+体温+

  22 保健室で気がついたこと。  

 脱脂綿の先から、消毒液が染み込んでいく。
 痛みを感じて、初めて、ここが保健室だったことを思い出したように。
 びくり、と震えた女子生徒を見つめて、ふーむと保健教諭は腕を組んだ。
「これは結構な重症、みたいねぇ」
「え?」
 深刻な診断内容に、生徒から驚きの声が漏れた。
 やや短めのスカートから伸びた足は、年齢どおりのみずみずしさを保っていて、ふくらはぎに貼りついた特大バンソーコが余計、痛々しく映る。
 あの下には、斜めに5センチぐらいのかすり傷がある。
 いつもならこれくらいの怪我、ツバつけとけば治る!と一蹴のもとに追い出すところだが、と、斎藤は椅子におとなしく腰掛けた女子生徒を上から下まで無遠慮に眺める。そして、
 ……これは緊急の隔離措置ぐらいは必要かもしれないわね、と診断を重ねた。
 今日はよくも悪くもお祭りで。
 よくも悪くも、どこぞのどいつたちも、いつもよりも解放的な気分になるものだし。
 怪我をした理由を、自分の不注意でお皿を割ってしまって、と照れながら話した。
 おそらく嘘ではない。が、斎藤は後ろのほうに、一人の生徒のほろ苦い笑みを見つけないわけにはいかなかった。

 斎藤はくるりとボールペンを回転させて、診断書の、保健室の訪問理由を書く欄に、恋の病、と記入した。
「なっ」
 それを発見した女子生徒が、一気にりんごのように赤くなる。
 満足な反応に、ふふふ、と意地悪く笑んでみせると、口は動いただけで、音をつむがないまま閉じた。
 ぎゅっと、膝の上で手が握られる。
 微かに震えているのを見つけて、ありゃいじめすぎたか、と斎藤は内心で舌を出した。
「ごめんごめん。からかうつもりじゃなかったんだけど。恋の病なら時間外受付けも可だからさ、遠慮なく頼って。ね?」
 はい、と小さな声で冗談を許容して、けれど次の瞬間、思いがけない感情がこぼれた。
 ぼたぼた、と音を立てそうな勢いで、膝こぞの上に落ちてくる。
 女子生徒は焦って目をこすって、涙の線を横に引っぱった。きらきらと輝いて伸びる。
 どうして、という困惑が本人自身から伝染する。
 どうして、こんなものが。
「……柳原さん?」
 斎藤は名前を呼びながら、自分もずっと以前に、これと似た感情を知っていたな、と思う。
 泉のように溢れ出してきて、でもどこへも流すことができない感情。
「灰谷と何か、あった?」
 もう今さらの言い訳はせずに、かといって肯定もせずに。
 女子生徒は、小さく首を振って、否定する。自分の問題です、と言いながら。

 一回目の保健室訪問から間もなく。
 末端まで穏やかに浸透していくように、その噂は、ここまでたどり着いた。
 斎藤などは、それを耳にしたときに心底、ほっとして。
 保健教諭という立場上、特別にどちらかの生徒の身を案じて。というつもりでもなかったのだけれど、よかったわねえ、なんて、おばさんのごとく祝福してしまったものだった。
 実際に校内で何度か、一緒にいる姿も見かけた。
 表層はなんの問題なさそうに見えても、深層は、本人たちのみが共有する秘密だ。
 ここで流される涙の一粒ぐらいからでは、判断しようもない。
 保健教諭という立場、そして何年か先を歩んでいる立場からすれば、下世話な想像ぐらいならいくつもできるけれど。

 斎藤は、とぽとぽとティーポットへと熱いお湯を注ぎ入れた。
 お詫びの気持ちも込めて、特別に紅茶でもご馳走することにする。
 湯気のたつカップを受け取る表情からは、もう先ほどの憂いの気配は消えていた。
 弱くてもろい部分と、強くてやわらかい部分が、意図とは関係なく顔を見せる、不安定な自分。
 それこそ本人も、戸惑ってしまうほどに。
「なに、押し倒されでもしたか?」
 からかい口調は、きょとん、と非常に間の抜けた反応で流された。
 どうやら、的を外しすぎたらしい。
 意味を理解した彼女は慌てて首をふるふると横に振り、彼の名誉のために口を開く。
「そんな、たいしたことじゃないんです。第一、灰谷くんはそんなことしないし」
 若い、というには、あまりにも幼い。
 そんな感触に、斎藤は内心でため息をつく。 
 まだ、知らないのだ。
 彼女は眠っていたから。
 常温を越える熱にうなされていたから。
 今、一瞬だけ見えた感情と同じようなものが、彼の中にも眠っているかもしれないということを。
 いやもしかしたらそれ以前に、自分の中に隠された感情にもまだ、気がついていないのかもしれない。
 保健教諭という立場上、どちらか一方の見方をするのはあまりよくないことだった。
 そうは思いつつも斎藤は、女子生徒の、わずかに上気した、柔らかい頬を両の手で包み込んだ。少し、強い力で。
「柳原。あなた、灰谷のことをなんだと思ってるの」
「え……」
「英国の紳士でもなんでもないのよ? ただの日本の、普通の、男子高校生なのよ?」
 まだ水分を含んだまつげが二度、三度、と上下して。
 斎藤の手の感触に、初めて、ここが保健室だったことを思い出したように。
 びくり、と潤んだ目の中で、感情が激しく揺れた。


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