+体温+

  44 タッチセラピー・下  

 ひんやりとした感触が、熱を持ちすぎた手には心地よかった。
 おそらく姉だろう。そう思って、もう少し味わっていたい気持ちを抑えて目を開いた。
 映ったのは、予定外の人物だった。

 彼女は、こちらが気がついたことに気がつかずに、手のひらの上に指を這わせたりしていて。
 くすぐったかったけれど、灰谷はしばらくされるがままになっていた。どう声を掛けようかと迷っていたら、目が合った。
 反応は劇的だった。
 一瞬で手が離されて、バンザイをしたような格好になった。
「ご、ごごめんね。勝手に」
 夢なのか現実なのかいまいち自信が持てなかったので、自分の頬をつねってみた。痛かった。
 名前を呼んでみると、何度も頷かれた。どうやら本物らしい。
 柳原はいつもの記憶の中の姿のまま、部屋のじゅうたんの上に座っていた。


 何度か目覚めた記憶はあるけれど、ずっと夢の中にいるようで。
 ただずっと別の体温を感じていて、それだけが繋ぎ止めてくれているように。
 次に目に映ったのは、ベッドの上で頬杖をついて、舟をこいでいる彼女だった。
 学校帰りに寄ってくれたらしい、制服のままで。一瞬、ここがどこなのかわからなくなる。
 灰谷は身じろぎしようとして、手が不自然に捻じ曲がるのを感じた。
 一瞬、息が止まる。
 手の先で、祈りを捧げるように指がしっかりと組まれていて、どういう状況なのか理解が追いつかない。
 灰谷は動くのを諦めて、氷枕に顔を沈めた。
 氷はすでに形なく、水枕になっていた。しかも、熱を吸ってぬるい。
 しばらくそのままでいたら、手が引っ張られるのを感じた。

「……おはよう」
 言われても、いまいちわかっていないように。
 ぱちぱちと瞬きで応えてから、おはよう、と条件反射で返事をしていた。
 灰谷は笑った。が、腹筋に力が入らなくて中途半端になった。
 事態を理解したらしい柳原は慌てて、恥ずかしそうに目を伏せた。
「ごめん。私、また寝ちゃったんだね」
「また?」
「……あの、文化祭の準備のときも、生徒会室で」
 ああ、と灰谷も思い出す。
 あのときも、いつのまにか寝てしまって、気がついたら外が真っ暗になっていて、柳原に迷惑をかけたんだった。
(そういえば今、何時くらいだろう)
 灰谷は、枕元に置いておいた携帯電話に、空いているほうの手を伸ばした。思ったよりも遅い時間でなくてほっとする。
 新着のメールが何件か届いていて、送り主には嫌な名前が並んでいた。
 適当に開いていくと、今のこの状況がなんとなくつかめたような気がした。
 そして最後の、件名:お見舞い、というメールに添付されていた写真ファイルを開いて、今、心なしか赤くなっている顔の理由も悟る。

 なんとなく、こういう弱っているところを見られるのは苦手で。
 灰谷は無理やりにでも背をベッドからはがすと、急なバランス変化に耐えられずに頭がくらくらとした。
 しばらく額を押さえて痛みを追い払っていたら、心配そうに眉が寄った。
「無理しないで、寝てていいから」
 ときどき、柳原の言葉には有無を言わせない力がある。
 おとなしく従うことにして、枕を挟んで壁にもたれるように寝転んだ。
 落ち着くように、浅い呼吸を繰り返す。
 久しぶりにこんな風邪らしい風邪をひいた。
 薬を飲んで一晩寝れば治る、という今までの認識は見事にひっくり返されて。
 学校を休んでまで、結構眠ったつもりだったのに、まだ身体はしつこく熱を持ち続けている。
 背中のあたりにシャツがひっついて、汗をかいたのだとわかる。気持ちが悪かった。
「……大丈夫?」
「あんま大丈夫じゃない、かな。少し、しんどい」
 素直に、弱音を吐いてみる。
 内容も声の調子も、ごまかしようのないくらい酷い。
 取り繕う余裕もなくてみっともなかったけれど、柳原は気にした様子もなかった。
「それ、なに?」
 手首にぶら下がっている袋の正体を聞いた。
 プリン、と呟きが返ってくる。
「コンビニの、なんだけど。赤井くんが持ってけって」
「赤井が?」
 勝手にざわつく胸がうっとおしかった。
 こんなにも容易く揺さぶられて。
 見たくもないところに目がいって、それを見つけられなくてほっとしている自分が情けなくて。
「食べる?」
「……うん」
 差し出されたプリンを受け取って、プラスチックのスプーンで口に運ぶ。
 甘さに身構えたのに、熱でマヒした舌の上では、味がしなかった。本当にそこにあるのか、不確かだった。
 

「氷枕、取り替えようか」
 優しくされるのは心地いい。
 誰にでも平等に向けられるもので、自分に対するときだけの特別なものではなくても。
 弱っている、身体と心には染み入る。
 水が入っているだけの枕に手が伸ばされる。細い、白い手。
「灰谷、くん?」
 名前を呼ばれても、頷くことさえできない。
 ハンマーで打ち付けられているように頭が痛む。けれど、心はやけに静かだった。
 気がついたら、手の中にあった。

「柳原」
「うん」 
「助けて?」

 何を言っているのか。
 どこか第三者的で、自分を置き去りにしていた。
 案の定、柳原が驚いた顔をした。

 都合のいいことを願っている。弱っているのをエサにして。
 それでも彼女が受け入れてくれることを期待して。
 期待して、諦めきれなくて、みっともなかった。
 こんなふうに、ダメな自分をさらけ出して。
「……私、どうしたらいい、かな」
 ほら、と思う。
 柳原が断れないことを、自分の狡猾さを知っている。
 責任、といつか赤井が聞いた。どこまで責任をとるつもりがあるのか、と。
 責任なんかない。最初から、その資格がない。
 柳原は優しくされたら、拒否なんてできない。だから、手を差し出したんだ。
 その手を断れないことを知っていたから。  

「―― て」
「て?」

 返事を聞く前に、つかんだ手首を引き寄せた。
 ベッドの上から乗り出すような無理やりな姿勢で、抱きしめる。
 ずっと、こうしたかった。
 こうしたかったんだと、今、思い知る。
 保健室で、この体温を知ったときから、ずっと。
 責任とか恋愛感情とか嫉妬とか、そういうんじゃないんだ。
 もっと単純で、醜くて、独り善がりで、優しくない。
 触って感じて、簡単に消えない、確かな証拠がほしい。
 腕に力を込めると、小さくなった身体から少しだけ硬さが失せたような気がした。
 恐る恐る、ゆっくりと背中に回された手が、ひんやりと肌に触れて。
 尋ねたら、外では雪が降っているのだと教えられた。


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