+体温+
39 王子の居ぬ間に。
赤井予報のとおり、だった。
窓の向こう側の空は白く重たく。
今朝早く少し降らせおいた分だけ、うっすらとあたりに積もっている。
空と雲と木と運動場と校舎と、境界線をぼやかしていた。
いつのまにかやってきていた担任が、教卓の前で朝のSHRを始めた。
「あー、今日の欠席はー……灰谷、か。珍しいな」
え、と理実は驚いて、そこを見た。教卓から数えて二番目、教室の真ん中がぽっかりと空いている。
理実の記憶が正しければ、このクラスになってから、初めて、なんじゃないだろうか。
風邪かな、と思い、昨日の様子を思い浮かべて、失敗した。
よく考えてみれば、あのときにはもう熱が、あったのかもしれない。
自分のことでいっぱいになって、そういうことに気がついてあげられないのは優しくないなと思った。
もらったバンソーコは、外してきた。
その方面の知識が疎くてよくわからないのだけれど、そんなに強くアトをつけられたわけではなかったようで。
今朝の鏡の中では、もううっすらとしか見えなくなっていたので、ファンデーションを少しつけてごまかした。
もう一度、ぽっかりと空いた席を確認して、どこかほっとしている自分がいて。
ダメだな、と思う。まだまだ勇気が足りなくて。
理実は携帯電話を開いて、メール作成画面を立ち上げた。
仮の関係をおしまいにしてから、メールは一度もしたことがなかった。それが引いた線を越してしまう行為なのか、わからなくて。
今は眠っているかもしれないし、邪魔はしたくない。
迷って結局閉じようとした携帯電話の着信のランプが光った。続けてぶるぶると手の中で震える。
新着に表示されたメールを、理実はボタン一つで開いた。
(放課後デート、しませんか?)
理実は驚いて、発信源を見た。廊下側の一番後ろの席。
ひらひらと手が振られて、愛想よく返される。
『お暇じゃない? ちょっとだけでいいんだけど』
二通目がすぐに届く。急かされて理実は、どうして、と打ち返した。
『…王子さまのいない間に、お姫さまと仲良くしておこうかと思って』
理実は困って、できないよ、と打とうとしてどう言ったらいいものか迷って、もう一度困った。
また手の中が軽く震え、新しいメールの到着を知らせる。
どうやら、考える余裕を与えてくれない作戦らしい。
理実はなんとなく嫌な予感とともにメールを開いた。
『ちなみにこれ、招待状です』
本文はそれだけで、下に貼付ファイルがくっついていた。
(……写真?)
暗くて、何が映っているのかわからない。室内で撮影されたものらしい。
ソファー、だろうか。落ち着いた柄には見覚えがあるような気がした。
小さな明かりに照らし出されて、真ん中に寄り添うようにした影が二つ。
まぶたの裏で、記憶が重なる。
がたん、と激しい音を立てて椅子が動いたので、クラス中の視線が理実に集まった。
一時間目の準備を進めていた古典の先生も、黒板消しを持ったまま目を丸くしている。
理実が焦って発信源を確認する前に、また手の中が震えた。
『返事は?』
迷いを、許してくれる気はないらしい。
イエスかノーかの、二択さえも許してくれない。
理実は、すみません、と小さな声で周りに謝罪してから、席に座り直した。
一つ余分に呼吸をして、手の中に送られてきた写真を見つめる。
頭の中でどんなに考えてもわからないことも、こうやって外から見れば、こんなにもわかりやすいこと。
もうずっと前から、答えはたったの一つ。
理実は、その返事をどう打とうか迷いながら、ふと不可解な事実にぶつかった。
(このメールアドレス、赤井くんに教えたことあったかな……?)
覚悟は決めていたつもりだったんだけれど。
放課後、帰りのSHRが終わってすぐに、満面の笑みに迎えられて改めて逃げられないんだと。
校内でも一番、二番を争う有名人と肩を並べて歩くのは、なかなかの度胸が必要だ。
デート、という言い方はたぶん赤井が面白がって選んだものだから、そんな大事ではないとは思うのだけれど、それでも罪悪感は消えない。
そんな理実の内心を知ってか知らずか、赤井はときどき後ろから理実がついてくるのを確認するだけで、積極的に何かしようとはしなかった。
歩みは、ゆっくり。
理実が無理をしなくても、いつもの速度でついて来られるように。
赤井も、灰谷も、当たり前のようにするから、忘れてしまいそうになるけれど。
学校の最寄駅が近づいてきて、改札を前に、理実は一歩二歩と大きめに踏み出して、隣に並んだ。
「どこ、行くの?」
控えめな問いに、赤井は小さな子どもに諭すように、ないしょ、と指を一本唇に当てた。
定期券があるから、切符を買う必要はなかった。
つまり、どこに行くのか、結局わからないままで。
車窓を流れていく風景はいつも見ているものから、あまり見たことのないものへと。
理実の家の最寄駅を通り越し、大きな駅を一つ過ぎたところで、降りるよ、と赤井が理実の手を取った。
すごく当たり前のようにしたので、疑問を抱くのを忘れてしまった。
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