+体温+

  45 余熱。  

 カーテンの向こう側がぼんやりと明るくて、はじめて室内の暗さに気がついた。
 輪郭が、影でしかとらえられない。
 今は距離が近すぎて、自分と相手との線がもっとずっと、曖昧になっているように思った。

 引き上げられるように腰掛けたベッドの上。
 広い肩と長い腕の中で、理実はどうしたらいいものか、自分自身を持て余していた。
 とりあえず、固まった全身をほぐそうと少し身じろぎすると、密着感が増して、不思議と居心地がよくなった。
 パズルのピースが合わさる様子を思い浮かべながら、理実はそっと背中に腕を回した。
 びく、と身体が一瞬強ばるのを感じる。
 なぜかそれを好ましく思いながら、理実は恐る恐る背中のシャツをつかんだ。
 熱くて湿った感触が、生々しい。
 鼻をくすぐるにおいは、理実が知る数少ない男性である父親を思い出させた。
 不思議と、いつも一緒にいたはずの篤郎からは感じたことがないもので。
 常に一定の距離を開けてくれていたイトコの気遣いだと、理実が気づくことはない。

 肩のあたりに回されていた手が少しずつ下りて、腰のあたりで止まっている。
 髪が、耳元をくすぐるように動いて、少し荒い息づかいを感じた。
 体調が悪いのだ、風邪を引いていて、熱があるのだ。
 そんなことも忘れていた自分に呆れて、理実は少し顔を上げた。
「熱、上がっちゃうよ」
「……だな」
 今の灰谷は、抱くというよりも、寄りかかるような感じで理実に身体を預けている。
 触れているところから高温が伝わってくる。
 余分な熱を半分ぐらい引き受けられたらいいと思うのだけれど、そういうわけにもいかない。
「もう少し」
 囁きとともに、きゅっと腕に力がこめられて、理実は何も言えなくなってしまった。
 肩口に頭を乗せるようにして、目を閉じる。
 ダメだと頭では思っても、離れがたいと思ってしまっているのは一緒で。
 誰かの体温のそばに寄り添うことが、こんなにも心地よいものだとは思ってもみなかった。



 ばたん、と階下から音が響いた。続けて、ただいまーという声。
 誰かが、おそらく涼が買い物から帰ってきたのだ、とわかる。 
 回されていた腕から力が抜ける。理実もゆっくりと身体を離した。
 少し距離ができた二人の間に、気まずさに満ちた空気が落ちてくる。
 何も口にする言葉が浮かばない。とっくに通り越してしまっていて。
 触れて感じて、それは会話をするのよりもずっと濃い、コミュニケーションなんだ。

 目の前にいるクラスメイトの男の子について、今でも理実は多くを知っているわけではなかった。
 頭がよくて、数学は特に得意で、運動神経は普通くらいで、生徒会長と仲がよくて。
 甘いものが好きで、映画が好きで、きれいなお姉さんがいて。
 身長はそれなりに高くて、髪が柔らかそうで、見た目はそうでもないのに体格は割とがっしりとしている。
 手のひらにはあまり肉がついていなくて、指は一本一本が長い。
 優しくて、優しくて、いつも、どこか困ったように笑う。
 風邪を引いている今の彼は、いつもよりも少し、子どもっぽく見えた。
(……どうしよう)
 遅れてやってきた戸惑いとともに、理実は泣きそうにゆがんだ顔を下に向けた。
 すごく好きだ。大切で、いとおしくて。
 こんな気持ちを、どうしよう。どうしたらいいんだろう。



「―― 私、帰るね」
 送るよ、と言いかけた口を制す。寝ていて、と。うんと身体を大事にして、と。
 立ち上がり、少し乱れていた服装を正す。
 自分のカバンとプリンの残骸を入れた袋を持って、部屋の出口へと向かう。
 振り向いたベッドの上には、まだ座ったままの影があった。

「今日、見舞い、ありがとう」
 ぽつりぽつり、と響いてくる声に、うん、と理実は頷く。
「あと、ごめん」
 ううん、と理実は首を振る。
「できれば……忘れて」

 部屋の中は暗くて、灰谷がどんな顔をしているのかわからなかった。
 心臓の音を思い出した。この部屋に入ってからずっと忘れていたような気がする。
 暗闇は、理実の味方だった。正体がわからないと、怖がる自分はもういない。
 包み込んでくれた熱が、まだ離れずに残っている。
 影さえひんやりとした温度を持って、理実に寄り添っていてくれているようだった。
「忘れ、られないよ」
 驚いた気配がした。
 逃げ出すように、理実はドアを閉めた。


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