+体温+

  41 はじめまして。  

「こんにちは、亨くんの高校のクラスメイトのものですが ――亨くん、ご在宅でしょうか?」
「あ、はい。少しお待ちくださいね」

 やわらかくて甘い、女の人の声だった。
 のだけれど、理実はそれを気にしている余裕もなく、亨くん、と聞き慣れない呼び方にいっそう混乱して。
 そして、いつのまにか手に、コンビニの買い物袋を握らされていた。
「……赤井くん?」
「うん。やっぱりお見舞いの品ぐらいはないとね。こんなのしかなくて悪いけど」
 肝心の人はただにこりと微笑むだけで、それ以上の、ほしい説明をしてくれない。
 今、ここに立っているということはどういうことなのか。
 その意味を。
「じゃあ、がんばってね」
「あ、赤井くん!?」
 後ろを向いた背中を慌てて掴まえた。
「か、帰っちゃうの?」
「そりゃ帰るよ。だって、お邪魔虫にはなりたくないし?」
 ひらひらと振られた手が、理実の戸惑いをあおぐ。
 泣きそうになった顔を見て、赤井はしょうがないねえと呟きながら耳打ちをした。
「独り占め、したいんでしょ?」
 残念ながら、理実には言い返せる言葉が何もなかった。
 せいぜい、どんどん小さくなっていく背中に恨み言を吐くぐらいで。
 青い家の前、コンビニ袋を持って一人で立っている自分はなんだかとても居たたまれないように思えた。 

「ごめんなさい、お待たせ……」
 開いたドアの隙間から、若い、女の人が顔を出した。
 門のところに立っているのが理実一人なのを確認して、不思議そうにあたりを見回す。さっきの呼び出した声が男の子のものだったからだろう。
 どうしよう、と思いきり心細そうにした理実に、笑顔が向けられる。
「しました。どうぞ、よかったら入って」
 全身を覗かせると、ほっそりとした小さな人だというのがわかった。身体のサイズに合っていない、だぼだぼのトレーナーを着ている。
 理実は迷いを手にしたまま、門をくぐった。
 家の敷居をまたいだ途端、ふわり、と暖かな空気に包まれる。
 どこかとどこかが繋がったような、懐かしい感じがした。


 いらっしゃいませ、と差し出されたスリッパに、無意識にきょろきょろしていたことに気がついて、慌てて頭を下げた。
 おじゃまします、となんとか口にする。
 とても不作法だと我ながら思ったのだけれど、女の人は気にした様子もなく、ちょっとここで待っていてくれる? とリビングに招いて、ぱたぱたと奥のほうへと掛けていった。
 部屋の真ん中にある茶色のテーブルはぴかぴかに磨かれていた。
 ガラスの花瓶に生けられた花があちらこちらで咲いていて、甘い香りを放っている。
 カーテンを通ってくる光は白くて、外とそんなに変わらない温度差を感じた。
 入り口を振り返ると、まじまじと見られている視線とぶつかった。
「あ、ごめんなさい。亨の女の子の友達なんて、初めて見るもんだから」
 とおる、という呼び方が自然で、なんの違和感もなくて。
 疑問を抱く前に、どうぞ、とソファーを示された。お礼を言って、腰掛ける。
 目の前のテーブルに、紅茶のカップと、角砂糖が山盛りになった小さなバスケットが置かれた。
 女の人は理実の向かい、テーブルを挟んだじゅうたんの上に座った。
 マニュキュアもしていない、短く切り込まれた爪が角砂糖を三個掴んで、紅茶の中に落とす。
 その様子をまじまじと見つめている視線に気づいて、あ、とカップを置き直した。
「挨拶もせずにごめんなさい。えっと、はじめまして。私、亨の姉です。涼と言います」
「すずみ、さん……」
「そう。涼しいって一文字で、すずみ。いつも弟がお世話になってます」
「い、いえ、こちらこそ、いつも灰谷くんには、ほんとにお世話になってます。同じクラスの、柳原理実です」
 涼も同じように、やなはらりみさん、と口の中で音を転がした。
「理想の理と、現実の実で、りみ、と読みます」
 律儀に説明を加えた理実に、涼が微笑んだ。
 似てる、と直感で思ってしまって、理実は恥ずかしくなって俯いた。
 涼の外見は小さなきれいな女の人のもので、全然違うのに。
 でも、なんて言えばいいんだろう。うまく言えないけれど、空気というか。
 穏やかで、やわらかくて、甘い。そんな優しい雰囲気が似ているような気がした。

「あ、亨の部屋は二階。上がってすぐ左」
 涼に言われて、この後に及んでもつかない決心がぐらりと揺れるのを感じた。
 ただのクラスメイトは、お見舞いしたりするだろうか。と考えて首を振る。
 そういうふうに考えて、逃げる口実に使うのはずるいように思った。今はもう状況が違う。
 赤井に連れてこられたとは言え、逃げ出さずに、ここにいるのは自分なのだから。
 そんな葛藤を知ってか知らずか、涼は理実の両肩に手を置いた。
「よかったら、顔見せてあげるだけでも。結構、弟にしては珍しく落ち込んでたみたいだから」
「え?」
「中学高校通しての皆勤賞逃したー! って」 
 そんな想像しづらい彼に驚いていると、そっと階段のほうへと押し出される。ね、と笑いかけられたら、理実には断ることができなかった。

 階段を上がって、左。
 こんなに短い距離の間で、迷子になってしまいそうだった。
 たどりついたドアの前、理実はノックしようとした手を止める。
 どうなるのか、まったくわからなかった。
 このドアの向こうで会えたら、どうなるのか。どうするんだろう、自分は。
 ずっと考えているのに、正しい答えが見つからない。
 でも気がつかないうちに自然と、目が追いかけてしまうように。
 触れたところから伝わった熱を、心臓が全身にめぐらしてしまうように。
 いつも、心よりも先に身体が知っていて。
(どうしたいのか)
 こんこん、と手の甲がドアを鳴らした。


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