+体温+
33 柳原さん、罠に掛かる。
できるだけ、おいしそうなエサを撒いておいた。
でも、それに何かが、かかるなんて、そもそも何が、かかるかなんて、予測できるわけではなかった。
そんなに万能ではない。未知があるからこそ、人生は楽しいのであって。
それでもいちおう、ここに縁深い人物を二人ほど予想として上げていたのだけれど、現れたのはどちらでもない、見知らぬ女子生徒だった。
これもまた正解。
よく見てみると、ときどき図書室のカウンターに座っている一年生の子だというのがわかった。
驚いたことに、彼女はエサもとらずにかかってくれたらしい。
大胆で謙虚で、愚者と呼ぼうか勇者と呼ぼうか。
女の子はとてもかわいいと思う。
同じ精神を持ち同じ言語を解す、自分がどこかに置き忘れてきた片割れの存在。
腕の中に納まる、やわらかくて優しい存在をいとおしく思う。
少しの退屈と、少しの憂鬱と引き換えに。
しばらくして、仕掛けたままにしてあったエサにかかったのは、大物というか、ある意味本命だった。
せっかく与えた隙に逃げ出すのも忘れて、簡単にそばにいることを許した彼女を、少し困ったように見やる。
友人の苦労を、少しだけ共有しながら。
「赤井くん、なんか……その、怒って、る?」
(―― さて、どうしてやろうかな)
せっかくかかった獲物だ。どう調理するのが一番おいしいだろう。
赤井は考える。考えて、思わず広がってしまいそうになった笑みを懸命に抑え込んだ。
「ねえ、灰谷と別れたってほんとう?」
弾かれたように顔を上げた理実は、しばらく考えて、一つ頷いた。
この女の子は、俯いて、黙っているときの印象が強いけれど、実は個人対個人のつきあいになると驚くほどに誠実だ。
相手の目をじっと見て耳を澄まし、自分に問いかけて答えを探り、それから言葉にする。
その一見面倒なほどゆったりとした過程は、彼女のイトコにも通じるものがあって、血としつけの賜物だなと感心する。
赤井も見習い、同じような過程をゆったりとたどって、自分の中の彼女に対する枷が一つ外れてしまった事実にぶち当たった。
せっかく、気づかないようにしていたのに。
そこから新しく生まれた選択肢は、赤井を甘美に誘うものだった。
どうしようもないことに、一番自分好みでもあったりして。
(さて、どうしようか)
どうするのが一番退屈じゃないだろう。
* * *
「じゃあ、灰谷と付き合ってたの、本気じゃなかったってほんとう?」
意地悪な聞き方をされたな、と思った。
基本的に、この目の前の人物は意地悪なのだ。
意地悪なときのほうが、らしい、というか、キラキラして見えるのはたぶん気のしすぎではないと思う。
そして、知らなかったんだ、という事実も改めて。
灰谷が話していなかった、ということに対してもそうだけれど、赤井でも知らないことがあるということにもっと驚いていた。すごく当たり前のこと、なんだけれど。
理実はゆっくりと考えて、また頷きを返した。
言いわけを探そうとしたけれど、うまく見つけられなくて。
赤井は、そう、とだけ呟いて、ジャケットのポケットを探った手が結局何も見つけられずに出てきた。
ここが図書室だって、思い出したように。
一瞬、宙をさまよった手を見て、理実はさっきの質問の答えがわかったような気がした。
怒ってるだけじゃないのかもしれない。
哀しくて、淋しいのもそうなのかもしれない。
赤井にとって、灰谷がどういう存在なのか、理実にはわからなくて。
同い年でも同じクラスでも男子の気持ちって、いまだによくわからないことがたくさんあって、赤井の場合はもっともわかりにくい、深い、感じがするから。
「その、ごめんね」
気がついたら、謝っていた。
人よりも倍速回転の頭が、その意味を受け損ねたみたいに。
赤井が心底驚いた表情を浮かべたので、理実も一緒に驚いた。
「……それって、なんに対する、ごめんね?」
「え?」
「俺にほんとうのことを言わずに騙してた柳原さんからのごめんね? それとも……」
あ、と理実は自分の口を押さえた。
「ありがたくも、元仮の彼氏の分も謝ってくれたわけ、かな?」
また、がらりと赤井の雰囲気が変わる。
理実は、扉を開けてしまった手をぎゅうっと強く握り締めた。
ちっとも進歩のない自分が心底嫌だった。
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