+体温+

  21 灰谷くん、罠に掛かる。  

(やっぱり赤井くんの笑顔は信用しちゃいけない)
 と、さすがの理実も理解しないわけにはいかなかった。
 給湯室は、文化祭の忙しさのしわ寄せを全部、引き受けたような有様だった。
 足の踏み場もない、っていうのはこういうことなんだ。
 いろんな業者のマークが付いたダンボール、最初のうちはきちんとたたまれ並べられた形跡があるけれど、上にいくほどそのまま放り込まれた感じが強くなっている。
 棚にあるはずの食器類はほぼゼロで、たぶん、全部流し台の中に移動していた。
 そのほとんどに茶色い液体がこびりついているのを見て、最近睡眠不足だ、と嘆いていた生徒会メンバーの顔を思い浮かべる。
 食器は今のところ絶妙なバランスで塔を築いていたが、いつ倒れてもおかしくなさそうだった。

 どこから手をつけたらいいんだろう。
 とりあえずお茶を入れておしまい、というわけにはいきそうもない。
 理実はしばらく考えて、メイド仕様の制服の袖をまくって、よし、と気合を入れた。
(こんな格好にも恥じない仕事をしてやろうじゃないの)
 とりあえず、ダンボールたちを部屋の隅に追いやって、流し台の前のスペースを確保した。
 それから慎重に、食器の塔の一番上から洗い始める。
 スポンジにたっぷりと洗剤を染み込ませて、よーく泡立てて。
 こういう、掃除とか整頓とか、地道な作業って結構好きかもしれない。
 人三倍くらい不器用なせいで、うまくできないこともたくさんあるけれど、これぐらいなら自分でも役に立つことができるような気がして。
 つい、夢中になってやってしまう。
 だから、誰かが入ってきた気配にも気づくのが少し、遅れた。
「……やなはら?」
 すっかり慣れた呼び方には驚きが混じっていて。
 理実はコップの水しぶきを布で拭き取りながら、ドアのほうを振り向いた。
 肩が少し上下して、頬が少し赤くなっていて。
 理実はその様子を不思議に感じながら、声を掛けた。
「走ってきたの?」
「え? あー……うん。そう」
 思ったことを口にすると、珍しく灰谷は動揺したようだった。
 あいつ、と後ろのドアを気にしながら呟いて、理実からすっと顔をそらした。
 それきり、黙ってしまう。

(どうしたんだろう)
 確か灰谷は、今日は一日中体育館で仕事をしている、と言っていた。たぶんまだ終わってないと思うんだけど。
 ますます不思議に感じながら、理実は洗い終えた食器を、よいしょ、と抱え込んだ。
 量が量なので、少しずつ棚に戻していかないと、すぐに置き場所がなくなってしまう。
 すっと、後ろから手が差し出された。
「棚にしまうんだな?」
 返事を待たずに、理実の手から食器が奪い取られた。
 お礼を待たずに、くるりと背が向けられた。
 当たり前の優しさに慣れてしまったわけではない、と思うのだけど。
 目が合わない。
 いつもがいつもだけに、そんな、ささいな違和感が気になる。
 理実は、もう一度流し台に向かった。
 洗い物はあと半分ぐらい。ようやくお茶を入れるのに必要な、カップやポットの類が見えてきた。
 薄いカップ皿を手にとって、スポンジを当てる。
 手を動かして、ささいなことなんて気にしないように。
 もっと、目下の仕事に集中しようとした。
 隣に並んだ気配に気付いても、しばらくはそのままでいた。
「ごめん」
 謝られてしまった。
 横顔を覗くと、やっぱり少し赤くて。
 手は、理実が洗い終えた食器を、水ですすいでくれていた。
「まさか、柳原がそんな格好してるとは思わなくて、さ」
 びっくりした。
 と、口調は笑いながら、でもやっぱり目を合わせないまま、灰谷が言った。
 かちゃん、と鋭い音を立てて、理実の手の中からカップ皿が落下した。
 硬い床にぶつかって、粉々にはじけ飛ぶ。

 理実は、あ、と思って、続けて、急いで拾わなくちゃ、と思った。
 それを、危ないから。と低い声で制される。
 理実の代わりに灰谷がかがんで、床から小皿の破片を拾い始めた。
 その後頭部を眺めながら、理実は一ミリも動けなかった。
 灰谷は集めた破片を、部屋のすみのゴミ箱に捨てる。
(こんな格好、するんじゃなかった)
 強い後悔に襲われて、それでもやっぱり動けない。
「柳原、足……」
 灰谷の視線の先、理実は自分の足にすっと赤い線が走っているのを見つけた。
 痛みは感じない。
 破片がかすって、できてしまったようだった。
「……保健室」
「え」
「保健室、行って。ここはオレがやっとくから」
 そんなにたいした傷ではない、と言いたかったが、なんだか今の灰谷には有無を言わせない雰囲気があった。
 理実はおとなしく、従うことにした。
 正直、ここから逃げ出す手段を与えられて、少しほっとしていた。
 途中、ダンボールを寄り分けながら、給湯室から廊下へと繋がるドアに向かう。
 ノブに手をかけながら、やっぱり、こんな格好するんじゃなかったな、と思った。
 文化祭だからってちょっと浮かれすぎ。
 絶対見られたくないような、でも少しだけ見てほしいような、矛盾する気持ちを。
 恥ずかしい、と思った。

「あのさ、柳原」
 声に振り返ると、今度はばっちり目が合ってしまった。
 でも後ろ髪を掻いてそれきり、黙ってしまう。
(どうしたんだろう)
 理実は不思議に感じながら、続きの言葉を待った。
「そういう格好も似合ってて、可愛いんだけどさ」
 なんとなく、そういう、と言われた自分の格好を確認しながら。
 制服のスカートはいつもより気持ち短め。
 フリルのいっぱい付いた白いエプロン。
 髪はゴムで二つに束ねられて、依子のクラスのみんなでお揃いのカチューシャ。
「もし、オレが……だったら」
 灰谷の出した例えに、思わず、え?と聞き返していた。
「だからさ、もし、オレが、柳原の本当の彼氏だったら」
(もし、灰谷くんが私の本当の彼氏だったら?)
 そんな想像は、理実の手におえそうにないぐらい遠くにあった。
 灰谷の顔は、やっぱり少し赤くて。
 その様子だけが、理実に強く、何かを意識をさせる。
 ずっと、底のほうに隠している気持ちを。 
「……たぶん、柳原がそんな格好で人前に出るの、許さないと思う」

 

 * * *

 ゆっくり、ドアが閉じられる。
 それを最後まで見届けてから、灰谷は深々とため息をついた。
 まだたくさん残っている使い済み食器の山を見やる。
 こんな、ただ面倒くさいだけの後始末を、臨時の手伝いにやらせる必要はない。しかもまだ本番の最中なのだから。
 あの、曇りのない笑顔で、柳原の場所を示した時点で、何か仕掛けられていると気をつけておくべきだったんだ。
 せっかく親切に、後輩も忠告をしてくれていたのに。
 灰谷は髪をくしゃくしゃとして、その場にしゃがみ込んだ。
「や、べー……」
 あやうく罠に掛かるところだった。


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