+体温+
23 好き。
こんなに弱い自分、どこにいたんだろう。
依子に制服を返してもらいに行ったら、どうしたの、と心配された。
「え」
どうしたんだろう。
さっき、保健の斎藤先生にも言われたんだけど、依子にまで言われてしまった。
なんだか、どんどん逃げ場がなくなっていくような。
(……違う)
違和感に、理実は足を止めた。別に、逃げ場がほしいわけではなくて。
そんなふうに思うのは、もう、底の、根っこのほうから間違っていて。
ごまかしてごまかして、本当の気持ちをねじ曲げて、育ててきたから。
いつか、とか、もしかしたら、とか、そんな漠然とした思いだけでうまくいくはずなかったのに。
だって、弱い自分が何一つ変わったわけでもないのに。
(見て、なかったんだ)
彼が作り出す穏やかな空気の中は、居心地がよくて、目を閉じていても平気だったから。
見ようと、していなかった。
近くの教室から、クラリネットのやわらかなソロが流れ出してきた。
どうしてこんなところから?
理実のわずかな疑問は、すぐにほどける。
音楽室、というプレートを目にして、理実は頭の中に校内地図を思い浮かべた。
音楽室は、図書室と同じ三階の、防音の関係からかそれぞれ校舎の端っこと端っこの教室に配置されている。
それでも時折風に乗ってやってくる音色に、理実は図書室で一人、よく耳を澄ましていた。
吹奏楽部の本日最後の演目は、どこかで聴いたことがあるような、懐かしいメロディで。
(さみしいとか、いとしいとか)
いろんな気持ちを思い出して、おかしくなっている涙腺に響く。
涙で洗われた目には、余分なものが薄まっていて、新しく、色々なものが映るようになっていた。
いつのまにか窓の向こうに広がっているオレンジと水色の空とか。
いつまでも弱くてみっともない、自分の足元とか。
さっき、少しだけ赤くなっていた横顔とか。
泣きすぎると、また歪んで見えなくなるものがきっとあるから。
もう少し、気を引き締めないと。
そう思って、ぱんぱん、と二度、理実は両手で頬を叩いた。
生徒会室、応接室のほうのドアからこっそり覗いてみると、もう誰もいなかった。
文化祭一日目の終了時刻が近づいている。だから、たぶん、生徒会のみんなはそれぞれの持ち場に散っていったんだろうな、そんな推理ぐらいならできる。
今日はもう、自分に任されるような仕事はなさそうだ。
代わりに、一番奥の机の上に、ティーカップが乗ったままであるのを見つけて、今日一日分を反省した。
やり残した仕事、あって。
何をしてるんだろう。
「……何、してんだ」
小声で、自分を叱る。しっかりしなさい。
灰谷のおかげで手に入れることができた最近の自分は、嫌いじゃなかった。少し、好きにもなっていた。
クラスのみんなとも、前よりずっといい関係を築けているように思える。
今なら、一つがよくなったら全部よくなるような、そんな夢みたいなことも信じられるような気がした。
でも、それは全部、灰谷がそう思わせてくれていただけなんだ。
居心地がよくてつい、忘れてしまいそうになるけれど。
誰もいない室内に響いているのは、時計の針の音だけだった。
残された時間は、どんどん少なくなっていく。
静けさを破って、カチャ、と高い音が鳴り響いた。何か硬いものがぶつかる音。
理実はびくっとして、恐る恐る音の発生源を探った。給湯室のドアが少し開いていて、灯りが漏れている。
まだ、文化祭一日目は、終わっていなくて。
そこにいる誰が、と考える前に、もしかしてまだ間に合うんだろうか、そんな可能性に、すがりつくような期待を、した。
理実は、机の上に残っていた使用済みのティーカップを手にして、給湯室のほうに近付いていった。
(あれ、いつもはどんな顔してたんだっけ?)
急にわからなくなって、軽いパニックになる。
いつもは自然な、当たり前なことが、今はうまく、できないような気がした。
考えがまとまらない間にも、時計の針は進んでいく。
ためらわず容赦なく正確に、時間を削り取っていく。
それでも理実は、わずかに開いたドアの前で一度、立ち止まった。
「好き」
一瞬、声が、重なって。
そんな錯覚に理実は慌てて口をふさいだ。
一ミリも気持ちが漏れ出さないように、しっかりと。
「私、灰谷のこと一年のときからずっと好きだったよ」
……もしかしたら、
弱い自分は、ずっと息をひそめて底のほうに隠れていて、芽を出すタイミングをはかっていただけなのかもしれない。
今の、今まで。
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