+体温+
42 心よりも先に。
30ぐらい、心臓の音を数えていた。
沈黙するドアの前に、理実はずるずるとしゃがみこむ。
(そうだよね、寝てるよね)
風邪を引いているのだから、当たり前だった。
ぴんと張っていた糸がぷつりと途切れた。ほっとしたような、残念なような。
しばらくそのまま座っていて、帰ろう、と思って立ち上がった。
別に今日じゃなくてもいい。明日でも明後日でも変わりはないはずだ。
理実がそっと部屋の前を離れると、とんとんとん、という軽やかな音が階段を上ってきた。
「あれ、もう会えた?」
「いえ。灰谷くん、寝てるみたいなので」
これで失礼します、と頭を下げた理実に、そう、と涼が顔を曇らせた。
いつのまにか、さっきのだぼだぼトレーナーのような部屋着ではなくて、シンプルなコートを羽織った姿になっている。
きっちりとした格好になるとますます小柄に見えて、手には不自然なほど大きめのがま口財布が握られていた。
その視線の先に気がついて、涼は慌てて後ろ手に隠した。
「……ごめんなさい、実は理実さんを当てにして今から夕飯の買い出しに行こうと思ってたんだけど」
悪戯を白状するように、小さな身体が縮まる。まるで子どもみたいに。
いったい何歳くらいなんだろうか。予想は難しくて、でも尋ねるわけにもいかなくて。
理実の口は自然と動き出していた。
「あの、そういうことことだったら私、大丈夫です。買い物の間ぐらいなら、留守番してます」
「え、でも……」
理実が無理やりでも平気そうに笑ってみせると、涼は申しわけなさそうに両の手を合わせた。
拝むようにされて、逆に恐縮してしまう。
「じゃあ、少しの間だけ。お願いします」
はい、という快い返事を受けとって、涼は安心したように階段を下り始めた。
その背中が、二段ほど下がったところで思いついたように振り返る。
「あのね、姉馬鹿かもしれないけど、なかなかよくできた弟だと思うの」
はい、と理実も異論なく頷く。学校での彼を見ればわかることだったので。
その様子に、涼は嬉しそうに微笑んだ。
「だから、こういうときの弟に会っとくのはなかなかいい機会だと思うよ」
軽くウィンクを飛ばされて、理実はなんと反応していいのかわからずに。
とんとんとん、という軽やかな音だけが耳に残って、やがて消えた。
訪れた静寂は、思ったよりも理実の選択肢を奪う結果になっていた。
こうなってみると、今、この家の中にいる唯一の住人に挨拶しないまま、というのはなんとなく不自然で。
(……どう、しようか)
迷いを手にしたままもう一度、足を向ける。階段を上がって、左の部屋。
再びのノックに応えたのは、心臓の音だけだった。
一つ、深く呼吸をして。冷たい空気で胸を満たす。
失礼します、と職員室に入るときのような神妙な面持ちで、理実はそのドアを開いた。
カーテンがきっちりと閉められているせいか、室内は暗かった。
部屋の奥のほうにベッドがあるのが見える。
青い掛け布団が山型に膨らんでいて、存在を教えてくれていた。
理実はゆっくりと足を踏み入れた。
静か、だった。
さっきまであんなにうるさかった心臓の音まで遠い。
マヒしてしまったのかもしれない。ちゃんと動いているのか心配になるくらい。
床に、カバンと制服の上着が放り出されていた。
理実はなんとなくそれらを拾い上げて、勉強机のイスを引いて置いた。机の上には参考書が開きっぱなしになっている。
ここだけ、昨日のままで時間が止まっていた。
ベッドの上から、少し不規則な呼吸が聞こえてくる。
部屋の主は、うつ伏せになって寝ていた。頭だけ氷枕の上に横たえて。
ときどき苦しそうな咳が混じって、ノドが痛そうだった。
理実は声をかけるタイミングを見つけられずに、ベッドの前の床に膝をついた。
手首に、コンビニの袋を引っ掛けたままだった。中身を確認していなかったけれど、食べ物なら冷蔵庫を借りにいかないと。
いろいろ、やらなければいけないことがあった。
お見舞いだし、留守番だし。ちゃんと、そう思うのに、肝心の足に力が入らない。
膝に吸盤がくっついていたように、その場から動けなくなった。
数秒だったのか、数分だったのか。
布団のシーツを握っていた手からふっと力が抜けて、ベッドの上に落ちた。
無防備になった手は、手首のあたりに太い血管を浮き出させていた。
肉よりも骨のほうが存在感があって、指が長く手のひらは厚い。
自分のこれとはまったく違うもの。
(でも)
心よりも先に身体が知っている。
理実は手を伸ばした。
触れた手は、びっくりするくらい熱くて、汗で少しだけ湿っていた。
前に知ったものとは違う、でも、理実がいとおしくてたまらない温度だった。
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