理実は精一杯の声を張り上げてみた。
 相変わらず無反応の背中に、伝わったかどうかはわからなかったけれど。
(まあ、後でちゃんと言い直せばいいよね)
 そのとき理実はそう思って、気持ちをひとつ分、次に持ち越したのだ。


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