+体温+

  24 灰谷の想像力の限界。  

「え?」
 カチャ、と手の中で洗っていた食器のふちがぶつかり合う。
 山岡みほり。
 名前が、テロップ付きで浮かび上がってくる。
 こんなに簡単にフルネームが出てくるのは、去年同じクラスだったからで。何度か話した記憶もあるからだった。
 え、と灰谷は確認の意味を込めて、もう一度呟いた。
 揺るがない視線に受け止められて、どうやら聞き間違いではないらしいことを悟る。
(すき、って?)
 山岡は確か、今年は文系クラスのはずだった。何組かまでは思い出せない。
 文化祭実行委員、なんて面倒な役をこなして、今も、給湯室の片付けを済まして、お茶出しを終えた後の始末を手伝ってくれていて。
 そういえば、一年のときから面倒見がよかったような気がしたけれど、確信を持てるほど詳しく、山岡みほりについて知っているわけではなかった。
 少なくともすぐに恋愛感情と結びつくほど、知っているわけではなかった。
 そんなだから、なおさら驚いて。
 後ろめたさを隠し切れずに、灰谷はまっすぐ向けられた視線から顔を背けた。
「と、ごめん、オレ……」
「うん、灰谷に彼女いるのはちゃんと知ってる。ウワサで」 
 でも言いたかったんだ、困らせてごめんね。
 舌を出しながら照れくさそうに言う、山岡は潔かった。
 言いたかったから。
 したいことをする、そんなシンプルな理由を実行するのが、どれだけ勇気のいることか。
 結構じゅうぶんなほど、思い知っていて。

 灰谷は手元の食器をいったん流し台の中に戻して、濡れた手をズボンで拭いた。
 それから、山岡のほうをきちんと、向き直した。
「山岡ごめん、オレ、別に好きな子がいるんだ」
「うん」
「でも、ありがとう」
 偽善者、と罵られるかもしれない。
 それくらいの覚悟はして、山岡の気持ちを嬉しいと感じた。
 赤井あたりには、ロマンチスト、とからかわれるかもしれない。
 灰谷自身も、都合のいい、贅沢者の考え方だと思う。
 けれど、山岡はどの想像からも外れて、にっこりと微笑んでみせた。記憶の中の山岡のままで、ありがとうとごめんをもう一度ずつ、繰り返して。
「私さ、灰谷のそういう、誰にでも平等に優しくできるところ好きだったよ。でも、ちょっと考え直したほうがいいのかもしれないって今、思った」
 灰谷の目が意外そうにしばたく。
 そんな様子を、なぜだか嬉しそうに山岡が見た、ような気がした。
「好きな子には、特別に、別格で、破格な扱いをしてあげなよ? そうじゃなきゃ、灰谷のほんとの気持ちってうまく伝わらないように思うな」

 去り際に残された山岡の忠告は、灰谷の一番深いところまで落ちていった。
 まいったな。
 後ろ髪をかいてごまかしてみても、灰谷には苦笑する手段しか残されていなかった。
 勝ち負けのつくことではないけれど、とても敵いそうにない。
(女子って、ときどき想像力の限界を越えるな……)
 偏見かなと思いつつ、灰谷はほろ苦い思いとともに噛み締める。
 ときどき、まったく別の生き物のように感じられる。
 ほんの少し触れるだけでも壊れてしまいそうなのに、刃物で切りつけても平気で笑っていそう、というか。
 弱いところと、強いところ。矛盾する両方を、同時に持ち合わせているのは、なんだかとてつもないことのような気がしてならない。
 最近は特に負けっぱなしの自覚があるだけに、余計にそう感じるのかもしれない。

 カチャ、と食器のふちがまたぶつかった。
 どうも今日は、集中力に欠けている、らしい。
 ふと、手元から視線を持ち上げると、応接室へと続くドアが、わずかに開いているのが見えた。
 ドアの向こう側は暗いまま、それはまだ誰も戻ってきていないことを示していた。
 まだ片していないカップが残っているんだっけ、と灰谷は記憶を掘り起こす。
「?」
 応接室に一歩、足を踏み入れた瞬間、違和感のようなものに全身を包まれた。
 それが、机の上のカップが、記憶にあった位置から微妙にずれていたせいなのか。
 誰もいない室内を見回して、見えない誰かの跡を追って、灰谷は目を細めた。
 それは、またわずかに想像力の限界を越えていたから。


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