+体温+

  32 会長、物騒に笑う。  

 きれいに微笑んで、そのまま白い肌に唇を寄せた。
 またため息のような声が漏れて、髪がさらさらと揺れて。
 理実はそこから動けずに、固まったまま。
 早くここから消えないと、と理実をうながしてくれたのは、どさどさっという物音だった。
 いつのまにか、手からすべての本がすべり落ちていて。
 あいにく、物音は無視できるほど小さなものではなくて。
 恐る恐る目をやったレンズの向こうには、あらら、と呆れたような表情が浮かんでいた。 


「見ーたーなー」
「ごっごめんなさい」
 くっく、というくすぐったい感じの笑い声が上から降ってくる。
 理実の思考回路は、消えないと、の次に、落ちた本を拾わないと、と動いた。
 実行するためにしゃがみ込んだ、まではよかったのだけれど、今度は腰が抜けて、立ち上がれなくなる始末で。
 いまだ床に放置されたままの本を、赤井が手首を返して拾い上げている。
 おくすりの大事典、ムーミン谷の十一月、……
「……それ、借りるつもりだったの?」
「これ? あー、そう。借りるだけ、のつもりだったんだけどね」
 そう答えた唇には、少しの苦みが混じっていた。
 理実は、いつのまにかいなくなっていた女子生徒のことを思った。
 顔はよく見えなかったけれど、きれいな髪に、思い当たる人物がいた。図書委員の、後輩で。
 申しわけなさで胸がいっぱいになる。

 赤井のほうは、こんなふうにサボりを発見されても気にしている様子はなかった。
 集めた本を重ねて床に置き、本棚を背もたれ代わりに、しゃがんだままの理実のそばに腰をおろした。
 近づいた気配に、身体半分がぴりりと緊張する。
 そんな理実の様子に、隣の肩がおかしそうに揺れた。
「へーき? 顔がゆでられたタコみたいになってるけど」
「ごめん、ね。その、邪魔するつもりはなかったんだけど」
「いいや、こっちこそごめんね。嫌なもの見せちゃって」
(嫌なものって)
 突きつけられたトゲが、ちくりと刺さる。
 赤井の言葉は、意図的なのかはわからないけれど、効果的だ。
 普段の彼はにこにことしていて穏やかな空気さえ感じられるのに、ときどき、ちょっとしたタイミングで、雰囲気ががらりと変わるような気がする。ちょうど、今のように。
 いつもは割ときちんとした服装をしている生徒会長が、今は普通の男子生徒と同じような格好をしているせいかもしれなかった。
 ワイシャツのすそがだらしなくズボンから出ていて、ボタンも適当にとめてあるだけで、アンダーシャツが見えている。
 最近あんまり生徒会に顔を出さないって、副会長から聞いていて、そのせいもあるかもしれなかった。

 ぱちん、と音が散って、やわらかなぬるい光が理実の頬に当たった。
 息を吸い込んで吐く。
 当たり前の生命活動が、アイテム一つで当たり前じゃなくなって。
 理実には、赤井の口から立ち上る白い煙が、本の隙間に吸い込まれていくように見えた。
「あ、あの」
「ん?」
「本っ! あの本って、煙、弱い、から……」
「ああそっか。図書室だっけ、ここ」
 失礼、と言って、携帯灰皿に火をつけたばかりのタバコを押し込む。
 そんなものまで用意してるんだ、とどうでもいいところで感心する。
 少しよどんだ空気だけが、理実に意識を強くさせた。
 何か、どこか、とても、違う、ような。
「赤井、くん?」
「んー?」
「なんか……その、怒って、る?」
 そういえば、こんなに近くでこの人の顔を見るのははじめてかもしれない。
 急に、そんな事実に気がついて。
 相変わらず、女の人みたいなきれいな顔。
 見ているだけで反射で緊張してしまう。ここでも、依子の暗示がきいていて。
 ゆっくり外される眼鏡を見ながら、理実は思う。
 さっきの、依子じゃなかったなって。
 もしかしたら、違和感はそこらへんからも来ているのかもしれない。
 最近、依子には自分の話を聞いてもらうばっかりで、全然依子の話をしてもらっていなかった。
 こういうところがダメなんだって、昨日までの自分をまた後悔して。
 赤井の唇が音を発せずに動いた。
「さて、どうしてやろうかな……」
 けして聞こえないはずの声が、理実の耳に届いた。
 距離がいつもより近いせいかもしれないし、図書室が静かすぎるせいかもしれなかった。
 もしくは、ここ数ヵ月間かけて、この生徒会長について学んだことが少しは役に立ったのかもしれなかった。

「ねえ、灰谷と別れたってほんとう?」

 問い掛けた唇は、物騒な笑みを結んでいた。


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