+体温+

  25 うさぎがくれた。  

 校内放送で、文化祭一日目の終了が告げられている。
 さっきまでと比べると、校内の人口密度がぐんと下がっていた。体育館前の渡り廊下あたりまで来て、理実はやっと足を休めた。
 あがった息を整えるために、深い呼吸を繰り返す。

 気がついたら、走り出していた。全力で、あの場所から逃げ出していた。
 盗み聞きしてしまった、という罪悪感があるのは確かで、どんな顔して会えばいいかわからなかったから、とか。
 そんないいわけは全部嘘じゃないんだけれど、本当のところはもっと別ものだってわかっていた。もう逃げられないんだって、この期に及んでも考えていた。 
 ふと、視線をやった廊下の真ん中に、しゃがみ込んでいる女の子を見つけた。
 情けなくて、みじめで、明日からどうすればいいのかわからないって、泣いていた女の子。
 今、思い出してみると、赤面してしまうくらい恥ずかしい。
 どうしてあんな、いくら熱で弱っていたからって、情けなさすぎる。後悔するにしても遅すぎるけれど。
 でも、思いもかけないところから差し出された手は、あった。
 恐る恐る触ってみたら、ひんやりと冷たくて。
 手の冷たい人は心があったかいんだ。そんなことを、すぐに連鎖して、思い出したけれど。
 でもあのときのあれは、自分のほうの体温が高かったせいだって、後から冷静になって考えてみて、納得もしたんだけれど。
 この手を信じてみたい。
 そう思った気持ちに、嘘は一つもなかった。

 灰谷のことを好きな人。あの手をほしいと思う人。
 そういう人がいるという想像は、ずっと簡単だった。
 依子や依子の友達から噂話を聞かされたときも、ああそうだろうな、とむしろ納得したぐらいで。
 でもそれじゃ、どうしてこんなにもショックなのか、説明できない。
 もっと奥の、底のほうに閉まってある気持ちを引き出さないと。
(ごめん、オレ、別に好きな子がいるんだ)
 いつか、そう言われたときのための準備は、ちゃんとしていたはずだったのに。
 理実は下唇を噛んだ。気持ちが一ミリも、漏れ出さないように。
 もう一つ、深く呼吸をする。ひ、とノドが鳴ったけど、気にしないことにする。
(灰谷くんに誰か好きな人ができたら、私、すぐに離れるから)
 約束をした。だから、守らなくちゃいけない。
 すごく、シンプルなこと。
 実行するためには、自分の都合なんて考える必要はない。
 繋がった手を、こちらから離す。それだけのことだった。


 


 どれくらいこうしていたんだろう。
 わからなくなるくらい、渡り廊下の隅で、膝を抱えて座っていた理実に、夕日の最後の輝きをバックにして、覆いかぶさった影があった。
 薄暗くなった視界の中で、理実は少しだけ顔を上げる。  
「……お前は、なんて顔してんだ」
 あ、うさぎがしゃべった。と思ったら、暗転して。
 急に目の前が真っ暗になっていた。
「わっ、ええっ?」
 我ながら間の抜けた声が出た。突然の展開に身体と、それから二つの目のほうもついていってない。
 その暗闇には、小さな二つの穴が開いていて、わずかな光が漏れ出している。
 とりあえず、そこから覗いて外を見てみたら、うさぎのでっかい身体の上に、頭に白いタオルを巻きつけた、不機嫌そうな顔が乗っていた。
 あっくん、と名前を呼んだら、もう、少なくとも首から上はうさぎじゃなくなったのに、返事がなくて。
 高い位置にある、いつもどおりの変化の少ない表情を見たら、理実の中に蓄積していたものが弾けて、崩れた。
 あっくん、あっくん、と何度も小さな子どもみたいにくり返し、呼ぶ。
 だんだん、小さな穴から見える、わずかな風景までぼやけてきて、怖かった。
 世界から、唯一の光がなくなってしまうのは、怖かった。
 どうして、こんなに涙が出るんだろう。身体のどこに、しまってあったんだろう。
 自分のことが、一番よくわからないと思った。

 手を、引っぱられるのがわかった。
 人間じゃない、感触と温度で。毛むくじゃらの手で。
 つれていかれた場所には見覚えがあった。
 バスケ部専用の憩いの場なんだって、瀬名くんが言ってた。
 記憶と一緒に少しだけ鈍い痛みを思い出して、また鼻の奥がつんとした。
(どうしよう。私まだ、こんなにも弱い)

 

 

 ―― 真っ暗な世界は、理実を守ってくれているのだ。
 そう理解できたのは、泣くだけ泣いて泣き尽くした後だった。
 二つの小さな穴から外を覗いてみると、確認できる範囲にはもう誰もいなくて。
 外も、中と一緒ぐらいの暗闇になっていた。だから、もうはずしても大丈夫かな、と思った。
 理実は頭を持ち上げて、外に出た。
 ひんやりとした空気が、理実の身体に溜まった熱を冷ました。
 手の中に収まった、ぴんく色の、だらんと伸びた耳が特徴的な頭を、すぐに持ち主に返さなくては、と思った。けれど、案の定というか、見渡せる場所に半身は見つからない。
「……あっくん?」
 呼んでみる。一番伝えたいことを、いつも言い逃してしまっているような気がした。
 でっかいうさぎは、ぴんく色の頭と、ひんやりとした空気だけを残して、消えてしまっていた。


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